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大久保真次郎の伝道とその性格「独立」と「合同」

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著者 森田 喜基

雑誌名 新島研究

号 105

ページ 146‑165

発行年 2014‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014147

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大久保真次郎の伝道とその性格

「独立」と「合同」

森 田 喜 基

はじめに

 本論は20世紀初頭北米太平洋沿岸部における日本人キリスト教界で活躍 した大久保真次郎の牧師としての歩み、その特徴について明らかにする中 で、大久保が如何に「倜儻不羈なる」人物であったかについて述べるもの である。

 大久保は東京医学校(東京大学医学部)から 「魂の医者」を志して、東 本願寺で仏典の研究に励み、論駁するために訪れた同志社に入学、洗礼を 受けるものの、一度は同志社を去り、のち に再入学し、伝道者となり藤岡、高崎、ハ ワイ・ヌアヌ、オークランドの教会を独立 させた、徳富蘇峰の義兄である。かの「教 会合同運動」においては新島に同調した一 人であり、組合教会と一致教会の合同に反 対した。しかしそれから約30年後、大久保 はアメリカ合衆国において日系人教会の教 派を超えた合同を指導していくこととなっ た。

 一見相反する「独立」と「合同」という 大久保の牧師としての歩みの中の2つの特 徴的な働きは、単に矛盾することであった のか、それともそれらの間に大久保の基軸 といえる教会論があったのであろうか。

オークランド独立教会時代の 大久保 アメリカ合同教会シ カモア組合教会所蔵

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1) 大久保真次郎の人となり

 日本における大久保真次郎の人となりや、活躍については本井康博『新 島襄と徳富蘇峰—熊本バンド、福沢諭吉、中江兆民をめぐって—』(晃洋 書房、2002年)に丁寧にまとめられているが、そこで引用されているもの を改めて紹介したい。

「大久保真次郎は健次郎の姉音羽子の夫。婦人運動家久布白落実女史 の父である。北肥後山鹿郡農家の出身、蘆花よりは一三歳の年長で ある。中年以後は牧師になってアメリカに渡り、邦人間の伝道に献 身しているが、その前半生は、『蘇峰自伝』にも蘆花の作品にも、し ばしば出て活躍する実に型破りの痛快男子であった。徳冨兄弟の周 辺にあって、最も食欲をそそられる人物だといってもよい。大変な 俊才で、熊本医学校に学び、北里柴三郎、緒方正規などと共に東大 医学部の前身医科大学に学ぶが、まもなく失望、学業を棄てて東本 願寺のさる学僧の居候になる。だが、これも法城の腐敗を知ると、

箒 ( ほうき ) で仏像の頭をはり倒して飛び出し、同志社に入学した。

天性の煽動家だったらしく、ここでも下級生の猪一郎〔蘇峰〕など を煽って学校騒動を起させ、ついに猪一郎などの半途退学にまで導 いた、陰のその黒幕は大久保であった。そして彼自身も新島に、『足 下ノ奴隷タランヨリ寧娼妓ヲ抱イテ眠ラン』などという文章を叩き つけて、また飛び出してしまう。そのあと大阪で海運業をやったり、

尾道で旅館業をやったりするが、すべて失敗。その前に妙な縁で音 羽子と結婚していたわけだが、そんなわけで、三三歳の老書生になっ てから改めて新島に詫びを入れ、ふたたび同志社邦語神学部 ( 科〕に 入学していたのである。『黒い眼〔と茶色の目〕』によると、『赤鬼』

という綽名 ( あだな ) だったという」。1)

 

 上記引用の通り、大久保は一旦離れた同志社に戻る以前の1882年に猪一 郎〔蘇峰〕の姉である音羽子と結婚した。音羽子は徳富家の四女で、彼女

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の下は初子、猪一郎、健次郎の3人があった。音羽子は同志社に猪一郎、

健次郎が学ぶ間、その世話役を勤めながら、勉学を志した当時の才媛の一 人であり、熊本県の緑川製糸場で主任格、富岡製糸の主任に抜擢され、緑 川の経営もその後任された熊本県下初の職業婦人と言われている。2)大久 保と音羽子は猪一郎の取持ちにより、熊本の料理屋で式を挙げ、結婚後3 年間音羽子は子を連れながら、家にて機を織り、養蚕をし、一家を支える こととなる。3)その後大久保は尾道で事業に失敗し、大久保は酒におぼれ、

死場を求めて海岸線を歩くなどしたが、その背後で音羽子はまだ僅か 4、5 歳であった娘の落実と共に祈り続けたという。4)1887年の元旦には音羽子 が用意した正月の酒を飲みほしたが、しかしその翌日「俺はもう酒は呑ま ぬ、お前の聖書を貸せ、そして誰も来るな。昼飯はいらぬ。」と言って数 日読みふけり、「かしこにこそ真理はある。」とし、これを契機として再び 同志社に戻ることになった。5)大久保は新島に手紙を送り、先の無礼を詫 び、再び同志社に入学することとなった。

 娘・落実の著書に、こういうくだりがある。

「『ネーお母さん、火事が有ったら一番に聖書と新島先生のお写真を持って 出ますね』 先生は暗夜の燈明台の如く、また温かい太陽のよう、何とも 言い難い存在として我が一家に感じられていた。」6)

 このように新島こそが大久保にとって、そしてそれまで大久保を支えて きた音羽子にとって、生涯の「霊の父」となった。大久保は毎年1月23日 の新島永眠記念日には「霊の父」を記念する説教をした。これはハワイ、

そしてオークランドにおいても続けられていたという。7)

2) 教会合同運動に対する大久保の態度

 1886年に始動した日本組合教会と一致教会との「教会合同運動」におい ては、終始消極的であった新島に従い、再入学した大久保も反対の立場を とった。反対派の多くが20代の若手が中心だった中で、れっきとした30代 は大久保一人であった。かれは年齢的には賛成派の核であった熊本バント と同世代であり、出身も彼らとほぼ近い地方であるが、前出の通り、熊本

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洋学校に隣接する熊本医学校から東京医学校へと進学し、同志社に入学す るものの、熊本バンドが全員卒業した後に、再入学し牧師を目指した人で ある。大久保は熊本バンドを核とする推進派について「何分ニモ彼等ハ老 人ナリ、敵ハ壮士ナリ」とし、自身が反対派の主体である若手の立場にたっ ていることを表明した。8)

 当時反対派の拠点は①同志社教会 ②霊南坂教会 ③上州の諸教会 安 中、原市、富岡、高崎、藤岡、前橋の各教会であった。9)大久保は同志社 教会で神学生時代を改め過ごし、そこでも反対派の中心人物となり、最初 の赴任地、秩父(現在の埼玉県大宮市)では上記③のグループに加わって いき、その後③の教会へ赴任することとなる。

 新島が合同運動に否定的、ないし消極的であったのは、本質的には、一 致教会と組合教会の教会政治における構造的差異によるものであった。新 島は教会政治に関して、一致教会のヒエラルキーではなく、「会衆主義こ そ最善の民主的な政体」10)とし、会衆主義を理想としていた。現に一致教 会が譲歩して、会衆主義に転じるならば合同は可能であるとも新島は見て いた。11)すなわち新島にとって組合教会における独立・自治・自由を死守 することが、この問題に対する態度となったのである。

 大久保は一旦同志社を去る前の在学中には、合同運動が展開されていた その当時既に日本組合教会において指導的立場にあった、熊本洋学校出身 の「最上級生」との確執があった。それによって大久保が合同運動に反対 した面もあったかもしれないが、しかしそれ以上に「放蕩息子」として「霊 の父」の許に立ち帰り、「新島先生の懐ろはまさに天の父の懐ろ」12)と感 じていた大久保が、同志社教会でその時代を神学生としてすごし、新島の

「神学」に呼応したことは、当然のことと言える。

3) 秩父での大久保

 再入学後満2年、同志社で学んだ大久保に、最初の任地である秩父を用 意したのは新島であった。この頃新島は費用を自弁してでも組合教会の空 白地であった同地への伝道に着手することを希望していた。13)新島の紹介

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により、キリスト教の伝道が開始されていない当時の秩父での伝道活動に 奔走した。

 しかし大久保のもとに新島の危篤の電報が届いたのは、秩父に赴任して より丁度半年が過ぎたころであった。大久保は大磯に急いで赴くが、間に 合わず、その亡骸を前に涙をのんだという。14)

 新島は自らの死を覚悟した際に各方面に遺言を残しているが、大久保に も以下のような遺言が宛てられている。

   

遺言 大久保眞次郎君 

益々信仰ヲ固クシ主ノ為メニ働カレンコトヲ祈ル結果ノ出来ル迄現 今ノ地ヲ去ル勿レ

明治二三年一月二一日 新嶋 襄15)

 「霊の父」を失った大久保は、新島の遺業として秩父での伝道をとらえ、

「同志社大学が先生の遺業であると同じく、秩父での伝道、この片田舎の 伝道は、やはり先生の遺業だ、同時に神の御用である」16)とし大久保は更 に秩父での伝道に打ち込んだ。大久保は青年の教育所を翌年立ち上げ、こ れを「秩父義塾」と呼び、すでに教会員となった独身男性をそこに住まわ せた。

 当時秩父ではさらにメソジスト教会が伝道を開始していたが、大久保は メソジストの伝道師であった「山田」をこの義塾に住まわせ、伝道教育を 共同して進めることを提案した。このことを後に落実は「教会の合同など 今日になってもなかなか容易なことではない。それに中でも難しい監督教 会の伝道師と組合教会の父が、この新開の土地において、住居まで一つに して仕事を始めたと言う事は、今から思えばよくも大胆にやったものと思 われる。」17)と振り返った。

 このことからもわかるように、大久保は新島と共に組合教会と一致教会 の合同には反対しつつも、(新島と同じく)偏狭な教派主義者ではなかっ た。それぞれの伝道地で「神の国建設」のためには大久保にとって「宗派 も何もない」18)のであった。最終的にはこの「合同教会」はメソジストの

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側から離脱していった。

 大久保はその後、組合教会と一致教会の反対派の拠点であった、藤岡、

高崎のそれぞれの教会に赴任し、それぞれにおいて教会の経済的独立を果 たしていくこととなる。

 

 4) 日本組合教会・同志社のアメリカン・

        ボードからの独立と大久保の態度

 1890年代に日本を席巻した排他的、保守的な反動、日本組合教会・同志 社のアメリカン・ボードからの独立に際しての論争及び経緯については、

新刊であるポール・グリーシー著 北垣宗治訳『同志社の独立 ミッショ ン・スクールからの独立』(新教出版社、2012年)に丁寧にまとめられて いるのでご参照頂きたいが、大久保はもともと新島の「直轄」であったの で、宣教師のとの交流を持つ機会がなく、アメリカン・ボードからの独立 に対して特に賛意を示していなかった大久保が、どのようにその後考えた かについて落実はこのように述べている。

頃は日清戰役後、明治二十九年の末である、戰勝に意氣揚がれる民 心ご外人の干渉に飽らざる感情とは、何時しか一つの獨立論となつ て、其の急先鋒を、組合教會先輩の諸氏の内に見出した。父は最初、

天國の福昔を傳ふるに内外の差別はない、宜しく餘りある軍資を用 ひて、一日も早く、神國の擴張に從事すべし、外人排斥など、以っ ての外といきまいて、總會毎に獨立論の矢面に立って戰つた。父は 直接宣教師と接して事に當った事が無い、唯其の理想上、眞に斯(か)

く有るべしと信じて、眞向より進んだのである。傳道會社の獨立を 断行する前の總會だつたか、此輿論の一致を見る爲めに、父の反對 は多少邪魔になつたであろう、先輩中の話柄には「大久保は正直な 男だから、解りさへすれば賛成する筈だのに、困つたものだ」 と、云 はれて居たそうだ。然し宣教師側では、意外の處に援軍が現はれた やうに思ふものも有つたと見え、總會前に種々巧妙な手段で、一層 父を近く引きつけやうとした、然しこれは全く反對の結果に終った。

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今まで公明正大な心で内外人の一致、内資外資の合同を稱ヘて居た 父の心に、フト不審を起させたやうだ。そうこうする間に獨立は、

破竹の勢で淮んだ、終ひに翌年の總會で、組合派の傅道會社は、断 然アメリカンボードの支配を受けぬことなり、今日までの補助は減 額して、單に寄附として受けることになつた。大打撃を受けたのは、

當時の所謂補助教會である、十圓乃至十五圓、づつの補助を得て、

辛じて命脈を繋いで居た教會が、樹から落ちた猿同樣、散々の有樣 となつた。然し此の時に成つて、父の意は愈々决した、獨立は天下 の大勢だ、こうなる上は、痩せても枯れても、武士の本領発揮して、

徹頭徹尾遣り途げねばならぬ、父は俸給の四分の一を教會に免じた、

教會は其れで覺束なくも、獨立の旗を押し立てたのである。19)

 大久保はこのことより改めて政治的にも経済的にも独立した教会の建設 に「尽じんすい瘁」した。20)これまで補助のあった教会からアメリカン・ボードは 引き上げていき、高崎教会も例外ではなかった。しかし大久保は「今度愈々 独立断行となった、それで棒給は五分の一とする。」と言い、一歩も引か なかった。21)高崎教会の独立の実践を通して「父も母も始めて伝道者牧師 としての真経験に入り来たったのだ。」22)と落実は述べた。ここで展開さ れた「独立」は「主権」を持つということであり、その為には政治的、経 済的に自立した自給自足、自治教会でなければならなかった。7年かけて 大久保は高崎教会を独立した教会とした。

5) ハワイ、そして太平洋沿岸部へ

 高崎を独立させた頃、同志社で共に学んだ曽我部四郎が大久保にハワイ への赴任を持ちかけた。曽我部は1894年に先にハワイで活躍していた岡部 次郎に誘われて、同志社を卒業後、ハワイ島ホノムで日本人に対する伝道 を開始した人である。海外に移住する日本人の魂を養い、向かうべき道を 示すというその事業に心動かされた大久保は、ハワイ伝道会社の手配に よって、一家でハワイに赴任し、ホノルル教会(後のマキキ教会)の奥村

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多喜衛の勧めで、その後任となった。23)大久保の宣教の第一の主眼はこの 地においても独立運動であった。

 様々な軋轢もある中で、2年間大久保はこの地でも、その給与を返納し て独立運動を展開し、真剣な説教によって、40人ほどの礼拝出席から時に は70人を超え、椅子が不足する事態も起こったほど、強勢を伸ばした。24)

教勢においてある程度安定した教会となった頃、大久保は「深い思いに沈 んだ。」25)ハワイは海外にある日本人移民にとって「一つの飛び石」26)に 過ぎず、日本人移民に本来の意味で出会うには、どうしたらよいのか。そ して大久保はアメリカ本土への赴任を希望するようになり、太平洋沿岸 の宣教団体に Hawaiian Mission を通して手紙を書いた。この手紙を読み、

大久保を北米に迎えたのが、太平洋沿岸地域において ”California Chinese and Japanese Mission” の主事であった W. C. ポンドである。

6) 太平洋沿岸地域における日本人キリスト教会の黎明期

 北米での大久保を語る前に、アメリカ合衆国の太平洋沿岸地域における 日本人社会の形成とキリスト教界の展開について少し述べたい。

 明治維新後、アメリカ合衆国への日本人移民の最初のグループは、「元 年者」と呼ばれる1868年に横浜からハワイに向かった男性141人、女性6 人、子ども2人であったが、本土へはその翌年、旧若松藩士らがオランダ 人である平松シャネルによってカリフォルニア州に「若松コロニー」建設 のために渡米している 。1880年代初期の移民は、ハワイへの移民は労働 者が主流であったが27)、太平洋沿岸への移民は西洋文明、学問を学ぶ留学 生「書生」が中心であった。28)しかし1890年頃から中国人労働者に代わる 形で、主に農園労働者として日本人移民はその数を徐々に増やしてきた。

当時の太平洋沿岸地域における日本人移民社会は、日本からの定期船が発 着するサンフランシスコ及びシアトルを中心に生まれた。その構成は先に 述べたとおり、書生(と言ってもその多くは貧しい中でスクールボーイを しながら学んでいた。)や農園労働者、山中部の鉄道工事現場に向かう労 働者、そして日本での政治活動に挫折したものなどであった。その後サン

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フランシスコ大地震以後はロサンゼルス方面にも進展し、1910年ごろには サンフランシスコとロサンゼルスを結ぶ主要地域に約4万人の日本人移民 が点在するようになった。29) その移民社会の展開と共にキリスト教会も伝 道を展開していった。

 北米にある日本人キリスト教会は1877年10月6日サンフランシスコにお いて35名の日本人青年会員をもって組織された「福音会」の発足をもって 開始された。これはアメリカ本土において設立された日本人団体として最 古のものである。30) 1874年サンフランスコにあるパウエルストリート組合 教会で西巻豊佐久、小田野敬三、二宮安次、加地為也の4人の学生が出会 い、同教会婦人伝道会が聖書研究と英語の教授を開始した。彼らが中心と なって福音会が発足したのである。彼らは新しく海を渡ってくる日本人移 民へ伝道を開始するとともに、その生活改善にも取り組んだ。31)

 長老教会は1885年に北米で最初の日本人教会であるサンフランシスコ第 一日本人長老教会 (First Japanese Presbyterian Church of San Francisco) を設立した。32)

 アメリカにおける会衆派教会はこのように日本人に対しての伝道にも関 心があったが、実際教会が設立されるのは、長老派、それに続いたメゾジ スト教会にはるかに遅れていた。日本人組合教会を組織した黎明期の中心 人物が前出の W. C. ポンドである。もともと在カリフォルニア中国人伝道 に従事していたポンドは増加する日本人への伝道にも関心を寄せ、カリ フォルニア州における中国人への伝道団体 ”California Chinese Mission” を ” California Chinese and Japanese Mission” に改組し1899年にサンフランシ スコに日本人のための会衆派教会の設立に至った。大久保はこのポンドの 紹介によりオークランドに赴くことになる。

7)オークランドへ赴任

 1904年4月、久布白直勝、大久保清次、竹崎八十雄ら、バークレーの神 学校でキリスト教を熱心に学ぼうとしていた3人の学生は、彼等自身の教 会を形成する決心をし、オークランドのサンバブロ通りに小さな建物を借

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り、礼拝を始めたところ、すぐに成人19人、青年11人の集まりとなった。

彼等はアメリカへ渡ってくる年々増えつつある日本人の間に福音を広めよ うと志していた熱心なキリスト者であったが、彼らは ”California Chinese and Japanese Mission” に専従牧師招聘を求めた。ちょうど時を同じくし て大久保はポンド及び Mission を通してサンフランシスコに赴任すること となった。33)大久保一家はハワイより7日間の航海でサンフランシスコに 到着、その後ポンドの勧めでオークランドに居を移したが、一家が移る一 週間前には青年たちとポンドの後援によって借りられたその借家に「王府 日本人組合教会」の看板が出されていたという。34)なお、久布白直勝はそ の後大久保の娘落実と結婚し、日米の教会、団体で共に活躍していくこと となる。

8)支教会から独立教会へ

 大久保は同志社を卒業後常に教会の独立について取り組んできた。日本 での7年の独立運動、そしてホノルルでの3年の実践を経て、大久保の独 立に対する確信はかなり強固なものとなっていた。その確信が如何なるも のであるかは後に述べるが、サンフランシスコに上陸し、ポンドの支援も あり、20数名の青年と教会建設に取り組むに当たり、大久保は「日本人を 識り日本人を救うものは日本人たらざるべからず」35)と語り、アメリカ人 の Mission に依存するのでなく、独立した日本人の教会を建設するという ことは、当然心に起こらざるを得なかったのである。大久保は次のように 書き記している。「宣教師の保護の下に存続するのはたやすいことである が、自給独立教会においては、会員は自らの手で教会を運営していく責任 をとらねばならない。」大久保にとって、理性を持ち精神的生活を行う独 立した人々は、自活し、自立しなければならないという課題以外に何もな かった。36)アメリカというキリスト教が絶対的に大多数の環境にあって、

すでに多くの青年たちが教会を共に作り上げようとしている環境は、日本 での伝道に比べ、たやすいように感じられるかもしれない。しかしその道 は平たんなものではなかった。

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 1906年1月7日教会創立の2年後に44人の会員を持って教会は自給独立 を宣言した。大久保はポンドに対して「この度四十四名をもって教会は自 給独立に入るべく決心いたしました。しかしそれにはまず土地と建物とを ひつようとします、それ故今日以後はそのための募金を始めます。ただし 独立は即時実行いたしますから従来の補助はありがたくお断りいたしま す」37)と申し出た。

 しかしながら、サンフランシスコ大震災によって数名の教会員がなくな り、このような避けることのできない事情により独立宣言は撤回された。

大久保はこのような事態を前に、まずはいきなり独立を目指すのではな く、オークランド市で最大の組合教会であったオークランド第一組合教会

(The First Congregational Church of Oakland)の支教会となることを申 し出た。

 改めて独立宣言を出すことが出来たのは、2年後の1908年で名称は、「王 府日本人独立組合教会」(Japanese Independent Congregational Church of Oakland, Cal.)となった。これは公式に、また法的に、北米ではじめて独 立した日本人教会が誕生した瞬間であった。38)

 これについては1917年に当時の王府日本人独立組合教会牧師額賀鹿ノ助 によって記された報告書に以下の通りまとめられている。

 The work of this church was begun in 1904 under the general direction of Dr. William C. Pond. At the time the Church had only ten members.

In 1906 it was organized as a branch Church of the First Congregational Church of Oakland. The late Rev. S. Okubo, who was for many years its pastor, worked very earnestly to build up a strong Church. He always strongly advocated congregational principles, especia11y self-support and self-government.

Much progress was made, and the membership increased in numbers and enthusiasm so that in 1908 the church became self-supporting. By earnest struggles the membership has maintained this spirit of self-dependence to the present time, raising all their expenses, amounting to $1,000 or over

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each year.

Through energy of Mr. Okubo some $12,000 was collected from the Japanese to purchase the lot and building at 576 Sycamore Street, Oakland.

The old house on the lot has been used for a dormitory, and a sma11, temporary Chapel was erected on one corner of the large lot, 60 × 186.

The number of members has increased to 140, 70 of them active, resident members. Four have gone back to Japan as strong, influential Christian Preachers.

At present the Japanese population in the East Bay cities is about 5,000, including children, and they are mostly permanent residents. It is very important that adequate religious provision should be made for them, and especially for the children through Sunday Schools and Christian education.

The Buddhists have many large missions on the Pacific Coast. They are endeavoring to keep the Japanese to their own religion, since most of those who come from Japan are nominally Buddhists. This church feels an especial responsibility to offer Christianity to these new Americans.

To do this adequately they are planning a Church building to cost about

$5,000. This Church is the first of only two independent, self、supporting Churches、among all denominations on the Pacific Coast.

The success and development of such a church will give great stimulus to the growth of all our Japanese churches.

Your help in securing the building fund will enable this church to adequately utilize its fine location and strategic opportunity among the Japanese of the East Bay district.

Kanosuke Kunuga

Pastor Japanese congregational church of Oakland.

 教会が独立を果たした後、大久保は東西南北、日本人共同体のある地域 のほとんどに、伝道と日本人共同体の強化のために駆け巡った。大久保を 牧師として迎えつつ、アメリカ太平洋沿岸に送り出していた王府日本人独

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立組合教会の当時の様子をその「会報」から読み取ることができる。

「独立教会会報 第一篇」

◎発行の目的

一、独立教会と関係ある各員の一層親密なる連絡を計り、相助け、

相助けられつつ、向上発展せんがために 二、文書伝道の一助とならんがために

三、牧師が外征の後○を○すために(〇は手書き印刷の為、解読で きず)

四、各種の会報を伝えむがために  

「独立教会会報 第一篇第二号」

◎無給伝道

大久保牧師は棒給の全額を挙げて教会に寄付し全力を尽くして加州 の各地に第伝道を試みると決心して起ちぬ

吾人は此熱烈なる牧師より約一年の教訓を受けたるを喜び 任責の 益々重きを感せさりを得ざなり

 この「会報」から読み取れることは、大久保の教化により、教会の日本 人同士がアメリカの地にあって互いに助け合う互助組織としての信仰共同 体理解と、そのような組織が太平洋沿岸地域に広がるために、給与のすべ てを使って奔走している大久保の姿である。大久保が各地に一年半赴く中 で、しかし教会は大久保のその働きを支援し、太平洋沿岸地域における日 本人の教化に、その役割を果たそうとした。39)そして大久保はその働きの 中で、自らの次になすべき使命を感じ、6年に及ぶ王府日本人独立組合教 会の働きを辞した。その辞表提出理由として、大久保は以下のように述べ ている。

 教会の使命に奉じて、募金の為めに一ヵ年半の奔走中、深くかんじたる の一事は他にあらず、巡回伝道の必要なり、大博覧会前に是非とも同胞の 精神状態に大革命を施すにあらざれば、このままにては決して排斥を免れ ざること明白なり。、故に願わくはこれが小補たらんと思い定め、最も願 うところは各派連合にてこれに従事せんことなり、その願にしてたっする

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能はざれば責めて組合教会共同してこれをなさん事、それも出来ざれば独 立教会よりこれを為さん事、教会の賛同をも得る能(ママ)はずんば、単 独にてもそれをなさざる可(ママ)からずとまで思い定めたり。40)

9)排日移民法と伝道団

 1907年カリフォルニア州議会下院に日本人の土地所有禁止法案が提出さ れた。この法案は日米両政府の協議によって廃案となったが、1909年には 再び排日的議案が17種提出され、当時のルーズベルト大統領の異議によっ て改めて廃案となり、カリフォルニア州知事と会員議長の提起で日本人移 民の実情を調査するということになった。上記の落実による回顧録にあ る「大博覧会」とはこの年にサンフランシスコで開かれたパナマ運河開通 を祝う博覧会のことであるが、大久保はこのような排日感情の高まりの中 で、「沿岸の邦人に対して多きなる抱負をもっていた、ここに宗教道徳の 独立を樹立し、我が民をここに植え付け、東西両洋の文明の接觸」41)、す わなち太平洋沿岸に住む日本人が日米の橋渡し的役割を担えるように、成 熟した共同体形成を目指したのである。

  そ の た め に 大 久 保 は 超 教 派 で の 太 平 洋 沿 岸 に お け る 日 本 人 へ の 伝 道 と、 そ の 宗 教 道 徳 の 確 立 を 担 う 団 体「 伝 道 団 」(The Japanese Interdenominational Board of Missions) を1910年設立し、大久保はその専 属の巡回教師に就任した。伝道団の本来の目的は「各派の合同を実現する ために、各派の主任者、牧師、教師等と打ち合することが一大事業」42)で あった。その活動の中心であったサンフランシスコに大久保は1912年5月 に居を移し、精力的に太平洋沿岸地域を巡回しては伝道を展開した。43)こ れは言い換えれば排日感情が高まる中で、各都市、各地方にそれぞれ設立 された各派の日本人キリスト教会を合同し、その勢力を結集して、日本人 に伝道し、日本人キリスト者共同体を作り上げていくことであった。

 1913年3月には排日法案三十三種がカリフォルニア州議会に提出され た。今回の情勢は厳しく、前年度の大統領選、国会議員選挙、州議会議員 選挙ではいずれの候補者達も排日法案を掲げ、当選していた。結局5月に

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はいわゆる「ウエップ法案」と呼ばれる排日土地法案が可決され、これに よって日本人、もしくは日本人が過半数に達する組織、会社、組合、法人 は今後カリフォルニア州において土地の獲得、所有ができなくなり、3年 超えない期間においてのみ、耕作地の借地が許されることとなった。44)

 伝道団は、排日土地法が議会を通過するとただちに1913年5月8日の常 置委員会で時局問題に関する討議を行ない、以下の方針を決めた。

一、時局問題に対し広く米人の同情に訴へ輿論を喚起すると同時にあまね く日本人の実情を知らしむるの必要を認め本団は左の方法により米人基督 教徒に向って極力運動することを決議す

  (A)米国人間に広く宣言書を配布し問題の真相を知らしむること   (B)宗教機関雑誌に訴へ輿論を喚起すること

  (C)宗教団体に委員を送りて其運動を喚起すること

二、時局問題の真相を日本人に知らしめ慰安奨励を与ふること 三、慰問使歓迎のこと

四、巡回伝道師招碑の件 五、教界合同の件45)

 このなかで最でも重視されたものは、日本人移民に時局問題の真相を知 らせ、精神的、経済的な打撃をうけている同胞に対し慰安・啓発を行ない、

生活を改善して優秀な日本人としてアメリカに永住することを奨励するこ とであった。大久保は超教派的な運動によって、アメリカに日本人が根付 くためには、この働きが最も必要と考え「一日の日も惜しい、一時の間も 休まれない」状態であった。46)

 この大久保の伝道により福音の種がまかれ、サンタバーバラ組合教会、

モンテベロ組合教会、リバーサイド・ミッションは設立された。47)そして 大久保がオークランドに永眠した1914年には、サンフランシスコ日本人長 老教会とサンフランシスコ日本人組合教会の合同が成立した。これは最初 の教派を超えた日本人教会の合同であった。48)

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まとめ

 7年に及ぶオーランドでの独立運動、続く伝道団設立の中で、大久保は

「元気をつけても、身体が承知せぬ、出ては働き、帰っては倒れるのが殆 ど通例」49)となっていた。大久保はこの頃自らのその先を見据えたのか、

日本に家族で一時帰国することとなった。ハワイを経由し、東京、逗子、

熊本、そして上州と縁のある地を巡った。しかし大久保は帰国中も伝道団 の働きを徹底するためには、日本における在米日本人後援会を創設する必 要性を感じ、東京在住の各派の有力牧師を訪ねてまわった。50)この働きは 大久保が1914年にアメリカに帰り、オークランドの地に安らかに眠った後、

海老名弾正、山室軍平はじめ多くの牧師が太平洋沿岸を訪れ、日本人移民 への啓蒙活動に従事したことにつながっていく。

 大久保における「独立教会」について、日本において組合教会と一致教 会との教会「合同」運動、秩父で「合同」と上州各教会での「独立」、ア メリカン・ボードからの「独立」、ハワイ、オークランドでの「独立」と 伝道団での「合同」運動についてみてきた。

 大久保において独立とは改めて述べると、「自給自足・自治教会」「自治 の主権を明言すること」であり、これには経済的独立は不可欠であった。

 一方で先に述べたように大久保は偏狭な教派主義者ではなく、秩父では キリスト教開拓地でメソジスト教会の牧師と共に教会形成を目指し、アメ リカ太平洋沿岸地域においては、排日感情の高まりに対して、教派を超え て日本人教会が日本人を教化し、サポートするために、教会合同による勢 力の結集を目指した。この働きの根底は、伝道団の会計を担った小林政助 が「それは翁(大久保)の不羈独立の日本精神であった。翁の心に溢るる 信念は、日本民族の自立であった。而して翁の忌み嫌い極力排撃したのは 卑屈なる『白人種優越感念』であった。翁はその信念から至るところ独立 自給の教会を起こし、独立の伝道に従事したのである。」51)と書き残して いる通り、日本人が、日本人によるキリスト教会が、日本においても、ア メリカにおいても、真に独立した存在として立つべきであるという信念が 大久保にはあった。そしてそのためには「日本人を識り日本人を救うもの

(18)

は日本人たらざるべからず」の思 いで自ら先頭に立った。そして共 同体が独立した存在として、いか なる差別や不平等にも毅然として 立ち向かうためには、また神の国 建設のためには、「宗派も何もない」

のであり、福音に生きるために合 同をいとも簡単に成し遂げてしま う信仰があった。それぞれの地域 で自らの棒給与を一切投げ打って、

伝道とその組織の自治、主権を求 め続けた大久保の、一見相反する

「独立」と「合同」という教会形成 は、「自由教会・自治教会・両者併 行・国家万歳」という彼の「霊の父」

である新島の遺言を基軸とした教 会論に基づいて、それぞれの宣教の現場でなされたものであった。その姿 は正に「倜儻不羈なる書生」であり、正に国境を越え「一国の良心」となっ た「天下の人物」と言えよう。

1) 本井康博『新島襄と徳富蘇峰ー熊本バンド、福沢諭吉、中江兆民をめぐってー』

晃洋書房 2002年、124ページ

2) 久布白落実「父と良人」『久布白落実著作集』第4巻、67ページ 3) 同上

4) 同上 41ページ 5) 同上 42ページ 6) 同上 54ページ

7) 新島に関する逸話は「独立教会報」にも多数掲載された。

8) 『新島襄全集』4、501ページ カリフォルニア州オークランドにある大 久保の墓石。シカモア組合教会(旧王府日 本人組合教会)では今も教会創立記念日に 毎年この墓前で礼拝をまもっている。

(19)

9) 本井162−164ページ 10) 『新島襄全集』6、339ページ 11) 本井171ページ

12) 久布白4、56ページ 13) 本井136ページ 14) 久布白4、88ページ 15) 同上、89ページ 16) 同上

17) 同上、95ページ 18) 同上、98ページ 19) 同上、130ページ 20) 同上、136ページ 21) 同上、130ページ 22) 同上、136ページ 23) 同上、144ページ 24) 同上、147ページ 25) 同上

26) 同上

27) Yoshiko Uchida “Samurai of Gold Hill” Berkeley ,CA, Heyday Books, 1972 28) 岡部牧夫『海を渡った日本人』山川出版社 , 2002

29) 吉田亮「排日問題と太平洋沿岸日本人基督教団」同志社大学人文科学研究所 編『北米日本人キリスト教運動史 』東京 : PMC 出版、1991、213ページ 30) 北加基督教々会同盟編『開教八十年史』北加基督教々会同盟、1957年、14ペー

31) 同上、16ページ

32) これは E. A. ストージの働きによるものである。

That was established by E. A. Sturge who was appointed to serve as Superintendent of Japanese Missions with seventeen transferred members and sixteen baptized members. This church established “Kirisuto kyo Seinen kai (YMCA in Japanese) in 1886.

(20)

33) 久布白1、145ページ 34) 同上150ページ

35) 北加基督教会同盟編『北加基督教会便覧』昭和11年、北加基督教会同盟、17ペー ジ

36) シカモア組合教会編『シカモア組合教会創立百周年記念1904−2004』シカモ ア組合教会、2004年

37) 久布白4、171ページ 38) シカモア組合教会編 前掲書 39) シカモア組合教会編 前掲書 40) 久布白1、294ページ 41) 同上、238ページ 42) 同上、299ページ 43) 久布白4、192ページ 44) 吉田亮236ページ

アメリカ人の対応の一例

Several organizations responded: the Methodist Preacher’s Meeting, the Peace Committee, Standing Committee of American Workers among Orientals, Presbyterian Minister’s Meeting, and others. Disheartened by the severe anti- Japanese movement fostered in surrounding communities, the Japanese Congregational churches started to unit with other denominational Japanese churches to protect their community.

45) 伝道団機関紙「新天地」1913年、4−6ページ 46) 久布白1、314ページ

47) 以下は1903年から1926年までの日本人組合教会の設立年を示したものである。

Between 1903 and 1926 fifteen Japanese American churches came into being:

オゴデン・ミッション Ogden Mission—1903,

オークランド独立組合教会 Oakland Independent Congregational Church—

1904

ロスアンゼルス組合教会 Los Angeles Congregational Church—1905, ロスアンゼルス・ベツレヘム教会 Los Angeles Bethlehem—1905

(21)

シアトル組合教会 Seattle Congregational Church—1907 サンディアゴ組合教会 San Diego Congregational Church—1907

フレズノ独立組合教会 Fresno Independent Congregational Church—1908 パサデナ・ミッション Pasadena Mission—1909

サンタバーバラ組合教会 Santa Barbara Congregational Church—1913 モンテベロ組合教会 Montebello Congregational Church—1913 リバーサイド・ミッション Riverside Mission—1913

ハリウッド独立組合教会 Hollywood Independent Congregational Church—

1922

サンタマリア組合教会 Santa Maria Congregational Church—1926 48) The Handbook of Japanese American Churches

以下1914年から1929年までに他教派と合同した日本人組合教会である。

San Francisco Congregational with Christ Presbyterian in 1914 Riverside Mission with Methodist in 1917

Pasadena Mission with Presbyterian in 1909

L.A. Congregational and Bethlehem Congregational with Presbyterian in 1918 Santa Maria Congregational with Methodist and Presbyterian in 1929 Salt Lake Mission with Presbyterian in 1919

Ogden Mission with Presbyterian in 1919 49) 同上、325ページ

50) 同上、345ページ 51) 久布白4、194ページ

参照

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