著者 塩沢 裕仁
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 68
ページ 1‑27
発行年 2007‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011547
平城については、一九三○年代後半から四○年代初頭にかけて原田淑人、水野清一氏らの調査が行なわれ、研究の端緒そのものは比較的に早かったものの、それ以降十分な考古学調査も行なわれず、主に水野氏の調査報告を検証するかたち(1)で文献上、あるいは地上面に残存する遺趾をもとに大城の所在に関する様々な推論が提一不されてきたに過ぎない。その結果、平城に関する議論はこの一点に集中し、平城の都市そのものの様相を探求するまでに至っていないのである。然るに、近年、平城の都市景観を議論することのできる資料が大同市内から発見された。操場城建築遣趾と沙嶺北魏壁画墓である。本稿では、この資料の登場を機に、今後求められるべき研究の問題点を整理し、盛楽と洛陽を結びつける結節点としての平城の性格を導き出していきたいと思う。
平城に対する本格的な調査には二つの団体が入った。原田淑人氏を代表とする東亜考古学会の調査団と、水野清一氏を中心とする京都大学の調査団である。前者については、「東亜考古学会北魏城趾調査概報」と題して小林知生氏が一六○○
鮮卑の都城〃平城〃(塩沢)
鮮卑の都城〃平城〃 lその都市空間の様相I
はじめに平城研究の展開塩沢裕仁
 ̄ 法政史学第六十八号
坤面間/
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水野清一大同北魏都城吐図(「大同近傍調査記』より転載)
図
(2)字程度の短文を載せているにすぎず、詳細を理解することはできない。むしろ重要なのは後者であり、「大同通信」、「大同再信」と(3)いう形でまず発表壁これ、後に編纂された「雲崗研究」にも「大同(4)近傍調査記」として収録されている。水野氏の二一報告書には現地実測図や収集遺物の図版なども載せられており、特に「大同近傍調査記』に収載された「大同北魏都城阯図」はそれ以降の大同研究を左右するものとなった(図二。この水野報告が大同研究において提示した問題は四点。1、北関内北門倉庫近くで行なった試掘(d地点)。漢代の遺物が多く、漢の平城縣の所在を示唆。2、大同駅東側の給水塔遺跡(c地点)。東西二列(約5m間隔で7組)の礎石(砂岩)が発見され、宮殿阯の可能性を指摘。3、上呉庄村より御河を跨ぎ東馬家小村にいたる一条の秀士(版築)壁(abライン)。宮壁、あるいは北郭の可能性を示唆。4、御河東岸段丘上に位置する古城村一帯の奇士城阯(e地点)。束郭の可能性を指摘。水野氏の報告を踏まえ、以降の平城研究は展開するが、その研究の視点は『水経注」をどう理解するかであった。何故ならば、如揮西水が京城、皇宮里坊、郭南を通過しているため、如葎西水の河道考証はまさに大城の所在究明に直結するものと考えられて(5)きたからである。
一方、地域相の探究という点では前田正名氏が平城とそれを閉む地域の空間的様態を論じ、桑乾河上流の自給率の低さ(経済的なアキレス腱)、大量の家畜類・畜産品の流入にみる旧習(遊牧性)の遺存、朝廷内部における自由交易の展開と(6)いう一二点を指摘し、平城の地域的特色を浮き上がらせた。都市としての平城の様相を論じた先駆的な研究である。(7)近年、中国における平城研究には二つの到達点がみられた。一つは文献史上における李覚氏の「北魏平城時代」、一つは(8)考古学上における新成果、すなわち大川市内の操場城および明堂遺阯をめぐる壬銀田、茜日臣明氏の考証である。李亮氏の視点は畿内全域に向けられており、特に桑乾河上流の繁時の性格に着目した点が重要である。一方、考古学上の成果は大城の所在を特定するものとして、従来の議論の一つの終結点であるといえよう。しかしそれはあくまで所在地の究明であって、むしろここが起点となって平城大城の性格が議論されることになろう。折しも、本稿の脱稿直前に佐川英治氏の「遊牧と農耕の間l北魏平城の鹿苑の機能とその変遷」が発表された。鹿苑の性格を論じたもので、地域相の理解には欠くことのできない論考である。佐川氏はこれ以前にも「北魏の平城」の中で平(9)城の諸相を探究し、遊牧性を強く意識した論考を展開している。また、昨年水野資料も京都大学人文学研究所の岡村秀典(、)氏の手で整理されるにいたった。諸々の論考・資料が相次いで発表される昨くうの状況を機に平城をめぐる議塾畑が喚起され 北魏平城の都市景観を論ずる上に不可欠な資料が近年大何市内で発掘された。操場城北魏建築遺趾と沙嶺北魏壁画墓である。結論的にいえば、当該遺趾は乎城におけるゲル建築(天幕式住居)とゲル住居区域の様相を考える上に極めて重要な資料となるものである。本章ではこの点について一一一一口及する。 んことを期待したい。
1、大同操場城建築遺趾(Ⅱ)操場城建築遺趾は二○○一二年大何市市街地の中心部、第四中学校の裏手で発掘された。地層から北魏時期の杏土台基と
鮮卑の都城〃平城〃(塩沢) 二大同操場城建築遺阯と大同沙嶺北魏壁画墓
一一一
域外まで延びることから全長は不明)、南面で二条(東西対称、東道I残長五・五m、幅四・二m、西道l残長七・一一m、幅四・二m、東西とも傾斜角四度)、東面で一条(陣伽を付した階段、残長約一m、幅四・二mが設けられており、その基梢に踏道の痕跡が認められる)が確認されている。西面にも一条の踏道が想定されるが、奇土台基の西面は近代の撹乱溝によって削り取られており確認には至っていない。南面の踏道は、軸が異なった二層構造をもっていることから二期(初期と後期の軸の振れは五度)に渡って築造されていることが分かる。初期施工時と同一時期のものとして、台基南側面下から東西踏道の側面に渡って列置された柱穴(編号k)が確認されている。東踏道上の東南端には方形柱穴一基、東踏道西側面下には円形柱穴二基、南正面下には柱穴七基(内東西に対象となる南側の二基は砂岩の礎石をもち底部が長方形、頂部が円形の柱穴である。他の五基は円形柱穴)、西踏道東西側面下にはそれぞれに円形柱穴四基、三基が配されている。 法政史学第六十八号
西側からの撮影左が北
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考えられている(図二)。労士 臘j1
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図二大同操場城建築遺刈1基壇(「考古 学報]2005年第4期より転載)
る。奇士一層の厚さは八~一三四台基の主軸は東に七度振れている(N七E、台基東縁の碑培を基軸とする)。現存する踏道は、北面中央部で一条(幅三・九m、調査
四
ここに示した柱穴は、穴内の黄土層の堆積状況から、すべて同一時期のものと考えられている。台基下東側には比較的厚い焼土層が堆積しており、その厚さ三○~七○m、焼土層の堆積は東に向かって薄くなる。焼土中には焼土塊のほか、瓦片、瓦当、瓦釘、木炭灰などが含まれている。瓦当は磨光瓦で、北魏期の特徴をもつものである。ただし、焼土の堆積中にみられる瓦片の数量は、大型建築物の存在を語るにはあまりに少量であり、さらにこの焼土堆積中のみに含まれるのが特徴である。以上が報告書にみる遺阯の概要であるが、注目すべき点として以下の二点が挙げられる。(勉)|点月は、台基に関する点である。この台基の上面では柱穴阯が全く確認されない。また、{ロ基上面は北高南低という傾斜(特に中央より南側において勾配が著しい)をもち、フラットな面ではない。木造建築を発掘関係者は想定している
鮮卑の都城〃平城”(塩沢)
図三イエ・プレーのモンゴル仏教寺院前の相撲 絵図(包慕薄「モンゴルにおける都市建築史
、:究」よりI|賦救)
よ》7であるが、台基の状態からして木造建築が建てられていたとは考えられない。しかしながら、台基はあまりにも巨大である。二○○|年十一月から二○○二年六月にかけて洛陽で発掘された北魏宮城間闇門遺祉の城門基壇では四○基(南北五列、東西八列。|辺約一。○五m、厚さ約○・五mの巨大な方形の礎石がわずかに一基残存している)におよぶ柱穴阯が確認されている(二○○七年三月より五月にかけて再調査)。城門基壇は東西四四・五m、南北二四・四m、操場城の台基はこれよりも大きい。よって、台基上には、柱礎および、フラットな面を必ずしも必要としない建造物、すなわち(大型)ゲル宮殿を想定すべきである。「イエ・プレーのモンゴル仏教寺院前の相撲絵図」(以下「イエ.フレー絵図」と略す、図三)はモンゴルにおける宮殿寺院建築の一空間を示したものであるが、農耕民族(漢民族)式(以下漠式と称す)木造大型建築の前面に大小のゲ
ノ
2、大同沙嶺北魏壁脚墓(M)沙嶺北魏墓葬区は御河の東岸、沙嶺村東北約一mにある高台(標高一○五○m、約一二○○○㎡)に位置している。一二基の墓葬が発掘され、内二基は碑室墓、一○基は土洞墓である。すべてが長方形の傾斜墓道を有し、南向が七基、西向が五基である。ここにおいて本稿が最も注Ⅱするのは碑室西向のM七号墓である。墓室の側面全体と両道側面には壁画が両かれており、この内南壁の壁画は宴会の場面であるが、そこには漠式瓦葺木造住居とゲルおよび移動式住居が画かれている。古代ゲルが描出された初出の事例である。M七号墓は墓群の北端に位置し、東側に主室を配し、長方形の傾斜墓道を西側に配する傳室墓で、主軸は真西から二度北に振れている(N八八W)。墓道、南道、墓室の三構造をとる。壁画は雨道から墓室側面に渡って配され、その総面積は ルが配されている。漠式住居と遊牧民族(胡族)式(以下胡式と称す)住居が混在する空間構成については、以下に大同沙嶺北魏壁画墓の中で触れるが、操場城遺趾については、まさにこのような光景を想定することができよう(台基上に複数のゲルの想定も可)。東西踏道の側面および南正面側面下に列置された柱穴阯も、主要ゲルの前方に遊牧民族が掲げる旋旗の痕跡であると考えるべきである。二点目は、台基東隣の地面に堆積する焼土層とその内に含まれる瓦片の問題である。この点についても一点目に関係しているが、仮に台基上に木造建築が建ち、かつそれが焼失した場合、台基上面全体、更には周囲に焼土層の堆積が見られなければならない。また、焼失時の焼成を被った瓦片も出土しなければならない。しかしながら、焼土と瓦片が確認されたのは台基東隣の地面上のみである。極めて不日然であることから台基上に木造建築が建っていたとは到底考えられない。焼士堆積層とその内包遺物からみて、台基上には移動式ゲル宮殿が建ち、焼土形成時、その移動式ゲル宮殿は解体、もしくは転移により、台基上には建造物が存在していなかったと考えられる。以下に一一一一口及する沙嶺北魏壁画墓や「イエ。フレー絵図」にみるように、ゲル空間の周囲に展開する木造建築の空間を想定するならば、台基束隣の焼土の堆積は、台基の東(田)側にこれと連結、あるいは隣接する木造建築の存在を裏付けるものとなろう。 法政史学第六十八号一ハ
鮮卑の都城”平城塩沢
蝉
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図四大同沙嶺北魏墓M七号墓南壁宴会図(「文物』2006年第10期より転載。下図は筆 者作成)
二四㎡、赤、黒、青三種の色彩が用いられている。雨道では、頂部に伏義と女蝸が、側面に甲冑を着けた武将と人面の神獣が配される。墓室の西面入口両側には革甲帯盾の兵士が、東正面には併座する墓主夫婦が、北壁には儀仗図が、そして、南壁には問題の宴会図が画かれている(図四)。南壁の面積は約五・四㎡、幅一五叩の赤枠に囲まれた宴会図とその上部に配された神獣図とに分けられる。神獣図は、北魏石棺・石床にみられるフレーム構図が採用されている。宴会図は上下六層の配列を組み、上部第一層は、斜領で長糯を着した西向きの男性侍従二四人が画かれる。第二層から六層は屈曲する天幕によって主に東西二つの空間に分けられる。東側(画面左手)には脈をもつ房屋(漠式建築)を中心として開催される大宴会の場面が画かれる。房屋の前面
七
天幕式住居には大別して二種類がみられる。一つはモンゴルに見られる円形ゲルであり、一つはチベットにみられる立柱式テントである(次章に触れる)。鮮卑とモンゴルが同様なゲルを活用していたことが実証された事例として、M七号墓 構成を考えてみたい。 には多数の客人を迎えた宴席が展開する。彼らの背後には男女の侍従が立ち、車両と牛が配される。房屋の左下では、男女の楽技隊による演奏と舞踊が催される。房屋の背後では、数匹の馬が槽中の飼葉を食べており、その傍らには一人の侍従が立つ。房屋の周囲には食台と酒壷が置かれている。最下層には山や樹木が画かれる。左斜め下にも天幕が画かれており、中央の天幕と一体となって楽技隊が展開する空間を仕切る。天幕の外側の空間は崩落がひどく判然としない。西側(画面右手)には、糧倉、車両、ゲル(報告書は毯帳と表記)、屠殺の場面が画かれる。最上層には三角の屋根を持つ糧倉が三基、その右手には四両の貨物車両が画かれる。同様な貨物車両はその下層にも二両画かれる。遊牧民特有の移(応)動車両である。次の層には比較的大きなフェルト囲いの車両が一両あり、車両の後方には赤色の垂簾が地面まで垂れている。同形ではあるがやや小型の幌式車両が一向これに寄り添うように後方に世かれている。二両とも遊牧民特有の移動式住居(次章に触れる)である。八両はすべて二輪双轤の車両で、猿の下には十字に交差する文揮がある。その下肘には開閉式一扉をもつ五基のゲルが耐かれる。最も左手のゲルが一番大きく、その中には正座した女性が一人おり、その周囲には多くの食べ物と酒樽、壷、罐などの生活用具が置かれている。ゲルの正面において空間を仕切る天幕は開口しており、その開口部において左右の空間が繋がれている。そこには女侍従達と楽技隊が画かれる。右から二番目(内に一人の女性が立つ)と下層のゲル(内に大型の陶罐が置かれる)は正面を向き、他の三基は左面の房屋と同一の傾斜軸(一○度)をもって画かれている。天幕や幌式車両もこの軸線を有しており、画面全体が、この傾斜軸を基調として立体空間を意識した構造となっている。よってゲルの開口扉は同一の方向を向いていない。ゲルに囲まれた空間には、二名の男性の羊を屠殺する場面が両かれる。ゲルの右手には三名の侍従が画かれており、その内一人は両端にある手摺の付いた四角い井戸から水を汲み上げている。ゲルの手前と天幕の裏面には犬がおり、最下層には炊事川具などが慨かれている。以上M七号墓の簡単な構造と墓室壁阿について解説してきたが、次に南壁宴会Nにおける空間構成をもって乎城の空間 法政史学第六十八号
八
場城を漢の平城縣とみなす考え方は説得力をもつ。操場城を北魏大城の一部とみるとき、何も出土しないからといって、大城の範囲を操場城のみに限定するのは早計である。初化た第二代明元帝は西宮を多用しているのに対し、第三代太武帝は東南を営み、以降東側》宮城は東西に拡張・遷移している。平城の都市空間について、漠式木造建築と胡式ゲル津は後者の比率が高く、次第に前者が増加していったと考えた場合、操場城の西方にみら』て、平城の宮城対象区域から除外するのではなく、ここにゲル宮殿区の空間を想定して垂れる。 小結(随)以上、近年新出の考古資料を考二えてみるに、段寛氏の報告「大同北魏京城調査礼記」は極めて重要な意味をもってくる。般氏は大同市内の工事(二○○二年四月から六月にかけて施行された第四中学校校門前、東西数百メートルに渡る電線と雨水管の埋設工事)に際し地下堆積層の確認調査を行っている。その報告について、上記の問題を踏まえて、むしろ瓦の堆積層がみられない区域を重視してみると別の傾向が見えてくる。すなわち、当該報併で操場城の西側において建築遺物がみられない点は注目に値する。当該区は郭内にあたることから何もないと考えるよりも、むしろゲルの林立する空間を想定すべきではないだろうか。操場城の内部では漢代の瓦片のみならず北魏期の瓦片も相当数出土していることから、操場城を漢の平城縣とみなす考え方は説得力をもつ。操場城を北魏大城の一部とみるとき、その区域の四面から建築遺構が何も出土しないからといって、大城の範囲を操場城のみに限定するのは早計である。初代道武帝は丙宮造営に着手し、また第一一代明元帝は西宮を多用しているのに対し、第三代太武帝は東南を営み、以降東側が宮殿区として専ら活用される。宮城は東西に拡張・遷移している。平城の都市空間について、漠式木造建築と胡式ゲル建築との共存する空間、特に前期は後者の比率が高く、次第に前者が増加していったと考えた場合、操場城の西方にみられる建築遺物の寡少な区域をもって、平城の宮城対象区域から除外するのではなく、ここにゲル宮殿区の空間を想定して考証を進めることも肝要かと思わ 壁画の史料性は極めて高い。また、漠式住居と胡式住居が混在する空間を考える上においても、重要な史料である。前面に漠式木造建築を配し、後面に胡式ゲルを配する空間構成は、「イエ.フレー絵図」にみるモンゴル族が活用した空間構成とは前後関係は反対であるものの極似している。さらに、前面(東側)における漠式空間と後面(西側)における胡式空間の仕切りが天幕によってなされている点も注目される。なお、M七廿墓は西向するという点で、大同周辺で発掘された墓葬としては希少な事例であり、鮮卑系とはいえない可能性があるものの、胡漢共存の空間を画いたものであるという点では当該壁画の史料性に何ら問題はない。
鮮卑の都城”平城〃(塩沢)
九
空間を検証してみたいと思う。 平城の都市空間を示した史料として、第一級の価値を有しているのが北魏の官僚卿道元が編纂した「水経注」である。鄭道元は献文帝の皇興三年(四六九)に父青州刺史鄭範の赴任先である河北琢縣に生まれ、孝文帝の太和年間には尚書郎、治書侍御史を勤め、宣武帝の代には翼州鎮東府長史、頴川太守、魯陽太守、東荊州刺史などを歴任し、さらに孝明帝の代になると河南尹、御史中尉に就任している(「北史」巻二七卿道元伝)。没年は孝明帝の孝n日一一一年(五二七)である。平城が黄金期を迎える時期に生まれ、四代に渡る皇帝の御世において北魏の官僚社会を生き抜き、新都洛陽地域の長官にまで登りつめた郷道元の経歴からして、まさに平城、洛陽に関する「水経注」の記載は同時代史料というに留まらず、歴史地理考証において正史を凌駕する史料としての価仙を有している、「水経注」の編纂時期については、東荊州刺史以降の任而に関する記載が『水経注」本文中に見出せないことから、「水経注」序文の内容とあわせ河南尹就任前の十年間になされた(Ⅳ)とする見方が支持されている。「水経注」編纂の問題については別稿を期すが、「水経注』編纂の時期を概ね河南尹就任以前としてとらえると、洛陽遷都が一段落した段階にあたり、洛陽についてはまさに燗熟に至らんとする状況下にあるとともに、平城についてはその都市空間がすでに到達点二部はすでに縮小されているとも考えられるが)を越えたものとして「水経注」には描出されているということができる。然るに、近年の考古学資料の増加に加え、前章に示した胡漢混在空間を語る新資料が得られたことで、「水経注」にみられる平城の空間構成を再検討する必要が生じた。よって本章では、道武帝の創建より孝文帝の遷都に至る六代百年間の都市経営の到達点という認識に基づいて{水経注」にみる平城の都市
なお、「水経注」からは乎城の近傍ばかりでなく、平城の畿内空間の様相についても探究することができる。平城の畿内は潔水の上流部と、平城から雲中、陰山に抜ける幹道の基点を包括するものであった。特に、現在の大同盆地(冊田水庫以西の桑乾河流域)を内包し南・東南に通じるルートである雁門、西に通じるルートである善無、北に通じるルートであ(旧)る参へⅡを結ぶ区域について広域な平城の都市空間として認識することができる。この空間はまさに広義の大同盆地という 法政史学第六十八号
三「水経注」にみる平城の都市空間
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○
ことができ、特に潔水の上流部をめぐって、狭義の大同盆地(御河中下流域)との生産関係などを議論していかなくてはならないが、本稿では紙幅の都合上、専ら狭義の大同盆地に限定して考察する。
1、「水経注』巻十三潔水条附如揮水条にみる空間本節では、「水経注」巻十三潔水条附如揮水条から平城の地域空間を考えるためのポイントを抽出する。
潔水はまた東して雨脚旧陶n画を暹る。如揮水これに注す。
鮮卑の都城〃平城“(塩沢)
陶夘の『山側に同隠隠騨回あり。岡引の西に厨剛匡あり。南門は一一石閾を表し、闘下は山を斬りて御路を累結す。下に霊泉宮 池を望む。皎きこと圓鏡のごとし。如揮水また南して【闇耐幽に至る。枝水東南し池に注す(略)。如揮水はまた南して 、閣回凹山を逵る。蕾官人の作薄のある所なり。 如源水また南し、分かれてR同幽となる。 一水は西に出で南に屈して、、山川田に入り、諸の池沼を歴る。また南して闇間目凹幽を暹る。魏の太平真君五年これを 成すに牢虎を以てす(略)。また平城の両目剛囚を暹る。魏の泰常七年城く所なり。墹刎回訓州に悶悶圏あり。回、荊 側に開閉悶国あり。延興囚年立つ。 それ水また南し、屈して雨帆關側間間田圃を逵る(略)。魏の天興元年、都をここに遷す。太和十六年、太華・安日日の諸 東に鱒じ、悶固日間田圃を逵る(略)。羊水また東して如浬 茄揮水)乳流し門川Ⅲ山凹を暹る。詞回に而閖朋間田自似國
「如揮水霞た東南流して團臺る一…に羊水と會ふ二羊一水は平城縣の西舞
東に韓じ…を逵る…た東して如揮水に注支を建つ。皆な飾るに観閣を以てす。剰剴は詞に田圃脳と接す(略)。刈訓圏凶剰狙に園 す。周回雨は即ち回白旧国なり(略)。劃は闘に回国と對す(略)。蟇n画は即ち閑剛圖、
殿を破し、 (如揮)水は、涼城の旗鴻縣に出ず。西南すること五十餘里、東流し故城の南を逵る(略)。東して旋鴻池水と合す(略)。太極殿、東西堂及び朝堂を造る。火せて象魏、乾元・中陽・端門・東西二披門・雲龍・神虎・中華の諸門 あり。陵の東北に一高祖陵一あり。二陵の南に
圃、直侍官が出入に由る所なり。
函閏日固と接し、卿に圃團岡]と對 園
武周塞に出ず。北に出でて印圃Ⅲ国あり(略)。
法政史学第六十八号
あり。比郎尼の居すところなり。それ水また東に鱒じ、闘圃剛凹圃を暹る。石を鑿ちて開山し、崖に因りて結構す(略)。 川水また東南流し山を出ず。魏士地記に曰く、平城の西三十里は、廟間側閏Uなりと。mHM間山側圏東に出でて苑に入
り、諸の園池を慨す。苑に洛陽殿あり。殿北に宮館あり二水、枝渠より南流し東南に出るに、火山水これに注す(略)。ママ(火山水)また東して武州川に注す。(武周川水)雨刷陶剛田圃を淫ぎ、東流して如揮水に注す。 王葬の桓周なり(略)。また東して岡閤岡川山を歴る(略)。武周川水また東南流す。水の側に 東郭の外、太和中、悶人の宕昌公鉗耳慶時、閥洞困囿凹困圏に立つ(略)。それ水は北苑より南に出で、京城の内を雁る。 河干の雨帽、太和十年、石を累ねて岸を結ぶ。來塘の上、雑樹交蔭す。訓渤にては同図日凹回圃を結びて、水を横ぎり 梁となす。また南して關川同開刷閣剛幽囚、、闇用山国を蓬る。明堂は上圓下方、四周は十一一戸九室にして重隅をなさず
(略)。露臺をその上に加え、下は則ち水を引きて辞雍となす。水の側は石を結びて塘をなし、事ふるに古制に準ず。これ太和中の經建するところなり。如揮水また南して武周川水と會ふ(略)。(武周川)水は縣の西南山下に出ず(略)。北流して闘同側剛脚剛凹凹を逵る。 故宮なり。自刎]劇加、刑に雨HHuh囮あり。これ石虎の郷城東門の石橋柱なり(略)。余、尚書祠部となりて宜都壬穆 罷と同に北郊に拝し、親ら逵見するところなり(略)。子丹碑を去ること則ち遠し。それ水また南して団剛圃剛闇剛凹困 を逵ろ。司州代尹の治なり。皇洛陽に都すに、以て恒州となす。冊川田h旧囹圏閨圃あり。始光一一年、少室道士冠謙之 それ水は圃岡倒凹閣内□南流し、閣園園凹凹を暹る。魏の神瑞三年、また同鬮】を建つ(略)。後に大鼓をその上に置き、 晨昏に伐つに千椎を以てし、城里の諸門啓閉の候となす。これを戒晨鼓と謂ふ。また南して回圓閨川凹凹を暹る。これ 太師昌黎王鵺晉國の造るところなり。用同R悶闇凶あり(略)。また南して閖闇閖旧Ⅲ剛間回四四を暹る(略)。また南し て遠く開四囲を出ず。弱柳は街を蔭い、絲楊は浦を被ふ。公私に引裂し、用ふるに園を周りて慨す。同園隅田山、在ると
ころ布獲す。故に得て論ずべからず。|水は南して同閤ⅢⅢ回凹を蓬る(略)。それ水また園幽門国白日ロ山国を逵る。献文帝の太上皇となりて居すところの の議建するところなり(略)。壇丙]荊扣に薑と闇圏陶日あり。魏の神廃四年に造る(略)。凧、閂旧自圓同側間回あり(略)。
石祇泊舎並びに譜の窟宰 一一一
(如揮水)また南流し、胴開門關剛閲閃凹凶を逵る。王葬の班副なり。闘馴十三州志に曰く、班氏縣は郡の西南百里に在
りと。北俗これを去留城といふなり。如庫水また東南流して、潔水に注す。以上、「水経注」より導き出されたポイントは、1方山・霊泉宮・永固縣、2燕昌城、3北宮、4如揮水分流点、5虎圏、6西郭、7郊天壇、8平城縣故城(漢平城縣治)・宮殿区、9御路、Ⅵ蓬臺と白楼、Ⅱ皇舅寺五層浮図・永寧寺七級浮図、Ⅲ南郭・南郊、Ⅲ白登山・白登臺、u寧光宮(寧先官)、妬大道壇廟、M静輪宮、Ⅳ祇恒合・東郭、肥石橋、旧籍田・薬圃、加明堂、Ⅲ石祇疸舎・武周山石窟群・雲崗石窟(霊巌寺)・武周塞口、以上二一箇所である。各ポイントをめぐる詳論は別(旧)稿を期すものとし、ここでは空間理解の上で特に問題となりうる点に限り、現地踏査の状況などを含めて簡述する。〔方山・霊泉宮・水間縣〕大同盆地の北部における地域空間の指標となるのが氷問縣である。、水固縣は方山(西寺几梁山)に鳩太后(文明太皇太后)の寿陵である永同陵が設けられたことに伴って置かれた。方山には現在もその山上に遺構があ(加)り、その点では乘工間検出の明確なポイントとなる。方山の嶺南には霊泉宮、霊泉宮池がある。方山と孤山に挟まれた区域には平坦な地形が広がっており、永固陵と思遠霊塔を結んだ軸線上にもあたることから、ここに霊泉宮を比定することができよう。なお、永固縣治の所在について、楊守敬の「水経注図」では方山の西北、長城の南側に置かれているが、その近辺は丘陵地帯で、縣治が置かれる環境にはない。むしろ永固陵との関係を考えるならば、霊泉宮の近傍、すなわち、方山嶺下の御河(飲馬河)と鎮川河(万泉河)の合流部と考えるべきであろう。氷固縣は永固陵の造営に伴い成立したもので、永固陵の陵邑ともいうべき聚落や霊泉宮に付随する聚落などを管理する官署が設置されるわけであるから、永固縣域を以て、平城が有する都市空間の北限とすることができよう。〔如揮水の分流点と如揮西水の河道〕北宮の南側において如琿水は分流する。筆者は二○○五年五月、大同市地表面の微妙な高低差をもとに如揮西水の河道遺構を探査した。大同市内において、東風東街の北端から新建北路が南行に転じる岳秀園あたりを抜け、東南して操場城の西城壁の西南端に出、ここより南下し石頭巷、戸部角、大皮巷、華厳寺街、康市角、段市角を経て楼房巷の中ほど、明清大同城の南城壁を出るあたりから再度東南して南関西街を横切り南関南街を少し下ったところから南関南街に入るラインが微低地となっている。一方、北側白馬城新村の南側には安家小村の西側より東に流鮮卑の都城〃平城〃(塩沢)
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 ̄ 一 一
れ下る大沙溝がある。これを如揮西水に比定する見解もあるが、大沙溝は高低差六○m以上(白馬城新村南の標高一○六五m、安家庄村北の標高一一一一三m)をもっており、東から西に流路を考えることはまさに机上の空論に過ぎない。しかし、大沙構河口の白馬城新村と白馬城村の間は鉄路に沿って微低地となっており、御河に架かる北環路の河橋(馬家小村と白馬城新村を結ぶ)あたりに分流点を想定し、白馬城村の北を経て鉄路沿いに西南に南下して東風東街の北端に結びつくラインを導き出すことができる。〔西郭と北壁〕北苑、虎圏を経て、如揮西水は西郭に至る一北郭ではないことから、如揮西水は西に迂回するようにして北苑、虎圏を通過していることになる。大川市の北、止呉庄村、白馬城村、東馬塞村を結ぶ線上には東西一直線をなす奇士城塙が残存している。特に上呉庄村より白馬城村の西北にかけての残存状態はよい。この城塙については都城の北郭、宮城の北城塙、長城など様々な指摘がなされてきた。仮に、この城塙を都城の北郭あるいは宮城の北城塙と認識すると、如揮西水はこの城端の北側を通過しなければならない。しかしながら、その高低差は六○m以上、人工的にその高低差を克服するためには、方山の南麓に取水口を設けたとしても高低差が足りない(方山南麓の標高一一一三m)。したがって、淵該城塙は都城の北郭あるいは宙城の北城塙ではなく、道武帝が平城遷都後に造成した鹿苑の南城塙もしくは、明元帝期に造成された長城の一部であると考えるべきである。また、「魏書』巻一一一明元帝紀には泰常七年(四一三)に外郭周一一一十二里を築くと記されており、その外郭の広さが注目されてきたが、漢魏洛陽城の大城(内城)が周三十里(西北の金塘城を除く)であることを考えると、外郭としてはそれほど大規模なものではない。洛陽の外郭について考えてみると、その存在が疑問視されるほど構造は粗雑かつ簡素なものであり、特に西郭の輪郭線は既存の張分溝に沿って複雑に屈折している、この点を勘案して「水経注」を頼りに平城外郭の輪郭を想定すると、北郭は短く、西郭は西南方向に等高線に沿って傾きを有していたと考えられる。また、二条の河川、その少なくとも一条は本流であり、本流が郭内を通過すること自体、堅問な防塙としての機能に欠陥を有していると認識すべきである。大河川が郭内を通過している都城は、北魏洛陽城の洛水(、)南八夷坊を対象から外して考筥えた場合、陪唐洛陽城が平城以後初出の都城ということになる。堅固な防塙という認識を一旦棚上げし、北魏が創出した外郭の性格について再考証する必要があるのではないだろうか。 法政史学第六十八号
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四
〔郊天壇〕郊天壇については、「魏書」巻一○八禮志、天賜二年(四○五)夏四月に「天を西郊に祀り、方壇一を爲す。これより以後、歳に一祭す」とみえる。以後、西郊の祭天は孝文帝の太和十八年(四九四)三月に罷られるまで継続されていた。天壇趾と郊天碑とは「水経注」編纂の段階では未だなお西郊、西郭の外側に残存していることから、西のラインを考える一つのポイントとなる。遺構の確認が期待される。〔平城縣故城(漢平城縣治)〕天興元年(三九八)道武帝が遷都し、平城建設の基礎となったのが漢代の平城縣治である。縣治は、近年の考占学調査の結果、操場城の直下にこれを求める方向で決着が付きつつある。また、「明一統志」に「後魏の宮垣、大川府城北門の外に在り。士臺有り、臺東西に対時す。即ち饗閥の遺趾なり」とみえ、明清大川府城の北城門外にあった(現存してはいなど双關遺阯を象魏に比定することが可能となれば、平城を考える上での更なるポイントとして認識できることになる。なお、御河の西岸では御河北路、御河南路を結んだラインの東西両側一○○mほどのところに河岸段丘のラインを求めることができる。すなわち、大同市の中心部に向かって、河川敷から二段丘の構造になっている。第一段丘と第二段丘の間隔は狭く二○○m弱、御河橋北側河川敷の標高一○三九m、市の中心部である大西街と大東街の交差点の標高(第二段丘上)は一○五七m、前者と後者との高低差は約一一○mである。筆者がこれまでに調査した洞水上・中流域および洛陽地域における漢代の縣城の多くが二つの河川の合流部、もしくは一一河川に挟まれた区域の低段丘上に位置していることから、先に触れた如揮西水の河道推定ラインと御河西岸段丘ラインの間に平城縣故城が求められる。操場置していることから、伜城は当該地に立地する。〔御路〕如揮西水は平城縣故城をⅢ流して南に出、御路に沿って南流する。すなわち、御路は内城(大城)から南に延びている。この御路が内城から外郭に至る平城の軸線を形成していると想定される。〔南郭と南郊〕如揮西水は南郭を越えて南郊に出、灌概などに使われながら消滅する。黄士地帯の河川では住々にして見られる現象である。筆者が洛陽において調査した濾河はまさに同様な状態を呈している。河流の圧力が弱くなると浸透力が勝り、流水が消滅していく。ただし、消滅部は伏流となっており、消滅部の相当下流まで伏流水があることから、季節によっては下流部で再び河道が出現することもある。
鮮卑の都城〃平城“(塩沢)
五
〔ロ登山、白登臺〕〃山“を考えるときは二つの解釈が存在する。一つは単独峰を指していうもの、一つは山塊を指していうものである。日本では主に前者を用い、中国では後者を用いる。「水経注」の他所の記載を見てもその指すところは後者が圧倒的に多い。大同市の東および東北には、北の方山(西寺几梁山)や弧山のような指標となる独立峰はない。よって「水経注」に多用される後者の解釈を採用し、東北より街の東側に向かって延びる採涼山山系、特にその先端部辺りの山塊(馬鋪山)を指すものと考えるべきである。明元帝期には白登を囲むように周三十二里の外郭を築造している。〔大道壇廟〕御河橋東端の標高が一○四二m、馬家墜村西の標高が一○七四mであることから分かるように、御河の東岸は一二○mほどの比高をもつ段丘が一気に立ち上がっている。西岸も市街地東部から御河河川敷にかけて二○mほどの比高をもつことから、大同市区における御河の河道変更は考えられない。大道壇廟は当初京城の東南、如揮東水東岸段丘上に建築され、後に桑乾河の陰(南岸)に移築された。〔祇疸舎と東郭〕紙疸舎が東郭外と記されることより、一一一層浮図、大道壇廟、静輪宮は東郭内にあるものと解釈することができる。また、祇垣舎の所在に関しては〃東睾〃という表現があり、湖沼が成立するような低地が当該地にあったことが理解される。現在、大同市の東六m、水泊寺村の東側に石家塞水庫(ダム、貯水量七○○万㎡)があり、その周囲の標高を調べてみるに、東南端一○五一m、東岸中央部一○五五m、北端一○五六m、西岸中央部一○五四m、水泊寺村西部一○四八m、水泊寺村東部一○五一mと南側が低く、円を描くようにダムがすり鉢状を呈しているのがわかる。〃東睾〃とはまさにこのダムの周辺であると考えることができる。〔明堂〕如揮東水を隔てて籍田・薬圃と明堂とは東西対象の位置にある。明堂については、一九九五年に発掘調査が行わ(犯)れ、明確なポイントと建築構造が判明している。〔武周川水〕武周川水は現在の十里河である。武周川水沿いの道は右玉縣に抜ける幹道であり、これを抜けると盛楽に通じる。武周川水におけるポイントは二箇所である。一つは石祇垣舎、武周山石窟群、雲崗石窟(霊巌寺)の石窟群地帯、もう一つは武周塞口である。雲崗石窟をはじめとする石窟群は十里河沿いの幹道に沿って開鑿されている。洛陽の周辺部に開鑿された龍門・水泉・輩縣・西沃、虎頭寺・万佛山、鄭都(安陽)の響堂山、天水の麦積山などの石窟についても同 法政史学第六十八号’一ハ
2、時間軸での空間理解「水経注」にみられる平城の空間は、あくまでも完成を遂げた後の空間である。したがって、この空間がどのように成立してきたかを見ておかなくてはならない。まず始めに遷都直前の問題を考えておきたい。何故ならば、如何なる地域空間に遷都したかは遷都以後の状況を理解する上に不可欠な条件となるからである。皇始三年(天興元年、一一一九八)正月辛酉、道武帝は中山を発して望都堯山に至る。「魏書」巻二太祖紀ではこれに続けて、山東六州の民吏および徒何、高麗の雑夷三六万、目工伎巧一○万余口を徒して京師に充てている。ここで問題となるのが〃京師“の文言である。乎城遷都は同年七月であるから、遷都の六ヶ月も前の状況ということになる。この間、車駕して恒山や繁時宮に出かけているが、これは中山を基点としての動きであるため、京師が何処を指すかについて即断することはできない。同年二月の繁時宵に行幸した記巍に続けて、屯衛を選定していること、耕牛を給して計口受川を行っていることが記されており、そこには〃内徒の新民に“とみられることから上記正月条の遷徒した民に関連させて考えることはできよう。この点からいえば〃内徒“と〃京師”とは共通認識で捉えることができるが、計口受田を行った地が何処であるかという問題が残る。時間的な動きを厳密に解釈するならば、京師は盛楽でなければならないが、遷都以前において平城はす |の地理条件において開鑿されている。武周塞口は、武周川水が谷を抜けたところ、現在の馬軍営小姑村付近と考えることができる。武周塞口より枝渠が引かれ東流して苑に入る。渠道については、「魏書」巻一一道武帝紀天興一一年(三九九)条の「渠を鑿ちて武周川水を引き、これを鹿苑中に注し、疏ちて三溝となし、宮城の内外を分流せしむ」という記載と合致する。小姑村の東南には渠道趾があり、これについて現地で聞き取り調査を行った。当該渠道はⅢ渠道を利用して開削されたもので、旧渠道の河床は西南より東北に傾斜していたとのことである。大塘行路の南、雲崗支線鉄路の鉄橋下に渠口があり、それはまた大同市の中心地にある鼓楼の真西に位置する。なお、「魏書」巻九四闇官抱疑伝に「高祖、西郊の樂陽殿に鍵す」とみられるように、楽陽殿(洛陽殿、”楽“と〃洛“は同音)は”西郊“に位置している。
鮮卑の都城〃平城“(塩沢)
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七
次に、「うになる。 でに南都として認識(「魏書」巻一穆皇帝拓祓椅盧六年条)されていることから、「魏書」編纂時の認識に基づく文言と解釈すれば平城とみても誤りではあるまい。京師の文言は当該条が初出であり、当該条以降多出する。また、状況から理解してみても、後者に有利であることから、正月に徒民を開始し、二月に繁時近郊、すなわち平城南辺の潔水流域に計口受田したと解釈するのが妥当ではあるまいか。然るに、同年四月壬戌条において西郊に天を祠っている点については、盛楽の西郊と解釈すべきであって、四月の時点では都が盛楽である点も忘れてはならない。本稿では皇始三年の徒民が平城への徒民であると解釈したが、平城遷都以前において、数十万にのぼる人川が地域空間を満たすか否かは、平城の都市空間(餌)の様態を左右する極めて重要な問題となるのである。次に、「魏書」を頼りに空間の変遷を探ってみる。その内容を道武帝から孝文帝まで代ごとに簡単に整理すると以下のょ 道武帝l大規模徒民、宮城諸殿の造営、鹿苑の造営、武周川からの引渠。明元帝I西宮の拡張、鹿苑の拡張(北苑・西苑・東苑)、外郭の造営。太武帝l城内(特に宮城)の整備、東宮の改築、大学や道教寺院の建立、城内埋葬禁止令の発布。文成帝l宮殿の整備、仏教寺院(雲崗石窟)の建立。献文帝l北苑および諸苑の整備拡張、仏教寺院(永寧寺など)の建立。孝文帝(砺氏臨朝期)l宮城内諸建築の整備、山陵および離宮の造営。孝文帝(親政期)l宮殿の増改築、明堂・畔雍・孔子廟の建立、西郊壇の廃止。以上の変遷をみるに、道武帝から献文帝期にかけては、諸殿・諸苑の造営、外郭の造成、宗教施設(道教・仏教)の造営など普請の傾向が、各代の特徴として明確に看取される。苑の特徴を遊牧的なものとしてとらえるか否かは今後議論が必要であるが、外郭の成立は明らかに前代までの都市とは異なった特徴である。また、宗教関連施設、とりわけ石窟の造営は、五胡諸王朝からの連続的な産物ではあるが、皇帝自らがこれに関与した大規模な造営が展開する。さらに、橘太后臨朝期より孝文帝親政期にかけては、漢族的(何を以って漢族的というかについては議論もあるが、ここでは秦・漢・魏・ 法政史学第六十八号
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八
本章では前章までの理解に基づいて平城の空間構成における問題点を抽出してみたい。楊守敬は「水経注」の疏文を作成するとM時に「皇朝中外一統輿N」を底例として「水経注」の内容に沿った地図、すなわち「水経注図」を作成している。特に平城については内容が詳細であることから「平城図」として独立させている。然るに、現地形に照らし合わせてみると北、西郭が前述のごとく相当屈曲したものであると考えられること、また内城諸門の配置に疑点が見出せることを除いて、「水経注図」とほぼ同様の図面ができあがることから、模式図的にこれを利用することは十分可能である。よって、ここでは「平城図」を用い平城の空間における問題点を抽出していく。 上記の変化の左証となるのが南朝側のⅡで記された「南齊書」索虜伝である。ここにはまさに水草を追う状態から漠式建築が造営整備される過程が示されている。その到達点が先に言及した「水経注」にみる空間となるわけである。なお、「魏書」を通覧するに、洛陽遷都後は宮殿、苑胴の建設についてほとんど記載がない。「水経注」を見る限りにおいて遷都と同時に一気に起工したものと考えてもよいが、『洛陽伽藍記」にみる空間にいたるには数十年の時間差がある。『魏書」の編纂に問題があるとみてよかろう。「魏書」のみに頼って時間軸に沿った空間の展開を論じるには注意が必要である。 ■「ノ○ 晋王朝を構成した農耕民族主体の属性を漢族的という文一一一一口で示す)な空間の造営という点が指摘できる。その特徴的なものとして、西郊壇の廃止、南郊円壇の造営という祭天における根本理念の変化、そして方山永固陵の造営という寿陵造営理念の変化が挙げられる。この両者は礼制そのものを根本的に変える画期的なものである。特に後者については、道武帝より献文帝に至る皇帝、皇后がみな盛楽の金陵に埋葬されているのに対し、文成帝の皇后である凋氏が単独で寿陵を営むことは、拓践氏の伝統を完全に払拭するものであり、前代との隔絶という意味を有している。この点で孝文帝も軌を一にする。また、前代までの中心的建築であった太華殿を取り壊して造営した太極殿にも肌念の変化を看取することができよ
鮮卑の都城〃平城〃(塩沢) 四平城の空間理解l外郭の成立と次世代都市への展開の契機I
一
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:鍬瓊縁部には墓域が展開する(図五)。墓域を加えると、さらに上述の空白な区域の存在が浮き上がる。空白の空間に外郭を設ける意味が果たしてあるのか。ここに筆者は、外郭を必要とすべき空間が存在していると考える。そして、その外郭によって保護されるべき空間は一体何かと考えてみるに、次の二点を論拠として、遊牧的な属性をもつ部族民の居住区を想定する。|点月は道武帝以来の徒民された民族、二点目は遊牧的な属性をもつ民族の住居構造である。一点目については、特に道武帝の平城建設期に行われた徒民の民族構成を考えてみるに、その大多数は高車をはじめとして遊牧を生業とする人々である。彼らは漠式住居区域とはむしろ異なった居住区域をもって生活していたと考えるべき
で、あるc二点目については、遊牧的な属性を持つ民の住居が蒙古包、すなわちゲルであるならば、考古学的な資料となる瓦片は一一一口うに及ばず柱穴阯を確認することは困難となる。操場城区域を宮城とみた場合、段憲氏の報告において操場城の西側に 法政史学第六十八号
織封蕊辮所
弾区
凶
内城、外郭の所在が把握されていないことから、宮城を内包する内城が都市の中央部に配されるか否かの
蝉議論は期を改めることとして、「平城図」において内城
力篝を南北に縦断する軸線を引いてみるに、図面の左手、 図すなわち空間上でいう西側の部分は空白となる(東北
城の空間は採涼山山系である)。西外郭の外側に祭祀空間平rとしての西郊(天壇)が配される以外、軸線を境とし識て西側の区域には何も認められないのである・外郭の 楊周囲も視野に入れて『平城図」に近年の考古学調査で 唾確認された明堂の所在や墓域の分布を加えてみると、
南郊に明堂が定まり、東外郭から南外郭にかけての外、
建築遺物の包含層が認められないのは、まさに「平城図」の空間構成と重なる。アジア地域における遊牧民が活用している(移動式)住居については、比較的早い時期に調査、整理した村田治郎氏の(型)研究が参考になる。近代化の波が押し寄せる一別の民族調査として極めて貴重な報生ロである。その分類は、I半球式住居(ゲル系統)、Ⅱテント型住居(’一一角屋根をもつ天幕系)、Ⅲ円錐体(単純型、腰折型の二極)住居となる。分類Ⅱはチベットなどの高地山岳地帯で臨時的に用いられているもので、ヤク(鐸牛)の皮革(黒色)を用い、地面に支柱を立てこれに被せる。分類Ⅲはシベリアなどの酷寒の地域に限って用いられているもので、円形に柱を組み柱の孤部を一点で同定する。表面には獣革や樹皮を用いる。この両類型はともに木柱を地中に埋め同定することから考古学的な痕跡を留め易い。これに対して分類Iは木柱を必要としないことから、ほとんどその痕跡を留めない。分類Iについては、文献史料に〃弩鷹“とみられるもので、何奴・烏孫・高車・吐谷樺・柔然・烏丸・庫莫奥・契丹をはじめ、突厭や叶火羅などの住居として用いられている。現在も分類Iゲル式住居を用いている民族として、モンゴル系諸民族、ブリヤート族、キルギス族、カルモック族、ウズベク族、トルコ系遊牧民などが確認されており、中国北西部より、モンゴル高原、シベリア南部、中央アジア、南ロシアにまたがる遊牧を生業とする民族の大多数がこの類型に属している。鮮卑族は元来陰山山系を活動の拠点とする遊牧民族であり、その生産体系からいってもモンゴル族と同様の属性を有している。そして「魏書」や「南斉書」においてもその住居については〃弩慮“が用いられていることから、ゲルを活用していたことが想定されてきたのである。然るに、かかる想定を証明したのが、第二章で触れた大川沙嶺北魏鮭川墓の南壁壁阿である。当該壁川にはモンゴルでも多用された車上住居も町かれており、そこに示されたゲル住居の展開する空間を連想するならば、考古学的な痕跡の認めにくい空間が存在することもまた是としなければならない。以上、遊牧的な属性を有する部族民に対する大規模徒民が平城をめぐって展開された点、そして彼らの属性からみて喘住の痕跡が残存しにくいゲル住居からなる居住区域を形成する点を踏まえ「平城図』から読み取れる空間構成を考えてみるに、その西外郭内における空白の空間は、まさしくゲル住居が展開する区域であると認識すべきである。では、ゲル住居区域の空間構成は如何なるものであろうか。ゲルは無秩序に設営されるものであろうか。これを考古学
鮮卑の都城”平城“(塩沢)一一一
的に実証することは先に述べたゲルの構造からいって至難と言わざるをえない。しかしながら、鮮卑族が元来遊牧を生業とする点をはじめ、沙嶺北魏壁画墓にみられるゲルや車上住居などをみると、モンゴル族をはじめとする遊牧諸族と生活形態が極めて近似したものであると考えることができる。加えて、その帝国形成の初期段階において農耕区域に深く侵入、接触するとともに、集住、定住化を遂げ大集落(都市)を営むという点で両者は軌を一にすることから、鮮卑族がもつゲル住居区域の空間構成をモンゴル族が有するゲル住居区域の空間構成を援用して、平城の様態を復元することは、方法論的に至当なものと判断すべきである。然らば、モンゴル族のゲル空間は如何なる秩序をもって構成されているのであろうか。ここにホト・プレーの存在が注(お)Hされる。ホト・プレーとは遊牧民が宿営地において形成する空間構成であり、宿営地が移動しても何一集団が形成する空間的秩序に変化はない。その空間的秩序は、首長(ハーンが代表的)のオルド(帳)を核として、周囲に集団構成員のゲル住居が展開する。オルドは南面し、その正面に広場を有し、背面には夫人達のゲルが列置される。空間内では西が上位とされることから、夫人の序列も西を上位とする秩序をもつ。そのさらに背後には従者達のゲルが配される。ゲル住区は広場を中心に放射状に展開するものと、広場を中軸として東西に列をなして展開するものとがあり、最も初期のオルド(チンギス・ハーンのオルドと想定されている)とされるアウラガ遺跡は後者に属する。基本的には道路を基軸として展開する。道路は大集住区ならば街路となる。すなわち条である。ホト・プレーが巨大化し、防御、防犯の面から小区を区切って区域保全を行う場合、Ⅸ伽を板塀や丸木塀で封鎖する。特に後者では、区画された敷地は方形を呈する。すなわち坊である。通行の便から坊と坊との間に南北に街路を配した場合、坊条が成立することになる。さらに、ホト。フレー全体を保護する城塙を必要とした場合、これは郭(外郭)となる。柔然が太武帝出征中に平城に進攻した際、西郭に門がな(加)く欠陥が指摘された問題については、街路を自由に往来することが前提として形成されているホト・プレーの通行、ンステムを単純に遮断する形で郭が形成されたことから生じた問題であるとみることができるのである。以上、ホト・プレーなる空間秩序がモンゴル族に限らず遊牧という属性を有する諸民族に適用できるという前提で、平城において展開したホト・プレーが坊条と外郭形成の契機になるものと考えた。すなわち、ゲル住区内部の秩序保護から 法政史学第六十八号
坊条が成立し、また、モンゴルのホト・プレーは外に向かって開放空間であるのに対し、空間全域を保護するという視点から平城ではこれを閉鎖空間としたところに外郭の発生があったといえる。ただし、その外郭の築造は、中原地域の都城がもつ堅固かつ巨大なものとは異なり、ホト・プレーを外部環境から保護するもの、すなわち、自然環境(気候、動物など)への防御、あるいは秩序、治安の維持から設けられた保護塙垣的な存在であることから、当初は簡単な作りであったことが想定される。御河東岸古城村における東外郭の残存を指摘する見解もあるが、平城をはじめ洛陽でも外郭がその痕跡をほとんど留めていないのは、その築造方法に問題があったというべきであろう。筆者が二○○五年五月に大同を踏査した際、市の北辺安家小村、白馬新村、御河東岸古城村、馬家小村の凹地点において城塙の残存を確認した(図六)。特に安家小村に残存する城塙は左右二層構造をもつ方士で形成され、非常に堅固である。ところが、馬家小村で確認した城塙は築造技法が非常に特異なものである。すなわち、一般的な城塙の基槽が地面下において逆台形を呈すのに対し、当該城塙の基槽は半円形を呈している。またその杏士層も堅固とは言い難い。当該城塙が外郭であるのか、苑園の城塙であるのか、それとも長城であるのかという議論は今後を期さなくてはならないが、洛陽で検出されている外郭についても正確な構造が検出しにくい状況であることから、外郭の労築構造をもう一度考え直してみる必要を感じる。
近年大同市で発掘された操場城遣阯と沙嶺北魏壁画墓から、平城が遊牧的な色彩の濃い都市であることを指摘し、また当該資料の公開を契機として「水経注』にみる下城の空間構成を再検討した。そこにおいて確認される点は、平城の中心軸より西側、西外郭の内側に空白の空間が展開していることである。遊牧民族としての属性をもつ鮮卑族にとって、完全閉鎖空間である漢族の城阯、すなわち平城故城は一部支配層の政治的な儀式空間とはなりえても、大多数の鮮卑族および従属する他の部族民にとって居住のための空間には馴染まない。拓祓什翼腱が潔源川への遷都の議を持ち出した際、遷都が皇太后によって却下された理由は遊牧民としての属性にあった(「魏書』巻一昭成皇帝什翼健紀、巻十三平文皇后王氏伝)。したがって、大多数の部族民は居住空間を内城の外側に求めたと考えるべきである。当然にして東側は御河の河川敷であ
鮮卑の都城〃平城〃(塩沢) 結語
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鑿
馬家小村秀士雌断面(筆者撮影)
叉'六 安家小村秀士壁断而(筆者撮影)
ることから、西側が主にゲル集合区域となる。この点は当該区域が考古学的に痕跡を検出しにくいという点からも説明が可能である。遷都当初、当該空間には外郭が成立してはいなかった。しかし、都市経営の進展によって徒民が活発に行われ、定住化が促進されると、その城外に展開する集住空間を保護する必要が生じる。ここに外郭登場の契機が求められるのである。では、城外に展開したゲル集住空間は無秩序に形成されているかというに、これを遊牧民という同一の属性を持つモンゴル族の習俗を援用して考えると、ホト・プレーという規格を持っていることが想定される。もちろん、時間軸において鮮卑族とモンゴル族の展開した時期には大きな隔たりはあるが、前近代にあって遊牧という生業を母体とした生活形態、居住形態における基本的属性に変革が生じたとは認めがたい。この点は沙嶺北魏壁画墓からも見出すことができる。したがって、ホト・プレーの空間構成を援用して内城(平城縣城)の外側に展開する居住区の空間構成を想定してみるに、街路を基準とした碁盤目状の方形区画を擁するであろうことが考えられる。これはまさに坊条の展開を意味する。また、モンゴル族のホト・プレーでは街路による空間構成が外部に向かって開放的であるのに対し、平城ではこれを閉鎖空間とした。ここに外郭登場の契機を求めることができる。然るに、孝文帝が平城から遷都した洛陽について、我々は如何に考えるべきであろうか。洛陽において成立する三百余の坊里、そしてこれを囲む外郭によって形成される空間の様相は、完全に漠式住居が支配する空間であったといえるのであろうか。孝文帝が平城的な胡漢共存空間の払拭を意図したのは言うまでもないが、果たして現実的に可能であったのか。洛陽においては郭内の西端に貴族坊が成立している。平城において西宮の存在は大きく、これが内城外であるか否かは判然としないが、
四
(汀)鮮卑族が西側を重視していることは明らかである。この点はモンゴル族のホト・プレーの空間構成と共通しておhソ、遊牧民が有する同一属性としても認識できるものである。然らば、洛陽における貴族坊の様相は如何なるものであったのか。筆者は二○○五年より継続的に当該区域の地面踏査を行っているが、当該区域の地上面では瓦片などの建築遺物を未だ確認するに至っていない。大同沙嶺北魏壁画墓にみられる胡漢混在の空間、それも胡色の濃い空間が当該区域に展開していたと想定せずにはいられない。また、漢魏洛陽城大城内の北魏宮殿区における北半分の空間では建築遺構の検出が十分で(配)はない。ここは正殿区域の背後にレヨたる後宮の所在地である。後宮にはゲル空間が全く存在しなかったのであろうか。洛陽を考える上に「水経注」と「洛陽伽藍記」は第一級史料である。しかし、両者成立の間には時間的な隔たりがあることを認識しておくべきであり、平城の空間構成を踏まえた上で両者にみられる空間的な相違を考察する必要がある。そして、そこに全く皆無とはいえないであろう遊牧的な空間を検出するとともに、洛陽の周囲に展開する石窟遣阯や四中郎府の立地を踏まえて洛陽盆地を一つの空間認識でとらえることも必要となる。平城から洛陽へ、そして郭、さらには次世代都市陪唐の長安・洛陽への展開を考える上に今後を期すべき課題もまた多い。諸賢の叱陀ご鞭捷を切に期待してやまない。
注(1)平城は天賜一一一年(Ⅲ○六)に外城が設けられ、内に京城を持つ一一重構造を有したが、さらに泰常七年(四二二)には外郭が作られたことで、一一一重構造を持つことになる。すなわち、犬賜三年造営の外城はこの折内城となる。筆者はこの内城の遺構をもって大城という表現を用いる。(2)「東亜考古学会北魏城趾調査概報」(「考古学雑誌」二九一、’九三九年一○月)。(3)「大同通信」(「考古学」九’八、一九一一一八年八月)、「大M再信」(「考古学」九’九、一九三八年几Ⅱ)。(4)「雲崗研究」附録I「大同近傍調査記」(京都大学人文学研究所、一九五六年)。(5)黄恵賢「北魏平城故都初探」(「山西地方史論叢」第一輯、山西人氏出版社、一九八五年)、張増光「平城営造始末」S北朝研究」「一九九○年)、要子理「魏都平城遺阯試探」・張長海「北魏平城與平城縣故城」(山西考古学会・山西省考占研究所「山西省孜古学会論文集二」、山西人民出版社、’九九四年)、張悼「平城訪古録」S中国古都研究」第一○輯、天津人氏出版社、一九九七年)
鮮卑の都城〃平城“(塩沢)
一
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五
(⑬)後世に成立した地方志や地理史料には錯誤が多く、研究上問題を生じていることから、その他の文献史料はあくまでも参考の範 (⑬)焼土の厚さが台基より東に進むにつれて薄くなる点については、今後検証していく必要があるが、推測の一段階として台基東部に川廊のような形の付帯的な木造建築物があったと考えることもできよう。(u)「大同沙嶺北魏壁両墓」(「文物」二○○六年第一○期)。(旧)山西省考古研究所・大同考古研究所「大川巾北魏宋紹祖墓発掘簡報」(「文物」二○○一年第七期)、劉俊喜・高峰「大同智家北魏墓棺板両」(「文物」二○○四年第一二期)。遊牧民特有の移動車両、車轤の下には十字に交差する支禅がある(移動車両、大同出士木棺両)。洛陽出土北魏陶伽にも移動車両がみられる(洛陽博物館蔵北魏陶伽)。(M)般憲「大同北魏宮城調査礼記」(「北朝研究」第四輯、中州古籍出版社、二○○四年)。(灯)「洛陽伽藍記・水経注(抄)」森鹿三「水経注」解説(「中国古典文学大系」平凡社、一九七川年)。(肥)「魏書」巻二○食貨志には、京畿の範朋を「東は代郡に至り、西は善無に及び、南は陰館に極り、北は蓼合に蓋く」と明記して などが挙げられる。(6)前田正名「平城の歴史地理学的研究」(風間書房、一九七九年)二八八、’一一一七、一一一六○、三八○頁。(7)李莞「北魏平城時代」(社会科学文献出版社、二○○○年)。(8)曹臣明「平城考古若干調査材料的研究與探討」(「文物世界」二○○四年第四期)。京都大学人文科学研究所では、二○○五年一二月に王銀川氏の「平城考古的新発現」、二○○六年一二月に曹臣明氏の「北魏平城考略」と題する公開講演会が行なわれている。その講演資料は、大同考古学の近況を知る上で極めて有意義なものである。(9)佐川英治「遊牧と農耕の間l北魏平城の鹿苑の機能とその変遷」(「岡山大学文学部紀要」第四七号、二○○七年)、「北魏の平城」(「アジア遊学」七八巾国都市の時空世界、二○○五年)。(皿)岡村秀典編「雲崗石窟(遺物編)」(京都大学人文学研究所、朋友書店、二○○六年)。(Ⅱ)山西省考古研究所他「大同操場城北魏建築遺阯発掘報杵」(「考占学報」二○○五年第四期)。(、)台基上に直径1m前後の士坑が数基確認されており、これについては後世のものと考えられている。仮にこれを礎石抜き取り後の士坑であるとすると、円形建築物となる。士坑の問題については今後の分析結果を待つしかないが、礎石抜き取り後の士坑であ 法政史学第六十八号
る可能性は少ない。
し、
る
○
一一一へ