第 2 鹿 田遺跡 の調査研究
1節 発掘調査の概要
鹿 田 遺 跡 第
13次
調 査 船 合教育研究棟、鹿田BM45区
、BL〜 BR46〜51区)a.調
査 の成 果本調査では、広範囲にわたる弥生時代終末〜古墳時代初頭の土器溜 まりをは じめ、中世の建物や井戸、中世末 か ら近世の土坑群や大形の溝、畦畔など、多 くの遺構 を検出 した。 これまでに構内で調査 した近接する地点 とあ わせて、鹿田遺跡の全体像 を捉 える上で重要な成果が得 られた。近世 。近代 については、水日経営、大型の溝、多 数の土坑の状況が明 らか となった。平安時代 〜鎌倉時代 については、長期的な集落経営の状況が明 らか となった。
古墳時代後期は、
1条
の溝が検出された。弥生時代終末〜古墳時代初頭 については、3箇所の土器溜 まりの調査 が大 きな成果 といえる。弥生時代 に関 しては、これまで不明確であった後期初頭の様相について知見が得 られた。工 早 第
調査期 間: 調査面積: 調査担 当: 主 な遺構
2002年 4月30日 〜10月25日 934m2
光本
順 (主任)、 山本悦 世、岩崎志保 、野崎貴博 、忽那敬三、高 田浩司
遺物
:近
世 〜近代 の水 田3面
・土坑26基 ・溝2条 。陶磁器 ・瓦、平安時代後半 〜鎌倉時代 の 建物3棟
・柱穴辞 ・井戸10基 ・溝10条 ・土師質土器 。白磁 ・備前焼、弥生時代終末 〜 古墳 時代 初頭 の土器溜 ま り3箇所 ・井戸1基・溝9条、弥生時代 後期 の溝7条b.調
査 の 経 過造成上の除去
2002年
4月18日か ら4月26日 までの期 間に、重機 に よって造成土取 りを行 つた。 この過程で既設 の建物基礎 の除去 も行 つた。発掘調査
4月
30日か ら調査 を開始 した。 6月 後半 まで中世末 〜近世の水 田や土坑群の調査 を行 った。 6月 末〜8月 半 ば まで平安時代後半 〜鎌倉時代 の井戸 や建物、溝 を調査 した。8月後半 か ら古墳時代初頭 頃の上器溜 ま り や弥生時代 の溝の調査 を行 い、10月 25日 に調査 を終了 した。
現地説 明会
9月
15日に現地説明会 を開催 し、72名 の見学者 を 得 た。土器溜 ま りを中心 に、古墳 時代 。中世・近世の遺構 につ いて説明 を行 った。c.調
査 の 概 要①層序
1層
:大
正時代の造成土である。2層
:近
代の耕作土で、上面 に畦畔を確認 している。3層
:近
世の耕作土で二層 に細分で きる。4層
:中
世の包含層である。上面で中世末〜近世 ごろの土坑群 や溝、中世の井戸や溝、柱穴群 を検出 した。(アイツトー
図
26
第 13次 調査地点位置 図 (縮尺1/4,0001造成土
2淡灰褐色粘質土
3暗青灰色砂質上
4淡緑灰色土
5暗責緑灰色土 図27
6灰褐色砂質上
7黄自色砂質上
8a黒灰色粘質土
8b淡黒灰色粘質土
9黄褐色砂質土
第 13次 調査土層断面 図
10淡灰色砂質土
H暗 灰黄色粘土
12灰色粘質土
13淡黒灰色粘土
(縮 尺1/40)
Ⅲ 上器溜まり
<弥生時代中期〜古墳時代
>
(縮尺1/500)
第2章
鹿田遺跡の調査研究
上層 断面位置
0 10m
― 工1井戸(平安時代後半〜鎌倉時代)
<平安時代後半〜近世・近代
>
図
28
第13次調 査 遺 構 全 体 図孝 ノ F卓 ==ゴ °
5層
:平
安 時代 後半 〜鎌倉 時代 の包含層 と捉 えてい る。畦畔 を形成 している土 と耕作土 に大別で きる。6層
:弥
生 時代終末 〜古墳 時代 の包含層である。土器溜 ま りや溝 、井戸 な どを検 出 した。7層
:8層
が たわむ部分 を中心 に堆積す る土層である。8層
:弥
生 時代後期初頭頃の土層で、窪地 に堆積す る。色調 か ら二層 に分層 で きる。9層
:弥
生 時代 中期 〜後期 の基盤層 と考 え られる。溝 や柱穴 を確認 した。10〜 13層
:弥
生時代 中期頃の土層である。②地形
弥生時代 中期 には、北東 と南西に河道が流れ、北側 に微高地がひろがっていた。 この地形が以後の遺跡形成に 大 きな影響 を与えている。後期 になると、窪地 と微高地が交互 に形成 されている。窪地は、北東隅 と中央か ら南 東 にみ られる。弥生時代終末〜古墳時代初頭の上器溜 まりは、中央か ら南東 にわたる窪地 と南側の微高地 に形成 される。古墳時代後期 において も、旧地形 に沿つて溝がつ くられている。土地の平坦化が認め られるのは、平安 時代後半か ら鎌倉時代 にかけてである。
③遺構・遺物の概要
(近世 。近代〜中世末
) 2〜
4層において、水田2面
、土坑26基、溝2条
を検出 した。畦畔 については、調査 区北側 において東西方向に1条、東側で南北方向に1条を検出 した。畦畔はまず4層を利用 してつ くられ、3層と2層の段階でつ くりなおされていた。近世段階か ら近代 まで営 まれた水田ととらえている。土坑は調査区の東 側 に、南北 に連 なるかたちで密集 していた。溝 は調査区の北東部にある。大型の溝は
4度
にわたって掘 り返 され てお り、時期 を経るごとに縮小化 している。埋土中か らは陶器類や瓦などが多 く出土 し、石祠の屋根部なども出 土 した。土坑 と溝の検出面は4層である。時期 については、中世末〜近世の範疇で とらえている。鹿田の地割 りにかかわる主要な溝のひとつ と推沢Iする。
(鎌倉時代〜平安時代後半〉
4層
お よび 5層 において、建物3棟
、井戸10基、溝10数条、柱穴約180基を検 出 した。長期間にわたる居住域 ととらえている。それ以前 には、 5層 において検出 した調査区南側 と東側の畦畔の 存在か ら、耕作地 として利用 されていた と考えている。現地で建物 として認識 しえたのは
3棟
であるが、調査区北側 と西側にある柱穴群 も建物 を構成するものであろ う。井戸は10基あ り、井筒 として曲物が利用 されている例が2基
あった。井戸か らは土師質土器や白磁、毬、杓 子 などが出土 した。溝は調査区の四辺付近において検出 した。中央付近の東西 にのびる溝か らは比較的多 くの土 器が出上 し、鎌倉時代末の土師質土器や備前焼 などが出土 している。(古墳時代〜弥生時代〉
この時期の遺構は、弥生時代以来の旧地形の影響が より強 く反映 されている。
古墳時代〜弥生時代終末
古墳時代後期の遺構 としては、溝1条がある。北西か ら南東 に向けて調査区を斜めに のびる溝である。須恵器が出土 している。弥生時代終末〜古墳時代初頭については、土器溜 まり
3箇
所、井戸1 基、溝8条
の遺構がみ られた。検出面は6層である。井戸の発見によって、周辺 に住居や建物があることを予測して精査 したがみつか らなかった。
土器溜 まりは
3箇
所あ り、いずれ も調査区外 まで範囲がひろがるもの と考えられる。 もっとも規模の大 きい土 器溜 ま りは、調査区の中央か ら西側 にかけてひろが り、現状で長 さ16m、 幅7mを
はかる。 この土器溜 まりは、調査区を東西か ら南東 にわたる窪地に形成 されている。同様の窪地で出土 したのが南東側の土器溜 まりで、現状 で長 さ8m、 幅
3.5mを
はかる。南狽1の土器溜 ま りは微高地上 につ くられていた。範囲は現状で長 さ5m、 幅3mで
ある。土器溜 ま りの遺物 は、間層 を挟 まずに遺物が折 り重なるような状況で出土 してお り、ご く短期 間の うちに廃棄が行われたと考 えられる。遣物の内容は、甕や壼、高杯、鉢 といつた通有な土器が大半 を占める一方第2章
鹿田遺跡の調査研究
で、直 日壺や ミニチ ュア土器 な どの祭祀 的な土器 も含 まれる。 また、製塩土器や土錘 、石錘 とい つた水辺 の生業 にかか わ る道具 も出土 した。製塩土器 は細片 となってお り、炭粒 とともに まとまって出土 した。製塩後 の残骸 が、一括 して廃棄 された様相 を呈す る。井戸 は、中央 の土器溜 ま りの東側でみつか った。 プラ ンは方形 を呈 して い る。底か ら完形 の奏が
2段
に重 ね られた状態で出土 した。上層の近 くで炭や焦上が堆積 した層がみ られ、祭祀 的行為が想定 され る。溝 としては、調査 区北狽1において窪地 に沿 うもの と、東側 において南北 にのびる もの を検 出 した。弥生時代
弥生時代後期 と中期 の遺構 ・遺物 を確認 した。後期 の遺構 としては、溝7条、土坑1基が ある。検 出 面 は、7層、
8a・ 8b層
、9層である。弥生時代 中期 の遺構の可能性がある もの としては、南西の1条の溝が あ る。 また、土器小片 と南西の河道 内か ら板材が出土 した。(光
本順)
第 2節 立会調査の概要
鹿 田地 区で は前節 で報告 している第13次調査以外 に小規模工事 に伴 つた立会調査 を15件 実施 してい る。 この う ち、包含層が確認 された ものは11地 点である。 ここでは、遺構が確認 されたエ ネルギーセ ンター棟新営 に伴 う外 構 (雨水管路
)工
事地点 の立 会調査 について報告 す る。エネルギーセンター棟周辺外構工事に伴う立会調査碗田
CO〜 CW36〜45、CL〜CM43〜45、CN〜C044〜46)a.調
査 区 の概 要本調査地点は、第12次調査地点 (エネルギーセ ンター新営地
)の
東辺か ら南辺へ と続 く地点である。2002年10 月7日 〜11月 17日まで、工事の進行 に合わせ随時実施 した。エネルギーセ ンター東辺か ら南辺 にかけては、工事 範囲の大半が既調査区内に収 まる。 また南辺では攪乱 を受けている部分 も多 く、第12次調査地点で確認 されてい る遺構の連続が確認で きなかったもの もある。 さらに調査範囲は管路敷設の掘 り方内 という制約上、上端幅約1m前
後、下端幅約0,9m前
後 と狭 く、また南辺西側か ら東辺北側 にむかって掘削深度 を減ずるため、遺構 を確認 で きたのは40ライン以西であつた。特に柱穴や井戸が確認 された44ラ イン以西については精査 に努めた。b.層
序ここでは掘削深度が大 きく、包含層の状況 を良好 に把握で きた44ラ イン西側の状況 をみてお きたい。なお、調 査区東半は掘削が浅 く、攪乱 も著 しかつたため、地形復元のための十分な情報は得 られていない。 1層 は近 。現 代の造成土、2層は近世〜近代の包含層 と考えられる。3層は茶褐色砂質土で中世の包含層である。4層は暗茶 褐色砂質土で中世の包含層 と考 えられる。井戸、 ピットは4層上面で検出 している。 5層 以下では遺構や遺物は 確認 されなかったが、隣接する第12次調査地点の成果 を参考にすれば、5〜 7層 は古墳時代の包含層、
8,9層
は弥生時代の範疇で捉 えられる。
c.遺
構44ライン以西で ピット
5基
、井戸1基、40ラ イン付近の南壁断面で溝2条
を確認 した。いずれ も中世の遺構で ある。144 1網 1望 1莉 140 1鵠 1認 │ダ 1箭
今回の調査 範 囲 0 10m
図
29
第12次 調査地点 で検 出 した中世の遺構 との位置関係 (縮尺 1/400)ピッ ト
検 出 した
5基
の うち、Pl〜
3の3基
に礎石 と考 え られる礫 を内包 している。Pl、P2は
4層で検 出 した。Plは
直径 約55cm、 深 さ約30cmの
楕 円形 の ピ ッ トであ る。 人頭大 強の礫2個を平滑 な面が上面 となる よ うに置 く。諜上面 の標高 は約1,lm、 底面 の標高 は約0.8mで
あ る。P2は
一辺約45cm、 深 さ約20cmの
隅九方形 を呈す る ピッ トである。板石状 の礫 を4個
収 め、Pl同
様 、礫 の平滑 な面 が上面 となる ように据 えてい る。礫 上 面 の標高 は約1.Om、 底 面 の標高 は約0,8mで
あ る。P3は
44ライ ンよ り西へ約0.5mの
南壁 断面 で確認 した。 3 層上面 か ら掘 削 され る。底面 の標高 は約0.65m、 ピッ ト内 に残 る礫 の上面 の標高 は約0,7mで
あ る。直径 は約50cm
であ り、Pl、 2とほぼ同規模 である。Pl、 2の間隔 は約 2m、 P2、 3は約
6mで
ほぼ直線上 に並ぶため、これ らの ピッ トは柱 間約
2mの
礎石建物 の柱 穴 と考 え られ る。 ただ しPl、 2とP3で
は礫 の上面 で約30cmの
比高があること、石材 の入 り方が異 なることか ら、
P3は
別 の礎石建物 の柱 穴 となる可能性 もある。第12次調査 の範囲では、 この礎石建物 に対応す るような ピッ トは分布 してお らず、建物 の棟数や規模 については今後 の調査 に よって明 らか にす る必要がある。井戸 45ラ イ ン付近で確認 した井戸 は第12次 調査で検 出 した井戸の西狽1に連続す る部分である。4層上面で検 出 した。検 出面の標高 は約 lm、 確認で きた最 も深 い部分 の標高 は約
‑1.2mで
あ る。井戸 は直径約3mに
なる も の と推測 される。井戸 の上部 には大型の礫が乱雑 に入 っている。周囲に石材 はな く、石組 とは考 えが たい。その 下部では板材 を用 いた井戸枠が確認 された。井戸枠 は厚 さ約lcmの
板材 を縦位 に置 き、その内狽1に厚 さ約3cm
ゞ 氏ハ 贔 卜 ヽ 井
︑ ︑
第2章
鹿田遺跡の調査研究
0 5m
図30 44ラ イ ン以 西 の遺 構 詳細 図 (縮尺1/100)
ゞ 代 代 半
︑ て
︑
1黄褐色砂 質土
2灰褐色弱粘質上 d 図
31 Pl平
・ 断面図(縮尺 1/30)
二 鰻
壁
1lm
0 1m
0 50cm
崇
l 明黄 褐色砂質上
2茶褐色砂 質土
3暗灰茶褐色砂質土
図
32 P2平
。断面図(縮尺 1/30)
図
33
基本土層・P3断
面 図 (縮尺 1/30)1 灰茶橿色砂貿■(アロック多) 6灰素褐色砂質■
2暗灰珠褐色覇粘質と(ブコック含)7贈茶梧色お土 3暗秦褐色砂質■(プロック多) 8暗掲色粘土(木貰含む) 4暗茶褐色砂質土(プロック少) 9青灰色砂 5贈侶色粘質■(ブロツク多) (1〜8 井戸埋と、
9 基盤層)
図
34
井戸平 。断面図 (縮尺1/40) の柄 を切 った横木 を渡 して板材 を押 さえる組み合わせ式の構造である。調査区の幅が狭 く、これ以上の掘削は危 険であると判断 し、埋め戻 して現状で保存 した。 したがって井戸枠 を構成する部材の取 り上げはで きなかった。d.ま
とめ今回の調査区は第12次調査地点隣接地であ り、その調査成果 をほぼ追認で きた。 また、第12次調査地点では溝 で区画 された南西の範囲に礎石建物 となるものを含むピットが密集 しているが、その範囲が さらに西 に広がるこ とが明 らか になったこ とは新 たな成果であつた とい えよう。
1造成上
2灰色砂質上 (Fe含)
3茶褐色砂質土 (Fe含)
4暗茶褐色砂質土 (Fe合)
5暗灰褐色砂質土 (Fe Mn合) 6灰黄茶褐色砂質土 (Fe Mn含)
7明黄灰茶褐色砂質土 (Fe Mn多)
8暗褐色強粘上 (粘性強 Mn合) 9明淡緑灰 白色粘土 (Fe含)
A淡灰褐色砂質土
B灰色粘質土
P3a淡黄褐色砂質土 b淡灰色砂質土 C淡黄褐色砂質土
(aよりFe多)
d明淡黄褐色砂質土 e暗淡黄褐色砂質土 f青灰色粘上 g暗青灰色粘質土
(野崎貴博)
第 3節 屁 田遺跡の研究
1.鹿 田遺跡の弥生時代終末か ら古墳時代初頭の集落について
光本
順 a. │ま じどウに
2002年 に実施 した鹿 田遺跡第13次調査 では、弥生時代終末か ら古墳 時代初頭 ぬ)の広範 囲 にわたる3箇所 の土器 溜 ま りを検 出 した。鹿 田遺跡 の当該期 の具体相 を考 える上で、重要 な発見 となった。遺構や遺物 に関す る詳細 に つ いては、整理途上 の段 階であるため正報告 の中で述べ たい。 ここでは鹿 田遺跡 においてこれ まで確認 されてい る当該期 の遺構 ・遺物 について整理 し、その中に本調査地点の様相 を位置づ ける試み を行 いたい。
鹿 田遺跡 において この時期 の遺構 ・遺物が確認 されたのは、1983年 〜1984年 にかけて行 われた第1次調査 (外 来 診療棟)いと1983年 の 第
2次
調査(NMR CT室
)°)であ り、その後 も1・2次
調査 に近接 す る第5次
調 査 地 点(管理棟)・)や
第
8次
調査 地点 (RIヤ台療室)⑤で確認 された。 また、構内の西部 に位 置す る第6次
調査 地 点 (アイ ソ トープ総合セ ンター) )や第
7次
調査 地点 (基礎研 究棟)り、南部 に位 置す る第12次調査 地点 (エネルギーセ ン ター)⑤において も遺跡 のひろが りが確認 された。こう した従来の調査研究成果の中に、第13次調査 で確認 した様相 をどの ように位置づ けることがで きるだろう か。以下では これ までの成果 をまとめなが ら、当該期 における鹿 田の集落の具体相 と、提起 されるい くつかの間 題 につ いて考 えたい。
bi弥
生 時 代 終 末 か ら古 墳 時 代 初 頭 の 鹿 田遺 跡 の全 体 的 様 相これ までの調査 で検 出 した遺構 について調査 ごとにまとめた ものが、図35と 表
2で
あ る。 これ らをみ る と、鹿 田遺跡 における住居 や溝 な どの分布 のあ り方がある程度 わかる。住居 や建物 な ど、人 び とが居住 していた と考 え られる空 間は、構 内北側 の第1次調査 地点 と第
5次
調査 地点 、 西偵1の第7次
調査 地点 で確認 している。第1次調査 地点 は微高地の中央部付近 に位置す る。 この調査 区では
9棟
の竪穴住居が検 出 された。それ らの住 居 は、切 り合 い関係 か ら同時 に併存 した ものは3棟
以下である と考 え られてい るり。 また、住 居 と井戸 がセ ッ トとなって存在す る状況が確認 され、「家」単位 の井戸 の使用が想定 されてい る。明確 な土器溜 ま りも2箇所検 出 されてお り、住居 に近接 して形成 された もの と考 え られる。
第
5次
調査 地点 で は、調査 区の南東隅 に1基の竪穴住居が検 出 された。 この竪穴住居 は、外来診療棟 の住居群 とはやや離れた場所 にある といえる。調査 区の北側 には溝 と井戸が検 出 されている。上記 の
2地
点 とは異 な り、建物が検 出 されたのが第7次
調査 地点である。4棟
の竪穴住居 とともに3棟
の建物 が確認 されている。それ らの住居 と建物 は平面的に向 きを揃 えて配置 されてお り、 まとまった群 をなす と考 え ら れ る。一方、溝 は住居群や建物群 とはやや離 れた場所 において検 出 されてい る。す なわち、第
5次
調査 地点 の北側 や 第1次・第6次
。第8次
・第13次調査 で溝が確認 されている。第13次調査 においては、調査 区の中央 に窪地が形 成 されてお り、居住 には不 向 きな土地 となっている。この ようにみ る と、鹿 田の集落 は現状 において次 の ように復元で きるだろ う。す なわち、数件程度の規模で群 をな した竪穴住居 ない し建物が点在 し、そ う した居住域 の間に溝が配 されていた様相が想定で きる。居住域 とし
調 査 地 点
主要 な遺構
文 献 生た ど杉
芦一 ll
1次 外来診療棟) 9 6 14 ユ 2 言
2次 NMR CT室) 3 =2
5次 管 ナl棟〉 I 6 2 註4
6次 アイソトープ) 1 8 H16
7次 (基礎研 究棟) 3 1 7 柱
含 O 1 註7
8次 (RI治療 室) 1
12次(エネ ル ギ ー セ ン タ ー) ○ ○ 1 ○
13次 (総合教 育研究棟) 1 9 3 木 報 辛
表
2
鹿田遺跡の弥生時代終末から古墳時代初頭の遺構一覧170 160 150
導 ―
―
第2章
鹿田遺跡の調査研究
AV
BE
130 土沼
20 N
トハ 吐▼
︹じ
︑
麦圧 ≡ コ
(第2次
NMR―
CT室〉凰
[三≡ 三 こ と 弓 ご 細次
(第5次・管理棟〉
外来診療棟〉
BO
土溜
〈第13次・総合教育研究棟〉 (第8次 RI治療室〉
麦
縄
BY
〈第7次・基礎研究棟〉
プ総合センター〉
(第
H次
・病棟〉(第6次
CI
(第
H次
病棟〉,校舎〉
cs
│
図
35
鹿田遺跡の弥生時代終末 か ら古墳時代初頭の遺構全体図 (縮尺 1/2,000)では第1次調査地点 、第
5次
調査地点南側 、第7次
調査地点 とい う3箇
所 において現状 で想定 で きる。 これ らの 居住域 の周辺 に、溝 や窪地が形 成 されている。したが って、広範 囲の土器溜 ま りが検 出 された第13次 調査地点 は、居住域 の中間地帯 ない しは縁辺部 に相 当す る と捉 えることがで きる。
c.鹿
田 遺 跡 第13次調 査 の 意 義これ までの調査成果 と第13次調査 で得 られた知見 をあわせ て、当該期 の鹿 田遺跡の様相 を上記 の ように復元 し た。鹿 田遺跡 第13次調査 は、居住域 とその周辺部 の関係 を捉 える上で重要 なデー タを提供す る もの といえる。最 後 に、鹿 田集落 を考 える上 で ポ イ ン トになる と考 え られ る問題 につ いて、第13次調査 の成果 を もとに述べ てい き たい。
まず、土器溜 ま りについては、鹿 田の様相 をみ る と居住域内 に形成 されるパ ター ンと、居住域 か ら離 れた周縁 部 に形 成 され るパ ター ンが あ る こ とが わか る。前者 は外来診療棟 と基礎研 究棟 で確認 で きる。後者 については、
第13次調査 地点が該 当す るだろ う。 第13次 調査 で は窪地 に
2箇
所 、微 高地 に1箇所 の土器溜 ま りが形 成 されてい アイソトー次 第3 Π
= H H H
=
=
(第9次
病棟〉
た。調査 区内お よび近接す る調査地点の状況 を勘案す る と、居住域か ら離 れた場所 に形成 された もの と提 えるこ とがで きる。 この2つのパ ター ンについては、土器溜 ま りが形成 される要因 自体 にちがいが存在す る可能性 もあ るだろ う。
土器溜 ま りと同様 に、井戸 について も居住域 内 につ くられる場合 と周縁部 につ くられる場合 をみて とることが で きる。前者 のパ ター ンと しては、鹿 田遺跡 第1次・
2次
調査 の報告書 で述べ られていた、「家」単位 で井戸 が 設 け られ る状況が挙 げ られる。一方、第13次 調査地点で明 らか となったのは、後者のパ ター ンである可能性が高 い。13次調査 の井戸 は窪地の範囲内にあ り、居住域か ら離れて築かれている。この ようにみる と、第13次 調査地点 は、居住域 の周縁部 における空間利用の ひ とつのあ り方 を示唆する もの と い える。 こう した周縁部 に形成 される土器溜 ま りや井戸が どの ような意味 を有す るのか とい う点 については、そ れぞれの遺構 に関す るデー タの検討や出土遺物の詳細 な分析 を踏 まえた上で、居住域 と対比 しなが ら改めて論 じ る必要がある。
さて、当該期 の鹿 田集落の歴史的性格 を追究す る際、広 く地域社会の動 向の中に鹿 田遺跡 を位置づ ける必要が あ る・D。 この時期 の土器溜 ま りに関 しては、他 の遺跡 との比較研究が重要 となる と考 えられる。例 えば、窪地 に まとまって土器 を廃棄す る状況 は、岡山市津寺遺跡で も認め られる。津寺遺跡では、古 。前 。I期の段階で窪地 や廃絶 された溝 に土器溜 ま りが形成 されるの に対 し、古 ・前 ・ Ⅱ期 の段 階 になる と廃絶 した住居 や水 田、溝 に多 量 の遺物が廃棄 される状況が明 らか になってお り、後者の段 階 については集落廃絶時の何 らかの祭扁E行為が想定 されてい る°n。 第13次調査 地点 にお ける土器溜 ま りの形成 も、広域 に発生 した現象のひ とつ と して捉 えることが で きるだろ う。高橋護 は当該期の土器溜 ま りが単純型式で構成 され ることか ら、多数の上器 を廃棄す る行為が、
土器 の更新 と広域 にわたる新 たな住居地利用の割 り直 しが行 われた ことを想定 している住か。第13次調査で検 出 し た土器溜 ま り素材 に、遺物 と出土状況の両面 か らその形成過程 を明 らか にす る中で、その歴史的意義 を論 じてい
きたい。
この ように第13次調査地点 は、集落内にお ける空 間利用のあ り方 と、集落 間における共通す る現象の意味 を追 究す る上 で、有益 なデー タを提供す る もの といえる。
d.お
わ りに今 回は、鹿 田遺跡 第13次調査 によせて、鹿 田における弥生時代終末か ら古墳 時代初頭 の集落の具体相 について 基礎 的な整理 を行 つた。本格的な整理作業 はこれか らであ り、言及可能 な部分 は限 られていたが、当該期 の社会 復元 を行 うための ひ とつ のステ ップ としたい。
言主
(1)土器溜まりから出土した上器については現在整理中であるが、鹿田
古・I期 (山本1988)に おおむね相当するものと捉えてい る。山本悦世1988「鹿田遣跡の弥生〜古墳時代初頭の土器」『鹿田遺跡I』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター pp.385‑395 (2)告留秀敏・山本悦世編1988『鹿田遺跡I』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター
(3)註2
(4)松木武彦・山本悦世編1993『鹿田遺跡3』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター
(5)小林青樹編 2000F岡 山大学構内遺跡調査研究年報16』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター (6)松木武彦
山本悦世編1997『鹿田遺跡4』 岡山大学坦蔵文化財調査研究センター
(7)山本悦世2000「鹿田遺跡第7次 調査」『岡山大学構内遣跡調査研究年報16』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター pp 16‑18 (8)山本悦世2001「鹿田遣跡第12次調査」『岡山大学構内遺跡調査研究年報18』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター pp.19‑26 (9)山本悦世1988「鹿田遺跡における集落構造とその変遷」『鹿田遣跡I』 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター pp.373‑384 (10)松木武彦1993「岡山平野における弥生〜古墳時代の地域集団一鹿田集落の地域史的位置づけ―」『鹿田遺跡3』 岡山大学埋蔵文
化財調査研究センター pp.147‑156
(11)亀 山行雄1998「古墳時代前期の津寺遣跡J『津寺遺跡5』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告127 岡山県教育委員会 pp.712‑717 (12)高橋
護1988「弥生時代終末期の土器編年」『研究報告9』 岡山県立博物館 pp.1‑32
第2章
鹿田遣跡の調査研究
2.鹿 田遺跡 第 5次 調査土壊 15か ら出上 した炭 化穀粒 につ いて
元 九州大学教授
小
西
猛
朗 は じどウに
鹿 田遺跡 は、岡山市街地の南部 にある岡山大学鹿 田地区 に広が る縄文か ら近世 に至 る複合遺跡である。第5次 調査 で弥生時代 〜中世 に属す る遺構 では井戸
7基
、土壊28基 、溝54条 などが検 出 された。調査 の対象 とした土壊 15は上部 で一辺140cmの
不整形 の隅 円方形 をな し、深 さ55cmの
底部 で は径65〜70cmの
円形 となってい た。そ して、底部 に近い ところで炭・灰層が見 られ、その中に籾や イネ科植物 の茎 な ど水 田 と関係す る植物遺体が多 く 含 まれていた。 この土媛か ら土師器 の椀 、皿、杯 のほか、瓶や各種 の木器 な どが出土 し、それ らの遣物 か ら埋 め られ たの は平安時代末期 、11世紀 中頃〜後半 と考 え られる。この報告 では、鹿 田遺跡土媛15で 出土 した炭化穀粒 の うち多 くの粒 について測定可能な米 と大麦の粒 について 形 と大 きさを調べ る とともに、 日本 の各地の遺跡で発掘 された炭化穀粒 の計測値 と比較 して、鹿 田遺跡 にお ける 当時の農耕技術 を作物育種学的見地か ら考察 を試みた。
a.試
料 と調 査 方 法調査試料 と した鹿 田遺跡の炭化穀粒 は岡山大学埋蔵文化財調査研究セ ンターで発掘 し、水洗 した後 、風乾 して 貯蔵 していた ものであ る。
出土 した炭化穀粒 につ いて は、籾 米 (籾の付 着 した玄米)、 玄 米、大 麦、小 麦 とその他 の爽雑物 とに分 別 し て、全体の粒 に対す る割合で示 した。
粒 の大 きさの測定 には、壊 れやすい ものがあ ったので写真撮影 した後、粒長 と粒 幅 を測定 し、実際の値 に換算 した。 なお、参考 に加 えた試料 については順次説明す る。
各試料 につ いて、粒 の大 きさに関す る数値 か ら平均値 、分散、標準偏差 お よび変異係数 を求めた。 また、各試 料 の平均値 間の有意差検定 は分散分析 か ら
Duncanの
多重範 囲検定法 によ り、5%水
準 で比較 した。写真
8
鹿 田遺跡第5次調査土境15で出土 した炭イヒ物b.調 査結果 と考察
①炭化穀粒 と混入 している交雑物
出土 した炭化物 は写真8に示す ように、穀粒 には籾殻 を被 つた籾米 、玄米、大麦 、小麦が あ り、爽雑物 と して 雑草種子 や焼 け焦 げて判別不 能 な植物 の断片 な どが多 く混 じってい た。 これ らの戊化穀粒 と他 の爽雑物 を分 け、
さらに炭化穀粒 を籾殻 の付 いた籾米、籾殻 のない玄米、大麦、小麦 に細 区分 し、それ らの粒数割合 を求めた。
表
3
炭化穀粒 と交雑物 との害」合 (%)籾 米 玄 米 大麦* 卜麦 その他** 半明螂不能 調査粒数
22.ユ 32.2 25.8
・大麦には皮麦 と裸麦が含まれる。器籾殻や雑草の種子が混在。
表
3か
ら明 らかなように、炭化穀粒 には大麦 と玄米が多 く、小麦 と籾米は極めて少ない。また、焼け焦げて著 しく変形 したものや一部が砕 けたものなどの判別不能な炭化物 も多 く見 られた。この鹿田遺跡で出土 した炭化穀 粒の多 くは焼けて、直接 ノギスに挟んで粒の大 きさを沢1定で きないほど粒が軟弱化 した り、他の爽雑物 と癒着 し た粒が多かった。そこで出来るだけ癒着のない正常 な形の粒 を選んで供試 した。②炭化米 の粒形
この鹿田遺跡の土娠15で出土 した遺物か ら穀粒が埋め られたのは11世紀の もの と推定 されている。そこで参考 資料 として比較的年代 と発掘場所が近 く、 しか も多 くの炭化米 について測定 してある福岡県小郡市の小郡遺跡の 炭化米
(7世
紀後半 と推定)の
測定値 を佐藤敏也氏の著書「日本の古代米」か ら引用 した。 また、現代の玄米 と して「朝 日Jを
用いた。この品種は明治42年、京都で在来種の中か ら選び出されたものを、さらに岡山県農業試 験場で純系選抜 を加えて昭和6年に育成 した古い品種である。供試 した「朝 日」の玄米は岡山大学資源生物科学 研究所助教授の前川雅彦博士が実験圃場 (倉敷市)で
栽培、収穫 したものを頂いた。ここで鹿田遺跡の炭化米は、粒の表面 を縦 に走る筋 (稜線
)が
明瞭で、 しか も胚芽が残 つていることか ら、鴇 精 (精白)さ
れていない炭化玄米であることは明 らかである。 さらに、籾殻や籾殻の付いた籾米が出土すること か ら、この炭化米が玄米の状態で焼かれたのではな く、籾米 として、あるいは稲穂のまま蒸 し焼 きされたとも考 えられる。この土娠での遺物の出土状況 を説明 した鹿田遺跡第5次
調査報告書 によれば、「穂付 きのまま燃や さ れ、蒸 し焼 き的な状態 を生 じていることが想定 される」 とある。粒
長
表4には各試料 についての粒長の平均値、分散、標準偏差お よび変異係数 を示 し、 さらに平均値間の有意差検 定
(5%水
準)の
結果 も掲げた。表
4
出上 した炭化米および玄米の粒長の比較 (mm)試料番号 遺跡名 調査粒数 平均値 分 散 標準偏差 変異係数 (%) 有意差検定*
〕 鹿 田遺跡 4.55 0.2177 0,4666 10.25 a
2 小郡遺跡 4.60 0.1779 0.4218 9,16 a
3 朝 日 (玄米) 5.12 0.0224 0,1498 2.92 b
*平均値の有意差検定 a tt b
今回調査 した鹿田遺跡で出土 した試料1と参考 とした小郡遺跡での試料2の炭化米の間には粒長の平均値 に関
第2章
庇田遺跡の調査研究
して有意 な差異が な く、分散、
ぁ 標準偏差お よび変異係数 に も大
きな差 は認め られなか った。 こ
30
れ に対 して「朝 日」 の玄米 は炭
化米 に較べ て粒 は長 く、分散 と
25
標準偏差 は小 さ く、変異係数 は
話 3程
度と 極めて小さいことから 想
20托 員 :勇 た 概 曇 真 を 再 象 31縁 :15
る と、炭化 によって粒長が短 く
1。
なる ようであるが、炭化 に伴 う 粒形 の変化 については考察の項
5
で詳 しく触れることにす る。
炭化米で粒長の変異が大 きく
0
なるの は遺伝 的 に異 なる ものが 混在 しているか、栽培環境 の乱 れ による ものか、 さらに炭化の
程度の違いによって粒長 の短縮程度 に差異 を生 じた とも考 え られる。そ こで、各試料別 に粒長の変異の様相 を図 36に 示 した。鹿 田遺跡 と小郡遺跡の炭化米 の粒長 は互 い に大 きな変異 を示 し、粒長5。
2mm以
上 の炭化米 とそれ未満 の もの とに分 け られ る。す なわち、前者 の長粒群 は佐藤 (1971)の粒長5。
3mm以
上 の 第 Ⅱ群 に属 し、後者 の ものが5.3mm未
満 の短粒 の第I群に入る。 さらに、鹿 田遺跡 の炭化米 は第I群の 中で も複数 の頻度分布 の山 が見 られることか ら、遺伝的 に粒長の異 なる ものが混在 していた と考えられる。 また、鹿田 。小郡の両遺跡の炭 化米で第 Ⅱ群の長粒種が見 られたことは注 目に値す る。一方、遺伝的 に斉一 な「朝 日Jの
玄米では、粒長の頻度 分布 は正規分布 に近い形 を示 した。粒
幅
供試 した試料 についての粒幅の変異 を表5に掲 げ た。鹿 田遺跡の炭化米 は明 らか に粒幅が小 さ く、「朝 日」 の 玄米が最 も大 きい粒幅の値 を示 し、小郡遺跡の炭化米がそれ らの中間の値であった。 また、粒幅の分散や変異係 数 は玄米 よ り炭化米の方が大 きい値 となった。 この炭化米の粒幅の大 きな変異 を示 した原因が遺伝的な ものか、
生育環境 による ものか、炭化程度の差 なのか、 さらに炭化 による粒の膨 らみが関与 しているかは明 らかでない。
しか し、先述 の ように炭化米では遺伝的 に異 なる ものが混在 していることは確かである。
表
5
出上 した炭化米および玄米の粒幅の比較 (mm)試料番号 遺跡名 平均値 分 散 標準偏差 変異係数(%) 有意差検定*
1 鹿 田遣跡 2.42 0.0831 0.2883 11.90 a
2 小郡遣跡 2.75 0.1228 0.3504 12.27 b
3 朝 日(玄米) 2.97 0,0131 0.1143 b
ホ平均値の有意差検定
a+b
粒形指数
粒 の形 を一次元的 に示す ため に、粒長
/粒
幅比 を用 い る こ とが多い。 しか し、粒幅 は環境 の影響 を受 けやす く、粒長 よ り粒幅の方が小 さい値であることか ら、求めた粒長/粒
幅比 の変異 は大 きい。そ こで、 ここでは逆 に35 37 39 41 43 45 47 49 51 53 55
粒 長 (m諭
図
36
試料別 に示 した米の粒長の変異粒幅
/粒
長比 を各粒 について求めて粒形指数 として示 した。 この粒形指数が大 きい ものは円に近い楕 円形 、値が 小 さい もの は細長い楕 円形であることを示す。また、この指数 は粒形 とともに、粒 の充実程度 を表す もので もある。表
6
出上 した炭化米および玄米の粒形指数の比較試料番号 遣跡 名 平均値 分 散 標準偏差 変異係数(%) 有意差検定*
1 鹿 田遺跡 0.0042 0 0654 12.20 a
2 卜郡遺跡 0.0080 0 0892 14.79 b
3 朝 日(玄米) 0.0006 0.0251 b
*平均値の有意差検定 a tt b
Ю
︵浜︶銅雨や静質望揮負Y 4 ︒ m
表6に示 した粒形指数 に よれ ば鹿 田 遺跡の炭化米が供試材料 の中で最 も細 長 く、小郡遺跡の ものは「朝 日」 の玄 米 の粒形指数 との差 は認め られない。
しか し、各試料内の変異 は炭化米の方 が明 らか に大 きい値 を示 している。 こ の関係 を詳 しく見るために、各試料内 の粒形指数 による頻度分布 を図37に 示 した。「朝 日」の粒形指 数 の変異 は極 め て小 さ く、多 くの粒が0.61こ集 中 し てい る。 これに対 して炭化米の変異 は 大 き く、鹿 田遺跡の炭化米 は粒形指数 が低 い方 に大 きく歪み、小郡遺跡 の も の は0.6を 中心 に両方向 に長 く尾 を引 く。 この大 きな変異 が遺伝 的 な もの か、栽培 環 境 の不 安 定 さに よる もの か、 さらに炭化程度 による ものかは明 らかでない。 しか し、前述 の粒長 などの変異か ら見て、遺伝 的に異 なった ものが混在 して栽培 されていた とみることがで きる。 さらに炭化米 については焼 けこげた もの も見 られたこ とか ら、 これ も粒形指数の変異 を高めた原 因 とも考 え られる。
考
察
まず、米が炭化 によって粒 の形が どの ように変化す るか について考 えてみ る。佐藤 (1971)は奈良県唐古遺跡 か ら出土 した炭化米 は長穎稲 で、その粒長が
4.32mmで
、現在栽培 されている長穎稲(二枚稲)の 粒長力M.55mm
で極めて近い数値であることを報告 している。 これか ら炭化 に よる粒長 の短縮率 は5,1%と推定 され る。一方 、 安 田 (1927)は栽培 されてい る有名な数品種の玄米 を蒸 し焼 きに して粒 の大 きさを測定 した。盛永 (1969)は対 応す る品種 の玄米の大 きさと比較 して、粒長で16〜19%、 粒幅で21〜
27%短
縮す る と した。 しか し、炭化米 の中 には玄米が焼 けて粒 の内部が海綿状 に膨 らみ、粒の形が変形 した もの もある。 こう した点か ら、炭化 による粒形 の変化 に関 しては詳細 な検討が必要である。つ ぎに、炭化米の粒長 について佐藤 (1971)は全 国の炭化米 の大 きさについて調べ 、5。
3mm以
下 の短粒 の も の を第I群、それ以上 の長粒 を第H群
として分類 した。図36で 示 した ように、鹿 田 と小郡の両遺跡で も第I群の 中に第 Ⅱ群の炭化米が混 じっていた。 この第 Ⅱ群の炭化米 は弥生時代 の福 岡県の津古牟田遺跡や須川遺跡か らもO t140 045 050 055 0る 0 065 070 075 090 粒 形 指 数
図
37
試料別 に示 した米 の粒形指数の変異朝 B
′Jtt「
鹿 田 e
じ 埋 軍
第2章
鹿田追跡の調査研究
出土 して い る (和佐 野1993)。 さ らに、佐 藤 (1971)は河 内長野市 で見出 された文政 10年 (1827)の備荒米 を調べ 、その多 くが 第 Ⅱ群 の玄米で赤米 の公算 が大 きい と述べ てい る。 また、長野県 に残 る江戸時代 の備 荒米で も第 Ⅱ群 の米が見 られ、
2年
続 きの 凶作 に耐 える稲 として、 この ような品種が 選 ばれたのか も知 れ ない。鹿 田遺跡 か ら出土 した炭化米 は平安 時代 末 (11世 紀 中 頃 〜後 半
)と
考 え られ て い る。そ こで、佐藤 (1971)力 洋R告 している 日本の各地か ら出土 した炭化米の試料の中 か ら奈良時代 〜江戸時代 の もので、10粒 以 上 の炭化米 について粒長 と粒幅 を測定 した もの を加 え、粒形 を比較 してみた (図38)。 対 象 と した炭化米 の測定値 は16試 料 に よる ものであ り、その多 くは 粒形指 教=0.6の線 の近 くに散布す る。 しか し、鹿 田遺跡の炭化米 は明 らか に粒形!旨数=0.6の線 か ら下 に外 れ、粒長 に対 して粒 幅が小 さい。 この こ とは図37か らも明 らか な ように、粒形指数の頻度分布が低 い方 に歪み、充実 の良 くない痩せ粒 が多か ったことに よる。 また、鹿 田遺跡の炭化米 を見 る限 りでは、玄米で比較的長粒 の ものや 痩せ た粒が 出土す るこ とか ら、おそ ら く幾種類 かの遺伝子型 (品種
)の
ものが混合状態で強 く焼かれたのではな いか と推測す る。粒 長 (mm)
図
38
奈良時代 〜江戸時代 の炭化米 の粒長 と粒幅 の関係③炭化大麦の粒形
大 麦 は脱穀 して も粒 か ら穎 が離 れ ない皮 麦 と、小麦の ように裸 の粒 となる裸麦 とに分類 さ れ る。鹿 田遺跡の炭化 した大麦粒 をみる と、皮 麦 と裸 麦 とが混在 してい た。表7に示す ように 調査 した炭化粒の多 くは裸麦 で、皮麦 も混 じつ てい る状態である。皮麦のほ とん どの粒 は裏面 の溝 の部分 には穎が残 っているが、表面では穎 が大部分剥離 して胚が露出 しているので、粒 の 形 の測定 には裸麦 と同 じように測定 して も支障 はない。
ところで、 日本の大麦 には渦性 と呼 ばれる半 矮性 の品種があ り、その渦性遺伝子 は粒 をは じ め秤や葉、と な どのあ らゆる器官の長 さを短縮 す るが 、幅や厚 さには影響 しない(高橋1942)。こ の鹿 田遺跡か ら出土 した大麦粒 の粒形か ら渦性 の粒 と認 め られる もの もあるが、粒長の変異 は 図391こ示す よ うに並性 (正常
)の
短 い粒 と渦性 の長い粒が互 いに重 な り連続 的であるので、1
表
7
出土 した炭化大麦粒の皮麦 と裸麦 の害!合 (%)皮 表 裸 麦 判別不能 調査粒数
24,7 57.3
□ 鹿 日 図 川 越 熾 下北原
□ 赤勧
43 45 47 ■9 51 ,9 55 57 59 01 69 65 67 69 フ1
粒 長 (mお
図
39
試料別 に示 した大麦 の粒長 の変異灼
︲5 Ю
︵嵌
︶印 扇 ぐ 卜 賓 里 算 oo 一
粒毎 に粒形だけで並性 と渦性の粒 を完全 に識別することは困難である。 しか し、この炭化 した裸麦の中には明 ら かに粒の短い渦性の ものがみ られることか ら、裸麦については長粒の並性の粒 と短粒の渦性の粒が混在 している と言える (写真
9参
照)。 これに対 して、皮麦では調査 した粒 に関す る限 りでは渦性の粒 は認め られず、すべ て が長粒で並性の粒 と思われる。粒
長
炭化米に較べて炭化大麦の場合、多数の粒 について測定 した報告 は極めて少ない。鹿田遺跡の炭化 した大麦粒 と比較するものとして、奈良〜平安時代頃の埼玉県川越市第一中学校敷地内住居l■ (仙波古代集落遺跡、ここで は便宜上、川越遺跡 とい う
)お
よび千葉県君津郡湊町 (現在富津市)更
和下北原遺跡で出土 した大麦粒がある(直良1956)。 さらに比較のために、現代 の渦性裸麦品種「赤神力」 を加 えた。川越市の炭化粒 については測定
した100粒の うち40粒は大麦であるが、それ以外の ものは形態的に他の種類の種子のようである (直良1956)。 ま た、下北原遺跡の大麦については1000粒についての値が記載 してあるが、ここでは最初の100粒の測定値 を引用
した。
表8に示す ように、粒長の平均値 に関 しては試料 1〜 3の炭化大麦の間には有意な差 は認め られないが、「赤 神力
Jの
玄麦 より明 らかに小 さい値 を示す。粒長の変異については鹿田遺跡の炭化粒では小 さく、下北原遺跡の ものは変異が最 も大 きい。 このことは図39に見るように、いずれの炭化大麦 も粒長の可成 り異なる幾つかの群が 混在 して変異 を拡大 し、特 に下北原遺跡の ものには極端 に短い粒が混 じつていた。 さらに、川越遺跡か ら出土 し た大麦粒や下北原遺跡の炭化粒の写真 (直良1956)を見る限 りでは、粒長のほか粒幅の狭い雑草の種子のような ものなど、粒形の大 きく異なるものが混在 していた。粒
幅
炭化 した大麦 は玄麦の「赤神力
Jよ
り有意 に粒 の幅が狭 く、 なかで も川越遺跡 の炭化麦 は他 の もの よ り明 らか に狭 い (表9)。 この ことは粒幅の狭 い粒が多 く、粒幅の頻度分布 は狭 い方 に大 きく歪 んでいた (図40)。表
9
出上 した炭化大麦および玄麦の粒幅の比較 (mm)試料番号 遣跡名 平均 値 分 散 標準偏差 変異係数(%) 有意差検定*
l 鹿田遺跡 0,0939 0.3065 10.90 a
2 川越遺跡 2.63 0.0705 0.2654 10.08 b
3 下北原遺跡 2.85 0.0827 0.2876 10.08 a
赤神力(玄麦) 3.65 0,0378 0.1944 5.33 C
*平均値の有意差検定
a+b+c
表
8
出上 した炭化大麦および玄麦の粒長の比較 (mm)試料番号 遺跡 名 調査粒数 平均値 分 散 標準偏差 変異係数(%) 有意差検定*
l 鹿 田遺跡 5.69 0 2220 0.4712 8.29 a
2 川越遺跡 5.67 0.2890 0.5376 a
3 下北原遺跡 5,42 0,3422 0.5850 10.79 a
赤神力(玄麦) 6.03 0 0691 0.2630 4.39 b
・平均値の有意差検定
a+b
第2章
鹿 田遣跡 の調査研究
鹿 田遺跡 の炭化大麦の粒幅の変異 は他 の遺跡の もの よ り大 きい。 これは図40か ら明 らかな ように、粒幅の少 し廣 い粒が 混 じつてい る こ とに よる。炭化粒 を観察 してみ る と、焼 けて粒が若干膨 らんだ よ うに見 える粒 もあ るが、遺伝 的 に幅広 の 粒が混 入 してい る こ とが半1る。
粒形指数
大麦の場合 も、粒幅 を粒長 で除 した値 を粒形指数 として表 した。粒形指数 につ いては炭化大麦の間で有意 な差異 は認 め られ ないが、玄麦の「赤神力
Jよ
り指数 は明 らか に低 い値 を示 した。 この こ と は、完全 に熟 していない粒が炭化 によっ て粒長 に比 して粒幅が大 きく短縮 した と見 るこ とも出来 るが、元 々粒 の細 い粒が炭化 した と考 える方が妥当の ようである。すべ ての遺跡の大麦粒が未熟 で炭化 した とは考 え難いか らである。
なお、炭化 した小麦 については粒数 も少 な く、他 の遺跡か らの出土報告例 も極 めて少 ないので、今 回は取 り上
tヂない こ とに した。
考
察
現時点 で最 も古 い炭化大麦が出土 したのは、福 岡市早 良区の四箇遺跡か らの縄文後期 と推定 される裸麦1粒で あ る (笠原1987)。 その後、弥生時代 に入る と九州 か ら関東 の各地で炭化 した大麦粒が 出土 してい る。福 岡市博 多区の諸 岡遺跡 で は弥生前期 末の皮麦が26粒 出土 し、21粒 の粒長 と粒幅の測定値が報告 されてい る (粉川1977)。
これ らの値 お よび添付 されたスケ ッチの
2粒
と写真 の5粒を見 る とすべ て並性皮麦である。関東 では横浜市南 区 か ら保土 ヶ谷 区にか けての弥生後期前葉 の住居址 か ら皮麦121粒 と裸 麦74粒 が 出土 し、皮麦7粒
と裸麦3粒
の粒 長 と粒 幅 の値が示 されている (笠原1984)。 これ らの測定値 か ら見 る と並性 と渦性 の両種が混在 してい る ようで あ る。その後、既 に述べ た埼玉県川越市 の川越遺跡 や千葉県富津市の下北原遺跡 か らの炭化大麦が多数 出土 して い る。直 良 (1956)の 示 す 第65図 には川越遺跡 と下北原遺跡 か らの炭化大麦 各2粒
の表裏 の写真 が掲 載 してあ る。 これ らの写真 に関す る限 りでは、川越遺跡の大麦 は渦性 の裸麦であ り、下北原遺跡の ものは並性皮麦 と見 る こ とが出来 る。岡山市の津寺遺跡では8世
紀 の もの と推定 され る多数の裸麦が出土 し、19粒 の測定値が報告 され□ 鹿 日
□ 川 越 劇 下北原 口 赤神力 Ю
密
鰤
︲5
︵誤
︶櫛 誦 や卜 凍 L封 壱 o 一
23 25 27 29 91 39 35 37 39 41 43 粒 幅 (mめ
図
40
試料別 に示 した大麦 の粒幅の変異表
10
出上 した炭化大麦および玄麦の粒形指数の比較試料番号 遺跡名 平均 値 分 散 標準偏差 変異係 数(%) 有意差検定】
1 鹿 田遺 跡 0.50 0.0029 0 0542 10.90
2 川越遺跡 0.47 0.0031 0.0555 11.89
3 下北原遺跡 0.53 0.0036 0.0600 11,32
4 赤神力(玄麦) 0.0014 0.0372 6.15
ホ平均値の有意差検定
a+b
´0 6
千葉 下JI
r粒形指数
=05 / 岡 出
岡 山津寺
圏 禾8歌 I太田黒甲′
, 横浜 高速 道
(†要)
東京 甲の 原
r0 横浜 高速道
(皮)
研山高塚 岡 山鹿田
牟謳 躇 鳳 横浜再魅道
/(,凸)●
埼 玉 '1魃
,S‑18 ´´ 全
じ 蠅 揮
て い る (松谷1994)。 粒 長 と粒 幅 の 値 か ら推測す る と並性 と渦性 が混在 してい る ようである。 さらに、本報 告 と同 じ鹿 田遺跡 の別 の場所 の12世 紀代 の井戸
2か
ら炭化 した皮麦2粒 が 出土 し、粒 の長 さ、幅お よび厚 さ の測定値が報告 され写真が添付 して あ る (松谷1990)。 こ れ ら は 長 粒 で 、並性であること力WJる。渦性 は野生型 であ る並性 の大麦 か ら単一の劣性 遺伝子 突然変異 (晩 フ
→宏′
)に
よ っ て 生 じた もの で あ7
り、その分布域 は 日本の関東以西の 地域 と朝鮮半 島南部 に限 られる (高 橋1950)。 上 述 の多 くの遺 跡 か ら出 土 した大麦粒 の写真 と測定値 か ら見 る と、渦性 の大麦 は最 も古 い もので横浜市 で出上 した弥生後期前葉 の炭化粒 の中に認 め られている。 ここで岡山県 における大麦 についてみ る と、裸麦 については
8世
紀 には既 に津寺遺跡 の 炭化大麦か ら渦性 の種子が見 出 され、本報告 で調査 した鹿 田遺跡 の大麦か らも並性 に混 じって渦性 の裸麦が出土してい る。 しか し、皮麦では11世 紀 頃で も未 だ渦性 の炭化粒 は見出 されていない。
つ ぎに、粒形 について鹿 田遺跡の大麦 と他 の遺跡の大麦 とを比較 してみ る。図41か ら明 らかな ように、鹿 田遺 跡 の大麦 (◎
)は
ほぼ真 ん中に位置 している。炭化大麦の場合、前述の ように並性 と渦性 が混在す る とき、それ らの混合割合 によつて粒形 に関す る平均値 は変動す る し、観察 によって粒形 だけで並性 と渦性 を正確 に識別す る ことは困難である。 こうした点か ら、単 に大麦粒 だけに止 まらず、穂軸やそれに付着 した底刺 な ども並 ・渦性 の 識別 に有力 な情報 を与 えることもあるので、採集 した土の水洗 に際 して注意 を払 うべ きであろ う。表コ
図41に 示 した炭化大麦 出土遺跡一覧
出土追跡 推定年代 調査粒数 引用文献:記載頁 (発表年次)
福岡市諸岡 (甕棺 S) 弥生前期末 6皮 福岡市埋蔵文化財調査報告書38:115(1977) 福岡市諸岡 (奏棺S‑18) 弥生前期末 15皮 福岡市埋蔵文化財調査報告書38:116 977) 横浜市道高速 2号 線 弥 生 後 期 前 葉 3裸 横浜市道高速2号線埋 文発調報
6:56
1984)横浜市道高速 2号 線 弥生後期前葉 3皮 横浜市道高速 2号 線埋文発調報
6:56
1984) 横浜市道高速2号線 弥生後期前葉 4皮渦 横浜市道高速2号線埋文発調報6:57
1984) 東京都 中野 区 甲の原 弥生後期後半 3皮 東京考古5:81(1987)千葉県富津市下北原 奈良・平安時代頃 13皮 直良信夫「日本古代農業発達史」:281(1956) 埼玉県川IIx市 奈良・平安 時代 頃 1001果 直良信夫「 日本吉代農業発達史J:270‑271(1956) 山口県光市岡原 古墳 前期初頭 5裸 直良信夫「日本古代農業発達史」:268(1956) 和歌山市大田黒田 奈良期 5裸 佐藤敏也「 日本の古代米J:201(1971)
岡山市鹿 田土娠15 古代末〜中世初頭 68イ昆 本報告 (◎)
岡山市鹿田井戸2 古代末〜中世初頭 2皮 岡山大学構 内遺跡発掘調査報告3:103(1990)
岡山市津寺 平安 中期 14裸 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告90:503(1994) 岡山市高塚 中 世 6裸 岡山県埋 蔵文化財発掘調査報告1501159(2000)
45 5 55 0 65
粒 長(mm)
図
41
弥生前期 〜中世 の炭化大麦 の粒長 と粒幅の関係第2章
鹿 田遺跡 の調査研究
ci総
合 考 察遺跡か ら出土す る炭化粒が焼 けて炭化 したのか、 自然 に炭化するものかは明 らかでないが、鹿田遺跡の場合は 明 らか に粒が焼 けている。鹿 田遺跡第
5次
発掘調査報告書 (以下、報告書 と略す)に
よれば、土墳 の底 の部分 に 多 くの上 師器や木器のほか、下駄、杓子 、箸 な どと共 にイネ科植物の茎 な ど水 田関係 の植物遺体が大量 に出土 し ていた。稲 については大量の穂付 きの まま遺構 内で燃や され、蒸 し焼 き的な状態で埋め られていた と想定 されて いる。 この ことは多 くの籾の付いた籾米 と籾殻、 さらに写真9で見 る ように米粒 の表面 には縦 に走 る稜線が残 っ ていることか ら未 だ鴇精 していない玄米であることが半」る。 さらに、報告書 によれば米麦のほかマ クワウリ、雑 穀 (アワ、 ヒエ、キ ビな ど)、 マ メ科、 ソバ、アサ、 ヒ ョウ タン、ナスな ど、 さらに雑草種子や カキ、サ ンシ ョ ウ、セ ンダン、ブ ドウまで もが出土 している。こう した状況か ら、土壊15は 祭祀性の高い土娠 と推定 されている。ここで調査 した炭化米 と炭化 した大麦 について総合的に考察 してみると、次のことが考 えられる。出土 した炭 化穀粒 を詳細 に観察 してみ る と、写真
8か
ら も明 らかな ように、可成 りの量 の大麦粒 が混 じつてい る こ とが判 る。そ して、その割合 は炭化物全体の30%以
上 であ り (表3)、 しか も、その半数以上 は裸麦であった (表7)① 文献 によれば、奈良朝か ら平安朝 の初期 にかけて朝廷 は しば しば備荒のため麦作 を奨励 し、小麦 より大麦の方が 多か った と言 われている。そ して、13世 紀後半 には麦が水 田の裏作 として作 られ、裏作の麦その ものは農民の取 り分 として租税の対象 とならなかったので、備前 や備後 では特 に二毛作が多かった ことが伺 える (古島1956)。さらに江戸 中期 になって も備前・備 中の岡山領 での大麦 に対す る農民の関心 は高 く、「備前 国・備 中国之内分産 物帳」 に大麦で32品 種が記載 されているのに小麦 は僅 か8品種 に過 ぎない。そ して、大麦32品 種の うち16品 種 に は品種名の後 に裸麦 を表す「はだか」が付 け られている。 さらに「はだか」 とい う文字 は付かないが、現存する 裸麦 品種 と同 じ名前 の もの を入れる と裸麦の品種数は さらに増す。因みに稲 については梗稲で88品 種、襦稲で25 品種が報告 されていた (盛永 ・安 田1986)。
米 については上記 の ように、すべ てが玄米 で鴇精 した米 は含 まれていない。 しか も図381こ示 した ように粒幅が 狭 い ことか ら粒が完全 に熟 さない うちに収穫 され、穂付 きの まま遺構内で燃や された ようである。 このことは、
日本では旧暦の 8月 1日 、人朔 の 日に未熟 な稲穂 を抜 き穂 して収穫 し、橋米、ひらい米 として儀式的 に供物 に習 慣 が あ った こ と (柳田1969)、 また収穫前 に抜 き穂 して神 に供 える「初穂神事」 による収穫物 とも考 え られる。
これに対 して大麦 は完熟 した粒であるこ とか ら土媛15が埋め戻 されたのは稲の収穫期 よ り少 し前の頃ではないか とも推沢1され る。米や大麦、小麦 な どのほか種 々の食用作物 の種子が出土す ることか ら見れば、祭祀への供物 と も考 え られる。鹿 田遺跡では多 くの井戸や土娠が発掘 されているが穀物が出土 したのは、 この土娠15の ほかに第
3次
発掘調査 の井戸2(12世
紀代)の
底部 か らコギ シギ シ、マ クワウリ、キカラス ウリ、セ ンダンな どの種子 に 混 じって炭化米 と炭化大麦 (皮麦)が 2粒
ずつ 出土 してい るに過 ぎない。 この ことか ら今 回対象 とした土媛15は 祭祀 に関係す る特別 に意味 をもつ もの と思 われる。d.要
約1)鹿
田遺跡の土娠15か ら出土 した11世紀 中頃〜後半の もの と考 えられる炭化穀粒 は蒸 し焼 きにされ判別不能の ものが多かったが、大麦 と米が大半 を占め、小麦 は極めて少 なかった。2)炭
化米 には籾 の付 いた籾米が混入 し、 また玄米の表面 に縦 に走 る稜線があ り、多 くの粒で胚乳が残 つている こ とか ら、穂付 の稲穂が焼かれた可能性が高 い。3)炭
化米 の粒長 、粒幅お よび粒形指数 (粒幅/粒
長)は
大 きな変異 を示 した。 これ らの形 質の頻度分布か ら、遺伝的に可成 り異 なる ものが混在 していた と考 え られる。