熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ
著者 野村 幸正
発行年 2009‑12‑16
URL http://hdl.handle.net/10112/00020074
31
第
2章 行 為
Ⅰ 行為の理論
1 行為とは
行為とは何か︒また︑その行為の実行過程はどのようなものか︒実行過程には︑まず目標︵ゴ
ール︶の形成があり︑次にその目標を達成するために必要なプランがある︒そして︑そのプラン
は下位のシーケンスからなる︒行為はその目標を達成しようとする意図を具現するものであり︑
その意図が明確な場合もあれば︑状況に埋め込まれている場合もある︒通常︑行為者はその意図
に応じた行為のプランを立てるが︑他者が立てることもある︒いずれにしても︑意図が明確であ
る際の行為は︑行為主体の直接的な制御の下で遂行される︒それは︑たとえば脳神経系モデルに
よる情報処理の枠組みでは︑刺激入力︑解釈︑プラン︑行為という順になる︒しかし現実の行為
は︑コンピュータの単純なプログラムの実行のように︑あらかじめ組み込まれたプランに従って
忠実に実行されるようなものではない︒そこでの意図の大半は暗黙のものであり︑その意図は行
為主体と外界とのかかわりのなかに埋め込まれている︒
32 いずれであっても︑行為は外界の変化に適応するための手だてであり︑生命体が生き残るため
のものである︒とすれば︑行為は進化軸上のしかるべき位置におかれ︑しかもそれ以前の反射や
行動︑あるいはそれ以降の活動との関連で捉えられるべきものであろう︒その進化の過程では︑
当初は本能的行動であったが︑やがて意識が獲得され︑さらには反省意識による行動︑行為へと
移行してきたと考えられている︒いま︑この移行を意図との関連で捉えれば︑厳密には反省意識
の獲得と相伴って意図が形成され︑その意図を具現する行為が生成されたとみなしてよい︒それ
以前の本能的行動が意図に基づいたものとは想定できないが︑うがった見方をすれば︑それは神
の意図ともいえる︒
われわれの行為は︑たとえそれがどのようなものであっても︑つねにわれわれの日常的な活動
のなかに埋め込まれている︒とすれば︑たとえ本能的行動であっても︑それが行為を構成するも
のであるかぎり︑意図の制御の下にあるとみなすべきではないか︒たとえば挨拶という行為︵act︶ は
︑ 握手であるアクシ
ョン
︵
action
︶ レベル
︑ さ らには手を差し出す行動
︵
behavior
︶ ︑ 反 射
︵refl ex︶等のより低いレベルから構成される︵梅本︑一九九二︶︒その際︑われわれが他者関係
のなかに生きている以上︑一切の状況を無視した挨拶は存在しない︒挨拶という行為はすでに状
況に埋め込まれており︑その状況にふさわしい形でそのつど実行されている︒おなじ行動︑反射
であっても︑友好的な握手と敵意をもった握手とでは違って当然である︒とすれば︑行為を構成
する下位の行動︑反射には意図が深く浸透していると考えられる︒
33 第 2 章 行 為
行為を日常的な活動のなかに取り込んだ理論が
︑ たとえばヴ
ィゴツキ
ーの流れを汲む活動
︵activity︶理論である︒この理論では︑主体の行為を意味あるものにする最小のコンテクストを
分析単位として捉え︑その分析単位を活動として定義している︒活動理論は主体と対象︑そして
それらをつなぐツール︵道具︶の三項関係を重視しているが︑そのツールは単に主体が対象に働
きかける際の媒体︑あるいはその力を拡大する手だてにとどまるものではない︒むしろ︑それは
人間の認知のあり方︑さらには精神の働きにも多大の影響をもたらすものである︒しかも︑その
活動の展開が社会的なものであることから︑社会の変化に応じてそのつど変わってゆく︒ツール
は決して固定したものではない︒
活動理論では︑社会が行う活動︑主体が意識的に行う行為︑主体が無意識のうちに行う操作と
いう分析の三段階を想定している︒ある目標を達成しようとする動作の最小単位が行為であり︑
目標を何にするかによって違ったものになる︒これに対して︑その行為を成り立たせる動作の各
部門が操作であるが︑操作は目標を達成するための下位の身体挙動でしかない︒そして︑活動は
対象に向かう動機に︑行為は遂行する目標に︑操作は条件にそれぞれ結びつけられる︒なお操作
は︑梅本︵一九九二︶の分類からすれば︑アクション︑行動の相当部分と反射を含むものである︒
もちろん︑これら三段階の境界は固定したものではなく︑熟達化の階梯の違いによってその境界
は移動する︒たとえば熟達者では︑行為が無意識の操作に転化することも珍しくはないが︑初心
者の行為は活動にまで至らないことが多い︒正統的周辺参加論︵第
12章参照︶で展開される周辺
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参加から十全参加への移行は︑一つには初心者の行為を活動にまで高めるための手だてであり︑
行為が活動になることを制度的に保証したものであろう︒
進化の階梯を上るにつれて︑生命体に占める活動︑行為の割合は増大するが︑このことは下位
の行動︑反射の役割が減少したことを意味するものではない︒行為はつねに下位のアクション︑
行動︑反射を内在する︒同様に︑活動は行為から反射までのすべてを内在する︒では︑その逆は
どうであろうか︒活動理論からすれば︑操作は目標を達成するための下位の身体挙動でしかない
が︑はたして下位の身体挙動が上位の行為の生成を︑また行為がさらに上位の活動を内在する可
能性はないのであろうか︒
活動︑行為だけでなく︑最小の分析単位である操作であっても︑いずれも瞬時に終了するもの
ではなく︑必ずある時間的な拡がりのなかで生成される︒活動が行為を︑行為が操作を内在して
いるだけでなく︑逆に操作は行為を目標という形で︑また行為は活動を動機という形で内在して
いると考えられる︒厳密には︑目標を内在しない操作はなく︑動機を内在しない行為はないはず
である︒とすれば︑活動を行為に︑行為をアクション︑行動︑さらには反射に分節化し︑それら
を上位構造︱下位構造として捉えること自体が問題なのである︒本来が一つの動作であるとする
と︑活動︑行為あるいは行動を単独に取り出すことにどれほどの意味があるだろうか︑はなはだ
疑問である︒動作を下位に分節して捉える捉え方は恣意的であるといわなければならない︒にも
かかわらず︑日常的な活動に埋め込まれた行為事象を分節して取り出すのは︑それらの行為事象
35 第 2 章 行 為
間に何らかの因果関係を見出すためである︒そのための手だてが︑心理学が採用してきた外部観
測であり︑そこから得られた理論が認識の理論である︒
2 認識の理論から行為の理論へ
﹁君のこの偏差値ならば︑残念だが志望校への合格は覚束ないよ︒﹂受験生がよく耳にする言葉
である︒進路指導担当者は偏差値のもつ予測可能性を充分に承知し︑受験生が近未来に直面する
であろうしかるべき結果を見通しての発言であろう︒だが︑個々の受験生にはそれぞれの志望校
への想いがあり︑この言葉を素直には受け入れられないことが多い︒それは受験生の自己認識の
甘さによるものであろうが︑今後の努力次第では何とかなるのではないかという︑未来に対する
強い想いの現れでもある︒
偏差値には︑その基本的概念からも明らかように︑個々人の想いがいちいち含まれてはいない︒
それは︑個々人の過去のテストの得点に基づいて︑当人が全体のなかでどのあたりにいるのか︑
その順位を数値化したものでしかない︒としても︑その数値は受験生の合否をある程度まで予測
するものであり︑現実にはかなりの信頼性を得ている︒これに対して︑個々の受験生の抱く想い
は主観的かつ限定的なものであり︑必ずしも客観的な根拠に基づいたものではない︒にもかかわ
らず受験生が偏差値の予測可能性を超えて︑未来のあるべき姿にこだわるのは︑偏差値が過去志
向的であることを直観的に見抜いているからである︒受験生からすれば︑未来は現在だけでなく
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過去をも超えたものであり︑自らの未来に向けた行為はつねに偏差値に先行する︒受験生はあく
までもいま・ここの視点から未来を捉えている︒受験生の想いは内部観測によるものであり︑必
然的に限定的であり︑局所的である︒一方︑偏差値は全体視野で受験生を捉えたものであり︑外
部観測の知見である︒
進路指導者と受験生の違いは︑過去の行為を説明することを重視する立場と︑未来に向けて行
為を生成することを重視する立場との違いでもある︒拙編著﹃行為の心理学
︱
認識の理論︱行為の理論﹄︵関西大学出版部︑二〇〇二︶は︑この違いに言及したものである︒説明を重視する前
者が認識の理論であり︑生成を重視する後者が行為の理論である︒これらは同時に成立するもの
ではなく︑認識の理論は行為に基づいて生成されたものであり︑行為は絶えず認識の理論に先行
する︒認識の理論とは︑いま・ここのあり方を過去との関係で因果連関的に説明するものである
が︑同時に未然の行為を生成してゆくものでもある︒少なくとも理論はそれを期待されている︒
この生成の過程が認識の理論に基づいた行為の生成であり︑科学でいう理論の適用によるもので
ある︒しかし︑理論を適用することで未然の行為が直ちに生成される訳ではない︒
その理由の一つは︑認識の理論が表象の機能を前提にした理論であり︑表象と行為をリニアな
論理的な手続きでつなぐことで構築されているからである︒それが因果論的法則である︒この法
則は時空を超えて成立するかのように思われるが︑事実は決してそうではない︒因果連関はいま・
ここにおいてそのつど析出されるものであり︑必ずしも原因が先で結果が後という訳ではない︒
37 第 2 章 行 為
それらが同時に現成するという考えは︑行為の理論の中核を占めるものである︒
いま一つの理由は︑認識の理論は行為のもつ複雑性を縮減することで︑生命現象において欠く
ことのできないゆらぎや不確実性を排除し︑自らの客観性を維持しているからである︒しかし︑
われわれはあえてゆらぎを作り出し︑対象の意味を積極的に把握してゆくこともある︒ゆらぎや
不確実性を内在した世界こそ生の姿であり︑われわれはその世界に生きている︒その世界は主観
的でもあり︑同時に客観的でもある︒この表現は矛盾しているようにも思えるが︑われわれはそ
の矛盾した世界のなかで︑しかるべき行為をそのつど生成している︒その行為が時々刻々変化し
てゆく状況にふさわしいものであるためには︑行為者はゆらぎや不確実性に対してつねに柔軟に
対応してゆかなければならない︒その行為は客観的な世界を想定した認識の理論から構成される
ようなものではなく︑それを超越した﹁行為の理論﹂とでも呼ぶべき理論に依拠したものである︒
ところが︑意図を具現する行為はそれ自体未来志向的なものであり︑いま・ここの拡がりのなか
で析出されてゆく︒そのためであろう︑行為の理論は必ずしも理論として定式化されている訳で
はなく︑つねにいま・ここの行為をそのつど生成するものでしかない︒それは行為者のうちにあ
るというよりも︑むしろ行為者と世界のあいだにあると考えるのが妥当であろう︒
そもそも︑認識の理論は因果関係に基づいて定立されたものであり︑その理論は未来の事象に
適用可能である︒心理学が目的として標榜する行動の予測と制御という考えも︑つまるところこ
の適用可能性を強調してのことである︒しかし︑適用可能性云々の論議は︑近未来の事象や出来
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事が閉ざされた世界で生じることを暗に想定している︒現に︑認識の理論は開かれた世界をあえ
て閉ざされた世界とすることで成立している︒一方︑行為の理論は開かれた世界のなかにあって︑
時には閉ざされた世界をあえて開けることで︑その拡がりのなかに行為を析出してゆく︒これが
行為の理論の意味するところであり︑われわれは誰であっても︑それを実践している︒
いずれにしても︑われわれは認識の理論あるいは行為の理論のいずれか一方のみで︑直面した
課題に対処しうる訳ではない︒そもそも認識の理論と行為の理論を対峙させて捉えるのは間違い
であろう︒双方が深くかかわってはじめて課題に対処しうるのであり︑当然それぞれの果たす役
割は違ったものである︒認識の理論は行為を生成してゆく際の必要条件としての役割を果たすが︑
十分条件にはなりえない︒現実には︑行為者がかかわりのなかでそのつど行為を生成してゆくほ
かはない︒未来はあるものではなく︑いま・ここの行為のうちに析出してゆくものであり︑それ
が行為の理論の基底にある考えである︒
Ⅱ 生の体験
1 現実感
行動︑行為に関しては︑進化軸上で見れば︑まず動きがあり︑やがてその動きがもたらす環境
39 第 2 章 行 為
の変化に応ずるような動きが生じる︒前者がリスポンデントであり︑後者がオペラントである︒
生命体は進化を経るなかで︑より自由度の高い様式で動きと変化の関係を把握しているが︑この
時点では未だ動きと変化の把握は必ずしも二元論的には捉えられていない︒進化軸上では︑あく
までも﹁はじめに動きありき﹂である︒その後の進化の過程で意識︑さらには反省意識を獲得し︑
認識と行為︑精神と身体といった二元論的な見方が生じたのであろう︒
行為が認識に先行するといえば︑逆ではないかとの想いもあろうが︑そもそも認識は動きを前
提にしている︒動くものであってはじめて認識が必要なのであり︑動きを一切もたない生命体は
外界の変化を捉える必要がない︒たとえ捉えても︑動きをもたないものはその変化に対応できな
いからである︒認識とは︑一般には対象が何であるかを知ることであるが︑厳密には認識者の動
きの可能性に合わせて対象との関係を把握することであろう︒動ける範囲内で対象を捉えている
といっても過言ではない︒もちろん︑このことは認識に基づいた行為の可能性を決して否定する
ものではないが︒
行為が認識に先行することは︑われわれの身体が外界の変化そのものを直接感受する︑という ことからも推察しうる︒感受した時点での生の感覚=クオリア︵qualia︶は言語表象化されない
が︑その後の認知や行為に影響を及ぼすことは否定しえない︒生の感覚に関して︑石田︵二〇〇
四︶は身体の共感覚的なクオリアと特定の感覚的なクオリアを区分して︑その違いを明確にして
いる︒彼によると︑前者のクオリアは志向の対象とはならず︑言語表象に置き換えることもでき
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ない︒一方︑後者のクオリアに関しては︑クオリアそのものを言語表象化することはできないが︑
それを志向した﹁私︱表象の心﹂の働きを介して︑言語表象に置き換えることができる︒ただ︑
後者のクオリアと言語表象との関係は一方向的であり︑言語表象から元のクオリア=生の感覚を
感じ取ることはできないという︒
身体は外界の変化を感受しうるが︑それを言語表象化することはできない︒にもかかわらず︑
そのクオリアを何らかの形で自らの経験としている︒それが生の感覚に基づいた生の体験である︒
それだけでなく︑生の体験であるかぎり︑その体験には現実感が伴う︒現実感とは︑一つはアク
チュアリティであり︑いま一つはリアリティである︒アクチュアリティは五感から入るものに対
して︑われわれがつける現実感である︒一方︑リアリティは脳の中で起こる活動に対して︑われ
われがそれを重みづけた現実感である︒なお︑離人症患者の喪失した現実感とはアクチュアリテ
ィであり︑熟達者の抱く現実感は︑なかでも創造的な行為に伴う現実感はリアリティが深く関与
していると考えてよい︒熟達者は単に場の情報と相即して行為するだけでなく︑それ以上に自ら
の経験を活かして場の情報を解釈し︑必要な行為を生成している︒
たとえば︑﹁彼女に出会った﹂という際の生の体験は︑私と彼女とが互いに固有の場を共有し︑
全体的な直観から構成されている︒具体的にいえば︑その体験は服装︑化粧︑雰囲気︑私に対す
るまなざし︑さらにはその場所の雰囲気︑人の流れ︑背景︑天候等の多様なイメージから構成さ
れる︒その体験が現実感ある体験となるためには︑分析的に捉えられた多様なイメージが創発と
41 第 2 章 行 為
いう過程を経て︑一つの全体像に構成されていなければならない︒その構成はアクチュアリティ
のレベルであるが︑時にはそれを超えてリアリティのレベルに行き着くこともある︒
ところで︑われわれはその体験をそのまま記憶するのではなく︑多くの場合その体験をシンボ
ルに置き換えて記憶している︒その時点で個々のイメージは捨象され︑抽象化される︒にもかか
わらず︑われわれがそのような形で記憶するのは︑そのシンボルを介して元の豊かな世界を再構
成する力を備えているからである︒その再構成を可能にするのも︑また脳を含む身体の働きであ
る︒ 生の体験がシンボルに置換される過程に関しては︑アマデウス・モーツァルトの逸話は面白い︒
リン・ホワイトによれば︑彼には︑最初の音から最後の音まで︑いつでもそうであるとは限らな
いが︑書くまえにすべてが頭の中で全部が分かってしまうという︵村上︑一九八六︶︒それを演奏
のために仕方なく五線譜に表していたらしい︒五線譜に書かれたものからモーツァルトの世界を
再構成する働きが演奏であるが︑誰が演奏するかでモーツァルトの世界は随分違ったものになる︒
演奏にはアクチュアリティのレベルだけでなく︑それを超えてリアリティのレベルが求められる︒
生の体験とシンボルの関係は︑日常的な行為に限らず熟達者の行為にもそのまま当てはまる︒
むしろ︑熟達に伴って行為に占める生の体験は増大し︑それだけシンボルに置換することが難し
くなるのであろう︒たとえば︑わざを構成する生の体験は︑固有の場にあって他者関係を内在し
た濃密なものであるが︑それをシンボルに置換すれば単純化されてしまう︒わざを構成するに必
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要なものは︑熟達者の報告事象でもなければ観察事象でもない︒それ以前の生の体験である︒
そこで生じる問題は︑この生の体験をどのように取り出し︑またそれをどのように用いるかで
ある︒現代の心理学が採用した方法は︑ある行為を他者が観察するものであり︑広く受け入れら
れている︒一方︑自らの行為を自己省察する方法は客観性に問題があるという理由から排除され
ている︒しかし︑生の体験に言及するのであれば︑たとえ問題があるにしても︑自己省察する以
外に手だてをもたないように思われる︒ただ︑誰もが自己省察できる訳ではない︒たとえ体験者
であっても︑自己省察できるという保証はない︒それに見合った力量がなければ省察しえないこ
とも︑また否定しえない事実である︒心理学者は他者観察︑自己省察を問わず︑そのエキスパー
トと自負しているが︑はたしてそうであろうか︒
自己省察を介して生の体験を把握し︑それをシンボルに置換したとしても︑他者観察の場合の
ように︑それらの知見からわざを再現する法則なり︑理論が構築される訳ではない︒そもそも︑
自己省察はそのような道筋を辿らないのである︒また︑たとえそれが構築されたとしても︑良定
義問題ならいざ知らず︑悪定義問題に通用するとは限らない︒悪定義問題には︑その性質上︑誰
もが納得する答えはない︒答えのないところに理論はないのである︒
ただ︑納得しさえすればそれが答えになる場合もある︒その最たるものが自問自答での納得で
あり︑そこでは納得しうることが重要なのである︵野村︑二〇〇七a︶︒なぜなら︑われわれは客
観的な環境に棲息しているのではなく︑われわれの感覚によって再構成した世界に生きているか
43 第 2 章 行 為
らである︒その世界は極めて主観的なものであり︑われわれはそれ以外の基準をもたないとすれ
ば︑最終的には各人が納得しるか否かがすべてということになる︒その納得した世界での体験は︑
当事者には生の体験としてあり︑しかもアクチュアリティだけでなく︑リアリティをも持ち合わ
せているはずである︒
そして︑納得を殊の外重視した学びが伝統的な徒弟教育であり︑またそこでの学びは︑ある意
味で悪定義問題を想定したものである︒師匠から弟子へ︑先輩から後輩へという枠組みの下で︑
徒弟は絶えず生の体験を積み重ねることを介して︑自らが納得しうる世界に近づいてゆく︒やが
て伝承の枠を超えて独自の世界を創出するものもいる︒彼︵女︶は創始者となるが︑そのわざが
陳腐化することなく次の世代に伝承されるという保証はない︒多くの場合︑伝承のなかでわざは
確実に陳腐化してゆく︒では︑わざはなぜ陳腐化するのか︒その理由の一つは︑伝承と創出とで
は生の体験の捉え方が大きく異なり︑また悪定義問題に対する納得の仕方が違うからである︒
まず︑優れた創始者が自らのわざを創出させたとしても︑それを型にまとめ上げることは少な
いといわれている︒その必要がないからである︒それをするのは創始者とともにあった二代目︑
あるいはその関係者の仕事であることが多いようである︒いずれにしても︑いったん型として確
立すれば︑それは創始者から離れ︑後は維持されるだけであり︑やがては陳腐化する︒それは学
びの過程が型として体系化されたがゆえに︑本来が悪定義問題であるにもかかわらず︑それが型
となることで︑良定義問題に近いものになるからである︒新参者はその範囲内で熟達化を辿るこ
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とから︑必然的に生の体験が制約されてゆくのであろう︒
確かに︑伝承の際に果たす型の存在は大きいが︑本来わざは生の体験を介して体得すべきもの
である︒それが型に依拠することで︑新参者たちはかつて創始者が経験したような生の体験を積
み重ねることなく︑効率よく学んでゆく︒その学びが直ちに問題という訳ではないが︑型に引き
ずられることでゆらぎや反応の幅が減少し︑生の体験が減少し︑結果として自らのうちに作り出
す部分が少なくなるからである︒ここに創始者を超えて熟達者となることの難しさがある︒それ
はたとえ型といえども︑しょせんは﹁古人の糟粕のみなるかな﹂︵第
1章参照︶に過ぎないからで ある︒ 古人の糟粕云々は型を認識の理論として捉えた結果であり︑これに対して創始者にとっての型
は︑型として体系化される以前の行為の理論そのものとしてある︒修行を始めた初心者にすれば︑
習熟の過程で型を想定することそれ自体が︑熟達化の過程を意識的に捉えることにつながる︒し
かし︑それは決して創始者の辿った道ではない︒初心者の学びは直線的であり︑そのため生の体
験を介して質的な変化を段階的に経るというようなものではない︒これなども創始者を超えられ
ない理由の一つであろう︒
2 暗黙知
行為者は自らの生の体験に何かを学びとる︒その多くは言葉で語られるようなものではないと
45 第 2 章 行 為
しても︑確実に身体知︑暗黙知として行為者のうちにとどまり︑必要な行為を生成する際の根源
となる︒また︑その行為が明確な意図の下で生成される訳ではないが︑暗黙知が意識の制御を超
えて︑行為の生成に深く関与することは充分にありうる︒それは︑その行為が固有の状況に埋め
込まれているからである︒しかし︑状況に埋め込まれた行為は純粋ではありえず︑行為生成の過
程を理論として直接取り出すことは難しい︒これが行為の理論の構築を難しくしているが︑生の
体験を心理学の俎上に上げるためには︑その難しさを克服することが求められる︒それへの試み
が︑たとえば本書が模索している熟達心理学の構想であり︑そのためには暗黙知の働きを解剖し
なければならない︒
まず︑語られる知識を顕在知︵形式知︶と呼び︑語りえぬ知識を暗黙知と呼ぶが︑暗黙知は単
に語りえないものを指し示すものではない︒また︑暗黙知という知識がそれ自体ある訳でもない︒
そもそも暗黙知とは何か︒ポラニーは﹁われわれは語ることができるよりより多くを知ることが
できる﹂という命題から︑暗黙知という知の体系を提唱している︒
﹁語られざる部分﹂は機能的︑現象的︑意味的︑存在論的な四つの基本的側面からなっている︒
まず︑人びとは他の人の顔を識別する時︑口の大きさや眼︑鼻の様子といった個々の諸細目につ
いては感知しながら︑最終的には細目に関する知識からは得られない全体に注目している︒感知
された諸細目は意識に上らず︑全体としての顔が意識される︒われわれは誰に出会ったかを語る
ことができても︑その人が眼鏡をかけていたかどうかを語れないことも多い︒これが﹁語られざ
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る部分﹂の機能的側面である︒これとは逆に︑われわれは顔の諸部分を顔全体との関連において
感知するが︑われわれはそれを語ることができない︒これが現象的側面である︒意味的側面とは︑
諸細目と全体のあいだに全体が諸細目の意味となるという関係が成り立つことをいう︒また︑存
在論的側面とは︑意味の関係を結ぶ部分と全体という二つの項目の協力によって包括的な全体が
構成されることである︵磯谷︑一九八三︶︒
われわれは諸細目の集まりから統合された全体を把握してゆくが︑その把握の過程も︑また明
示化しえない暗黙の力動的な知識による︒暗黙知が力動的システムのサブクラス︵諸細目︶を構
成し︑それらが自律的に働くことで統合された全体が立ち現れてくる︒この自律的過程が創発と
呼ばれるものであろう︒
ポラニー︵一九六六︶のいう創発︵emergence︶とは︑飛躍し新しいシステムの出現をもたら
す過程である︒これらは二つあるいはそれ以上のシステムが︑一つのそれに統合される時に生じ
るものであり︑われわれはまえもって何が起こるか︑まったく予想することはできない︒より高
いレベルの組織原理は︑そのレベルの諸細目のそれぞれを支配する法則によっては表現できない
からである︒上位のレベルは下位のレベルでは見られない過程︑つまり創発と呼ばれる過程によ
ってのみ生み出されてゆく︒ただ︑創発を自らの意志で体験することはできない︒われわれはそ
れがおのずと立ち現れるのを待つのみである︒
暗黙知に関しては︑ポラニー︵一九六六︶が提唱して以来︑多くの領域の研究者が関心を抱き︑
47 第 2 章 行 為
それぞれに研究を進めてきたが︑心理学とてその例外ではない︒暗黙知は︑たとえば従来の知能
理論との関連で取り上げられ︑その違いに注目されたのである︒その後︑認知心理学︑発達心理
学では潜在学習︑潜在記憶︑熟達化等と暗黙知の関係が取り上げられ︑既存の理論と暗黙知の整
合性に関心が寄せられている︒たとえば潜在記憶は先行経験の影響を受けているが︑意識的には
それが想起されない情報の記憶である︒そこには暗黙知が深く関与している︒
認知活動や行為の生成において暗黙知が強調されるのは︑そこには語ることのできない部分が
あり︑それが重要な働きをしていることを認めない訳にはゆかないからである︒ところが︑語り
うるものと語りえないものの境界は必ずしも不変のものではなく︑語る人によっても違ったもの
となる︒とすれば︑まず語りうる︱語りえない双方の境界を規定する要因を明らかにしておく必
要がある︒
数学者である菊池︵二〇〇五︶によれば︑語られるという言葉に含まれる可能性の意味は︑一
つは語ることの可能性の責任が語る人の表現能力にある場合である︒いま一つは︑語る可能性の
責任が言語体系の表現能力にある場合である︒この区分は分かりやすいが︑双方は必ずしも独立
したものではない︒語る人の表現能力はその言語体系のなかで涵養されたものである︒
語る人の表現能力は︑その人の熟達の程度︑獲得した知識の体系化の度合い︑さらには実践共
同体が語ることに重きを置いているか︑等によって随分違ったものになる︒たとえば熟達者は︑
自らの体験事象︑また事象間の関係のあり方を簡潔に表現することがある︒それが熟達者の金言
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と呼ばれるものであり︑ありふれた表現であることが多い︒熟達者同士では︑それで充分に意思
の疎通が可能であるが︑初心者にはほとんど伝わらない︒また︑実践共同体内では伝わるが︑共
同体の外へ出ると︑それが必ずしも通用する訳ではない︒このことは︑語る人の表現能力がそれ
を受けとる人に依存していることを意味する︒それは熟達者と初心者の所有する知識︑経験の差
の反映でもある︒
語る人の表現能力は︑もう一方の言語体系のもつ表現能力とも深く関係する︒初心者は言語体
系に支援され︑また制約されるが︑熟達者はその制約を克服してゆく︒たとえば科学言語では︑
用語およびその運用が限定されており︑たとえ初心者であっても︑それらを介して体験事象を表
現できる︒しかし︑その言語体系がその体験事象を表す用語をもたなければ︑それを表現するこ
とはできない︒また熟達するにつれて︑自らの体験事象を表現していた用語ではもはや表現でき
ないようになる︒熟達者はその表現できない世界を科学言語ではなく︑たとえばわざ言語︵生田︑
一九八七︶を用いて表現してゆくようになる︒わざ言語はメタファーを駆使したものであり︑体
験を直接表現するのではなく︑類似の体験を他者に促すように表現してゆく︒熟達者のこの表現
のあり方は︑言語体系を超えてもう一方の語る人の表現能力とも深く関係する︒
いずれにしてもこれらが複雑に絡み合い︑それぞれの境界を設定してゆくと同時に︑それぞれ
の世界が立ち現れる︒語りうるもの︑語りえないものは︑それ自体あるのではなく互いに依存し
ている︒語りえない暗黙知は語りうる形式知に依止している︒依止とは境界であり︑限界するこ
49 第 2 章 行 為
とである︵中村︑二〇〇二︶︒
たとえば︑夫は妻に依って夫となり︑妻もまた同様である︒これが縁起の考えであるが︑この
縁起が成立するためには︑まず夫や妻が区別されていなければならならず︑それだけでなくお互
いがお互いの依止にならなければならない︒この依止はまえもってあるものではなく︑かかわり
のなかでそのつど決定されてゆくものであろう︒だからこそ多様な夫婦のあり方がそのつど立ち
現れてくる︒この意味で︑双方は関係を構成するためのそれぞれの要因ではない︒出来事は関係
としてあるが︑その関係は単純な二つのあいだの関係ではなく︑出来事それ自身にかかわる関係
である︒それは関係に関係それ自身が深くかかわるような動的な関係としてある︵第
11章参照︶︒ とすれば︑まず境界があって︑それによって語りうるものと語りえないものとのとが区分され
る訳ではない︒境界は認知活動や行為の生成のあり方︑熟達の階梯の違い︑語りの媒体︑さらに
は課題の違い等の要因によってそのつど変わる︒語りうる︱語りえない双方の境界は外部観測に
依拠した区分である︒一方︑内部観測からすれば︑そのつど立ち現れる暗黙知は︑その境界がい
ずれの要因によるものであったとしても︑双方の特性を内在した知の体系である︒そのためであ
ろう︑やがては語りえないものが語られるようになる︒逆に︑語られることが︑さらなる語りえ
ない部分を引き起こすこともありうる︒
このように暗黙知は︑知識の本質的な部分を占め︑同時に知識の力動的な側面をも支えている
が︑本来が焦点的に捉えられるようなものではない︒そのため︑暗黙知は個人的な知識にとどま
50
らざるをえない宿命の下にある︒暗黙知は︑われわれの行動のうちにただ副次的にのみ現れる︒
これが自律的な働きということの意味なのであろう︒
前掲の楠で彫ったものである︒奈良公園から春日大 社を経てしばらく歩くと
︑
新薬師寺である︒薬師如来坐像を守護する十二神将の豊かな表情は参拝者を飽きさせない︒なかでも︑迷企羅大将は心に残る一体である︒
迷企羅大将像
楠造 総高二尺︵平成一〇年作︶
53
第
3章 身 体
Ⅰ 生ける身体
1 拡張された身体
われわれは︑まず外界の変化を知覚し︑その知覚に導かれた行為によって目的を遂行する︒し
かし︑この行為の前にいま一つの行為が必要である︒それが探索的行為である︒前者は意図を具
現するための目的的行為であり︑後者の探索的行為と区別されるが︑これらの行為は本来が一つ
のものである︒たとえば︑知覚と動きの関係に言及すれば︑知覚が成立した後に動きが︑さらに
は行為が成立するというものではない︵第
2章参照︶︒ション・デューイによれば︑行動は感覚刺
激から始まるのではなく︑感覚︱運動調整から始まる︒真の開始は見る動作であり︑それは見る
ことであって︑光の感覚ではないという︵デューイ︑一八九六︶︒感覚︱運動調整は探索的行為に
近いものであり︑それが意図を具現する行為を導くのである︒
通常の日常的な行為では︑探索的行為と目的的行為は密接に連携しているが︑新しい課題では
双方がうまく連携するとは限らない︒初心者ではその連携は難しいが︑やがて熟達化に伴ってう
54
まく連携しうるようになる︒感覚︱運動調整︑さらに探索的行為は︑本来が意識や意図によって
いちいち制御されるようなものではないが︑熟達者はそれを何らかの形で制御しているのであろ
う︒だからこそ︑身体がおのずと反応することで︑必要な時に必要なことを実行しうる︒その制
御は知覚と行為の一体化によるものである︒
一体化は︑たとえば修行者が絶えず求め続けてきた境地であり︑明らかに一元論に与する概念
であるが︑心理学に限らず近代の学問は︑本質的には心身二元論の立場を採っている︒ところが
一方では︑二元論を克服する試みが絶えずなされてきたことも事実である︒たとえば現象学は意
識の身体性から︑また分析哲学では物体の精神化という観点から︑それぞれに二元論を克服しよ
うとしてきたが︵河野︑二〇〇六︶︑これらはいずれも二元論を前提にした考えである︒しかし︑
二元論を前提にするかぎり︑それを克服することは難しいように思われる︒
身体という概念に着目して︑二元論を克服しようとする試みは︑たとえば﹃精神としての身体﹄
︵市川︑一九七五︶に見られる︒そこでは︑人間の現実的存在が身体であることをポジティヴなも
のとして捉え︑心身合一において働く具体的身体を理解しようとしている︒これが心理学におけ
る身体論に多大の影響を与えたことは︑誰しもが認めるところであろう︒しかし︑心身問題に心
理学者が言及する際には︑市川の身体論を超えて﹃身体としての精神﹄︵春木︑一九九四︶という
見方もある︒これは極めて興味深い心と身体の捉え方である︒春木は﹁The Embodied Mind﹂の
訳語としてこれを用いているが︑東洋思想における心身無分法に想いを抱く時︑この訳語は的を
55 第 3 章 身 体
射ているといってよい︒それだけでなく︑熟達者に見られる気︑スピリチュアリティも︑実はこ
の言葉に内在されているのではないかと考えられる︒
﹁精神としての身体﹂と﹁身体としての精神﹂は︑しかしながら対峙する概念ではない︒むしろ
異なった視点から捉えられた身体と精神の二つの側面とみなすべきものである︒そして︑双方を
つなぐものが拡張された身体ではないかと思われる︒一般には︑解剖学的な身体に対峙される獲
得された身体は︑たとえば道具を組み込んだ拡張された身体であり︑文字通り生ける身体である︒
生ける身体は︑解剖学的な身体の生理心理的メカニズムに依拠しながらも︑外界に対して能動的
に行為を生成する潜在的な身体である︒たとえば︑熟練したドライバーの身体は解剖学的な身体
を超えて車幅まで拡張し︑生ける身体としてある︒道路にはみ出した樹木の下を走る際︑運転し
ながら思わず腰をかがめるような仕草をすることがあるが︑これなどもドライバーが車を身体に
組み込み︑その身体を車幅まで拡張している潜在的な身体の現れである︒
いま︑拡張された身体を身体という視点から捉えれば︑身体は﹁精神としての身体﹂となり︑
逆に拡張された身体を精神という視点から捉えれば︑精神は﹁身体としての精神﹂となる︒この
区分は︑前者が身体を︑また後者が精神をそれぞれに重視するいま一つの二元論につながるよう
に思われるが︑あくまでも一元論である︒ただ︑市川の﹃精神としての身体﹄が上梓された一九
七五年当時は︑心理学界に限っていえば︑精神を上位概念として︑一方の身体を下位とする二元
論的風潮が色濃くあり︑それに一石を投じるものであった︒しかし︑身体が復権したとも思われ
56
る現在にあっては︑逆に精神を強調する状況にある︒それが東洋への関心であり︑心身問題であ
り︑さらには気への︑スピリチュアリティへの関心の高まりでもある︒春木の﹃身体としての精
神﹄︵一九九四︶はこの流れを受けたものなのであろう︒
春木の考える﹁身体としての精神﹂は︑あくまでも心身一元論を想定したものであり︑精神か
ら身体︑心から体に言及するものではない︒むしろ体から心︑身体から精神を捉えようとするも
のであり︑この意味で市川のそれに近い捉え方である︒ただ︑﹁身体としての精神﹂は拡張された
身体以上の何かを身体に求めるからこそ︑その何かを重視して﹁身体としての精神﹂と命名した
のであろう︒その何かとは︑たとえば春木の重視する気︑スピリチュアリティであろうか︒市川
の﹁精神としての身体﹂では︑残念ながらそれらを取り扱えないように思われる︒
春木は︑﹁The Embodied Mind﹂の訳語として﹁身体としての精神﹂を用いた時点で︑すでに
一〇年後の流れを的確に捉えていたのであろう︒二〇〇五年︑人体科学会が企画した﹃科学とス
ピリチュアリティの時代﹄が刊行されたが︑この企画には春木が深くかかわっている︒これは﹃身
体としての精神﹄が見事に具現したものと考えてよい︒筆者も﹁霊性のもとに結集する寺院建築﹂
という一文を寄稿している︵第
10章参照︶︒それは︑数世紀にわたって彫り続けられたインドの石
窟寺院の光景から︑そこに見られる棟梁たちとその仲間たちのわざの伝承を︑スピリチュアリテ
ィの継承として取り上げたものである︒
現在の心理学︑なかでも認知心理学は﹁精神としての身体﹂の学でもなければ︑ましてや﹁身
57 第 3 章 身 体
体としての精神﹂のそれでもない︒私の考える心理学は﹁精神としての身体﹂を受け入れながら
も︑それを超えた﹁身体としての精神﹂を目指したものである︒心身の不可分を念頭に置きなが
ら︑それを超えてスピリチュアリティを射程に入れた時︑新たに立ち現れた世界が行為であり︑
なかでも熟達行為である︒拙編著﹃行為の心理学
︱
認識の理論︱行為の理論﹄︵関西大学出版部︑二〇〇二︶は︑﹁精神としての身体﹂と﹁身体としての精神﹂を結びつけるものが行為である
と考え︑自らの行為論を展開したものである︒
2 潜在的志向性
現代の心理学は一九世紀末に成立して以来︑現在まで多様な形で展開している︒発達︑学習︑
臨床︑教育︑社会等いずれの領域であっても︑基本的には科学としての立場にこだわり︑未だに
主客分離の手法が幅をきかせている︒一方では︑それに替わる見方︑そして手法が心理学者を魅
了していることも否定できない︒それが主体と対象とのかかわりであり︑関係性への注目であろ
う︒主客分離の手法は確立されたものであり︑またそれによって得られた知見は普遍性をもつこ
とが確認されている︒一方︑ものごとを関係として捉えることは難しく︑またたとえ捉えたとし
ても︑その成果は容易に普遍化されるようなものではない︒
それだけでなく︑現代の心理学は分析的手法を重視することから︑以前にも増して研究領域が
細分化しているが︑細分化以前の姿が解明されている訳でもなければ︑また個別の現象を動的な
58
関係に戻して理解している訳でもない︒そのため︑いま・ここに生きる人間を全体として︑また
総合的に取り扱っているとはいえないのである︒
いま・ここに生きる生身の人間を全体的な視野から捉えるためには︑観測された事象だけでは
不充分である︒これに加えて︑観測事象の根底にある本質的な働き︑つまり世界に対する行動へ
の潜在的志向性を捉えてゆかなければならない︒潜在的志向性とは︑生理心理的メカニズムを一
定の方向に習慣化させる運動図式である︒それは経験を介して獲得されたものであり︑行動への
身構えを構成する︒これによって︑われわれは一瞬のうちに知覚を受動し︑行為を生成すること
ができる︒その行為は潜在的志向性が立ち現れたものであり︑生ける身体の表出である︒とすれ
ば︑生ける身体を観測し︑それを単に記述するにとどまらす︑その根底にある潜在的志向性を把
握することが求められる︒そのためには︑われわれは生の体験を繰り返すなかで︑その本質をつ
かんでゆかなければならない︒
外部観測とその記述は︑生ける身体を解剖し︑その要素から全体を構成しようとする︒これに
対して︑内部観測は生の体験に基づいて潜在的志向性を直接把握してゆくものである︒これらの
違いは外部観測・全体視野︱内部観測・局所視点の違いにとどまらず︑前提とする人間の存在様
式の基軸における違いでもある︒その違いは時間意識を基軸とするか︑空間意識を基軸とするか
である︒空間意識が外部観測に︑時間意識が内部観測によるものであれば︑双方の関係は分かり
やすいが︑実際はもっと複雑である︒そして︑この問題は次節で言及する自己の二重定位とも深
59 第 3 章 身 体
く関係する︒
まず︑時間意識とは時間的自己についての意識であり︑西洋哲学の伝統のなかでは︑主体とし
ての自己が時間の経過にもかかわらず自己であり続けている︑という自己同一性の意識である︒
西洋哲学の流れを汲む現代の心理学が︑時間意識に基づいて構築されたことは明らかである︒時
間的自己は過去のある出来事の意識事象からなるが︑その意識事象はいま・ここの身体を離れて
外在化され︑そして抽象と捨象を経た知の体系として普遍化されている︒自己は︑身体から切り
離された知性を重視することで︑真実を把握しうると考えられたのである︒だからこそ︑自己が
身体を制御し︑また支配するという考えが生まれてきたのであろう︒そして︑普遍化された知の
体系は再度内在化され︑ふたたび時間意識となり︑時間的自己を構成する︒
一方︑空間意識とは空間的経験を介した意識であり︑それは空間的場所において身体として存
在する自己の意識である︵湯浅︑一九九〇︶︒空間的自己からすれば︑ものの真実は自己の心身の
すべてを用いて全体的に体得され︑一挙に把握されることになる︒空間的自己は東洋の伝統的な
考えであり︑現代の心理学に抜け落ちているそれであろう︒
いま︑空間的自己の観点から心理学のあり方に言及すれば︑その研究対象は生ける身体であり︑
その根底にある潜在的志向性である︒しかし︑これらの対象を時間的自己の捉えた知性から研究
することはできない︒知性から生ける身体を捉えれば︑その時点ですでにそのあり方は変容し︑
もはや生ける身体そのものではないからである︒生ける身体および潜在的志向性を把握するのは︑
60
あくまでも心理学者の生ける身体であり︑空間的自己である︒
では︑心理学者の生ける身体とは何か︒また︑その身体がどのように他の生ける身体にかかわ
るのか︒最近︑心理学者の関心を集めている質的な研究は︑ある意味で生ける身体のかかわりの
あり方を記述するものであり︑知的分析の限界を克服すべき新たな試みとみなして差し支えない
であろう︒﹃熟達心理学の構想﹄の目的の一つに挙げた方法論の確立とは︑要は心理学の質的研究
を如何に進めるかである︒それは︑われわれが空間的自己としてここに存在するということや︑
そこでの生の体験のあり方と深く関係している︒しかし︑熟達心理学が空間意識・空間的自己か
らのみ構築される訳ではない︒われわれが時間意識・時間的自己から構成されていることも︑ま
た否定しえない事実である︒行為︑なかでも熟達行為は時間と空間という基軸に二重に定位した
自己から生成されたものである︒
Ⅱ 自
己
1 自己の二重性
われわれは外部空間あるいは内部空間のいずれであっても︑そこにある事象を対象として認識
する︒外部空間では︑たとえば﹁机の上に本がある﹂というように理解しやすいが︑内部空間で
61 第 3 章 身 体
あっても﹁昨日会った彼の顔﹂のように︑想起した意識事象︵彼の顔︶が対象であることは明白
である︒彼の顔を想い浮かべているかぎり︑それ以外のことを同時に想い浮かべることはできな
い︒認識とは︑外部および内部空間のいずれにおいても︑ある事象を対象として意識することで
あり︑それは固有の場を占有することでもある︒そのため他の事象はその場を占めることができ
ず︑意識に上らないことになる︒一方では︑われわれは記憶の働きを介して︑それらの意識事象
を時間軸上で継時的に捉えることもできる︒これによって︑たとえ二つのものが固有の場所を同
時に占めることができないとしても︑われわれはそれらのことを意識事象としている︒そして︑
それらの事象から構成された自己が時間的自己である︒
空間的自己︑時間的自己のいずれであっても︑それらが捉えた事象は継時的な連なりであり︑
それらの事象は個別に認識されたものに過ぎない︒しかし︑それらの自己が二重に定位するとす
れば︑われわれはそれらの事象をいま・ここの拡がりのなかに同時的に捉えることができるはず
である︒空間的認識では︑意識事象は絶えず成立と消滅を繰り返しているが︑時間的認識では︑
それらは消滅することなく同時に存在する︒これら双方の認識のあり方は︑木村︵一九八二︶の
いうものとことにそれぞれ対応する︒ものに対してことを厳密に定義することは難しいが︑精神
病理学者である木村はさまざまな場面で立ち現れることを︑次のように述べている︒
たとえば﹁リンゴが木から落ちるということ﹂と︑﹁木から落ちるリンゴというもの﹂を比較
62
すれば︑﹁木から落ちるリンゴ﹂という名詞的な言い方をする場合は客観的に記述可能な対象で
あるが︑﹁リンゴが木から落ちる﹂のほうは︑客観的な﹁木から落ちるリンゴ﹂と︑それを見て
﹁リンゴが木から落ちる﹂ということを経験している主観の両方をはっきりと含んだ命題である︒
つまり︑それを何らかの形で経験している主観なり自己なりというものがなかったならば︑﹁木
から落ちるリンゴ﹂というものはありえても︑﹁リンゴが木から落ちる﹂ということは叙述され
えない︵頁一〇︶︒われわれは眼でものを見る︒木から落ちるリンゴやその落下は眼で見られる
ものである︒しかし︑われわれは﹁落ちるということ﹂を眼で見ることはできない︒見えてい
るのはあくまでもリンゴであり︑その落下である︵頁一一︶︒﹁もの﹂はそれを見ている人の主
観にはなんの関係もないが︑﹁こと﹂は一人の人間が世界とかかわるそのかかわり方︑もしくは
その世界で生きてなしうる経験としてある︒それは身体を含む主観的経験である︒
︵木村︑一九八二︶
ものは五感のなかでも︑特に視覚で顕著に把握される︒視覚では︑見る主体と見られる対象と
の境界は明確であり︑ものは主体の見るという働きの対象になる︒﹁百聞は一見にしかず﹂という
ことわざが示すように︑視覚は他の感覚に比してはるかに客観的であり︑この特性に基づいて近
代科学が成立したといわれている︵中村︑一九七九︶︒ところが︑聴覚を介して把握されるものは
必ずしも明確ではなく︑さらに触覚では触る主体と触られる対象との境界はいっそう曖昧になる︒
63 第 3 章 身 体
一方︑ことはものと違ってどうしても対象化することはできず︑客観的に固定することもできな
い︒それだけでなく︑ことは色も形も大きさもない︒そして︑ことは固有の場所を占めないこと
から︑同時にいくつものことをこととして併せ持つことができる︒
固有の場所を占めないことは︑しかしながら必然的に不安定な性格を帯びることになる︒その
ため︑人びとはことをこととしてとどめおくのではなく︑直ちにものとして捉えようとする︒も
のとすることで︑ある種の安定が立ち現れるからである︒ものは安定しているが︑場を占有する
ことから変化に即応できない︒それだけでなく︑いったんものとして世界を捉えれば︑同時にそ
れに対峙する自己を自覚することになる︒一方︑客体をこととして捉え続けるかぎり︑自己もま
たこととしてあり︑それゆえに明確に自覚されることはない︒
ものとことの区別は熟達化の階梯を上るにつれて違った様相を見せる︒初心者は直面した世界
をものとして捉えようとする︒また︑行為の生成を表象︵もの︶の連なりとして捉え︑それを意
識の下で制御しようとする︒ところが︑優れた熟達者は世界をものではなくこととして捉える︒
熟達者は課題に対処した際︑それに必要なことを同時にいくつも持ち合わせているからこそ︑必
要な時に必要なことをいちいち意識することなく実行しうるのである︒初心者がものから自己を
構成しているのに対して︑熟達者はそれをことから構成している︒しかし︑いずれか一方だけの
自己であり続けることはできない︒自己は二重に定位している︒
64 自己の二重定位とは︑自己が自己中心的自己および場所中心的自己の双方から定位されてい
ることを意味する︒清水によると﹁自己中心的自己とは自己中心的にあるいは自他分離的にも
のを見たり︑決定をしたりしている自己であり︑場所中心的自己とは自己を場所の中に置いて︑
場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己である﹂︵頁五六︶と定義される︒もの的自
己が自己中心的自己に︑こと的自己が場所中心的自己にそれぞれ対応するが︑もの︑ことの関
係からも明らかなように︑これらの自己は静止したものではなく︑この自己は自己から絶えず
超出する力としてあり︑現在進行形の状態にある自己と考えてよい︒ ︵清水︑一九九六︶
こと的な自己からもの的な自己へと流入しつつ移行する自己を自己中心的自己として︑また一
方では︑もの的な自己からこと的な自己へと流入しつつ移行する自己を場所中心的自己として︑
それぞれ想定することも可能であろう︒ただ︑われわれのうちに場所中心的自己が成立するため
には︑具体的な体験が不可欠である︒たとえば︑作動によって見える世界が変化し︑またものは
三次元から構成されているために︑表からは見えない裏があり︑さらにその背後には他の事象が
存在するということを知らなければならない︒また︑行為を介して対象が変容するという経験も
不可欠である︒これらの能動的な経験があって︑はじめて場所と自他分離しない状態で超越的に
見ている自己が成立する︒それが︑ここでいう場所中心的自己である︒場所中心的自己は︑身体
としていま・ここの場所︑空間を占めるという事実と深く関係するものであり︑この意味で空間
65 第 3 章 身 体
的自己であり︑さらには行為的自己である︒
自己の二重定位といえども︑それが完璧に分離しえないことから︑われわれはつねに双方の自
己から構成されている︒時と場所の違いによっていずれか一方が浮かび上がり︑それに応じて他
方が沈み込む︒場所中心的自己が優位であれば︑世界や自己はこととして捉えられる︒一方︑自
己中心的自己が優位であれば︑世界や自己はものとして捉えられ︑またそれに対峙する自己を自
覚することになる︒現実には︑双方の自己から構成されることから︑それぞれが捉えた自己が︑
また世界がそれぞれに重なり合い︑いま・ここの拡がりが保証されてゆくのであろう︒
2 受 苦 行為的自己は︑過去の自己と現在の自己が同一であるという時間的自己とは異なる︒もちろん
行為的自己と時間的自己は二者択一的なものではないが︑生命の維持という観点からすれば︑行
為的自己の重要性は否定できない︒そもそも行為は︑行為主体が自らの意図に基づいて外界に働
きかける作動としてあり︑その意味でも能動的なものである︒一方で︑行為は外界に働きかける
がゆえに︑まさにその理由でわれわれは外界からの反応を否応なしに受動する︒受動は受苦につ
ながるが︑われわれは受苦にさらされながらも︑時には能動的に働きかけ︑時には他者を受け入
れ︑自らのあり方を修正し︑以前とは違った世界を︑そして自己を見出す︒それが行為的自己の
姿である︒能動と受動︑さらには受苦というような︑相反する行為が同時に存在することこそ︑
66
われわれが身体としていま・ここに存在していることの現れなのである︒
能動と受苦はあらゆるところで見られる現象である︒たとえば実践共同体では︑日常生活での
立ち居振る舞い︑取り組む姿勢︑仕事の仕方︑段取り等︑実にさまざまな拘束や制約がある︒師
匠がそれを意図しているか否かとは関係なく︑結果として新参者に受苦をもたらす︒その受苦は
克服されるべきものとしてあり︑わざの習得に不可欠である︒しかし︑この受苦を克服する手だ
てがいちいち事細かく教えられることは少ないようである︒文字通り﹁教えない﹂教育であり︑
新参者は放任されたままである︒
実践共同体に参加した新参者は︑最初のうちは掃除︑小間使い等の仕事をさせられるが︑肝心
なことに関しては教えられず︑放任されることが多い︵野村︑二〇〇三︶︒このような放任が︑一
方では自由度を高め︑それがさらなる受苦をもたらすが︑他方ではそれを克服することで︑以前
とは違った世界が立ち現れる可能性を秘めている︒放任の最たるものが遊びであり︑それを介し
て新参者は後に必要な多くの反応レパートリーを獲得する︒
そもそも︑受苦は身体においていま・ここに存在せざるをえないという制約と深く関係する︒
いま︑われわれが身体をもたない純粋精神として存在しているのであれば︑生命を維持するため
に一切の行為は不必要であり︑当然能動もなければ受動もない︒受苦のないところに矛盾も︑ま
た葛藤もないが︑それは決してわれわれの存在のあり方ではない︒身体としていま・ここに存在
するからこそ︑受苦に直面し︑それを克服しているのである︒
67 第 3 章 身 体
受苦の克服の過程は日常の場所で︑誰にも等しく求められ︑また誰もがそれに応えている︒な
かには日常を超えて受苦の克服を目指すものもいる︒それが修行者であり︑修行は洋の東西を問
わずあまねく見られる︒東洋の伝統的な修行は︑いま・ここの身体のあり方を殊の外重視する︒
それは空間的自己の再構築を目指すものであり︑知的分析ではなく身体で世界を捉えようとする︒
換言すれば︑身体のあり方に即して世界のあり方を︑さらには空間的自己を捉えようとするもの
であり︑形而上的な問題解決への手だてである︒修行はつねに身体を介した能動的な行為であり︑
それゆえに絶えず受動︑受苦にさらされる︒これらの受動︑受苦を克服することでその道を究め︑
人格の向上を目指したのである︒そして︑これと相伴って行為は確実に洗練され︑かつ質的に違
ったものになる︒重要なことは︑道を極めるなかで涵養された人格の向上であって︑それと切り
離された行為に熟達することではない︒切り離された行為は邪道でしかない︒
修行を介して再構築された行為的自己は︑以前とは違った形で世界にかかわってゆく︒いま︑
身体が客観的に存在するという人間存在のあり方に即して︑自己と世界の関係構造を捉えれば︑
そこでの行為とは︑世界や事物に対して人間が身体を介して能動的に関係を形成することである︒
一方︑自己は身体に備わった感性的な直観を通じて︑世界の事物の存在の状態を受動的に了解す
る︒身体と世界空間のある事物のあいだに︑行為と直観という二つの契機を通じて︑能動的︱受
動的な一種の回路が形成され︑そこに経験主体としての自己と︑それに対峙して現象している世
界とのあいだに主観︱客観関係が生じる︵湯浅︑一九九〇︶︒
68 この関係は日常的な場における意識のあり方であり︑即興的行為︑解放された行為︵第
4章参
照︶では違った様相を見せる︒そこでは日常的な主観︱客観という分裂は克服され︑心と身体の
動きは次第に一致するようになり︑生ける身体を構成する︒この場合では行為が受動となり︑こ
れに対して直観が能動となる︒行為と直観のあいだで見られる能動︱受動の逆転は︑努力と訓練
によって到達した心身の統合状態であり︑いずれも経験を介して獲得されたものである︒
南インド・バンガロールの裏町で白檀の原木を買い求めた︒海外への持ち出しが禁止されているとか︑こ の刻印をおせば大丈夫と
か︑交渉の過程で吹っかけてくる︒手にすると結構重く︑旅行中の持ち運びに難儀したことも︑いまでは懐かしい︒
帰国後彫り始めると︑随分堅くて往生したが︑できあがれば白檀は匂い︑光沢とも︑仏像彫刻の最高の素材である︒
阿弥陀如来立像
白檀造 総高一尺三寸︵平成一一年作︶