稲1
垣足穂『天体嗜好症』、河出文庫、一九八八年所収。
Gaston Bachelard, L’air et les songes: Essai sur l’imagination du mouvement, Paris: Corti, 1943. 2
一 バュ法、年八六九、一局版出学大政)、ラシ治英見佐宇』(夢と空『ルー訳
- 二加や文章に変更をえ訳た場合がある。頁語、献。以下、邦訳は文の引用にあたって
─ 鉱物をめぐる科学文化論(一) 石の夢、土の夢
研究論文奥
村 大 介
Abstract:This paper reviews cultural history of minerals. The materialsstimulate our imagination. Gaston Bachelard, a French philosoper,called it the material imagination. We reveal how it works onimages of minerals.
目次(本号)1 イマージュと物質2 石の想像力Ⅰ
─
持続と変化3 石の想像力Ⅱ─
生命と死(次号)4 大地の夢想と思想 1 イマージュと物質鉱物に較べると、大方の生物はまるで泡 あぶくだ、と私は思ったのです。稲垣足穂「水晶物語」
1
想像力のはたらき
人は何もないところから夢想することができるだろうか。想像力とはイマージュを生み出す能力であろうか。「多くの心理学的問題と同様に、想像力の探究は語源学の誤った知識によって、混乱させられている。いまでも人々は、想像力とはイマージュを形成する能力だとしている。ところが、想像力とはむしろ知覚によって提供されたイマー 0000000000000000000000
ジュを歪曲する能力 000000000であり、それはとりわけ、基本的イマージュからわれわれを解放し、イマージュを変える能力なのだ。イマージュの変化、イマージュの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。もしも眼前の 000或るイマージュがそこにないイマージュを考えさせなければ、もしもきっかけとなる或るイマージュが逃れてゆく夥しいイマージュを、イマージュの爆発を決定しなければ、想像力は存在しない
ーるとュジ。」マイす知形変が力像想は、2 6物質の理論=観照のために 5結晶
Gaston Bachelard, L’eau et les rêves: Essai sur l’imagination de la matière, Paris, Corti, 1942. 3
。政と夢』(及川馥訳)、法大『学出版局、二〇〇八年水 バ、・ュラール『水と夢』(小浜俊郎桜一木泰行訳)、国文社。年九シ九六
金4
森修『バシュラール』、講談社、〈現代思想の冒険者たち〉、一九九六年、一六五頁。
年文。真訳)、中公庫、一九八一 V Jules, p.41.III Cf. X Paul Michelet, L’amour, Paris, 1858. Œuvres complètes de Michelet, éditées par Viallaneix, Paris: tome Flammarion, 1985,井森』(愛『レュミシ5 matièrela )と呼ばれる del’imagination問題そこで扱われるのは〈系し物質の想像力〉(た。 を想像力のなかではたらく物質の原型として選び、浩瀚な詩論群をも le J.-C.la terre, l’eau,av. feu l’air et 元)以の四大素、地水火風()来 édocle, v.490-vE.430 mpした。彼はンエペドクレス(注にきつび結の目 poésiela matièrela ))と詩(学者というこの特異な思想家は、物質( Gaston Bachelard, 1884-1962)、哲詩バシラール(ュ論にして科学家 に空作『著のそかここら、だとる。のを夢たン・ト』ガスし用引節一 であ実体的こそ、想像力の活動を可能にする。生き生きとした夢想は 000 物体を前に覚像のことである。何らかの知覚を働かせて夢想すること 00000
─
。夢想は物質から湧出する3。4
物質と詩。この二つの言葉の結びつきに、われわれはときに違和感を覚える。詩は物質ではなく精神に属するものではあるまいか、と。人間の精神的産物の価値に物質を対置し、物質の価値を貶めることは文明批判の定石である。十九世紀の文献に、すでにその種の批判を認めることができる。たとえば歴史家ミシュレ(Jules Michelet, 1798-1874)の嘆きをきいてみよう。「何人も異議をとなえる余地のない一つの事実がある。それは、世の中が物質的にも知的にも大いに進歩したにもかかわらず、精神的感覚は低下した、ということである。あらゆるものが前進し発展しているのに、ただ一つ、人間の心だけは退嬰しているのである
代の始まりとともに、このロマン的な詩人歴史家と同種の憤慨を抱い 石ば
─
時るなにとこるれ呼。」と代近にちのは、くらそお原型的固体5 大きな示唆を与えてくれる。 味の系の吟にって、バシュラールと提論した〈物質の想像起力〉は、 と物質の交錯点をこそ、思惟の対象にしなければならない。この問題 学的営為として、実質的に無効であるということだ。われわれは精神 値を認め他方を退けるような議論は、人間や文明のあり方を考える哲 しまうという事実であり、そうである限り、両者のうち一方のみの価 は、人間が精神と物質という認識論的=存在論的枠組みを分節化して そんなことはどうでもよい。問題なの─
ものか精神に属するものか 物体が描いた知覚像が、物質に属するあろう。目の前の精神を知覚し 0000 物質の二元論を批判するなどという大仰なことをしなくとも明らかで 貶下しようとする議論がとんど無意味であることは、なにも精神対ほ と物質という区別を仮にとる場合、前者の価値のみを称揚し、後者を ミシュレの文明批判の意味はのちにあらためて考察するとして、精神 1868 。史─
な歴ば)のよう物質感あふれる書の書き手の言葉であれ LaLa mer, 1861ne, montag そうではあいくるまら。『海』()や『山』(そ 物質が悪で、精神にのみ価値があるという主張なのだろうか。否、お の文明批判論者の言葉だといっても違和感がない。だが、これは単に た者は現れていただろう。ミシュレの語り口は、そのまま二十一世紀すでに述べたように、バシュラールは古代哲学の四大元素をめぐっ
エ6
ンペドクレスの四大元素とは何か。現代の物質観からみれば
─
むろん現代の認識論的枠組みを過去の学説に遡及的に外挿することは典型的なアナクロニスム(時代錯誤)であって歴史学の作業としては誤りであるが、あえて言うなら─
地は固体に、水は液体に、風は気体に、それぞれ対応するだろう。では、火は何か。気体の一種とも言えるだろうが、或る科学者にこの話をすると、彼は「プラズマだ」と言った。なるほど、たしかに物質相という意味では、炎のなかは電離状態となっておりプラズマと呼んでもさしつかえないだろう。こ7
こで、哲学者ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)が物体の本質を規定する際、〈拡がり〉に加えて固体性(solidity)ないしは不可入性(impenetrability)を挙げていることを想起してもよいだろう。Cf. John Locke, An Essay concerning Human Understanding, London, 1690, Book 2, Chap. 4.
。第年四七九一、庫文波岩、巻二)、訳 ロッ彦春槻大』(論性知間人『ク
ア8
リストテレス『自然学』、第四巻第一一章、219b10以下。アリストテレス全集、第三巻(出隆・岩崎允胤訳)、岩波書店、一九六八年。
同9
書、第二巻第六章、198b30以下。
同10
書、第八巻第三章、253b30以下。
同11
書、第八巻第五章、256a5以下。 て詩論を展開した。われわれの研究は、彼の仕事の延長線上にある。地水火風
─
いずれの元素も豊かな想像力を導くが、ここでは地(laterre )の想像力を敷衍してみたい。想像力の実体性・物質性をめぐる議論の深化には固体元素がふさわしい物質らうがほない空気より、手のなかにすくい取ることができる水の 000 直感にさしあたり従うことにしよう。目に見えず触知することもでき ついで液体、そしてもっとも物質性が希薄なものが気体であるという われわれが拡がりのある物質として認識できるのは、まずもって固体、 はかで、物質の第一属性がたしかに〈拡のり〉であり、な力像想だ、 べたことの形而上学的妥当性はここではさしあたり問題にしない。た 1596-1650l’étendue 拡)が物質を定義して「りがをもつもの」()と述 Descartes,Renéカデ。ルト(6
しい 00、そして、不定形で容器がなければ形を維持できず、手にすくっても指の隙間から流れ落ちてしまう水より、容器がなくとも自立し、手のなかに留め置くことができる石のほうが、より物質らしい 0000000
。7
はからずも、いま、固体物質の具体例として石を択んだ。われわれの直感において、固体とは第一に石ではあるまいか 000000000000000。木もガラスもプラスチックもたしかに日常的な固体物質である。だが、木は木材と なってもなお有機的属性を強く残しており、生命をもつ植物という印象が前景に出る。プラスチックやガラスは人為的に固体にしたものであり、原初的な想像力が要求する所与としての固体という印象を手放しで抱くことはできない。普遍的な固体とは、石のほかにありえないのである。だから、たとえばアリストテレス(Aristote, 384-322 av.J.-C.)が『自然学』のなかで物体の運動を論じるとき、必ずと言っていいほど石が例に挙げられるのは、決して偶然ではない。物体の運動と時間の関係を論じるとき、「拡がりのない点」に加え、拡がりをもつ物体に言及する際、彼は「あるいは石であり 00000000、あるいはその他のようななにものか
うて、とば石が落ちえ人打ったとしよを な石にほかならわい。すなち、「た体は物て、るいてれらげ挙に例し まる。い」てべ述と物た、の体の落下現象検討に際8
てもいつにかるいてっまどとに上地とそか、るいてれ 。」は「あるい下石が落し9
る手手によって動かされ、このは人間によって動かされ をし、か動石れい考実験で例示さはてるの梃子の例でも「〔…〕棒思 10学力々。云」 わないはずだが)石を挙げている。 力の作用を受ける物体の例に(論理的にはいかなる個体物質でもかま 11」として、
Roger Caillois, Pierres, Paris: Gallimard, 1966. Gallimard, coll. « Poésie », 1970, pp.7-9.12
Livre XXXVII, LIV, Loeb 146, Littré p.561.13
レ(版の一四六節、リトブ版第二巻)の五六頁である。 Loeb Classical Library, vols., 10Natural 1938-1962 History,三、の巻二第版レトリ数数節の)巻・五四節、頁の第のの典原、七所箇用引上順、ばえとた。す示ではロー Eichholz Pliny- D.E. & Jones W.H.S. Rackham,H. (tr.),所出典箇原は、書文の。本、下以巻たしと巻二第のマ数ロ(版ブー)、字数マー((数章の文原)、字数ーロロ 底 édition 1848-1850 Dubochet, Paris: vols., 2 Littré, d’Émile naturelle, Histoire l’ancien,Plineリト本は)レによる仏訳版( カイヨワ『石たち』 鉱脈の夜に抱かれて眠る石たちのこと… 2石の想像力Ⅰ
─
持続と変化 学などさまざまな領域に属するものが含まれる。 究のなかに見出されるテクストは、今日の分類では、科学・哲学・文 いは広く鉱物に関する精神史を渉猟する作業であろう。われわれの探 したがって、固体の想像力をめぐる議論に不可欠なのは、石、ある生命よりも古い石たち
碑や墓標、建築物の材料として石が使われるのは、いうまでもなくその物理的な耐久性のためである。だから、石は永遠という観念と容易に結びつく物質であり、石の象徴的属性の第一は、持続性 000・不変性 000
であるといってよいだろう。その広範な知的関心の拡がりのなかでも、とりわけ石についての思索と夢想に多くの著作をささげているフランスの思想家ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois, 1913-1978 )が石たちを言祝ぐ言葉をまずは聴くことにしよう
れるが名声や畏敬を受けることもなく、ただ自らがそこにあることを 12風。「晒に雨さは石や石標碑 cienine l’an79, 22/23- ap. J.Pl-C ス(ウニリプ のなかで注目されてきた。古代ローマの将軍にして博物学者であった 焔に決して焦がされることのない鉱物である石綿は、古くから鉱物譜 にのもに食浸風水え、耐雪す抗抵る対い。石もてし強にたまは、焔 命をもたない、それゆえに死をもこえる石たち。 すちたまに何るほかもこしのいとよ石生く、古もり命で生」る。あな えなく、ただ自らの上を砂、驟雨あるいは波濤、嵐、時が過ぎ去るま 栄の運命を手にした。私が語るのは、石たちのこと。死を待つことさ ちも、そのままの姿で冷たい地表にとどまり、他方、生命はそこで繁 のは生命よりも古い石たちのことである。石たちは生命の出現したの 「私が語る」石の存在は地球の歴史のなかで、生命に先立つ。どめる。 差し向けることはなかったのだ。石たちは自らの記憶だけを永遠にと 細工して、なにか野卑な用途、あるいは奢侈のためや歴史的な用途に 自らの技巧の刻印を石たちにしるすことはなかった。彼らは石たちを 「石たちは人間より古くから存在している。人類は地上に現れたとき、 保さるいてれに証てし対で来だけな開る。いく、れかても去過のそに でこ」る。あすみのる明は、表性続石に加工が施されて以降の未の持
るあと」るいてしを 37 77 vols.,Historia,)には「石綿はアルカディアの山に産し、鉄の色 lis raatuN. )の』(誌物博『著主
いしランプの芯とてで使われたらしは リシャ語で「不滅の」とか「消せない」という意味であり、ギリシャ l’asbeste13る石綿を意味す。ギスベスト()はア
14。ちなみにヨーロッパでは、
) 1863-73. Paris,vols., plus se consumaient pas, et passait, une fois enflammée, pour ne être pouvoir qui éteinte. (Émile Littré, Dictionnaire de la langue française, 4 ne lampe demèches «ASBEST» (...) Terme composé de alpha privatif, et du mot grec signifiant Substance consumé. ainsi nommée, parce qu’elle servait, chez les anciens, à faire des14
な15
お、現代フランス語で、サラマンドルはサンショウウオの謂である。
断16
章二〇。底本はF. De Mély, Les lapidaires de l’antiquité et du moyen age, tome III, Paris: Ernst Leroux, 1902
。号のもるよに者訳仏のこは章番 http://remacle.org/bloodwolf/erudits/theophraste/pierres.htm Marc Szwajcer par numériséeOeuvreテ断、りあで)(版トスキの子は。電照したの参、この仏訳集 Théophraste, « Le des livre pierres », に所訳仏の載
鉱17
物質の物質を狂熱し、灰状の物質を得る技術。たとえば、石灰石を煆焼すると生石灰になる。
仏18
訳断章一〇。 石綿は火蜥蜴(la salamandre)の体毛からできると長らく信じられてきた。火蜥蜴とは、焔のなかで生きると考えられてきた想像的な生物である。だから、焔に焼かれない石綿のことを、古いフランス語では、サラマンドル(la salamandreあるいはla salamandre pierreuse)という
15は、す境越を界物鉱。界物動とルでドのなか焔蠢サラマンく 00000000000
る 0。
燃える石、生殖する石
焔に焼かれない石がある一方で、燃える石があることも、古代の鉱物誌が伝えるところである。プリニウスから時代をさかのぼること四世紀ほど、『人さまざま』(Caractères)という邦題で知られる書物の書き手テオフラストス(Théophraste, v.372-v.288 av. J.-C. )には、『石さまざま』(Les livres des pierres )とでも訳するべき鉱物誌がある。はやくも古代ギリシャの哲学者にとって、石は奇想的な博物誌の対象であった。ここでは、石綿とは逆に「脆い石のなかには〔…〕火中に投ずると熾火のようになり、長い時間燃え続けるものもある」という記述がある
難のの確な同定は困であり、そ必正要もないだろう。とにかく、か、 16なか、これが質炭のことなの石あいはなに。か別の物る は煆にちのかれこる。わ焼 かしょう 石をめぐる想像力のなかで、火との関係が古来注目されてきたことが
la calcinations17(
にもつながっていく。 石灰化)といった技術 ところで、テオフラストスは、さらに奇妙な石のことも記述している。「〔或る種の石の〕もっとも偉大でもっとも驚嘆に値する特性は
─
それが真実だとすれば─
出産するということである存在の大連心ゆえに記述されたとばかりはいえない。その背景には、 00000 誌の伝える〈生殖する石〉といった存在は、単に珍奇なものへの好奇 存在を理論的に要請してきた。テオフラストスのような奇想的な博物 もと西欧の自然思想は、伝統的に、このような分類を越境する蝙蝠的 界(動物界・植物界・鉱物界)の弁別はいとも簡単に破られる。もと うに、石も木のように燃焼し、動物と同じように生殖する。自然の三 が動物界から鉱物界へとその体毛を伸ばすよ蜥蜴火らわれていない。 サラマンドル ここには生物と無生物、有機体と無機物といった区別があする石! 18。」殖生 鎖 0の完全な充填という欲望が隠れている。
存在の大連鎖とは何か。これは西洋自然思想史の根幹にかかわる重要な概念であるが、その要諦のみを説明すれば、おおむね次のような考え方である。この世界のすべての存在物には価値的な序列があり、
イ19
デア説については次回連載で詳述する。ここでは「善のイデア」とは「善そのもの」とか「あらゆる善の根源」、あるいはかなり大雑把な理解ではあるが「神」ほどの意味にとらえておこう。
1936. the Press, University Harvard [Mass.]: Cambridge Idea, an of History of Arthur Study A Being: of Chain Great The Lovejoy, O.20
。九)、晶文社、一七二五年、六一頁訳健内』(鎖連藤 ラ存ジョイ『ヴ在のいなる大
ア21
リストテレス『動物誌』、第八巻、第一章、588B。『動物誌』(島崎三郎訳)、上下巻、一九九八
- 一九九九年、岩波文庫。
1968. the Scribner, C. York: New Ideas, of History of Lia Dictionary, in Being” of“Chain art. Formigari,22
。社大事典』、第三巻、平凡、思一九九〇年、二三八頁想 リア「・フォルミガリ、項目存西在の連鎖」(高山宏訳)、『洋 Lynn White, Jr., Machina ex Deo, Mass.: MIT Press, 1968.23
リ一)、ンすず書房、九三七二年、八八頁。訳み靖ュ・ホワイト木ジ・ニ神ア』(青と械機『 それは善のイデア
るいてし立確にです -v. v.427Platon,347 J.-C. av. )においてあり、歴史的にはプラトン( さい』程度の相違によってへだてられているような〔…〕宇宙観」で いて、その鎖の各々が直ぐ上のものと直ぐ下のものと『可能な限り小
─
ところの最高度に可能な被造物にまで至る鉄の鎖から成り立って い方によれば、それと絶対者との間の相違は無限だと考えられている ens perfectissimum な極めたも)─
すの(わ言もっと正ち、統的な すれすれの極めて乏しい存在物から『あらゆる段階』を通って完全を とんど非存在ほ無限の数、階層的秩序に配列され、下は─
によれば とんど厳密に適用されることのない論理ほ性の原理の厳格ではあるが 連続─
ることになった宇宙の構造の概念、すなわち、巨大なまたは の科学者、そして実にほとんどの教育のある人々が疑わずに受け入れ とんどほ鎖は「中世を通じ十八世紀後半に至るまで、多くの哲学者、 Being イーサー・ラヴジョよに家れば、存在の大連ア念史観ぶ。呼と) The Great Chain of概している。このうなよ念大を「鎖連」(の在存 のであり、あらゆる存在物は一本の鎖のように序列をな─
が乏しい 価いどほのもの近にアデイが値ら高値イデアかく、離れるほどに価 19善じの距離の遠近に応てり決定される─
とまつ位に鉱物が位置し、中位には植物・動物、上位には人間が(そして頂 20在下の。位的値価の階存つ立に観宙宇のこと、 るなど)があしことを指摘てい類る 生生物の間にいずれとも決し難い中間形態(今日でいうところの両生 だから、アリストテレスは動物分類において、たとえば陸生生物と水 plenum plenitudeof formarumとか)と呼ばれる。()「諸形相の充溢」 principle 「充満の原理」(らないということである。こうした考え方は いうなれば、赤と黄のあいだにはさまざまな諧調の橙が存在せねばな べすはての段の鎖連の階在物さによって存い。填れなければならな充 存在の各段階の間に飛躍があってはならないということである。存在 神的存在が)位置するとされる。ここで重要なのは、・点にはイデア的
るす味意をとこ 界にも、そして生物と無生物の境界にも、無数の中間形態が存在する ず、動物と植物の境界にも、植物と鉱物の境界にも、鉱物と動物の境 ぎら21。にしうど種物動はれこか れさ照参で脈文の判 然観は、啓蒙主義の時代になると、古代の異教的思想がキリスト教批 態に対する哲学的要請であったとも考えられよう。こうした古代的自 ケイオンの後継者ともなった哲学者である以上、鉱物と動物の中間形 いるのは、アリストテレスのリュ彼がプラトンのアカデメイアに学び、 22スを生殖する石なるものテトオフラてし告報。スが
十九世紀の生命論を参照することで、その様子を目撃するこ・に十八 長は生命現象であるといった主張があらわれてくる。本稿でも、のち 23び、結ふたた成の体晶か、石と、いてき生はる
Plotin, Ennéade, VI 7 (traité 38), ch. 11, 23-32.24
VIスプロィノテ『エネアデス Les 1861. Hachette, Paris: 3, t. Plotin, de Ennéades 以 (trad.),M.-N. Bouillet訳の仏訳ならびに邦下を照して訳出した。参 三一二四、年七八九 -7 〔デ央ィノス全集、第四巻、中公ロ論社、イてしにかい〕 八テプアびの群が成立したか。およ善)、者について』(水三宗明訳地 - 四は足補るよに者訳邦内二)、(中文訳。頁四。
Ennéade, IV 4 (traité 28), 22, 14-18.25
IV プロティノス『エネアデス
、(八七年、一六七頁。訳文中。一)内は邦訳者による補足九 -4 〔スい之田』(篇二第てつ安に題問諸の魂〕 八頭彦全公集、第三二、中央論訳社、ノィテロプ)、巻
Ennéade, IV 4 (traité 28), 27, 8-10.26
前、頁〇八一、巻三第集掲全スノィテロプ、。 い部分(枝など)に相応するのである 接している場合には、それは生きている植物からまだ切断されていな のようなものである。また石がそういう目に会わずに、まだ大地に連 樹木から切断された一部(枝など)大地から切り離された石は、当し、 同様である。そして、いわゆる大地(土)は、樹木でいえば根幹に相 それはちょうど樹木の内にいわゆる自然(植物的魂)が存在するのと この原理は土の形相、しかも制作する形相である。いだろう。そして、 部で工作し、形を付与する生きた原理の仕業であると信じねばならな の増大と形成や、山の成長と内からの造形は、まず間違いなく土の内 岩石(鉱物)れわれは土の本性を見出すことができるだろう。つまり、 しわれわれが把握するならば、植物の場合と同様にこの場合にも、わ するもの(岩石など)が土の内で生み出され、造形される様子を、も 一体ここの土の場合もそうなのだろうか。土にもっとも類
─
のだが 「この世界の植物の原理も生きているとされた─
〔…〕植物の場合 のような記述が認められる。 v.-270205Plotin,)の著作には、次リシャに展開したプロティノス( ている哲学者、たとえば、プラトンのイデア論的思考を古代末期のギ テオフラストスよりもいっそう顕著にプラトニスム的思想を表明し 地下の胎動 とになるだろう。24。」 味では神でもある』とぜな言えないことがあろう意か の地占めている部であれば、『大は分知性さえも有しており、そのを か。そして大地が一定の大きさのある生きもので、宇宙の少なからぬ とすると、なぜ『大地は生きものでもある』と言えないことがあろう 大にみられるよう多くの動物も、に、地かる。あでのるくてし生発ら 大地が成長を司る魂を持っていることを知りうるであろう。だが、現 推て、しからりるのである。人は大地よ「成物長してくる)もの(植 いう無機的自然物にも魂が備わっているという判断が前景化されてい 植物のあいだの中間形態や連続性の指摘という以上に、鉱物や大地と 接らに遡り、アニミスム的思へと考近る。す動と物鉱物・えにかるみ 長想を用作通成の共にてすべ定存る観在大さを点念の」鎖連「で、の れない。むしろ、動植物と鉱物の本質的差異を認めず、自然の三界す れており、自然の三界を絶対的に区別するような観念はまったくみら ここでは、鉱物と植物の成長の原理が同一の形相付与作用に求めら
にとどまっている けれども、大地から切り離されてしまうと、切断されたままの大きさ 結びついて(そのなかに埋蔵されて)いる限りは、大きくなっていく とでは、これを同じものと考えてはならないのであって、石は大地に から切り離されたときと、大地に結びついたままとどまっているとき のら成る(大地体)身土は、大地か「作れさとるあで用る。の魂は長 石岩。」の成25 26〔…〕。」
大地のなかで石が成長するという観念は、ヨーロッパでは近代まで
Gabriel Gohau, Une histoire de la géologie, Paris: La Decouverte, 1987.27
ガ九みすず書房、一九訳七年、一四七頁)、暁ブ『リエル・ゴオー地谷質学の歴史』(菅。 p.383. et 1795, Hérissant, Jean-Thomas Paris: I, tome métallurgie, de minéralogie Johann de naturelle, d’histoire physique, de Traité Lehmann, Gottlob28
pp.383-384. Ibid.,29
p.386. Ibid.,30
inépuisables. ce le temps rétablit dans le sein de la terre Bientôt qui eu a été arraché, conservant ainsi l’aliment des mines。るいて Treuttel et p.61 Würtz, 1819, 1774-1852Villefosse, la Paris: I, tome minérale, richesseDeー)でレよマ次し訳仏にう論のをン句詩のこ、き引を』(資源物鉱『書著は) Antoine-MarieBaron こ Héron de技山鉱のスンラフ、おな。るあで明不は典出の句詩術官アン(スォフユィヴ・ド・ロンエ・ーリマ=のーワトヌ
Lehmann, op. cit., p.386.31
ド32
イツでの名はホルバッハ(Paul Heinrich Dietrich von Holbach)である。 受け継がれる。十八世紀頃までの西欧では、たとえば或る鉱山で銅鉱石を採りつくしたとしても、数十年なり数百年なりの時間がたてば、地下で銅が成長し、豊かな銅鉱脈を形成するといった考えが広く信じられていた。ドイツの地質学者レーマン(Johann Gottlob Lehmann,1719-1767 )は『自然学・博物学・鉱物学・冶金学の概論』(Traité dephysique, d’histoire naturelle, de minéralogie et de métallurgie, 3vols, Paris, 1795 )第一巻・第七章を「問題の検証
─
鉱石は大地の深奥で今もあらたに形成・成長しているのか」と題し、地下で石が成長する現象を鉱物質の微粒子の運動として説明している。ザクセン地方各地の鉱山を実際に調査した経験をもつるいてっ知 その形成は地下水に溶け込んでいる微細な土によるものであることを 開き、とたし鉱再を山このくそ大に水し、在存が〕晶晶〔結の量は多 le Hartz た山し鉱とくにハル山地()のツ夫たちは、何世紀も前に閉 を引く。「ここでは石英とその結晶化を例にとりたい。鉱山の労働者、 27レ言証の夫鉱は、ンマー るあでのたし達に度硬の 和状態となり、徐々に析出する。析出した土が徐々に固くなって、石 28地こレーマンによれば、「の下飽は、土るれ。」含に水ま
再生し、ふたたび金属鉱石の採掘ができるようになるという伝説を示 節を引用し、掘りつくされた鉱山の地中では、しばらくすると鉱物が 29ー人マ。」一の句詩のレ詩ンテラる或はン alimenta servans inexhaustiTempus metalli. Inque brevi spatio, quae sunt effossa, reponit, ほ時はどなく回復し、無尽の鉱山の恵みを保つ。 大地の深奥より掘り出されたるものを す。
30
鉱山の地下では新たな金属が生み出されている。もっとも、正確に言うなら「金属は新たに産出されるのではない。なぜなら、われわれが形成されるとみるものは、すべて凝集過程の結果として生じたもの、あるいは、その金属の種 しゅとしてすでに完全であった金属微粒子が互いに結合したものにすぎないからである
で ックはドイツ貴族の出身バものであることを言い添えておこう。ドル ThiryBaron Paul-Henri d’Holbach, 1723-1789 )によって仏訳された( の筆され、フランスバ哲学者ドルでック執語トイドともともはツ の自然論に一種独特な現象である。ちなみに、このレーマンのテクス
─
新たな説明を得る様は、十八世紀─
否定されるのではなく観が る。このように唯物論・粒子論・機械論によって古代の物活論的自然 いう物活論的説明を粒子の運動によって機械論的にとらえなおしてい ティノスのテクストにみられるような大地の魂が鉱物を成長させると 31ロプは、明説のンマーレ。」32る物唯るす表代を紀世八十が、あフで者学哲たし躍活でスンラ論
次33
回連載を参照。
Livre XXXVII, LXVII, Loeb 181, Littré p.566.34
原35
文で Xensi
Trévoux. latin deDictionnaireDictionnaire universel françois etびよお語スランテフ『たし行刊に紀世ラ遍ン『』(典事ーヴレト称語通)、』(典事十普八 とい際れさ記表で字漢なうよのどはに実の、が名地のこたれさズイナマーるか。エここではキルヒャロの属したイズ、ス会がならかわはろことな確正ー
七〇第三号、二巻〇年、六八二 」(大学大橋一係目項関アジ院学『法学研究科紀要東一橋法学』第一アの一あ七一は版六第るで』版の後最、年四〇七年一武典事ーヴレト「『史関)小たじ論を目項の七 初は版 Xensi- 七的。なお、発音が類似し地理もに従隣接している地名に「山西うに二転一頁)がを「陝西省」とと写六こ)頁九九(しるいて せんせいしょうさんせい
省 しょう」があり、あるいはこちらを指すのかもしれない。現代中国語のピンインでは陝西は Shǎnxī、山西は Shānxī
Shanxi Le Shaanxi Le陝な表記も、が西般、山西は的 でスいって両者は酷似してる語。現代フラン一のあで
でこいな上のこといあしわら紛、り。
。重慶應義塾図書館貴書室蔵本。強調原文 p.277. 1670, Kircher, chine, China illustrata, Amsterdam, 1667. Trad. fr.: Kirchère, La Amsterdam: Weyerstraet, Jean Jansson a Waesberge, & les heritiers d’Elizee36
Ibid.37 纂した『百科全書』 的自然観の表明者として知られており、ディドロ&ダランベールの編
細な検討を加える。 代の自然観については、のちにディドロの生物論を通して、さらに詳 た知識は、その唯物論哲学に数多くの材料を提供している。啓蒙の時 する同時代の科学文献を渉猟し、ときに外国語から翻訳するなかで得 筆していることも記憶されるべきであろう。彼がレーマンをはじめと 項執数多を目33でどな学地学、金冶学、化は、の
月をうつす石
さて、いま少し、変化する石という相を追いかけてみよう。先述のプリニウス『博物誌』には、次のような記述もある。「セレナイトは無色透明で、蜂蜜色の光沢をもつ。この石は月の似像を含んでおり、月の満ち欠けに応じて、この像も満ち欠けする。この石はアラブに産する
の質うよ次な記述がる。「支那の地あ学ろ西陝は、で者ことるべ述が せんせい China1680 1667 illustrata,)(『支那図説』が伝えている。彼の)には、 02-1/60, 1renase KirchèhaAt エズス会士、タナウシス・キルヒャー(ア 34。」出これに似た石が支那にもイ産す紀のツイるド世七十をとこ Xensi省() しょう
るち石と同様月の満に、欠に応じて変化すけ Talc滑石セレナイト出するという石は)の一種であり、この支那の( 0000000 の博物学者が述べているように、われわれの地方〔ヨーロッパ〕で産 さくなったりする石があるという。この石は大変に価値がある。多く 35小に山では、月の満ち欠けしりたがのて大きくなったっ
彼らは見ているというのにだけであることを、 状態を保っており、ただこの夜の天体のさまざまな状態を示している 彼らはだまされている。石はそれ自体としては決して変化せず、同じ 注よに射反ぐ降りてらか体天っ光自とらるいてじ信が、るさせ化変を した変化を石は映し出すのだ。素朴な精神をもった人々は、石はこの
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に働く。新月のとき、満月のとき、月が昇るとき、沈むときこう は月の光によって輝き、この天体の変化を忠実にうつしだす鏡のよう sic speculaire.pierreし)石(鏡のこばばしたが観察しところでは、 ャにれこはーし、ヒルキてっ注違う釈次のよとにのべている。「私は 36スウニリプだ、た。」士世会スズエイ的書全科百の紀七十と者学物博の紀世一元 。」このあたりは、紀37
月光のような幽玄な外在力によって変化する石、いわば〈感覚をもつ 的・て、しいたに相ういと石な的存自律自で牢堅く、かもとが、るあ 38のでい違