カムチベット語 Sangdam 方言の音声分析とその方言特徴
鈴 木 博 之
(日本学術振興会)
Khams Tibetan Sangdam Dialect Phonetic and Dialectal Analysis
Suzuki, Hiroyuki
Japan Society for the Promotion of Science
This article concerns the phonetic analysis and preliminary dialectological consideration of the Sangdam dialect, one of the lesser-known Tibetan dia- lects spoken in Dazundam Village Tract, Pannandin Sub-township, Nogmong Township, Putao District, Kachin State, Myanmar. e Sangdam dialect pos- sesses the following dialectal particularities: a word-tone system with four- way pitch tonal distinction; peculiar consonant phonemes such as /c, c, ,
, / and a lack of /N, N/; peculiar vowel phonemes such as /, / and several vowels with normal, creaky and pharyngealised distinctions other than the length and oral-nasal contrasts. From the viewpoint of sound correspondence with Written Tibetan (WrT), the corresponding forms of WrT c, ny, sh; ag, ig to /c, n, -x; a, / are respectively noteworthy. Most of these typological characteristics are unique to this dialect. e basic analysis of this paper shows that the Sangdam dialect defi nitely belongs to Khams Tibetan.
1. はじめに
1.1. ミャンマーのチベット語
1.2. 本稿で扱う資料
1.3. 本稿の構成
2. Sangdam方言の音体系
2.1. 超分節音
2.2. 母音 2.3. 子音
2.4. 音節構造
3. 超分節音
4. 母音
4.1. 短母音・長母音・鼻母音
4.2. きしみ音化母音・咽頭化母音
5. 子音
5.1. 初頭単子音
5.2. 初頭子音連続
5.3. 末子音
6. 蔵文との対応関係によるSangdam方言の
特徴づけ
6.1. 初頭子音
6.2. 母音+音節末形式
6.3. 声調
Keywords: Khams Tibetan, phonetics, creaky voice, pharyngealised vowel, dialectology
キーワード : カムチベット語,音声学,きしみ音,咽頭化母音,方言学
1. はじめに
カムチベット語は中国チベット自治区昌都[Chab-mdo]1)地区,那曲[Nag-chu]地区,四川
省甘孜[dKar-mdzes]藏族自治州,青海省玉樹[Yul-shul]藏族自治州,雲南省迪慶[bDe-chen]
藏族自治州を中心とする地域で用いられる,相互理解の困難なさまざまな方言を擁する言語で ある。本稿で記述するSangdam方言は,チベット自治区および雲南省と接するミャンマー国 内で話されるものである。
1.1. ミャンマーのチベット語
チベット語方言の全体像を紹介した先行研究は複数見られる(西(1986),Tournadre &
Sangda Dorje(2003: 17-20),Tournadre(2005, 2008)など)が,その枠組みの中で分布地 域としてミャンマーをあげている文献はこれまで未見であり,また同国におけるチベット語話 者の存在についても十分な情報がもたらされることはなかった2)。その中で,ミャンマーのチ ベット人に関する記述には,尾崎(1997)やLasi Bawk Naw(2003, 2007),Klieger(n.d.) をあげることができる。ミャンマーは中国のチベット自治区および雲南省と国境を形成してお り,チベット文化圏に接していることから,決してチベット語分布地域として飛び地を形成し ているわけではない。ミャンマーのチベット人は,同国北部に位置するカチン州のもっとも北 の地域に暮らしており,少なくとも4つの村がある。話者の総数は300人あまりと見られる3)。
チベット人の暮らす村に関する地理的な情報としては,各村とも行政区分においてカチン 州(Kachin State)プタオ県(Putao District)ノモン郡(Nogmung Township)パンナン ディン準郡(Pannandin Sub-township)ダズンダム村落群(Dazundam Village Tract)に属 し,東から順にタハンダン(Tahaundam),シドゥダン(?)4),サンダン(Sandam),マデュ ン(Mading)の4か村がチベット人の集落に該当する5)。現地のチベット人の情報6)によると,
7. Sangdam方言における借用語と特徴的な
語形式
7.1. 漢語来源借用語
7.2. ビルマ語来源借用語
7.3. 語源不明の語彙
8. まとめ
1) 地名など漢字による音写のなされる固有名詞には,[ ]内にチベット文語形式(蔵文)を添える。
2) 言語の分布に関しては,Bradley(1993: 170)がミャンマー最北にある8つの村にカムチベット語 の話者がいることを報告している点が特筆に値する。
3) Klieger(n.d.: 128)は,1997年のミャンマーの国勢調査においてミャンマーのチベット人総人口 が約200人と報告されていると紹介している。
4) 入手可能な地図および地名資料には記載されていない。
5) 地名のカナ表記はラワン語音(ただしチベット人居住地の4か村はチベット語音)に近くなるよう にしたため,尾崎(1997)の記述と異なる場合がある。
なお,Klieger(n.d.: 128)は1997年のミャンマーの国勢調査の報告として,チベット人はSaden,
Maden,Tehaundanの3か村に住むと述べ,これらはここで述べたサンダン,マデュン,タハン
ダンにそれぞれ相当すると見られる。
6) 以下に言及する地理的情報に関しては,チベット語の長文資料として採集した口述の旅行記の一部 に基づくものである。筆者は当該地域を訪れたことがない。
また,この旅行記の中にはミャンマーの行政区分に関する現地チベット人の漢語名すなわち中国 の行政区分を当てはめた場合にどうなるかというくだりが含まれており,調査協力者の認識ではダ ズンダムを/ tsũ/「村」,パンナンディンを//「郷」,ノモンを/′/「県」とみなしている。
この地域はカチン州州都ミッチーナー(Myitkyina)から車+徒歩で14〜17日かかる7)山地 に位置し,ミャンマーで最も高い山カカボラジ(Hkakabo Razi)の山麓近郊にあたる。ノモ ン郡内のパンナンディン村までは車道が通っているが,ミッチーナー〜ノモン間以外は基本的 に徒歩での移動が主流である。同地域についての詳細な地図として,外邦図8)「サディヤ」お よび「ミチイーナ」,尾崎(1997: 50),Klieger(n.d.: 128)および青木(20109))があり,当 該の外邦図は1942年作成の50万分の1の地形図で,尾崎(1997: 50)は1995年時点でのプ タオからカカボラジに至るルート上にある村落の位置について詳しく,Klieger(n.d.: 128) は2003年時点でのプタオからカカボラジに至るルート上にある村落の位置について詳しく,
青木(2010)は第二次世界大戦中期までに集約可能であった地理的情報をまとめたもの10)で,
尾崎(1997: 50)およびKlieger(n.d.: 128)の示すものとほぼ同様のルートについての状況
に関する注が豊富な地図である。
チベット人居住地域周辺の主要構成民族はラワン族が多数を占める。チベット人の村落内で はチベット語の使用が日常的である一方,周辺一帯において異なる民族間の会話には一般にラ ワン語が用いられる。同地域のチベット人も基本的にラワン語を操る。ただし初等教育がビル マ語で行われていることから,ビルマ語を操る話者も少なくない。初等教育を受けた話者はビ ルマ文字の読み書きができるが,チベット語(文字)の教育は存在しないため,チベット文 字の読み書きはできない。また,チベット人の集落の名称もおそらくはラワン語起源であり,
-damというのはラワン語における「平地」を意味する語である可能性が高いという11)。 同地域のチベット人によると,約150年前12)に現在の中国チベット自治区に位置する察隅
[rDza-yul]県の一帯から当地へ移住してきたということである13)。現在でも察隅県側に親戚が
あり,頻繁ではないものの往来があるとのことである。また,同地のチベット語話者の感覚と しては,先述の4か村におけるチベット語にはほとんど違いがないという。また,察隅県の方 言14)よりは同地域に東接する中国雲南省怒江傈僳族自治州貢山獨龍族怒族自治県丙中洛郷の チベット語方言に近いという15)。
7) 尾崎(1997)の記述によれば,1995年当時はプタオからタハンダンが徒歩で2週間の距離である。
8) 第2次世界大戦中に旧日本軍が作成した軍用地図で,京都大学や東北大学などに所蔵されている。
『京都大学総合博物館収蔵外邦図目録』(2010)などの目録が出版されている。詳細は小林編(2009)
を参照。
9) 表紙カバーおよび付属DVD-ROMに収録の付図第十号(二)(表題「藏緬印國境接觸地帶通路ノ 概況」)という地図が該当する。
10)そのため,外邦図とは異なる性格のものである。
11)この地域において,チベット語に由来する地名はほとんど存在しない。ただしプタオはSangdam 方 言 で/ gdi/と 呼 ば れ, ノ モ ン は/ l mõ/と 呼 ば れ, カ カ ボ ラ ジ(Hkakabo Razi)の Hkakaboの部分はチベット語kha ba dkar poに由来する。中国雲南省に位置する梅里雪山のチベッ ト名と同一であるが,これは/©ne c ‵k k bo/と呼ばれて区別される。
12)尾崎(1997: 59)の記述では,約200年前に移住してきたとある。
13)現在ミャンマー国内におけるチベット人居住地域の北東側は,中華民国期には山を挟んですぐの地 域が西康省に属していたことが外邦図「サディヤ」および「中甸」(京都大学所蔵のもので確認) からうかがえる。
なお,青木(2010)「付図第十号(二)」では,この地域の主要なチベットへの交通路として,マデュン 村から目下インド実効支配のアルナーチャル・プラデシュを経由して察隅県に入るルートが記載さ れているが,筆者の調査協力者の意見では,タハンダン村から北上するルートで察隅県に入るという。
14)察隅県で話されるチベット語方言はカムチベット語に属すると考えられるが,複数の互いに通じな い方言群が認められる。
15)筆者の調査協力者は実際に双方の土地を訪れたことがあり,この言及は事実に基づいた判断であっ て,伝聞ではない。ただし,チベット言語学上の方言の遠近は別の問題である。
本稿で記述するのはサンダン村で話される方言である。この上述の村のローマ字表記
Sandamはビルマ文字表記からの転写に基づいているが,同地におけるチベット語の発音との
関連を考慮して,Sangdamとつづることにする16)。
1.2. 本稿で扱う資料
本稿で扱うSangdam方言の資料は,2009年12月,ミッチーナーにおいて1人の協力者(20 代男性,サンダン村出身)から媒介言語を介して聞き取ったものである。基礎語彙,基礎構文 のほか,会話形式の長文資料も聞き取った。
筆者は調査に際し,チベット語とビルマ語の資料を準備していたが,調査開始時までラワ ン語が日常用いられる言語であることを知らなかったため,ラワン語による聞き取りは行え なかった。チベット語は筆者が以前に調査していた察隅県木宗[Mo-grong]郷のMogrong方
言,巴塘[’Ba’-thang]県県城のmBathang方言,徳欽[bDe-chen]県県城のnJol方言,徳格
[sDe-dge]県県城のDerge方言を,媒介言語として機能するかどうか,すなわち相互の通用度
をはかる目的で用い,その過程でmBathang方言の通用性が最も高いことが判明した17)。基 礎語彙の形式に関する調査では,チベット語の他方言の形式が混入したり,意味上の誤解が生 じたりしないように,チベット語を媒介言語にした場合とビルマ語を媒介言語にした場合の 2通りを行った18)。本稿での分析対象は,ほぼこの過程を通じて得られた語彙資料に基づいて いる。
なお,Sangdam方言は,その話者の移住の歴史,言語の通用性,および同方言自体のもつ 本稿で分析するような言語学的諸特徴から,カムチベット語に属するといえる。ただし,その 下位方言区分においていずれに位置するかは比較検討すべき方言資料が不足していることか ら,決定的な意見を述べることはできないが,mBathang方言の属する南路方言群に近いので はないかと見込まれる。
1.2. 本稿の構成
本稿の目的は,Sangdam方言の音体系を記述し,その特徴を分析することにある。Sangdam 方言は,Suzuki(2010)を除き先行研究において具体的な言語事実が記述されたことがない ものであることから,まず音体系全体を提示し(2節),次に超分節音(3節),母音(4節),
16)サンダン村については,カカボラジに向かうルートと異なる地点に位置しているため,先に紹介し た尾崎(1997: 50),Klieger(n.d.: 128)の地図には記載されていない。外邦図「サディヤ」およ び青木(2010)「付図第十号(二)」においては,サンダン村の付近にそれぞれ「サコンダム」も しくは「ハイタ」と呼ばれる村落が記載されている。中国で出版された察隅県の地図でも,同県の 主要な地名とともにサンダン村の付近と見られる地域に「沙孔丹」と記載のあるものがある(《西 藏百科全書》(2005: 53)など)。
17) Suzuki(2009)の方言分類によれば,Mogrong方言およびmBathang方言はカムチベット語南路 方言群に属し,nJol方言はsDerong-nJol方言群に属し,Derge方言北路方言群に属する。
なお,Mogrong方言の調査協力者から聞いた話として,察隅県木宗郷に居住するチベット 人は,かつて巴塘から移住してきたという。確かに両者は多くの部分で共通点が認められるが,
Sangdam方言の協力者にとっては,筆者の話すmBathang方言のほうが理解しやすいという。な
お,筆者の話すmBathang方言は格桑居冕(1985)に記述されるmBathang方言に近い。また,
nJol方言の音声特徴の概観については鈴木(2008)を,Derge方言の全体像については格桑居冕・
格桑央京(2002: 91-172)をそれぞれ参照。
18)調査票として典拠にした文献が異なるため,2通りの調査で必ずしも同じ語彙項目を記録したわけ ではない。
子音(5節)と分けて考察し,具体例を提示していく。そして6節において口語形式と蔵文と の対応関係を分析する。7節では,借用語を中心とした特徴的な語彙形式について取り上げる。
なお,本稿では鈴木(2010: 113-118)で行われているような,複数の方言との対照による 類型的観点からの分析に1節を割かず,6節において注記するにとどめる。それは先に述べた ように,比較対照にするべき方言資料が不足しているからである。カムチベット語については,
Suzuki(2009)にも示されているように,分布地域の南部で話される一連の方言群について
きわめて複雑な分類が行われている。カム地域南部で話されるカムチベット語諸方言の比較対 照研究は,議論の対象となる方言の近隣に分布する諸方言の資料をそろえた上で議論を行わな い限り,有効な結果を提示できる可能性は低く見積もられるであろう。
2. Sangdam方言の音体系
2.1. 超分節音
ピッチの高低による4種の声調が認められる。大部分は語声調として実現され,語の前に以 下の記号で表す。
:高平 ′:上昇 ‵:下降 :上昇下降
2.2. 母音
母音は通常母音,きしみ音化母音,咽頭化母音が認められる。
通常 i e a o u
きしみ音化 i. e. a. . o.
咽頭化 e a o
それぞれ長短,鼻母音/非鼻母音の対立も認められる。
2.3. 子音
子音連続の構成要素としてのみ現れるものも含めた一覧は以下のようである。
両唇 歯茎 そり舌 前部硬口蓋 硬口蓋 軟口蓋 声門
閉鎖音 無声有気 p t k
無声無気 p t k
有声 b d g
破擦音 無声有気 ts t c
無声無気 ts t c
有声 dz d
摩擦音 無声有気 s x
無声無気 s x h
有声 z γ
鼻音 有声 m n
無声 m n
流音 有声 l r
無声 l r
半母音 有声 w j
主要な初頭子音連続として,前鼻音,前気音が認められる。
2.4. 音節構造
音節構造は鈴木(2005)を参照して以下のように記述できる。
CCiGVCC
このうちCi(主子音)とV(音節核の母音)が必須である。
3. 超分節音
先に紹介したように,Sangdam方言にはピッチの高低による4種の声調が認められる。大 部分は語声調として実現されるが,最大で2音節を単位とし,3音節以降は低平〜中平のピッ チで発音され,弁別的でない。
以下に1〜2音節語の声調の具体的な現れを示す。[ ]内には各音節の分節音をSで代表し,
その右肩に調値を5段階で表示する。
高平 上昇 下降 昇降
1音節語 n ′n ‵ni ne
[S55] [S24] [S52] [S132]
「目」 「人」 「2(個)」 「病人」
2音節語 na to ′n ma. ‵ne sõ n x
[S55S55] [S13S54] [S55S42] [S24S53]
「耳」 「太陽」 「探し出す」 「20」
以上に示した調値は,初頭子音によって若干異なりが現れるが,弁別的ではない。声調は型 が弁別的に作用すると考えられる。
また,母音の項(4節)で扱うきしみ音化は,Sangdam方言においては母音の特徴であり,
超分節音的音特徴に数えることはできない。それは次のような最小対が認められるからである。
ka. 「疲れた」 ta. 「(馬に)乗る」
‵ka. 「命令」 ‵ta. 「運ぶ」
なお,きしみ音化母音をもつ音節の声調は末尾において若干下降するが,それは声調の型に 関係することはなく,以上の例のように,高平と下降の弁別が行われる。
4. 母音
母音には通常の口腔内調音に加えて,きしみ音化,咽頭化19)の特徴を帯びるものが互いに 弁別的である。また,長短および非鼻母音/鼻母音の対立も認められるが,長鼻母音は存在し ない。鼻母音はしばしば短母音より長くかつ長母音より短く発音される。
4.1. 短母音・長母音・鼻母音
//は鼻母音のみが存在する。//は長母音が存在しない。//は鼻母音が存在しない。
短母音例 長母音例 鼻母音例 i ′a ni 鉛 tsi 探す ‵ 木 e ′pa ze スカーフ ′ke tsõ 昨日 k 口蓋
′p ts 淡い l k 大腿 ′ 中国の県 a ′©ra 虹 ka 上方 ka. nã 顔
z 瑪瑙 破れる c z バケツ
c w 犬歯 t 金槌 ‵©n 天
ha j フライパン
l pa 蒸気 ′k s ビルマ式麺料理 ′k 満ちた
c 水 ‵p 草地 o ‵tso 湖 t ko 曼荼羅 dã bõ マニ石 u ′ti u 弾 wγo ku 備中鍬 p tsũ 閉ざす
©j 碧玉 ‵k 背負う
′b 吹く p 酸っぱい ‵©d 7
‵n ′b 居眠りする ‵ka ‵k 回る ′t 着る
19)これまで記述されてきたチベット・ビルマ系言語の中では,通常「きしみ音化」および「咽頭化」
双方を「緊喉」と記述することが多かったが,この両者は対立を形成するSangdam方言ではもち ろんのこと,いずれの言語の記述においても混同されるべきではないことを鈴木(2011b)が主張し ている。なお,この両者が対立をなす言語にビルマ語Myeik方言がある(Kato & Khin Pale 2012)。
4.2. きしみ音化母音・咽頭化母音
きしみ音化母音,咽頭化母音は母音の質によって限定的な現れを見せる。
きしみ音については音質について注意が必要で,きしみの度合いは極めて弱く,通常の発話 ではきしみを伴わない音声実現も認められる。一方,強調して発音する時には聴覚印象として 明瞭に聞こえる。きしみ音は強調した発音のときであっても末子音成分として声門閉鎖音を伴 うことはない。通常の発話においてきしみの度合いが弱いということを考慮して,表記には[ ] を用いず,ビルマ語の表記に用いられる[(V).]を採用する20)。
なお,きしみ音化母音の舌位置は各母音の通常の舌位置と大きく変わることはない。一方,
咽頭化母音については各母音の通常の舌位置が若干低くまた前寄りになる。
以下に,通常母音,きしみ音化母音,咽頭化母音の例を掲げる。
通常母音例 きしみ音化母音例 咽頭化母音例 i ki ma 腎臓 ni. l 夢
e ′ke tsõ 昨日 tse. 遊ぶ h da 店主
l k 大腿 c 鉄 a ka 上方 ‵ka. 口 ′ra 山羊
′k n どこ p t 拭く
′k ji フォーク ‵. 鼓 d 月
k bo 乾いた
′k s ビルマ式麺料理 ‵©d 切り落とす
k b 足
o ko wa 輪廻 ′o. ma 乳 ′xo 紙 u ‵ku 病気の
k 仕立て屋
k ma 泥棒
‵ka ‵k 回る ‵p 官吏
5. 子音
子音は,初頭単子音,初頭子音連続および末子音に分けて具体例を挙げつつ考察する。
5.1. 初頭単子音
単子音の具体例は,可能な限り2例ずつ挙げる。
5.1.1. 閉鎖音・破擦音
Sangdam方言に特徴的な音素として,硬口蓋破擦音の系列が存在する。
/dz, /については単子音として存在しない。
20)この表記法はCornyn & Roop(1968)や藪(1970)などがビルマ語の記述において採用している。
例語 語義 例語 語義 p pa ぶた ‵pe 到着する p pa 写真 ‵pe 空間 b ‵ba x 藤 bi ja ビール t ta pa. 縄 ti a 埃 t ta rõ トゥルン人 ′ti u 弾 d ′da s ごみ ′di ts la 前世
‵a. とんび i 牽引する
′a pa 僧侶 ′i t ペン
‵je しゃっくりする
k ka. nã 顔 ki ma 荷駄獣 k ′k ji フォーク ′ke pa がけ g ′g t ジンポー人 ′go ©di 98
a ra 酒 ow ra モルモット ts ′tsa wo 孫息子 tsi ラード ts ′tsa be 蜘蛛 ′ts tsi テーブル dz
t ta 鳩 te 右 t ′ta 鶏 ′ti u ひよこ d ′da tso 海 d zo 家畜 c sa ca 土地 t ci スプーン c ′ca o ひしゃく ′ce d 皿
5.1.2. 摩擦音
Sangdam方言は基本的に摩擦音に有気,無気,有声の3系列を有し,かつ硬口蓋摩擦音/, , /
の系列といった特徴的な音素が認められる。
例語 語義 例語 語義 s ‵sa 地 se ra 雹 s ′sa me ro a 友人 ′se n ゴマ z ′za go ごはん ze ja とさか
′ do 尻 ′ ba 湿った
bo 死んだ i 理解する
′ wa c 100万 e 幸せな
卯年
′a ma ka ra 氷砂糖 i ガラス
′a ni 鉛 ′e p 娘婿
a 底 ′ sa 農区 x x しらみ x pa 柏 x xa i 鬼 ′©d x 太鼓
γ γa m ベッド ′a γ 母方のおじ h ha j フライパン ‵h 靴
′a la 今 ′o. ma 牛乳
一部の語においては,/, , /が自由変異としてそれぞれ[x, x, ]で実現されることがある。
ただし,逆に/x, x, /と記述される音には[, , ]の自由変異は含まない。
5.1.3. 共鳴音
Sangdam方言の共鳴音は半母音/w, j, /を除いて無声音系列が存在しない。
//は音節末子音(の一部)としてのみ現れる。
例語 語義 例語 語義 m ′ma c 料理人 ‵mi ta 電車 m m l 祈願 m ba 医者 n ′na. 魚 ni. l 夢 n ‵na. 鼻 ‵n 心臓
′a 私[絶対格] ′i 私[属格]
‵ 呪文 kõ 枕 l la ma ラマ ′li 運命 l l a mo 女神 l ba ©d 繕う r ′ra 山羊 ′re 布 r a ra j 燕 p r プル j ‵ja ka 暖かい季節 ′ji ge 本 w ′wa ts 靴下 wej いのしし
5.2. 初頭子音連続
Sangdam方言に見られる子音連続の組み合わせの総数は比較的多いが,その組み合わせに
は一定のパターンが見られる。
わたり音を含まないものを考えると,子音連続は例外的なものを除き,最初頭子音が鼻音(前 鼻音)と声門摩擦音(前気音)のものに二分できる。この要素と主子音は有声性の面で一致す る。これらとわたり音は共起可能であるため,最大で3子音連続を認めることができる。
極めて例外的と考えられるCC-型の子音連続が2例において認められる。まずこの例外に ついて紹介する。
w - wγ : wa / wγa キツネ wγ : ′wγo 備中鍬
これらの例における初頭子音は[, w, γ]のいずれでもないという点が重要で,先述の単子音の 項で紹介した例と対立を形成するため,子音連続と認める。ただしSangdam方言では以上の2語 しかこのタイプを示さないため,音節構造においてCC-型の子音連続を設定しない(2.4. 参照)。
以下,子音連続のタイプを前鼻音,前気音,わたり音,3子音連続と分けて例を掲げる。
5.2.1. 前鼻音
有声音に先行するもの
b : b 虫
d : ′d かつぎ棒
: ‵i 米
g : ge ra 鍛冶屋
dz : ‵dzo ゾ(ヤクと牛の交配種)
ȵd : ′ȵd t スカート
: ‵ 鋤 無声有気音に先行するもの
p : pa ra. ジャッカル
t : ta mõ 親指
: ′ pa 胆嚢
k : ki ma 腎臓
ts : ‵tso 湖
ȵt : ′ȵtõ pa かに
c : c ba 肝臓
5.2.2. 前気音
無声無気音に先行するもの
p : põ ba. 肩
t : to wa へそ
: e wo / ‵ 猿
k : k ma 泥棒
ts : ‵tsa. 脈
t : ta さび
c : cj 小便
s : ‵sa 金
: a a 茶色の
: ′a a 灰色の
: 大便
x : ‵xa. 錫
l : na ma ‵l 娶る
有声音に先行するもの
©b : ©b 空気
©d : ©do / ©d lo 石
© : ′© 松
© : ©a go 帽子
©g : ©g 鷹
©dz : ©dza ma. ポット
©d : ‵©dõ da / ‵©dõ d 砂糖
© : ′©o ma 翼
©z : ‵©z ma 睫毛
© : © 弓21)
© : ‵©e õ 踊り
©n : ‵©n わな
© : ‵©a 5
©l : ©la pa 脳
©r : ′©ra 虹
©j : ‵©ja ヤク
5.2.3. わたり音を含むもの
わたり音には/w/と/j/がある。組み合わせの種類は少なく,いずれの組み合わせにおいて も見られる語が少ない。
/w/のもの
w : w ga ‵a 醤油 gw : se gw 大豆
w : w © 屁
/j/のもの
dj : dja たくさん nj : ‵a njõ 祖母 rj : ′ta rja 毛布
5.2.4. 3子音連続
©w : ′©w t ボタン
gw : ‵gwa e うらむ
©gw : ©gwa 弓
bj : n ′bje sa 空港
21)この例は[©]のほかに[©]という発音もあるが,この例以外/©/は認められない。音素的には /©/と処理することが可能かもしれない。
5.3. 末子音
Sangdam方言には複数の末子音が認められる。末子音には単子音のものと2子音連続(わ
たり音+声門閉鎖音)がある。末子音は先行する母音との共起制限があり,特に長母音とは結 びつかない。
単子音の末子音には/, w, j, /が認められ,2子音連続には/w, j, /が認められる。2 子音連続のものは,当該要素が語中にくる場合,声門閉鎖音が脱落することがある。単子音の 末子音としての//は語中で現れる例が大半である。
: n 飲み込む w : ‵k lw 喉 j : ©dj 浮く
: ′ro ro 一緒に w : kw 針 j : tsi pa ′zej 怒る
: n 目
6. 蔵文との対応関係によるSangdam方言の特徴づけ
チベット語方言の特徴づけは,数々の先行研究の存在によって一定の方向性が確立されてい る。その中で重要な役割を果たすのが蔵文形式と口語形式の対応関係を明らかにすることで,
チベット語方言の特徴を分析する伝統的な手法であり,さまざまな研究から一定の注目すべき 対応関係の傾向が示されている。そして,この手法に基づいて本稿で扱うSangdam方言の特 徴づけも行うことができる。ただし注目すべき点が分析の対象となる方言によって異なってき て,必ずしも先行研究に扱われる通りの特徴を見るだけでは十分でない。
ここでは,西(1986)や江荻(2002),Tournadre(2005)などに提示される特徴を中心に,
Sangdam方言における現象を整理する。また,Sangdam方言を特徴づける要素について,
適宜他のカムチベット語諸方言の事例を注記する。なお,蔵文はWylie式の転写で示す。チベッ ト文字の表す音価は格桑居冕・格桑央京(2004: 379-390)を参照。
6.1. 初頭子音
6.1.1. 閉鎖・破擦・摩擦音の有声性
閉鎖・破擦音について,蔵文で基字に先行する子音がない有声音字g, j, d, b22)およびそれに 足字y, rを伴うものは,語頭においてそれぞれの調音点の無声音に対応し,頭字もしくは前接 字がある場合は一律に有声音が対応する。この対応関係は広くカムチベット語にみられる関係 と同じである。たとえば以下のようである23)。
22)有声音字としてはdzも含まれるが,dzではじまる蔵文形式に対応する口語形式は得られていない。
23)蔵文dbに有声両唇閉鎖音が対応する点は,カムチベット語においては雲南省に分布する諸方言に 特徴的である。西(1986: 886)の言及を参照。
無声音例 有声音例
′p「息子」(bu) ©b「空気」(dbugs)
′ca「お茶」(ja) ‵©e「忘れる」(brjed)
′t a「煙」(du ba) ‵©d「7」(bdun)
′a「岩石」(brag) ‵©「蛇」(sbrul)
摩擦音の有声音字z, zhについては,基字に先行する子音の有無にかかわらず,一律それぞ れの調音点の有声音に対応する24)。たとえば以下のようである。
′za go「ごはん」(za ?) z「瑪瑙」(gzi)
′ sa「農地」(zhing sa) ©「4」(bzhi)
また,摩擦音について,蔵文で基字に先行する子音がない無声音字s, shは通常無声有気音 が対応する。もし先行する子音があれば,無声無気音で現れることが多い。以下に例をあげる。
‵sa「土」(sa) ‵sa「金」(gser)
a「肉」(sha) ‵e「話す」(bshad)
6.1.2. 蔵文sh, zh, y対応形式
蔵文sh, zh対応形式は上掲の例にも示されているように,硬口蓋摩擦音で現れる例が多いが,
それとともに軟口蓋摩擦音で現れる例もある25)。以下に例をあげる。
′a ni「鉛」(zha nye) ′xa ne「筋肉」(sha gnad)
©zo wa「大工」(shing bzo ba) x pa「柏」(shug pa)
以上の例のうち,′xa ne「肌」(sha gnad)の第1音節と a「肉」(sha)は同源語であるが,
発音が異なる26)。
先に示したように,先行子音を伴う蔵文zhには有声硬口蓋摩擦音//が対応する。これと 蔵文y対応形式の硬口蓋接近音/j/は対立する。以下に例をあげる。
©「弓」(gzhu) ′j po「カラスムギ」(yug po)
‵©e õ「踊り」(gzhas bro) ‵©je「右」(g.yas)
24)この特徴はカムチベット語Minyag方言群の諸方言の特徴と共通する。この方言群については鈴 木(2006, 2007)を参照。
25)この特徴はカムチベット語北路方言群や南路方言群の諸方言の特徴と共通するが,硬口蓋摩擦音と 軟口蓋摩擦音という2種による実現は,大部分母音の音質に特徴づけられた条件変異と考えること ができる。
26)ただし「肉」は[ xa]という発音も許容される。
6.1.3. 蔵文c, ch, j対応形式
蔵文c, ch, j対応形式は上の例にも示されているが,基本的に硬口蓋破擦音となる27)。以下
に例をあげる。
c「水」(chu) ′ca「お茶」(ja)
c ba「肝臓」(mchin ba) ‵「鋤」(’jor)
c c「11」(bcu gcig) © wa.「蚤」(lji ba)
ただし,t to「唇」(mchu ?)や′do di「金剛」(rdo rje)は例外的な対応である。
6.1.4. 蔵文Py対応形式
蔵文Pyは,p, ph, bに足字yを伴う形式を含む形式についていう。
Sangdam方言の対応形式は,基本的に前部硬口蓋破擦音になる28)。以下に例をあげる。
′ta ma「砂」(bye ma) ta「掃く」(’phyag)
′t ra「チーズ」(phyur ba)
ただし蔵文sby, dby対応形式は,硬口蓋接近音jになる。以下に例をあげる。
j ba「布施」(sbyin pa) ‵ja ka「暖かい季節」(dbyar kha)
‵j「学ぶ」(sbyang)
このほか,′ja「する29)」(byed)などの例外的対応がある。
6.1.5. 蔵文Ky対応形式
蔵文Kyは,k, kh, gに足字yを伴う形式を含む形式についていう。
Sangdam方言の対応形式は,蔵文sky対応形式を除いて基本的に前部硬口蓋破擦音であり,
蔵文Py対応形式の大部分と合流している。以下に例をあげる。
t「犬」(khyi) ′©da「漢族」(rgya)
t ko「曼荼羅」(dkyil ’khor) ©di「8」(brgyad)
27)この種の対応関係は珍しい現象に数えられる。類似のものとしては,sPomtserag(奔子欄)方言 で蔵文c, ch, jが硬口蓋閉鎖音(/c/類)に対応するほか,nDappa(稲城)方言で蔵文c, ch, jが前 部硬口蓋閉鎖音(/ȶ/類)に対応する。また,Chamdo(昌都)方言では,蔵文c, ch, jが硬口蓋閉 鎖音に対応するという報告(格桑居冕・格桑央京2002: 75)と前部硬口蓋閉鎖音に対応するという 報告(金鵬1958: 48)がある。筆者自身のChamdo方言の調査では,硬口蓋音のみが認められたが,
話者もしくは下位方言によって閉鎖音/c/系列を用いる場合と破擦音/c/系列を用いる場合があ り,さらなる調査が必要とされる。
なお,前部硬口蓋音および硬口蓋音の取り扱いについての詳細はSuzuki (2011)を参照。
28)この特徴はカムチベット語Minyag方言群の諸方言の特徴と共通する。この方言群については鈴 木(2006, 2007)を参照。
29)この形式は名詞句とともに用いられて複合動詞を作る成分となり,独立して用いられることは少ない。
蔵文sky対応形式は前部硬口蓋摩擦音または硬口蓋摩擦音となる。以下に例をあげる。
p 「酸っぱい」(? skyur) 「大便」(skyag pa)
e「幸せな」(skyid) o ke「スプーン」(skyogs ?)
6.1.6. 蔵文ny, my対応形式
蔵文ny, myおよびこれらに先行する子音字のついた形式は,すべて例外なく歯茎鼻音に対
応する30)。以下に例をあげる。
′na.「魚」(nya) n ma.「穂」(snyi ma)
n x「20」(nyi shu) ′nõ「〜したことがある」(myong)
‵n「心臓」(snying) ‵nõ「狂人」(smyon)
また,蔵文形式がmのみであっても,古蔵文形式において足字yを伴っていたと考えられ るような例について,Sangdam方言では古蔵文形式に対応すると考えられるものがみられ る31)。すなわち,蔵文my対応形式と同様,歯茎鼻音に対応する。たとえば以下のようである。
′ne「火」(me,古蔵文mye) ′n「人」(mi,古蔵文myi)
n「目」(mig,古蔵文dmyig) n「飲み込む」(mid,古蔵文myid)
ただし,′m n / ′me「存在しない」(mi snang / med)や m「名前」(ming)といった語 は古蔵文形式では足字yを伴うけれども,両唇鼻音で実現されている。
6.1.7. 蔵文足字r対応形式
蔵文に足字rを伴う形式の一般的な対応関係はそり舌音となる。以下に例をあげる。
‵w「雲」(sprin) ′o「行く」(’gro)
′a「岩石」(brag) 「6」(drug)
「龍」(’brug) ‵「尋ねる」(dri)
a.「髪」(skra) d a「このような」(’di ’dra)
a「血」(khrag)
6.1.8. 蔵文足字w対応形式
Sangdam方言では,蔵文足字wは基本的に対応音をもたず,足字wを伴わない例と対応音
が同一になる。以下に例をあげる。
30)この種の対応関係は極めて珍しい現象に数えられる。同様の対応関係は,Cone/Bragkhoglung(卓 尼/扎古録)方言およびいくつかの卓尼県の方言(rNam-rgyal Tshe-bstan 2008)にのみ見られる。
31)この特徴は雲南省で話されるカムチベット語rGyalthang方言群やsDerong-nJol方言群の諸方言 の特徴と共通する。これらの方言群については鈴木(2008, 2009),《中甸県誌》(1997: 147-153)
を参照。
足字wあり 足字wなし ra co「角(つの)」(rwa chog) ′ra「山羊」(ra)
‵tsa.「塩」(tshwa) tsa wo「熱い」(tsha bo)
ただし‵ts「草」(rtswa)は,‵tsa「根」(rtsa)と比較して,音節の縮約した形跡が認め
られる(詳細は6.2. 参照)ため,足字wが発音されていたことをうかがわせる32)。
6.1.9. 前鼻音を含む子音連続
Sangdam方言の前鼻音を含む子音連続は,前鼻音要素に後続する子音に無声有気音と有声
音の2種がある。前鼻音に対応する蔵文には’とmの2種があるが,口語形式では鼻音部と 後続子音は常に調音点を同じくする。以下に例をあげる。
‵i「米」(’bras) ta「織る」(’thag)
′dze bo「美しい」(mdzes po) tse pa「脾臓」(mtsher pa)
蔵文で無声有気音に’かmが先行するにもかかわらず,Sangdam方言で前鼻音を伴わない 例もいくつかある。たとえば以下のようである。
t to「唇」(mchu ?) ta「掃く」(’phyag)
6.1.10. 蔵文にrを含む例
蔵文においてrがいずれの位置(末子音も含むが,末子音の例は6.2. に掲げる)であって も存在する場合,Sangdam方言できしみ音化母音または咽頭化母音が対応する例が少なくな い33)。以下に例をあげる。
‵a.「はやぶさ」(khra) ′a「網」(dra)
‵©da.「100」(brgya) ′a ma.「もみがら」(gra ma)
′r pa.「骨」(rus pa) ′ra「山羊」(ra)
ni. l「夢」(rmi lam) ma「傷」(rma)
2.2. および4.2. で示したように,きしみ音化母音も咽頭化母音も母音の舌位置によって出
現に制限があるため,以上の対応関係はより多くの例で当てはまらないが,特定の二次的調音 を伴う母音と蔵文に含まれるrとの関係は以上のように認めることができるといえる。
32)蔵文足字w対応形式が口語形式に反映される方言にカムチベット語Sems-kyi-nyila(香格里拉)方 言群とsDerong-nJol(得榮徳欽)方言群に属する方言があげられるが,一部の方言では足字w部 分が独立した1音節を形成している(鈴木(2008, 2009)参照)。
33)咽 頭 化 母 音 を も つ チ ベ ッ ト 語 と し て は カ ム チ ベ ッ ト 語Zhollam方 言(Sems-kyi-nyila方 言 群
Melung下位方言群)があるが,この方言でもまた蔵文における初頭子音群の基字もしくは足字の
rと咽頭化母音に関連が認められる。詳細は鈴木(2011a)を参照。
6.2. 母音+音節末形式
語末位置における母音+音節末形式の基本的な対応関係は以下のように示すことができる34)。
V\C # / ’ b d g m n ng r l s
a a w e a / / e / a e e / i
i / j i
u / u õ
e e w e a e / i e e
o o w o / o / / õ
以上のようにまとめたのは1つの主要な傾向に過ぎず,異なる例も見受けられる。また,語 中においては以上と異なる対応関係を見せるものも少なくない。
また,以上のうち,咽頭化母音は蔵文ag(s)およびeg(s)と明瞭な対応関係を見せるが,それ
以外にも6.1.10. で触れた蔵文末子音rを伴ういくつかの例や2音節形式の縮約と対応すると
考えられる例35)が複数見受けられる。以下に例をあげる。
蔵文末子音rを伴う例 2音節形式の縮約と見られる例 pa「写真」(par) d「月」(zla ba)
©γa「貼る」(sbyar) ‵k k bo「カカボラジ」(kha ba dkar po)
‵sa「金」(gser) ′xo「紙」(shog bu)36)
6.3. 声調
声調を有するチベット語方言の分析において,声調の歴史的発展は議論されるべき重要な問 題である。ここでは通時的な議論で注目される蔵文との対応関係を基準に述べる。
Sangdam方言では,蔵文と声調の対応関係が比較的明瞭に現れるのは単音節語の事例に限
られる。複音節語の声調パターンは,蔵文との対応のみで決定されるものではないようである。
このため,以下に示すのは単音節語の事例のみとしておく。
Sangdam方言の声調体系は,語声調で語頭の音節初頭部が高いか低いかの異なりと音節末
尾で下降するかしないかの2通りで構成され,計4種の弁別が行われる。チベット語の声調発 生は音節初頭子音群の単純化と密接な関連がある。Sangdam方言の場合,音節初頭における 声調の高さの蔵文との対応関係について,先に述べた母音と同様に簡潔に対応の傾向を述べる と,以下のようになる。(無指定)とする点は,声調の現れと頭字/前接字の有無に関連性が あまり見られないものである。
34)蔵文再添後字sは口語形式に明確な対応関係を得られないため,以下の表では省略する。
35) 2音節形式の縮約と対応する咽頭化母音は先述のカムチベット語Zhollam方言においてもまた認 められる(鈴木2011a: 485-486)。
36)この語には2音節形式 x woも認められる。
頭字/前接字 基字など 声調
(無指定) 無声無気閉鎖・破擦・摩擦音,無声有気閉鎖・破擦音 高
なし 有声閉鎖・破擦・摩擦音 低
あり 有声閉鎖・破擦・摩擦音 高・低
なし 共鳴音 低
あり 共鳴音 高
(無指定) 足字l 高
以上のうち,無声有気閉鎖・破擦・摩擦音,頭字/前接字のある有声閉鎖・破擦音に対応す る口語形式で多く見られる声調に高・低の両方が現れる37)。
共鳴音の場合,原則的に頭字/前接字がなければ低声調はじまりに,頭字/前接字があれば 高声調はじまりに対応する。
なお,音節末における声調の下降の有無については,現段階では蔵文との対応関係で説明を 与えることは困難であるため,本稿では取り上げない。
7. Sangdam方言における借用語と特徴的な語形式
チベット語の各種方言には,蔵文とは対応しない形式が少なからず存在する。ここでは,
Sangdam方言に見られる非蔵文対応形式について,漢語来源借用語,ビルマ語来源借用語,
語源不明のものに分けて紹介し,Sangdam方言の語彙的特徴を概観する。
7.1. 漢語来源借用語
冒頭に紹介したように,Sangdam方言の話者は現在の中国察隅県から移住してきており,
居住地域も中国との国境と近いこともあって,漢語からの影響を多少なりとも受けているとい える。以下に漢語からの借用語と考えられるものを,漢語の形式(声調表記なしのピンインも 付加)とともにあげる。
m d「ミャンマー国」<緬甸miandian
‵m「ビルマ族」<緬mian
õ ko「中国」<中国zhongguo
‵tõ gw「きゅうり」<冬瓜donggua38)
cu e「自動車」<汽車qiche
‵t 「テレビ」<電視dianshi
′ta j「お金39)」<大銀dayin
′wa ts「靴下」<祙子wazi
37)これは複数のカムチベット語方言でよく見られる現象である(格桑居冕(1985),江荻(2002: 264)
など)。
38)発音と語義が借用元と一致していない。漢語の「冬瓜」は日本語同様「冬瓜」を意味する。
39)多額についていうことが多い。
7.2. ビルマ語来源借用語
Sangdam方言の分布地域は直接ビルマ語圏と接しているわけではないが,ビルマ語を通し
て受容したものや教育におけるビルマ語の使用から,ビルマ語からの借用語が認められる。
′g t「カチン族」</k tin/40)
s ra「教師」</s ja/41)
‵p mõ「パン」</paun moun./
mõ「ケーキ/お菓子」</moun./
′ko pi「コーヒー」</k pi/
a pi.「魚醤」</ pi./42)
bi ja「ビール」</bi ja/
lõ di「ロンジー」</loun di/
‵mi ta「汽車」</mi: j ta:/43)
7.3. 語源不明の語彙
口語形式の中には,明確に借用語と分かるものを除いても,対応する蔵文形式が不明である ものが含まれている。Sangdam方言において,たとえば名詞についていくつか指摘すると,
以下のようなものが挙げられる。
′©ra「虹」
h「家」
′la b「肺」
′b bo「蝶」
′ p ta「枝」
′b do「玄米」
na d「じゃがいも」
′la li「落花生」
′na k「帽子」
γa m「ベッド」
以上の例の中には,近隣のカムチベット語諸方言にも近似の形式が見られるものもある。た とえば,「虹」は雲南省の方言に見られる aといった形式に近いと判断できる。「家」もまた 雲南省の方言に見られる x / といった形式に近似しているといえる。しかしながら,大部 分は現段階で説明のつきにくい形式である。
40) Sangdam方言の形式では語頭の子音が有声音であるが,これはビルマ語ミッチーナー方言におけ
る通常の発音であり,借用元はミッチーナー方言である可能性が高いということがいえる。
41)この語もまた直前の語と同様に借用語の音形式はビルマ語ミッチーナー方言の発音を反映している。
42)「パン」「ケーキ」「魚醤」の例から分かるように,ビルマ語できしみ音に対応するSangdam方言 の形式にはきしみ音のほかにも声門閉鎖音が認められる。
43) Sangdam方言の形式では借用元の第2音節に対応する部分が脱落している。
8. まとめ
本稿では,ミャンマーで話されるチベット語Sangdam方言の音体系の全容についての分析 をはじめて提供した。この方言の言語特徴を総合してみると,さまざまな独自の特徴をもつも のの確かにカムチベット語の特徴を示している。独自の特徴としては,互いに対立するきしみ 音化母音と咽頭化母音の存在や,蔵文c, ch, j, ny, my, ag, igの対応形式などが注目できる。
本稿の分析を踏まえて,さらにSangdam方言の周辺で話されるチベット語方言の資料を収 集・分析すれば,この方言がカムチベット語のどの下位分類に属するかという点について議論 を進めることができるだろう。
[付記]
筆者によるSangdam方言にかかわる現地調査については,平成19-21年度日本学術振興会 科学研究費補助金(特別研究員奨励費)「川西民族走廊・チベット文化圏における少数民族言 語の方言調査と地域言語学的研究」の援助を受けている。
なお,ミャンマーにおける調査は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の澤田英 夫准教授の多大な協力によって実現した。ここに記して感謝の意を表する。
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