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自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に 関する研究

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

自然の探究におけるアリストテレスの学問方法論に 関する研究

國越, 道貴

九州大学文学研究科哲学・哲学史専攻

https://doi.org/10.11501/3150681

(2)

第4章 原因の探求と定義の定式化

或る自然事象について四原因を問い、それら諸原因によってその事象の定義が構成され る。 しかし、それぞれの原因が観察を通じて別々に把短されたところで、それらが統合さ れ一つの定義を構成することにはならない。 むしろ、四原因は初めから統合を目指して探 求されていなければならない。 それが目的因(=形相因)を焦点、として、それとの概念的 (必然的)連関において始動因と質料因を問う『自然学Jにおけるアリストテレスの探求 のための方法論であった。

或る事象の目的を捉えることは、その事象についての一般的把握を可能にする。 例えば、

家をその目的において「家財の保全」を捉えることで、個々の様々な家を一般的に把握す ることができるのである。 目的(機能)から見れば家に他ならないものでも、家を特定の 材質や特定の形態のみに頼って捉えるならば、家とは呼べないということになってしまう

であろう。 自然事象を目的において捉えることはこうした一般的把握を可能にしているの である。 そして、 その把握を起点とし\目的を必然的に可能にするものとして\始動因と 質料因が探求されたのである。 しかしながら、自然事象の中には目的と呼べるものが見出 せないものもまた存在するのであり(1 ) 、そうした事象をいかにして一般的に把握するか が問われなければならない。

このことは、 r分析論後書』の定義論と呼ばれている箇所において、問われなければな らない。 原因探求に先立つ事象の把握がそこで問題となっているのである。 定義論の研究 は、それを焦点として展開しているともいえる。 しかし、研究の多くは事象の把握がどの ように成立するかを問題としながら、どのような把握であるかは自明としているように見 受けられる。 しかし、むしろ問われるべきは、市全把握のあり方である。

先ず、定義論をアリストテレスの学問構想(本論第l章2節)に照らして位置づけ、そ の概要を確認する(第1節)。 そして定義論の基本図式となる「存在把握Jから「本質探 求Jの内実を解明し(第2節)、「存在把握」が「原因の存在把握」にあることを硲認す る(第3節)0 r原因の存在把握」がいかに成立するのかを検討し、それが原因探求に先 立つ事象の一般的把握にあることを明らかにする(第4節)。 他方で、いわゆる「名目的 定義Jが存在把握を保証するという解釈を退ける(第5節)。 最後に、原因の探求方法は 形式的枠組み(論証形式)においてなされるものである点を確認する。 そして、確定され た定義が事象を知ることに寄与する仕方を指摘する(第6節)。

(3)

第l節 定義論の問題

定義 論は、次のように 構成されている。 r分析論後書J B巻3章冒頭の問題設定に始ま り(B3:90a36-37)、定義をめぐる難問の総覧を経て(83-7)、 8章からアリストテレス自身 が改めて考察を始める( lT白人lV 0εσK何TÉOV ,93a1-3)。 そして、 3章での問題設定は10章 の終わりで考察されたことが確認され、一応考察を終えるのである(B10:94a14-19) (2) 。

定義( ÒPlCJμÓS )とは、 「何であるか」という問いに対する答えを定式化したものであ

る( ÀÓYO三TOG dtσT l ,B10: 93b29)。しかし、 「何であるか」という問いは、名前が

「何を意味するか( T l CJllμa l VE l ) Jを求める場合と、名前が指す事象のあり方を問う

「本質( TÒ T i

VεT va l ) Jを求める場合がある(3) 。定義論で基本的に問題になる定義 は、後者、つまり本質の定式化であるo

定義論の中心問題は\定義と 論証の関係(B10:94a17 -18)、 つまり、本質をどのように 論 証上に項配分するか(B13: 96a20)という問題である。 その場合、考察の基本的枠組みを形 成するのが、事象の本質と事象の原因との同一である(B8:93a4)。定義は、事象の原因を 事象の本質として定式化するものである。他方、 論証は、 事象の原因を中項として成立す る(B12)。つまり、本質は論証を通じて示されること になり、定義は 論証として定式化さ れるのである。

さて、こうしたアリストテレスの考察が"' r分析論後書』の学問構想の基本に即したも のであるを先ず確認しておくべきである。本論第2章l節 において、アリストテレスの論 証を通じた知識( 論証知)という構想、を次のように、整理した。

論証を通じて( 0 l ' énrOOE lぷωs )、或る事象を知っている( E TT lσTaσ8al )とは、

次の条件をみたすことである。

(i' )論証を通じて、 その事象の鹿図を認知している( yl VWσKE l V ) (i i') 論証を通じて、 その事象は必然的であると認知している

定義 論においては、本質と原因とが同ーとされて、(i')に照応する「論証を通じて、 本質 は認知される( ODÀOV ... Ol'OlTOO引とωs ,B8:93b17-18) Jということが主要な結論とな るのである ((ii')の必然性の認知については、 当面保留するけれども\本章最終節で示

(4)

唆する)。

また、次の点も論証知の一般的論点に照応する。つまり、すべての事象が論証を通じて 知られるのではなく、論証には原理がなければならないという論証知の論点に照応して、

定義論において、あらゆる定義が論証によって提示される訳ではなく或る制限をうけるの である。 r論証なしでは本質を認知できない」というとき「別の原因があるものについて はJと限定が付けられているのはそのためである(ß8:93b18-19)。 アリストテレスは次の ように事象を分類している(B8:93a5-6)(4) 。

(1)その事象の存在とその原因が同じもの (2)その事象の存在とその原因が別のもの

(1) (2)の事象分類に照応して、本質も分類される(ß9:93b21-22)0 (1)の事象は中項をも たず 、論証 の原理として定義 (基礎措定)されるもの、 例えば数論における「単一(

いovás ) Jに照応する(ß9:93b22-25,ßI0:94a9-12)問 。他方、(2)の事象は中項をもち、

その本質は論証を通じて示されるのである(B9:93b22-28)。つまり、本章で扱う定義論 (ß3-10)における定義は、論証の原理となる定義とは区別されなければならない。ところ で、(2)は、更に、(2-1)その存在が論証可能な場合、(2-2)その存在が論証不能な場合 に区分される。(2-2)の場合は除かなければならない訳だが、 それは、 「主語に対し付帯 的に属するもののあること」であると考えられる(B2:90a10-11)。

先ず、定義論の中心問題として挙げた点、本質がどのように論証に項配分されるのかと いう問題を、雷鳴という事象について、予め確認しておきたい(6) 。

雷鳴とは何であるか( TlおTl ßpOVTr1; )。雲における火の消去である。何故、雷 鳴するか( OlQ Tl ßPOVTO; )。雲において火が消去するということ故である。雲は C、雷鳴はA、火の消去はB (としよう〕。このとき、 Cつまり雲に、 B (火の消 去)が属し (というのはそれ〔雲〕において火は消去する)、それ(B火の消去) にAつまり音(中ó�os )が属す。(B8:93b7 -12)

ここでの項を論証式上に配分し、 アリストテレスの与えている文を並べれば次の通りであ る ( r雷鳴Jという項と 「音」という項との関係については後述する)。

(5)

(項配分)

A雷鳴 --B火の消去 B火の消去 - c雲

A雷鳴 - c雲

(文)

音が火の消去に属する 火の消去が雲に属する

〔音が雲に属する)

本質と原因の同ーは、 引用に見られるように、「雷鳴は何であるかJ í何故雷鳴するか」

というそれぞれの答えの同一によって確認される(cf.BI0:94a3-5,B2:90a15-23)。 そして、

原因(=本質)が、論証式上に中項として提示される訳である。 本質が論証の結論となる のではない(ß8:93a9-15,93b16-17,cf.B4)。

しかしながら\ 雷鳴の原因を「火の消去Jとすることはよいとしても、雷鳴の本質を

「火の消去Jとすることには抵抗があろう。 この点について" í論証を通じて原因を認知 する」或いは「論証を通じて本質を認知する」ということを、正確に捉えなければならな い。 í原因を認知する」とは、 テキスト上次のように述べられていたのであるo

その事象がそれの故にある原因(つまり、その事象の原因)を、その事柄の原因で あると認知する( T�V T'arTiav orω問。αyl VWσKεIV ðl'r,V TÒ TTPÔYμá EσT 1 V, 8T l EKεl VOUα{Tlα匂Tl,A2:71b10-12)。

つまり、「論証を通じて」成立するのは、ただ原因の認知というよりも、正確には、原因 と事象の連盟の認知なのである。 雷鳴について「何故雷鳴するか」と聞いによって、「火 の消去」が原因として与えられる。 しかし、「論証を通じて原因を認知する」とは、ただ

「火の消去Jを認知することではなく、 「雷鳴Jという事象とその原因「火の消去Jの連 関を認知することである。 本質の場合も同様である。 í論証を通じて本質を認知する」と は、本質をただ「火の消去」であると認知することではない。 むしろ、本質は「雲での火 の消去による音J (BI0:94a5)であり、結論「雲での音」と中項「火の消去Jの連闘を表す 論証全体(訂óðεl�lSσUVεXDS,B10:94a6-7)として与えられる訳である(7) 。 これが「論 証を通じて本質は明らかである(B8:93b17-18)Jことの内実である。

ところで、確かに、 中項「火の消去Jが「雷鳴」の定義だとされたり(B8:93b6-7, 12)、

或いは先の引用に見られる「雲における火の消去Jという仕方で、必ずしも「雲における

(6)

火の消去による音」という事象と原因の連関全体が示されない場合がある。 しかし、その 場合、既に了解されていることとして省略されているからである。 r何故雷鳴するかJ或 いは「雷鳴とは何かJという問いにおいては、 「雷鳴する(雲で音がする) Jということ が既に把握されていなければならないのであり、事象の把握ぬきに原因や本質が与えられ ることはない。

こうした把握が、 まさに「何故雷鳴するか」或いは「雷鳴とは何か」という探求におい て必要とされる「雷鳴する(雲で音がする) Jという把握の問題である∞ 。 原因の探求 は、個々の事象連関から原因となる事象を探求される訳だが、個々の事象連関から直ちに 原因が探求される訳ではない。 先ず、原因に対して結果となる事象が把j屋されていなけれ ばならない。 それは\定義論において、アリストテレスが自らの見解を述べるに当たって、

再確認されたことである( ElnÓVTES naÀlV託òpxns ,B8:93a16)。

(α1) r事態(TÒ Ò1 l ) J成立を把握して(α2)その「原因(TÒ OlÓTl )Jを探求 するように一ーところで、同時に明らかになることもあるが、ともかく「事態成 立」より先にその「原因jを知ることはできない一一、 同様に(β2) r本質(TÒ Ti

ε

f

va l ) Jも、(β1) r存在(TÒ OTl白Tl ) Jを(知ら)なくては(知り

え)ないことは明らかである。 というのも、存在するかどうか( E r ÈcrT l V )を知ら ずに〈何であるか)を知りえないからである。

(B8: 93a16-20)

ここで再確認されることの意味は次節で明確にしたい。

第2節 存在概念の拡張

(α1)事態成立を把握して(α2)その原因の探求すること、そして、 (β1)存在を把握 して((2)本質の探求すること、その二つの過程が相即することを、 「月蝕」の例を用い てテキストを追えば、次 のように整理できる(く〉は筆者の補いを示す)問 。

(α1)事態成立T66h S はP だ

(α2)事態成立の原因 TÒ OlÓTl 何故SはPか

(7)

6trlく内 σE J.J1Vll> È KÀεiTTE l OlÓTlく内 σεÀTÍvη> ÈKAε{wEl 月(S)が蝕する(p)

(ßl:89b27,28,30,B8:93b2)

何故月(S)は蝕する(p)か (B1:89b30,cf.ß8:93b2)

(

σ

2' )事態成立の原因

何故月(S)は蝕する(p)か olà T'l ÈKAεl1TE l IÌσEÀríVll (B2:90a17)

2' )事象存在の原因

H11向

何故月蝕(T)はあるか olà Tl tCH l V {KAE l

l S

(ß 1)存在 E r {crT l Tがあると いうこと

11

(ß2: 90a16-17)

(

B

2)本質 Tl匂TlV Tは何であるか OTl ÈcrTlV ÈKÀEl�lS TitσTlV E'KAEl中lS 月 蝕(T)がある

(B8:93b2-3,B2:90a13)

月蝕(T)は何であるか (B2:90a15,cf.B8:93b3)

(α1)事態成立を把握して(α2)その原因を探求することという場合に、 事態とは、 上の 例に示されるように、 r S (主語)はp (述語)だJ という構造をもっ。 それに対し、

(ß 1)存在の把握して(ß2)本質の 探求する ことは、 もともと、 実体(に相当 するもの) について問題とされていた。 r白である」といった( rあるJの繋辞用法の)場合 と区別 して、 端的に存在する もの (ケンタウロス、 人閥、 神)について問題とされていたのであ

る(B1:89b31-35,cf.B2:89b38,39,90a2,4-5,10,12-13,32) 。 つまり、 (α1)事態成立を把

握して(α2)その原因を探求することは、 実体に相当するものについて(ß1)存在を把握 して(ß2)本質を探求することと対比的に導入されていたのである(B1,B2:89b37-90al)。

しかし、ここで月蝕についての用例に示されるように、 (ß 1)存在や(ß2)本質が関われ ている のは、述語「蝕する( ÈKAE lπεl ) Jに由来する「蝕( {KAEゅは) Jという属性であ

(8)

る。 ここには、存在概念の拡張が見られる(1 0)。

しかしながら「蝕が存在するJという場合、属性を単純に実体化した訳では決してない。

というのも、( 82)本質と(α2)原因とは一致するのであり、 本質や 原因の探求に先立っ て把握される、(81)蝕の存在と(α1)r月は蝕する」という事態、成立 も一致すると考 えなければならないからである。 (82)本質とは、(α2) r何故月は蝕するのか」で関わ れている 原因と同じ「互主luの 本質であり" (β1)存在とは、(α1) r月は蝕する」とい う事態成立と同じr.ð_蝕」の存在でなければならない。 このことは、存在と 本質を関われ る「蝕」とは、「蝕する」という属性を単純に「月」という主語から切り離したもの、つ まり、 日蝕(ßl: 89b26)の場合もあれば月蝕の場合もあるような「蝕(=光の欠如(1 1)) J

という一般的現象ではないことを意味する。 r蝕する」という属性を単純に実体化して

「蝕が存在する」といっている訳ではない。 (α1)r月は蝕する」という事態、を、(8 1)

「且蝕」の存在として定式化しているのである(整理における(α2' )と(82' )が端的 に示す)(1 Z)。

こうした月蝕(T)について、(β1)存在と(β2)本質が問われる訳である。 注意して おきたいのは、この月蝕(T)は論証の中で項として出現するということである。 つまり、

AはBに属す、 BがCに属す、従って、AはCに属すという論証形式において、月蝕はA (大項)の位置を占め、月はc (小項)の位置を占めるのである。 このことは、一方で、

AはCに属すという論証の結論が、月蝕(T= r月における蝕J )は月に属すという命題 になること、つまり、(述語の定義に主語が属する)自体的命題となることである(A4:

73a37-b3)。 論証の結論は自体的命題であるという(数学の論証を含む)一般的条件は充 たされるのである(A4: 73a21- 24)。 他方で\ より重要であると思われるのは、A(大項) は大前提rAはBに属する」においてc (小項)を蹴れて出現しなければならないという ことである。 AがCの単なる(r蝕=光の欠如」のような)属性であれば、Cを縦れると

き、もはやC固有の属性は考えられない(太陽の属性にもなりうるものである)。 しかし、

A (大項)が月蝕の場合、それが月という小項Cを綴れて出現しでも、尚C固有の}震性と しての身分を保っているのである(1 3)。 論証において、 大前提に出現する場合と結論に出 現する場合とでは、A(大項)の意味が異なることは厳に禁じられる。 月蝕(T)は、意 味の同一性をもっ「項Jとして成立しているのである。

さて、定義が問われる項の成立はアリストテレスの挙げる他の事例「協和音jや「雷 鳴jについてもほぼ同様に考えることができる(1 4)。 そのことを簡単に整理しておきたい。

(9)

(α1) (α2 )事態の成立と 原因 (ß 1) (ß 2)存在と本質

月(S)は蝕する(p) 月蝕(T)がある

高音と低音(S)は協和する(p)…… 協和音(T)がある Ahtt E』

p 円unnド内川wyT

、HMどi』v 'AU 、ハv

T C」V ω 'AV HMr U RU T1 ÈcrTlσuμ中ωv{ロ

(cf. ß2: 90a19-20) (B2: 90a18-19)

高音と低音が協和すること(T) ゐTlσuμ中IJVεlV TÒ õ�ù KaL TÒ ßapú (cf. ß2: 90a21)

雲(S)で音(がする) (p) 雷鳴(T)

中Ó�O<; Èv VÉ�Eσ1 ßPOVT�

(ßI0:94a7-8,cf.ß8:93a22-23,93b11-12) (B8:93a22,93b9,ßI0:94a8)

第3節 原因の存在把握

(α)事態成立を把握してその原因の探求する過程、 そして、 (β) 存在を把握して本 質の探求する過程とが平行する過程であることを確認したが、更に、 別の平行する 探求の 過程が描かれている。 一つは、 ( T ) 原因の存在把握から原因の何であるかを 探求する過 程であり、 もう一つは、 (ε)中項の存在から中項の何であるかを探求する過程である(1

5) 0

(α) (ß)を含め、次のように整理される。

原因の探求

( T 1) 原因が 何かある 一一→ ( T 2-1)原因は何であるか

ÓTI EcrTl Tl くロrTlOV> T1 TOÛT'くi.e.αlTIOV>ゐTl

(B2: 90a8-9) (B2:90a9)

(10)

中項の探求

(ε1) 中項があるか Ef ÈσTlμ匂OV (B2:90a6,cf.89b38)

(α1)事態の成立 S はPだ

月(S)が蝕する(p)

(ß 1)事象の存在

Tがあるということ 月蝕(りがある

一一→ (ε2)中項は何であるか TjtσTl TGμ白OV (ß2:90a6,cf.90a1)

(α2)事態成立の原因 何故SはPか

何故月(S)は蝕する(p)か

(β2)事象の本質 Tは何であるか 月蝕(T)は何であるか

(α2)事態、成立の原因は(ß2)事象の本質と同じであり\ これらが、 ( T 2)事象の 「原因 は何であるか」と一致することは理解しやすい。 そして、原因は論証において中項である のであるから、 (ε2) r中項は何であるか Jと一致することも理解できる。 しかし、 ( T

1)事象の「原因の存在J 、或いは(ε1) r中項の存在」が、 (α1)事態成立および(ß 1) 事象の存在と対応することは、決して理解しやすいものではない。 (α1)事態成立や (ß 1)事象の存在を、知覚によって知られることであると考える ならば、 なおさらである。 原

因(=中項)の存在が把握されることとして\ 考え直さ なければ ならない(1 b)。

第4節 存在把握の成立

アリストテレスは(ß1)事象の存在から (ß2)事象の本質という探求過程のうちの、

(ß 1)存在把握の仕方に関し次のように述べている。

ところで、我々は(β1) r存在すること」を、(a)或る場合は付帯的に、(b)或る 場合は「 事象自体の 何か( Tl aUTou TOÛ npóy同TOS )Jを把握して、把握する。伊tlえ ぱ、雷鳴を雲の或る音(中外OS TlS V吋WV)(である)と、 〔月)蝕を(月の)光の 或る欠如(σTεPl1<!l S Tl S中ωTÓS ) (である)と、人間を或る動物(である)と、 魂を

(11)

それ自身を動かすもの(である〕と(把握する〕。

そこで、一方で、我々が (ß1) í存在すること」を(a)付帯的に知る事柄に対して、

我々はいかなる仕方でも (ß2)本質に向かわないのが必然である。 というのは(その 場合) (ß1) í存在することJを知っていないのであるから。 そして、 (ß 1) í存在 することJを知らずに (ß2)本質を探求することは、何も探求しないことである。 他 方で、我々が(b) (事象自体の)何かを把握する限りの事柄については、容易である。

したがって、 (β1) í存在することJを我々が把握している仕方に応じて、 我々は (ß 2)本質にも向かうのであるo (B8: 93a21-29)

ここで、存在把握の二つの仕方が述べられている。 つまり、一方で(a)付帯的な把J屋の場 合、存在を把握しているといえず本質の探求に向かえないこと、他方(b) í事象自体の何 か」或いは「本質の何か( Tl TOÛ Tl ÈσTlV B8:93a29) Jを把握することで「存在する こと」を把握するとき、本質を探求できることが述べられている。 存在把握を可能にする (b) í r事象自体の何かJの把握」とはいかなる把握であろうか。

(b) í r事柄自体の何かJの把握」とは、「雷鳴を『雲の或る音である」と把握して」

以下に続く叙述が、その例に相当するとほぼ一致して正当に解釈されている(l7)。 つまり、

雷鳴の本質は「室主ø火の消去による宣」であるが、ここでの例「雲の或る音Jはその本 質の一部となるという点で「事柄自体の何かJとなるのである。 そして、原因による「火 の消去による」という限定に、「雲の盛亙音Jの「或るjという限定が応じている(J 8)。

月蝕の場合のí r事象自体の何か』の把握Jに当たる「月の光の或る欠如」についても同 様である。 月蝕の本質は「地球の遮蔽による月の光の欠如Jであるが、原因による「地球 の遮蔽による」という限定に、「或る」という限定が応じているのである。

さて、こうした「或る」という限定については、 (ß 1)事象の存在把握が、 ( T 1)原因 の存在把握、或いは (ε1)中項の存在把握と一致していたことを想起しなければならない。

アリストテレスは、「月蝕」を大項A、「月Jを小項C、「地球の遮蔽」を中項Bとした 上で、「月が蝕しているか否か( 1TÓTεpOV EKAEl1TEl庁OOf) 」を探求することは、「中項 Bがあるか否か( 6p' tcrT l V 1Í' ou) Jを探求することだと述べている(B8:93a30-32) 。 そ こで、「月が蝕している (三月蝕が存在する) Jと把握することは、「中項Bがある」と いう把握である。 しかし、ここで「中項Bがある」という把握は、中項が特定されて「

r地球の遮蔽』がある」と把握されることをもちろん意味しない。 í月が蝕している (三

(12)

月蝕が存在する) jという把握の時点で、 中項Bはまだ特定されては いないのである (cf. B8: 93b4-7)。 特定されるのは、月蝕の原因や本質が特定される時である。 (ε1)中項 の存在把握とは、こうした特定されない仕方での 中項の把握であり、 ( r 1)原因の存在把 握も、同様に、特定されない仕方での原因の把握なのである。

こうした特定されない仕方での原因や中項の把握がいかなることであるか。 事象の存在 を把握しているが本質を把握していないとされる事例を確認したい。 (α1) í月が蝕する ( ÖTl ÈKAEllTE l, 93b2) j (β1) í月蝕が存在する(6h tbTlv tkk l中ls,93b2-3)jという ことが把握されているが、 (α2) í何故月が蝕するかJ ( ß 2) í月蝕は何であるか」が把

握されていない事例として挙げられているのは、次の事例である。 つまり、小項を「月」

とし、大項を「月蝕」とし、 中項を「満月のとき我々との聞に何も見えるもの(例えば 雲〕がないのに影を作りえないこと」として\ アリストテレスの描く事例である。 月蝕の 存在をこうして把握した上で、中項(原因)が何であるか、遮蔽か、月の回転か、 〔光 の〕消滅か、を探求しなければならないとされるのである(ß8: 93a37 -b 7)。

ところで、 中項として示された「満月のとき我々との聞に何も見えるもの(例えば雲) がないのに、影を作りえない」に含まれる「影を作りえない」とは、「光が欠如してい る」ことの判別方法を示していると考えられる(cf.de An.B8:419b32-33)。 そこで、「満 月のとき我々との間に何も見えるもの(例えば雲〕がないのに、光が欠如している」と置 き換えられる。 このようにするとき、「月の光の或る欠如」という月蝕の存在を把握にお いて、月蝕の原因を特定せずに把握することの内実を探ることができる。 つまり、「或 るJという限定は、「満月のとき我々との聞に何も見えるもの(例えば雲)がないのにj という了解に支えられているのである。

このことは、一方で確かに、「或る」という限定を外して、月蝕の存在を「月の光の欠 女日」として把握することの不十分さを明確にする。 月と観察者の間に雲がある場合にも

「月の光の欠如」は起こるけれども、 その場合、月蝕を観察している訳ではない。 観察者 は、ともかく、雲がある場合の「月の光の欠如」と、雲がない場合の「月の光の欠如Jと は異なることを把握していなければならないであろう(1 q)。

しかし、重要なのは、事象の存在把握は (r 1)原因の存在把握と同じであり、雲のない 場合の「月の光の欠如」を、何か同ーの原因による現象であり、 その一事例であると把握 することである。 í或る」という限定は、こうした何か同ーの原因が存在するということ に支えられているのである。 つまり、このことは、月と観察者の間に雲がない「月の光の

(13)

欠如」を観察している場合、 それがたとえ、月蝕と正当に呼びうる現象を観察している場 合であっても、直ちに、月蝕の存在を把握していることにならないことを意味する。 原因 を問うことは、個々の事象の原因と問うことではない。 原因は本質と同じであることから も理解されるように、原因は月蝕という一般事象の原因でなければならない。 r今、月が 蝕しているJという知覚だけから、 原因の探求は決して始まらないのである。

確かに、月蝕の原因とされる「地球の遮蔽」は当時知覚できることではなかった。 し

かし、そのーとは知覚だりから京�探求できないとい:;治点;土玄わらない3 こうした時 代的制約から、先ず事象を一般的に把握し、理論的考察によって原因を探求しなければな らないのであり、こうした制約がなければ、原因は知覚から明らかであると考えれるなら ば、誤りである。 アリストテレスは、原因となる「地球の遮蔽」が知覚されるとしても同 様に主張するのである。

たとえ月面上にいて地球が〔太陽の光を)遮蔽するのを見たとしても、月蝕の原因を 知らなかったであろう。 というのも、今〔月が〕蝕していること( ÖTl vûv ÈKAElnEl )を知覚するだろうけれども、何故一般に(蝕する〕か( OlÓTl ÒÂ円)を知覚するこ とはないだろうからである(ZO)。 普遍についての知覚はないのである。 しかしながら、

それ(i. e.月蝕)がしばしば生起することを観察することから、普遍を捕捉して論証 (i. e.原因を与える推論〕をもつであろう。 というのも、多くの個々の事例から普遍

は明らかになるのである。

(A31 : 87b39 -88a5)

「今、地球が太陽の光を遮っていること」と知覚していても(cf.B2: 90a29)、月蝕の原因

は把握されていないとされる。 月面上にいる場合、月蝕の原因把握は、月蝕を一般的に把 握すること (月蝕の存在の把握)と同時になされる<Z 1)。 しかし「存在と原因が同時に明 らかになることはあっても、原因が存在より先に認知されることは不可能なのである(B8:

93a17-19) 0 Jつまり、月面上にいる場合、個々の事象 (個々の「月の蝕」と「地球の遮 蔽J )の一般的な連関を捉えられ、月蝕の存在と月蝕の原因とを同時に把握している。 こ うした一般的連関がアリストテレスのいう「普遍Jである。 こうした連関が捉えられて初 めて、個々の事象き原因や結果と呼びうるのであり(cf.B12:95a14-16)、個々の事象が原 因や結果として先にある訳ではない。 原因が明らかになるのは、原因となるものが知覚さ

(14)

れるにせよ知覚されないにせよ、一般現象に対して( ð l ÓT l ÖÀIJS )であり、原因探求を始 めるあたり関われる存在把握とは、こうした現象の一般的把握なのである。 存在把握は、

単に「今、月が蝕しているJといった知覚のみで成立することはありえず、原因把握に先 立ち一般的な仕方で問われている(Z z)。 その事象を何か同ーの原因による現象として把握

するとはそのことである。

第5節 名目的定義

さて、こうした「事象自体の何か」の把濯が成立していない場合が、それと対比される 事象の付帯的な把握に当たる訳であり、いわゆる「名目的定義(nominal definition)jを もつだけのときは、付帯的把握の一例になると考えられる。 しかしながら、「名目的定 義」は存在把握を含むといった解釈が近年数多く提示されておりは3)、「事象自体の何 かJの把握とは「名目的定義」の把握であるとされている。 こうした解釈に対して検討を 加えておきたい。

「名目的定義」とは、アリストテレスが「名もしくは他の名的な句 (名詞句) が何を意 味するかの定式( ò ÀÓyOS TOÛ Tl crnμqivεl TÒ 6voぃa n ÀÓyoS ÈTEPOS ÒVOμQT必円三,B10:

93b30-31 ) (Z 4) jとして提示したものである。 それは、定義の一種として挙げられる訳 であるが、アリストテレスの定義分類は解釈の難所のーっとなっている。 そして、その点 が「名目的定義」についての解釈上の要所でもある。

解釈の難所とは、定義として4種列挙しておきながら、総括する際には3種しか挙げて いない点にある。 4種とは (1) r名目的定義j (2) rー続きの論証(仇óðεl�lSσUVεxns ) j (3) r論証の結論j (4) r基礎措定jであり(BI0:93b29-94al0) 、3種とは「名目的 定義」を除いた(2)(3) (4) である(B10:94a11-14) 0 (4) r基礎措定」については解釈の争 点に関わらないので省略し、 (2) rー続きの論証」と (3) r論証の結論J について見てお きたい。 先の雷鳴の事例を改めて挙げる。

音が火の消去に属する 火の消去が雲に属する

音が雲に属する . r論証の結論J

γ 止 24品 "

AU岡sda"

み己 続

、lIllib--Il--J

(15)

「ー続きの論証Jとは、論証全体のことであり、原因を含む定義である。 r論証の結論J とは、「雲における音」と例示され、原因を含まない定義のことである。解釈上の争点は、

「名目的定義」をどう考えれるかという点、である。一方は、総括された3種が正当に定義 と呼べるものであり、「名目的定義jは除かれたとする。もう一方は、「名目的定義」は、

総括された3種の内に含まれているとし、「論証の結論」のもとに総括されていると解釈 するo

ところで、「論証の結論」とは、 その例「雲における音」から見ても、前節で見た「事 象自体の何か」に応じると考えられる。 r事象自体の何か」とは、存在把握を可能にする ものであった。 そこで、「名目的定義」が「論証の結論」のもとに総括されているとする 解釈者は、「名目的定義」によって存在把握が可能になると考える訳である(25)。整理す れば、次の通りである。

(1) r名目的定義」

(3) r論証の結論J (雲における音)

「事象自体の何かJ(雲の或る音)……存在把握あり

先ず、「論証の結論Jが「事象自体の何かJ�こ応じることは支持できる。 r事象自体の 何かJの事例として、正確には「雲の盛全音Jとされていた訳であるが、既に見たように、

「或る」という限定は、 中項(=原因)を特定しない仕方での示していると考えられる。

つまり、いわば中項の位置を不定とする次のような論証式を想定できるであろう。

音が X に属する

X が雲に属する 音が雲に属する

こうした意味で、「事象自体の何か」は単なる命題ではなく、論証構造を示唆し、 その f論証の結論Jに応じているのである。

しかし、「名目的定義Jが、 「論証の結論」のもとに総括され、「事象自体の何かJに 応じるという解釈は支持できるものではない。確かに或る仕方では、雷鳴に対して「雲に おける音Jという仕方で与えられる「論証の結論Jが、「名目的定義」に由来すると考え

(16)

てもよい。 r雲における音」は、雷鳴という事象について我々が基本的に理解しているこ とに即した言い換えと考えられよう(2 b)。 そして、そうした言い換えによって、「雷鳴が 存在するか」という問いが、「雲で音がするかjと二項に分節され明確になる。 また、

r{可故Jという問いを立てる場合も、「何故、雲で音がするかJという問いを立てること ができる。 しかし、「名目的定義Jが関わると考えてよいのは、こうした言い換えだけで あるo r名目的定義Jは、「雲で音がするか」といった聞いを立てることに有効であって も、「雲で音がする」という把握を保証するものではない。 r名目的定義」が示 すのは

「意味Jであって「存在」ではないからである。

「名目的定義」の例として、「雷鳴」という名について「雲での音」と考えるのはあく まで想定であって、テキストに明示されている訳ではない。 r名目的定義」の基本的性質 は、 当然その例として実際に挙げられる「三角形jによって明らかにされなければならな い(B10:93b31-32)。さて、「三角形」について" r何であるか (=何を意味するか) Jは 容認 ( Àaμ

VEl V )されるが、類の基礎措定と異なり「存在(6Tl EσTl ) Jは容認されて いないということが既に述べられている(A1:71a14-16,A10:76a32-36)。 そして、その存在 は証明( ðE l KVÚVa l )されなければならないと述べられている(A10:76a32-36,B7:92b15- 17)。 そして、 まさにそのことが、 「名目的定義Jの要点として「意味しはするが(r存 在」を〕証明しなし、(σ11同ivεl 阿川ðElKVUσl ð'oü, B10:93b39-94al) (27) Jと述べられ るのである。 つまり「名目的定義」は「何であるかJの定式である限りにおいて定義の一 つに挙げられるけれども(B10:93b29-32)、その「何であるかJは「意味されることJr理 解されること(ふJVlEVロl, A1: 71a13, A10: 76b37) Jとしてなのである。

アリストテレスは、 こうした三角形の定義についての了解を、定義論での問題と重ねて 述べる。 つまり、rTが存在すること」から「何故Tが存在するかJの探求過程を挙げ、

「存在することを知らないのであれば、そのものをこのように(原因を知る仕方で)把握 することは難しい( xaÀE1TÒV ð'où刊s ÉcrTl Àa恥lV à'

IJn r切ωòí-

l ÉaTl V ) Jと述べるの であるはB)。 ここで意図されるのは" r名目的定義」だけではrTが存在することJの把 握は成立しないということである。 つまり、rTが存在する」をrsはPだ」と言い換え ることに「名目的定義」が貢献するとしても、そうした言い換えによってrTが存在す る」とその問いに肯定するにはならないのである。 r名目的定義」の把握は、 rTが存在 する」ことの把握が成立するr r事象自体の何か』の把握」に対し、むしろ付帯的把握に 留まるのである(B10:93b34-35,B8:93a21) 。

(17)

第6節 定義の確定

原因探求に先立つ存在把握がいかなることであるかを考察してきた訳であるが、存在把 握とは、何か同ーの原因による事象であるという一般的把握であることを明らかにした。

それは論証という枠組みにおいては、 中項が存在するという把握である。 原因となること が知覚される場合、存在把握は原因把握と同時であるけれども、知覚されない場合、先ず こうした存在把握が必要である。 その上で、原因は、無中項な連関をなす中項を探求する という仕方で(ß8:93a35-36) 、理論的 (概念的) に探求されるのである。 そして原因が特 定されたとき、 それは論証全体(ー続きの論証) で示される事象の定義となる(B10:94a6- 7) 0 I本質(=原因〕を認知するのは論証なしにはありえなし、(B8:93b 18) Jのである。 こ れは、一方では、 原因の探求が中項の探求として論証の項連関においてなされることを述 べている。 しかし他方、確定された論証 (定義) を通じて、自然事象の原因を認知するこ とでもある。

ところで、知るということが成立するのは、原因の認知と必然性の認知をともに必要と するのであり(本章第l節)、原因の認知において常に必然性が問われなければならない。

それは、こうした事象の論証を自然法則として理解すれば、次のことを意味する。 論証全 体を自然法則としてそれ自体見れば、必然的な事柄として成立しているのである(2 '1)。 そ して\ こうした自然法則を把握していることにより、個々の事象の「存在したこと、存在 すること、存在するであろうこと」を認知するのである(cf.ß12:95a14-16) 。 しかし\自 然事象は必然的でない。 それは一定の仕方の恒常的事象ではあるが、例外を含むの事象で ある。 アリストテレスは、 3種の定義 (本章第5 �õ) を挙げ、定義論の結論を予見する箇 所で、、月蝕の例を用いて、恒常的事象( Tà UOÀÀáKlS ylvoμva )の論証と知識について、

次のように述べている。

恒常的事象についての論証や知識は、例えば、月の蝕について〔の論証や知識)は、

明らかに、(恒常的事象が〕このようなもの(i.e.定義で規定されるもの〕である限 りで( nμV TOloûð'EíσIV )、〔論証や知識は)常にあるけれども、 そうでない(

i. e.恒常的事象が定義で規定されるものではない)限りでは、〔論証や知識は〕常に なく、個別的である(30)0 (A8:75b33-35)

(18)

つまり、恒常的現象は、定義の規定する特性において捉える限り、 それについて知識の成 立するのである。 この意味が次章で解明されるべき課題である。

(19)

第5章 論証知と個別事象の認識

前章第5節において、自然事象の定義を通じて、自然事象を知ること(原因の認知と必 然性の認知)が成立することを示唆した。 原因の定義としての定式化を、自然法則と理解 すれば、自然法則は法則的必然性をもっ。 また自然法則は自然事象に原因を与える(説明 する)であろう。 しかし、自然法則は自然事象に必然性を付与しうるのであろうか。 アリ ストテレスは、知識の対象としての(例外を含む)恒常的事象について次のように述べる。

「恒常的事象(例えば月蝕)はこのようなものである限りで(

μV

TOloûð'E[σル)、盆

にある」と述べる(A8:75b33-36) (t) 。 その意味が解明されるべ きである。

本章では「…限りで(…としてJ ( n ) J (本文で「観点性 」と呼ぶ)という表現が、

個々の事象について必然性を付与する装置を表していることを、その表現が現れる一連の 考察の中から明らかにする。 それは、数学の事例を用いた考察である。 しかし、確立した 定義を通じて個々の事象を知ることにおいては、むしろ数学を範型とし、数学と共通して

いると考える。 それゆえ、以下の考察はそのほとんどが数学の事例であるけれども、自然 事象についても適応しうる一般的考察として検討したい。

さて、自然事象を念頭におきつつ考えた場合、 r分析論後書』の論証を通じた知識とい う学問構想において、個々の事象についての必然性の認知に関する問題を次のように指摘 できる0・ 論証(

à1T6ðElÇlS

)を通じて成立する知識は、必然的な命題についての知識であ る(A4:73a21-23)。 ところで、必然的な命題とは「自体的Jと呼ばれる命題であり、 その 命題を構成する主語項と述語項とがそれらの定義を介して分析的関係となる命題をいう (A4:73a34-b5,16-24)。 命題が論証を通じて定義を介して分析的であることが示されれば、

その命題を必然的であると判断でき、その命題についての知識が成立するのである。

しかしながら、このような知識の成立は或る問題をはらんでいる。 つまり、定義はもと もと自然事象を原因の連関において記述したものであるとしてもω 、 ひとたび定義を介 して命題が項の意味連関によって必然的であると判断される場合、そこで成立する知識は、

言語的知識に留まり、知覚される個々の自然事象に関わる知識とはいえないのではないか。

つまり、知識の対象がもっ必然性とは、分析性によって命題について成立することであり、

命題が表す個々の事象のあり方について成立することではないのではないか。 こうした問 題が、アリストテレスの学問構想に対し指摘されるであろう。

本章では、先ず、知識が必然性に関わるとされる場合、必然的な対象が存在すれば知識

?

(20)

が成立するということではなく、逆に知識が成立しているならばその対象は必然的でなけ ればならないという仕方で、必然性が知識の対象として問題になることを確認する(第l 節)。 そして、必然性の内実である「自体性」をめぐる一連の考察を、伝統的解釈を退け、

次のような連関において示す。 そこでは「自体性J r全称性J r普遍性jと呼ばれるそれ ぞれの概念が問題となるが、「自体性」は必然性を意味連関して与え(第2節)、「全称 性」は個々すべてのものを指示することを保証し(第3 jí1)、「普遍性」はそのこつの概 念をともに含む(第4 iff)。 そして、「普遍性」において、個々の事象についての必然性 (個別命題の必然性)という問題がアリストテレスによって解明されていることを明らか にする(第5節)

第1節 知識と必然性

知識の対象は必然的であるという見解の背景を先ず探っておきたい。 それは、次のよう な了解に由来している。 つまり、一方で、対象が必然的で、ない(他の仕方でもありえる) と思う場合には、知っているとは思わず、他方で、対象が必然的である(他の仕方ではあ りない)と思う場合に、知っていると思うという了解である(A2:71b9-12,A33:89a6- 8,cf.A6:75a15-16)。 こうした了解において理解されなければならないのは、 ソクラテス に遡る問答を通じた「知の吟味J (cf.SE 2:165b4-7,8:169b23-29,11:171b4-6)において問 われてきた知識であろう。 もし知識が個々の状況を知覚することに依存するのであれば、

知覚が遮られ、 或いは状況が変化することで、たちまちその知識は失われてしまう

(cf.APr.B21:67a39-b2,Metaph.Z15:1040a2-4)。 そうした知識が問われているのではない。

或る者が、或る事柄を知っていると言うとする。 その者の知識は、文として表明される が\ その文が吟味の対象となる(ここでいう文とは典型的にはその事柄の定義である)。

その文が論駁されるならば、その者はその文を!敵国し知っていないと認めざるをえない。

知っているのであれば、問答によって考えを翻しではならない(白同Td恥lσTOV Ú1TÒ Àóyou,

Top.E4:133b30-134a,E5:134a35,cf.A2:72b3-4)。 つまり、知っているのであれば、自分 が知識の表明として述べた文(A)と矛盾する文(-, A)を認める可能性がないことはも

ちろん、矛盾する文(-,A)を帰結するような別の文(B)を認める可能性も一切ないの である(cf.A2: 72bl-3)。 このように、その文(A)が問答を通じて偽とされる可能性がな いと判断される場合、その文(A)は必然的であると判断され、自らの知識の成立が確認、

(21)

されるのである。

こうした問答において吟味されるべき無知は、例えば、幾何学の知識を全くもってない

こと( TÒ

IJTÍ

txεl V ,cf. A18)ではなく、幾何学の知識を間違った仕方でもつこと( TÒ

中日以内E'xEl V ,cf. A16-17) であろう(A12:77b25-26)。 つまり、その者のもつ幾何学体系 についての信念には誤りが含まれているのである。 問われているのは、その者の知識のも

ち方( KaTà olá8EσlV, A16:79b23-24,cf.EN Z3:1139b31-32)なのであるω 。

真であるが必然的ではないと判断する場合は、思いなし( oóta )であり知識ではない

(A33:88b30-89al0) 。 では、知っている者は、どのようにして必然的であると判断するの であろうか。 知識の対象と思いなしの対象は同じものではないという議論の中で、知識の 対象はすべて思いなしの対象にもなりうるのではないかという疑問(A33:89a12-13)を契機 として、その解明が図られている。 例えば、一方で「人聞は動物であるJと知っている場 合、必然的である (人間が動物でないことはありえない) と判断する訳だが、他方で「人 聞は動物である」と思いなす場合、必然的ではない (人聞が動物でないことはありえる) と判断する(A33:89a33-36,89b4-6) 。 しかし同じ人が両方の判断をすることはありえない (A33: 89a38-b4)。 この場合、知る者と思いなす者の判断の相違は次の点にある。 知る者は、

人間は「正に動物であるもの(仇εp çyov ) Jであり、それが動物であると判断する。 人 間が「正に動物であるものjであるとは、用法上{川 、人間をその定義に動物が含まれる ものとして理解することである。 この場合、人間が動物でないことはありえない(A33:

89b4-5,cf.89a33-35)。 しかし、思いなす者は、人闘をその定義に動物が含まれるもので

ない( 問OTTEP çyov )と理解しており、人闘が動物でないことがありえると判断するので

ある(A33:89b4-6,cf.89a34-36)。 つまり、人間という同じ物に関わってはいるけれども、

その関わり方( w<; )が異なるのである(A33: 89a36 -37)。 そして、その相違は、知る者と思 いなす者それぞれの、人間という物の定式化( TÒ Tl

V E1val ÈKaTÉp� KaTà TÒV ÀÓYOV ) の相違に現れる(cf. A33:89a32)。 事柄を必然的と判断するか否かは、その事柄を構成す る物の理解(その定式化) の仕方に依存しているのである。

論証を通じて知識が成立する場合、 或る者はその結論を必然的であると判断するが、別 の者は必然的ではないと判断することが起こってはならない。 それを防ぐのが、論証にお ける定義の役割である。 一般に推論においても、もし同じ推論において語が多義的であれ ば誤謬推論が生じ、もし人によって語の理解が異なり語が多義的であるならば問答は成立 しない。 推論の項( ó'po<; )は、単なる語( ovoμa ) ではなく、定義( ÒPlσμ

) によって

(22)

___.義的に定められたものなのである。論証も問答として、教授・学習という場面をもつが (SE 2:165a39,b8-9)、もちろん、知る者である教授者が、定義を定めるのである(SE 2:

165bl-3, Top. 85:159a28-30)。それゆえ、次のように述べられるのである。 rもし、必然 的な事柄(例えば幾何学の命題)を、論証の前提となる諸定義を把握する仕方で(617mp É

X

εl Toilg6plσぃOUS Ot'

Ó

v Ol áTTOOEl�εlS ,codd.)、判断するならば、その者は思いなし ておらず知っていよう。しかし、真であるけれども、主語項と述語項がウーシアに即して つまり形相に即して(K{1T'oOσlOVKO l KOTà TÒ E'[ OOS )連関しているのではない(つまり 定義的連関をもたない)と判断するならば、思いなしてはいようが、真実に知ってはいな

いであろう。(A33:89a16- 21) J

第2節 自体性

知識の対象は必然的であり、論証の結論は必然的でなければならない。アリストテレス は、論証において必然的な結論を導く前提もまた必然的でなければならないとし〈日 、論 証の前提となる命題のあり方を考察している(A4:73a21-24) 。つまり、論証の前提がそな えるべき必然性の内実を定めているのである。この箇所(A4)で考察されるのは、「全称、的 に(KOTà TTOVTos,73a26,73a28-34) J r自体的に(Ko8'oÙTÓ, 73a26,73a34-b25)J r普-遍 的に(Ko8ó^ou,73a27,73b26-74a3) Jの三種である (これらをそれぞれ「全称性J r自体

↑生J r普遍性Jと呼ぶ)。伝統的には、それぞれ順次条件が強められ、自体性は全称性を 合意するがそれ以上の条件をもち、また、普遍性は全称性と自体性とを含意するがそれ以 上の条件をもっと解釈されてきたω 。しかしながら、普遍性が規定されるのは、全称性 と自体性とによってなのである(A4: 73b26-27)。そうである以上、普遍性は全称性と自体 性の連言以上の特性をもたないと考えるべきであり、全称性と自体性とはそれぞれが区別 される特性をもっと考えるべきである(7) 。そして、このように考えるとき、一連の議論 は新たな相貌のもとで理解されるであろう。

必然性の内実を定めるという意図からいって、先ず自体性の叙述を確認するのが適当で ある。必然性に関して、前節で「正にXであるものJという語句の用法から示唆したのは、

主語項と述語項が定義によって連関するということであったが、 自体性とは、正にこのこ とに他ならない。自体性は四種挙げられているが、必然性に関わり、それゆえ、論証に関 わるのは、その内二種のみである(A4:73a34-b5,16-24,A6:74b6-10,A22:84all-17) 。先ず

(23)

「自体的(1)にAはBであるJ、例えば「自体的(1)に三角形は(しかじかの)線であ る」とは、述語B (線)が主語A (三角形) の定義に含まれる場合である。 そして「自体 的(2)にAはBである」、例えば「自体的(2)に(しかじかの〕線は直である」とは、主

語A (線)が述語B (直)の定義に含まれる場合である。 このような仕方で、主語項と述 語項が定義的連関をなす場合に、 その命題は必然的である。 そして、前節で見たように、

項の定義を理解している以上、 その命題は必然的であると判断されるのである。

ところで、自体性(1)(2)とは区別すべき自体性が、論証において問題となる。 アリスト テレスは、自体性を規定した後、先の自体性(1)(2)の事例と同じ事例(A4: 73b29- 30)の他 に、新たに「三角形は、二直角に等しい内角をもっJという命題を事例に挙げる (以下

「三角形-2 RJとを表記する)。 そして、「三角形は、三角形自体に即して、二直角に 等しい内角をもっJと述べている(A4:73b30-32,APr.A35:48a35-36,cf.門etaph.ム30:

1025a30-32)。 ところが、この「三角形 -2 RJ命題は、論証 の結論(σuト』TTtpGσ同)に当 たるものであり(APr.A35:48a33-37)、論証の前提となる命題について述べられた自体性 (1) (2)とは区別して考察する必要がある訳である (この場合の自体性を自体性(S) と呼 ぶ)。 しかし、この問題をここで詳しく解釈することは避け、以下の議論のために、「三 角形--2 RJ命題の自体性(S)を、前提となる命題の自体性(1)(2)から派生する自体性で あるとだけ考えておきたい(8) 。 その前提の一つは、自体性(1)の事例である「三角形は

〔しかじかの)線である」であり、例えば「三角形は\ 三つの直線で図まれた図形である (cf.Euc.I,df.19)Jといった三角形の定義を想定できょう向 。 r三角形-2 RJ命題の 自体性(S)は、こうした三角形の定義を介して確保されるものと理解しておきたい。

ところで、必然性の内実を定め るという本来の意図 からすれば、 こうした自体性のみで 充分なはずである。 何故、更に全称性や、 それと自体性の連言である普遍性が必要である のか。 そのことを浬解するためには、先ず\自体性には欠けているが全称性がもっ特性を 明らかにしなければならない。

第3節 全称性

全称性とは、或るBはAであるが、別の或るBはAでないといったことがないことであ る(A4:73a28,33-34,cf. n6Te, 73a29,34)。 全称性が成立している場合、例えば、すべて の人間が動物である場合、もし「これ( 8óε) は人間である Jと言うことが真であれば、

(24)

「これは動物である」と言うことも真であると述べられる(A4:73a29-31,

vûv,73a3Lcf.Universal Instantiation: Vx ßx→AxトBc→Ac) (10)。 こうした全称性が 関われているのは、論証が典型的には前提も結論も全称肯定命題である推論形式

(ßarbara) であるからといえよう(A14,cf.B8:93a7-9)。 それゆえ、個別命題 ( rこれは動 物であるJ )が導かれる場合、論証を通じた知識とは呼べない。 しかし、全称性の内実を 理解するためには\ ここに述べられる全称命題と個別命題との関わりを正確に捉えなけれ ばならない。 個別命題「これは動物である」を知るためには、個別命題「これは人間であ る」と全称命題「すべての人間は動物であるJとをそれぞれ合わせて知ること(

σuv8ωPEl v )が必要である(APr.ß21:67a33-37,cf.ト10dus Ponens: ßC →Ac,ßcトAc) 。 問 われるべきは、 そこでの全称命題の貢献の仕方である。

アリストテレスは、全称命題「すべてのB (三角形) はAである」を知ることを、一般 的に知ること( n Ko8óAOU ÉrrlcrTn�n )と個別的に知ること( n Ko8' È/KロσTOV ÉrrLcrT

n

�n )に 区別する(APr.A21:67a16-19)。 全称命題を知る場合、すべてのBについてAであると知っ ている訳だが、この区別は、Bの事f�U(i ns tance)についてAであると知る仕方に関わる区

/

別である。 例えば、Bの特定事例c (知覚可能な三角形,ロ[cr8nTÒV TptyωVOV )が存在す

ると知らない場合\ つまり、Cを知覚していない場合(APr.A21:67a39-67b3)、 rcはAで あるJを一般的には知っているが個別的には知らないとされる(APr.A21:67a12-

20,cf.67a27-28,Al:71a24-29)。 他方、Cを知覚する場合、個別的に知るとされるのであ る。 さて、こうした区別は、全称命題を知る場合、 Bの特定事例CがAであると予め個別 由主知っているのではないことを明らかにする(APr.A21:67a22-24)。 言い換えれば、全称、

命題を知るとき、予めBの外延を指定して、Bであると知られているすべてのものについ て(刊VTÒS oð 6v Elð�crLV OTl TPlYωvov,Al:71b2,cf.71a34,71b4-5))\であると知るので はない(Al: 71a34-b5) 。 個々のものがBであると知られる度毎に、 「それはAである」と 個別的に知るのである。 (これまでの論点と次の論点との関連を整理しておきたい)

rcはAである」を一般的に知る …… 「或るBはAである」と知る (cを知覚していない) (全称命題から導出される

特称命題)

rcはAであるJを個別的に知る …… 「このBはAである」と知る

(25)

(cを知覚している)

rcはBである」と知覚する

「或るBはAであるJと知る

しかしながら、 rcはAである」を一般的に知ることは、 個別的に知ることに比べて、

劣る訳ではない(cf.A24,esp.86a10-13,22-29)。 個別的に知りえるのも、 一般的に知るこ とに由来する或る機構が存在するからである。 この点に全称命題の貢献が明らかにされる。

さてここで、全称命題「すべてのBはAである」から (換位規則を二回適用することで) 論理的に導かれるのは、全称命題と同じ主語 (B)に「或るJという限定を施した限りの 笠整命題( r或るBはAである」れμtpE l,kqTbμipog)であることに注意したい。 rc はAであるJと個別的に知るとは、 rcがBである」と知った上で、 「このBはAであ る」と知ることである。 それに対して、 rcはAである」を一般的に知るとは、 rcがB である」という条件を問わずに、いわば特称命題「或るBはAである」として知ることで あろう(cf.Metaph.A2:982a23,門10:1087 a20-21)。 しかし、そもそも「このBはAであるJ と個別的に知ることが可能になるのは、 rcはBである」という知がCをBとして特定し、

その特定によって特称命題「或るBはAであるJの知 (一般的な知)を働かせているから なのである。

特称命題と区別して、個別命題とはこうした特定が必要になる命題であり、後の考察た めに\次の二種を区別しておきたい。 一つは、(1)主語が個物の命題( rこれはAであ るJ )であり、その主語を全称命題の主語 ( B)で特定するため、 「これはBである」と 知覚する必要がある(A1:71a18-21,APr.B21:67a25,門etaph.門10:1086b34-36,cf.A13:79a4-

6)。 もう一つは、(2)主語が全称命題の主語とは異なる名の場合(例えば「すべての三 角形はAである」という全称命題に対し「二等辺三角形はAであるJ)であり、その主語 を三角形として特定するため、「二等辺三角形( TÒ rσoσKEÀÉS, isosceles)は、三角形(

Tp(yωvov, triangle)である」と知る必要があるのである(cf.A24:86a25-27)。

全称命題「すべてのBはAであるJの知は、特称命題「或るBはAであるJの知を含ん でおり、その知がそれぞれのBについてAであると知ることを可能にしているo 全称性の 内実とは、こうしたそれぞれのものに関わる機能であると考えられるのである。

(26)

第4節 普遍性の問題

普遍性は全称性と自体性の連言によって導入される以上(A4:73b26-27)、それら各々は 区別されなければならない。 これまでの考察でその区別が理解される。 全称性の特性はそ れぞれのものに関わっていく機能にあり、それに対し\自体性の特性は定義による意味連 関として必然性を保証する点にある。 ところで、知識は必然的なことに関わるとされる一 方で、普遍性に関わるとされる(A31:87b39-40,A33:88b32,cf.de An.B5:417b22-23,門etaph.

MI0:I086b33,EN Z6:1140b31)。 この場合も、 普遍性は全称性と自体性の連言として、つ まり、知識はそれぞれのものすべてに関わり、かつ必然的なことに関わると理解.されるで あろう。 しかし、このとき、 (普遍性の含む)全称性が、それぞれのものを知るという潜 在していた問題をあらわにするのであるo 自体性は、この場合にも、知識の対象としての 必然性を保証するのであろうか。 全称性と自体性の連言によって導入される普遍性の考察 とは、まさにこうした問題に関わっている。 つまり、それぞれの個別命題は、いかにして 必然的と判断され、知識の対象となるのかという問題である。

以下で考察されるのは、(a) r二等辺三角形は、二直角に等しい内角をもっJ 、(b)

「青銅製の二等辺三角形は、二直角に等しい内角をもっ」といった命題である。 これらは

「三角形は、二直角に等しい内角をもっ」という自体性命題と対比されよう。 この自体性 命題を全称化して「すべての三角形は、二直角に等しい内角をもっ」とするとき、(a)(b) は、前節に述べた二種の個別命題(1)(2)に相当すると考えられる。 つまり、(a)は主語が 全称自体性命題とは異なる個別命題(2)であり、(b)は{閥均を主語とする個別命題(1)で ある。 ところで、こうした個別命題は、自体性命題とはいえない。 自体↑生命題で自体性表 現「それ自体に即して」は正しく「三角形にIIIJして」と理解されるけれども(A4:73b31- 32)、個別命題(a)(b)に自体性表現を用いる場合、指示詞「それ自体Jは個別命題の主語

(二等辺三角形、青銅製の二等辺三角形)を指してしまうからである。 しかし、指示詞

「それ自体」が指す当のものについて定義が問われるのであり(11)、その定義によって必 然性が保証されるのである。 個別命題が自体性命題でない以上、必然性の保証は他に求め なければならない。 しかし、同時に、それは定義連関という自体性の内実を縦れたもので あってはならないはずである。

自体性に代わってその内実を担うのは次の諸概念である。 一つは、 (A) r Xとして( n X) Jという観点を示すものであり (以下「観点性」と呼ぶ)、この観点性は自体性と同

(27)

じであるとされる(A4:73b28-29) 。 もう一つは、 (B) r任意の( TUXÓV ) Jと(C) r最先/

の( 1TpIJTOV )Jという対である (それぞれ「任意性J r最先性jと呼ぶ) 。 普遍性は全称 性と自体性の連言によって導入された訳だ が、この対によって、 普遍性は新たに任意性と

最先性の連言として再規定されて い る(A4:73b32-33) (1 Z) 0 (今後の考察も含め以下に諸 概念を整理しておく)

fillis--IBI--K '←ιL ­ h引i Fhv

遍 凶 普 門川

全称性

生 乞

、ill--trll』11J 並目 刀

ωω 性

性 意

先 任

nD Fし

自体性 ……(A)観点性 73b28- 74a12

これらの諸概念(A)(ß) (C) が、自体性の内実を担う仕方がまさに問題なのであるが、先 ずこれらが個別命題につ い て有効であることを確認しておきた い。 (A)観点性から見れば、

観点性表現rxとしてJは自体性表現「それ自体に即してJの 場合のような問題を引き起 こさない。 r二等辺三角形は、 三角形として、 二直角に等しい内角をもっ」と、自体↑生命 題の主語(三角形) を示すことができるからである。 次に、 (ß)任意性と(C)最先性の対 である が、そのうち(ß)任意性は個別命題から全称性をひきだすための条件である。 例え ば「この図形 (個物でなく てもよ い) は二直角に等しい内角をもっ」という場合、それが 真であっても、 四角形も図形であるであるから任意の図形に いえ ることではなく、任意性 をも たない(cf.A4:73b33-37)。 それゆえ、全称性は いえない。 しかし、 「この二等辺三角

形は二直角に等しい内角をもっ」という場合は、任意の二等辺三角形にも成り立つので (cf. A4: 73b38) 、全称性 が成立する訳である(cf.Universal Generalization) 。 さ て、こ うして「任意のJ Xという一般名に対し、対(B)(C)の他方、 (C)最先性は、更に制限を加 え る。 先の事例で、二等辺三角形は確かに任意性を充たすが、最先性を充た さないとされ

る(A4:73b38-39) 0 r二直角に等しい内角をもつこと(以下r2RJ) J が任意に成り立 つのは、二等辺三角形に限 られずより多くの事例につ い てであるからである( E1T 1

w入Éov,A4:74a3)。 そこで、より一般的なことがより先であるならば(cf. A2:72a3-4)、 2R が任意に成り立つ、より先なるものは三角形である(A4:73b39)。 そ して三角形 が、 一般性

(28)

において最先的( Ko8óÀou �PWTOV )である(A5:74b2,cf. A4:73b39-74al) (13)。こうした最 先的主語が、自体↑生命題の主語に当たるのである(A4:73b40-74a3,A5:74a36-37,b2- 3,cf.A5:74a12-13) 。

第 5 節 個別命題の必然性

これらの諸概念のうち、普遍性を主題として継続する考察において(A5)、全称性に応じ る (8)任意性はアリストテレスの考察から後退する(cf.A5:74al1, 20)。そして、 (A)観点、

性と (C)最先性が残され、自体性表現( Ko8' OÚTÓ )は一切現れない(cf.KGTb Tour, A5:

36-37, KOTà TOUTO, A5:74b2-4)。こうしたことは、まさに (11)観点性と (C)最先性がい かなる仕方で自体性表現に代わりその内実を担うかに考察の焦点があることを示唆する。

アリストテレスは、個別命題において (A)観点性と (C)最先性とによって特定される主誌 が自体性命題の主語に他ならないことを、(A)(C)が、定義連関という自体性の内実に即し て主語を特定することから明確にする。(A)(C)は、定義連関という自体性の内実に即して、

個別命題における必然性を保証するのである。

先ず(C)最先性であるが、上述のように、最先性は任意性が充たされた上で(cf. A5:

74al0-12)、述語項と外延を等しくするような主語項を要求している(cf. Ê�l �ÀÉov,

A4:74a3)。こうした外延的処理は、定義連関という内包的問題と関連しないように思われ よう。しかし、こうした外延的処理は定義形成段階において既に重要な役割を果たしてい ることを指{商しておくべきである(B13:96a24-b14,esp.96a32-34,cf.B17:99a16-37)。とも かく、個別命題に対し最先性を充たす主語項を特定する場合、諸項の定義連関を離れたも のではないことが確認される。そのことは、抽象の事例においてより明確に見て取ること ができる。最先性は、抽象によって考察されるのである(A5:74a36-38) 。

例えば、二辺が等しい青銅製の三角形から、 「青銅製であることJ r二辺が等しいこ

と」等を抽象 (捨象) することで「二直角に等しい内角をもつこと」が最先的に成り立つ 場合を調べるのである(74a38- b2)。しかし、こうした抽象の過程は、諸項の或る系列を前 提したものであり、無作為な抽象とは区別されなければならない。つまり、先ず、抽象の 過程は、任意の順序ではありえず、より一般的またはより個別的といった系列に即した順 序であるということである。そしてまた、抽象の対象となった物(二辺が等しい青銅製の 三角形) の記述に現れていなかった「図形であることJ r境界であること」も抽象の過程

参照

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