恒藤法理学における「民族」概念の再定位 : 理論 的形成場面に視軸を据えて
著者 久野 譲太郎
雑誌名 文化學年報
号 63
ページ 293‑318
発行年 2014‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027775
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 : 理論 的形成場面に視軸を据えて
著者 久野,譲太郎
雑誌名 文化學年報
号 63
ページ 293‑318
発行年 2014‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027775
恒 藤 法 理 学 に お け る ﹁ 民 族
﹂ 概 念 の 再 定 位
│
│ 理 論的 形 成 場面 に 視 軸を 据 え て│
│
久 野
譲 太 郎
は じ め に 法哲
学者 とし て著 名な 恒藤 恭︵1888−1967
︶ は︑ 一般 に 戦時 下
︑あ る べき 社 会 へ の理 想 を 失わ ず 体 制に 対 峙
︑ま た 戦 後は 平和 問題 談話 会や 憲法 問題 研究 会で の活 動に 象徴 され るよ うに
︑平 和や 基本 的人 権の 擁護 とい った 人類 の普 遍 的 理念 実現 を目 指し て活 動し つづ けた リベ ラル な知 識人 とし ても 知ら れる
︒そ して 実際
︑そ の学 問・ 思想 態度 は人 類 の 合理 的進 歩を 希求 する ヒュ ーマ ニズ ムと イデ アリ ズム の精 神に よっ て貫 かれ てお り︑ こう した 事情 につ いて は夙 に 多 くの 論 者 た ちに よ っ て指 摘 が なさ れ て き た!
︒ しか し な がら
︑従 来 の 研究 に お い ては 恒 藤 が一 貫 し て﹁ 個 の尊 厳
﹂ を うた う法 哲学 者で あっ たこ とも 手伝 い︑ かか る理 想主 義的 な﹁ 進歩
﹂の 理念 に対 し︑ 民族 や国 家と いっ たい わゆ る ナ ショ ナル なも のが いか に関 わる のか とい う点 につ いて は未 だ十 全な 解明 が試 みら れて きた とは 言い がた い状 況に あ る"
︒た しか に︑ 恒藤 は一 九二
〇年 代で はカ ント 的な 世界 市民 主義 の立 場に 定 位 し︑ 民 族は そ れ が有 す る 排他 性 ゆ え に 排却
︑そ の権 利も あく まで 個人 に定 位し て根 拠づ けら れる にす ぎな かっ た#
︒そ の た めそ こ で はナ シ ョ ナル な も の
― 293 ―
を 積極 的に 評価 する 意識 は甚 だ稀 薄で あっ たと 言え るで あろ う︒ とこ ろが 彼は 戦後 にな ると うっ て変 り︑ 国際 平和 を 構 築す るた めの 主体 とし て民 族の 意義 を評 価し つつ
︑憲 法九 条を 中軸 とす る平 和主 義の 理想 をも って
﹁日 本民 族﹂ が 国 際平 和へ と独 自の 貢献 をな すこ とを 民族 的使 命と して 高ら かに 主張 して ゆく よう にな る︒ ここ では ナシ ョナ ルな も の は そ の平 和 主 義の う ち に 積極 的 位 置づ け を 受け て お り︑ 二
〇年 代 認 識と の 間 には か な り の位 相 差 があ る と い え よ う
︒そ して そう であ る以 上︑ その 理想 主義 や平 和主 義を 総体 とし て理 解し つつ
︑そ れが 持つ 現代 的意 義を 考え るた め に は︑ 恒藤 にお ける こう した ナシ ョナ ルな もの への 視座 を彰 かに して おく こと は是 非と も必 要な 課題 にな ると 言わ ざ る をえ ない
︒も っと も︑ かよ うな 事態 につ いて はす でに 広川 禎秀 氏に よっ ても 指摘 がな され
︑広 川は その 解析 過程 に お いて 恒藤 が戦 時期
︑帝 国主 義に 対峙 する 中国 の抗 日ナ ショ ナリ ズム に注 目し たこ とに よっ て現 実的 民族 認識 を発 展 さ せた こと を解 明︑ そこ に二
〇年 代と は異 なる 積極 的民 族認 識の 濫觴 を見 て い る!
︒ そ れは 恒 藤 のノ ー ト や論 説 を 実 証 的に 分析 した うえ での まさ に傾 聴に 価す る知 見で ある が︑ しか しそ こで は依 然恒 藤が 理論 的レ ヴェ ルに おい てい か に ナ シ ョナ ル な もの を 評 価 する よ う にな っ た のか と い う 原理 的 道 筋ま で が 彰示 さ れ な い点 で
︑不 十 分さ も 残 し て い た
︒だ が苟 くも 恒藤 が法 哲学 者で ある 以上
︑そ のリ アル な時 代認 識は 常に より 原理 的な 法理 論な いし 哲学 的認 識と ポ リ フォ ニー 的に 展開 され てい たは ずで あり
︑如 上の 民族 認識 もま た︑ それ は必 ずや 深い 哲学 的思 索と いう 対旋 律を 伴 っ てい たに 相違 ない
︒よ って 以下 小稿 では
︑恒 藤の 民族 認識 をよ り全 的に 把捉 すべ く︑ とり わけ 戦時 期恒 藤法 理学 に お ける 民族 概念 の定 立動 向に 視軸 を据 える こと でそ の理 論的 側面 の動 きを 追跡 して おく こと とし たい
︒た だし ここ で は 紙 幅 の都 合 上︑ 三
〇年 代 後 半 以降 戦 後 にま で 連 なる 展 相 の 追尋 と 歴 史的 位 置 づけ に つ い ては 敢 え て他 の 機 会 に 譲 り
︑ま ずは 前段 階と して 三〇 年代 前葉
︑恒 藤が 従来 貶価 して きた
﹁民 族﹂ にま なざ しを 向け
︑そ れが 歴史 的世 界の 主 体 とし て立 ち上 げら れて ゆく その 形成 現場 へと 立ち 迫る こと に課 題を 限定 した いと 念う
︒も って
︑ナ ショ ナル な主 体
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 294 ―
が 恒藤 言う とこ ろの 人類 の﹁ 進歩
﹂へ と関 わり 寄与 して ゆく ため の︑ いわ ば理 論的 前梯 を確 保す るこ とが 小稿 の目 標 で ある
︒
第一 節 一九 三
〇 年代 初 頭 にお け る 問題 意 識 そ
こで は じ めに
︑ま ず は 一九 三
〇 年 代初 頭 段 階で の 恒 藤 の歴 史 認 識と 問 題 意識 を 簡 潔 に概 観 し てお く こ と と し よ う
︒恒 藤が 二〇 年代 より 理想 主義 の立 場か ら歴 史の 進歩 を希 願し つづ けた こと は広 川ら のす ぐれ た研 究に よっ てす で に よく 知ら れて いる が!
︑ 三〇 年代 初頭 段階 でも 恒藤 はこ うし た認 識を 示し て い る︒ た とえ ば 一 九三
〇 年 に法 的 人 格 者 概念 につ いて 論究 した 稿の なか で恒 藤は 次の よう に述 べる
︒ 法律
史学 的理 解と 法の 範疇 の理 論と の間 に連 繋が 保た れね ばな らぬ
︒こ の点 につ いて
︑“DieWeltgeschichteist
derFortschrittimBewusstseinderFreiheit.”
と いふ ヘー ゲル の言 葉が 特に 想ひ 起こ され る︒
﹁進 歩﹂ 又は
﹁発 展﹂ の 理 念を 予想 せず して は︑ 十分 なる 意味 にお ける 歴史 につ いて 説く こと は不 可能 と考 へら れる ので あつ て︑ 法の 歴 史 につ いて も︑ それ は単 に系 列に 沿う て置 かれ た︑ 異な る内 容の 法律 秩序 の交 代を 意味 する に過 ぎぬ もの では な く
︑さ う し た交 代 の 連続 を つ ら ぬ い て︑ 何 ら か の 観 点 か ら 進 歩 又 は 発 展 の 過 程 を 認 識 し 得 る で あ ろ う こ と を
︑ 我 々は 期待 せざ るを 得な い"
ここ には 法哲 学の 立場 から では ある が︑ 恒藤 の﹁ 進歩
﹂に 対す る信 念と かか る理 念に 基づ いた 理想 主義 的な 歴史 認
― 295 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
識 とが はっ きり 表白 され てい ると いえ よう
︒し かし この よう な人 類の 進歩 を目 指す 恒藤 にと り︑ 当時 大き な問 題と し て 立ち 現わ れて きて いた のが 末期 的様 相を 呈す る近 代資 本主 義の 問題 であ り︑ そし てま たこ れと 密接 に関 わる 個人 主 義 イデ オロ ギー に対 しい かに 対峙 する かと いう 切実 な問 題で あっ た!
︒ この よう な 現 実 を見 据 え た恒 藤 が 従来 定 位 し た 新カ ント 派的 な思 考枠 組み から 後退 して ゆく こと は今 更縷 述す るま でも ない
︒恒 藤は 個人 主体 の観 点か ら個 と類 の 関 係を 理論 的に 基礎 づけ るカ ント
↓新 カン ト派 的理 説の 観念 的抽 象性 に気 がつ き︑ 以後
︑社 会存 在論 に接 近し て資 本 主 義に 定位 する 近代 個人 主義 世界 観を 超え るべ く画 策す るよ うに なる
︒そ して こう した 過程 にお いて 恒藤 は﹁ 歴史 的
・ 社 会的 実 在﹂ に 注目
︑歴 史 的 世界 を よ り 内在 的 か つ現 実 的 に 把握 す る とと も に︑
﹁ 法 の 本 質 と そ の 把 握 方 法
﹂︵ 以 下
︑﹁ 把 握﹂ 論文
︶を 執筆 し︑ かか る現 実世 界を 変革 す る ため の あ るべ き
﹁歴 史 科 学的 世 界 像﹂ の構 成 を 企図 す る こ と と な る"
︒ それ は
︑広 川 も﹁ 恒藤 の 関 心 は
︑真 の 意 味 で 近 代 社 会 の 個 人 主 義 を 止 揚 す る よ り 高 き
︑﹁ 具 体 的 普 遍
﹂ の 探求 で あ った
﹂# と指 摘 す るよ う に︑ 換 言す れ ば
︑従 来 的な 抽 象 的個 人 主 義原 理 を 止 揚し た あ るべ き 具 体的 世 界 像 を 提示 する 試み にほ かな らな かっ たが
︑そ こで とり わけ 留目 され るべ きは
︑恒 藤が 変革 主体 たる 人間 の主 体的 実践 を 重 視し た点 と並 んで
︑歴 史的 世界 の共 同的 性格
︑ひ いて は個 と﹁ 全体 社会
﹂の 相互 制約 関係 に注 目を した 点で ある
︒ 人格
的存 在者 の個 性的 存在 性格 は全 体社 会の 普遍 性と の連 関に おい て成 り立 つの であ り︑ 諸々 の歴 史的 なる も の の個 性的 内容 もさ うし た根 本的 制約 にも とづ いて 定ま るの であ って
︑歴 史的 世界 像が 共同 的意 識の 立場 にお い て 形成 され ねば なら ぬ理 由は その 点に 存す る$
恒藤 はこ こで 人格 の個 性的 内容 は全 体社 会の 普遍 性と の連 関に おい て成 立す るが ゆえ に︑ 歴史 的世 界像 は﹁ 共同 的
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 296 ―
意 識﹂ の立 場に おい て形 成さ れな けれ ばな らな いと 論じ た︒ そこ には 二〇 年代 にお ける 個の 立場 に立 脚し た原 子論 的 理 論構 成で は見 受け られ なか った
﹁歴 史﹂ およ び﹁ 社会
﹂の 観点 が積 極的 に導 入さ れて いる とい えよ う︒ 実際 恒藤 は こ の時 期︑ 法の 性格 を規 定す るな かで も︑ それ らを
﹁前 近代 法﹂
︑﹁ 近 代法
﹂︑
﹁ 未来 法﹂ とい う三 段階 に区 分し たう え で
︑そ れぞ れに
︑﹁ 非 合理 的社 会主 体性
﹂︑
﹁ 合理 的 個人 主 体 性﹂
︑﹁ 合 理 的社 会 主 体 性﹂ の性 格 を 進歩 史 的 に対 応 さ せ て おり
︑こ の時 点で 彼が 近代 の個 人主 体原 理に 対し
︑あ るべ き﹁ 合理 的﹂ な﹁ 社会 主体 性﹂ を未 来に 展望 して いた こ と は間 違い ない
!
︒そ して この よう なな か︑ かか る解 決の 手が かり を恒 藤は 西 洋 の 諸思 想 に 索め
︑殊 に カ ント の 抽 象 性 を 超 える も の とし て ヘ ー ゲル を 経 て唯 物 史 観に 注 目 す るこ と と なる
︒こ の 点 につ い て は 広川 の 詳 しい 検 討 に 譲 る が"
︑し かし ここ では もう 一点
︑同 様の 問題 意識 に基 づい て恒 藤が 関心 を払 った サ ヴ ィ ニー ら 歴 史法 学 へ のま な ざ し を 掬 いあ げ て おく こ と とし た い︒ な ぜ なら 恒 藤 は三
〇 年 代初 頭
︑﹁ 民 族 精神
︵Volksgeist
︶﹂ を 法 源に 置 く 歴史 法 学 の 法 思想 に留 目す るこ とを 槓桿 とし て︑ 更に はそ こか らサ ヴィ ニー と論 争関 係に もあ った ヘー ゲル を軸 とし たド イツ 観 念 論の 検覈
︑対 質へ と至 るな か︑ ある べき 普遍 的全 体社 会を 形成 しゆ く主 体と して
﹁民 族﹂ の意 義を 理論 的に 把握 す る に至 った 可能 性が 高い から であ る︒ その ため
︑次 節で はま ずは 歴史 法学 とヘ ーゲ ルへ の留 目の 在り 方を 比較 しつ つ 概 観し たう えで
︑更 にそ のの ち︑ 民族 認識 発展 の観 点か ら︑ 恒藤 にお ける ドイ ツ観 念論 との 対質 にま で簡 潔な がら 論 及 して おく べき 心算 であ る︒ 第二
節
Volksgeist
│ 歴 史 法 学 と ヘ ー ゲ ル
│ 恒藤
はも とよ り︑ その 研究 の始 発点 が歴 史法 学の 慣習 法理 論研 究で あっ たこ とも あり
︑新 カン ト派 や社 会主 義理 論
― 297 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
な どの 諸思 想と 並ん で︑ 歴史 法学 に対 して も一 定の 関心 を懐 きつ づけ ては きた
︒し かし なが ら一 九三
〇年 代初 頭︑ 末 期 資本 主義 なら びに 近代 的ア トミ ズム を克 服し た ある べ き 真の 全 体 の展 望 と い う逼 迫 し た問 題 関 心 は︑
﹁歴 史 的・ 社 会 的実 在﹂ への 留目 とも 相俟 って
︑恒 藤に 革め て歴 史法 学へ の注 目を 促し たも のと 忖度 され る︒ こう した 傾向 は早 く も 二
〇 年代 末 に おい て は 顕れ
︑恒 藤 は そ こで
﹁カ ン ト 風の 形 式 主義 的
・原 子 論 的価 値 観 の弊 を 脱 却し た 見 地﹂! を 模 索 しつ つ︑ 以後 自ら 向か うこ とと なる 方向 性を 次の よう に示 唆し てい る︒ 法律
組織 にお ける 基本 的範 型の 裡に 民族 精神 また は客 観的 精神 の具 体的 表現 をみ よう とす る歴 史法 学や ヘー ゲ ル の態 度は
︑歴 史的 発展 の過 程に 内在 しつ つ社 会生 活を 形態 づけ ると ころ の形 而上 学的 存在 者の 問題 に想 いい た ら しめ るも のが ある
︒"
もっ とも
︑こ こで は示 唆以 上の 展開 はお こな われ ない が︑ しか しか よう な関 心は 三〇 年代 に入 ると 歴史 への 視座 獲 得 とと もに 一層 前景 化し
︑﹁ 歴 史科 学的 世界 像﹂ の探 求を 企図 した と同 じ一 九三 二年 には まさ しく
︑﹁ 法源 の理 論﹂ と 題 する 講義 ノー ト#
を 執筆 して
︑歴 史法 学の 学説 をヘ ーゲ ルと 比較 しつ つ検 覈 す る こと に な る︒ 該ノ ー ト は表 題 か ら し ても その 主た る考 察目 的が 歴史 法学 の﹁ 民族 精神
﹂に あっ たこ とは 彰か であ ろう
︒し かし 今特 にこ こで 重視 され な け れば なら ない のは
︑恒 藤が そこ にお いて 歴史 法学 の﹁ 民族 精神
﹂に 止目 し︑ それ を更 にヘ ーゲ ルの それ と比 較す る 過 程で
︑﹁ 民 族精 神﹂ のイ デオ ロギ ーを 批判 的に 摂取 し た と考 え ら れる 点 で あ る︒ 一端 を 示 せば
︑恒 藤 は そこ で ヘ ー ゲ ルの
﹁民 族精 神﹂ と歴 史法 学の それ とを 比較 しつ つ以 下の ごと く特 徴づ けて いる
︒
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 298 ―
カ
クテHegel
ノVolksgeist
ハMontesquieu
ノEspritgénéral
︹一 般精 神︺ ト一 致ス M
︹モ ンテ スキ ュー
︺及 H︹ ヘー ゲル
︺ノ 概念 ハ共 ニ分 析的
︑経 験的 デア リ︑ 一ノ
︵bewirktu.bewirkend
︹惹 き
ママ
起 こ し つつ 惹 き 起こ さ れ る︺
︶Ursach−WirkungsKomplex
︹ 原 因結 果 複 合︺ ヲ示 ス
︒ソ レ ハ 歴史 的 発 展 ヲ ソ ノ 因 果的 合成 素ニ 分析 スル 歴史 研究 ノ内 部ニ 地位 ヲ占 メル 反 之歴 史派 ノVolksgeist
ノ概 念ハ 形而 上学 的総 合デetwas,absolutes,Erstes,dasbewirkt,ohneselbstbewirktzu
werden
︹惹 き起 こさ れる こと なく それ 自身 惹き 起こ す絶 対的 にし て第 一の もの
︺デ アル ソ レハ 歴史 的発 展ヲ 生ケ ル全 体ト シテ 把捉 セム トス ル所 ノ歴 史研 究ノ 中ニ アラ ハレ ル そこ
では 歴史 法学 のそ れが 能動 的始 源と して の絶 対的 一者 とい う形 而上 性に おい て思 惟さ れて いる に対 し︑ ヘー ゲ ル のそ れは モン テス キュ ーと 並ん でよ り経 験的 に把 握さ れて いる
︒も ちろ ん︑ この 比較 では 恒藤 がい ずれ を明 確に 評 価 して いる とは にわ かに は断 じが たい が︑ しか し翌 年執 筆さ れた
﹁哲 学と 法律 学と の交 渉﹂
︵ 以下
︑﹁ 交渉
﹂論 文︶ で の 評価 を併 せ観 るな らば
︑恒 藤は ヘー ゲル に親 和的 であ った もの と思 われ る︒ ノー トの 内容 は﹁ 交渉
﹂論 文で は以 下 の よう に反 映し てい る︒ ヘー
ゲル の法 律史 観は
︑歴 史的 発展 によ って 到達 され た高 い段 階に おけ る法 の構 造の 観点 から
︑低 い段 階に お け る法 の構 造を 理解 せん とす るも のた るに 反し て︑ 歴史 法学 の法 律史 観は
︑あ たか も反 対の 態度 をと るも ので あ っ て︑ かか る態 度と 照応 する
﹁民 族精 神﹂
︵derVolksgeist
︶の 概念 は︑ 高度 の 文 化 をも つ 社 会に 於 け る法 の 成 立 過 程と 存在 形態 とを 説明 する ため の原 理と して ふさ わし いも ので はな い︒!
― 299 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
﹁ 民族 精神
﹂と いう 概念 は︑
﹁法
﹂が 国民 や時 代の 性格 から は切 断し えな いも ので ある と思 惟す る限 りに おい てヘ ー ゲ ル と 歴史 法 学 派が 共 有 し たも の で あっ た
︒し か し歴 史 法 学 にと っ て それ が 自 体的 に 法 の 究極 的 源 泉で あ っ た に 対 し
︑ヘ ーゲ ルに とっ てそ れは あく まで も理 性的 な国 家意 志に 具体 的内 容を 付与 する もの でし かな く︑ 法秩 序の 最高 表 現 は制 定法 であ って 歴史 法学 の主 張す る慣 習法 では ない
︒つ まり ヘー ゲル と歴 史法 学は
︑同 じく
﹁民 族精 神﹂ とい う 概 念を 共有 しな がら も正 反対 のベ クト ルに おい てそ れを 用い てい たの であ る!
︒恒 藤 も また こ の 点を 看 破 した う え で ヘ ーゲ ルの 考え にこ そ共 鳴を した ので あろ う︒
﹁ 交渉
﹂論 文の 結語 では 次の よう に両 者の 性格 が論 定さ れる
︒ 民族
精神 から 直接 に産 出さ れる 法律 とし ての 慣習 法 を以 て 法 律の 主 た る成 立 形 態 とな す 歴 史法 学 の 法 源論 は
︑ 国 家の 自覚 的意 志の 表現 たる 制定 法こ そは 真に 具体 的普 遍性 を有 する もの と論 ずる ヘー ゲル の法 律哲 学的 見解 の 近 代的 なる に比 して
︑非 実際 的で ある と云 う 弱点 を 蔵 する も の であ っ た
︒︵ 中 略︶ 彼ら は 根 本に お い て歴 史 の 漸 次 的 進 化の 思 想 以上 に 出 で ず︑ また 近 代 社会 お よ び近 代 法 に 内在 す る 自己 否 定 的性 格 を 洞 察す る に 至 ら な か っ た
︒か よう な歴 史法 学者 の法 律史 哲学 の根 本的 欠陥 を暴 露し
︑そ れを 除却 する 途は ヘー ゲル によ って 切り 開か れ た"
﹁ 近代 社会 およ び近 代法 に内 在す る自 己否 定的 性 格﹂ と はお そ ら くそ こ に
︑資 本 主義 の 問 題を 含 ん でい る
︒恒 藤 は こ の時 期︑ かよ うな 近代 が抱 える 問題 を見 据え つつ
︑そ れを 克服 する 観点 から 唯物 史観 に共 鳴︑ 実際
︑上 の文 章に も 唯 物史 観の 積極 的評 価が つづ くこ とに つい ては もは や絮 言を 要す まで もな い︒ しか しな がら 今小 稿に おい て注 目す べ き は︑ 恒藤 が如 上の 比較 検討 を経 るな かで
︑た しか に﹁ 民族 精神
﹂の 考え 方を も受 容し てい たと 思わ れる もう ひと つ
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 300 ―
の 事実 であ る︒ もち ろん
︑上 での 比較 自体 は両 者の 法思 想の 方法 的有 効性 と歴 史的 役割 が論 じら れた もの にす ぎな い が
︑し かし
﹁法 源の 理論
﹂の 別 箇所 では 恒藤 は全 体社 会の 問題 にも 言及 しつ つ︑ 類と して の人 類と 個人 の間 に﹁soziale
Verbände
︹ 社会 的結 合体
︺﹂ を 設定 する とと もに
︑ま た﹁Volksorganismus
︹民 族有 機体
︺ハ 人 間ノ 個的organischesWe-
sen
︹ 有機 的 本 質︺ ナ クシ テ ハ 存立 シ エ ズ 個人 ハorganischeVolksganzheit
︹有 機 的 民族 全 体 性︺ ナシ デ ハ 存 在 シ エ ナ イ﹂ など とメ モし て︑ 社会 的諸 集団 の一 種た る民 族と 個人 の相 互規 定関 係を 重視 する 姿勢 をみ せ始 めて いる
︒こ こ に は抽 象的 世界 主義 の立 場に 立ち つつ 単に 個人 の自 決権 から 民族 の自 決権 を権 利づ けた 直線 性と は明 らか に異 なる ニ ュ アン スが 読み 取れ よう
︒後 段で も詳 しく 触れ るこ とな がら
︑恒 藤が 近代 アト ミズ ムを 超え た真 の全 体を 索め て歴 史 法 学や ヘー ゲル を検 討す る過 程に おい て︑
﹁ 民族 精神
﹂の イ デ オロ ギ ー に刺 戟 を 受 けた こ と はほ ぼ 間 違い な い
︒恒 藤 は 歴史 的集 団の 共同 的意 識を 問題 とし
︑あ るべ き全 体を 模索 する なか で︑ 潜在 的な 形な がら も全 体的 統一 を示 唆し つ つ 歴史 的集 団の 在り 方に 深く 関わ る﹁ 民族 精 神﹂ の概 念 に 留目 を し たの で あ ろ う︒ そし て ま さに こ こ に こそ
︑﹁ 民 族 精 神﹂ 検討 と相 俟っ て︑ 従来 消極 的に しか 評価 して こな かっ た﹁ 民族
﹂を
︑近 代個 人主 義原 理を 超克 した 全体 社会 を 形 成す るう えで の重 要な 因子 とし て積 極的 に評 価し てゆ くこ とと なる 理論 的契 機も あっ た︒ 恒藤 は﹁ 交渉
﹂論 文の 直後 には 主に
﹁行 為ノ 概念
﹂を 中心 に行 為論 の立 場か ら全 体社 会の 問題 を再 び検 討し た哲 学 的 考 察 ノー ト
︵以 下︑
﹁ ノー ト
﹂︶! を 誌 す こと と な るが
︑そ こ に は﹁ 民族 精 神﹂ 検 討 を経 た 恒 藤の 民 族 認 識 に 関 わ る 重 要な 変化 を読 み取 るこ とが でき る︒ よっ て以 下で は節 をあ らた め︑ この ノー トの 内容 を検 討す るこ とに より
︑民 族 認 識の 変遷 を観 るう えで の重 要な 手が かり を供 する こと とし よう
︒
― 301 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
第三 節 民族 の 哲 学的 再 定 位│
﹁恒 藤恭 ノー ト﹂ を中 心に
│
︵一
︶﹁ 行為
﹂す る主 体 ノー トは 一九 三三 年の 四月 から 五月 にか けて 書か れ てい る
︒私 的 な哲 学 的 メモ だ が 一 定の 体 系 性を 具 備 し てお り
︑ 内 容的 には 序論 的部 分と 本論 的部 分に 大別 しえ るも のと なっ てい る︒ その 考察 主題 は﹁ 行為
﹂に つい てで あり
︑社 会 を 思惟 する にあ たっ て存 在論 的立 場に 立つ こと を批 判し 行為 論の 立場 から
﹁自 由﹂
︵ 主体
︶と
﹁存 在﹂
︵世 界︶ の問 題 を 考究 する こと が主 たる 目的 であ る︒ もっ とも その 詳細 につ いて はか つて 京大 滝川 事件 にお ける 恒藤 の態 度決 定の 在 り 方を 追跡 する 過程 で翻 刻︑ 検討 をし たこ とが ある ため 詳し くは そち ら の 参 観を 乞 い!
︑ こ こで は あ くま で 真 の﹁ 全 体
﹂す なわ ち﹁ 普遍 的全 体社 会﹂ と﹁ 民族
﹂と いう 観点 から 革め てそ の概 要を 述べ るこ とに した い︒ 恒藤 はま ず序 論部 にて
︑従 来の 存在 論に 対す るも のと して ドイ ツ観 念論 の哲 学を 挙げ
︑そ の特 色た る﹁ 自由 ノ主 体 ノ イミ ニオ ケル 主観
﹂に 注目
︑﹁ 自 由ノ 主体
﹂の 哲学 たる ド イ ツ観 念 論 を批 判 的 に 参観 し つ つ︑ 存在 論 的 実在 と 観 念 論 的イ デー とを 統一 する もの とし て﹁ 行為
﹂の 理論 を展 開し た︒ ただ し恒 藤は すぐ さま そこ で﹁ 行為
﹂の 検討 には 入 ら ず︑ 最初 にそ の行 為の 主体 につ いて 考察 を施 して いる
︒よ って 小稿 もそ れに 従え ば︑ そこ でま ず留 目す べき は以 下 の 記述 であ る︒
Zeit
︹時 間︺ ノミ カラ 考ヘ ラレ タ存 在ハ
個 人的 ナExistenz
︹ 実存
︺︵besonderesIndividuum
︹ 特殊 的個
︺︶
allgemeinesIndividuum
︹普 遍的 個︺
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 302 ―
Zeit ノ ミデ ハナ ク 同時 存在 ノ統 一 一 方デ ハ動 クト 共ニ
他 方デ ハ動 カス 空間 的ノ モノ
Weltschematismus
︹世 界図 式論
︺ ここ
で言 われ る﹁Zeit
ノミ カラ 考ヘ ラレ タ存 在﹂ とは 暗に ハイ デッ ガー を批 判し たも ので あろ うが
︑恒 藤が 行 為 の 主 体を その よう な時 間を 通し て思 惟 さ れた 個 的 実存 と い う特 殊 な 個 には 求 め ず︑
﹁allgemeinesIndividuum
﹂の 概 念 を 対 置し たこ とが とり わけ 重要 であ る︒ 普遍 的個 にお いて は時 間性 のみ なら ず現 にあ る世 界と して の空 間性 の契 機が 重 視 され るた め︑ その 世界 図式 から は空 間的 な拡 がり をも った
﹁集 団﹂ 性の 観点 が導 出さ れる こと とな る︒ 記述 内容 か ら 忖度 する に︑ 普遍 的個 とは
﹁同 時存 在ノ 統一
﹂た る統 体性 を保 有し た集 団が 思惟 され てい よう
︒恒 藤は
﹁社 会﹂ を 思 料す るに 際し ても
︑﹁ 単 ナル 個人 ト個 人ト ノ結 ビ付 キト イ フ ノデ ハ 問 題ノ 中 心 ニ 触レ ナ イ 広 義ノ 社 会 ハ単 ナ ル 存
マ マ
在 デハ ナイ
個 人ノ 単ナ ルZusammenhang
︹集 合︺ デハ ナイ
﹂と 述べ
︑そ れは
﹁allgemeinesIndividuumEingeit
︹普 遍 的 個 と して の 統 一︺
﹂を な す も ので あ る とし て い る!
︒も っ と も
︑そ れ 以 上 に は こ の 概 念 の 内 実 は 彰 か で は な い が
︑ し か し ここ で 恒 藤が 個 人 以 上に 個 人 にあ ら ざ る集 団 表 象 の行 為 主 体性 を 重 視し て い る 点は 注 目 をさ れ て よい で あ ろ う
︒前 年の
﹁把 握﹂ 論文 で示 唆さ れて いた 歴史 的 集団 の
﹁共 同 的意 識
﹂を 重 視す る 観 点 がこ こ に 受け 継 が れ てい る
︒ そ して その ため
︑恒 藤は そこ から 更に ヘー ゲル の﹁allgemeinesIndividuum
﹂に まで 言及 する
︒恒 藤に よれ ばヘ ーゲ ル に と っ ての
﹁普 遍 的 個﹂ とは も ち ろ ん︑ 有 名 な﹁ 客 観 的 精 神︵objectiverGeist
︶﹂ で あ る︒ 恒 藤
は﹁Geist
︹ 精 神︺ ガ
マ マ
ハ ジメ
テHegel
ニ オイ テ充 実シ タイ ミヲ モツ
wirklich,substanziel
︹ 現実 に︑ 実体 的︺ トナ
ツタGeist
﹂と 評価 し︑ そ れ は﹁ 観測 ノ主 体ト イフ ヤウ ナモ ノカ ラハ 考ヘ ラレ ナイ
﹂︑
﹁Volk
︹民 族︺ トカ 歴史 ノ主 体﹂ だと 把え た︒ もっ とも な
― 303 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
ヘ ーゲ ル理 解と いえ よう か︒ しか し恒 藤は その うえ でヘ ーゲ ルが 社会 を単 なる 存在 と見 做し てい る点 にお いて は依 然 一 種の 存在 論的 立場 から 脱却 しう るも ので はな く不 十分 だと 判断 した
︒恒 藤は ヘー ゲル の客 観的 精神 が﹁ 我々 ガソ コ カ ラ 外 ヘ出 ラ レ ヌ雰 囲 気 ノ 如キ モ ノ﹂ と され る 点 で行 為 性 に 乏し く
︑﹁ 教 ヘラ レ ル 所キ ハ ク ナ リ﹂ と 論 断 し て い る
︒ 抑 々︑ ヘー ゲル の論 理学 は一 種の 汎論 理主 義的 性格 を持 ち︑ 自由 の意 識の 進歩 とは 言っ ても その 世界 史の 弁証 法は 原 理 的に 過去 から 現在 まで で完 結し て未 来を 含ま ない
︒そ の点 で積 極的 行為 性に 欠け
︑ヘ ーゲ ル左 派の 論客 たち から 批 判 がな され たこ とも 周知 であ る!
︒ 恒藤 が﹁ 歴史 科学 的世 界像
﹂を 探求 しよ う と し たの は 終 局的 に は 前近 代 的 な﹁ 非 合 理的 社会 主体 性﹂ や近 代的 な﹁ 合理 的個 人主 体性
﹂を 止揚 した
﹁合 理的 社会 主体 性﹂ とし ての 未来 への 展望 を獲 得 す るた めで あっ た︒ かか る理 想主 義的 な実 践を 志向 する 恒藤 から して みれ ば︑ 理性 的な もの と現 実的 なも のと の同 一 性 を説 くヘ ーゲ ルの 論理 に飽 き足 りな い思 いを 懐い たこ とは むし ろ当 然で あっ たと もい えよ う︒ 恒藤 は﹁ 我々 ノ切 実 ナ ル社 会ハ 存在 トシ テノ 社会 デハ ナク 行為 ノ主 体ト シテ ノ社 会﹂ であ ると し︑
﹁ 普遍 的個
﹂の 主体 性を
﹁行 為ス ル所
﹂ に 求め て本 ノー トの 主題 であ る﹁ 行為
﹂の 重要 性を 強調 し た︒ ここ で 登 場す る の が﹁handelndesIndividuum
︹行 為 す る 個
︺﹂ の 概念 で あ る︒ そし て そ れ は恒 藤 に よれ ば
﹁単 ニ 個人 的 ナ 主 観又 ハabsoluterGeist
︹ 絶 対 的 精 神︺ ト モ チ ガ フ
﹂も の で あ り
︑ま さ し く 現 に﹁ 存 在 ス ルVernunft
︹ 理 性︺ ト シ テ ノVolksgeist
︹民 族 精 神
︺﹂ で あ る
︒こ こ で﹁ 民 族 精神
﹂と いう 概念 が突 如と して 語ら れる こと は︑ まさ に嚮 に観 た前 年よ りの
﹁民 族精 神﹂ 検討 が鮮 やか に鏡 映し て い るこ とを 示し てい る︒ 以下 にそ の要 点箇 所を 引用 して おこ う︒
handeln
︹行 為︺ スル モノ 個人
││ 身体 ヲモ ツテ 行為 ス
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 304 ―
単ニseelisch
︹心 的︺ トカ 意識 トカ デハ ナク
organisch
︹有 機的
︺身 体ヲ モツ 民 族ト
イフGeist
︹精 神︺ ガハ タラ クト イフ トキ ニモ 民 族ノ 身体 トシ テノ 物質 的方 面ガ 考ヘ ラレ ナケ レバ ナラ ヌ 個 人ノ トキ ニオ ケル
Gieb
│Seele
︹ 肉体
│心
︺ノ 問ダ イ
objektiverGeist
︹客 観的 精神
︺ノ トキ ニハ ヨリ 複雑 也 社 会哲 学 社会 学ノ 最モ キン 急ナ 問題
vorhandeneWirklichkeit
︹現 実的 な実 在︺ トシ テノobj.G.
︹客 観的 精神
︺ 最 モイ チジ ルシ イ性 格 作為 者
/
handelndesIndividuum
︹ 行為 する 個︺ ト シテ ノallg.I.
︹ 普遍 的個
︺タ ル民 族精 神 民 族精 神ノ 中デ ノ個 人ノ 精神 デナ ケレ バナ ラヌ 断片
的な メモ のた め全 体を つか みに くい が︑ ここ での 要点 は三 つあ る︒ まず 恒藤 は行 為す るも のと して の個 人に 注 目 し︑ その 物質 的側 面を 考慮 して いる
︒そ して それ を前 提と しな がら
﹁民 族﹂ の存 在性 格に まで 言及 し︑ 民族 もま た そ の精 神性 のみ なら ず身 体的 すな わち 物質 的側 面を 倶に 考慮 する 必要 があ ると する
︒つ づい て恒 藤は
︑か よう な身 体
― 305 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
と 精神 の対 立な いし 連関 の問 題は 各個 人が 有す る問 題で もあ るが
︑当 然の こと なが らそ れが
﹁客 観的 精神
﹂た る統 一 的 全体 を思 惟す る場 合に はよ り複 雑で 深刻 な様 相を 帯び ざる をえ ず︑ かか る問 題を いか に把 え︑ 解決 する かは 現代 社 会 哲学 や社 会学 の緊 急問 題た らざ るを えな いと の認 識を 示し て い る︒ 恒藤 は 前 年の
﹁社 会 哲 学﹂ の講 義 ノ ー ト!
で も 分 裂を 呈す る社 会の 危機 に対 しそ れを
﹁社 会哲 学ノ 根本 問題
﹂と 位置 づけ てい たが
︑こ こに もそ のよ うな 問題 意識 の 連 続性 を窺 うこ とが で きよ う
︒そ し て 最後 に 恒 藤は
︑﹁vorhandeneWirklichkeit
ト シテ ノobj.G.
﹂ を 論じ
︑そ の 最 も 著 しい 性格 とは それ が﹁ 作為 者﹂ たる こと
︑換 言す れば 行為 の主 体︵=
創 造の 主体
︶た ると ころ にあ るべ きだ とし て い る︒ もち ろん
︑﹁ 作 為者
﹂と はす なわ ち﹁handelndesIndividuum
トシ テノallg.I.
タル 民族 精神
﹂で ある
︒従 って こ こ に言 う﹁ 行為 する 普遍 的個
﹂と はま さに
︑イ コー ル﹁ 民族 精神
﹂を 意味 する にほ かな らな い︒ つま り恒 藤は ここ で 単 なる 特殊 な個 では なく
﹁allgemeinesIndividuum
﹂を 思惟 し て ヘー ゲ ル を検 討 し た が︑ それ だ け では 不 十 分 と判 断
︑ そ れと とも に﹁ 行為
﹂論 の見 地よ りそ の主 体的 性質 を行 為す る とこ ろ に 求め て
﹁handelndesIndividuum
﹂ の概 念 を 定 立 し批 判し たの であ る︒ なお
︑こ のよ うな 歴史 の世 界の 形成
・発 展要 因と して 主体 の行 為性 を重 視す る姿 勢は 前年 の
﹁把 握﹂ 論文 にお いて もす でに 打ち 出さ れて おり
︑そ こで はた とえ ば次 のよ うに 述べ られ てい た︒ 歴史
の世 界の 本質 は人 格的 存在 の世 界た るこ とに 存し
︑行 為の 主体 と客 体と の対 立及 び二 者の 間に 成り 立つ 相 互 的交 渉と いふ 事実 が︑ 歴史 の世 界の あら ゆる 部面 を特 色づ ける
︒其 処で は行 為の 主体 その もの 並び にそ の行 為 以 外 の 他の 諸 々 の実 体 及 び 事象 も
︑何 ら かの 仕 方 で行 為 の 主 体と の 直 接的 又 は 間接 的 連 関 の中 に 立 つ こ と に よ り
︑対 主体 的存 在性 格を そな へる ので あり
︑し たが つて 何ら かの 程度 にお いて 主体 その もの の存 在性 格を 反映 す る
︒︵ 中 略︶ 歴史 的発 展の 特性 は︑ その 因素 とし て 必ず 人 間 の行 為 を│
│個 人 的 及 び集 団 的 行為 を 包 含す る こ と
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 306 ―
に 存す るの であ つて
︑行 為の 主体 と客 体と の対 立及 び交 渉を 一契 機と して 成り 立つ とこ ろの 動的
・全 体的 作用 連 関 たる こと が︑ 歴史 的発 展の 本質 的様 相に 属す る!
そこ では 未だ
﹁普 遍的 個﹂ とい う概 念は 登場 して いな いが
︑す でに 触れ たと おり 歴史 的集 団へ の視 座は 用意 され つ つ あっ た︒ そし てそ れら が歴 史法 学や ヘー ゲル の具 体的 考察 を通 じて ここ に出 会う こと とな るの であ る︒ すな わち 恒 藤 にと り︑ かか る﹁ 普遍 的個
﹂と
﹁行 為す る個
﹂が 輻湊 する 交点 に泛 び上 がる もの こそ が﹁ 民族 精神
﹂で あっ たと い え よう
︒そ して 更に
︑恒 藤は 上で 観た よう に﹁ 個人
﹂と のア ナロ ジー にお いて
﹁民 族﹂ を思 惟す るに 際し ても 精神 面 の みな らず
︑そ の物 質面 を倶 に勘 案す る必 要を 提起 して いた
︒し てみ れば
︑該 論理 から は恒 藤の 言う
﹁民 族精 神﹂ が 単 に精 神的 な集 団表 象に 留ま るこ とな く︑ 物質 的側 面を も有 した 現実 的存 在と して の﹁ 民族
﹂に まで 突き 抜け るも の で ある こと は彰 かで あろ う︒ それ はと りも なお さず
︑現 実の 民族 とい うも のに 行為 主体 性が 付与 され るこ とを 意味 し て い る︒ つ まり 恒 藤 にと っ て︑ こ こ に言 う 統 体性 を 保 有し た 行 為 主体 と は まさ し く 民族 に ほ か なら な か っ た の で あ る
︒﹁ 民 族精 神﹂ への 留目 を介 する こと によ って
︑恒 藤は 単に 抽 象 的個 人 か ら世 界 像 を 構成 す る 従来 の 認 識限 界 を 突 破 し︑ 個人 から 出発 しつ つも
︑し かし その 価値 ある 生 がそ こ に おい て 担 保さ れ る い わば 歴 史 的集 団 と し ての
﹁民 族
﹂ を 理論 的に 把え るこ とに 成功 した のだ とい えよ う"
︒ それ では はた して
︑恒 藤が ここ で強 調す る﹁ 行為
﹂と はい かな るこ とを 意味 する のか
︒次 項で は最 後に
︑民 族概 念 の 直接 的検 討か らは いさ さか 逸れ るこ とを 厭わ ず︑
﹁ 行為
﹂の 内 実 を確 認 す るこ と で 本 項で の 議 論を 可 及 的に 補 う と と もに
︑併 せて ノー トに 表れ た恒 藤の 全体 社会 観の うち へと 民族 を位 置づ ける ため の好 便と した い︒
― 307 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
︵二
︶民 族の 理論 的位 置│ 普 遍 的 全 体 社 会 と 民 族
│ 先述 のと おり
︑﹁ ド イツ 観念 論ノ 特色 タル 自由 ノ主 体ガ 行 為 ニオ ケ ル 最モ 主 要 ナ モメ ン ト﹂ だ とし て そ の自 由 な 自 発 性を 重視 する 恒藤 は︑ 本論 部に おい ても ドイ ツ観 念論 を主 題化 する
︒よ って そこ で恒 藤が まず はじ めに とり あげ る の もま た﹁ 自由 の体 系﹂ たる フィ ヒテ 知識 学で ある
︒し かし なが ら恒 藤に よれ ば︑ フィ ヒテ にお いて は自 由は 存在 の 根 拠と して 把握 され るに もか かわ らず
︑同 時に それ は存 在の 否定 によ って 現れ る当 為と され る︒ この 点に 恒藤 はフ ィ ヒ テ知 識学 の破 綻が ある とみ た︒ おそ らく ここ で恒 藤 が念 頭 に 置い て い るの は 一 七 九四 年 の 知識 学
︵﹃ 全 知識 学 の 基 礎
﹄︶ で あろ うが
︑恒 藤は その よう に自 由を 無媒 介に 思惟 する 在り 方を 批判 し︑
﹁存 在ニ 対ス ル原 始性 ニモ カカ ワラ ズ 自 由ハ 現実 トナ ルタ メニ ハ存 在ヲ 媒介 トセ ネバ ナラ ヌ﹂ もの だと 規定 した
︒恒 藤に とっ て︑ 自由 と存 在と はフ ィヒ テ が 言う よう に互 いに 限定 し合 うだ けの 無媒 介性 にお いて ある もの では なく
︑相 互媒 介的 にあ るべ きも ので あっ たと い え よう
︒そ して そこ にこ そ︑
﹁ 存在
﹂と
﹁自 由﹂ を思 惟 す るに 際 し ての 鍵 鑰 を なす
﹁否 定 性﹂ が 定立 さ れ る余 地 が 生 ず るこ とと なる ので ある
︒い わゆ る﹁ 否定 的自 由﹂ のテ ーゼ であ る︒ 自
由ハ 第一 ニ否 定的 活動 ナリ
自 由ノ 必要 ナ規 定
︵中 略︶ 否 定的 ナル 事ニ ヨリ テ生 産的 ナリ
unmittelbar
︹ 直接 的︺ ニハ 肯定 的デ ナイ ガ 否定 ヲ媒 介ト セル 肯定 性︑ 生産 性︑ 積極 性 直 接ノ 生産 性ニ 立タ ムト スレ
バFichte
的ナ 困ナ ンニ 矛盾 ニオ チヰ ル
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 308 ―
そこ では 自由 と存 在は 互い に否 定的 に媒 介し あわ ねば なら ない
︒お そら くは ヘー ゲル にも 示唆 を受 けつ つそ う述 べ る 恒藤 はフ ィヒ テに つづ いて カン トの 実践 哲学 やハ イデ ッガ ーの 存在 論に も批 判的 に論 及し てい る︒ それ では はた して
︑こ こで 言わ れる
﹁否 定的 自由
﹂と は何 なの か︒ それ は恒 藤の 説明 によ れば まさ しく
﹁否 定﹂ を 潜 り抜 けた
﹁自 由﹂ であ る︒ それ は﹁ 存在 ノ中 ニ自 分 ガ死 ス ル 事ニ ヨ リ テ 向フ ヲ 活 カ ス事 ニ ヨ リテ 自 分 が 生キ ル
﹂ も ので あり
︑フ ィヒ テの 概念 を援 用す れば
﹁自 我ト 非我 トガ 限定 シ否 定シ 合フ ノデ ハナ ク 向フ ヲ立 テル 為ニ 自我 ガ 消 エル トイ フ立 場﹂ であ ると され る︒ フィ ヒテ のよ うに 存在 を単 に自 我に よっ て克 服さ れる べき 抵抗 ない し障 碍と す る 立場 は終 局的 には 自我 すな わち 自由 の主 体そ のも のを も否 定し てし まう
︒ま さに
﹁Nicht
│Ich
︹ 非我
︺ノ 否 定ハIch
︹自 我︺ ノ否 定﹂ なの であ る︒ ちな みに 恒藤 は前 年の
﹁把 握
﹂論 文 でも す で に個 的 存 在 性格 が 全 体社 会 に よっ て 制 約 さ れる 観点 を打 ち出 して いた
︒制 約を 受け ると いう こと は主 体の 側か ら把 え返 せば 否定 的に 関わ ると いう こと であ る が
︑恒 藤は こう した 観点 に立 って その 延長 線上 にフ ィヒ テを 討究
︑自 我の 主体 性を 独断 的に 主張 する その 直接 性︑ 無 媒 介性 を批 判し たと いえ よう
!
︒ しか しな がら ここ で注 意を 要す るの は︑ その こと は決 して
︑逆 に自 由が 存在 その もの に単 純に 解消 され てし まう こ と を意 味し たわ けで はな いこ とで ある
︒恒 藤に よれ ば自 我が 存在 を立 てる ため に消 える とい うと き︑ そこ で自 我が そ の うち に死 する 相手 とは 単に 自我 に対 立す るも のと して の非 我で はな く︑ 両者 を超 えて 具体 的に 顕現 する 高次 の世 界 で ある
︒ ア
ク迄Welt
︹ 世界
︺ヲ 活カ サム トシ テソ ノ中 ニ我 ガ死 ンデ 行ク トキ ニソ レハ
Welt
デナ イ
― 309 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
自 己ノ 生命 ノ充 チタWelt
自然 トナ ル 能 産的 自然 ニ化 スル
Selbst
︹ 自己
︺│
│Welt
︵naturanaturata
︹ 所産 的自 然︺
︶
/\
Weltselbst
︹ 世界 自己
︺
︵naturanaturans
︹ 能産 的自 然︺
︶ 恒藤
は所 産的 自然 とし ての 世界
・自 然︵ 存在
︶の うち へと 自己 が自 由の 行使 によ って 否定 的に 関わ ると き︑ 両者 は 相 互媒 介さ れつ つ︑ より 根源 的か つ高 次存 在の 能産 的自 然へ 高ま ると した
︒そ して 重要 なの は︑ こ こに 言う
﹁Weltselbst
︵naturanaturans
︶﹂ が あく ま で 現 行の
﹁Welt
﹂ か らは 区 別 さ れた
︑﹁Selbst
﹂た る 主 体 のコ ミ ッ トに よ っ てそ の 先 に 構 築 され る︑ ある べき 全体 とい う位 置づ けを 受け てい るこ とで ある
︒も ちろ ん︑ この
﹁naturanaturans
﹂と して
の﹁Welt-
selbst
﹂と い う 考 え 方 が 自 然 哲 学 期 の シ ェ リ ン グ か ら の 示 唆 に 基 づ い て い る で あ ろ う こ と は﹁ 交 渉﹂ 論 文 で 恒 藤 が
﹃超 越論 的観 念論 の体 系﹄ に言 及し てい るこ とか らも 彰か で あ るが
︑し か し それ が 没 主 体的 な シ ェリ ン グ のそ れ と は 似 て非 なる もの であ るこ とは すで に拙 稿で も指 摘し てお い た!
︒﹁Schelling
ノ自 由 論 ニ オケ ル 自 然 ソレ ハ 自 由ニre-
duce
︹還 元︺ サレ エナ イモ ノ﹂ と誌 して いる よう に︑ 恒藤 はシ ェリ ング がフ ィヒ テと は対 蹠的 に絶 対 者と し て の﹁ 自 然
﹂を 定立 して 自我 と非 我と の否 定的 媒介 を説 かな い点 に批 判の まな ざし を向 けた
︒そ して その ため にこ そ︑ 主体 に よ る﹁ 否定
﹂と いう
﹁行 為﹂ がこ こに は定 立さ れる ので ある
︒仮 にシ ェリ ング のよ うに すべ ては 絶対 者の 動的 な顕 現 と いう 立場 に立 てば
︑そ こで は自 由な 主体 の存 立す る余 地は 消失 し︑ 勢い 非合 理的 な全 体主 義へ の通 路を 開き かね な
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 310 ―
い 危険 性が 生ま れる
︒事 実︑ シェ リン グか らの 濃厚 な影 響下
︑そ の絶 対者 とし て の﹁ 世界 霊
︵Weltseele
︶﹂ を
﹁民 族
﹂ に スラ イド させ た歴 史法 学の
﹁民 族精 神﹂ とは かよ うな 性格 を色 濃く 持ち
︑結 果︑ ナチ ス法 学に 利用 され ると いう 事 態 を招 いた ので ある
︒し かし 恒藤 の全 体と はそ のよ うな 非合 理な 全体 主義 や民 族主 義イ デオ ロギ ーに 与す るも ので は な く!
︑そ れ は﹁ 普遍 ト シ テノ
︑全 体 ト シ テノ 自 然﹂ で あっ て
︑﹁ 把 握﹂ 論文 に お い ても 主 張 され て い た と お り そ の な かで こそ 個が 活か され ると ころ の普 遍的 な全 体社 会で あっ た︒ 恒藤 は﹁ 全体
﹂に つい て以 下の よう に述 べて いる
︒ 特
殊ヲ ヒロ ゲタ 全体 外 延的 ナ無 限ハIch
︹ 自我
︺ト 対立 セル 全体 ナリ 真 ノ全 体ハ
Ich
ヲフ クム モノ デナ ケレ バナ ラヌ 自 由デ 動カ ムト スルIch
ヲフ クム 全体 ハ 特殊 ヲヒ ロゲ タ全 体ト ハ□
︹﹁ 異 なる
﹂︑ の記 号か
︺ そし
てそ のよ うな 全体 は﹁ 否定
﹂を 媒介 しな けれ ばな らな い︒ 否
定ヲ 媒介 トシ テ反 ツテ 肯定 的ト ナツ タ 存在 トシ テノ
全 体的 ナル
︑普 遍的 ナル 存在 サ レバ
ソ レハ 特殊 的存 在ノ 前ニ アル 存在 デハ ナイ
反 ツテ 特殊 ノ否 定ニ ヨリ 実現 サレ ル存 在也 自 由ノ 側カ ラミ レバ ソレ ハ自 由ソ ノモ ノ也 そし
てそ こへ 到達 する ため にこ そ︑ ここ で主 体の
﹁行 為﹂ が重 要な 役割 を担 うと 恒藤 は言 うの であ る︒
― 311 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
自 由カ ラ出 テ行 為ス ルト イフ 事ハ
存 在ガ 全体 トシ テハ タラ ク事 ナリ
︵中 略︶ 哲 学ノZugang
︹ 入口
・通 路︺ トシ テノ 行為 自 己ノ 決意 デウ ゴキ 出ス トイ フ事 ソ レモ 絶対 ニヨ リハ タラ カシ メル トイ フノ デハ ナラ ヌ 自 己ガ 自己 ヲ決 定ス ルナ リ 自 己ヲ 否定 スル トイ フ事 モ自 己ノ 自由 ナリ
││ 否定 ノ自 由 ソ レモ 存在 スル モノ ニヨ リ規 定サ レル ト考 フ可 キデ ハナ イ 自 由ガ 働 キ 出ス ト イ フ事 ハ 反 ツテ 受 ケ 身 ニナ
リleidend
︹受 動︺ ニ ナル 事 ナ レ ドモ
ソ ノ 決 定ソ ノ モ ノハ 自 由 デ ナ ケレ バナ ラヌ 多少
抽象 的な 説明 だが
︑恒 藤が ここ で言 う﹁ 行為
﹂と は︑ 約言 すれ ば﹁ 自由
﹂が
﹁存 在﹂ に制 約さ れな がら もそ れ を 主 体 的に 引 き 受け つ つ︑ し か もそ れ を 媒介 契 機 とし な が ら より 高 次 の自 由 即 存在 た る 次 元│
﹁Weltselbst
﹂│ へ と 上 昇す るた めの 自由 意志 に基 づく 自己 否定 を意 味し てい ると いえ よう
︒恒 藤は 個人 がそ こに おい て活 きい きと 顕現 す る 全体 を索 めて その モデ ルを 自由 と存 在が 総合 され る能 産的 自然 に設 定し たが
︑し かし その 過程 は︑ 序論 部で もヘ ー ゲ ルを 批判 して いた よう に︑ 絶対 的理 念や 概念 の自 己展 開で もな けれ ば︑ また かか る絶 対者 によ って 他律 的に そう さ せ られ るも ので もな く︑ あく まで 自由 意志 によ る 主体 の
﹁行 為﹂ に よっ て こ そ自 ら 形 成 して ゆ く べき も の で あっ た
︒ そ し て それ は ま た視 点 を 変 えて 観 る なら ば
︑そ こ で言 う
﹁Weltselbst
﹂と は
︑シ ェ リ ング や サ ヴィ ニ ー が言 う よ う に
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 312 ―
そ こ か らす べ て の主 体 や 世 界が 生 成 する 始 源 と し て で は な く︑ か え っ て 主 体 た る﹁Selbst
﹂が
﹁Welt
﹂ を 引 き 受 け
︑ 否 定的 に関 わる
﹁Handeln
﹂を 通じ てこ そ︑ 未 来に 創 造 す べき 真 の 全体 社 会 とし て 把 握 され て い たと 言 う べき で あ ろ う
︒こ うし た思 考は
︑あ る意 味で は実 存主 義に おけ る﹁ アン ガー ジュ マン
﹂を 想わ せる もの があ るが
︑か かる 社会 や 世 界と いっ た﹁ 状況
﹂に 対す る受 動性 から 能動 性へ の主 体的 転換 にこ そ︑ 恒藤 の﹁ 行為
﹂が 現実 に対 して 持つ 最大 の 実 践性 もあ った
︒そ して そこ には また 同時 に︑ 三〇 年代 には 後退 しな がら もし かし 未だ 理想 主義 の観 点か らは 把持 し つ づけ た新 カン ト派 的二 元論 の残 像を も観 取し うる であ ろう
︒す なわ ち︑ 恒藤 はこ こで
﹁我 々ノ 切実 ナル 社会
﹂を 念 頭 に︑ 自ら そこ へと 参入 しつ つ︑
﹁ かく 在る べき もの
﹂と して の 全 体社 会 と そこ へ 到 る ため の 道 程を 原 理 的に 描 き 出 し 提示 する こと に よ り︑
﹁か く 在 る もの
﹂と し て の﹁Welt
﹂︵ 現 行社 会
︶に 応 答︑ そ の変 革 を 志し た の で ある
︒﹁ 否 定 的 自由
﹂と いう
﹁行 為﹂ とは
︑恒 藤に とり
︑そ のた めの まさ に被 投的 投企 にほ かな らな かっ た︒ 以上
︑多 少恒 藤の 民族 概念 その もの の検 討か らは 離れ
︑ノ ート に表 れた 恒藤 の全 体社 会観 なら びに かか る真 の全 体 を 形成 する ため の﹁ 行為
﹂の 概念 につ いて いさ さか 図式 的な がら 関説 して きた 次第 であ るが
︑こ こで 再び 序論 部に 視 点 を戻 し︑ 恒藤 がこ うし た行 為の 主体 を那 辺に 求め たか とい うこ とを 想起 して おく なら ば︑ それ によ り恒 藤が 民族 に 何 を背 負わ せ期 待し たか もよ り鮮 明と なる であ ろう
︒つ まり 恒藤 はこ こで
︑歴 史を 合理 的方 向へ と動 かし
︑如 上の あ る べき 全体 社会 を創 造す るた めの 歴史 的行 為主 体と して こそ
﹁民 族﹂ の意 義 を 積 極的 に 評 価し た の であ る!
︒恒 藤 が 全 体社 会探 求の 論脈 にお いて
﹁handelndesIndividuum
トシ テノallg.I.
タ ル民 族精 神﹂ とい うと き︑ それ は歴 史法 学 の よう に全 体社 会の 始源 に民 族を 位置 づけ たり
︑ヘ ーゲ ルの ごと く全 体社 会に 国家 を同 定す るこ とを 意味 した ので は な く"
︑む し ろ合 理 的 な普 遍 的 全 体社 会 を 理想 と し て仰 ぎ つ つ︑ そ こへ 至 る ため の 自 由 な 行 為 主 体
│﹁Selbst
﹂│ の 側 に﹁ 民族
﹂を みる こと にほ かな らな かっ た︒ それ はこ こ では 未 だ トル ソ ー の段 階 に 留 まっ て い ると は い う もの の
︑
― 313 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位
し かし
︑こ こへ きて 恒藤 の民 族概 念は
︑﹁ 行 為﹂ の考 覈を 経 る なか 普 遍 的全 体 社 会 との 関 係 が明 確 化︑ 全 体主 義 的 な 民 族理 論と 差異 化が 図ら れる とと もに
︑彼 の理 想主 義的 な全 体社 会観 のう ちへ と位 置づ けを 獲得 する こと とな った の で あ る︒ そ れは 総 じ て︑
﹁民 族
﹂が 恒 藤 の な か で 確 た る 理 論 的 根 拠 づ け を 受 け つ つ
︑ま さ し く そ の 理 想 主 義 を 担 う
﹁主 体﹂ とし て立 ち上 げら れた こと を意 味し てい た︒ 小
結 小稿
では 一九 三〇 年代 初頭
︑従 来恒 藤が 世界 主義 の立 場ゆ えに 消極 的に しか 評価 しえ なか った
﹁民 族﹂ を︑ 末期 資 本 主義 なら びに 近代 個人 主義 世界 像の 止揚 を目 指す 営み のな かで 再評 価す るに 至る
︑そ の論 理的 プロ セス を追 証し て き た︒ そこ では 敢え て視 軸を 抽象 的場 面へ と据 えて 追尋 した 次第 であ るが
︑し かし それ によ り恒 藤の
﹁民 族﹂ 概念 が 原 理的 には いか なる 文脈 にお いて 定立 され てい った のか もほ ぼ彰 かと なっ たこ とで あろ う︒ 恒藤 は現 行の 歴史 的世 界
︵現 実社 会︶ に制 約を 被り つつ も︑ しか し自 らあ るべ き全 体社 会 を 目指 し て そこ へ と 内 在的 に ア ンガ ー ジ ェし つ づ け る 変革 の主 体と して こそ 歴史 的集 団た る民 族を 評価 した ので ある
︒そ して こう した 実践 的意 識に 裏打 ちさ れた 理想 主 義 の枠 組み は三
〇年 代後 半期 にも 受け 継が れて 一層 具体 的に 展開 され
︑そ こで は民 族や 行為 とい った 概念 もま た︑ 独 自 の役 割を 付与 され てよ り積 極的 に位 置づ けら れて ゆく こと とな る!
︒ かよ うな 後 半 期 以降 に お ける 展 相 の詳 述 に つ い ては 他日 に譲 るが
︑し かし たと えば 日中 戦争 期︑ ファ シズ ムや 帝国 主義 を破 砕し てあ るべ き世 界秩 序を 創造 する 主 体 的役 割を 抗日 ナシ ョナ リズ ムに 見出 した とい うそ の認 識も また
︑そ れは 前葉 期に 形成 され た如 上の 思想 的素 地の う え にこ そは じめ て可 能に なっ たも のと みる こと もで きよ う︒ いず れに せよ
︑時 代と の対 峙の なか で獲 得さ れた かか る
恒藤法理学における「民族」概念の再定位 ― 314 ―
認 識こ そが
︑以 後恒 藤を して 戦後 に至 るま で現 実の
﹁民 族﹂ を積 極的 に評 価さ せ︑ ひい ては 恒藤 言う とこ ろの
﹁合 理 的 社会
﹂へ と向 けた
﹁進 歩﹂ の主 体と して ナシ ョナ ルな もの を再 定位 させ るこ とと なる
︑理 論的 基盤 を準 備し たの で あ る︒
! 註 た と え ば
︑ 広 川 禎 秀
﹁ 恒 藤 恭 の 時 代 認 識 と 進 歩 へ の 希 願
﹂﹃ 大 阪 市 立 大 学 史 紀 要
﹄ 二
〇 一 三 年
︑ 同
﹁ 恒 藤 恭 の 社 会 進 歩 の 思 想 と 一 九 二
〇 年 代 認 識
﹂﹃ 人 文 研 究
﹄ 二
〇
〇
〇 年
︵ の ち
︑ 同
﹃ 恒 藤 恭 の 思 想 史 的 研 究
│ 戦 後 民 主 主 義
・ 平 和 主 義 を 準 備 し た 思 想
│
﹄ 大 月 書 店
︑ 二
〇
〇 四 年
︑ 第 二 章 に 所 収
︶︑ 天 野 和 夫
﹁ 恒 藤 法 哲 学 と 唯 物 史 観
│ 没 後 三 十 年 に 寄 せ て
│
﹂﹃ 立 命 館 法 学
﹄ 一 九 九 七 年 一
〇 月 ほ か
︒
"
た だ し
︑ 戦 後 に お け る 恒 藤 の 積 極 的 な 民 族 評 価 に つ い て は 広 川 禎 秀 氏 が 彰 か に し て い る
︵ 広 川
﹁ 恒 藤 恭 と 平 和 問 題 談 話 会
│ 戦 後 平 和 主 義 思 想 の 源 流
│
﹂ 鈴 木 良 他 編
﹃ 現 代 に 甦 る 知 識 人 た ち
﹄ 世 界 思 想 社
︑ 二
〇
〇 五 年
︑ 同
﹁ 恒 藤 恭 と 平 和 問 題 談 話 会
│ 時 代 の 傍 観 を 拒 否 し た 法 哲 学 者
│
﹂ 同 志 社 大 学 人 文 科 学 研 究 所 編
﹃ 戦 後 日 本 に お け る 行 動 す る 知 識 人
│ 私 た ち は 何 を 学 ぶ こ と が で き る か
│
﹄ 二
〇 一 二 年
︑ 同
︑ 前 掲
﹁ 恒 藤 恭 の 時 代 認 識 と 進 歩 へ の 希 願
﹂︶
︒
# 恒 藤 恭
﹁ 世 界 民 の 愉 悦 と 悲 哀
﹂﹃ 改 造
﹄ 一 九 二 一 年 六 月
︑ 六 七 頁
︒
$ 広 川
︑ 前 掲 書
︑ 二 一 九
│ 二 二 六 頁
︒
% 広 川
︑ 前 掲
﹁ 恒 藤 恭 の 社 会 進 歩 の 思 想 と 一 九 二
〇 年 代 認 識
﹂ 参 照
︒
&
恒 藤 恭
﹁ 法 的 範 疇 と し て の 人 格 者 概 念
﹂﹃ 法 的 人 格 者 の 理 論
﹄ 弘 文 堂 書 店
︑ 一 九 三 六 年
︵ 初 出 は
﹃ 法 学 論 叢
﹄ 一 九 三
〇 年
︑ 七
・ 九
・ 一 二 月
︶︑ 一 四 六
│ 一 四 七 頁
︒ ' こ の 点 に つ い て は
︑ 広 川
︑ 前 掲 書
︑ 第 五 章 が 詳 し く 論 じ て い る た め
︑ そ ち ら を 参 観 さ れ た い
︒ ( 同 前
︑ 第 五 章 参 照
︒ ) 同 前
︑ 二 五 四 頁
︒
* 恒 藤 恭
﹁ 法 の 本 質 と そ の 把 握 方 法
│
︵ 併 せ て
︶ 法 と 政 治 と 国 家 と の 相 関 性 に つ い て
│
﹂﹃ 法 の 基 本 問 題
﹄ 岩 波 書 店
︑ 一 九 三 六 年
︵ 初 出 は
﹃ 法 学 論 叢
﹄ 一 九 三 二 年
︑ 一
・ 三
・ 五 月
︶︑ 六 三 頁
︒
― 315 ― 恒藤法理学における「民族」概念の再定位