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(1)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六 四) : 「平和広場」の消滅と「平和の灯」設置が意 味するもの

著者 越前 俊也

雑誌名 文化學年報

号 66

ページ 163‑188

発行年 2017‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027582

(2)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六 四) : 「平和広場」の消滅と「平和の灯」設置が意 味するもの

著者 越前,俊也

雑誌名 文化學年報

号 66

ページ 163‑188

発行年 2017‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027582

(3)

広 島 平 和 記 念 公 園 中 心 部 の 変 容

︵ 一 九 四 九 │ 一 九 六 四

│﹁ 平 和広 場

﹂ の消 滅 と

﹁平 和 の 灯﹂ 設 置 が意 味 す るも の

越 前 俊 也

は じ め に 広島

平和 記念 公園

︵図 1︶ は︑ 一九 四九 年の 七月

︑丹 下健 三︵ 一 九 一三

│二

〇 五︶ ら四 名 の 建築 家

が提 出 し た 競 技設 計案 を元 に︑ 広島 市が 造成 管理 して いる 公共 施設 であ る︒ 競技 審 査評 は︑ 同案 が﹁ 一〇

〇米 道路 に面 する 敷地 境界 線の 中心 とこ の元 産 業奨 励館 をつ なぐ

⁝⁝

線 を主 軸と して 諸種 の建 造物 や園 内諸 施設 を 配 置 した こ と

を 高 く 評 価 し︑ こ れ を 一 等 当 選 と し た

︒元 産 業 奨 励 館︑ すな わち

︑原 爆ド ーム を見 通す 軸線 によ って 同公 園を 評価 する 語 りは

︑そ の後 も踏 襲さ れ︑ 近年 開催 され た展 覧会 にお いて も︑ 同公 園 は

︑そ の﹁ 一 直線 上 に 望 む 祈 念 の 景 観 軸﹂

と い う 決 ま り 文 句 に よ っ て︑ 紹介 され てい る︒

1 広島平和記念公園中心部航空 写真(画面上が北の方位)

― 163 ―

(4)

さら に︑ この 軸線 を基 本と する 平面 構成 や建 造物 のか たち が︑ 丹下 が︑ 戦時 中の コン ペで 一等 当選 した

﹁大 東亜 共 栄 圏建 設営 造計 画﹂ のう ち﹁ 忠霊 神域

﹂を 引き 継ぐ もの であ り︑ 伊勢 神宮 や厳 島神 社に 根本 的に 通じ てい ると いう 指 摘 が︑ 建築 史家 たち によ って

︑繰 り返 しな され てき た

︒ 同公 園は

︑そ れ に よ り︑ 二〇 世 紀 の近 代 建 築に よ る

﹁聖 地 創 造﹂ であ った とま でい われ てい る

︒ とこ ろが

︑一 九四 九年 四月 に広 島市 が公 募し た設 計要 件に は︑ 同公 園が

﹁聖 地﹂ であ るべ き必 要条 件と もい える 追 悼 施設 の建 設は 含ま れて いな い

︒ この 公園 が﹁ 聖地

﹂の 様相 を帯 びる のは

︑丹 下 に よ る現 状 の 碑が 設 置 され た 一 九 五 二年 八月 以降 のこ とに なる

︒こ の時 以 来︑ 碑設 置 に 加え

︑公 園 中 心部 に 段 差 が設 け ら れ︑

﹁追 悼 空 間﹂ が他 の 敷 地 か ら 区 別さ れ る︒ さ らに 五 七 年︑ 碑 周辺 三 方 に︑ 堀割 の よ うな か た ち をし た

﹁平 和 の 池

﹂が 巡 ら さ れ る︒ 六 四 年 に

︑﹁ 平 和の 灯﹂ と名 付け られ た構 造物 が設 置さ れ

︑そ れ にと も な い﹁ 平和 の 池

﹂は プ ール の よ うな か た ちを し た 大 掛 かり なも のに 拡張 され た︒ その 結果

︑碑 後方 の敷 地は

︑人 が立 入不 能と なり

︑今 日の 公園 中心 部の 状態 が︑ ほぼ 完 成 する

︒ 先に 触れ た﹁ 忠霊 神域

﹂や 伊勢 や厳 島の 神社 と同 公 園を つ な げる 言 説 は︑ 一九 七

〇 年 以降 に 登 場し た も の であ る

︒ そ して

︑そ の論 理は

︑六 四年 に固 まっ た現 状の 公園 中心 部の 形状 を他 と 比 較 した 結 果 に基 づ い てい る

︒つ ま り︑ そ れ らは

︑こ の公 園が

︑発 案︑ 碑設 置︑ 池の 設営

︑さ らに は灯 造営 と池 の拡 張︑ と段 階的 に姿 を変 えて きた こと に対 す る 分析 を行 って いな い︒ それ に対 し︑ 本稿 は︑ この 公園 中心 部の 段階 的変 化に 注目 する

︒そ して

︑そ れを 各時 代の 政治 や社 会情 勢と 照ら し 合 わせ てゆ く︒ 一九 六四 年に 固定 化し た現 状の 公園 は︑ 四九 年の 当選 案趣 旨と も︑ 五二 年の 碑設 置当 初の 趣と も異 な る 別物 であ るこ とを 強調 する

︒そ れぞ れの 変化 は︑ それ ぞれ の時 代の 意思 と心 情に 対応 した 結果 であ り︑ 今日

︑我 々

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 164 ―

(5)

が 目に して いる 同公 園中 心付 近の 造形 は︑ 必ず しも 一人 の建 築家 の一 貫し た理 念に 基づ いて いる もの では ない と考 え る

︒そ のこ とを 明ら かし てゆ く︒ その ため に︑ 第一 章で は﹁ 平和 広場

﹂を 取り 上げ る︒ この 敷地 は︑ 基本 設計 の段 階で は計 画全 体の 要で あっ た︒ に も かか わら ず︑ 碑設 置に よる 設計 変更 にと もな い︑ 当初 の意 味合 いを 変え

︑最 終的 には

︑広 場で すら なく なっ てし ま う

︒そ うし たこ とに 注意 を促 す︒ 第二 章で は碑 設置 にと もな い生 まれ た﹁ 追悼 空間

﹂を 問題 とす る︒ 一九 五七 年︑ 碑 台 座周 囲に

﹁平 和の 池﹂ が巡 らさ れ︑ それ 以降

︑段 階的 に﹁ 追悼 空間

﹂か ら人 の立 ち入 りが 退け られ てゆ く︒ その 背 景 には

︑﹁ 原 子力 の平 和利 用﹂ とい う時 代の 意思 と︑ それ を 受 け入 れ て ゆく 市 民 感 情が 絡 ん でい る

︒そ の こと を 明 ら か にす る︒ 以上 のこ とか ら︑ 広島 平和 記念 公園 中心 部は

︑碑 設置 以降

︑﹁ 聖 地創 造﹂ とい うよ りも

︑む しろ

︑﹁ 世俗 の 権 力力 学の 交差 点﹂ であ ると 読み 直す こと

︒そ れが

︑本 稿の 目指 すと ころ であ る︒ 第一

﹁平 和 広 場﹂ の 変 容と 消 滅 第

一節

計 画当 初の

﹁平 和広 場﹂ の重 要性

︵一 九四 九│ 一九 五一

︶ 一九 四九 年八 月六 日︑ 広島 市は

﹁広 島平 和記 念都 市建 設法

﹂の 公布 施行 に合 わせ

︑同 年四 月に 公募 を開 始し てい た

﹁平 和記 念公 園及 び記 念館

﹂の 競技 設計 当選 者 を 発表 し た︒ こ れを 受 け

︑同 年 一〇 月

︑日 本 建築 学 会 は︑ 学会 誌 に 同 コ ンペ の当 選案 を掲 載す る︒ そこ に︑ 丹下 らが 載せ た全 体計 画平 面図 は︑ 一〇

〇米 道路 を上

︑原 爆ド ーム を下 に配 し た 図面

︵図 2︶ であ った

︒そ れに より

︑図 面上 の南 北方 位は

︑通 常の 地図 と 較 べ︑ ほ ぼ逆 転 し た不 自 然 なも の と な っ てい る︒ した がっ て︑ そこ に︑ 設計 者の 何ら かの 意図 が反 映さ れて いる と推 測す るこ とが でき る︒

― 165 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(6)

こ の 図 面で 目 を 引 く 存 在 は

︑中 央 上 に 位 置 す る 縦 長 逆 台 形 の 敷 地 で あ る︒ 建造 物が ない こと も相 俟っ て︑ そこ は際 立っ て見 える

︒ さ らに

︑左 手真 横か ら入 る直 線道 路が この 場を 強調 して いる

︒新 たに 橋 を架 けな い限 り実 現不 可能 で︑ その 後も 二度 と計 画に 上ら なか った この 橋 と道 は︑ 公園 より 東︑ すな わち

︑広 島駅 方面 から の人 の流 れの 導入 を意 味 して いる

︒つ まり

︑こ の逆 台形 の敷 地に は︑ 広島 駅と 図面 下に 見え る原 爆 ドー ム︑ さら には

︑一

〇〇 米道 路の 三方 から の導 線が 引か れて いる

︒こ の 敷地 を重 視し

︑計 画の 中心 に据 えて いた こと は︑ 鳥瞰 図︵ 図3

︶か らも 見 て とれ る︒ また

︑翌 年製 作し た石 膏模 型の 写真

︵図 4︶ は︑ この 計画 が原 爆ド ーム を起 点に して

︑そ こか ら︑ 遊歩 道 を まっ すぐ 歩く こと でこ の敷 地に 至る こと を重 要な 要素 と考 えて いた こと を物 語っ てい る︒ 丹下 らは

︑そ こを

﹁平 和

2 広島平和記念公園全体計画平 面図(1949年)(画面上が南 南西の方位)

3 広島平和記念公園計画鳥瞰図

(1949年)

4 広島平和記念公園計画石膏模 型(1950年)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 166 ―

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広 場﹂ と名 付け てい た︒ 一 等 当 選案 要 旨 で︑ 彼ら が 好 ん で用 い た 言葉 は

︑﹁ 平 和を つ く り だ す 工 場﹂ と﹁ コ ミュ ニ テ ィ・ セン タ ー﹂ で あ った

︒そ の た め︑ 市 民 が 集 う 広 場 は︑

﹁世 界 会 議 が で き る 集 会 場

﹂︵ 公 会 堂︶ と な ら ん で

︑本 計 画 中

︑最 も 重 要 な

﹁施 設﹂ の 一 つ で あ っ た

︒そ こ に は

﹁平 和運 動推 進と 市 民 生活 再 建﹂ の﹁ 実 質的 な 機 能﹂

が 期待 さ れ て い たの であ る︒

﹁ 平 和 広 場﹂ へ の 執 着 は︑ 一 九 五 一 年 の 時 点 で も 明 確 で あ っ た

﹁都 市の コア

﹂を テー マに

︑こ の年 開 催 され た 第 八 回

CIAM

︵近 代 建築 国 際 会 議︶ のた め

︑彼 ら が前 年 用 意し た 図 面

︵図 5︶ には

Peace S quare

︵平 和広 場︶ の文 字 を

Peace H all

︵ 平 和記 念 館︶ や

Peace Arch

︵ 平和 ア ー チ︶ と同 じ 大 き さ で記 して いる

︒﹁ 平 和広 場﹂ は︑ 丹下 が同 会 議 で世 界 デ ビュ ー し た 際︑ まぎ れ も なく

︑彼 ら の 計画 の

﹁コ ア

﹂に な っ てい た︒

CIAM

に 提出 した 設計 趣旨 では

︑自 らが 計画 をギ リシ アの アゴ ラや ロー マの フォ ーラ ム︑ ある い は

︑イ タ リ ア諸 都市 のピ アッ ツァ にも なぞ らえ てい る

︒ その 中心 に﹁ 平和 広場

﹂を 置い てい たの であ る︒ 日本 国憲 法草 案作 成を 主導 し たG HQ 民政 局 は︑ 四 七年 五 月 の憲 法 施 行 前後 か ら︑ 片 山哲

︵一 八 八 七│ 一 九七 八

︑ 日 本 社 会 党︑ 首 相 在 位

1947. 5. 24-1948. 3. 10

︶や 芦 田 均

︵一 八 八 七

│一 九 五 七

︑民 主 党

︑首 相 在 位

1948. 3. 10-10.

15

︶の リベ ラル な内 閣を 支持 して きた

︒同 年四 月九 日︑ 公職 選挙 法に よる 初の 広島 市長 に就 任し た浜 井信 三︵ 一九

〇 五

│一 九 六 八︑ 広島 市 長 在任 期 間

1947. 4-1955. 4, 1959. 5-1967. 4

︶の 支 持 基 盤も ま た 日本 社 会 党で あ っ た

︒ 四 八 年 六月 の昭 和電 工疑 獄事 件発 覚以 降︑ GH Qと 中央 政界 は保 守派 が主 導権 を握 って いく が︑ 四九 年二 月起 草の

﹁広 島

5 広島平和総合公園計画配置図

(部 分、1950年)、広 島 市 公 文書館蔵

― 167 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(8)

平 和記 念都 市建 設法

﹂は

︑左 派の 広 島 市政 が︑ 再軍 備を 視野 に入 れた 保 守 派 の 吉 田 茂︵ 一 八 七 八

│一 九 六 七

︑自 由 党︑ 第 二 期 首 相 在

1948.

10. 15-1954. 12. 10

︶内 閣 に 対 し

︑ 平 和憲 法堅 持の 立場 を示 した 法律 で あ った

︑と いう こと もで きる

︒ 法案 草稿 につ いて

︑四 九年 三月 に 相 談を 受け たG HQ 国会 担当 官ジ ャ ス ティ ン・ ウィ リア ムズ は︑ その 内 容 が﹁ 日本 国憲 法の 不戦 条項 や︑ で き る限 り 広 範囲 に わ たっ て

︑日 本 人の 自 主 性 と希 望 に そっ て こ とを 進 め て いこ う と する 政 策﹂ と 判 断し

︑翌 日 に は マ ッカ ーサ ーの もと に草 稿を 届け た旨 を書 き残 して いる

︒丹 下ら の当 選案 要旨 は︑ 四九 年五 月に 衆参 可決 した 同法 案 の 意図 を汲 む気 概に 満ち てい る︒ 図面 で際 立つ

﹁平 和広 場﹂ に︑ その 意思 表示 を見 てと るこ とが でき る︒ 第

二節

﹁追 悼空 間﹂ 出現 にと もな う﹁ 平和 広場

﹂の 消滅

︵一 九五 二︶ 一九 五二 年一 月︑ イサ ム・ ノグ チ︵ 一九

〇四

│一 九八 八︶ は︑ 丹下 の依 頼に より 原爆 死没 者の 追悼 施設 の模 型写 真 等 一連 の書 類を 広島 市に 提出 した

Hiroshima M emorial to the Dead

と名 付け られ たそ の計 画︵ 図6

︶は

︑丹 下ら が

7 広島平和記念式典(1952年8月6日)

6 イ サ ム・ノ グ チHiroshima Memorial to the Dead模型(1952年)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 168 ―

(9)

﹁平 和広 場﹂ と名 付け た場 と碑 を置 く場 の間 に 段 差を 設 け るも の で あ った

︒そ れ に より

︑碑 周 辺 は︑ いわ ば

﹁追 悼 空 間

﹂と して

﹁平 和広 場﹂ から 区別 され る︒ すべ てを 平地 の上 に計 画し

︑人 の流 れを

﹁平 和広 場﹂ に呼 び込 もう とし た 丹 下ら の設 計案

︵図 2│ 図5

︶に はな い発 想で あっ た︒ 加え て︑ ノグ チ案 は︑ 碑台 座と 拝礼 台を 白大 理石 のよ うな 素 材 で︑

﹁ 追悼 空間

﹂か ら一 段高 く設 けて いた

︒広 場か ら 見 れば

︑拝 礼 台 は︑ 参拝 者 を 際 立た せ る ステ ー ジ とし て 機 能 す る計 画と なっ てい た︒ それ に対 し︑ ノグ チ案 の却 下を 受け

︑同 年四 月ま でに 丹下 が急 遽提 出し たプ ラン は︑ 広場 と 碑 があ る﹁ 追悼 空間

﹂の 間に

︑碑 台座 と同 寸法 の幅 広な 大階 段︵ 図7

︶を 設定 した

︒段 差を 設け る点 で︑ 丹下 案は ノ グ チ 案 を引 き 継 いで い る︒ し か し︑ 丹下 案 は︑

﹁ 追悼 空 間﹂ と 広場 を 大 階 段で つ な げ る こ と に よ っ て︑ 少 な く と も

︑ ノ グチ 案の よう に参 拝者 を際 立た せる こと はな くな った

︒ この 大階 段に よっ ても たら され たも のに 関し て︑ 二通 りの 捉え 方 が可 能で ある

︒一 つに は︑ ノグ チ案 の階 段に 較べ

︑物 理的 に単 純 に 大 幅に 広 が った た め︑

﹁ 追 悼空 間

﹂と

﹁平 和 広 場

﹂の 往 来 の 自 由度 が増 した とい う見 方で ある

︒後 述す るよ うに

︑碑 設置 後数 年 間︑ この 両者 間は

︑わ けへ だて が希 薄な もの とし て市 民に 受け 止 めら れ︑ 実際

︑そ のよ うに 利用 され た︒ とこ ろが

︑も う一 つは

︑大 階段 の設 置に より

︑広 場が

﹁儀 式空 間

﹂の 様 相 を 呈 し た と い う 見 方 を 示 す こ と が で き る

︒そ れ も︑

﹁忠 霊 神域

﹂や 神 社 のそ れ で は なく

︑京 都 御 所紫 宸 殿 南庭 の 平 面 配 置︵ 図8

︶に 似た

︑と いう 見方 をこ こに 提案 した い︒ とい うの

8 京都御所の現状 平 面 配 置 図(部 分、

1954年作図)

― 169 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(10)

︑ま ず︑ 五二 年案 は︑ 四九 年案 と較 べ︑

﹁ 追悼 空間

﹂を つく った 分だ け︑ 台形 が寸 詰ま りと なり

︑﹁ 平和 広場

﹂の 形 状 が方 形に 近づ いた と指 摘で き る︵ 図9

︶︒ こ れ によ り

︑こ の 場か ら

︑か つ て﹁ 忠 霊神 域

﹂の な かで 同 様 の縦 長 台 形 の 敷地 であ っ た 国民 広 場 で志 し た よう な

﹁群 衆 が 群れ 集 う なか で 醸 し出 さ れ る 政治 的 な 陶酔

を演 出 す る要 素 が 薄 れ る︒ かと いっ て︑ それ は︑ 神社 の拝 殿前 のよ うな

︑厳 粛で はあ るが 狭い 空間 でも ない

︒充 分な スペ ース をも ちな が ら

︑普 段 人 をそ こ に 入れ な い﹁ 何 も ない 空 間﹂

︑ つま り は︑ 皇 居前 広 場 の よう な 様 相を 呈 し てい る の で あ る

︒ そ し て

︑こ の方 形に 近づ いた 空間 は︑ 大階 段で その 上の 空間 とつ なが って いる

︒こ れは

︑丹 下が 在盤 谷日 本文 化会 館コ ン ペ

︵図 儗︑ 一九 四三 年︶ に際 し︑ 寝殿 造り のか たち をモ デル にし て︑ すで に 一 度 試 み て い る も の で も あ る

︒そ こ に︑ 紫宸 殿と その 南庭 の関 係が すで に 現 れて い た こ と を 見 る こ と が で き る

︒ これ が二 つ目 の捉 え方 であ る︒ 二 つ目 の見 方に 立て ば︑ それ は︑ 人 が集 う﹁ 平和 広場

﹂を 中心 に据 えた 四 九 年 案 に 較 べ

︑イ デ オ ロ ギ ー 的 に 見 て︑ 転向 とい って も過 言で はな いデ ザ イ ン 変 更 で あ る

︒し か し

︑丹 下 に は

︑ その よう なこ とを する だけ の理 由と 背 景が あっ た︒ ノグ チ案 を強 行却 下し た

9 (左)広島平和記念会館総合計画(部分、1952年)

(右)広島平和記念公園全体計画平面図=図2(部 分、1949年)

10 在盤谷日本文 化 会 館 懸 賞 設 計 丹 下 健 三 案:外観パース(部分、1943年)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 170 ―

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張 本人 が︑ 丹下 の恩 師・ 岸田 日出 刀︵ 一八 九九

│一 九六 六︶ であ った こと に理 由を 求め るこ とが でき る︒ 岸田 の回 顧 に よる と︑

﹁ 今︵ 一九 五二 年一 一月 一〇 日

引用 者註

︶か ら 十 数年 前

︑わ た くし は 殆 ど 毎年 京 都 御所 を 具 さに 拝 観 す る 機会 に 恵 ま れ﹂

︑そ れ は 東大 建 築 学科 の 学 生 をと も な うも の で あっ た

︒そ れ は︑ 丹 下が 同 学 科大 学 院 に在 籍 し た 期 間

︵一 九 四一

│一 九 四 六︶ に相 当 す る︒ そ こか ら

︑在 盤 谷日 本 文 化会 館 が 生 まれ た と 見 做 す こ と も 出 来 よ う︒ ま た

︑丹 下が 碑と その 周辺 を設 計し てい た頃

︑す なわ ち︑ 五二 年三 月か ら四 月に かけ て︑ 岸田 は︑ ちょ うど

︑自 ら撮 影 し た写 真の 掲載 を中 心に した 写真 集﹃ 京都 御 所﹄ の出 版 準 備を 進 め てい た

︒こ う し たこ と が 背景 に あ た る︒ つま り

︑ 丹 下が

︑恩 師に 無断 でノ グチ 案を 進め た件 で︑ 彼の 怒り を鎮 めよ うと した ので ある なら ば︑ そこ に紫 宸殿 と南 庭の 平 面 構成 を取 り入 れる 条件 は︑ 少な から ず揃 って いた こと にな る︒ いず れに せよ

︑一 九五 二年 四月 に提 出し

︑わ ずか 四ヶ 月で 実現 した 碑と その 周辺 プラ ンは

︑そ れに とも ない

︑四 九 年 案に あっ た﹁ 平和 広場

﹂の 性格 を根 本的 に変 える もの とな った

︒元 案に はあ った

︑原 爆ド ーム から の遊 歩道 と︑ 橋 を 架け て広 島駅 方面 から 人を 導い てい た道 路は 消え る︒ 人が そこ に至 るに は︑ 一〇

〇道 路か ら平 和資 料館 のゲ ート を く ぐる 一方 向に 限ら れる

︒ま た︑ 原爆 ドー ムと 碑 の間 は

︑花 壇 を想 定 し た地 割 が し 直さ れ

︑人 の 往来 は 排 除 され る

︒ 段 差か ら碑 周辺 まで を﹁ 追悼 空間

﹂と して

︑そ の後 方か ら原 爆ド ーム まで を聖 域と する 想定 が︑ ここ に生 まれ る︒ そ し て︑ 以後

︑段 差下 の敷 地に

﹁平 和広 場﹂ とい う文 字は

︑二 度と 付さ れな くな って いっ た︒ 第

三節

﹁旧 平和 広場

﹂の 初期 受容 から 分断 まで

︵一 九五 三│ 一九 六〇

︶ 実際

︑か つて

﹁平 和広 場﹂ と名 付け られ てい たこ の敷 地は

︑前 節で 述べ た二 通り の受 けと め方 によ って 受容 され て ゆ く︒ とは いえ

︑そ れは

︑以 下に 述 べる よ う︑ 時 間の 経 過 とと も に

︑前 者 から 後 者 へ︑ すな わ ち︑

﹁ 追悼 空 間

﹂と の

― 171 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(12)

往 来 自由 度 が 高い も の から

︑﹁ 儀 式 空 間﹂ 的性 格 が 濃い も の へと 移 行 す る もの であ った

︒ 碑設 置 の 翌年 に あ たる 一 九 五 三年 八 月 六日 に 撮 影さ れ た 写 真︵ 図儘

︶ は

︑平 和記 念式 典後 に﹁ 平和 広場

﹂で 演じ られ た女 子学 生の ダン スを 見 物 する ため

︑多 くの 市民 が大 階段 や碑 台座 にま で上 がり 込ん でい る様 を 捉 えて いる

︒同 じ写 真に は︑ 碑の 原爆 死没 者過 去帳 安置 箱を 覗き 込む 市 民 も大 勢写 って いる

︒つ まり

︑こ の時

︑か つて の﹁ 平和 広場

﹂は

︑文 字 通 り﹁ 市民 生活 再建 の実 質的 機能

﹂を 果た して いた

︒そ して

︑こ こに 写 る 市民 は過 去帳 に眠 る死 没者 に寄 り添 い︑ 彼ら とと もに

︑平 和享 受の 催 し に眼 差し を広 場に 向け てい る︒ 次節 で改 めて 述べ るが

︑市 民の この よ う な態 度は

︑少 なく とも

︑被 爆一

〇周 年に あた る一 九五 五年 まで は続 い て いた

︒ とこ ろが

︑碑 の設 置か ら五 年目 にあ たる 一九 五七 年八 月六 日の 式典 に︑ 昭和 天皇 の末 弟に あた る三 笠宮 崇仁

︵一 九 一 五│ 二〇 一六

︶と その 妻百 合子

︵一 九二 三│

︶が 参列 した こと によ り︑ 事態 が変 わる

︒皇 室に よる 式典 参列 は︑ 五 四 年の 高松 宮夫 妻に 続き 二度 目で あっ た︒ とは い え︑ 同年 同 日 の世 界 平 和聖 堂 完 工 式出 席 を 兼ね

︑﹁ 一 市 民と し て の 参 列﹂

し た彼 らに 対し

︑三 笠宮 夫妻 の参 拝は

︑公 式行 事に 組み 込 ま れ︑ 新聞 で も 大き く 報 道さ れ た

︵図 儙︶

︒同 じ 紙 面 の写 真に は︑

﹁ 追悼 空間

﹂段 差下 の敷 地中 央に

︑碑 に 向 け︑ 真っ 直 ぐ な道 が 通 さ れて い る こと が 認 めら れ る

︒こ れ は

︑前 年ま での 式典 写真 では 確認 でき ない もの で︑ この 通路 によ って 広場 は分 断さ れて いる

︒警 備の ため 取ら れた 措

11 平和記念式典終了後、旧平和広場でダン スを踊る女学生(1953年8月6日)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 172 ―

(13)

置 であ ろう が︑ これ に より 式典 参列 者の 眼 差 し は︑ 夫 妻 が

﹁追 悼 空 間﹂ に 至 る ま で︑ 彼ら が歩 みを 進 める この 道に 注が れ るこ とに なり

︑そ の 後は じめ て︑ 式典 が 行わ れた こと にな る

︒こ う し た 状 況 は

︑か つて の﹁ 平和 広場

﹂が

﹁儀 式空 間﹂ に移 行し てゆ く先 駆け とな った

︒ この 直線 通路 は︑ その 意味 合い を変 えな がら

︑そ の後 も継 承さ れて ゆく

︒そ れは まず

︑五 八年 四月 一日 から 五月 二

〇 日 に かけ

︑市 主 催 の﹁ 広島 復 興 大 博覧 会

﹂が 開 催さ れ

︑第 一 会場 に

﹁旧 平 和 広場

﹂の 敷 地 が あ て ら れ た こ と に よ る

︒会 場略 図︵ 図儚

︶は

︑広 場の 両脇 に︑ 縁日 の露 天の よう な仮 設小 屋が 軒 を 連 ねた こ と を伝 え て いる

︒平 和 記 念 資 料館 は﹁ 原子 力科 学館

﹂と 名を 替え

︑博 覧会 の第 二会 場と され た︒ 八ヶ 月前 に三 笠宮 夫妻 の参 拝に

︑市 民が 眼差 し を 向 け た広 場 中 央付 近 は︑ 彼 ら 自身 が 往 来す る 通 りと な り

︑﹁ 追 悼空 間

﹂に は︑ こ の 際︑ 市 民 は 誘 導 さ れ な か っ た

︒ ま た︑ この 年の 平和 記念 式典 には

︑高 松宮 夫妻 が︑ 今度 は︑ 公式 に参 列 し た

︒ こ れに よ り︑ 広 場中 央 の 直線 通 路 が 復 活し たと 考え られ るが

︑そ の確 証を 今の とこ ろ︑ 筆者 は掴 んで いな い︒

12 『毎日新聞大阪版』1957年8月6日 夕刊一面部分

13 広島復興大博覧会第一会場見取り図部分

(1958)

― 173 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(14)

翌五 九年 八月 五日 には

︑第 五回 原水 爆禁 止世 界大 会が 平和 記念 公園 を会 場に 開 か れ た︒ こ の折 に は︑

﹁ 追悼 空 間﹂ が 主 催者 の 雛 壇席 と な り︑

﹁旧 平 和 広 場

﹂は

︑ そ れに 対す る参 加者 席に あて られ た︒ そし てそ こに

︑再 び中 央通 路が 設け られ る

︵図 儛︶

︒ あ たか も そ れを 引 き 継 ぐ よ う な か た ち で

︑翌 六

〇 年 の 式 典 に は︑ は っ き り と

﹁参 道﹂ と呼 ぶこ と が でき る 中 央通 路 が 姿 を現 す

︒と い うの も

︑同 年 の式 典 に は 皇 太子

︵今 上天 皇 一九 三三

│︶ が参 列す る上 に︑ 自ら

﹁追 悼の 言葉

﹂を 式中 述 べ られ るこ とに なっ たか ら で あ る

︒ それ に と もな い

﹁追 悼 空間

﹂の 設 え も︑ 五 七 年 以上 に 整 然と 整 え られ る

︒﹁ 参 道﹂ が︑ は っき り 姿 を現 し た この 時

︑読 売 新 聞 夕刊 一面 を飾 った 写真

︵図 儜︶ を後 に丹 下ら が出 版物 に好 んで 用い るこ とに な る

︒時 に︑ それ は五 二年 碑竣 工時 の写 真と され

︑し ばし ば︑ 五 五 年の 記念 館 完 成時 の 写 真と し て 掲載 し て い る

︒﹁ 参 道

﹂は

︑ 四 九年 に志 して いた

﹁平 和広 場﹂ の理 念に した がえ ば︑ その 機 能 を破 壊す るも ので ある

︒に もか かわ らず

︑丹 下ら が︑ この 写 真 を 平 和 記 念 公 園 の 完 成 形 と し て 好 ん で 用 い る 事 実 は

︑彼 ら が

︑設 計当 初の 理念 から 乖離 し︑ 碑を 設置 した 五二 年以 降か ら は

︑﹁ 旧 平 和広 場

﹂を

﹁儀 式 空間

﹂と 位 置 付 け て い る 証 左 と も い える

14 第五回原水爆禁止世界大会(1959年8月 5日)

15 平和記念式典(1960年8月 6日)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 174 ―

(15)

かく して

︑か つて の﹁ 平和 広場

﹂は

︑一 九五 七年 から 六〇 年に かけ て︑ 一つ には

︑皇 室の 参拝 路と して

︑も う一 つ に は︑ 政治 集会 の中 央通 路と して

︑二 つの 顔を 担 った 直 線 路に よ っ て分 断 さ れ︑ 広 場と し て の機 能 を 失 う︒ それ は

︑ か つて イタ リア 諸都 市の ピア ッツ ァに もな ぞら えて いた 場か ら︑ 式典 や政 治集 会の 時以 外に は︑ 人を 排除 する こと を も 意味 して いた

︒さ らに いう なら ば︑ この 敷地 が︑ かろ うじ て市 民往 来の 場と して 機能 した 五八 年の 復興 大博 覧会 の 際 は︑

﹁ 追悼 空間

﹂で はな く︑ 原子 力科 学館 に向 かう 人々 の通 路と 化し てい たの であ る︒ 第二

﹁追 悼 空 間﹂ の 変 容 第

一節

﹁追 悼空 間﹂ 設計 者の 意図 とそ の初 期受 容︵ 一九 五二

│一 九五 五︶ ここ から は︑

﹁ 追悼 空 間﹂ につ い て 論じ る た め︑ 改 めて 時 代 を一 九 五 二年 の 碑 設 置時 か ら は じ め る こ と と す る︒ こ の 年 の 八 月 六 日 の 碑 除 幕 に と も な い 現 れ た﹁ 追 悼 空 間﹂ は

︑段 差 ば かり で は なく

︑碑 台 座 を 囲 む 柵 に よ り 周 囲 か ら 差 別 化 さ れ て い た

︵図 儝︶

︒ 碑 台座 四方 に階 段を 設け たノ グチ 案︵ 図6

︶と は︑ その 点で も異 なっ てい た︒ 追悼 のた め の碑 につ いて

︑ノ グチ はそ れを

Memorial

︑ 丹下 は慰 霊碑 と呼 び続 けた

︒こ の 両 者の 死 者に 対す る考 え方 の相 違が

︑か たち とな って 現れ てい る︒ ノグ チは

︑碑 の形 状を 原爆 の 爆風 キノ コに 漠然 と似 せる こと を考 え て いた

︒そ れ に より

︑悲 劇 の 原因 を 来 訪 者に 直 接想 起さ せる 警 告 記念 碑 の 意味 合 い を 持た せ よ うと し た︒ こ れに 対 し

︑丹 下 は︑

﹁こ こ に 安 らか に 眠 る人 の 霊 を 雨霜 か ら 守り た い とい う 気 持 ち﹂ を 埴輪 の 屋 根 の か た ち に

16 丹下健三「慰霊碑」側面(1952年)

― 175 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(16)

し た︒ つま り︑ ノグ チは 生者 に︑ 原爆 その もの を思 い出 させ るこ とで 死者 とつ なが り︑ それ によ り︑ 生者 が奮 い立 つ こ と を 念頭 に 置 いて い た︒ そ の ため

︑参 拝 者 が死 没 者 過去 帳 の 安 置さ れ て いる 地 下 室へ 下 っ た 後︑ 再 び 上 っ て 来 た 際

︑一 人ひ とり がス テー ジで 際立 つこ とを

﹁追 悼空 間﹂ 設計 の要 とし た︒ それ に対 し︑ 丹下 は︑ 生者 の死 者に 対す る い たわ りの 気持 ちを 屋根 のか たち で示 し︑ 死者 はそ の場 で眠 り続 ける こと を願 って いる

︒そ れに よっ て︑ 生者 が鎮 ま る こと を想 定し てい た

︒ その ため

︑死 者と 生者 の間 には

︑区 別を つけ るた め の 結 界が 必 要 とさ れ

︑そ れ が柵 と い う か たち で表 され た訳 であ る︒ に もか か わ らず

︑設 置 後 しば ら く

︑丹 下 がデ ザ イ ンし た 碑 は︑ 人 が入 る こ とが で き ない 空 間 と し て 扱 わ れ な か っ た

︒ま ず︑ 五二 年に 除幕 され た時 の 新聞 で

︑そ れ は﹁ トン ネ ル 式﹂ と紹 介 さ れ︑

﹁ くぐ り 抜 ける こ と がで き る

﹂と 報 じ られ た

︒ 事実

︑こ の 年 の式 典 終 了後

︑安 置 箱 を覗 く た め︑ 多 くの 市 民 が 柵を 越 え て台 座 に 上 り︑ 碑中 に 入 り込 む

︵図 儞︶

︒同 様 の こ と が 五三 年に もあ った こと は︑ 前章 第三 節で 見た 通り であ る︒ 同じ 状況 が

︑五 四年 の式 典後 にも 繰り 返さ れた

︒ 一九 五五 年三 月︑ 公会 堂と して

︑丹 下が 自ら の設 計に 執着 した 建物 が

︑ホ テル 併設 の設 計変 更を 余儀 なく され た末

︑最 終的 には 広島 の建 築 家の 手に よっ て設 計し 直さ れ︑ 竣工 する

︒同 年四 月に は︑ 四七 年の 当 選以 来︑ 二期 八年 にわ たり 平和 記念 都市 建設 を推 進し てき た浜 井信 三 が

︑市 長 選 で 落 選 す る︒ 当 選 し た 保 守 系 の 渡 辺 忠 雄 が 掲 げ た 公 約 は

︑一

〇〇 米道 路の 敷地 内に アパ ート を建 設す るこ とで あっ た︒ 記念

17 原爆死没者慰霊碑の原爆死没者名簿 を見る市民(1952年8月6日)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 176 ―

(17)

事 業を 推進 する より も住 宅を 求め る市 民の 声が 勝る 時代 にな って いた

︒記 念館 本館 の竣 工は

︑市 長選 翌月 の五 月で あ っ た︒ 丹下 は︑ その 後︑ 浜井 が市 長に 返り 咲く 五九 年五 月ま で︑ 仕事 の面 では

︑広 島市 と没 交渉 とな る︒ 一方

︑一 九五 四年 三月 の第 五福 竜丸 のビ キニ 環礁 被曝 事件 に端 を発 して 結成 され た原 水爆 禁止 署名 運動 広島 協議 会 は

︑同 年九 月に 委員 会を 開き

︑翌 年広 島で 世界 大会 を開 催す る方 針を 打ち 出す

︒こ れを 受け て主 催者 は︑ 五五 年八 月 六 日に 原水 爆禁 止世 界大 会を

︑竣 工予 定の 公会 堂を 主会 場と して

︑開 催す ると 決定 した

︒そ の結 果︑ この 年の 式典 参 列 者数 は︑ 前年 の二 万人 から 五万 人に 膨れ 上が る︒ 被爆 一〇 周年 にあ たる 一九 五五 年の 式典 は︑ こう した さま ざま な思 惑が 錯綜 する なか で執 り行 われ た︒ 原水 爆禁 止 世 界大 会出 席の ため に詰 めか けた 人々 は︑ 会 場に 収 容 しき れ な くな り

︑三 千 人 余り の 参 加者 用 に︑

﹁ 旧平 和 広 場﹂ が 野 外会 場と なる

︒そ の 折 に︑ 撮影 さ れ た式 典 終 了後 の

﹁追 悼 空 間﹂ 周辺 を 写し た写 真︵ 図償

︶に は︑ 碑に 詰め かけ る多 くの 人を 捉え てい る︒ この 時 点で は︑ まだ

︑原 爆死 没者 は身 近な もの であ り︑ 彼ら とと もに 平和 を希 求 する こと が自 然で あっ たこ とが

︑こ の写 真か らう かが える

︒ 丹下 は︑ この 模 様 を開 館 直 前の 平 和 記 念資 料 館 テラ ス か ら眺 め て い た︒

﹁5 万人 の 広 場﹂ と題 し た︑ こ の時 の 思 い 出を 綴 っ た文 章 の なか で

︑彼 は

﹁こ れら の 一連 の 作 品は

︑も う 私 の もの で な くな っ た﹂ と 感じ た こ と を強 調 して いる

︒そ の行 間に は︑ 市 長 の交 代 に より

︑自 ら の プロ ジ ェ ク トが 継 続 で きな く な った 喪 失 感 と︑ 広場 の 人 の動 き が︑

﹁ 忠霊 神 域﹂ を 構 想し た 時に 思い 描い たよ うな 統率 の と れ たも の の 実現

と は︑ かけ 離 れ て いる

18 平和記念式典終了後の平和記念公園

(1955年8月6日)

― 177 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(18)

状 況を 目の 当た りに した 焦燥 感が 滲み 出て いる

︒ 第

二節

﹁追 悼空 間﹂ およ びそ の周 辺の 変化

︵一 九五 六│ 一九 五八

︶ とこ ろが

︑翌 五六 年の 平和 記念 式典 にお いて

︑﹁ 追 悼空 間﹂ 一帯 から

︑広 く人 の姿 が見 えな くな る︵ 図儠

︶︒ 前年 ま で の式 典で は︑ 碑台 座両 脇に 迫っ てい た人 波が 見え ず︑ 大き な変 化と 受け 止め るこ とが でき る︒ その 理由 とし て︑ ま ず

︑前 年 急 増し た 参 列者 の 数 を 踏ま え

︑来 賓 用の 仮 設 座席 を 前 年 並み に 揃 えた で あ ろう こ と が 挙 げ ら れ る︒ そ の 結 果

︑式 典終 了後 の人 の流 れも 堰き 止め られ た︒ しか も︑ この 年の 参列 者数 は前 年の 半分 にも 満た ない 二万 人に とど ま っ た︒ それ によ り︑

﹁ 旧平 和広 場﹂ から 分断 さ れ た﹁ 追悼 空 間﹂ の 中央 に 位 置 する 碑 は︑ 以 前に 較 べ て︑ 孤立 し た よ う な状 況に 置か れる こと とな る︒ こう した 事態 が生 じた 背景 には

︑も う一 つ 理 由が 考え られ る︒ それ は︑ 以下 に述 べる

︑同 年に あっ た出 来事 が︑ 碑か ら 人 を遠 ざけ たと いう 見方 であ る︒ 平和 記念 式典 に先 立つ 二ヶ 月あ まり 前の この 年の 五月 二七 日︑ 平和 記念 公 園 内の 資料 館を 会場 とし て﹁ 原子 力平 和利 用博 覧会

﹂が 開幕 した

︒同 会の 主 催 者は

︑広 島県

︑広 島市

︑広 島大 学︑ 中国 新聞 社︑ 広島 アメ リカ 文化 セン タ ー で あ った

︒中 国 新 聞 社 は

︑こ の 催 し 開 幕 前 に 大 々 的 な キ ャ ン ペ ー ン を 張 り

︑自 社の 夕刊 紙上 で関 連連 載を 行っ た︒ 戦後 の日 本に おけ る核 エネ ルギ ー 言 説の 変遷 を包 括的 に分 析し た山 本昭 宏は

︑そ こに 掲載 され た中 曽根 康弘 の 談 話に

﹁被 爆の 記憶

﹂と

﹁原 子力 の夢

﹂を 接続 させ よう とす る言 説の 最も 典

19 平和記念式典(1956年8月6日)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 178 ―

(19)

型 的 な 例を 見 出 して い る

︒ 中 曽 根は

︑そ の な かで

︑次 の よ うに 述 べ て いた

︒﹁ 広 島 の人 は 世 界に 向 っ て もっ と も 原 子 力の 平和 利用 を叫 ぶ権 利が ある

︒わ れわ れは こ!!!!!!!!!!!!!!!!!!! を 広島 の人 たち の前 に誓 わ ね ば な らな い

︵傍 点 引用 者

︶﹂

︒ つま り

︑﹁ 業 火﹂ と﹁ 新 しい 文 明﹂ を 原子 力 と いう 用 語 で つ な い で ゆ く 誘 導 が︑ こ こ に

︑顕 著 に示 さ れ てい る の で ある

︒山 本 に よれ ば

︑こ の よう な 言 説 は︑ 被爆 者 の 間で も 受 け入 れ ら れ たと い う

︒ 前 章第 三節 で触 れた よう に︑ 平和 記念 資料 館を 原子 力科 学館 に変 えて しま うこ とへ の反 発が 生ま れな かっ た下 地づ く り は︑ 二年 前︑ つま り五 六年 から 始ま って いた こと にな る︒ かく して

︑人 々が 原爆 死没 者に 対し て身 近に 抱い てい た

﹁追 悼﹂ 意識 は︑ 原子 力の 平和 利用 推進 キャ ンペ ーン によ って 薄め られ てゆ く︒ それ が︑ この 年︵ 五六 年︶ の式 典で

﹁追 悼空 間﹂ から 愕然 と人 が減 った こと

︑あ るい は碑 の孤 立し た よ うな 状 況 で慰 霊 式 が 行わ れ た こと に も 表れ て い る の では ない か︒ こう した 見解 をこ こに 示し たい

︒ 一九 五七 年八 月三 日︑ 碑の 台座 を囲 む 南面 以 外 の三 方 に 幅二 mの 堀 割 が 設け ら れ る︵ 図儙 参照

︶︒ 発 議 者は 日 本 青 年 会議 所広 島支 部で あっ た︒ 前年 一一 月五 日︑ 六日 の二 日間

︑同 会の 全国 会員 大会 が平 和記 念館 本館 で開 催さ れた 際 に

︑記 念事 業の 一環 とし て建 設が 決定 され たも ので あっ た︒ 彼ら は そ れ を﹁ 平和 の 池﹂ と 命名 し た

︒ 前 述し た よ う に

︑こ の時 期︑ 丹下 らは

︑広 島市 の仕 事に 関与 して いな い︒ その 上︑ 広島 市自 体の 工事 でも ない

︒経 済界 の主 導で 進 め られ たこ の﹁ 記念 事業

﹂に よっ て︑ 丹下 の﹁ 慰霊 碑﹂ は︑ 柵と 合わ せて 二重 に囲 われ る︒ そし て︑ 原爆 死没 者過 去 帳 安置 箱へ のア クセ スは

︑掘 割が ない 南方 から の一 箇所 に限 られ る︒ その 結果

︑五 五年 まで の八 月六 日の よう に︑ 式 典 終了 後︑ 市民 が碑 に詰 めか ける こと は︑ 物理 的に 完全 に不 可能 にな って しま う︒ 一九 五八 年五 月五 日︑

﹁ 追悼 空間

﹂に 向 っ て左 後 方 に︑ 彫刻 家 の 菊 池一 雄

︵一 九

〇八

│一 九 八 五︶ によ る

︽原 爆 の 子 の像

︾が 建立 され る︵ 図儡

︶︒ 像 のモ デル は︑ 被爆 後一

〇 年 目に 突 然︑ 白 血病 を 発 症 して 中 学 一年 生 の 秋に 他 界 し

― 179 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(20)

た 佐々 木禎 子で あっ た︒ 彼女 の同 級生 らの 募金 活動 によ って 制作 費 が 捻出 され たも ので ある

︒被 爆で はな い被 曝の 問題 が前 景化 する 社 会 現象 とも 繋が る出 来事 であ った

︒に もか かわ らず

︑広 島を はじ め と する 日本 の戦 後社 会史 を専 門と する 福間 良明 は︑ この 像と 広島 復 興 大 博 覧 会 の 間 に﹁ 明 ら か な 親 和 性﹂ が あ る と 指 摘 し て い る︒ 彼 は

︑そ の根 拠と して

︑像 の設 置場 所が 同博 覧会 と同 じ平 和記 念公 園 内 であ るこ と︑ そし て︑ その 除幕 日が 同博 覧会 の会 期中 であ った こ と を挙 げて いる

︒だ が

︑そ れ も さる こ と なが ら

︑造 形 的観 点 か ら 見 れば

︑像 の台 座に あた る石 碑の かた ちの 放物 線状 のか たち をし た 先 端 部 分が

︑﹁

Atoms for Peace

﹂ キャ ン ペ ー ン の ア イ コ ン と も い え る 原子 軌道 イメ ージ を髣 髴と させ るも ので ある こと を指 摘し てお く必 要が あろ う︒ そも そも

︑両 手を 広げ た子 供の 像 が

︑こ うし たか たち の台 座の 上に 立っ て いる こ と 自体 が

︑﹁ 被 爆の 記 憶

﹂を

﹁原 子 力の 夢

﹂に 接 続す る 直 接的 な 視 覚 化

︑あ るい は︑ すり 替え とい って も言 い過 ぎで はな いよ うに 思え る︒ かく して

︑一 九五

〇年 代の 後半 は︑

﹁ 追悼 空間

﹂ の 孤立 化が 進み

︑そ れと は裏 腹に

︑そ の周 辺で は︑ そこ に﹁ 原子 力の 夢﹂ に接 続し よう とす る試 みが 繰り 返し なさ れ て いっ た︒ 第

三節

﹁追 悼空 間﹂ 後方 の人 の排 除︵ 一九 六三

│一 九六 四︶ 一九 六三 年八 月六 日︑ 平和 記念 公園 で開 催を 予定 し てい た 第 九回 原 水 爆禁 止 世 界 大会 は

︑﹁ い かな る 国 の核 実 験 に

20 《原爆の子の像》除幕(1958年5月 5日)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 180 ―

(21)

も 反対

﹂す る日 本社 会党

・総 評系 グル ープ と﹁ 社会 主義 国の 核兵 器は 侵略 防止 のた め容 認す べき

﹂と する 日本 共産 党 系 の対 立に より

︑流 会と なる

︒平 和記 念公 園 では

︑﹁ 原 水 協を 乗 り 越え

︑米 ソ 核 実 験反 対 闘 争の 推 進 を﹂ とい う 横 断 幕 を掲 げた 全学 連主 流派 が会 場の 一部 を占 拠し

︑参 加者 との 間で 小競 り合 いと なっ た

︒ そう した なか

︑同 年同 日︑ すで に二 年前 から

︑原 水爆 禁止 日本 協議 会か ら分 裂結 成し てい た民 主社 会党

︵一 九六

〇 年 結党

︑一 九六 九年

︑民 社党 に改 称︶ 系の 核兵 器廃 絶・ 平和 建設 国民 会議

︵核 禁会 議︶ は︑ 主催 する 会を 平和 記念 公

園 で開 き︑ 慰霊 碑前 で︑ 厳島 の弥 山で 点火 した

﹁不 滅の 火﹂ を移 灯し

︑そ れを

﹁平 和の 灯﹂ と称 する 儀式 まが いの 示 威 行 動 を行 っ た︒ そ れを 司 り︑ 自 ら 移灯 を 行 った 人 物 は︑ 同会 議 長 の 松下 正 寿︵ 一 九〇 一

│一 九 八 六︶ で あ っ た

︒ 核 禁会 議が 他の 原水 爆禁 止を 訴え る団 体と 決 定的 に 異 なる 点 は︑

﹁ 原子 力 の 平 和利 用

﹂を 推 奨し

︑日 本 に おけ る 実 験 研 究用 原子 炉の 導入 に積 極的 に関 与し たと ころ にあ る︒ 松下 は一 九五 七年 に訪 英し

︑ク リス マス 島に おけ る水 爆実 験 実 施に 遺憾 の意 を示 す岸 首相 の親 書を 英国 首相 に渡 す特 使と なっ た一 方︑ 五六 年四 月に は︑ 米国 聖公 会ワ シン トン 教 区 会の すす めに した がい

︑渡 米し て︑ スイ ミン グ・ プー ル型 の原 子炉 の寄 贈申 し出 を受 け入 れ︑ 大学 総長 とし て立 教 大 学 に︑ そ れを 導 入 し た 張 本 人 で も あ っ た

︒ こ う し て み る と

︑松 下 が 行 っ た

﹁不 滅 の 火﹂ の 移 灯 儀 式 は︑ 中 曽 根 が

︑五 六年 五月

︑﹃ 中 国新 聞﹄ に掲 載し た﹁ こ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

﹂ と いう 記 事 に︑ 連動 し た も の であ った こと が見 えて 来る

︒ 中国 新聞 社発 行の

﹃増 補 ヒロ シマ の記 録 被爆 儵年 写真 集﹄ によ れば

︑﹁ 核 禁会 議は この 年︵ 六三 年

引用 者註

︶ 一 二月 三日

︑全 国幹 部会 で﹁ 平和 の 灯﹂ 建設 を 決 定︒ 翌年 完 成 を目 標 に

︑︵ そ のデ ザ イ ンを

引 用 者 註︶ 平和 記 念 公 園 の設 計 者 丹 下健 三 東 大教 授 に 依頼 す る

︒灯 建 設の 原 案 は︑ 核禁 広 島 県民 会 議 か ら出 た も ので あ っ た﹂

︒先 に も 触 れ たが

︑浜 井信 三は 五九 年五 月か ら広 島市 長 に返 り 咲 き︑ 再び 二 期 八年 の 任 期 を全 う す る︒ した が っ て︑ こ の時 期

― 181 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(22)

丹 下に とっ て︑ 広島 で仕 事が しや すい 環境 は整 って いた

︒核 禁会 議発 行の 資料 に よ れば

︑元 々︑ 丹下 は︑ 水の 中に 横た わる 人物 に火 が灯 るよ うな アイ ディ アを 持 っ てい た︒ とこ ろが

︑核 禁会 議の 広島 スタ ッフ が描 いた

﹁人 間の 手が 火を 抱え た ポ ス タ ー﹂ に触 発 さ れ︑ 考え 直 し た もの が

︑今 日 の﹁ 平和 の 灯

﹂︵ 図 儢︶ の 原 型 に なっ てい る

︒ ちな みに

︑淡 路島 の南 端 に

︑一 九 六六 年 竣 工し た 丹 下健 三 に よ る 戦没 学徒 記念 館 にあ る 放 物円 錐 を 半割 り に し たよ う な 慰霊 碑 は︑

﹁ 合掌 の 形 に 思 え て な ら な い﹂ よ う な か た ち を し て い る︒ そ れ に 対 し︑ 両 手 首 を 硬 く 揃 え

︑ 両 掌を 一八

〇度 開い たよ うな

﹁平 和の 灯﹂ のか たち は︑ 祈り をも はや 解い た姿 を 連 想さ せる もの でも ある

︒ いず れに せ よ︑

﹁平 和 の 灯﹂ は一 九 六 四年 三 月 九 日に 第 一 回建 設 委 員会 が 開 か れ

︑そ の場 で丹 下に よる デザ イン が披 露 さ れ た

︒ 同会 委 員 長の 松 下 の次 に 来 る 筆 頭委 員に 名を 連ね た人 物は

︑当 時︑ 日本 学術 会議 議長 職に あっ た物 理学 者の 茅誠 司︵ 一八 九八

│一 九八 八︶ であ っ た

︒茅 も ま た︑

﹁自 主

︑民 主︑ 公 開﹂ の三 原 則 に より

︑﹁ 原 子 力の 平 和 利用

﹂の 研 究 を 推進 し た 中 心 人 物 で あ っ た

﹁平 和の 灯﹂ は同 年八 月一 日に 竣 工し

︑そ れ に とも な い 拡 張さ れ た﹁ 平 和の 池

﹂は

︑幅 一 七m

︑長 さ 七〇 mの ス イ ミ ン グ・ プー ルの よう なか たち にな る︒ その 結果

︑碑 後方 の敷 地一 帯は

︑そ れが 花壇 であ った 頃に も増 して

︑人 の立 ち 入 りが 難し くな る︒ 現在

︑﹁ 平 和の 灯﹂ のい われ には

︑﹁ 全国 一二 宗 派か ら 寄 せら れ た

!

宗 教の 火

"

︑溶 鉱 炉な ど の 全国 の 工 場地 帯 か ら 届 けら れ た

!

産 業 の火

"

が 一 九 四五 年 八 月六 日 生 ま れの 七 人 の広 島 の 乙女 に よ り 点火 さ れ た﹂ と公 表 さ れ てい る

21 「平和の灯」(1964年8月1日設置)

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 182 ―

(23)

し かし

︑こ の灯 設置 に関 して 主導 的位 置に あっ た核 禁会 議︑ なら びに その 議長 松下 正寿 や筆 頭委 員の 茅誠 司の 経歴 に 照 らし 合わ せて みる に︑

﹁ 人間 の手 が 抱え た

︿不 滅 の火

﹀﹂ を 型 どっ た

﹁平 和 の 灯﹂ が意 味 す ると こ ろ は︑

﹁被 爆 の 記 憶

﹂を

﹁原 子力 の夢

﹂に 接続 する 行為

︑す なわ ち﹁ 原子 力の 平和 利用

﹂の

﹁ 不滅

﹂を 意味 する もの とし て見 えて くる

︒ お

わ り に 以上

︑広 島平 和記 念公 園中 心部 のか たち は︑ 一九 四 九年 か ら 一九 六 四 年に か け 変 化し 続 け︑ そ の受 容 の さ れ方 も

︑ そ の頃 まで は︑ 流動 的な もの であ った

︒そ れぞ れの かた ちが 示す とこ ろは

︑広 場に 関し ては

︑平 和憲 法の 理念 を反 映 す るも のに 始ま り︑ 紫宸 殿南 庭の かた ちに 近づ いた とも いえ る設 計変 更を 経て

︑皇 室の 参拝 や政 治集 会の ため の中 央 通 路の 恒常 化と なっ た︒

﹁ 追悼 空間

﹂は

︑五

〇年 代半 ば ま で︑ 死没 者 を 近し く 感 じ る人 が 集 まる 場 で あっ た

︒と こ ろ が

︑そ の後 の﹁ 原子 力の 平和 利用

﹂政 策に より

︑徐 々に そこ から 人が 遠ざ けら れて ゆく 流れ を追 うこ とが でき た︒ 言 い 換え れば

︑そ れは

︑﹁ 戦 後民 主主 義﹂ を具 現化 して いた

﹁平 和広 場﹂ の分 断と 消滅 を経 て︑ 最終 的に は﹁ 追悼 空間

﹂ か らも さえ 人が 消え てゆ く流 れで あっ た︒ 平和 記念 公園 中心 部一 帯か ら︑ 徐々 に人 が排 除さ れ︑ 立ち 入り 不能 とな っ て い っ た時 期 は︑ 日 本に お い て︑ 原 子力 基 本 法の 施 行︵ 一 九五 六 年

︶か ら

︑原 子 力 発 電 の 成 功︵ 一 九 六 三 年︶ を 経 て

︑そ れを 記念 する

﹁原 子力 の日

﹂制 定︵ 一九 六四 年︶ に至 るま での 時期 に見 事に 重な って いる

︒広 島平 和記 念公 園 は

︑そ の平 面配 置の 厳粛 性か ら﹁ 聖地 創造

﹂の 文脈 で語 られ てき た︒ しか し︑ この 空間 が今 日の 状態 に至 った 経緯 に つ いて は︑ 同時 代の 政治 や社 会情 勢と 照ら し合 わせ るこ とに よっ て︑ もう 一つ の相 貌が 現わ れて くる

︒そ うし たこ と に

︑改 めて 目を 向け る時 期に 来て いる ので はな いだ ろう か︒

― 183 ― 広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四)

(24)

⑴ 丹 下 の 共 同 設 計 者 は 以 下 の 三 名 で あ る

︒ 浅 田 孝

︵ 一 九 二 一

│ 一 九 九

︶︑ 大 谷 幸 夫

︵ 一 九 二 四

│ 二

〇 一 三

︶︑ 木 村 徳 国

︵ 一 九 二 六

│ 一 九 八 四

︶︒

⑵ 岸 田 日 出 刀

﹁ 廣 島 市 平 和 記 念 公 園 及 び 記 念 館 競 技 設 計 当 選 図 案 審 査 評

﹂﹃ 建 築 雑 誌

﹄ 一 九 四 九 年 一

︑ 一 一 月 号

︑ 三 八 頁

︒ 同 評 で 岸 は

︑﹁ ア ー チ を 越 し て 川 越 に 遠 く 元 産 業 奨 励 館 の 絵 画 的 残 骸 を 望 む ヴ ィ ス タ の 効 果 を 狙 っ た 本 案 の 計 画 は

︑ な か な か 非 凡 で あ る

﹂ と も 評 し て い る

﹁ 広 島 ピ ー ス セ ン タ ー

﹇ 現

・ 広 島 平 和 記 念 資 料 館 お よ び 平 和 公 園

﹈﹂

﹃ メ タ ボ リ ズ ム の 未 来 都 市

﹄ 展 図 録

︑ 森 美 術 館

︑ 二

〇 一 二 年

︑ 三

〇 頁

⑷ 大 東 亜 共 栄 圏 建 設 営 造 計 画 に つ い て は

︑ 以 下 に 挙 げ る 中 真 巳 と 井 上 章 一 と 五 十 嵐 太 郎 が

︑ 伊 勢 神 宮 に つ い て は 藤 森 照 信 が

︑ 厳 島 神 社 に つ い て は 鈴 木 博 之 が

︑ そ れ ぞ れ

︑ 広 島 平 和 記 念 公 園 と の 共 通 点 を 指 摘 し て い る

︒ 中 真 巳

﹃ 現 代 建 築 家 の 思 想 丹 下 健 三 序 論

﹄ 近 代 建 築 社

︑ 一 九 七

〇 年

︒ 井 上 章 一

﹃ ア ー ト

・ キ ッ チ ュ

・ ジ ャ パ ネ ス ク

│ 大 東 亜 の ポ ス ト モ ダ ン

﹄ 青 土 社

︑ 一 九 八 七 年

︑ 二 八 五

│ 二 九 四 頁

︒ 藤 森 照 信

﹁ 広 島 ピ ー ス セ ン タ ー

﹂﹃ 丹 下 健 三

﹄ 新 建 築 社

︑ 二

〇 二 年

︑ 一 二 九

│ 一 六 九 頁

︒ 鈴 木 博 之

﹁ 聖 地 創 造

│ 丹 下 健 三 の 広 島

﹂﹃ 日 本 の

︿ 地 霊

﹀﹄ 講 談 社 現 代 新 書

︑ 一 九 九 九 年

︑ 二 八

│ 四 八 頁

︒ 五 十 嵐 太 郎

﹁ 近 代 日 本 に お け る 慰 霊 の 建 築 と 空 間

﹂﹃ ゲ ン ロ ン 2 慰 霊 の 空 間

﹄ ゲ ン ロ ン

︑ 二

〇 一 六 年

︑ 七 四

│ 九

〇 頁

⑸ 註

⑷ の う ち

︑ と り わ け 鈴 木 博 之 が

︑ こ の 言 い 回 し を 用 い て い る

﹁ 設 計 要 件

﹂ の 中 味 に つ い て

︑ 現 在 確 認 で き る も の の な か で は

︑﹁ 広 島 平 和 記 念 公 園 及 び 記 念 館 募 集

﹂﹃ 建 築 月 報

﹄ 建 設 省 大 臣 官 房 広 報 室 発 行

︑ 一 九 四 九 年 六 月 号 が

︑ 最 も 詳 し い

︒ そ の 詳 細 に つ い て は

︑ 頴 原 澄 子

﹃ 原 爆 ド ー ム 物 産 陳 列 館 か ら 広 島 平 和 記 念 碑 へ

﹄ 吉 川 弘 文 館

︑ 二

〇 一 六 年

︑ 七 三

│ 七 四 頁

︑ な ら び に 以 下 の 拙 論 を 参 照

︒ 越 前 俊 也 著

﹁ 丹 下 健 三

﹃ 広 島 プ ロ ジ ェ ク ト

﹄ と 原 爆 ド ー ム

│ 旧 産 業 奨 励 館 が 焼 け 野 原 か ら 平 和 の 象 徴 に い た る ま で

﹂﹃ 文 化 学 年 報

﹄ 第 六 一 輯

︑ 同 志 社 大 学 文 化 学 会

︑ 二

〇 一 二 年

︑ 一

〇 九

│ 一 四 八 頁

⑺ 註

⑷ に 挙 げ た 鈴 木 博 之 が

︑ そ の 典 型 で あ り

︑ 同 公 園 の 碑 付 近 の 造 形 を 海 上 神 社 の 厳 島 神 社 に な ぞ ら え て い る

⑻ 註

⑹ 前 述 の

﹃ 建 設 月 報

﹄ 九 八 頁 に よ れ ば

︑ 同 コ ン ペ 応 募 者 に 提 出 が 求 め ら れ た 図 面 は

① 全 体 計 画 平 面 図

② 敷 地 全 体 を 見 渡 す 鳥 瞰 図

③ 建 築 略 設 計 図

︵ 平 面 図

︑ 立 面 図

︶ の 三 件

︑ 四 点 で あ っ た

︒ 丹 下 ら の 設 計 案 は

︑ こ の う ち

① の 全 体 計 画 平 面 図

広島平和記念公園中心部の変容(一九四九−一九六四) ― 184 ―

図 6 イ サ ム・ノ グ チ Hiroshima Memorial to the Dead 模型(1952 年)

参照

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