論 文
カムチベット語瓊波/沖倉[Khyungpo/Khromtshang]
方言の音声分析とその方言特徴
鈴 木 博 之
(日本学術振興会/国立民族学博物館)
Khams Tibetan Khyungpo/Khromtshang Dialect Phonetic and Dialectal Analysis
Suzuki, Hiroyuki
Japan Society for the Promotion of Science/National Museum of Ethnology
Khyungpo, located over the border area of Changdu (Chamdo) and Naqu (Nagchu) districts in Tibet Autonomous Region, is mainly a nomadic area.
e Khyungpo Tibetans have their own dialect of Tibetan, which is regarded as a variety belonging to the nomadic group of Khams Tibetan in previous studies. However, the concrete dialectal characteristics have not ever been known in detail.
is article presents a phonetic analysis and a preliminary dialectal, typo- logical consideration on one of the Khyungpo vernaculars, Khromtshang, spoken in Baqing County, Naqu District. e Khromtshang dialect possesses the following synchronic remarkable characteristics: coexistence of two kinds of suprasegmental distinction, i.e. the tone (pitch) and the register (normal and lax); special consonant phonemes such as palato-velar fricative series ///
/ and voiceless resonants /// ,/; abundant combinations of the initial conso- nant cluster in spite of the existence of the suprasegmentals; multiple kinds of the final consonant; diff erence of the syllabic form depending on its position in a word. And its diachronic idiosyncratic characteristics are: Written Tibetan (WrT) initialPy corresponding to alveolar affricates; drastic sound change corresponding to WrT forms with a final dd or g at the word final position. g The phonetic system of the Khromtshang dialect is almost similar to Amdo Tibetan except for the existence of the suprasegmentals. e problem on the dialectal position of Khromtshang among the Tibetan dialects should be dis- cussed with more data on the dialects spoken around Khyungpo.
Keywords: Khams Tibetan, phonetics, register, consonant cluster, dialectology キーワード : カムチベット語,音声学,レジスター,子音連続,方言学
1 はじめに
中国のチベット語方言の概論を提供する格桑居冕・格桑央京(2002: 72)は,カムチベット 語の中に「牧畜地域下位方言」として現在の西藏自治区東北部や青海省玉樹藏族自治州に分布 する方言を挙げている。しかしその具体的な特徴は,アムドチベット語に近いが声調が存在す るという情報を除いて,記述されていない。同書によれば,西藏自治区那曲[Nag-chu]1)地 区巴青[sBra-chen]県は,この「牧畜地域下位方言」が話される地域とされている。本稿で 扱う方言は,同県東部に位置する雅安[Ya-nga]郷沖倉[Khrom-tshang]村で話されるカム チベット語の一種で,Khromtshang方言と呼ぶ。
1.1 「牧畜地域下位方言」をめぐって
中国のチベット語方言の方言分類を行っている先行研究はいくつかあり,Zhang(1996:
116-177)が当時までの研究をまとめている。ただし,複数の先行研究の提示する方言区分の
相互間の対応が明示されているものは存在しない。方言区分に際して提供されている具体的な 方言名に基づいて,参照者が相互の関係を推測するほかない。ここでは格桑居冕・格桑央京
(2002: 72)のいう「牧畜地域下位方言」について,具体的な地域名を挙げて分類を提示して いる瞿靄堂・金效静(1981)と張済川(1993)の分類と対照してみる。
格桑居冕・格桑央京(2002: 72)が具体的に挙げている「牧畜地域下位方言」の分布地域2)は,
上述の巴青県のほかに,昌都[Chab-mdo]地区丁青[sTeng-chen]県と西藏自治区那曲地区,
1 はじめに
1.1 「牧畜地域下位方言」をめぐって
1.2 本稿の構成
1.3 Khromtshang方言の際立つ音声にか かわる形態の特徴
2 Khromtshang方言の音体系 2.1 超分節音
2.2 母音 2.3 子音 2.4 音節構造 3 超分節音 3.1 声調 3.2 レジスター 4 母音
4.1 非鼻母音
4.2 鼻母音 5 子音
5.1 初頭単子音 5.2 初頭子音連続 5.3 末子音
6 Khromtshang方言における蔵文と口語
形式の対応関係 6.1 初頭子音
6.2 母音および母音+末子音 6.3 超分節音素
7 類型的観点から見るKhromtshang方言 の特徴
7.1 初頭子音
7.2 母音および母音+末子音 8 まとめ
1) 地名など漢字による音写のなされる固有名詞には,初出の箇所で[ ]内にチベット文語形式(以 下「蔵文」)を添える。
2) 漢字表記は同書のものではなく,現在の行政区域名として通用しているものを用いる。
玉樹州雜多[rDza-stod]県,称多[Khri-’du]県,曲麻莱[Chu-dmar-leb]県をあげ,代表 的な方言にsTengchen(丁青)方言とNagchu(黒河3))方言を挙げている。
一方,カムチベット語の下位方言として,瞿靄堂・金效静(1981: 83)は以下の分類を提示 している。
1.徳格[sDe-dge],甘孜[dKar-mdzes],昌都 5.黒河,改則[sGer-rtse]
2.玉樹 6.卓尼[Co-ne]
3.雲南 7.舟曲[’Brug-chu]
4.郷城[Phyag-phreng]
張済川(1993: 308-309)は以下の分類を提示している。
1.迪慶[bDe-chen]
2.卓尼・舟曲 3.中部
(a)東部:康定[Dar-rtse-mdo],雅江[Nyag-chu-kha]
(b)中部:徳格,甘孜,巴塘[’Ba’-thang],郷城,得榮[sDe-rong]
(c)北部:玉樹,嚢謙[Nang-chen],雜多,称多,治多[’Bri-stod],曲麻莱
(d) 西部:昌都,左貢[mDzo-sgang],芒康[sMar-khams],波密[sPo-smad],察 隅[rDza-yul]
(e)牧区:丁青,巴青,那曲,改則
以上の分類と格桑居冕・格桑央京(2002: 72)の分類を比べれば,直前の2種は玉樹州の方 言と西藏自治区の方言を区別しており,単一の下位方言にまとめていないことが分かる。しか し,この種の下位方言に関する記述研究は極めて少なく,実際の言語特徴としてどのようで あるかという全体像は知ることができない。まとまった記述があるのはCausemann(1989)
のNangchen(嚢謙)方言,王青山(1990)のChumarleb(曲麻莱)方言,黄布凡等(1994)
のrDzatod(雜多)方言などで,いずれも玉樹州で話されている。西藏自治区で話される方言
については,瞿靄堂・譚克讓(1983)がGertse(改則)方言の記述を含んでいるほかは,部 分的に瞿靄堂(1991)がsTengchen方言,Nagchu方言に触れる程度である。ただし,これ らの記述を見比べても,それぞれ質が異なるという制限があるとしても,西(1986)が整理 するような分類基準に照らして,1つの下位方言を形成しているとみなせるほど言語特徴を共 有しているとはいえない。特にCausemann(1989)の示す分節音の音体系と黄布凡等(1994)
の示すそれとは少なくない点で共通性を見出せるが,前者は声調の対立を認めず後者はそれを 認めるという,方言分類上の問題に密接に関わる点に分析の異なりが見受けられる。
本稿で扱うKhromtshang方言は,巴青県東部で丁青県と接する牧畜地域で話される変種 である。また,巴青県は玉樹州嚢謙県と北接し,これまでの方言の分類であればちょうど瞿 靄堂・金效静(1981)のいう昌都,玉樹,黒河の3地域の中心にあたり,張済川(1993)の いう北部と牧区の接触地域にあるといえる。そしてKhromtshang方言が話される地域は丁青 3)「黒河」は現在の那曲県の旧称であるから,那曲方言と呼ばれるものと同一であろうと考えられる。
県全体とともにKhyungpoと呼ばれる地域を形成し4),また言語についても母語話者の中に
Khyungpo全体で1つの方言区を形成しているという認識があるという5)。
1.2 本稿の構成
本稿では巴青県雅安郷沖倉村で話されるKhromtshang方言について,チベット語方言研究 で広く行われているように,音体系を記述すると同時に口語形式と蔵文との対応関係を明らか にすることを通じて方言の特徴づけを行う。具体的には,音体系の記述において,まず音体系 全体を提示し(2節),次に超分節音(3節),母音(4節),子音(5節)と分けて考察し,具 体例を提示していく。次いで,6節で方言特徴をよく反映すると考えられる蔵文との対応関係 を分析し,明らかにする。そして,7節で蔵文と口語形式の音対応について,類型的観点から 他のチベット語の方言形式を参照して方言特徴を指摘する。
また,方言の下位区分が先述のように問題点を含むものであるとはいえ,Khromtshang方 言の所属区分を明らかにし決定づける議論は行わない。周辺の方言資料が不十分であるからで ある。
本稿の議論において用いる方言資料は,先行研究を指示する場合を除き,筆者の調査で得 られた一次資料を用いる。Khromtshang方言についての調査協力者はソンジェ・イェヒェ
[Sangs-rgyas Ye-shes]さん(男性)で,巴青県雅安郷沖倉村出身,現在ネパール在住である。
言語調査は2009年5月,同氏が国立民族学博物館における企画展示のために来日した際に行った。
1.3 Khromtshang方言の際立つ音声にかかわる形態の特徴
本稿の主要目的である音声分析を行う前に,Khromtshang方言に見られるきわめて特徴的 な言語現象を紹介しておく。
最も目を引く特徴として,動詞の形態変化をあげることができる。動詞の形態変化はチベッ ト文語に見られるそれの枠組みを超えることはないが,音形の上では文語より多くを提示する 必要がある。簡便のため,伝統的なチベット文法学に規定される名称を参考にして以下に具体 例を示す。
現在 過去 未来 命令
「取る」 終止形
接続形 () () () #
現在 過去 未来 命令
「する」 終止形
接続形 () () () #
以上のうち,「現在/過去/未来/命令」という区分は文語の通りであるが,「終止形/接続 形」という区分はKhromtshang方言に独自の音交替である。蔵文との対応関係を考えれば「終
4) 巴青県は東西で伝統的なチベットの地域区分が異なり,Khyungpoに含まれない西部は那曲地区 全体とともにHorと呼ばれる。
5) ゆえに,本稿の表題において当該方言の前にKhyungpo(瓊波)の名称を冠しているのである。
止形/接続形」は規則的な音交替であるが,共時的な記述として蔵文を介さない場合は,語形 を提示するのにこの区分に言及する必要がある。
共時的記述においても,たとえば文語の「現在」が時制としての「現在」かアスペクトとし ての「未完了」かはさらに議論が必要となる。そのため,本稿で動詞に言及する場合には,文 語の「現在形」を(i),「過去形」を(ii),「未来形」を(iii),「命令形」を(iv)として示す6)。 また,これら4形が一致すなわち無変化の場合は(4),「命令形」を欠き残り3形が一致する 場合は(3#),「命令形」を除く3形が一致する場合は(3)として示す。一方,「終止形」は 無標かつ基本形とし,特に「接続形」に言及する場合は動詞形態の直後に を付す。
また,「終止形/接続形」の音交替は名詞にも見られる。たとえば 「ぶた」と
「めすぶた」の第1音節は共通の来源をもつが,音形がまったく異なる。
Khromtshang方言には以上のような際立つ特徴が認められる。
2 Khromtshang方言の音体系
2.1 超分節音
超分節音には,ピッチの高低による対立を認める声調と,息漏れ/非息漏れ音の対立を認め るレジスターの2種が並存する。
声調は4種類認められ,それぞれ語単位にかかる。
:高平 :上昇 :下降 :上昇下降
レジスターは以下の2項対立で,音節単位にかかる。
(無標):非弛緩 (母音の下に で標示):弛緩
2.2 母音
ほとんどの母音について,長短および鼻母音/非鼻母音の対立が存在する。
6) ただしほとんどの動詞は(i)と(iii)は同形となる。なお,本稿では便宜上動詞と形容詞は異な る品詞であると考え,形容詞にはこの種の形態に関する情報を付加しない。
2.3 子音
子音連続の構成要素としてのみ現れるものも含めた一覧
両唇 歯茎 そり舌 硬口蓋 軟口蓋 声門 閉鎖音 無声有気
無声無気 t
有声
破擦音 無声有気
無声無気
有声
摩擦音 無声有気
無声無気 h
有声
鼻音 有声 N
無声 N
流音 有声
無声
半母音 有声
無声
2.4 音節構造
音節構造は,鈴木(2005)を参照して以下のように記述できる。
CCiGVCC 一部の例について CCiGVCC
このうちCi(主子音)とV(音節核の母音)が必須である。
3 超分節音
超分節音には,ピッチの高低による対立を認める声調と,息漏れ/非息漏れ音の対立を認め るレジスターの2種が並存する。
3.1 声調
Khromtshang方言の声調は,ピッチの高低による対立で実現され,高平調,上昇調,下降
調,上昇下降調の4種に分かれる。弁別的なのは現れるピッチの高さ(調値)ではなく,平板 か上昇もしくは下降などの型(調類)である。声調は語単位でかかるが,3音節以上の語の場合,
第1,第2音節までで弁別的な声調の型を形成し,第3音節以降は[22]程度の高さで現れる。
以下に,語の音節別の調値を5段階で表示した例をあげる。初頭子音の性質によって具体的 な調値に若干の差異が生まれるが,弁別的ではない。
高平調 上昇調 下降調 上昇下降調
1音節語
[S] [S] [S] [S]
「名前」 「人」 「傷」 「目」
2音節語
[SS] [SS] [SS] [SS]
「まつげ」 「水牛」 「孔雀」 「娘婿」
3.2 レジスター
Khromtshang方言をよく特徴づける超分節音的現象として,レジスターによる対立をあげ
ることができる。ここでいうレジスターとは,特にモン・クメール諸語の記述に用いられる場 合の語義と似ており7),喉頭筋肉の作用による声帯の緊張に関する発声上の異なりに由来する 音声現象である。
レジスターは非弛緩と弛緩の2種に分かれる。前者は特別な音声実現に特徴づけられず,無 標とする。後者は初頭子音の調音に続いて息漏れに特徴づけられる音声実現で現れ,聴覚印象 として母音調音時の息漏れや場合によっては初頭子音に有声の気音が付随する現象が認められ る。そのため,弛緩レジスターの表記として,母音の下に を加える方法を選択する。
弛緩レジスターは多くの例で上昇調および上昇下降調,すなわち低声調はじまりのパターン と共起する。これは同要素が低声調に付随する現象であることを示唆するが,実際高声調と共 起する事例もあるため,声調とレジスターは互いに独立するものと分析できる。
含まれる初頭子音 低声調と共起 高声調と共起
「尾根」 「する(iv)」
「適合する(3#)」 「縫う(iv)」
レジスターは声調と異なり,音節単位で現れると分析できる。しかしながら,有標とする弛 緩レジスターを有する音節は,それが同源と認められたとしても,異なる語に含まれるものが 非弛緩レジスターで実現される例もある。
含まれる形態素 非弛緩レジスター 弛緩レジスター
(「山羊」の意) 「羊」 「山羊」
また,同一語でもゆれが認められる語もあるなどレジスターの音声的反映が不安定な場合も あるが,レジスターの差異は形態論的に重要な役割を担っているのが確認されている8)。
7) これはチベット語方言の記述(鈴木(2007),Suzuki(2008)など)に関してこれまで用いられて いる「レジスター」とは異なる音声現象であることに注意が必要である。
8) 特に動詞の形態変化における(iv)形の形成に弛緩レジスターが関与していると見られる。
4 母音
母音には長短および鼻母音/非鼻母音が弁別的である。母音の長短と鼻母音/非鼻母音は互 いに独立しているため,計4種の対立が認められる。ただし,全ての調音点について4種の対 立が認められるわけではない。特に鼻母音は出現に制限が見られる。
末子音を含むとき,母音は通常短母音が現れる。ただし鼻音の末子音に先行する母音は若干 長く半長母音([]など)のように発音されるが,短母音とみなす。
長母音のいくつかは語中において短母音と特定の末子音との組み合わせと交替する。
以下に非鼻母音と鼻母音に分けて,その長短の具体例を並列して掲げる。
4.1 非鼻母音
短母音例 長母音例
涙 中間
火 しみ
がけ 蚤
めす山羊 80
娘婿 和やかな
ふくろう スープ
占い師 皮
炭 あなた(属格)
猫 軟らかい
人 追い出す(ii/iii)
農区 お経
時間 あなた(能格)
4.2 鼻母音
短母音例 長母音例
雲 にせの
旱魃 尾根
朝食
鋭利な
N つらい
寺 N 聞く(iv)
暗い
ぶどう
md 前 bd 7
pts がんばった
5 子音
子音は,初頭単子音,初頭子音連続および末子音に分けて具体例を挙げつつ考察する。
5.1 初頭単子音
単子音の具体例は,可能な限り2例ずつ挙げる。
5.1.1 閉鎖音・破擦音
Khromtshang方言は閉鎖音・破擦音に基本的に無声有気,無声無気,有声の3系列を有する。
前部硬口蓋破擦音////はまれにそれぞれ硬口蓋閉鎖音[]として実現されること がある。
有声音については単子音として現れる例が少なく,またしばしば語中に見られる。
例語 語義 例語 語義
ぶた 腹
羊毛 息子
下男 父
平原 金槌
2つ 今
石 さそり
鋼 血
小麦 6
ボタン 松の木
ヤク 口
雪 どこ
老人 めす馬
空気 祖母
塩 会議
ねずみ
ポット リス
水 あなた(絶対格)
はさみ 男
漢族 腸
5.1.2 摩擦音
Khromtshang方言は摩擦音に有気,無気,有声の3系列を有する歯茎摩擦音,軟口蓋摩擦
音と無声,有声の2系列を有する硬口蓋-軟口蓋中間摩擦音,声門摩擦音,および// /が認め られる。/// /は硬口蓋と軟口蓋のほぼ中間位置もしくはやや軟口蓋寄りで調音を形成する 摩擦音で,軟口蓋音の口蓋化ではなく,また摩擦もきわめて軽微である。
ただし// /については単子音としては存在しない。/// /は語中においてのみ現れる。
例語 語義 例語 語義
土 雹
食べる(i/iii) 露
豹 硫黄
木 鉛
かまど おじ
N 居眠りする(ii) 塩辛い
湯
NN ペン 大腸
靴 まっ黄色の
乳 来る(3)
5.1.3 共鳴音
Khromtshang方言の共鳴音は/// /を除いて有声と無声の系列が存在する。ただし/// /は 語中においてのみ現れる。
例語 語義 例語 語義
バター 火打石
あざ 牛乳の膜
病気である(3#) おば
鼻 赤身
N N 太陽 N 執事
N
N NN 穂 NN 沈殿物
炒める(ii) 私
炒める(iv) 野菜
尾根 子山羊
神 風
死体 山
花 ごみ
上へ 下女
狐 光
大根 レンガ
5.2 初頭子音連続
Khromtshang方言に見られる子音連続の組み合わせは比較的多い。その組み合わせには一
定のパターンが見られる。わたり音を含まないものを考えると,子音連続は例外的なものを除 き,最初頭子音CC/Cと主子音Ciの間の組み合わせについて最初頭子音の性質に基づいて以下 のように分類することができる。
1.前鼻音 3.前気音 5.両唇継続音
2.両唇鼻音 4.両唇閉鎖音
以上において最初頭子音の表記は,鈴木(2005)に示されているように,Cは後続する主子 音Ciより聞こえが十分弱く,CはCiと聞こえが等価であるということを意味する。
以上の子音連続の組み合わせとは独立して,わたり音Gが現れる。よって,最大で以上に 示した組み合わせとわたり音を初頭子音群に含むことができる。
以下,まずわたり音を除く2子音連続について第1要素の特徴によって分類して例を挙げ,
ついでわたり音を含む2子音連続,3子音連続と続けて例を挙げる。
5.2.1 前鼻音
前鼻音は,子音連続間で調音点と有声性が一致するものをさす。
有声音に先行するものと無声有気音に先行するものが認められる。
: 蚊
: 矢
: 鬼
: つるす(i/iii)
: 釘
N : N 未来
: 横の
: 厚い
: 乱す(3#)
: どら
: 集まる(3#)
N : N 稲光が走る(3#)
5.2.2 先行子音が両唇鼻音
有声音に先行するものと無声有気音に先行するものが認められる。
: 矛
: 牧民
: 頭
: 指
: 速い
: 誓い
N : N 下腿
: 派遣する(ii)
: 高い
: 胆嚢
: 僧院長
: 放牧する(i/iii)
: 白塔
NN : NN 竹
: 派遣する(iv)
: 銃
: 米
: 手のひら
: 天蓋
: 魔術師
5.2.3 前気音
子音連続間で有声性が一致する。有声音に先行するものと無声無気音に先行するものが認め られる。
: 雲
: 子馬
: うわさ
: 糸
: 根
: 鉄
: 髪
: 翼
: 教える(3)
: 太い
: 皿
: 羽
: 9
: 火薬
: 背
: がけの多い
: しあさって
: 傷
: 膿
N : N 2
: たてがみ
: 蒸気
: 炒める(iii)
: ジャスパー
5.2.4 先行子音が両唇閉鎖音
子音連続間で有声性が一致する。第2子音は閉鎖音と破擦音に限られる。
: 入れる(ii)
: 細い
: 岩石
: かぶせる(ii)
: 方向
: 鶏
: 小指
: 春
: ニュース
: 蛇
: 孔雀
: 8
5.2.5 先行子音が両唇継続音
先行する両唇継続音には,摩擦音// / と接近音////がある。子音連続間で有声性が一致 する。第2子音は若干の例外を除いて多くが継続音である。
: 握る(3)
: 忘れる(3)
: 殺す(i)
: 話す(3)
: 苦しみ
: 裂く(iv)
: 伝承する(4)
: 酔う(3#)
: 削る(3)
N : N 魚
: 取り出す(ii)
: 裂く(3)
: 四角い
: 14
5.2.6 わたり音を含む2子音連続
わたり音には/// / および/// / がある。/// / は少数例にのみ見られる。
/
// / のもの
: 吉祥
: 渡し場
: 食用種子
: 落花生
: 棒
: 町
: 農区
: 軍人
: 数珠
/
// / のもの
: NN 私生児
5.2.7 3子音連続
: 洞窟
: 命令
: 詮索する(3)
: 親指
: 引く(3)
: 鍛冶屋
: 詰める(3)
: 物乞いする(i/iii)
: 甘い
: 仕立て屋
5.3 末子音
Khromtshang方言には豊富な種類の末子音が認められる。末子音には単子音のものと2子
音連続(わたり音+その他の子音)がある。末子音は先行する母音との共起制限があり,特に 長母音とは結びつかない。
以下,単子音のものと2子音連続のものに分けて具体例を示す。
5.3.1 単子音
単子音の末子音には/// /が認められる。
: ひも
: 内側
: する(iv)
: 裏の
: 方向
: 誤った
: 沸く(i/iii)
: 管理する(i/iii)
: 狭い
: モモ(肉入りぎょうざ)
5.3.2 2子音連続
2子音連続の末子音には/// ;/ が認められる。
: まだ
: 6
: 中指
: 丸太
: ぶた
6 Khromtshang方言における蔵文と口語形式の対応関係
チベット文語形式(以下「蔵文」と書く)と口語形式の対応関係は,チベット語方言の特徴 を分析する伝統的な手法であり,さまざまな先行研究において一定の注目すべき対応関係が示 されている。ただし注目すべき点が分析の対象となる方言によって異なってきて,必ずしも先 行研究に扱われる通りの特徴を見るだけでは十分でない。
ここでは,西(1986)や西田(1987),Tournadre(2005)などに提示される特徴を中心に,
Khromtshang方言における現象を整理する。なお,蔵文はWylie式の転写で示す。チベット
文字の表す音価は格桑居冕・格桑央京(2004: 379-390)を参照。
6.1 初頭子音
6.1.1 閉鎖・破擦・摩擦音の有声性
Khromtshang方言では,閉鎖・破擦音および摩擦音について,蔵文で基字に先行する子
音がない有声音字は,基本的にそれぞれの調音点の無声無気音に対応する。
たとえば,以下のようである。
「チベット人」(bod rigs) ss 「帽子」(zhwa ’go(( )
「熊」(dom) 「銅」(zangs(( s)
また,これらの文字に足字がある場合も同じく無声無気音に対応する。たとえば,以下のよ うである。
「鶏」(bya) 「ラバ」(drel)ll
「壁」(gyang(( gg) 「ナイフ」(gri(( )
以上の蔵文有声音字に先行子音(頭字,前接字)が存在するとき,Khromtshang方言では 有声音で現れる。有声音はしばしば前気音を伴う。たとえば,以下のようである。
「9」(dgu) 「漢族」(rgya rigs)ss
「石」(rdo) 「4」(bzhi)
「蛙」(sbal ba(( ) 「瑪瑙」(gzi(( )
6.1.2 蔵文対応形式
Khromtshang方言では,基本的に硬口蓋-軟口蓋中間摩擦音が対応する。たとえば,以下
のようである。
「肉」(sha(( ) NN「さきおととい」(gzhis nyin(( )
「しらみ」(shig(( gg) 「乳牛」(bzhon ma)
6.1.3 蔵文対応形式
Khromtshang方言では,基本的に前部硬口蓋破擦音が対応する。たとえば,以下のようで
ある。
「水」(chu) 「痕跡」(rjas)ss
「10」(bcu)
6.1.4 蔵文足字対応形式
蔵文足字y対応形式のうち,問題となるのは大きく蔵文Py対応形式とKy対応形式に分か れる。
蔵文Pyは,p, ph, bに足字yを伴う形式を含む形式についていう。
Khromtshang方言では,蔵文Pyに先行子音(頭字,前接字)が存在しない場合,基本的
に両唇閉鎖音を先行子音として伴う歯茎破擦音が対応する。たとえば,以下のようである。
「開ける(i/iii)」(phye(( ee) 「砂」(bye ma)
一方,蔵文Pyに先行子音(頭字,前接字)が存在する場合,基本的に両唇閉鎖音を先行子 音として伴う前部硬口蓋破擦音が対応する。たとえば,以下のようである。
「のりづけする(4)」(sbyar(( rr) 「春」(dpyad ka)
蔵文Kyは,k, kh, gに足字yを伴う形式を含む全ての対応形式についていう。
Khromtshang方言では,基本的に前部硬口蓋破擦音が対応する。たとえば,以下のようで
ある。
「腸」(rgyu ma) 「酸っぱい」(skyur(( rr)
「犬」(khyi) 「速い」(mgyogs)s
6.1.5 蔵文足字対応形式
蔵文足字rを含む形式には,Pr(=pr, phr, brを含む形式),Kr(=kr, khr, grを含む形式),
tr, drなど閉鎖音を含むもののほか,srなどもある。
Khromtshang方言では,蔵文sr, spr, skrを除き,基本的にそり舌閉鎖音を形成する。中で も蔵文Pr対応形式は両唇閉鎖音を先行子音として伴う。たとえば,以下のようである。
「鷹」(khra) 「書く(ii)」(bri)
「6」(drug) gg 「龍」(’brug)gg
「行く」(’gro) 「ミツバチ」(sbrang ’bu(( )
ほかにも,蔵文Pr対応形式の中には,きわめて少数例ではあるが,そり舌音を形成せずわ たり音/// / を含む例が見られる。たとえば,以下のようである。
「双子」(mtsher phrug) gg 「土ねずみ」(a bra)
頭字sを伴う蔵文spr,skrについては,次のような対応関係が見られる。
「雲」(sprin(( ) 「髪」(skra(( )
「猿」(spre’u(( ) 「怖がる(3#)」(skrag(( gg)
蔵文srについては,基本的な対応形式に前気音を伴う歯茎無気摩擦音が対応する。たとえば,
以下のようである。
「薄い」(srab srab(( ) 「硬い」(sra ?(( ??)
6.1.6 蔵文s+共鳴音字を含む形式
蔵文共鳴音字には,各種鼻音およびlとrがある。このうちsrについてはすでに上に述べた。
Khromtshang方言では,蔵文共鳴音字に頭字sを伴う形式には,頭字sを伴わない形式の
無声子音が対応する。たとえば,以下のようである。
NN 「狂人」(smyon pa(( ) 「呪文」(sngags(( s)
「鼻」(sna(( ) 「教える(3)」(slob)
N
N 「心臓」(snying)gg
蔵文sl対応形式は通常前気音を伴う。
6.1.7 鼻音を第1要素に含む子音連続
Khromtshang方言において鼻音を第1要素に含む子音連続には,前鼻音と両唇鼻音がある。
基本的に,前者は蔵文前接字’を含む形式に対応し,後者は蔵文前接字mを含む形式に対応 する。ただし,蔵文前接字’が基字p, ph, bに先行している場合,対応する口語形式は両唇鼻 音になる。たとえば,以下のようである。
「頭」(mgo) 「飛ぶ」(’phur)rr
「唇」(mchu) 「牧民」(’brog pa)
「釘」(’dzer) r 「適切な」(’grig)gg
ただしいくつかの例では,蔵文前接字mを含む形式にも前鼻音が現れることがある。たと えば,以下のようである。
N「肝臓」(mchin pa) 「腎臓」(mkhal ma)
ほかにも両唇鼻音については,蔵文my に由来するものもある。たとえば,以下のようである。
N「経験する」(myong)gg NN 「狂人」(smyon pa(( )
6.1.8 両唇閉鎖/摩擦/接近音を第1要素に含む子音連続
両唇閉鎖音を第1要素に含む子音連続は,先述のように蔵文Py, Pr対応形式に現れる。そ れ以外にも,蔵文前接字bに対応する口語形式として,両唇閉鎖/摩擦/接近音を第1要素 に含む子音連続があり,主子音が閉鎖/破擦音の場合は両唇閉鎖音が,継続音の場合は両唇摩 擦/接近音が現れる傾向にある。たとえば以下のようである。
「主人」(bdag po) 「4」(bzhi)
「10」(bcu) 「錫」(bsha’)
「搾る(i/iii)」(bzho)
6.2 母音および母音+末子音
基本的な対応関係は以下のように示すことができる。ただし,蔵文再添後字sは口語形式に 明確な対応関係を得られないため,以下の表では省略する。Khromtshang方言では絶対語末 に現れる形式(終止形)と語中に現れる形式(接続形)で異なりを見せる場合があるため,そ の差異がある場合には「終止形//接続形」として示す。/は複数の対応関係が見られる場合 に用いる。また,いくつかの対応形式は不明であるため,空白にしてある。
V\C # / ’ b 終//接
d 終//接
g 終//接
m n ng
終//接
r l s
Khromtshang方言では,かなりの程度で蔵文と口語形式の対応関係が明確であるが,必ず
しも対応関係は一対一になるとは限らず,上に示したのは主要な傾向である。
基本的な傾向として,蔵文で開音節のものは短母音と対応し,閉音節では歯茎音d, n, sを 除いて蔵文と対応する調音点の末子音を伴うことが多い。
6.3 超分節音素
Khromtshang方言には,超分節音素として声調とレジスターがある。以下,それぞれにつ
いて蔵文との対応関係を考察する。
6.3.1 声調
声調を有するチベット語方言の分析において,声調の歴史的発展は議論されるべき重要な問 題である。ここでは通時的な議論で注目される蔵文との対応関係を基準に述べる。
Khromtshang方言では,蔵文と声調の対応関係が比較的明瞭に現れるのは単音節語の事例
に限られる。複音節語の声調パターンは,蔵文との対応のみで決定されるものではないようで ある。このため,以下に示すのは単音節語の事例のみとしておく。
Khromtshang方言の声調体系は,語声調で語頭の音節初頭部が高いか低いかの異なりと音
節末尾で下降するかしないかの2通りで構成され,計4種の弁別が行われる。チベット語の
声調発生は音節初頭子音群の単純化と密接な関連がある。Khromtshang方言の場合,先に述 べた母音と同様に,簡潔に対応の傾向を述べると,以下のようになる。(無指定)とする点は,
声調の現れと頭字/前接字の有無に関連性があまり見られないものである。
頭字/前接字 基字など 声調
(無指定) 無声無気閉鎖・破擦・摩擦音 高
(無指定) 無声有気閉鎖・破擦音 高・低 なし 有声閉鎖・破擦・摩擦音 低 あり 有声閉鎖・破擦・摩擦音 高・低
なし 共鳴音 低
あり 共鳴音 高
(無指定) 足字l 高
以上のうち,無声有気閉鎖・破擦音および頭字/前接字を有する有声閉鎖・破擦・摩擦音に 対応する口語形式では,声調に高・低の両方が現れる。しかし声調の現れは語ごとに固定され ているため,蔵文の対応関係以外の要因が影響している可能性が指摘できる。
共鳴音の場合,原則的に頭字/前接字がなければ低声調はじまりに,頭字/前接字があれば 高声調はじまりに対応する。
以上にまとめたのが音節初頭における声調の高さの蔵文との対応関係である。音節末におけ る声調の下降の有無については,現段階では蔵文との対応関係で説明を与えることは困難である。
6.3.2 レジスター
レジスターには,無標の非弛緩と有標の弛緩があるが,共時分析の箇所でも述べたように,
多くの例で弛緩レジスターは低声調はじまりの声調パターンと共起する。つまり,このことは 直前に述べた低声調に対応する蔵文形式と関連があるといえる。具体的には,有声閉鎖・破擦・
摩擦音字と頭字/前接字を伴わない共鳴音と関わりがあるが,中でも弛緩レジスターは頭字/
前接字を伴わない有声閉鎖・破擦・摩擦音字,すなわち口語形式では低声調無声無気閉鎖・破 擦・摩擦音と共起する例が非常に多い。このことは,蔵文有声音字の無声化と関連している現 象であるということができる。
その一方で,動詞のiv形では,声調および初頭子音の性質に関わりなく弛緩レジスターが 現れることが確認でき,一定の形態論的手続きにおける機能があるものと分析することができ る。ただし弛緩レジスターの出現は義務的ではないため,規則性があると断言はできないが,
レジスターは蔵文とは異なる起源をもつ側面がある。
7 類型的観点から見るKhromtshang方言の特徴
ここでは,前節で明らかにしたKhromtshang方言と蔵文との対応関係について,主として 他のカムチベット語方言との対比を通して,類型的観点からKhromtshang方言の特徴づけを 行う。ここでの議論の目的は,Khromtshang方言に見られる蔵文との対応関係について特に カムチベット語における共通点と相違点を明らかにすることであり,系統論とは一線を画する。
言及する方言および方言区分の名称は基本的にSuzuki(2009a)の見解に従う9)。同論文に 含まれない方言については,初出の箇所で出典を明記する。
以下,前節で示した項目の順序を踏襲し,議論を進める。ただし,超分節音については問題 を多く含むため,独立した項目として扱わず,関連が明瞭に見られる初頭子音の項目で合わせ て扱う。
7.1 初頭子音
7.1.1 閉鎖・破擦・摩擦音の有声性
Khromtshang方言では,閉鎖・破擦音および摩擦音について,蔵文で基字に先行する子音
がない有声音字g, j, d, b, dz, zh, zは,基本的にそれぞれの調音点の無声無気音かつ低声調始 まりに対応し,場合によっては弛緩レジスターで現れる。また,これらの文字に足字がある場 合も同じく無声無気音に対応する。
この対応関係について類型的に見ると,有声音を維持するかどうか,および閉鎖・破擦音と 摩擦音で有声性が並行するかどうか,という2点が問題になる。このうち,閉鎖・破擦音で有 声音を維持するタイプは限られた一部の方言10)にのみ見られ,少なくとも筆者の分類による カムチベット語諸方言において現段階では確認されていない。このため,カムチベット語に関 する事例は以下のように整理できる。当てはまる代表的な方言(方言区分)を挙げつつ示す。
1.閉鎖・破擦音,摩擦音ともに無声音化(=Khromtshang方言)
以下に掲げるもの以外11)+Chamdo(昌都)方言(金鵬1958),Nangchen方言(Causemann 1989),rDzatod方言(黄布凡等 1994)12)など
2.閉鎖・破擦音で無声化,摩擦音で有声音を維持 Minyag(木雅)方言群南部下位方言群
一方,蔵文有声音字g, j, d, b, dz, zh, zに先行子音(頭字,前接字)が存在するとき,
Khromtshang方言では有声音で現れる。有声音はしばしば前気音を伴う。これに関して,上
に分類した3.に当てはまる方言群でもまた,同様の現象が確認され,Khromtshang方言が音 対応の主流の一部を成しているといえる。
なお,声調の現れについても,声調を有するカムチベット語の場合,上記1.に分類される ものは基本的にKhromtshang方言と同様低声調始まりになる。一方レジスターについて注目 すると,近似する現象がNangchen方言とrDzatod方言に認められ,それは無声化している 初頭子音が分節音としての有声声門摩擦音を伴って現れるものである。弛緩レジスターの主要 な音声学的特徴は母音調音時の息漏れであり,この特徴に対し有声声門摩擦音という分析が行 われたとしても不自然ではない13)。
9) Suzuki(2009a)では,四川省および雲南省を中心とする地域に分布するカムチベット語,アムド
チベット語,ヒャルチベット語に関する言及がなされている。
10)ヒャルチベット語dPalskyid(巴西)方言群が該当する。孫天心(2003),鈴木(2007)など参照。
11)本節においてこの断り書きによる言及はSuzuki(2009)の扱うカムチベット語の範囲に限定され る。Suzuki(2009)に含まれない方言は,各項で + に続けて方言名を掲げる。
12)ただし,Nangchen方言とrDzatod方言は分節音として「息漏れ無声子音」を認め,それがこの 蔵文形式に対応する。
13)弛緩レジスターの対応関係をめぐっては,形態論的な問題ではあるが,次のようなことが指摘され る。Haller(2004: 269)やSun(2005)が記述するチベット語方言において,本稿でいう動詞の(iv)
形が有気音になるという改新と,Khromtshang方言における(iv)形が弛緩レジスター,すなわ ち息漏れで実現されるという点は,並行する関係にあると見える。
7.1.2 蔵文対応形式
Khromtshang方言では,基本的に硬口蓋-軟口蓋中間摩擦音が対応する。
類型的に見ると,カムチベット語では蔵文sh, zh対応形式は両者とも共通の調音点で実現 される14)。
主要な調音点別について,カムチベット語で当てはまる代表的な方言(方言区分)を挙げつ つ以下のように整理できる。
1.前部硬口蓋摩擦音
Minyag方言群,Rongbrag(丹巴)方言群,Chaphreng(郷城)方言群,sDerong- nJol(得榮徳欽)方言群sDerong(得榮)下位方言群
2.硬口蓋摩擦音/軟口蓋摩擦音(条件変異)
北路方言群,南路方言群,Muli-nDappa(木里稲城)方言群+Chamdo方言,Nangchen 方言,rDzatod方言
3.そり舌摩擦音
Sems-kyi-nyila(香格里拉)方言群,sDerong-nJol方言群のsDerong下位方言群以外 4.硬口蓋-軟口蓋中間摩擦音(=Khromtshang方言)
Khromtshang方言以外該当なし
Khromtshang 方言に見られる調音動作は舌面後部を硬口蓋と軟口蓋の中間に向かって持ち 上げるというものであるから,調音動作としては2. に近いといえる。同方言には,アムドチベッ ト語の蔵文sh対応形式に見られるような二重調音は認められない。
7.1.3 蔵文対応形式
Khromtshang方言では,基本的に前部硬口蓋破擦音が対応する。カムチベット語ではいく
つかの調音上の異なりが見られ,以下のように整理できる。
1.前部硬口蓋破擦音(=Khromtshang方言)
以下に掲げるもの以外+Nangchen方言,rDzatod方言 2.そり舌破擦音
Sems-kyi-nyila方言群,Rongbrag方言群sProsnang(中路)方言など 3.硬口蓋閉鎖音
sDerong-nJol方言群sPomtserag(奔子欄)下位方言群
14)アムドチベット語では両者で調音点が異なっている場合が多い。調音点については若干注意すべき 現象があるため簡潔に説明すると,ほぼ全ての方言で蔵文対応形式が前部硬口蓋摩擦音となっ ている一方で,蔵文対応形式は方言によって細かな差異があり,主要な対応音として後部硬口 蓋から口蓋垂にかけてせばめを作り,かつ前部硬口蓋にも舌面を接近させることによって得られる 二重調音の特徴があるが,前部硬口蓋におけるせばめは若干弱い。
筆者は後者の表記に主として/// /を選択しているが,中国の文献では特に/// / が用いられること が多い。ほかにも研究者によって//////,/// /などのような記述方法が見られる。いずれの表記にも 音声的情報が十分反映されておらず正確性を欠いているのは否めないが,厳密にこの音声特徴を生 かした表記には困難が伴う。また,前部硬口蓋摩擦音で蔵文zh対応形式と同一の調音点になる方 言は少数派である。
一方,ヒャルチベット語はカムチベット語とアムドチベット語の両者の特徴を兼ねている方言が 多い。