スピノザにおける観念形成と行為者因果(スピノザ における観念とコナトゥス・そのII)
著者 木島 泰三
出版者 法政大学文学部
雑誌名 法政大学文学部紀要
巻 80
ページ 47‑63
発行年 2020‑03‑13
URL http://doi.org/10.15002/00023064
「スピノザにおける観念とコナトゥス・その I」である前稿「スピノザの決定論的な「判断の意志説」」
(木島 2019 年)では,スピノザがデカルトの「判断の意志説」を全否定したわけではなく,知性と意志 の同一性に基づく,決定論的な判断の意志説を支持していたことを示した。だが前稿の範囲では,認識 の局面での「判断」と,欲求や欲望と並ぶ能力としての「意志」とが人間の経験においてどのように重 なり合うのかの十分明瞭な描像は提出していなかった。本稿はスピノザにおける認識と欲求,あるいは 観念とコナトゥスの重なり合いをより詳しく注視し,スピノザにおける「肯定」概念の位置づけを明確 にすることにより,上述の「判断」と「意志」の重なり合いをも明らかにする。また本稿はこの課題 を,筆者がこれまで提起してきた,スピノザの因果理解を「決定論的行為者因果説」として位置づける 解釈に依拠して進める。さらに言えば本稿は,このスピノザの因果理解の解釈を,欲求や行為の局面か ら,観念と認識の局面へと拡張する端緒でもある。
以下,第 1 節では本稿が依拠するスピノザの因果理論の概略を提示し,第 2 節では観念の本質が「肯 定」に存することを確認し,そこから「人間精神は人間身体の観念である」というテーゼの経験的意味 を明らかにする。第 3 節では「形而上学的思想」の人間精神論を手がかりに,スピノザにおける「肯 定」が「観念形成」としての「思惟的行為」であることを示し,第 1 節で素描したスピノザの因果性と 行為の理論をそこに適用して,精神の本質としての「肯定」と精神が抱く諸観念の本質としての「肯 定」のつながりを明らかにする。第 4 節では残された課題の所在を示す。
1.スピノザの因果性および行為者性に関する本稿の理解の概略
詳細は別稿に譲るが(木島 2011 年,木島 2012 年,木島 2013 年),本稿が前提にするのは,スピノザ における「変状」概念の一義性,および,そこから導かれる,スピノザにおける「変状の内属」と作用 因的な因果としての「内在的因果」との重なり合い,という解釈である。すなわちまず,スピノザによ れば人間を含む個物は,神あるいは自然と呼ばれる唯一実体に内属する変状としての「様態」であり,
また人間身体の状態や行為,および人間精神に属する知覚,欲求,感情などはそれぞれ人間の身体およ び精神を主体とし,それらに内属する変状であって,ここにおける「変状の内属」は一義的に解され
スピノザにおける観念形成と行為者因果
(スピノザにおける観念とコナトゥス・その II)
木 島 泰 三
る。これが変状概念の一義性である。さらに,神的実体においても,個物においても,変状を内属させ る主体は「内在的原因(causaimmanens)」と呼ばれる作用因であると解される。これが内属と内在的 因果の重なり合いである。但し,無限実体は万物の内在的原因であるのに対し,有限な個物は「他動的 原因(causatransiens)」としての他の個物によって決定されない限り,自己に内属する変状の内在的 原因として働くことができない。このように他動的原因との協働において自らの内部に変状を産出し維 持する個物は,引き続きその変状によって自己の外部の個物に内属する変状を産出する他動的原因とし て働き,このようにして個物が個物を変状する連鎖が無限に続く。このような因果性は因果の基本単位 を事物(神および個物)の因果的な力に据えている点で,現在「行為者因果」や「実体因果」と呼ばれ るタイプの因果理解に分類される(cf.Griffith2017)。
この後第 3 節で,このように理解される行為者因果の構造が,スピノザの観念と判断の理論にも見い だされることを明らかにする。だがその前に,観念および精神の本質についての解明を行い,前稿(木 島 2019 年)の結論をさらに掘り下げておく必要がある。
2.観念であるとはどのようなことか?
―観念の本質と精神の本質(1)本節表題の「観念であるとはどのようなことか?」という問いはネーゲルの有名な論文(ネーゲル 1989 年)にちなんでいる。スピノザは「人間精神は人間身体の観念である」(219Dem;cf.2P13)とい うテーゼを掲げるが,「観念であること」がどのような経験的内実に対応するのか(Whatisitlike?),
という問いは,ある意味で「コウモリであるとはどのようなことか?」という問いよりもさらに想像し がたい事柄かもしれない。本節はこの問いへの明確な答えを与える。
・「観念をもつ」ことと「観念である」ことの差異
スピノザは,「人間精神が人間身体の観念である」ことを,「人間精神が人間身体の観念をもつ」こと から慎重に区別する(2P19Dem)。人間精神はたしかに様々な観念,すなわち様々な「身体変状の観念」
を所有する。しかし人間精神は人間身体の観念として存在しているのであり,人間精神が人間身体の観 念を所有するということではない。但し,人間精神が身体変状の観念を所有するのと同じように,人間 身体の観念を所有している,と言い得る認識主体は存在する。すなわち無限である限りの神的無限知 性,および神的無限知性の中の「多くの個物の観念に変状したと考察される限りの神」(2P19Dem)が 人間身体の観念を所有している,と述べることは妥当である。
身体変状,すなわち身体を主体としてそれに内属する変状と,精神の変状,すなわち精神を主体とし てそれに内属する変状とは,平行論的な対応物である。ここからスピノザが時に「身体変状の観念」を
「精神の変状」とも呼ぶこと(e.g.3P52S)が理解できる。第 1 節で述べた個物と変状の関係に当てはめ れば,身体と身体変状の間には内属関係が成り立ち,精神と精神の変状の間にも内属関係が成り立つ が,精神は身体の観念なのであるから,「精神の変状」と「身体変状の観念」は同じものを指すことに
なるのである。さらに言えば,身体と精神,および,身体変状と身体変状の観念(または精神の変状)
は,それぞれ延長と思惟という別の属性において表現された同一のものである(2P7S)。
このように精神が 1 つの観念であるなら,観念一般の本質についての考察は精神のあり方についての 手がかりになり得る。次にそれを検討しよう。
・観念の本質としての肯定
『エチカ』第 2 部終盤近くの,2P43S(GII,p.124,ll.9-11),2P48S(GII,p.130,ll.5-11),2P49S(GII, p.132,ll.4-12)において,スピノザは観念を「画板上の無言の絵[picturasintabulamutas]」(または
「絵」)と見なす見方を退け,観念とはむしろ「思惟様態」(2P43S)であり,「理解することそのもの」
(ibid.)であり,「思惟の概念[cogitationisconceptus]」(2P48S)であることを力説する。そしてこれ らの思想の基礎については次のように述べられる。
精神の内に,観念である限りでの観念が包含している肯定や否定以外のそれが与えられているかど うかを探求すべきであると私は言う。これについては,思惟を絵と化してしまわぬよう,続く定理
[2P49]とこの部の定義 3[2Def3]を見られたい。(2P48S)
スピノザが参照を求める定義は次の通りである。
観念について私が解するのは精神が思惟する事物[rescogitans]であるということのゆえに精神 が形成する,精神の概念[Mentisconceptum]である。
説明 私は知覚[perceptionem]ではなくむしろ概念と言う。なぜなら,知覚という名は精神が 対象によって受動を蒙ることを示すように思われる。しかし概念とは精神の能動を表現するように 思われるからである。(2Def3)
だがこの観念の定義は,我々の見るところ,この段階ではその含意を十分明らかにしていない。それが 明確に展開されるのは,上で引いた 2P48S でこの定義と共に参照されていた,次の定理においてであ る,と我々は考えている。
精神の内に,観念である限りの観念が包含する意志作用,すなわち肯定や否定[volitiosive affirmatioetnegatio]以外のそれは与えられていない。(2P49)
この定理は先の 2P48S でも(疑問文の形で)ほぼそのまま言われていたものだが,詳細に見れば,次 の 2 つの主張を含んでいる。
2P49-a:観念である限りの観念は肯定や否定を包含している
2P49-b:精神の内には 2P49-a によって与えられている以外の肯定や否定の源泉(デカルトの意志 のような能力)は存在しない
ところが,2P49 の証明(2P49Dem)を見る限り,2P49-a を主題にした積極的な証明はなされておらず,
2P49-a はむしろ所与として前提されているように見える。では 2P49-a がどこから与えられたのかと考 えるとき,恐らくそれは 2Def3 によってであろう,と思われる。というのもまず,先に引いた 2P48S において,スピノザは 2P49 に当たる主張を 2Def3 にも関連づけていた。また,2P48S の引用箇所のす ぐ後でスピノザは,「絵」と対比される,自己の理解する「観念」とは「思惟の概念」であるという補 足を与える。これはやはり 2P49 に当たる主張の説明としてなされているが,同時に,2Def3 で「精神 の能動」を示す表現として述べられた「精神の概念」という用語法との結びつきをも強く示唆する。こ のような一群のパラフレーズを踏まえ,2P49 の明示的な証明内容が 2P49-b であることを考慮するなら,
その前提となる 2P49-a は 2Def3 がすでに与えていたとスピノザが考えていた,という推定は一定の説 得力をもつ。つまりスピノザは「観念である限りの観念は肯定や否定を包含する」という表現により,
2Def3の観念の定義の,より明示的な意味を展開したのである。
また,ここで言う「観念の定義」とはすなわち観念の本質を問うことである。そしてスピノザによれ ば「事物」と「その本質」の関係は以下のようなものであった。
ある事物の本質に属するものとは,それが与えられることによってその事物が必然的に定立され,
それが除去されることによってその事物が取り除かれるもの,あるいは,それなしにはその事物 が,反対にその事物なしにはそれが,在ることも概念されることもできないようなものである,と 私は言う。(2Def2)
そして「観念」と「肯定」がこのような関係にあることは,まさにこの 2Def2 に訴えながら進む 2P49Dem の下記の一節において明示的に述べられている(2)。
この肯定は三角形の概念,あるいは観念を包含しており,これはすなわち,三角形の観念なしには 概念されることができないということである。というのも,概念 A は B を包含せねばならない,
と私が言うとしたらそれは,A は B なしには概念され得ない,というのと同じだからである。次 にこの肯定もまた(2Ax3 により)三角形の観念なしには在ることができない。ゆえにこの肯定は 三角形の観念なしには在ることも概念されることもできない。さらにこの三角形の観念は,3 つの 角が二直角に等しくあるということと同じ肯定を包含しているのでなければならない。ゆえにまた 反対にこの三角形の観念はこの肯定なしには存在することも概念されることもできない。従ってま た(2Def2により)この肯定は三角形の観念の本質に属し,そのもの〔本質〕以外の何ものでもな
い。またこの意志作用について我々が言ってきたことは(我々はそれを任意に採ってきたのである から),あらゆる意志作用,すなわち,観念に他ならないところのものについて言われ得る。
(2P49Dem,強調引用者)
従って「観念である限りでの観念は肯定や否定を包含する」という規定こそ,観念の本質を積極的に捉 える,その本質規定である。さらに,スピノザにおいて「自己否定」や「否定のための否定」はありえ ず(3P4),「否定」とは,ある観念が包含する肯定による他の観念の否定をしか意味しないことを踏ま えるなら,この規定をさらに端的に,「観念の本質は肯定である」と言い換えることが許されるであろ う。
・精神の本質としての肯定=精神のコナトゥス
観念に関する以上のような本質規定は普遍的なものとして導かれている以上,精神の内部に形成され る身体変状の観念についても,身体の観念として存在している精神それ自体についても,等しく当ては まるのでなければならない。そしてこのことを念頭に置いて次の一節を読むとき,我々は「観念である とはどのようなことか?」という問いに対する,経験的にもかなり明瞭な回答を得る。
……(2P11 と P13 により)精神の本質を構成する第一のものは現実に現実存在する身体の観念な のであるから,我々の精神のコナトゥスの第一にして筆頭のものは(3),我々の身体の現実存在の肯 定である。(3P10Dem;cf.3AGD,GII,p.204,ll.18-19)
ここでスピノザは第 1 に,万物の現実的本質としてのコナトゥス(3P7)が,個物としての精神にも属 する,という点を明らかに前提している。また第 2 に,「精神のコナトゥスの第一にして筆頭のもの」
として「身体の現実存在の肯定」を挙げる。しかるに「肯定」とは観念の本質であり,精神とは身体の 観念なのであった。それゆえ,観念である限りの我々は,「身体の現実存在の肯定」をその本質とする 観念であり,そしてそのような我々自身の本質を,「精神のコナトゥス」として見いだす,と言うこと ができよう。
こ の「 精 神 の コ ナ ト ゥ ス 」 は,3P9S に お い て,「 意 志[voluntas]」「 欲 求[appetitus]」「 欲 望
[cupiditas]」などと呼ばれる心的経験と同一視されている。つまり,我々が観念として現実存在し行 為するとは,身体の現実存在を肯定しようと努める精神の働きにおいて経験される,ということを内容 的には意味する。これこそがいわば我々が観念として現実存在し,あるいは観念として生きるというこ との経験的な意味なのであり,スピノザはそのようなものとして「身体の観念」という用語を捉えよう としていた,ということである。
・さらなる問い―観念をもつとは何であるか?
この結論は,前稿(木島 2019 年)で得た知見をさらに深めるものである。というのも我々は前稿に おいて,デカルトの判断論との対照により,コナトゥスとしての「意志」と,判断において見いだされ る「意志」との一義性を,形式的にではあれ導き出したのであるが,今や前者の「コナトゥス=意志」
と,後者の「判断=意志」が,共に「肯定」の概念に包括されることを見いだしたのだからである。
しかしながら我々は未だ,コナトゥスとして経験される「観念としての我々」の本質を構成する「肯 定」と,我々が自分自身の内部に見いだす諸観念の本質を構成する「肯定」との同質性の意味を十分に は把握できていない。それゆえ次に,以上の理解を踏まえた上で,改めて我々が精神内の観念の内に見 いだす肯定を考察し,それと精神のコナトゥスとしての肯定の間の,経験的にも理解し得る結びつきを 明らかにせねばならない。
この探究は,本節が表題に掲げた「観念であるとはどのようなことか?」という,経験的内実への問 いとは逆向きの問いとしての,「観念をもつとは何であるか?」という,概念規定への問いとなるであ ろう。というのも「観念をもつこと」に関しては,それが「どのようなことか(Whatisitlike?)」と いう経験的内実は,たとえ明晰にではなくとも,たしかに疑問の余地なく我々に与えられているのであ り,現在必要なのはむしろ,スピノザの存在論と観念の理論が,この経験にどのような位置づけを与え るのか,つまりそれが「何であるか(Whatisit?)」という問いかけだからである。但し無論,この 2 つの問いかけは別個のものではなく,相互に参照し合い,深め合っていく関係にある。
3.観念形成としての肯定
―「形而上学的思想」の人間精神論との比較・『エチカ』の観念の定義の再検討
この問いに向かうために,先に検討した,第 2 部冒頭の観念の定義に改めて立ち戻りたい。再度引用 すれば,それは下記のような定義であった。
観念について私が解するのは精神が思惟する事物であるということのゆえに精神が形成する,精神 の概念である。
説明 私は知覚ではなくむしろ概念と言う。なぜなら,知覚という名は精神が対象によって受動を 蒙ることを示すように思われる。しかし概念とは精神の能動を表現するように思われるからであ る。(2Def3)
先ほど示したように,この定義には,『エチカ』第 2 部終盤において明らかになる「観念である限りの 観念は肯定(や否定)を包含する」という思想が含意されていた。我々はこの含意を手がかりにして
「精神の本質」としてのコナトゥス=肯定に行き着いたのであった。だがここで我々はむしろ,この定
義のいわば表層にこそ目を向けたい。あるいは表層というより,必ずしも『エチカ』の核心に向かうわ けではないような,より広い概念の網の目の中でこの定義を捉える試みを行いたい。
そこで,こう問いかけてみよう―スピノザはなぜ,この段階で,この定義のより明確な定式を表 立って述べなかったのか? この問いかけへの穏当な回答は,この箇所がまさに論証の出発点に置かれ た「定義」であり,広い範囲の読者,あるいは最低限,最も主要な読者と思われるデカルト主義者の読 者にも同意できるものである必要があった,という事情に求められよう(4)。
この一般的な考察から,1 つの方針を引き出すことができる。スピノザの真意を明確に表現した 2P49 にではなく,この定義に見いだされる定式や用語法を,すでに前稿(木島 2019 年)で対比を行っ たデカルト主義の思想を再度参照しつつ検討する,というアプローチである。
・デカルトの「肯定または否定」との差異
まず,デカルトが考える意志作用としての肯定 / 否定と,スピノザにおけるそれにいかなる差異があ るのかを確認しておこう。
デカルトにとって判断とは,知性において単純把持された観念を対象とした意志の働きかけである。
つまり,意志あるいは精神の前に差し出された観念に対し,承認,否認,判断保留といった態度を意志 が選択する,あるいは精神が意志によって選択する,というのがデカルトにおける「肯定と否定」のあ り方である。
しかし前稿(木島 2019 年)で明らかにしたように,「判断の二段階説」を退け,「判断の二側面説」
を支持していたスピノザにとって,判断を「承認と否認」というデカルト的な仕方で捉えることはもは やできない。つまりスピノザは,まず知性が観念の単純把持を行い,次いで意志が観念に対して承認や 否認を加えるという二段階モデルを否定し,むしろそこに意志=知性という二側面をもつ単一の心的行 為を見いだしているはずだからである(5)。では,スピノザにおける「肯定と否定」はいかに解されるべ きだろうか。
・「形而上学的思想」の人間精神論
2Def3 を視野に入れつつこのような問いかけをするとき,有益な補助線となってくれるテキストがあ る。スピノザがデカルト哲学を解説した『デカルトの哲学原理』とその付録「形而上学的思想」であ る。ここでは特に後者に注目したい。
「形而上学的思想」は,スピノザがスピノザなりに整理したデカルト哲学の立場からスコラ哲学の諸 概念を考察する,という(現代の解釈者にとっては)複雑な構造の著述であり,そこにはスピノザ自身 によるデカルト主義の再構築,再定式化が見いだされる。そして,その中の「意志」に関する叙述は,
上記 2Def3 がデカルト主義者を意識しているのではないかという仮定の下で読み進めるとき,2Def3 の 含意について,それゆえまた観念が包含する肯定の働きに関するスピノザ自身の概念様式について,有 効な解釈枠組みを提供してくれるのである。該当箇所を引用しよう。
人間精神[mentemhumanam]は思惟する事物[remcogitantem]である,と我々は言ったが,
そこから帰結するのは,人間精神はその本性のみから,それ自身のみで見られた場合でも,ある行 為をなし得る[aliquidagereposse]ということ,すなわち,肯定と否定をなし得る,ということ である。これらの思惟は,精神の外部の諸事物が定立されることによって決定されるか,精神のみ によって決定されるかのいずれかである。というのも,精神もまた,それの思惟する本質から多く の思惟的行為[actionescogitativae]が帰結し[sequi]得るし,かつ帰結せねばならないところ の実体なのだからである。しかるに,人間精神以外のいかなる原因も己の原因とは認めないところ の,それらの思惟的行為は,意志作用[volitiones]と呼ばれる。他方,このような諸行為を産出 するための十分な原因であると概念される限りでの人間精神は,意志[voluntas]と呼ばれる(6)。
(CMII:12,GI,p.277,ll.19-27)
……もし誰かが,魂[anima]がなぜこれまたはあれを意志し,これまたはあれを意志しないのか と問うならば,我々はこう答える。すなわち,それは魂が思惟する事物[rescogitans]であるが ゆえに,すなわち,自己の本性によって意志しまた拒み[nolendi],肯定しまた否定する力をもつ 事物であるがゆえにであると。というのも,思惟する事物とはこういうものであるのだからであ る。(ibid.GI,p.278,ll.12-16)
ここでスピノザは,スピノザ自身の実体および精神の概念をベースに,それをデカルト主義の説に合 わせて適宜組み替えた理論を提示していると解することができる。すなわちまず,デカルトによれば人 間精神とは有限思惟実体である。それゆえ,それはスピノザの唯一実体同様,自己原因あるいは自由原 因(1P17C2)として,ただ自らだけを根拠に行為する。さらに言えばそれはスピノザの実体同様(cf.
1P16),汲み尽くせない能産性を本性としている(「その思惟する本質から多くの思惟的行為が帰結し 得るし,かつ帰結せねばならないところの実体」)。しかしまたそこで言う「自由」の意味はスピノザ本 来の立場とは大いに異なる。すなわちスピノザ主義における自由とは,この文脈では自己の本性の法則 ないし自己の本性の必然性に則って,肯定か否定かのいずれかただ1つの心的行為をなすことに存して いるが,他方でここで示されたデカルト的自由は,肯定または否定のいずれの心的行為をもなし得ると いう選択能力に存するのだからである(7)。
また,「意志[voluntas]」を「〔意志作用を〕生ずるための十分な原因として見られる限りにおいて の人間精神」と規定している点は,前稿(木島 2019 年)で主題とした,『エチカ』における「意志と知 性の同一性」という思想(2P49C)の予示となり得る。というのも,スピノザはここで,人間精神が
「ある行為をなし得ること[aliquidagereposse]」の内実を「肯定と否定をなし得ること」と規定して いるからである(GI,p.277,ll.21-22)。つまり「形而上学的思想」の有限思惟実体としての人間精神に とって,「思惟すること」ないし「思惟的行為」は,「肯定しまた否定すること」にすべて帰着するもの と見られている(8)。この点で「形而上学的思想」の判断論は,受動的能力としての知性あるいは知覚に よって獲得した観念に,意志が承認ないし否認を加える,というデカルト的な「知性と意志の二段階
説」から,スピノザ独自の「知性と意志の二側面説」へと移行しているようにも思われるのである(9)。
・このテキストと2Def3の比較
以上のテキストを念頭に置きながら 2Def3 に戻ると,我々はいくつかのキイワードが重なり合って いることを見いだす。
まずスピノザは 2Def3 で「精神が思惟する事物[rescogitans]であるということのゆえに精神が形 成する,精神の概念」と述べる。ここで「思惟する事物」という表現は「思惟実体」と,(スピノザ的 な意味での,思惟する個体を指すものとしての)「思惟様態」とを共に含む一般的な表現である。それ ゆえ思惟様態である『エチカ』の人間精神に対しても,先の「形而上学的思想」からの引用箇所中の次 の一節は,ある限定の下で成り立つはずである。
……もし誰かが,魂がなぜこれまたはあれを意志し,これまたはあれを意志しないのかと問うなら ば,我々はこう答える。すなわち,それは魂が思惟する事物であるがゆえに,すなわち,自己の本 性によって意志しまた拒み,肯定しまた否定する力をもつ事物であるがゆえにであると。(ibid.)
まず『エチカ』の体系においても,個々の様態は万物の原因たる神の力を表現し,その点において神の 能産性を受け継いでいる。つまり「その本性からある結果が帰結しないようなものは何も存在しない」
(1P36)。それゆえ,『エチカ』における「思惟する事物」からも必然的に思惟が帰結すると言い得る。
また『エチカ』における実体と様態との差異は,その産出作用が自己原因的なそれであるか否か,とい う点にある。実体が自分自身のみを根拠に現実存在し行為をなすのに対し,有限様態は同じ属性の他の 有限様態に他動的に決定されない限りは現実存在も行為もなし得ない(1P28,cf.2P48Dem)。しかしそ の限定の下で,「思惟する事物」である精神は,スピノザ的実体や「形而上学的思想」における有限思 惟実体同様に,「思惟する事物であるがゆえに」必然的に諸結果,すなわち諸思惟を産出する。またそ れは,スピノザ的実体と同じく,かつデカルト的思惟実体とは異なり,選択の自由によってではなく,
必然的な法則に従ってその産出を行う。
このような一致を前提して,2Def3 と「形而上学的思想」の引用した箇所を対照してみよう。我々は これらにおいて多くの共通した表現や思想を見いだすが,ここで改めて注目すべきは,2Def3 では,こ れらの箇所で「思惟する」,「肯定しまた否定する」,「本質から思惟的行為が帰結する」と言われていた 事柄のまた別の言い換えとして「それ〔精神の概念=観念〕を精神が形成する[quemMensformat]」
という述語が用いられている点である。しかも同定義「説明」によればここで言われる「観念の形成」
とは「精神の受動」ではなく「精神の能動」と見なされるべき働きである。この最後の「受動と能動」
は,「形而上学的思想」と『エチカ』とでその意味内容を異にしているが(10),それでも両者における
「能動」すなわち agere または actio の意味は,共に積極的な「思惟的行為」ないし「精神の行為」を 指す,という程度には重なり合っている。
精神が「観念を形成する」というこの述語は,これまで考察してきたスピノザの思想をまさに的確に 要約する表現である。すなわち,『エチカ』における「肯定と否定」は,知性によって与えられた観念 に対する,意志による承認や否認の心的行為ではなく,むしろ肯定的観念や否定的観念それ自体を精神 が形成する心的行為である,と解される。ゆえにそれは観念を形成するという点で「知性」の働きであ ると共に,肯定や否定を行うという点ではデカルトが「意志」に帰した働きをも担うことになる。「観 念形成」と「肯定や否定」,認識と意志作用はまさに同じ一つのものなのであり,またそのすべては
「思惟する事物の行為」ないし「思惟的行為」である,ということになる。
ここで我々はスピノザの言う「意志と知性の同一性」のより明確な内実を取り出せたと言えよう。つ まり,思惟する事物がなす「思惟的行為」のすべてが,観念形成としての肯定(や否定)である,とい うことである。では,この「観念形成」はいかになされるのか。それを次に問わねばならない。
・「判断の二段階説」から「判断の二側面説」への移行に伴う意志の機能の変化
再度確認しておけば,デカルトの「判断の二段階説」における「精神の能動」は「意志による同意」
であり,すなわち単に知性によってすでに獲得された観念に一定の態度をとることに留まる。それゆえ この枠組みの中にそのまま,観念形成そのものを「精神の能動」として位置づける理論をはめ込む場 合,それは意志あるいは精神の能動的力に,創造的な働きを過度に帰しすぎる理論となるように思われ る。つまり,それは単に所与の観念に承認,否認,判断保留を加える力にとどまらず,観念ないし知覚 そのものを創始する力を「意志」に付与するような理論となりそうである(11)。
しかしながら,理論の全体に目を向ければ,スピノザによるデカルトの修正は,意志が知性の領域を 取り込んで拡張したという単純な変化ではないことが分かるのであり,それを見ていこう。
・観念形成=肯定という働きの「形而上学的思想」での位置づけ
まず,「形而上学的思想」で提示されているデカルト的,ないし準デカルト的な理論について見てみ よう。ここでスピノザは「これらの思惟〔肯定または否定〕は,精神の外部の諸事物が定立されること によって決定されるか,精神のみによって決定されるかのいずれかである」と述べる。これはデカルト のいわゆる心身相互作用説を受け入れ,精神が肯定否定の思惟を「精神のみによって決定する」すなわ ち精神が「意志」と呼ばれるものとして能動的に思惟的行為を行うケースだけでなく,精神による肯定 否定の思惟が「精神の外部の諸事物が定立されることによって決定される」ケースを率直に認めてい る。デカルトは『情念論』第 17 節や第 19 節で知覚を「受動」と定義した上で,その大部分が物体を原 因とすると述べており(ATXI,pp.342-343),このケースはそれに相当するだろう。例えばライプニッ ツの有限思惟実体つまりモナドであれば,たとえ微小表象としてであれ,宇宙全体を自己の内的原理に よって表出するのであり,つまりここでの分類で言えばまさに「能動」であるような観念形成を宇宙全 体の事物について行うのであるが(「モナドロジー」7,11,15,61-61,ライプニッツ 2019 年,pp.15,18, 21,54-56),スピノザが描くデカルト的有限思惟実体は外的諸事物からの被決定としての「受動」に
よって思惟(肯定ないし否定)を与えられ得るのであり,さらに言えばそれが有する思惟の大半はこの ような受動的思惟であって,精神が「意志」つまり能動的な思惟的行為として行う肯定または否定はご く一握りであるはずである(12)。
とはいえ,スピノザが提示する準デカルト主義においては,このような稀なる能動的思惟としての
「意志」は,単に知性から与えられる観念への承認や否認ではなく,自ら肯定的,ないし否定的な観念 そのものを形成する働きであり,恐らく明晰判明な観念の形成という限られた事例に関しては,我々が
「意志による知性の働きの吸収または増大」と呼んだものを想定できる。但し,そこに成り立つのは恐 らく「第 4 省察」で言われる,明晰判明な観念への必然的な肯定における,「傾けば傾くだけそれだけ 一層自由」(ATVII,pp.57-58)と呼ばれる意志と知性のあり方であって,そこにおいては意志が知性 の働きを取り込むとも,知性が意志の働きを取り込むとも言えるような仕方で意志と知性がまさに一致 するのであり,これは単純な意志の機能の肥大とは異なるとは言えよう。とはいえ,この局面での精神 はデカルト的な意味での「自由な」能動的思惟実体であり,その点で「神の似姿」(ibid.p.57)なので あって,これはスピノザが『エチカ』において退ける思想である。
・観念形成=肯定という働きの『エチカ』での位置づけ
「形而上学的思想」から『エチカ』の本来のスピノザ主義に目を転じると,我々は精神による「観念 形成」に関する,より穏当で現実的な描像を見いだす。つまり『エチカ』のスピノザはデカルトの自由 意志説も精神の思惟実体説も否定した上での「観念形成」を述べている。そして我々が本稿第 1 節で提 起した行為者因果的な因果モデルによれば,人間精神のような有限な個物における「思惟的行為」すな わち「観念形成」は,すべての有限者の行為と同様,内在的原因と他動的原因の協動的因果による変状 の形成という三項モデルによって捉えられねばならない。それは観念の「無からの創造」でも,非決定 の自由意志による創始者的な活動でもなく,むしろ無限知性に含まれる一観念としての人間精神が内在 的原因となり,他動的原因としての外的事物の観念から因果的決定を受け,自己の本性の必然性に従っ て一定の変状,つまり「身体変状の観念」という変状を形成する,という過程,あるいは「思惟的行 為」である。
このような「思惟的行為」と事物の「現実的本質」としてのコナトゥスとのつながりは,次の規定の 思惟属性への適用として理解されよう。
……各々の事物の力あるいはコナトゥス,すなわちその事物自身がそれによって,単独であるいは 他のものどもと共に,各々の行為をなす,あるいはなそうと努める[quidquamagit,velagere conatur]ところのコナトゥス,つまり(3P6 により)その事物自身が自己の有に固執しようとす る力あるいはコナトゥス……(3P7Dem)
この箇所から分かるのは「事物の力あるいはコナトゥス」には,「行為へのコナトゥス」と「自己の有
への固執のコナトゥス」という 2 つの側面がある,ということである。別の場所で論じたように(木島 2003 年,木島 2016 年)この両者は決して手段と目的のような序列関係にあるわけではなく,端的に一 体のものであり,同じものの別の側面である。つまりいかなるコナトゥスあるいは現実的本質も,厳密 には「何かをなしつつある自己への固執」なのである。この「何かをなしつつある」において,「行為 へのコナトゥス」と外的,他動的原因からの決定(determinatio)は一体となり,協働的に働いて,個 物を様々な行為や状態へ向けている。そしてそのような行為や状態を産出し維持しつつある自己に固執 するのが「自己の有への固執のコナトゥス」であるということになる。
「観念形成」という「思惟的行為」はこのような一般的な構造の思惟における表現である。つまり 個々の「精神の変状」ないし「身体変状の観念」を(他動的原因との協働により)形成するという「思 惟的行為」へのコナトゥスこそが,精神が形成する判断としての「肯定または否定」であり,そのよう なコナトゥスが,「身体変状の観念の本質」を構成する。そしてさらに俯瞰して見れば,これらすべて の思惟的過程は,神的無限知性による諸事物と諸変状の肯定,あるいは諸事物と諸変状の観念の形成で もある,ということになる。
4.本稿のまとめと続稿の課題
以上により,我々の精神が身体の観念として存在している,というテーゼと,精神による観念形成と しての判断とが,共に観念の本質を「肯定」とする理論の内に整合的に組み込まれることが明らかに なった。そこにおいて,観念形成としての肯定と,精神の現実的本質としての身体の現実存在の肯定 は,「行為へのコナトゥス」と「自己の有への固執のコナトゥス」が一体であるのと同じ意味において 一体のものとして働いているのである。
我々は着実に,スピノザの観念の理論とコナトゥスの理論の統一的理解への歩みを先に進めている。
たしかに本稿第 2 節の早い段階ですでに,我々が所有する観念が「身体変状の観念」であり,そして
「身体変状の観念」とは,思惟様態としての精神に内属する変状に他ならないことは確認されていた。
それゆえ,観念の形成と,思惟属性の下で見られた変状の形成の外延が一致する,という結論自体は新 奇なものではない。しかし,この段階での確認が「事物一般」と「その事物に内属する変状一般」とい うより形式的な観点からの確認であったのに対し,その後の考察では「観念」という思惟属性の様態に 固有の本質としての「肯定」を精神内の観念と精神そのものとに関連づけながら,「肯定」と「観念形 成」の共外延性を導きだし,かつその経験的内実を一定程度明らかにできたのである(13)。
しかしながら探究は未だ途上である。というのも,我々は今のところ「観念」を,身体的な行為,身 体的な変状の心的対応物として,つまり「精神の変状」として捉えているだけで,それが認識であり,
表象的ないし志向的な心の働きであるという側面については経験的なレベルで十分明瞭に明らかにでき ていないからである。あるいは,我々は今のところ観念形成としての肯定の「形相的有(esse formale)」を捉えただけで,その「客象的有(esseobjectivum)」としてのあり方を十分捉えられてい
ない,と言ってもよい。すなわち,我々の精神内の観念に含まれる肯定が「何かについての」肯定であ ること,またとりわけ,それがこの私の身体以外の対象「についての」肯定である,という側面が,こ こまでのところでは十分明らかに示されていない。それゆえこの点の解明が次の課題となる。
この解明の 1 つの鍵は有限者の行為者因果モデルにおける他動的原因からの「決定(determinatio)」
への注目であり,我々はこの三項的因果モデルがスピノザの認識理論の核心にあることを見る(2P16C1;
2P16Dem)。さらに,スピノザのこの思想を明確化する貴重なテキストを我々は初期著作『短論文』に 見いだす(KVII:16,GI,p.83,ll.13-17)。これが第 2 の鍵だが,それを手に入れる歩みは平坦ではない。
というのもそのテキストは観念あるいは知性認識の本性を「受動」と見るか「能動」と見るかという重 要な点において『エチカ』と対立するように見えるからである。それゆえ我々は両著における能動 / 受 動概念の差異を明確にしつつ,それでもなお前者から後者に継承されている思想が,前者においてより 明確な形で述べられていることを示す,という込み入った作業を行わねばならない。この作業が次稿
「スピノザにおける観念とコナトゥス・その III」の中心主題の 1 つとなる。
凡 例
以下の略号は『エチカ』からの引用である(但し,その旨を明記した上で,同じ略号を『デカルトの哲学原理』
の引用に用いた箇所がある):Def/ 定義,Ax/ 公理,P/ 定理,Dem/ 証明,C/ 系,S/ 備考,AD/ 感情定義,
AGD/ 感情の一般的定義。
「形而上学的思想」は CM,『神・人間・人間の幸福に関する短論文』は KV(または『短論文』)の略称で指示 し,「〈部の番号〉:〈章番号〉」の形式で参照箇所を示す。
注
(1) 本節の内容は木島 2002 年の議論と重なるが,その後の筆者の理解の深化が反映されている。
(2) 秋保はこの証明での使用から問題の定義を考察する,という独特のアプローチから,本節の解釈とも一致 すると思われる考察を行っている(秋保 2019 年,204-208 頁)。
(3) conatus を主格と解すると「我々の精神の第一にして筆頭のものは……現実存在の肯定というコナトゥス である」となるが,文法的にも,また 1677 年の『遺稿集』のテキストで conatus にアクセント記号が付され ている点からしても,conatus は属格で解する方が適切と思われる(cf.Akkerman1977,p.41)。
(4)『エチカ』第 1 部では,序盤で複数形で用いられる「実体[substantia]」がこのような概念であった。第 1 部同様,第 2 部でも,定理 11 において用語の真のスピノザ的含意が露わになるという符合は興味深い。
なお,この定義も観念のあり方を精神の「受動」ではなく「能動」に結びつける点ではデカルト主義から 逸脱していると見られ得る。但しスピノザはここで「概念」という用語の含意から観念と精神の能動性のつ ながりを示唆するだけで,それを明確な主張として打ち出しているわけではない。
(5) スピノザも「承認(同意)[assensus,assentire]」というタームで判断作用を表現することが皆無というわ けではなく,特に『神学政治論』のような理論哲学的ではない領域ではこれらのタームは普通に見いだされ るが,厳密に哲学的に解するならこれらは『エチカ』の肯定論に沿って理解されるべきであろう。『デカルト の哲学原理』にはこれらのタームが頻出し(序論,1P14,1P15,1P21),『エチカ』においても 2P49S 中の,想 定上のデカルト主義者の主張の中に登場する(GIIp.132,l.27 から p.133,l.3 までの 5 箇所)という事実は,む しろスピノザが,「承認」というタームがデカルト的な判断作用の理解と結びついたものであることを自覚し ていたことの 1 つの証拠となろう。一方,『知性改善論』においては,5 箇所登場する assentire/assensus の内,2 箇所はデカルト主義の立場を予想したものだが(GII,p.23,l.3;ll.19-20),残る 3 箇所はスピノザ自身 の判断論の叙述において用いられている(GII,p.24,l.29,p.25,ll.13,24)。これはスピノザがデカルト的判断論
を十分脱していなかったとことを示すかもしれない。これら 3 箇所は「単純観念」と「複合観念」の区別を 軸にした議論であるが,この区別を観念の明晰判明性の基準とする思想がデカルト由来の思想であって『エ チカ』では消失するという指摘がある(藤井 2009 年;秋保 2019 年,p.41,注 36;cf.Gueroult1974,p.601)。
(6)実体を,それが考察されている側面でのあり方をもたらす力によって名指すというのは,実体の属性を思惟 と延長に求めるという『エチカ』の属性論との共通の発想を見いだし得る点かもしれない。
(7) この点を詳しく述べた「形而上学的思想」の以下の一節は,『エチカ』においてもスピノザが判断あるいは 意志作用について「肯定あるいは否定」(ないし「肯定や否定」)というペアにおいて述べているという事実 の,1 つの背景を示唆するものとして興味深い。
……もし精神が,それ自身によって,またそれ自身の本性から,単に肯定へと決定されることしかされ ないのだとすると(こういうことは,我々が,精神とは思惟する事物であると概念する限りは,不可能 なことなのであるが),その場合精神は自己の本性のみからただ肯定のみを行い,その一方,たとえいか なる原因が協働[協力 concurrant]しようとも,決して否定をなし得ないことになる。しかしもしも精 神が肯定にも否定にも決定されていないのだとしたら,精神はそのいずれもなし得ないことになる。ま た最後に,もしも精神がその両方への力能をもっているとしたら―我々はたった今,精神がそれをも つことを示したのだが―,精神は他のいかなる協力的原因[adjuvantecausa]もなしに,その両方を 自己の本性のみによって引き起こし[efficere]得ることになる。これは,思惟する事物を思惟する事物 として考察する者,すなわち,思惟の属性を思惟する事物そのものから決して区別しない人々―それ らの区別は理性上の区別でしかない[aquanonnisirationedistinguitur]―にとっては極めて明白で ある。思惟する事物からあらゆる思惟を剥ぎ落とし,思惟する事物をペリパトス学派〔アリストテレス 学派〕の第一質料に仕立て上げている我々の論敵たちは,そういう区別を行っているのである。(CM II:12,GIp.280,ll.9-19)
すでに述べたように,『エチカ』において「肯定」と「否定」は対称的で対等な作用ではなく,後者は前者に 還元される。他方,「形而上学的思想」のデカルト主義にとって両者は対等な作用であると同時に,「肯定あ るいは否定」という仕方で二様の選択肢が常に確保されていることが重要性をもつ。またこれに応じて,『エ チカ』における「肯定あるいは否定」(e.g.2P49S,GII,p.131,ll.11,15)と「形而上学的思想」における「肯定 あるいは否定」では「あるいは[aut]」の意味合いが異なっていることになる。すなわち後者において「あ るいは」は,個々の判断ごとに二様の選択肢が開かれている(さらに言えば,いずれもあえて選択しない,
という判断保留の選択もまた開かれている)ことを意味するのに対し,『エチカ』においては「あるいは」は 個々の判断ごとではなく,判断の集合に肯定も否定も含まれ得る,ということを意味しているに過ぎず,個々 の判断においてなされるのが肯定か否定は常にどちらか一方に確定しているはずである。
なお,『エチカ』2P49S において判断が「肯定」と「否定」のペアで語られるのは,スピノザ自身の理論的 要求というよりも,(「意志」概念がそうであるかもしれないように)論敵の概念様式への順応であるという 推定は可能である。第 3 部以降でこのようなペアが現れなくなるのは,その 1 つの傍証といえよう。
(8) 先ほど引用した別の箇所では(GI,p.278,ll.15-16),同じ作用が「意志しまた拒み,肯定しまた否定する
〔力〕」と表現されている。1 つの読解として,ここでの「意志しまた拒み[volendi,&nolendi]」が動因的
(conative),ないし実践的な心的行為としての狭義の意志作用に,「肯定しまた否定する[affirmandi,&
negandi]」が認知的な心的行為としての判断にそれぞれ相当する,とする解釈も考えられるかもしれない
(木島 2019 年注 5 でも指摘したように,デカルト自身「第 3 省察」ではそのような分類を採用していた(AT VII,p.37))。しかしこの前の部分でスピノザは心的行為一般を「意志作用」,その原因としての精神を「意志」
の名に包摂していたのであるから,ここでも両者は同じ作用を単に言い換えているだけと見る方が適切であ ろう。
(9)「形而上学的思想」においても assentire(assentimur)が一度登場するが,「我々は……という人々に同意 する」というテクニカルではない用法においてである(CMI:2,GIp.239,l.3)。
(10)『エチカ』における能動と受動については木島 2012 年参照。この主題は次稿でも取り上げる。
(11) デカルトは「第 3 省察」で観念の起源に関してこれに近い可能性を一度検討した上で棄却しているように 思われる(ATVII,pp. 46-47)。
(12) 但しこの点については,スピノザは本文で引用した箇所の直前で,次のような注記を行っている。
さらに注意すべきは,たとえ魂[anima]が外的諸事物によって何かを肯定ないし否定すべく決定され る場合であっても,魂そのものは,あたかも外的諸事物によって強制されるかのようにして決定される わけではなく,むしろ常に自由であり続けている,ということである。いかなる事物も精神の本質を破 壊する力をもたないのであり,それというのも,精神はそれが肯定するものや否定するものを,常に自 由に肯定し,また否定するのであるからであり,これは「第 4 省察」において十分に説明されたことで ある。(CMII:12,GI,p.278,ll.6-12)
難解な一節だが,スピノザは実際書簡 21 で,我々が精神の自由意志を明晰に知覚する一方,それが神の命令 の必然性(「物体による決定」はこれに含まれるとも見られるし,少なくとも事柄として類比的である)とど のように両立するかは,知性の限界を超過し混乱した思想しか抱けない,という立場をデカルトに帰してい る(GIV,p.130)。スピノザはここにデカルトの立場の理解可能性の限界を見いだしていたとも解されよう。
(13) 前稿でも注記したように,筆者の解釈は精神の思惟内容における「肯定」と精神のコナトゥスとしての「肯 定」を峻別するラモンの解釈(Ramond1998)には与しない。筆者とラモンの大きな分岐点は,筆者が精神 のコナトゥスあるいは「現実存在の定立」を単純な「非言語的肯定」としてではなく,ある命題的に分節化 された構造を備えていると見る点にある。詳しくは次稿で論じよう。
文 献
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秋保亘 2019 年『スピノザ―力の存在論と生の哲学』法政大学出版局
Descartes,René.1964-1974.Oeuvres de Descartes.C.AdamandP.Tanneryeds.Paris:Vrin.(AT と略記しロー マ数字で巻数を付す)
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木島泰三 2019 年「スピノザにおける決定論的な「判断の意志説」(スピノザにおける観念とコナトゥス・その I)」,『法政大学文学部紀要』第 79 号,pp. 31-46<http://doi.org/10.15002/00022414>
ライプニッツ 2019 年『モナドロジー 他二篇』谷川多佳子,岡部英男訳,岩波文庫
ネーゲル,トマス1989 年(原著 1974 年)「コウモリであるとはどのようなことか」,『コウモリであるとはどのよ うなことか』永井均訳,勁草書房,第 12 章,pp. 258-282
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Spinoza, Benedictus. 1925. Spinoza Opera. Carl Gebhardt ed. Heiderberg: Carl Winters, Universitätsbuchhandelung.(G と略記しローマ数字で巻数を付す)
Previously,wehavearguedthatSpinozapositedaformofagent-causationtheory.Thisarticle appliesthisreadingtoSpinoza’stheoryofideastoclarifyhowSpinoza’stheoryofideasandhistheo- ryofconatusareinterrelatedandunified.
AfterreviewingourreadingofSpinoza’stheoryofcausationandaction,weaskedthequestion,
“Whatisitlikeforahumanmindtobetheideaofitsbody?”Toanswerthis,weconsideredthees- senceofideasingeneralinSpinoza’sEthics.Accordingtothisbook,theessenceofideasisaffirma- tion.Spinozaalsosaysthatconatusistheessenceofeveryparticularthingandthatahumanmind’s firstconatusistheaffirmationofitsbody’sexistence.InanotherpassageofEthics, Spinozasaysco- natusisgiventousaswill,appetite,ordesire.Fromthere,itseemstofollowthatourwill,appetite, ordesireconstitutetheempiricalcontentoftheaffirmationthatourmindsperformastheideasof ourbodies.
However,itisstillunclearhowthe“affirmation”thatconstitutestheessenceofourmindsas ideas,isrelatedtotheaffirmationthatconstitutestheessenceoftheparticularideaswepossess.To clarifythismatter,weconsiderSpinoza’searlierwriting,“MetaphysicalThoughts(Cogitata Meta- physica),”whichwillbereferredtoasCMbelow.Inthiswriting,Spinozaarguesthatourmentalaf- firmation(ornegation)isan“actionofthought,”andthisconceptcorrespondstothe“idea-formation”
inhisEthics.AlthoughCMmainlyattemptstoexplicateCartesianmetaphysics,itimpliesanon-Car- tesianconceptionofvolition.Itsnon-Cartesianelementisathesisaccordingtowhichvolitiondoes notmerelyapproveordisproveofanideagivenbyintellectionbutrathervolitionformsanaffirma- tiveornegativeidea.
Thisconceptionofvolitionoraffirmationasidea-formationand“actionofthought”allowsusto applySpinoza’stheoryofcausationandactiontohistheoryofideas.First,wecanconcludethatthe affirmationsofideasthatwemakeinourmindareouractionstoformideas,whichare“affectionsof ourminds”aswellasthe“ideasoftheaffectionsofourbodies.”These“actionsofthought”follow frombothourconatusasimmanent causetogetherwithexternaldeterminantsastransitive causes.
Thus,wecanconsidertheaffirmationsofideasinourmindsastheconsequentsfromtheconatusof ourminds.
Subsequently,wehaveclarifiedhowourmindsasideasarerelatedtotheideasinourminds.
Nevertheless,itisstillnotveryclearhow“aboutness”orintentionalityofideasoritsaffirmations playsaroleinourminds.Weshalldealwiththisprobleminournextarticle,“ideaandconatusin Spinoza:III.”