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ソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

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(1)

ソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

その他のタイトル Michael Pawlik, Hegels Kritik an der

politischen Philosophie Jean‑Jacques Rousseaus

著者 川口 浩一, 山下 裕樹

雑誌名 關西大學法學論集

巻 63

号 6

ページ 1953‑1978

発行年 2014‑03‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/8369

(2)

ミヒャエル・パヴリック

「ジャン・ジャック・ルソーの

政治哲学に対するヘーゲルの批判」

目 次

I .  

両著者の共通の出発点:

川 口 浩 一 ( 監 訳 ) 山 下 裕 樹 ( 訳 )

法の妥当根拠としての意志;ヘーゲルの批判

I I

  . 

ルソーとヘーゲルの

c i t o y e n

という理想;

ルソーの

v o l o n t eg e n e r a l e

概念

国家市民の人倫というルソーのコンセプトにおける諸問題

I .  

両著者の共通の出発点:

法 の 妥 当 根 拠 と し て の 意 志 ; ヘ ー ゲ ル の 批 判

ホッブズ

(Hobbes)

以来,政治哲学の大理論には,共通の基本的な確認が存在する。 すなわち,全体的に,それらが法的な拘束性の妥当根拠として見なしているものは, も は や 超 越 的 な権威ではなく,むしろ――ー様々な方法で規範的に権限の付与された

(q 

u a l i f i z i e r t e n )

ー 一 法 の 下 に 服 す る 者 自 身 の 意 志 で あ る。こ の 伝 統 に , ル ソ ー

( R o u s s e a u )

もヘーゲル

( H e g e l )

も立っている。ルソーは,政治的な自己立法の原則 を,言葉の選択からカント

( K a n t )

と結び付けられるが,ある方法で定式化した。つ まり,「……自ら課した法律

O o i )

に従うことが自由である」1)と定式化したのである。

1) 

R o u s s e a u ,  Vom G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g ,  I ,  

8,  1977, 

S .  

23 

[ R o u s s e a u ,  Du CONTRAL  SOCIAL, Flammarion, P a r i s ,  

2001, 

S .  

61; 井上幸治訳 『社会契約論』(中央公論社,

昭49) 31頁];類似のものとして既に,

d e r s . ,P o l i t i s c h e  Okonomie, 

1977, 

S .  

41は次 のように述べている。つまり,「法律によってのみ,人間は正義と自由を得るので ある。」ー一法律を人の情熱に服させる者は, 全て の 政 府 の 真 の 破 壊 者 で あ る

( R o u s s e a u ,  B r i e f e  vom Berge 

[6. 

B r i e f ] ,   i n  :  d e r s . ,  S c h r i f t e n  i n   zwei Banden, 

1987, 

Bd . 

II, 

S . 

151)。つまり,ルソーの結論は次のようなことである。「社会の害悪/

‑ 261

(3)

カント哲学やドイツ観念論全体に対するルソーのこの意義を,ヘーゲルは,彼の『哲学 史講義』において,ルソーに「自由という原理が……由来する」2)のであり,さらに,

カントはそれを理論的な観点において,より詳細に展開した3)ということを強調した。

ヒューム

(Hume)

とルソーは, ドイツ哲学の二つの出発点であった見

ヘーゲル自身も,その 『法哲学要絹』において,法の妥当を理性的な意志に対して他 律的な,ヘーゲルの言葉によるところの外的な

( a u B e r l i c h )

諸事情に依拠させる全て の試みを,ルソーと同じくらい強く非難した。彼はカール・ルードヴィッヒ・フォン・

ハラー

( C a r lLudwig von H a l l e r )

の復古的な国家哲学に反対した。ハラーの国家哲学 に よ れ ば , 「 永 遠 に 変 わ る こ と な き 神 の 秩 序 」 は , よ り 強 い 権 力 を 有 す る 者 (Machtigere) が支配するものであり見この論証によれば,そこ〔神の秩序—訳者 記す〕においては,現象の外面性ー一緊急状態の偶然性・要保護性の偶然性・強さの偶 然性・富の偶然性―は,誤った形で国家の実体のために取り上げられたものであると される見従って,ハラーによれば,国家とは理性的な内容であるということや,この 思想形式の全面的な放棄がなされるのであり,才能に恵まれた論客であるヘーゲルの見 解によると,彼が成し遂げたことは,「全体を二断片で考えもなく支えること」7)であ

\に対抗する唯一の手段は,人間を法律と置き換えることである」

( R o u s s e a u ,Emil  o d e r  Ubel d i e  E r z i e h u n g ,   1 2 .   A u f l .   1 9 9 5 ,   S .   6 3 ) 。

2 )   H e g e l ,   Vorlesungen  t i b e r   d i e   G e s c h i c h t e   d e r   P h i l o s o p h i e   I I I ,   Werke B d .   2 0 ,   1 9 8 6 ,   S .   3 0 8 .  

3 )  

同書

S .3 0 8 ,  3 3 1 ,  3 6 5 ,  4 1 3 .  

—ーヘーゲルの根拠づけの過程に関しては, Riedel,

Natur und F r e i h e i t  i n   Hegels R e c h t s p h i l o s o p h i e ,  i n :   d e r s .  ( H r s g . ) ,  M a t e r i a l i e n  zu  Hegels R e c h t s p h i l o s o p h i e ,  B d .  2 ,   1 9 7 5 ,   S .   1 0 9 ,   1 1 1   f f .  

4 )   H e g e l ,  (FN 2 ) ,   S .   3 1 1 .  

—最近では,特に,ルソーとカントにおける類似性を 指 摘 し た 新 カ ン ト 主 義 者 達 が 存 在 す る。包括的なものとして,

C a s s i l ・ e r , Das  Problem Jean J a c q u e s  Rousseaus S o z i a l p h i l o s o p h i e :  Archiv f l i r   G e s c h i c h t e  d e r   P h i l o s o p h i e   4 1   ( 1 9 3 2 ) ,   S .   1 7 7  f f . ,   4  79  f f .  

さ ら に ,

N a t o r p , Rousseaus  S o z i a l p h i l o s o p h i e :  Z e i t s c h r i f t  f l i r  R e c h t s p h i l o s o p h i e  i n  Lehre und P r a x i s  ( 1 9 1 9 ) ,  S .   1  f f . ;   S t a m m l e r ,  B e g r i f f   und Bedeutung d e r  v o l o n t e   g e n e r a l e   b e i   R o u s s e a u ,   i n :   d e r s . ,   R e c h t s p h i l o s o p h i s c h e  Abhandlungen und V o r t r i i g e ,   B d .   1 .   1 9 2 5 ,   S .   3 7 5 £ £ .   5 )   H e g e l ,  G r u n d l i n i e n  d e r  P h i l o s o p h i e  d e s  R e c h t s ,  §258 A, Werke B d .  7 ,   S .  403 

[上妻精/佐藤康彦/大塚信一訳 『ヘーゲル全集9b法の哲学下巻』(岩波書店,

2 0 0 1 )   4 3 1

頁]を見よ。

6 )  

同書

§258A, S .   4 0 1 .  

[上妻ほか訳 『法の哲学下巻』(前掲註

5) 4 2 9

頁]

7 )  

同書

§258A ,  S .   4 0 2 .  

[上妻ほか訳『法の哲学下巻』(前掲註

5) 4 2 9

頁]

‑ 2 6 2   ‑ ( 1 9 5 4 )  

(4)

「ジャン・ジャ ック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

る。実際には,ヘーゲルが言うように,「法の基盤は……そもそも,精神的なものであ り,法のより正確な場所と出発点は自由なものである意志」なのであり,「自由がその 実態や規定を構成する」のである見

法の妥当根拠は自由な意志であるとすることに関しては,つまり,ルソーとヘーゲル の間に見解の相違はない。反対に,ヘーゲル自身の国家構想にとって中心となる 『要 綱』の

§258

に お い て , ヘ ー ゲ ル は 明 確 に ル ソ ー に 対 し て , 形 式 だ け は な < 息 想

(Gedanken )

による内容であり,それどころか思惟

(Denken)

自身である国家の一原 理を意志によって立てたという功績を認めている凡

それゆえ,ルソーと区別するために,ヘーゲルは,彼の相手が,法を自由な意志の定

( D a s e i n )

として概念上適切に理解することに成功していないことを示さなければ ならなかった。それに応じて,ヘーゲルは,彼が上で引用したルソーの称賛に,厳しい 批判を続けたのである。すなわち,「彼[ルソー:著者記す]は,意志をただ個々人の 意志の特定の形式において把握し……,普遍的意志を,意志の即時的かつ対自的に理性 的なもの

( Ve r n i i n f t i g e )

としてではなく,この意識されたものとしての個別的意志か ら生まれる共通的なもの

( G e m e i n s c h a f t l i c h e )

としてのみ把握したために,国家にお け る 諸 個 人 の 統 合 は , 個 人 の 恣 意 , 意 見 , 任 意 の 同 意 の 表 明 に基づ く 契 約 と な る

……。」JO) しかし,ルソーの理論を拒絶することは,ヘーゲルにとって,まず第一に,

8 ) 

同書

§ 4 ,S .   4 6  

[上妻精/佐藤康彦/山田忠彰訳『ヘーゲル全集

9 a

法 の 哲 学 上

巻』(岩波書店,

2 0 0 0 ) 3 6

頁];ここと以下の脚注における強調は原文による。

9 ) 

同書

§258A, S .   4 0 0 .  

[上妻ほか訳 『法の哲学下巻』(前掲註

5 )4 2 8

頁]

1 0 ) 

同書。 一一同様に, ヘーゲルは別の場所においても言及している。すなわち,ル ソーの見解によれば,政治的な正義の確立のためには,「個人の個人としての恣意,

つまり個人の意見表明

( A u s s p r e c h e n )

が必要」であるので,そこでは,特殊性と いう原則は「正反対の極端にまで高められ,全くの一面的なもの」としてあらわれ た

( H e g e l , G e s c h i c h t e   d e r   P h i l o s o p h i e   I I ,   Werke Bd .  1 9 ,   S .   1 2 9  

[真下真 一訳

『ヘーゲル全集

1 2

哲学史 中 巻 の一』 (岩波書店,

1 9 6 1 ) 3 1 9

頁])。ルソーは自由を 個々の個人という形式において考えていたのであり

( H e g e l ,  [FN 2 ] ,  S .   4 1 3 ) ,  

その 限りで,ルソーの理論は「原子論

( a t o m i s t i s c h )

」である

( H e g e l , G e s c h i c h t e  d e r   P h i l o s o p h i e  I ,   W  e r k e  Bd .  1 8 ,   S .  3 5 8  

[武市健人訳 『ヘーゲル全集

1 1

哲 学 史 上 巻』

(岩 波書店,

1 9 3 4 ) 3 9 2

頁]) ; 

d e r s . ,  P h i l o s o p h i e   d e s   Rechts .  D i e  Vorlesung von  1 8 1 9 / 2 0  i n  e i e r  N a c h s c h r i f t ,  1 9 8 3 ,  S .  8 2 )

。しかし実際には,自由という概念は, 全 ての者の偶然的な恣意という意味において取り上げられる必要はなく,理性的な意 志,つまり即時的かつ対自的な意志の意味において取り上げられなければならない

( Hegel ,  [ F n  2 ] ,   S .  3 0 7 ) 。

‑ 2 6

(5)

哲学に内在する理由から特別な関心事であった。多くの彼の同時代人11)と同じように,

ヘーゲルは,ルソーの国家と,絶対的な自由のかの恐ろしい出来事,つまりジャコバン 主義の「徳のテロリズム」12)において初めて歴史的な事実を獲得した出来事の間に対応 関係

( P a r a l l e l e n )

を見たのである。しがたってヘーゲルは,ルソーに対する彼の批判 の結末に関して,フランス革命を言及するに至ったのであり,ある出来事は,大きく恐 ろしいものであると同時に,成熟したヘーゲルを,相変わらず呪縛したのである。つま り,暴力へと成長したように,ルソーの抽象概念は,「まさに一面において,我々が人 類について知って以来,初めての驚くべき光景をもたらした。すなわち,存立している もの,与えられたもののすべてを覆し,偉大な現実の国家体制を,いまやまったくはじ めから, しかも息想から創設し,そして,ただ,それに,その基底としてひとりよがり に思いつかれた理性的なものを与えようと欲するということをもたらした。また他面に おいては,それは理念を欠いた抽象化にすぎないために,最も恐るべき残忍な事件を誘 発した」13)

この批判は,ヘーゲルの場合にしばしばそうであるように,さしあたり,ある程度曖 昧なように思われるのであり,加えてそれは,私が示そうとするように,部分的に誤っ て定式化されている。ヘーゲルの批判の中心へと突き進むために,私は次のような道を 選びたい。すなわち,第一に

( I I

.)'より詳しくヘーゲルの理論とルソーの見解の間に 存在し,それが著しいものであるにもかかわらず,ヘーゲルからは相違点よりもあまり 取り上げられなかった対応関係に立ち入る。これらの考慮が同時に示そうとすることは,

ヘーゲルのルソー批判の中で説得力を持ちえないのはどの観点かということである。こ れに続いて (ill.),ヘーゲルの批判の実質的な中核を浮き彫りにし評価することを試み る。その場合における私の主目的は,ヘーゲルがその相手に,結論において正当にも,

その意志概念の抽象性を批判したことを示すことであり,ルソーの自分自身の側にある 存 在

( B e i ‑ s i c h ‑ S e i n )

へと制限された自己決定的な意志という理解は,意見の相違と いうカテゴリーに無力にも直面し,この理由から,ヘーゲルが「近代世界」と名づけた

1 1 )  

有名であるのはナポレオンのある言葉である。つまり,ナポレオンは「これはル ソーの誤りである

(C ' e s tl a   f a u t e   a  Rousseau)

」と「彼がその深淵を埋めようと した」フランス革命について述べたのである

( L o w i t h ,P e t e r s e n ,   S u b j e k t i v i t a t  und  P o l i t i k ,   1 9 9 2 ,   S .  5 3

による引用)。

1 2 )   S a f r a n s k i ,   Das Bose o d e r  Das Drama d e r  F r e i h e i t ,   1 9 9 7 ,   S .  1 6 3 . 

1 3 )   Hegel  (FN 5 ) ,   §258 A ( S .   4 0 0 £ . ) .  

[上妻ほか訳『法の哲学下巻』(前掲註

5) 428

頁]

‑ 2 6 4   ‑ ( 1 9 5 6 )  

(6)

「ジャン・ジャック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

もの一一つまり彼の時代,そして幾分割り引いて

(cumgrano  s a l i s )

であるが,我々の 時代の適切な理解にとってふさわしくないのである。

I I   . 

ルソーとヘーゲルの

c i t o y e n

という理想;

ルソーの

v o l o n t eg e n e r a l e

概 念

しかし,まず最初に,予告したように,ルソーとヘーゲルにおける意見の一致につい て述べる。これは,両者の政治的哲学が,意志という概念を基礎に置いていることに尽 きるのではない。むしろ,ヘーゲルのチュービンゲンの学友の証言によれば,彼の学生 時代の英雄であったジュネーブの哲学者14)とは何ら異ならず, ドイツの哲学者は,市 民が私人の利益の代わりに,市民が属する政治的共同体の利益を,彼らの意志の優先的 基準とする時,言い換えれば,市民が自らをまず第一に

c i t o y e n

〔シトワイアン。公共 意識を持った市民のこと。「公民」とも訳される。以下原語で表記する。一一訳者記す〕

として理解する時に初めて現実のものと看倣す。この見解には,両著者において,ホッ ブズないしロック

( L o c k e )

に由来する社会契約論を否定することが伴っている。

ホッブズやロックの社会契約論も,法的な拘束は自己拘束としてのみ,つまり(後 に)法に服する者の意志へと遡及することによって根拠づけられなければならないこと を認めている。社会契約の締結に関する意志は,法に服する者に前提とされうることを,

ホップズもロックも契約によって基礎づけられた国家の適性,すなわち契約締結者のそ の生命や所有物の所有

Onnehabung)

(ロックの場合には,所有権

[ E i g e n t u m ] )

に対 する利益を保証するという適性15)によって根拠づける。つまり,契約を締結する際に は,諸人格が存在するのであり,その諸人格は,アリストテレス的な伝統との完全な決 別においては,ポリス以前に構成されるものとして考えられー―ー諸人格は,すでに社会 契約の締結の前に法的人格であることを理由としてのみ,契約のパートナーとして,そ

1 4 )   H e n r i c h ,  Leutwein i i b e r  Hegel: Hegel‑Studien ( 1 9 6 5 ) ,   S .   3 9 f f .  

を見よ。一ール ソーの若きヘーゲルヘの影響に関しては,

deA n g e l i s ,  Die R o l l e  d e s  E i n f l u s s e s  von  J .   J .   Rousseau  a u f   d i e   Herausbildung  von  Hegels  J u g e n d i d e a l ,   1 9 9 5 ;  Fulda /  Horstmann ( H r s g . ) ,   R o u s s e a u ,  Die R e v o l t i o n  und d e r  j u n g e  H e g e l ,   1 9 9 1 .  

1 5 )  

国家を株式会社の一種として見なしたシエイエス

( S i e y e s )

の観点が,それを極 端に先鋭化する。つまり,「税金を支払う市民は,社会という巨大な企業の株主と 看倣されなければならない。すなわち,市民によって営業資金を手に入れ,市民に 服しており,市民のために存在し働くのであり,そのすべての収益は市民のもので ある」

( S i e y e s ,P o l i t i s c h e   S c h r i f t e n   1 7 8 8 ‑ 1 7 9 0 ,  2 .   A u f l .   1 9 8 1 ,   S .   7 0 )

1 6 )   K e r s t i n g ,  R e c h t ,  G e r e c h t i g k e i t  und demokratische Tugend, 1 9 9 7 ,   S .  1 2 2 . 

‑ 2 6 5   ‑

(7)

もそも考慮される16)̲ ,加えて,その行為を一貫した形で個人的効用という基準へ と方向づけるものである17)。契約の締結は,自然状態を安全な法状態へと転換し,そ れに反して,契約締結者の内的な状態

( V e r f a s s u n g )

には影響を及ぼさない18)。個々 人は,その者がかつて存在していた状態にとどまる。つまり,ヴォルフガング・ケルス ティング

(WolfgangK e r s t i n g )

の言葉を借りれば,ある「前社会的な(より厳密には,

前政泊的な)合理的ホムンクルス

(Rat i o n a l i  t a  tshomuncul u s )

19)にとどまるのである。 この点において,もう一度ケルスティングを引用するために,ホッブズの「最大国家主 義 的 な 合 理 性 モ デ ル

( s t a a t s m a x i m a l i s t i s c h eR a t i o n a l i t a t s m o d e l l )

」とアダム・スミス

(Adam  S m i t h )

の「最小国家主義的な自発性モデル

( s t a a t s m i n i m a l i s t i s c h e nS p o n t a n e i

t a t s m o d e l l )

」が衝突する。啓蒙的世界像に歴史がないことを模範的な方法で反映する 見えざる手

( u n s i c h t b a rordnenden Hand)  z o )

というコンセプトの背後においても,「自 己中心的な個人の怜悧戦略から社会合理性が演繹されうるという確信が存在する」21)。 すなわち,「人は互いに計算する」22)のである。

「社会のもつれ

( K n o t e n )

を人的な利益によって結びつける」見解23)の初期批判を ルソーは展開していた。ホッブズの万人の万人に対する闘争は,彼の場合,所有を持た ない者の所有者に対する闘争となる。ホッブズの社会契約を,その影響は一次的には,

発展した自然状態の競争状態

( K o n k u r r e n z w i r t s c h a f t )

において発生する物的な不平等 性を持続し,その不平等性に合法性という光を授けるところに存在するのであるが,ル ソーは裕福な者の洗練された策略として非難した24)。彼の契約締結の記述は,リヴァ イアサンのひどいパロデイのように25)読まれる。しかし特に,ルソーによれば,構成

1 7 )   K e r s t i n g ,   Die p o l i t i s c h e  P h i l o s o p h i e  d e s  G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g s ,   1 9 9 4 ,   S .   1 6 7  f .  1 8 )   Herb, Rousseaus Theorie l i g i t i m e r  H e r r s c h a f t ,   1 9 8 9 ,   S ,   1 5 7  ;  K e r s t i n g  (FN 1 7 ) ,  

S .   1 6 9 ,   1 7 8  ;  V o s s l e r  Rousseaus F r e i h e i t s l e h r e ,   1 9 6 3 ,   S .   2 4 2 .   1 9 )   K e r s t i n g  (FN 1 6 ) ,   S .  1 2 2 .  

補足は著者による。

2 0 )   R e i c h e ,  Rousseau und d a s  N a t u r r e c h t ,   1 9 3 5 ,   S .   1 7 .   2 1 )   K e r s t i n g  (FN 1 6 ) ,   S .  1 2 2 .  

2 2 )   K e r s t i n g  (FN 1 6 ) ,   S .   4 4 6 .  

2 3 )   R o u s s e a u ,  Vorrede z u  , , N a r c i s s e " ,  i n :   d e r s . ,  S c h r i f t e n  i n   z w e i  Banden, 1 9 8 7 ,  B d .   I ,   S .   1 5 7 .  

2 4 )   R o u s s e a u ,  D i s k u r s  t i b e r  d i e  U n g l e i c h h e i t ,  3 .  A u f l .  1 9 9 3 ,  S .  2 1 5 f f . ,  d e r s . ,  P o l i t i s c h e   Okonomie (FN 1 ) ,   S .   9 5 f f . ; 

また,市民の法の平等の現実性に関して,

d e n s . ,Emil  (FN 1 ) ,   S .  240

も見よ。

2 5 )   P e t e r s e n  (FN 1 1 ) ,   S .   3 2 .  

2 6 6   ‑ ( 1 9 5 8 )  

(8)

「ジャン・ジャック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

員がその行為を,市場が体系的なプロトタイプであるような,ますます匿名となる環境

へと向ける社会は,疎外という最高度の基準によって示される。すなわち,「以前は自 由で独立していた」人は,「今や,数多くの新しい要求によって,いわば完全な自然に 支配されているのであり,特に,その同胞は,彼が主人となる時でさえ,一定の意味に

おいて奴隷となるのである」

6 2 ¥

いわば野性的に行動する市民社会に対する同様の批判的態度を,結論においてヘーゲ ルもとった。ヘーゲルが,その経済的な体制を「欲求の体系」27)として特徴づけ,政治 的な理論の領域におけるその意味論的なシンボルとして,社会契約論を理解した28)市 民社会は,客観的に理性的なものが社会構成員の個人的な恣意を媒介してのみ受け入れ られる限りにおいて,欠陥のある現実化形態であるとされる29)。市民社会は,その豊 かさにもかかわらず,「貧困の過剰と浮浪者の出現を妨げるほど」30)十分に豊かではな

2 6 )   R o u s s e a u ,  D i s k u r s  i i b e r  d e i  U n g l e i c h h e i t  (FN 2 4 ) ,   S .   2 0 7 .  

同様に,

d e r s . ,Emil  (FN 1 ) ,   S .   6 2 f .  

先鋭化されたものとして,

d e r s . ,Vorrede z u  , , N a r c i s s e "   (FN 2 3 ) ,   S .  1 5 8 :  

「大衆ば惨めな状態において身を縮め,全ての者は悪徳の奴隷である」。 一ールソーの立場を示すものとして,また,

d e r s . ,D i s k u r s  i i b e r   d i e   U n g l e i c h h e i t   (FN 2 4 ) ,   S .  2 6 9 :  

「未開人

( W i l d e )

は自分自身で生活しており,社会的な人は,常

に自らの外で,他者の意見においてのみ生活していることを知っているのであり,

いわば他者の判断からのみ,その者自身の存在の感覚を受け取るのである」一~

ヘ ー ゲ ル に よ る ル ソ ー の 疎 外 定 理

( Entfremdungstheoreme)

の受容に関して,

B a c z k o ,  Hegel v e r s u s  R o u s s e a u ,   1 9 7 7 ,   S .  2 7 f f . ,   4 9 f f .  

2 7 )   Hegel (FN 5 ) ,   § § 1 8 9 f f .  ( S .   3 4 6 f f . ) .  

[上妻ほか訳『法の哲学下巻』(前掲註

5)

359頁以下]_~ 基本的なものとしては,

R i e d e l ,   Hegels  B e g r i f f   d e r   B i i r g e r l i c h e n   G e s e l l s c h a f t   und d a s   Problem  s e i n e s   g e s c h i c h t l i c h e n   U r s p r u n g s ,  i n :   d e r s . ,   (FN 3 ) ,   S .   2 4 7 f f .  

2 8 )  

例えば,

Hegel(FN 5 ) ,   §182 Z ,   S .   3 3 9 f . ;   d e r s . ,   E n z y k l o p a d i e  d e r  p h i l o s o p h i ‑ s c h e n  W i s s e n s c h a f t e n  I ,   §98 A, Werke Bd .  8 ,   S .  2 0 7 .  

を見よ—―この結びつきに 関しては,

M a l u s c h k e , P h i l o s o p h i s c h e   Grundlagen  d e s   d e m o k r a t i s c h e n   V e r f a s ‑ s u n g s s t a a t e s ,   1 9 8 2 ,   S .   2 3 7  f f .   ; 

社会契約論に対するヘーゲルの批判については,

S c h n i i d e l b a c h ,  Hegel und d i e  V e r t r a g s t h e o r i e :  Hegel‑Studien 22 ( 1 9 8 7 ) ,  S .   1 1 1   f f .  

2 9 )  

欲求の体系については,

Hegel(FN 5 ) ,   §184 Z ( S .   3 4 1 )  

[上妻ほか訳 『法の哲学 下巻』(前掲註

5) 3 5 3

頁]:「私はわたしの目的を促進しながら,普遍的なものを促 進するのであり,そしてこの普遍的なものがまた私的な目的を促進するのである」。 社会契約論については,同書

§§75Z

および

1 8 2Z ,   S .  1 5 7  f f . ,   3 3 9  f . 

3 0 ) 

同書

§ 2 4 5 ,S .  3 9 0 .  

[上妻ほか訳 『法 の 哲 学 下 巻』(前掲註

5) 4 1 5

頁]

(9)

いので,市民社会は,結局のところ,富と貧困という両側を異常にするという極端な対 極化に陥る。つまり,市民社会がその過剰な自暴自棄から法それ自体をもはや認めない ことによる貧困と,市民社会が全てのものを買収できるものとして看倣すことによる豊 かさである31)。つまり,それぞれの個人的な特殊性に没頭している私人の社会32)は, ヘーゲルによれば,個々人の自由を語ることを茶番とするような関係をもたらす。こ の背景の前で初めて明らかとなることは,ヘーゲルが,社会契約論は個人の恣意に基 づく行為

( W i l l k i i r a k t e )

の総体を,理性的普遍性と取り違えるという批判によって,

本質的に意味したことである。すなわち,この理論は,市民社会の意味論的な締結形 式を,政治的哲学そのものに先がないこと

( n o np l u s  u l t r a )

のために高く評価するこ

とによって,ヘーゲルの理論によるかの社会の自己崩壊的な傾向を反映したに過ぎな いのであり, しかしながら,この傾向を理論的に理解することはできなかったのであ る。

ルソーとヘーゲルの考慮における対応関係は,この批判から導かれるべき結論へも広 がる。両者は,伝統的な社会契約論の存在論的な前提を批判し,これにある視点を反対 に持ちだした。つまり,プラトンやアリストテレスの伝統との結びつきを意識して,人 格を国家に対して先んじるものとして理解せず,国家を人格に先んじるものとして理解 したのである。さらにいえば,この意味においては,国家の外部では_ただし任意的 な国家ではなく,その都度の理論の規範的な要求に合致する国家である一ー自由を考慮 する必要はまったくない33)。このいわゆる共同体主義の現在の法哲学的な議論におい て再び息を取り戻した存在論的視点には,両者においては,自らを国家に対してではな

3 1 )   Hegel (FN 1 0 ) ,   S .   1 9 6 .  

3 2 )   T a y l o r ,  H e g e l ,   2 .   A u f l .  1 9 3 3 ,  S .  5 9 4

は「荒廃した功利主義」について言及してい る。

3 3 )  

この対応関係は,すでにしばしば指摘されている。指摘するものとして古い文献 からは,

B r a n n ,Rousseaus E i n f l u B  a u f  d i e   Hegelsche S t a a t s p h i l o s o p h i e  i n   i h r e r   Entwicklung und V o l l e n d u n g ,  1 9 2 6 ,  S .   1 8 ,   2 2 ,   2 5

並びに

F e s t e r ,Rousseau und d i e   d e u t s c h e  G e s c h i c h t s p h i l o s o p h i e ,   1 8 9 0 ,   S .   273 . 

(主なパンフレット的な性質を持つ

ものとして,

D u g u i t , J e a n ‑J a c q u e s   R o u s s e a u ,   Kant e t   Hegel: Revue du D r o i t   P u b l i c  e t  de l a   S c i e n c e  P o l i t i q u e  en  France e t   a  l ' E t r a n g e r  [ 1 9 1 8 ] ,  S .  1 7 3 £ £ . ,  3 2 5 £ £ . ) 。

—最近のものからは, Avineri,

Hegels Theorie d e s  modernen S t a a t e s ,   1 9 7 6 ,   S .   2 1 4 ;  Bae

k o (FN  2 6 ) ,   S .  5 5 ;   I l t i n g ,   i n :   d e r s .  ( H r s g . ) ,   G.W.F.  H e g e l ,   Die  P h i l o s o p h i e  d e s  R e c h t s ,  1 9 8 3 ,  S .   328  E r l .  242 ;  M

e r , Entfremdung,  2 .  A u f l .  1 9 8 5 ,   S .  1 9 ,   4 2 ,   4 5 ;   P e t e r s e n  (FN 1 1 ) ,   S .   9 ,   5 7 ,   1 2 4 ,   1 8 3 £ .  

‑ 2 6 8   ‑ ( 1 9 6 0 )  

(10)

「ジャン・ジャ ック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

く,国家を介して定義づけるという市民に対する要求があてはまる。つまり,市民は自 らを一~ ルソーの場合にはもっばら一一

c i t o y e n s

として 理解すべきであり,その

c i t o y e n s

はその意志を公的な財へと向け,そこから,その市 民的な義務を制約としてではなく,自らの自由を積極的に実現する条件として承認する。

このことをヘーゲルが考えていたのは,彼が有名な言い回しで次のようなことを語った

... 

時である。つまり,国家は「即時的かつ対自的に理性的なものであり……そこにおいて は,自由がその最高の法へと至り,同様にこの究極目的は,国家の成員であることを最 嵩の義務とする個人に対する最高の法を有する」34)。なお厳格に,ルソーはこの思想を 定式化した。すなわち,人は市民として「一部分でしかなく,分母

( N e n n e r )

に依存 し,その価値は全体との関係において,つまり社会的身体

( S o z i a lk o r p e r )

との関係に おいて存在する。よい社会的な制度は,人から彼本来の本質を奪い,人自体に絶対的な 形で相対的な存在を与える。それは,彼の自己

( I c h )

を普遍性へと転化し,その結果,

個々人はもはや統一体としてではなく,全体の一員として自らを感じ,看倣すのであ る。」35)両方の引用文は,一つのそして同一の認識を基礎においている。つまり,個々 人は自らを,その者が属する政治的な共同体から引き離さず,政治的な自由の主体とし て,つまり市民として構成することができるという洞察である。そこから,古典期の考 えを再び身につけることは,ルソーの場合であれヘーゲルの場合であれ,近代の自由思 想を,その先任者と比較して首尾一貰した形で実行することとして理解されるのであり,

そこからの離反として理解されるのではない36)

国家市民的な人倫というこの理解の背景から,ルソーは

v o l o n t eg e n e r a l e  

〔ルソーに おける一般意志。ルソーにおける一般意志であることを強調するため以後原語で表記す る。_ 訳 者 記 す 〕 と

v o l o n t ede t o u s  

〔ルソーにおける全体意志。以後原語で表記する。

—訳者記す〕との間の違いを展開させたボーン (Vaughan) はこの違いを正当に も,「ルソーの理論の全体像を暗黙的に含む違いである」37)と特徴づけた。

v o l o n t ede  t o u s

を突き止める場合,他律的利己的に動機づけられた個々人の利益は,和解や票決

3 4 ) Hegel (FN 5 ) ,  §258 ( S .  3 9 9 ) .  

[上妻ほか訳 『法の哲学下巻』(前掲註

5) 4 2 7

頁]

3 5 )   R o u s s e a u ,  Emil (FN 1 ) ,   S .   1 2  

[今野一雄訳『エミール上』(岩波書店,

1 9 6 2 ) 2 7  

頁];同様に,

d e r s . ,P o l i t i s c h e   Okonomie (FN 1 ) ,   S .   6 7 .  

3 6 )   O b e r p a r l e i t e r ‑ L o r k e ,   Der F r e i h e i t s b e g r i f f   b e i   R o u s s e a u ,   1 9 9 7 ,   S .   1 6 ,  4 0 ,   4 3 ;   P e t e r s e n  (FN 1 1 ) ,   S .   3 8 ,   4 8 £ . ,   6 4 £ £ .  

3 7 )   Vaughan, I n t r o d u c t i o n ,  i n ;   d e r s  ( H r s g . ) ,  The P o l i t i c a l  W r i t i n g s  o f  Jean Jacques  R o u s s e a u ,  B d .  I ,   Oxford 1 9 6 2 ,   S .   6 1 .  

‑ 2 6 9   ‑ (

(11)

について妨げとなる38)

v o l o n t egen

a l e

は異った性質を有するのである。すなわち,

それは,物的な特定の公共の福祉と,従って,ヘーゲルが絶えず援用していた,かの対 自的即時的に理性的なものに関連づけられる39)

ただしこの方法は,ヘーゲルが 『要綱』においてルソーに対する批判を定式化したよ うに,彼がこの共通のものを自覚していたということを,ほとんど認識させない。その

§258 A

に お い て 主 張 さ れ た 批 判 を 評 価 す る こ と を , 読 者 は 特 に , 彼 が

v o l o n t e

generale というルソーのコンセプトを,—私がまさに示そうとするように一ール ソーが彼の政治哲学に与えたあまり説得力のない契約論的な表現から取り除かなかった ことによって困難にさせられる40)。ヘーゲルは,ルソーの考慮を,他の同様によく知 ら れ た 『 要 綱 』 の 場 所 で ―

§29A

であり,そこではカントの法概念に対する彼の批 判 が 展 開 さ れ て い る ― よ り よ く 表 現 で き て い な い41)。カントによれば,法は,「一方 の選択意志が他の者の選択意志

( W i l l k i i r )

と自由の普遍的法則に従って統合されるこ とを可能にする諸条件の総体

( I n b e g r i f f )

42)である。ヘーゲルは,この概念規定を伴 う 彼 の 説 明 の 枠 内 で ― そ の 限 り で

§258

A におけるように一—ールソーを次のように批 判した。意志を真の精神としてではなく,「特殊的な個人として,つまりその者に固有

3 8 )   R o u s s e a u ,  G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g   I I ,   3 ,   S .  3 1 .  

を見よ。

3 9 )  

同書。

d e r s ,P . o l i t i s c h e  Okonomie (FN 1 ) ,   S .  3 7 . 

volonte g e n e r a l e n

の人倫 的な内容が希釈されるのは,それを単なる「調整的な理念」として理解するときで ある(しかしながら,

Natorp[FN 4 ] ,   S .  1 2 ;   Stammler [FN 4 ] ,   S .   3 8 2 ,  

同様に

Vaughan [FN 3 7 ] ,   S .   1  ;  V o s s l e r  [FN 1 8 ] ,   S .  2 5 9 ,  

本 論 文 と 同 様 な も の と し て

M

l e r[FN  3 3 ] ,   S .  4 3 ,  

また新カント主義的な解釈について否定するものとして

R e i c h e  [FN  2 0 ] ,   S .  3 3 ) 。

4 0 )  

また,このことを批判するものとして

Maluschke(FN  2 8 ) ,   S .   2 3 4 ,   Muller (FN  3 3 ) ,   S .   42

及 び

M e t h a i s ,C o n t r a t  e t  v o l o n t e  g e n e r a l e  s e l o n  Hegel e t   Rousseau,  i n :   d ' Hondt ( H r s ....  g . ) ,   Hegel e t   l e   S i e c l e  des l u m i e r e s ,   P a r i s   1 9 7 4 ,   S .   1 0 1 ,   1 4 1 .  

また,ルソーの 論 証 手 段 と 彼 の 論 証 の 帰 結 の 入 念 な 区 別 を ボッビオ

( B o b b i o ) ( B o b b i o ,  Hegel und d i e  N a t u r r e c h t s l e h r e ,  i n  :  R i e d e l  [FN 3 ] ,   S .   8 1 ,  9 9 . )

も注意を 促している。一~ れ に 対 し て , 例 え ば

v . Bogdandy,  H e g e l s   T h e o r i e   d e s   G e s e t z e s ,  1 9 8 9 ,  S .  1 9 6 £ £ . ,   Rosen

w e i g ,Hegel und d e r  S t a a t ,   1 9 2 0 ,  S .   8 4 ,   1 3 0

及 び

S c h a b e r ,  Recht a l s   S i t t l i c h k e i t ,   1 9 8 9 ,  S .  1 2 5

は,ルソーのヘーゲル的な表現を自ら の説としている。

4 1 ) 

その限りで批判的なものとして,また,

Taylor(FN 3 2 ) ,   S .   4 8 7 £ .  

4 2 ) Kant ,  Metaphysik d e r  S i t t e n ,  AB  3 3 ,  Werke B d .  7 ,   1 9 8 3 ,  S .   3 3 7 .  

[樽井正義/池 尾恭一訳『カント全集

1 1

人倫の形而上学』(岩波書店,

2 0 0 2 ) 48

頁以下]

‑ 2 7 0   ‑ ( 1 9 6 2 )  

(12)

「ジャン・ジャ ック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

の恣意における個々人の意志として」43)法の基礎としたと批判したのである。それは,

短縮された意志概念による彼の見解であり,ヘーゲルは,カントの法概念もこれに根ざ していると見たのである44)。そ れ に よ っ て ヘ ー ゲ ル に 導 かれたルソーとカントの同置 は , し か し な が ら , カ ン ト の 意 味 に お け る 選 択 意 志 は , 決 し て 理 性 の 要 求

( V e r n u n f t p r a t e n t i o n e n )

を 起 こ さ ず , 一 方 で , ル ソ ー の 国 家 市 民 の意志は,見てきた よ う に , 少 な く とも意図

( I n t e n t i o n )

に 従 っ て , つ ま り 形 式 的に普遍,すなわち公共 の福祉へと向けられるのであると反論されうる。ヘーゲルが,上で引用されたルソーに 関するコメントに続いて,法理解を恣意を基礎に置くものと確認し,理性的なものを,

自由にとって制限的な心のとしてのみ理解することができる45)場合には,この批判は

ルソーには明らかに当てはまらなし・ヽだろう。というのも,ルソーは,法的な自由という 概念に対する理性的—~普遍的なものの構成的な意義を,ヘーゲルと同じように承認し ていたからである。

そ れ に も か か わ ら ず , ヘ ー ゲ ル の ル ソ ー 批 判 を , ヘ ー ゲ ル が , そ こ で

v o l o n t e g e n e r a l e

v o l o n t ede t o u s

の間の区別を誤認しているという理由づけでもって軽視す

ることば性急であるだろう46)。つまり,ヘーゲルの業績の他の場所では,ヘーゲルが,

上述で明確にされた彼の理論とルソーの見解の間の対応関係を十分に自覚していたとい う明確な示唆が見出される。彼の法哲学講義の多くの箇所では,ヘーゲルは,「その時 代の不幸によって襲われ,欲望の充足が引き起こす不幸の残忍な記述(が見出される)

高貴で偉大な心の持ち主」47)として,最初にルソーを挙げた48)。加えて,

1 8 1 7

年から

1 8 1 8

年 の 講 義 に お い て , 彼 は はっきりと,「人格の個別性

( E i n z e l h e i t )

」 を 国 家 の基

4 3 )   Hegel (FN 5 ) ,  §29 A S .  8 0 £. 

[上妻ほか訳 『法 の 哲 学 上 巻』(前掲註

8) 7 2

頁]

4 4 ) 

同書

§29A S .   8 0 . 

4 5 ) 

同書

§29A S .  8 1 .  

[上妻ほか訳 『法の哲学 上巻』(前掲註

8) 7 2

頁]強調は著者 による。

4 6 )   Avineri (FN 3 3 ) ,  S .  2 1 9 ;   C a s s i r e r  (FN 4 ) ,   S .  1 9 8

を見よ。同様に,

H . B a r t h ,   Uber d i e  I d e e  d e r  S e l b s t e n t f r e m d u n g  d e s  Menschen b e i  Rousseau: Z f p h i ! F   ( 1 9 5 9 ) ,   S .  1 6 ,  3 1   ;  Muller (FN  3 3 ) ,   S .   1 1 .  

4 7 )   Hegel (FN 1 0 ) ,   S .  1 4 9 .  

[デイーター・ヘンリエット編(中村浩爾,牧野広義,

形野清貴,田中幸世訳) 『ヘ ー ゲ ル 法 哲 学 講 義 録

1 8 1 9 / 2 0

』(法律文化社,

2 0 0 2 ) 1 0 0

頁を参照。

J

4 8 )   H e g e l ,  Vorlesungen i i b e r   R e c h t s p h i l o s o p h i e   1 8 1 8 ‑ 1 8 3 1 ,  h r s g .  von K.‑H .  I l t i n g   ( N a c h s c h r i f t  G r i e s c h e i m  1 8 2 4 / 2 5 ) ,   1 9 7 4 ,  Bd .  4 ,   S .   4 7 7 ;  

実質的に一致するものとし て

Hegel(FN 1 0 ) ,   S .  1 4 9 . 

2 7 1   ‑

(13)

盤とするロックの国家コンセプトと,「普遍的な精神,すなわち精神の統合」が国家 の実体を構成するとするルソーに依拠する見解の対立を強調したのである49)。そして,

『エンチクロペデイー』において,彼がまさに承認したことは.従来の契約論の単な

る 共 通 の も の と 純 粋 に 普 遍 的 な も の と の 間 の 違 い は , ル ソ ー の

v o l o n t eg e n e r a l e

v o l o n t e  de t o u s

の間の違いにおいて.妥当な表現を見出したということである50)。確 かに,ここでも「しかし

( a b e r )

」が付く 。すなわち.ルソーは,ヘーゲルのように.

もし彼が常にこの違いを意識し続けるならば,国家の理論との関係で,より根本的な ことを成し遂げただろう51)。そ れ に も か か わ ら ず . こ の コ メ ン ト は , ヘ ー ゲ ル の ル ソー批判に,違った光を当てたのである。つまり,それが証明することは,ヘーゲル が.その国家哲学を「純粋に普遍的なもの」というカテゴリーに依拠させるというル ソーの努力を認めることであり,彼が非難することは,彼の意見によると,この計画 の実現が欠けることである。この批判に対する考察に.私は今から取り組みたいと思

つ 。

皿国家市民の人倫というルソーのコンセプトにおける諸問題

1.  まず第一に,国家市民の同一性という器官学的・有機体論的な理念52)を,技術的 な生産可能性の表象と結びつく合理主義や啓蒙主義の構成主義と結びつける53)という ルソーの企てが,問題を投げかける。この努力の最も重要な帰結は,ヘーゲルによって 既に『要綱』の

§258A

でしばしば批判されているルソーの試み,つまり,国家や市民 になるという理性的な出来事を,意志による国家設立行為という形式へと置き換えるこ

4 9 )   Hegel (FN 3 3 ) ,   S .   9 2 .  

――この講義においてヘーゲルは,彼自身の人倫の理論 部分を, ここで「一般的意志」という標語の下で導入したことを通じて,ルソーの 重要性を示している。

5 0 )   H e g e l ,  E n z y k l o p a d i e  I  (FN  2 8 ) ,  §163 Z 1 ,   S .   3 1 2 £ . ;  

また

d e n s .(FN 2 ) ,   S .  3 0 7も

見よ。ここで,ヘーゲルはルソーに,自由が「国家において放棄されないだけでな

く,実際に初めて構成される」ことに明示的に賛同している。

5 1 )   H e g e l ,  Enzyklopadie (FN 2 8 ) ,   §163 

1 ,  

S. 

3 1 3 .  

5 2 )  

最も明確に,ルソーの国家理念の器官学的な特徴が,彼が百科全書で書いた政治 経済

(FN 1 ) ,   S .   3 0 £ £ .  

に関する項目において表現されている。

5 3 )  

ま た , 批 判 的 な も の と し て

Brandt , Rousseaus P h i l o s o p h i e   d e r  G e s e l l s c h a f t ,   1 9 7 3 ,  S .   1 6  f .   ;  Brann (FN 3 3 ) ,  S .  3  f .   ;  F e t s c h e r ,  Rousseaus p o l i t i s c h e  P h i l o s o p h i e ,  6 .  A u f l .   1 9 9 0 ,  (FN 1 4 ) ,   S .  4 1 ,  65 .  ‑Maluschke  (FN 2 8 ) ,   S .  2 3 6

は,適切にも「ル

ソー的な思考方法の二義性」を語っている。

‑ 2 7 2   ‑ ( 1 9 6 4 )  

(14)

「ジャン・ジャック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

とである。契約という構成を利用することによって54),それは超自然的に正当化され た封建的世界への厳格な取り消しを内容とするのであるが55), ルソーはホッブズや ロックのモデルに従った56)。ただし,これまでの叙述が示したように,ルソーは契約 締結と彼の先任者達とは全く異なる意味を結びつけたのである。先任者達の見解によ

れば,契約は契約締結者の現状

(Ve r f a B t h e i t )

を何ら変更しない一ー契約締結者は,

彼らがかつてそうであったままである。つまり,自然的・利己的に利益を最大化する

者である― — 方で,ルソーの意味における契約締結は,向二性の転換

(Identitiitswechsel) —ールソーが神秘主義の伝統による専門用語 (terminus

t e c h n i c u s )  

の利用の下で述べたように,「全体としての公的機関への完全な譲渡」という行為57)

― と 同 じ 意 味 で あ る。しかしながら,この新しい内容的な関心事を,つまりペスタ ロッチ

( P e s t a l o z z i )

の言葉によるところの「汝自身の外での死の飛躍

( S a i t om o r t a l e   auBer d i c h  s e l b s t )

58)を,従来的に構成された社会契約論の形式で装うというルソーの 試みは,論理的な行き詰まり(アポリア

[ A p o r i e ] )

へと至る。特定の内容の社会契約 を結ぶことは,説得力を持って,その者に契約上根拠づけられるべき状態の優先性が明 白であるような性質を持った者として表示される諸人格にのみ

1

希されうる。それゆえ,

もっぱら個人的な利益の最大化という模範

( P a r a d i g m a )

に関してのみ自らを理解し,

従ってルソーによれば疎外や不自由という状態に生きる者には,この自己理解からの離 皮のための意志は前提とされえないのであり59),結局のところ,意志には,定義に即

5 4 )   R o u s s e a u ,  G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g ,  I ,   6  (FN 1 ) ,   S .   1 6 f f . ;   d e r s . ,  Emil (FN 1 ) ,   S .  5 0 7   f . ;   d e r s . ,   B r i e f e  vom Berge ( 6 .  B r i e f )  (FN I ) ,   S .   1 4 6 . 

5 5 )  

これに関して,

Haymann,La l o i   n a t u r e l l e  c l a n s  l a   p h i l o s o p h i e  p o l i t i q u e  de  J . ‑J .  

Rousseau: Annales de l a   S o c i e t e  J e a n ‑J a c q u e s  Rousseau 3 0  ( 1 9 4 3 ‑ 1 9 4 5 ) ,   S .   6 5 ,   9 4 ;   Methais (FN 4 0 ) ,   S .   1 2 8 £ . ,   1 4 6 :   Reiche (FN 2 0 ) ,   S .   1 7 .  

5 6 )  

これに関して,

Herb(FN 1 8 ) ,   S .   1 4 6 f f . ;  K e r s t i n g  (FN 1 7 ) ,   S .  1 7 .  

5 7 )   R o u s s e a u ,  G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g ,   I ,   6  (FN 1 ) ,   S .   1 7 ,  

また,

I I ,7 ,   S .   43

も見よ。

—神秘主義における全体的疎外 (alienation

t o t a l e )

という概念の由来を指摘す るものとして,

K o b u s c h ,Die Entstehung d e r  P e r s o n ,  2 .  A u f l .  1 9 9 7 ,  S .  1 2 4 .  

これは,

ルソーにおける譲渡という方法を「存在態様

( E x i s t e n z w e i s e n )

の変更」として適切 にも示している。同書

S . 1 2 5 .  

5 8 )   Rang, Rousseaus Lehre vom Menschen, 2 .   A u f l .   1 9 6 5 ,   S .  1 4 6

による引用。

5 9 )  

適切なものとして

Liepmann,Die R e c h t s p h i l o s o p h i e  d e s  J e a n  J a c q u e s  R o u s s e a u ,  

1 8 9 8 ,  S .   1 2 0 .   ‑ Durkheim, Montesquieu e t  R o u s s e a u ,  P a r i s  1 9 5 3 ,  S .  1 9 7

も,ル ソーの体系の本質的な弱点を,その前には孤立していた諸個人に,

C o n t r a tS o c i a l / '  

‑ 2 7 3   ‑ ( 1 9

(15)

した形で,関与者が自らを世界において方向づけることができる唯一の解釈パターンが 与えられるのである。

c i t o y e n

としての定在へと義務づける意志が帰されうるのは,既 に,この自己義務づけ行為の前に,かの定在形式の法的な優先性を見通した者だけであ る。言い換えれば,定義変更

( U m d e f i n i t i o n )

という決定的な行為は,ルソー的な社会 契約の締結に先行しなければならないのであり,契約の締結それ自体が,定義変更を引

き起こすことはできないのである60)

ヘーゲルとルソーはこの問題を共に見ていた。見分けの付く形でルソーと関連する関 係で,ヘーゲルは,そのイェーナ体系構想において以下のように書き留めていた。つま

¥ 〔ルソーにおける社会契約。そのことを強調するため以後原語で表記する。一 訳 者 記す〕の基準と合致する国家性という状態への移行を実現させる能力を与えるもの が明らかでない点に見い出す。

6 0 )   Haymann (FN  5 5 ) ,   S .  72は,起源的な観点の下では,ルソーによれば,国家を

整備することは,長い発展の最終的な段階にすぎないということを十分に認められ るのかもしれないが,ここでなされた妥当理論的な

( g e lt u n g s t h e o r e t i s c h )

反論は,

この問題をそのように現代化することによっては掃されえないだろう 一―—契約 締結それ自体は,単に,全ての面で理性的なものとして認識されたものに法的な拘 束という状態を付与し,国家市民的義務の履行可能性を(必要であるならば強制を 通じても)保障するという意味を有することができるにすぎない。このことは,確 かに,僅かなものにすぎないわけではないのであるが,それにもかかわらず,ル ソーの国家哲学内部での本来的な革新,つまり,個人主義的な利益の最大化から国 家市民への 「全実体変化

( T r a n s s u b s t a n t i a t i o n ) 」 ( F e t s c h e r[FN  5 3 ] ,   S .   1 0 7 )

とい

うかの行為は,本文で示したように,この方法で解釈された契約締結に先行するの である。一一本質的に本論文と同様であるのは,

B r u p p a c h e r ,S e l b s t v e r l u s t   und  S e l b s t v e r w i r k l i c h u n g ,   1 9 7 2 ,   S .   1 4 0  ;  Fulda (FN  5 3 ) ,   S .   65 

f. ; 

Herb (FN  1 8 ) ,   S .   1 5 7

.; 

Liepmann (FN  5 9 ) ,   S .  1 2 0 ;   Vaughan (FN  3 7 ) ,   S .  4 3 £.  H  Barth (FN  4 6 ) ,   S .  29 

(同様に

F e t s c h e r [FN  5 3 ] ,   S .   1 1 3 ;   V o s s l e r ̲ [ F ド ̲ 1 8 ] ,   S .   229 

f., 

240 

ff.) も,

v o l o n t e  gen

a l e

の内容は,政治的身体への結合に先行し,それに秩序の程度とし て資する理性的・道徳的な現実性であると主張する。一一これにカール・シュミッ

トの批判は親和的である。すなわち,

v o l o n t eg e n e r a l e

はあるかないかである。そ れが存在するところでは,契約は意味を持たず,それが存在しないところでは,契 約 は 役 に 立 た な い

( C a r lS c h m i t t ,   Die  g e i s t e s g e s c h i c h t l i c h e   Lage d e s   h e u t i g e n   P a r l a m e n t a r i s m u s ,   4 .   A u f l .   1 9 6 9 ,   S .   2 0 ) 。 ― Baczko(FN  2 6 ) ,   S .   6 7 ,   Bobbio (FN  4 0 ) ,   S .  1 0 0 ,   K e r s t i n g  (FN  1 7 ) ,   S .   1 6 7 £ £ . ,   Methais (FN  4 0 ) ,   S .  1 2 9 £ .  

Mu.User(FN 

33), 

S .   46が同様に到達した帰結は,社会の個人主義的な解釈に対する社会契約の

古典的な形は,ルソーによって,新たな内容の再現

( W i e d e r g a b e )

に関するメタ

ファーとして現れたというものである。

‑ 274  ‑ (1966) 

(16)

「ジャン・ジャック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

り,「生成すべきものが前提とされている一一普遍性のゆえに個々人は互いに合ーす る」61) と。ルソー自身は,途方に解決できないような問題を確認した。すなわち,「形 成されたばかりの人民が,政治の健全な格率を是認することができ,国家理性の基本 規則を守りうるためには,結果を原因に変える必要がある。すなわち,制度の所産で あるべき社会精神が,制度そのものをつかさどらなければならず,人間は法の制定前 において,法の力によってなるべき姿になっていなければならない。」62)社会契約論の 古い入れ物は,ルソーの新しいワインを入れるにはふさわしくないと証明されたのであ

る。

2 .  

有機的全体論と構成主義を結びつけるというルソーの試みは,重大な内容的異議に もさらされる。その中心は,政治的に自由な市民共同体というルソーの理想と,その時 代の社会的な現実との関係という問題を形成する。成熟したヘーゲルが,弁証法的思想 という原則や,彼の時代の政治的経済に依拠して(特にスチュワートとアダム・スミ ス),国家における市民社会の「止揚」を一ーそして,つまり,その地方の固有法の維 持 も 一 ー 必 要 な も の と 看 倣 し ていた一方で63),ルソーは,社会的な安寧

( H e i l )

を,

― と り わ け ,所有個人主義や贅沢な暮らしのように一―‑「社会的な均衡を破壊するい かなる要素」64)も原則的に廃止することにおいて発見したのである。これに対する理由 は,自己決定的存在のルソーの還元主義的な理解に存在するのである。

ルソーによれば,自由である者は,その生活において一貫して自分自身のもとにある

6 1 )   H e g e l ,   J e n a e r   S y s t e m e n t w i i r f e   I I I   ( N a t u r p h i l o s o p h i e   und  P h i l o s o p h i e   d e s   G e i s t e s ) ,   1 9 8 7 ,   S .   2 3 4  Anm. 6 .  

[加藤尚武監訳,座小田豊/栗原隆/滝口清栄/

山 崎 純 訳 『 イ ェーナ体系構想』(法政大学出版局,

1 9 9 9 ) 2 0 9

頁]

6 2 )   R o u s s e a u ,  G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g ,  I I ,   7  (FN 5 7 ) ,   S .   4 6 .  

[井上訳『社会契約論』(前 掲註1)

5 7

頁]―また,その国家哲学的主要著書についてのタイトルの確定の際 におけるルソーの長い躊躇も特徴的である。つまり,良心の呵責を残してのみ,彼 がそれを幾度も拒絶したあとで,ルソーはその著作に現在のタイトルである「社会 契約論」を与えるという決断をした。一一あるタイトルを,ボーンは正当にも「悪 い 判 断 に 基 づ い た 珍 奇 な も の

( i l l ‑ j u d g e d and  p i c t u r e s q u e )

」 と 特 徴 づ け た

(Vaughan [FN 3 7 ] ,   S .   2 3 ) 。

6 3 )  

ここに存在する「美しい人倫」というヘーゲルの全体論的な若き日の理想からの 離反については,

D u s o ,F r e i h e i t ,   p o l i t i s c h e s   Handeln  und R e p r a s e n t a t i o n   beim  j u n g e n  H e g e l ,  i n :   Fulda/Horstmann (FN 1 4 ) ,  S .  2 4 2 ,  2 7 4 f f . ;   Fulda (FN 5 3 ) ,  S .  6 9 f f .   6 4 )   Baczko (FN  2 6 ) ,   S .   6 1 .  

‑ 2

(17)

こと

( B e i ‑ s i c h ‑ s e l b s t ‑ S e i n )

を実現することに成功した者だけである65)。このことは,

二つの「必然的に対立する」存在形態や教育形態,すなわち,「公的で一般的な形態と 私的で家庭的な形態」66)において可能であるとされる。混合形式は害をもたらすもので ある。つまり,「市民的秩序の内部において,その自然的な本来性を守ろうとする者は,

何を望んでいいのかわからない。矛盾した気持ちを抱いて,自分の好みと義務の間で揺 れ動き,人間にも市民にもなれない。自分にとっても他の者にとっても役に立つ人間に なれない。」67)それゆえに,格率が存在しなければならない。すなわち,「その人間と自 ら自身を一致させ,汝らはその人間をその者ができるだけ幸せになるようにしなさい。 その者を完全に国家に引き渡し,もしくはその者を自己自身である全体に委ねよ。」68)

この方法で,次のような表見的な矛盾が示された。つまり,その文学的・自伝的な文献

む ね の り

において極端な主観主義_ヘーゲルが「精神現象学」において,「心胸の法則と自負 の錯乱

( D a sG e s e t z  d e s  Herzens und d e r  Wahnsinn d e s  E i g e n d i . i n k e l s )

」〔タイトルは,

金子武蔵訳『ヘーゲル全集

4

精神の現象学上巻』(岩波書店,

1 9 7 1 ) 3 6 9

頁による。

ー一訳者記す〕という表題のもとで批判した態度ー一へとルソーが熱中したこと,すな わち,この同じルソーがその政治哲学においては,ポリス的人倫の統合をもたらす意義 についてのヘーゲルの詳論をなぉ凌駕しており,「全てのことがうまくいく一つの体系 へと位置づけられたと感じること」69)にある幸福感のみを認めたという矛盾である。そ れに対して,社会的な基盤が利益の衝突を通じて決定される政治的共同体は,ルソーに

よれば,自由な自己決定をすることができない。物的ではない関係を通じて媒介される 共同体というルソーの理想と一ーマルクスと結びつけられる表象であるが70)̲ '

6 5 )  

基本的なものとしては,

Spaemann, Rousseau .  B u r g e r  ohne V a t e r l a n d ,  1 9 8 0 ,  S .   2 3 f .  

さらに,

B r a n d t(FN 5 3 ) ,   S .   1 9 ;   P e t e r s e n  (FN 1 1 ) ,   S .   4 8 f . ;   V o s s l e r  (FN 1 8 ) ,   S .  2 2 3 .   6 6 )   R o u s s e a u ,  Emil (FN 1 ) ,   S .  1 3 .  

[今野訳 『エ ミ ー ル 上』(前掲註

3 5 ) 2 9

頁]

6 7 )   R o u s s e a u ,  Emil (FN 1 ) ,   S .  1 3 .  

[今野訳 『エ ミ ー ル 上』(前掲註

3 5 ) 2 8

頁]

6 8 )   R o u s s e a u ,  Sur l e   bonheur p u b l i q u e  ( f r a g m e n t ,  1 7 6 2 ) ,  i n :  Vaughan (FN 3 7 ) ,  B d .   1 ,   S .   3 2 6 . 

6 9 )  

そのように,ルソーのサヴォアの代理司祭

( E m i l[FN 1 ] ,   S .  3 0 8 )

が,彼によっ て主張された理性宗教の作用に関して述べている。同様のことが,市民としての不 屈の存在に関してもルソーの表象に基づいて言えるのであり,次のような言葉に よって示されている。「社会的統一を破るものは,すべてなんの価値もない。人間 を自分自身と矛盾させるような制度は,すべてなんの価値もない」

( R o u s s e a u , G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g ,   I V ,  8 ,   S .   1 4 6  

[井上訳 『社会契約論』 (前掲註

1) 1 7 9

頁])。

7 0 )   Spaemann (FN 6 5 ) ,   S .  5 2 .  

2 7 6   ‑ ( 1 9 6 8 )  

(18)

「ジャン・ジャック・ルソーの政治哲学に対するヘーゲルの批判」

の理想と,ルソーの見解によれば堕落した市民的競争社会の自然性は,それ自体両立し ない。すなわち,「全ての者がその計算

(Rechnung)

を他者の不幸に見出すような関係 から,何を考えるべきなのか?」71)ルソーは明らかに答えていない。つまり,「所有と いう悪魔が,彼が触れるもの全てに毒を与えるのである」72)。人間に生まれつき必要で あるものを超え,分業を用いてのみ充足されうる欲求の発展によって,人間にある平等 や自由が失われるのであり73),「広大な森は美しい平野となり,それを人々の汗で灌漑 しなければならなかったし, さらにそこでは,やがて収穫とともに奴隷制度と貧困とが 芽生え,その成長してゆくのが見られるようになった」74)のである。つまり,分業的に 組織化された「欲求の体系」は,ルソーによれば,決して自由の必要的な要因ではな<, むしろそれは,「共通の利益のためからすれば,決して起こるべきではなかった」75)発 展に基づくのである。「他者を通じて行なわさせる全てのことは,それを自分が行った のと同じようにしかできないのである。」76)

ヘーゲルは,このルソーの評価に,その

1 8 1 7

年から

1 8 1 8

年の法哲学講義において触れ ている。そこでは,彼はこのジュネーブの哲学者を,この者が「単純さ

( E i n f a c h h e i t )

」 を探求し,デイオゲネス

( D i o g e n e s )

の「欲求や享受の複雑化

(Ve r v i e l f  a l t i g u n g )

」を 激しく非難したことを理由としてキニク派の者と同列に置き,次のようなことを確認し た。「だが,キニク学派の国民などというものは,クエーカー派の人々からなる国民と 同じくらいありえない。」77) したがって,ルソーの表象に基づくと,ヘーゲルによれば,

セクトのみが組織化され,近代的な社会は組織化されない78)。確かに,市民社会の領 域にとどまらないことは必要であるが, しかし,「この領域へ移行することに耐え忍ぶ ことも必要である」79)。ヘーゲルによれば,現実はルソーの理論的な構成よりも豊かな

7 1 )   R o u s s e a u ,  D i s k u r s  i i b e r   d i e  U g l e i c h h e i t ,   S .   3 0 3 .   7 2 )   R o u s s e a u  (FN 1 ) ,   S .   3 8 3 .  

7 3 )   R o u s s e a u  (FN 7 1 ) ,   S .   1 9 5 ;   d e r s . ,   Emil ( F N l ) ,   S .  6 1   f .  

7 4 )   R o u s s e a u  (FN 7 1 ) ,  S .   1 9 5 ,  1 9 7 . 

[本田喜代治/平岡昇訳 『人間不平等起源論』(岩 波書店,

1 9 7 9 ) 1 6 0

頁]

7 5 )  

同書

S .1 9 5 . 

[本田ほか訳『人間不平等起源論』(前掲註

7 4 ) 1 6 0

頁]

7 6 )   R o u s s e a u ,  Emil (FN 1 ) ,   S .   3 7 5 .  

7 7 )   Hegel (FN 3 3 ) ,   §90 A ( I ) .   S .   1 1 0 . 

7 8 )  

適切なものとして,

L o s u a r d o ,Zwischen Rousseau und Constant: Hegel und d i e   F r e i h e i t  d e r  Modernen, l n :   Fulda/Horstmann (FN 1 4 ) ,   S .   3 0 2 ,   3 0 6 .  

7 9 )   Hegel (FN 3 3 ) ,   §90 A ( I ) .   S .   1 1 0 .  

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