第 1章 津島岡大遺跡 の調査研究
第 1節 測量調査の概要
1.旧 陸軍工兵第十聯隊橋梁演習施設の測量調査
a.調
査 の経緯文・法・経済学部
1号
館西の焼却場脇 (図1)に
残る赤 レンガ造 りの構築物は、岡山大学津島キャンパスの敷地に残つてい る旧陸軍関係の工作物の一つであ り、「橋梁爆破演習用
Jの
橋 梁模型 と考えられて きた。近年、遺構の傷みが進んだため、橋 梁施設、周辺の上塁を記録対象 として、2005年 7月 5日〜13日 に レンガ造工作物 の実測 と測量調査 を行 った。なお、調査前 の橋梁施設 は草木で覆われてお り、
していたため、最初 に草刈 りと清掃 を行 つた。
周辺 も荒廃 図
1
橋 梁演習施設 の位置4 5mO
5m
※破 線 は傾斜 変換線
図
2
橋 梁演習施設平面図 (縮尺1/200)第1節
測量調査 の概要
0 0 0 刀N 川
* IT I (縮尺1
b.調
査 の 成 果①
橋 台 と橋脚
繁茂 していた草木 を取 り除 くと、橋梁架設用 の橋 台
1基
と橋 脚2基
(図2・ 3)、 さ らに敷 地境 ブロ ック塀 のある西狽Jには、当時の敷地区 画 であ る土塁が確認で きた。橋脚 は、橋 台か ら 南 に5〜6m離
れ た 位 置 で 東 と西 に2基
あ り、東西2基
の橋脚 同士 の距離 は、底部で測 っ て約6mで
あ る。いず れ も倒 れ て い たが、橋 台 との対応関係 か らみて、原位置か らそれほ ど 動 いてい ない と考 え られ る。土塁の頂部 と橋 台 西端 間の距離 は約5.7mで
あ る。一方、橋台、橋脚 とも煉瓦積 みで構築 されて お り、その積み方 は、長手 だけの段 と小 日だけ の段 を交互 に積 むイギ リス積みである。それで は、今 回調査 した橋台 と橋脚 について、詳細 に みてい きたい。
橋 台
橋 台 は原位置 を とどめてお り、長 さ 8 m、 高 さ1.lm、 の壁体 を築 き、そ の背 後 を盛 土 に よって支 える とい う構造 を とる (図 2)。
奥行 きは、小 日部以外 は確認で きず、その幅 は
80cm程
であ る。壁体 の上部 にはL字
状 に段 が 設 け られてお り、橋 の上部構造 である橋桁 や トIX=‑145321432G
‑381267037
橋 梁演習施設全景 (南よ り)
立 ロ
第1章
津島岡大遺跡の調査研究
驚 モル タル
図
4
橋梁演習施設橋 台実測 図 (縮尺1/60)5m
0 50cm
★
韓 モル タル
図
5
橋 台側 面 実測 図 (縮尺 1/30)ラス部分 の設置 に関係す る部分であ る と考 え られる。段部 は現存 してい る12段 の煉 瓦 の うち、上
4段
分 (約30cm)と
な る。 なお、最上段 の煉 瓦上面 には一部 にモルタルが残 っている。橋 台 は中心部 を境 に二つ に分離 してお り、その間に通路状 の空 間を確 認 で きた (図4・ 6)。 ここで は図
4に
示 した ように、通路状空 間 を中 心 に橋 台 を東西 に分 け、それぞ れ「西半橋 台」、「東 半橋 台」 と してお く。通路状 空 間の両壁 となる橋 台側面 はモル タルで整 え られてお り、東 西 の橋 台 ともに樋状 の到 り込 み部が縦方向 に認 め られ る (図 6)。 1982 年以 降 に撮影 された写真ωでは、通路状空 間の上 に東西 の橋 台 をつ な ぐ 構造物が架 け られていた状態が確認 されるが、今」り込み部や通路状空 間自体 の詳細 な機能 は明 らかではない。
橋 台 の残存状況 は比較的良い と考 え られるが、西側 の小 日面 はモルタ ルが はがれ、倒壊寸前である(図 5)。 また、通路状空間 を挟 んだ東部分 は、すで に段上部全体が消失 している。 なお、通路状空間や西半橋台の 西側小 日の崩れた部分か ら、煉瓦造工作物 の内部が空洞 になってい るこ とがわかった。 これは段部の半分近 くが下か らの支 えな しの状態である ことを意味す るので、橋台上 にさらに重量 のある ものをのせ るの には不 向 きな構造である。橋桁や トラス部分が軽 い素材 でで きていたのか、あ くまで模型であったか らかな どの理 由が考 えうるが、明確 には しえない⑤ 橋脚
東西 に二本あるが、両者 とも同 じ形態であるので、全体像が よ
くわか る西側の橋脚 を図化 した (図 7)。
東側 の一基 は下部が埋 まっているが、西側 の一基 は全体が露出 してお り、現状 で高 さ
213cmを
測 る。最 下 部 にはモル タルが付 着 してい る こ とか ら、 もう少 し長 くなる可能性 もある。現状では煉瓦 を31段積 んで形字L
/ 状の 段 一
5.5m
0 50cm 鞠 モル タル
(縮尺1/6・ 1/30) 図
6
橋 台溝状部分 の詳細 (南西 より)卜 橿 匡 〕 一
就畠
0伽ボル ト部の詳細
鉄製 ボル ト
図
7
橋脚模式図第1節
測量調査の概要
成 してお り、上部
4段 (28cm分 )で
は、側 面 か ら見 て凸状 の形態 になるように段が形成 されてい る。段 よ り上 を上部、下 を下部 とす る と、上部 は 35×69、 下部 は57.5×69cmの
平面形態 となる。段構造 は橋 脚 ・橋 台 ともに煉瓦
4段
分が認 め ら れ るため、 この部分 に水平 に橋桁 を架 けていた と考 え られ る。したが って、現状 の橋脚 の高 さ
213cm
図8
トラス橋復 原図か ら橋 台 の高 さ
110cmを
引 い た、約lm分
を埋設 して橋脚 を立 てていた と考 え られ る。 また、橋脚 の最 上面 に は 2カ 所 で鉄 製ボル トが確認で きる (図7上
)。ここで、判明 した状況 を踏 まえて、橋梁 の復元案 を述べ ることとす る。橋台 。橋脚 に認め られた段構造 や
2本
の橋脚 を使用 して橋桁 を架 けていた と考 えた場合、 この橋梁演習施設 は トラス橋 の橋梁模型であった可能性が考 え られ る (図 8)。 橋 脚 の規模 や形態 に もよるが、
トラス橋 は上部構造物 を構築す るため に橋桁 の両狽1に支柱 が 必 要であるため、本施設 に残 された橋台りと
2本
の橋脚 はその ような関係 であ つた と考 え られ る。 したが って、推定 した ような復元 図な らば、実物大 に近 い橋梁模型であった と推測 される。 ただ し、 これ らはあ くまで推測で あ り、今後 の類例調査 によ り検討 を深めてい く必要がある。
②
煉瓦 (図9)
橋脚 と橋台に用い られた煉瓦 には、松葉状のモチーフを向い合わ せ に二本組み合わせた菱形状の刻印が多数確認で き、その中には菱 形の中に「サ」の字が刻 まれた もの もあった。これは、「讃岐煉瓦 株式会社」 によって製造 された ものである0。 また、煉瓦の表面 に ピアノ線 による擦痕がないことか ら、「機械成形煉瓦」ではな く、
全て「手抜 き成形煉瓦」であると考 えられる。 さらに、主 として大 小二種類の煉瓦が使用 されてお り、大 きな煉瓦は、長手が22.5〜 23
cm、 小回が10.5〜1lcm、 厚 さが
5.5cmで
ある。小 さな煉瓦は大 き な煉瓦の七五、す なわち長手が3/4程
のサ イズで16.5cm程
であ る。また、橋脚 には便宜的に、 さらに小 さい半桝、つまり長手のサ イズが1/2の
もの も使用 されている。この橋梁施設で使用 されている煉瓦の規格は、
1925(大
正14)年
に制定 された 」ES規
格 の210×100X60mmと
は違 っているため、それ以前 に製作 された可能性がある。
図
9
レンガにみ られ る刻即③
土塁
橋梁演習施設の西側 には高 さ約
30cm程
の上塁がみ られる。調査範囲で とらえられる距離 としては約1lmの
長 さで南北方向に延 びていた。残存状況がそれほど良好ではないので、正確ではないが、幅 は約3mで
ある。土 塁本来の高 さは、津島キャンパス東南部の残存状況の良い土塁か ら考 えて、80cm近
くの高 さがあった もの と予 想 される。ci構
築 時期 と演 習場 の用 途文・法 。経済学部の周辺は、
1908(明
治41)年
以降に第十七師団鞘重兵第十七大隊 (物資補給部隊)が
置かれ抑 攀
\
第 1章
津島岡大遺跡の調査研究
たが、
1925(大
正14)年
の第十七 師団廃止後 には、工兵第十大隊が駐屯 した。橋 梁演習用施設 は工兵 に関わる も の と推定で きるので、1925年 以後 に構築 された可能性が高い。 また、昭和 に入 り、橋 台や橋脚 はコンク リー トや セ メ ン ト製 になるこ とや、煉瓦 に 」ES規
格 が適用 され てい た こ とを考慮 す る と、JES規
格 以前 の煉瓦 の流通が どれほ ど継続 したのか、 また、駐屯地 な どにどれほ どス トックされていたのかは不明瞭である ものの、橋梁演習 施設 は工兵第十大 隊が駐屯 す る ようになって、 ほ どな く構築 された と考 え られる。 この施設 を用 いて実際 にどの ような演習 を行 つたのかについては、具体的な推定は難 しい。ただ、橋台、橋脚の槙型を丁寧に構築 している点 や爆破 によつて破壊 された残骸が確認で きない点などか ら判断すると、爆破実験 を行 つていたというよりは、橋 梁の架設演習、橋梁爆破用の火薬設置の演習などに用い られたと考える方が より妥当だろう。(中
村大介)※調査期間中には、環境理工学部の馬場俊介先生、比江島慎二先生か らは橋 の構造 について、その他多 くの方々 か ら、旧陸軍施設 に関する情報 を提供いただきました。 この場 を借 りて、御礼 申 し上げます。
言主
(1)「津島のむか し」編集委員会1992『津島のむか し』、p.55掲載写真
(2)橋台については、中央に通路状空間があるが、その幅は約0.8mと狭い。 また、1982年以降に撮影 された写真 に残 る構造物 を参考 にす ると、樋 門構造 に近い もの とも考えられる。
(3)調査 中、高橋幹氏のご教示 を受けた。
第 2節 立会調査の概要
調査 の実施状況
津島地区において2005年度 に実施 された立会調査は、津島地区の北 に近接する土生地区の もの も含めると、事 業数では15件となる (表1、 図16)。 そのうち、工学部総合研究棟 (旧工学部本館
)の
改修関連工事の事業数が8件
で、過半 を占める。 また、津島地区のキヤンパス環境整備 (門扉改4多等)工
事では、地区内の各所で門扉改 修 にともなう立会を実施 している。 しか し、これ らの工事 はいずれ も掘削深度力朔ヽさく、遺物包含層 に到達 しな い ものや、掘削範囲が非常 に狭い ものであった。以下では、掘削深度が大 きく、特 に重要な知見が得 られたプール改4分 (排水管改修)
整備 (門扉改修等
)工
事のうち、近代の土地区画の痕跡 とみ られる畦畔 と溝 を確工事 と、キ ヤンパス環境
認 した東08地 点 にお ける立会調査 の成果 についてW/1要を報告す る。
プール改修 (排 水管改修 )工 事に伴 う立会調査
(津島南
BC〜
BE03、 BB・BC02区
)Bc 岡 山 市 立 BE
a.調
査 区 の位 置 と調 査 の経 過 (図10。 11)本調査 地点 は、津 島南地区の南東 に位置す るプールか ら、地区の東辺 を南北 に 通 る ものであ る。東 は津 島江道遺跡が所在す る岡山市立 岡北 中学校 の敷地 に隣接 してお り、弥生時代前期やそれ以前 の可能性 もある水 田のひろが りや、古代 の遺 構が確 認 され る可能性 もある重 要 な地点であ る。工事 は津 島地区の南東 に位置す るプールの排水 を直線距離 で北 に約
170m離
れ た下水道 に接続す る ものであ り、0 100m 図
10
調査区の位置―(縮尺1/7500)
0 1m
―
〈近 現代〉
明灰〜灰協色砂質土 随多、南北方向の畝校出 〈近代〉
明貰〜明灰茶窃色砂賃土 hケ 〈近LV〉
淡橙〜明灰芥協色砂賃土 〈近世〉
明橙〜灰茶禍色砂質土
明黄澄〜灰褐色v7質土 腱多 く中世?〉
明灰〜灰褐色粘質〜枯土 llt強、随ケ、Ml多 く中せ〉
明責を〜灰絡色粘質と 粘性やや強い く古化?〉
12 暗灰掲色砂質土 Mn多
13 暗黒茶掲色砂質と Mn多、黒色土 14 暗黒茶褐色砂質土 Mn多、色調薄い黒色土 15 暗灰〜灰茶掲色砂質土 Mn多
a 暗茶褐色腐植土 根、枝、葉等の有機物多 b 暗灰茶褐色粘質土(病植土)クサレ礫少量合 c 暗緑灰色粗砂
i 青灰色砂質土
黄灰色粘質土 近世lr作土?
第2節
立会調査の概要
3m
<殊 生>
<弥 生早 前期>
<弥 生早 前期>
<縄 文後〜晩期?>
<近 世 近代?〉
<近 世 近代?>
<近せ 近代?>
5m一
4m 一
せ成上
9 灰〜茶掲色弱砂賃上 Mn多 く古墳P〉
10 明責協色粘質土 Fe多 く古墳!lyT生?〉
11 灰責協色砂質土
図¬
調査 区 と土層断面 の位 置
(縮尺1/2000) 図
12
調査区土層桂状図 (縮尺1/50) 掘削 した距離は165mに
およぶ。調査 は2006年 3月 3日 か ら31日 までの期間で、工事の進行 にあわせて随時実施 した。
b.調
査 の概 要①
層序 と地形 (図12・ 13)
工事 はプール南側の排水桝か らサ ッカー場北東隅の下水道接続桝 までを連結するものである。管路の傾斜をつ けるため、南か ら北へ深度 を増 しなが ら掘削 してお り、桝
2か
ら桝 4ま では現地表面か ら約1.4mま
で、桝4か
ら桝 6ま では1,7mま
で、桝6か
ら桝10までは1.8〜2.Omま
での深度で掘削 した。層序
各層の時期は、共伴遺物が少な く決めがたいが、周辺の調査成果を参考 に推定 してお きたい。
1層 は
1907(明
治40)年
の陸軍駐屯地造成以降の造成土である。2層
は灰褐色砂質土で、明治時代の耕作土で ある。3、4層
は明黄橙〜明灰茶掲色砂質土で、近世の耕作土である。 5層 についても色調や土質が近似 してお り、近世の耕作土である可能性がある。6層
は明黄橙灰褐色砂質土である。近世か中世かは決 しがたい。7層
は 灰褐色粘質〜粘土で、中世の水田層 と考 えられる。8層
は明黄橙〜灰掲色粘質土、9層
は灰〜茶褐色弱砂質土、10層は明黄褐色粘質土、11層は灰黄褐色砂質土である。
8〜
11層については共伴遺物がな く、詳細 な時期は不明 であるが、弥生時代か ら古代の土層 と考えられる。12層は暗灰褐色砂質土で、弥生時代の土層 とみ られる。13・14層は暗黒茶褐色砂質土である。下位の14層は13層に比べて色調が薄いため、分層が可能であった。マ ンガンを 多量 に含む。 これは津島地区一帯にひろが りをもつ、「黒色土」 と呼称 している暗褐色土である。上面が弥生時 代前期 にあたる。15層は暗灰〜灰茶褐色砂質土で、縄文時代後〜晩期の土層 と考えられる。
桝
2で
は、1層
以下で確認 されたa〜c層 は、他地点の土層 とは異なるもので、粗砂の上位 に腐植土が堆積 し たものである。腐植土 には多量の根・枝・葉などの有機物が含 まれ、湿地状の環境下で形成 された と推定 され る。桝
4で
は、1層
以下で確認 されたi、 五層は近世〜近代の耕作土 と考えられるが、津島岡大遺跡の他地点で よ くみ られる土層 とは異な り、粘性が強い。他地点 よりも標高が低いことによって、土質の異なる土層が堆積 した り、土地利用の違いによって土質が異なったもの とも考えられる。地形
今回の調査地点のうち、北東部分である桝
6〜
10の区間の堆積は中世以降では同様の状況 を示す うえ、第1章
津島同大遺跡の調査研究
N―
5m
m
N←
【A区 間東壁断面】 1 造成立 <近
2a 暗黄灰色粘質土 2b 暗灰色粘質土 粘性強
3 青灰色砂質土 やや粘性、炭化物、明治磁器片合
(A区間 土 層 註 記)
1 造成上 <近 現代>
2a 明灰茶褐色砂質土 Fe多 く近代>
2b 明灰茶褐色砂質± 2a、 2bは近似 <近代>
2c 明灰掲色砂質と く近代>
現代>
<近 代>
<近 代>
<近 代>
8 明灰責褐色弱粘質土 く弥生 古墳〜古代?>
9 灰茶褐色粘質土
<弥 生 古墳〜古代?>
10 茶褐色弱砂質土<弥 生?>
[畦畔」 →S
9 Qィ め
lp 【B区 間東壁断面】【
C区間東壁〕
溝
① 明黄灰色〜灰褐色砂質土〜砂 Fe多、Mn多、土師器片合
② 灰掲色〜明黄褐色砂質土 Fe多、Mn多
③ 明灰〜灰褐色粘質〜砂質土 箱状掘り方、上半粘質、最下粗砂、
Mn多
④ 明灰〜灰黄褐色砂質土 と半Fe多、Mn多
⑤ 灰褐色〜明黄橙褐色弱粘質
明責灰褐色砂質土 上面Fe多 く近世>
明灰茶褐色砂質土 Mn多 く近世>
明灰責掲色土 <近世P>
明灰色粘土 <中世>
明灰責色粘土 Fe多 く弥生 古墳〜古代?>
(B区 間土層註記)
青灰色砂質土 上面Fe多 灰茶掲色粘質土 明青灰色粘土
1 造成上 く近 現代>
2 明灰色砂質と Fe多、南北の畝検 <明 浩>
3a 明灰芥褐色砂質土 炭化物少量合 <近 世>
3b 明茶褐色砂質土 <近 世>
4a 明灰茶lE色砂質土 <近 世>
4b 灰橙茶褐色砂質土 Mn多 く近世>
5 灰茶掲色砂質土 <近 世>
6 灰楊色砂質土 く近世>
7a 明灰色粘土 粘質強、Fe多 く中世>
7b 明黄掲色粘土 Fe多、粘性強 く中世?古代?>
8 灰褐色lbtt Mn多 、粘性やや破 <古墳?>
9 灰掲色弱粘質土 Mn多 く古墳?>
llla灰黄褐色砂質土 く古墳?弥生?>
10b明責灰掲色土 <古 墳P弥生P>
lllc灰掲色砂質土 Mn多 く古墳?株生P>
12 褐色砂質土 小れ多、黒色土 <縄文晩期〜弥生早 前期>
13 暗黒褐色土(黒色土) Mn多、土器片 <縄文晩期〜弥生早 前期>
14 暗黒茶掲色砂質土 Mn多、下方は色調うすれる
ヒ 攣 Щ m
① 灰茶褐色砂質土 Mn多
⑮ 明灰〜灰茶褐色砂質土 Fe多 、Mn多
⑩ 明灰褐〜明責灰褐色砂質土 Mn多、単色土ブロック
⑦ 明賞灰褐色砂質土 Mn多、黄褐色ブロック
⑩ 灰茶掲色〜明費灰褐色砂質土 腱多、Mn多、黒色土
③
⑦
③
⑨
⑩
①
⑫
③
〜砂質土 Fe多 、Mn多 明灰褐色〜灰黄褐色砂質土 下半Fe多、土師器片 灰褐色粘質土 Fe多、Mn多、雅性、
灰褐色〜灰黄協色砂質土 Fe多 、Mn多 暗灰茶褐色砂質土 Mn多 明灰ヽ灰黄褐色砂質土 Fe多 灰褐色粘質〜砂質土〜粗砂 Fe多 、Mn多 灰黄掲色砂質土 Mn多
灰掲色〜明黄協色砂質土 茶褐色ブロック
⑩
明灰色弱粘〜砂質土
⑩ 灰茶褐色〜灰褐色砂質土
⑪ 灰茶掲色〜灰黄掲色砂質土 箱状掘り方
⑫
灰茶掲色砂質土
〇 暗灰黄色砂質主
② 淡灰責〜灰責色砂質土
⑮ 橙灰色粘土
⑮
暗灰褐色粘土
② 橙灰色粘土
②
淡茶灰色粘土
ブロック Mn多 Mn多 黒色土ブロック Mn多 炭多 Mn多、ブロック状 白色粘上多
Fe多、Mn多 Fe多、Mn多 Fe多、Mn多 Fe多
<縄 文晩期〜弥生早 前期>
15暗灰〜灰茶褐色砂質土 Mn多 く縄文後〜晩期?> (C区 間 ・ 桝10土層 註 記)
図
13
調査区土層断面図 (縮尺1/50・1/60,1/80)
各土層 の上面 の標高 もそろってお り、平坦 な耕作面が ひろが っていた ことが推測 される。一方、南半部 の桝
2〜
6で
は、掘削深度が浅 く、近世以降の土層 の堆積状況 を部分的 に確認 したに とどまるが、桝4〜 6区
間で明治時 代 の耕作面 の上面が南 にむか って下降 していること、桝2部
分 で は他 地点 に比 して造成土が もっとも低 い標高か ら堆積 していること、湿地状 の堆積 を示す腐植土やその下位 に溝 や河道の堆積 を推測 させ る粗砂が堆積 している こ とか ら、枡4以
南 の部分 は河道や溝 な どの水路が通 っていた低地であ り、厚 い粗砂 によつて埋没 した後 は湿地 状 の環境 となっていた と推測 される。②
遺構 (図 13)
本調査地点ではA・
B区
間で近世あるいは返代の溝や畦畔などの土地区画に関連する遺構 を、C区
間お よび桝 10で弥生時代か ら古代 ・中世 と考えられる多数の溝が切 り合い関係 をもって掘削 されている状況を確認 した。※下段 左 に連続
第2節
立会調査のlFl要
A区
間 (図13上)i近
代 の東西方向の畦畔2条
を確認 した。調査地点の掘削深度 は浅か ったが、南側 の畦畔 (2a。
2b層 )は
比較的明瞭 にの こる。北側(2b層 )は
削平 をうけてい る と考 え られ、緩 やか な高 ま りを確認 で きたに とどまる。畦畔の間には溝 が通 る と考 え られるが、掘削深度が浅 く確認 で きていない。B区
間 (図13中):近
世 。近代 の東 西方 向の溝 (a・ b・ c層)と
畦 畔(2b層 )を
確 認 した。近 世段 階 の溝 が埋 没 した後、南側では近代 の畦畔が溝埋土上 にかか るように構築 されている。近世か ら近代 にかけて、わずかに溝 の位置 を変 えていることが うかが われる。近代 の溝 は幅1.5m、 近世 の溝 は幅0.6mで
あ る。C区
間 。49410(図 13下):約 12.5mの
範 囲 に弥生時代 〜古代 ・中世の東西方 向の多数 の溝が切 り合 いなが ら掘 削 されてい る状況 を確認 した。 これ らの溝 は掘削 の開始面が異 な り、7a・ 7b・ 8。 9・ 10a。 11層か ら掘削 され てい る。 これ らの溝 は激 しく切 りあい、本来の規模 を知 ることがで きない ものが多いが、最 も小規模 なものは幅0.4m(溝
③)、 最 も大規模 なものは幅2m(溝
②)と
、その規模 には開 きがある。 また、掘 り方の形状 はレンズ 状の ものや半円形の ものが多 いが、桝10部分 では箱型 に掘削 している溝 を確認 している (図13下 :断面③ ・⑦)。 東壁 と西壁 との対応関係が不明瞭な滞が多いが、この溝 に関 しては掘 り方の形状 と埋土の性質が類似する ことか ら同一の溝であると推測 される。溝④・⑥、溝②o①についても埋土の性質か ら対応するものとみ られる。
c。 ま とめ
本調査地点は津島南地区の東辺 にあた り、これ以西 にひろがる大学構内の地形や遺構の状況を推測するうえで きわめて重要な地点である。弥生時代前期やそれ以前の水田が作 られた可能性のある津島江道遺跡 (岡山市立岡 北中学校地点
)に
も隣接 してお り、それ らの成果 との対応関係 を考えるうえで も参考 となる。立会調査の結果、近世 。近代段階の東西方向の溝や畦畔などの土地区画に関連する遣構、弥生時代から古代・
中世 までの溝群などの遺構 を検出 した。 また、弥生時代前期 までに形成 された「黒色土
Jが
厚 く良好に堆積 して いること、これ らの黒色土の細かい分層が可能であることが半」明 したことは、この地点の周辺での弥生時代前期 やそれ以前の水田の状況を追及するうえで重要な手がか りとなるであろう。今後、本調査地点周辺での発掘調査 を実施する場合、黒色土の細分 を手がか りに前期水田の展開を詳細に追及することも可能 となろう。(野崎貴博)キャンパス環境整備 (門 扉改修等 )工 事に伴 う立会調査 僻島南
BE02、BGOの
a.調
査 区 の位 置 と調 査 の 経 過 2005年 度後半 にキ ャンパ ス全体 の問の改修作業が行 われ、南 グラ ン ドの東 門 と南 門の二箇所 におい て掘削 を伴 う工事が行 われた。両 地点 とも近代 。近世の土層 に達す る掘削が行 われたが、東 門調査地 点 (東08地 点)で
は、近代 ・近世 の区画 に関係す る大 きな畦畔 を検 出す ることがで きた。そ こで、東 門調査 地点 (東08地 点)の
報告 を4〒うこ とと七「 る。
東 門調査 地点 は津 島南地区の東 端 に位置 し、岡北 中学校 との境 に
0 1oom
図
14
東 門 (東08地点)調
査 区 の位 置0 20m
(縮尺 1/2500・ 1/800) (図 14)
02
第1章
津島岡大遺跡の調査研究
当 たる。現在、 この場所 には、南北方向の溝が通 り、その上 に門にぬける橋が架か ってい る。工事 は この橋 の改 修 に対 して行 われた。橋 は南北二箇所 あ り、北側 は溝 を保護す る石組みによって、すで に掘 り返 され、明瞭な土 層 と遺構が確認で きたのは南側 だけであった。以下では土層 と遺構 について報告す る。 なお、南側 の調査地点 は
3×
3.6m範
囲で調査 され、堀削深度 はlmで
あ る。b.調
査の概要①
層序 (図 15)
明治期の大畦畔が良好に残 る西壁の一部 を図化 した。調査地点の 各層 には遺物が伴わず、明確 な時期は決めがたいが、これまで蓄積
GL
されている調査成果 を参考に、それ らの時期 を示 してお きたい。
型
1層 は現在の表土、 2層 は明治時代の造成土、
3層
は青灰色砂質 土で明治期の耕作土である。なお、大畦畔にのるかたちで3層
に極 めて近い土層が確認 された。大畦畔の上部が崩れた部分 とも考えら れるが、ほとんど差がな く、明確 には3層
と区分で きない。4層
は表±
0
i na尊 庚 き 砂 質 土
(明治 〉
暗 青灰 色砂 質 土 (明治)
青灰 色 砂 質 上 十褐 色 砂 質 土 褐 色 砂 質 土 (近世)
① 淡青灰色砂質土(明治〉
図
15
畦 畔 断 面 図(明治)
7 褐 色 砂 質 土(中世)
② 黄灰色砂質土(近世〉
(縮尺1/40) 暗青灰色砂 質土 で、大畦畔 を挟 む
3層
と同様 、明治期 の耕作土 である。5層は青灰色砂 質土 に掲色砂 質土が混じった もので、明治期 の耕作土である と考 え られる。
6層
は褐色砂 質土で近世の耕作土である。7層
は6層に類 似 した色調 なが らも土質に しま りがない。 中世層 と考 え られる。② 遺構
(図 15)①層は淡青灰色砂質土で明治期の大畦畔である。幅は約
70cm、高さは耕作層 (5層 )下 面からみて 28cmと な る。②層は黄灰色砂質土で近世の畦畔であ り、幅は
33cm、高さは 7cmで あった。①層は②層にかぶせるように して構築 していることから、明治期の大畦畔は、近世の段階で形成されていた畦畔を踏襲 してより大きく構築 し 直されたことがわかる。また、①層 と②層の境にある石は、①層を積む際の補強であると考えられる。
一方、明治期の大畦畔は本調査地点東壁でも一部確認されてお り、東西方向にのびていたと考えられる。この 畦畔の位置と方向は、現在の岡北中学校の南に通る小路に合っていることが本調査地点からの目視で容易に確認 できた。従って、現在の地割 りや小路がこの時期のものを踏襲 している可能性を推定 しておきたい。 (中 村
)表1 2005年度津島地区調査一覧
番 号 種 類 調査 地 区 構 内座標 所 属 調 査 名 称 調査期 間 ltF削深度
(GL―m) 内 容
1 立 会 津 鳥 北 AW08 工 工学部総 合研 究棟 改修工事 7 27 05 造 成 上 内
2 立 会 津 鳥北 AW09 工 工学部総 合研 究棟 改修機械 設備 工事 7 29 1 光掘 内 3 立 会 津 島北 AV08 工 工学部総 合研 究棟 改修工事
(仮設電柱掘 削取 り付 け)
15 GL‑09mまで造成上、以下、青灰〜白灰色の粘 質± 3層 を確認、「黒色土層Jは確認されず 4 立 会 津 島北 AV08〜11 エ 工学部総 合研 究棟 改修電 気設備工事
(管路掘 肖1)
920,928,
105 07〜15 造成上 内 立 会 津 島 北 AW09 工 工学部総 合研 究棟改 修電気設備 工事
(アース板 設置)
11 11 18 基盤層 〜黒色土 〜明治 の土層堆積確認
立 会 津 島北 AW08、AVOそ 工 工学部総 合研 究棟 改修工事(インバー ト桝) 1118,1122 1〜ユ4 〕L‑125mで近代層確 認 7 立 会 津 鳥北 AV AW10
工
工学部総 合研 究棟 改修 電気設備工事 (電灯 分lllx設備改修)
1115、1226 14 〕L‑13mで 近代 層確認 、近代水 田層 下 まで
AV07 (高圧外 線工事) 12 2ク 15 現設 内
立 会 津 島北 AW10 工 ガス管切 り離 し工事 1215 13 洸掘 内、一部近 世 〜近代 層?確認 9 立 会 津 島南 BE02、
B607 事 キ ャンパ ス環境 整備 (門扉改修等)工事 126.213 1〜] 3 東07地 点:GL‑07mで明 治 fl土 と畦 畔 溝 、‑1 mで中世唇確 認 、東08地 点:近世畦畔 、中世層確認
10 立 会 津 島南 BE03 事 プー ル改修 電気設備 工事 32 造成上 内
11 立 会 津 島 北 AY13〜16、
AX16 文
法 経 文 法 経 済学部 ガス管改修工 事 」6〜13,311 11〜145 一部で近世 近代耕 作 上 を確認
立 会 津 島北 AV10 事 北団地外灯 取設工事 3 23 12 色成 土 内
立 会 津 島南 BC〜BE03、
BB BC02 票 プール改修 (排水 管改修)工事 33〜31 075〜24 縄文基盤層〜近代層の堆積確認、「黒色土J確 認、勃 生〜古墳の溝多数、近世土坑、近代大畦畔 溝を確離
立 会 津 島 南 BB BC04 事 サ ッカー場 防球 ネ ッ ト設 置工事 3 22 20〜22 オーガーによる掘削、一部で「黒色土J確認
立 会 十 ■ 事 土 生 職 員 宿 舎 公 共 下 水 道 機 続 工 事 31〜 11 06〜15 3L‑07mで 明 治 水 田 層 、 以 下 近 世 層 を確 認
〈津島南地区 〉
│
第2節
立会調査の概要 02 00
│■ 立会調査地点
島北地 区 〉
● 調査地ッ 点
土生 地 区 ―
(縮
尺1/3000)
唖 ̲
団回回国
│亀 ‐
」
グラウンド
200m
図
16 2005年度の調査地点 【
1】―津島地区―
(縮尺
1/4000)※ 番 号は表1の調査番 号に対応する。
‑9〜
第3節
津 島岡大遺跡の研究
は じめ に
岡山大学津 島地 区 はかつて陸軍 第十七師団の駐屯地 であった。陸軍第十七師団は、 日露戦争後 の軍備拡張 の気運のなか、
1907(明
治40)年
に創設 され、岡山県 御津郡伊 島村 (現.岡
山市津 島中)に
駐屯地 を造成 し た。駐屯地 には第十七師団司令部 を筆頭 に、歩兵 。騎 兵 ・工兵 ・野砲兵 ・山砲 兵 ・輯重兵の各部隊 と兵器部 が駐屯 した。その後、1925(大
正14)年
、世界的 な軍 縮 の流 れの なかで第十七師団は廃止 され るが、岡山駐 屯地 は引 き続 き第三十三旅団司令部 、岡山聯隊区司令 部 、歩兵 第十聯 隊、工兵 第十大 隊 (後に聯 隊)と
陸軍 兵器本廠 岡山出張所が使用 した。岡山駐屯部隊 はその 後 の戦況 に応 じて大 陸や南方 に出征 し、駐屯部隊 も移り変 わつてい く (表2)。
1945(昭
和20)年
、太平洋戦争 は 日本 の敗戦 によ り口
図
17
駐屯地 と周辺 にの こる陸軍 関連施設(縮尺 1/50000)
物 建
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑥
門 くiii
工兵隊食堂並浴場
広島陸軍兵器補給廠岡山支廠北倉庫炊事場 広島陸軍兵器補給廠岡山支廠衛兵所 広島陸軍兵器補給廠岡山支廠倉庫 広島陸軍兵器補給廠岡山支廠北倉庫兵舎 工兵 隊事務所
工兵隊衛兵所
岡 山聯 隊 区司令 部衛 兵所
図18
庭園
イ
エ兵第十聯隊将校集会所庭園 口
歩兵第十聯隊将校集会所庭園 外周施設
A
コンクリー ト高塀B
土塁 その他い
工兵第十大隊 (聯隊)橋梁演習施設 (縮尺1/10000)
第 3節 津島岡大遺跡の研究
津 島地 区 とその周 辺 の陸軍 関連施 設 につ いて
a
山砲兵第二大隊表門b
歩兵第十聯隊表門c
歩兵第十聯隊通用 日?d
広島陸軍兵器補給廠岡山支廠第一通用門 記念物i
軍人勅諭下賜五十周年砲身型記念碑工
工兵第十聯隊将校集会所庭園内石燈籠
歩兵第十聯隊将校集会所庭国内石碑 駐屯地 内の施設配置 と現存 する施設 の位 置
① 第十七師団駐屯地
④ 騎兵第二十一聯隊将校集会所
② 練兵場
⑤ 対空陣地 (一本松古墳)
③ 岡山佑行社
⑥ 対空陣地 (七つ現古墳)
(明治 30年預1図、大正14年第 2回 修正測図、昭和 21年6月20日印刷 同25日発行、内務省地理調査所)を一部改変
3 込
第 1章
津島岡大遺跡の調査研究
終 結 し、岡山駐 屯 地 に も進駐 軍 が 入 つた。1947 (昭和
22)年
3月 には進駐軍が引 き上 げ、その後 第六高等 学校 が一部 を譲 りうけて仮校舎 と した。1949(昭
和24)年
、第十七 師団駐屯地跡地 に岡 山大学が設置 された。開学当初 は これ らの建物や 施設 を利用 していたが、建物 の老朽化 や校舎の新 営 に伴 って建 て替 えや取 り壊 しが進 め られた。 ま た、キ ャ ンパ ス環境 整備 や道路 ・門の拡 幅 に伴 い、外周 を区画 していた土塁や 門 も、 コンクリー トブ ロ ック塀 や新 しい門柱 にか え られた。 なお、今後 もキ ャンパスの整備が予想 され る ところであ り、現在 の こってい る戦争 関連施設が この ままの か たちでの こる保障 もない。当セ ンターで は、 こ れ まで上屋構築物 を有 さない施設 についての記録 を順次進めて きた力部つ、今 回はその調査成果や、
新 た な知見 を加 えなが ら津 島地区構内の戦争 関連 施設 について ま とめ る こととす る。
a.津
島地 区構 内 にの こる戦 争 関連施 設 陸軍駐屯段階につ くられた諸施設の うち、津島地区では現在までいくつかの施設がのこっている ♀ 500m
(図18)。 そ れ らは、建物 、外 周施 設、庭 園、記 図
19
岡山駐屯地 内 での部隊配置の変遷 (縮尺1/20000) 念物、その他の施設など、い くつかの種類 にまとめることがで きる。以下にそれ らの施設 について概略を記載す る。なお、それぞれの施設の位置、ならびに各部隊の配置は図18・ 19に示 している。①
建物 (図20・ 表
3)
1952(昭
和27)年
3月31日付で大蔵省 中国財務局長か ら岡山大学長 あてに出 された『国有財産所管換調書』(以下、F所管換調書』
)が
岡山大学事務局 に保管 されてお り、全体で250棟の建物が引 き渡 されていることが記 録 されている。その内訳 は、本造平屋建て建物225棟、木造二階建て建物17棟、煉瓦造平屋建 て建物8棟
と、ほ とんどが木造建物 (242棟)で
あ り、 また平屋建て建物 (233棟)で
ある②。煉瓦造や三階建ての建物が極めて少 数であつたことが うかがえる。そのうち、現在 までのこっている建物 は8棟
であ り、ほとんどの建物が解体 され てきた。のこっている8棟
の建物 について も改変をうけているものが多い。表
2
岡山駐屯地 における配置部隊の変遷司令 部 永 二 1 琳 丘 軒 摘 丘 1滴 丘 T丘 誌 舌 丘 1 券 の 加 1907(明 治 40)年 〜
1925(大 正 14)年
第 17帥 団 第33旅団
弟b4彰,隊 弟Zl巧r隊 弟 z3月,F豚1弟 Z天豚 弗1イ天 豚 弟lr太豚 共 各 剖
↓ │1廃 と ↓ 廃 」 嵯│ │ │!廃ど
l ̀ 第17師団廃 止1925(大 正 14)年 〜
1938(昭 和 13)年 第33旅団 岡 山聯 隊 区
転営:女E路より】
↓
1舜lυ入 豚 曜 鼻 夭 喬 小 肛
1踵
詠優
4彗が
1と861岡 田 笙 巣 詈 諄
1畳議
:弼::I第10師団 官 区 に 支 那 専 変 1938(昭 和 13)年 〜
1941(日召禾日16/子 中部 第 四 十 人 │
部隊の通称 号
管 区歩 兵 第 辞甫充 隊 【改 称:1945】
工兵第54聯隊
│
【改称:1939】1絨 詠 :■ │―一一―
I転 営 :岳 野 へ 】 1広 島 陸 宣 良 黒 補 給 廠 岡 山 載 1941(昭 和 16)年 〜
1945(昭 和 20)年
岡 山 聯 隊 区
太 半 杵 戦 争 開 朝 終 戦
第十七師団廃止当初 (1925年頃)
第十七師国期 (1907〜1925年)
終戦 まで (〜1945年)
岡 山 聯 隊 区 司 令 部
隊
雌 紳的
騎 兵 第 二十 一聯 隊
一 判
聯 兵 四 歩 十
︲︲︲ 筑 ﹁
第 十 七 師 団 司 令 部
兵器 支廠
工 兵 第十 七 大 隊
歩 兵 第 十 聯 隊
│ 第 二 十 三 旅 団 司 令 側 山 聯 隊 区 司 令 部
陸軍 兵 器 本 廠 厠 山出 張所 工兵 第十 大 隊
陸軍 兵器 本 廠 岡 山 出張 所
→ 岡山兵器支藤
→ 岡山隆軍兵器補給廠
(左上
)広
島陸軍兵器補給廠岡山支廠事務所(中
上)歩
兵第十聯隊兵舎(左下
)岡
山聯隊区事務所(中
下)工
兵第十聯隊将校集会所 図20
旧陸軍の建造物現存す る建物 や、写真で記録 されている建物 には、木
表
3
建物の造りと用途 造、 レンガ造、モルタル造の ものがみ られる。 しか し、F所管換調書』によれば、1952年当時にはモルタル造の 建物はな く、現在モルタル造 となっている建物は大学 に 引 き渡 された後 の改4雰等 による ものであると考 え られ る。現存する建物の うち、
7棟
は津島北地区にあ り、工 兵隊 (現.文
・法 。経済学部、附属図書館 と理学部の一 部)や
広 島陸軍兵器本廠 岡山支廠北倉庫 (現.工
・教 育・環境理工学部 と理学部の一部)の
建物である。津島第3節
津島岡大遺跡 の研究
(右上
)広
島陸軍兵器補給廠岡山支廠 北倉庫炊事場 :現 存(右下
)工
兵第十聯隊食堂並浴場 :現存造 り 用 途 木造平屋建 木 造 三 階 建 煉 瓦 造 平 屋 建
本部 事務所等 1
兵 舎 10
食 堂 集会所 炊事 関連等 1 2
倉庫 貯蔵庫 5 2
工場 機械室等
医務 衛 生 (便所含 む) l
娯 楽た 設等 3 1 4
馬 車 関連 施設 6 6
警備 関係 2 8
面 会 所 2 2
その他 内容不 明 4 4
225 17 23Э
表
4
レンガの大 きさ (単位:cm)名 称 積 み 方 長 手 」ヽ日幅 高 さ
工 兵第十聯 隊食堂並浴場 (文学部考古学資料館) イギ リス 積 み 10〜105 55〜6
165 10〜105 55〜6 広 島陸軍兵器補給廠 岡 山支廠 北倉庫
(工学部15号 館 :旧 放送 大学)
イギ リス積 み 10〜105 55〜6 17 0 10〜105 55〜6 橋 梁演習施設 (文 法 経済学部駐 車場北) イギ リス積 み 225 10〜105 55〜6
165 10〜105 55〜6 山砲 兵 第二聯 隊表 門 (理学部南東 入日) 小 日積み 10〜105 55〜6 広 島陸軍兵器補給廠 岡 山支廠 南倉庫 通用 口?
(福利厚 生縮設南棟J監) 長手積み 10〜105 55〜6
南地区の建物は司令部の置かれた区画内 (現
.事
務局周辺)の
もの0で 、歩兵隊 (現.農
・薬学部一帝)の
建物 はない。まず木造建物 について、現存する建物や取 り壊 し前 に撮影されていた写真 によって当時の姿を知ることができ るものか ら特徴 をみておこう。屋根の造 りには寄棟造 と切妻造のものがみられる。そのうち、建物の用途 を特定 で きるものを抽出 してみると、寄棟の建物は司令部 。本部や事務所に使われている場合が多 く、切妻の ものは倉 庫等 に使用 されている傾向にあるようである。窓は、いずれ も縦長 に窓枠 を取 り、上下に開閉する形式である。
煉瓦造平屋建て建物については、工兵第十聯隊食堂並浴場 (現。文学部考古学資料館・二部学生 BOX)、 広島 兵器補給廠 岡山支廠北倉庫 (現
.工
学部15号館:旧.放
送大学)と
して使用 されている2棟
が現存する。後の改4秀が施 された部分 もあるいが、当時の状態をとどめるものである。この
2棟
の建物の屋根 はいずれ も切妻造であ る。窓は木造建物 と同様、縦長の枠取 りで、上下に開閉するものである。 レンガの積み上'デ
は、いずれ もイギ リ ス積み0によって積 み上 げる。
使用 されてい る レンガの大 きさは、工兵第 十聯 隊食堂並浴場(文学部考古学資料館 ほか)
で は18.5×10×5.5cm、 16.5×10×5。5cm、
広 島陸軍兵器補給廠 岡山支廠北倉庫 (工学部 15号館)で は22.5× 10× 6cm、 17× 10×
6cm
であ り、それぞれ
2種
類 の法量 の レンガを用第1章
津島岡大遺跡の調査研究
いている。建造物以外 の レンガ造構造物 も含めた使用 レンガの大 きさは表
4に
示 した。 この うち、長手 の長 さが 16.5〜17.Ocm、22.5cmの
もの につ いては、長 さの比率か ら、前者が後者 の「七五」(3/4)の
切断 レンガで ある0。 工兵第十聯隊食堂並浴場 に用 い られた レンガは長手 の長 さが18.5cm、
16.5cmの
組 み合 わせ とな り、現在 の ところ岡山駐屯地内で確認 で きる レンガでは切断 レンガの一般的 な比率 とな らない。いずれ も1925(大
正14) 年 に統 一 された レンガの法量 とも異 なってお り、それ以前 に生産 された レンガを用いた もの と考 えられるの。岡山駐屯地に建てられた建物の特徴 として、①木造平屋建て建物が圧倒的多数 を占めていること、②屋根 には 切妻造、寄棟造がみ られ、近代 に出現 したマ ンサー ド屋根はみ られないこと、③窓は縦長の窓枠取 りで、上下 に 開閉する形式であること、④煉瓦造建物はイギリス積みによリレンガ積みがなされていること、が指摘で きる。
②
外周施設 (図21〜24)
岡山駐屯地の外周 にはすべて土塁がめ ぐらされていた (図18破線部)。 この土塁 は各部隊の駐屯区域 を区画 し た り、将校集会所や弾薬庫 を区画するもので もあった。兵営 に出入 りするための門はこの土塁を切って設けられ た。それぞれの部隊の駐留区画に表門が設けられたほか、裏門や通用門がい くつか設けられていたようである。
i)門
門柱がのこされている門は、山砲兵第二大隊 (聯隊)表
門⑪(現.理
学部南東入口)、 歩兵第十聯 隊 表門 (現.南
宿舎入日)、 歩兵第十聯隊通用門0(現 .農
学部農場西)、 広 島陸軍兵器補給廠北倉庫第一通用 門 (現
.教
育学部南東)の
4ケ 所である。 また、文献等に掲載 された写真 によって門柱 を確認できるものに、第十 七師団司令部前の門柱がある°D。 これ らの門のうち、陸軍使用段階に撮影 された写真がのこる第十七師団司令部上 中 下
歩兵第十聯隊表門
(現
南宿舎)歩兵第十聯隊通用門
?(現
農学部) 山砲兵第二大隊表門(現
理学部)門柱 (右
)左
上 :歩 兵第十聯隊表門西側門柱 右上 :歩 兵第十聯隊通用門?南側門柱 左下:山砲兵第二大隊表門東側門柱右下 :広 島陸軍兵器補給廠岡山支廠北倉庫第一通用門 現存 す る門 と門柱
門 (左)
図21
第3節
津島岡大遺跡の研究
表 門、歩兵第十聯隊表門では
3本
の門柱が立 て られてお り、本来、門にはいずれ も3本
の 門柱 がたて られていた とみ られるが、現在では3本
の問柱 を有す る門はない。門柱 には レンガ積みの もの と、モル タル塗 りの ものがある。 レンガ積みの門柱 は、山砲兵第二大隊 (聯隊
)表
門 にの こっている。その他、文献 に掲載 されている写真 によって素材 を確認で きる もの に、第十七師団司令部表 門、歩兵第五十四聯 隊 (第十七 師団期
)表
門が あ る。現存 している山砲兵第二大隊 (聯隊)表
門の門柱 は、高 さ 約240cm、 一辺約70cmの
断面正方形 の四角柱 である。正方形 の花 商岩 の礎石の上 に小 日積 み に よって レンガを 積 み上 げてい く。 レンガを29段積 んだのち、花 尚岩の薄い石板 を挟 んでその上 に再 び レンガを2段
積 む。最上部は数段 の凹凸によって装飾 を施 した花商岩 の切石 をのせ る。天丼部は緩い傾斜で寄棟状 に加工 している。なお、
頂部 には金属製のボル ト
3本
がの こってお り、本来 はこの上 に照明装置が取 り付 け られていたのであろ うはn。 な お、写真で確認 される第十七師団司令部表 門、歩兵第五十四聯隊表 門の レンガ造 の門柱 の基本的なデザ インは、現存 す る山砲兵第二大隊 (聯隊
)表
門 と同様 である。 これ らの部隊はいずれ も1907(明
治40)年
の第十七師団創 設期 の ものである。 したがって第十七師団が創設 された1907〜08(明
治40〜41)年
に作 られた門柱 は レンガ造 り の ものであった とみることがで きよう。モ ル タル塗 りの門柱 には、歩兵第十聯隊表 門門柱 、歩兵第十 聯 隊通用 門門柱 、広 島陸軍兵器補給廠 岡山支廠北倉庫 第一通用 門の門柱がある。その うち、歩兵第十聯隊通用 門に立つ門柱 で は、一部 モル タルが剣落 してお り、その部分か らレンガがのぞ いている (図22左
)こ
とか ら、当初 は レンガ積 みの門柱 であっ た もの をモル タルで塗 ったことが明 らかである。 また、歩兵第 十聯 隊の表 門の門柱 をみてみると、最下部 に花 筒岩製の礎石が み られ、その上 にモル タル塗 りの門柱がのる構造 となっている (図22右)。 しか し、モル タル部分 は下部 の花 両岩 の礎 石 よ り も大 き く、 また、モル タル塗 り門柱 の底辺 と花 尚岩の辺が平行してい ない。 これは最下部の花商岩の礎 石 とその上位 にみ られるモル タル塗 りの部分が一連の工程の もとに製作 され なか った こ と、す なわち、モル タルが後か ら塗 られたことを示す と考 え られる。
なお、 レンガ造 りの門柱の うち、歩兵第五十 四聯 隊の表 門が レンガ造 りの門柱 であった ことは先述 したが、 こ の問は第十七師団廃止後 に姫路か ら転営 して きた歩兵第十聯隊の表門 として引 き継がれた。現在のこっている門 柱 の剣落部か らレンガ積みがのぞ くことや、礎石 とモル タル塗 り施工 とのズ レが生 じた こ とは、第十七師団廃止
に伴 う部隊の入れ替 えに起因す る とみたい。す なわち、
モル タル塗 りの問柱 は、第十七師団廃止後 に転営 して き た歩兵 第十財4隊 に よって塗 られ た もの と考 え るので あ る。広 島陸軍兵器補給廠 岡山支廠北倉庫第一通用 門につ いて も、
1925(大
正14)年
以降の部隊配置 の再編 にとも なって、兵器廠 関連施設が津島北地区 に配 されることか ら、歩兵第十聯隊 と同様、モル タルで塗 り直 された り、新 た に立 て られた門柱 とみ られる。
門柱 にはそれぞれの部隊名や施設名 を記 した表札が掛 け られた り、石板 が嵌め込 まれた りしていた ことが現存 す る門柱 の痕跡や写真か らうかが える (図23)。 レ ンガ 造 の門柱 である山砲兵第二大隊正 門の門柱 には表札 を掛
(右)花聞岩の礎石 と柱の辺が斜行する
!歩 兵第十聯隊表門西側門柱 (左)モル タル剰落部の下にみ られ る
レンガ積み
:歩 兵第十聯隊通用 日?南側門柱 ル タ ル を上 塗 り した 門 柱
(左
)モ
ル タル塗 り門柱 に嵌 め込 まれ た 石板 :広島陸軍兵器補給廠北倉庫 (中)「第十七師 (団)」 大理石製 プ レー ト (右)表
札 吊 り下げ金 具:山 砲 兵第二大隊表 門 図
22
モ図