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Vol.66 , No.1(2017)084須藤 龍真「ジャヤンタの擬似論証因におけるaprayojaka」

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印度學佛敎學硏究第66巻第1号 平成29年12月 (14)

― 479 ―

ジャヤンタの擬似論証因における

aprayojaka

須 藤 龍 真

1.

 序

 バッタジャヤンタ(Bhaṭṭa Jayanta)はNyāyamañjarī(=NM)第11章におい て第6の擬似論証因「引き起こさないもの」(aprayojaka)に言及する.「引き起こ さないもの」=「別の仕方で成立するもの」(anyathāsiddha)の論証例は「意と諸原 子は無常である.有形性から.壺のように」であり,「有形性」という理由は ジャヤンタの認める5つの正しい理由の条件を全て満たしている1).一方,原子 は「有部分という結果に基づく推論」等によって常住性を固有の性質として持つ ことが立証されるため,この推論において理由と論証対象との間には「拘束関 係」(pratibandha)がない2).ジャヤンタがこの「[論証対象を]引き起こさない理 由」を「スートラを超え出ることがまだましであり,実在(vastu)を超え出るこ とは[ましではない]」3)と述べて擁護した背景には,どのような意図があった のであろうか. 2.

 《反論》「引き起こさないもの」は「不確定因」である

 ジャヤンタはこ の擬似論証因を「不確定因」(anaikāntika)と同一視する対論者の見解を紹介する. すなわち,常住であると立証された原子が《原子の無常性論証》において異類例 であるので,不確定因であるという批判である4).《主題が異類例となる》とい う見解はNM推論定義章においても見られる.そこで対論者として想定されて いるのは「排撃と不可離関係とが矛盾する」と述べて,経験主義的な排撃理論を 推論に持ち込むことを拒むダルマキールティ等の仏教論理学派に他ならない.例 えば,「火は冷たい.所作性から」という推論において,火の冷たさは理由を採 用する段階を待たずに「直接知覚と矛盾するもの」という擬似主張(pakṣābhāsa) として提題の段階で排除される.たとえ火が主題であっても,当の主題を含む内 遍充の立場では,拘束関係を把捉する際に「熱い火」が異類例として見られ,推 論における排撃を待つ必要はない5).同様に,「引き起こさない理由」の論証式 においても,原子は目下検討中の主題でありながら,当の主題を含む内遍充の立

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(15) ― 478 ― ジャヤンタの擬似論証因におけるaprayojaka(須 藤) 場に立てば,既成の異類例に他ならないというのが対論者の立場である. 3.

 《応答》主題が異類例となる場合には推論が破綻する

 推論段階におい て内遍充の立場から主題を異類例として用いることは妥当であろうか.ジャヤン タは煙に基づく火の推論を例にとってこの見解を批判する. 主題である山に 火があるか否かは煙が知覚された場合に初めて確定する.もし「山に火あり」 と提題する段階で既にその正誤が確定していれば,推論は不要である.それゆ え,推論段階において「山」という主題に火があるか否かは必ず未確定である. しかし,その場合であっても当の主題を含む内遍充の立場をとるならば,「火 が無いかもしれない山」という異類例が疑われることになり,煙は火を正しく 推論できない6).ジャヤンタはこの理由を「異類例への帰属が疑わしいもの」 (sandigdhavipakṣavṛtti)であるとする. この種の擬似論証因はダルマキールティが不確定因の下位分類として定めたも のであり,全知者論証などの経験領域外のものに関する推論の妥当性をはかる指 標として導入されたものと考えられる7).しかしながら,客観的実在主義の立場 に立つはずの対論者ですら,主題が未確定である推論段階において,経験領域外 のものを想定すれば,最もポピュラーな火の推論ですら機能しなくなってしま い,反証可能性を断じることが出来なくなってしまうとジャヤンタは考える. しかし,対論者が指摘するように「別の仕方で成立する理由」は推論結果を先 取りすれば常に逸脱的性格を帯びるものである.実際に,NM以前にこの擬似論 証因に言及するウッディヨータカラやシャーンタラクシタ著『ヴァーダニヤー ヤ・ヴィパンチタアルター』に言及されるニヤーヤ学派と思われる者の見解で は,「目下検討中である主題が論証対象とは別の属性と理由との関係で説明でき ること」に理由の誤 性を求めているようである.一方,仏教徒はこの種の問題 を「否定的随伴からの逸脱があるかもしれない」という既存の「不確定因」の一 種として,経験領域外のものによる反証可能性の文脈で処理しようとした.ジャ ヤンタは両者の論点を正確にとらえ,以下に見るように「別の仕方で成立する理 由」を「引き起こす理由/引き起こさない理由」という拘束関係に基づく客観的 な理由の誤 へと転換させているといえる. 4.

 ジャヤンタの擬似論証因説における「引き起こさない理由」

 ジャヤン タは対論者と同様に主題pakṣaが実在レベルで同類例/異類例となることを承認 するが,推論段階において主題が同類例sa-pakṣa/異類例vi-pakṣaの両者と異な るものでなければ,推論が破綻すると指摘する.それゆえ,主題は「論者の心の

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(16) ― 477 ― ジャヤンタの擬似論証因におけるaprayojaka(須 藤) 構想作用の上に立ち昇ってきた在り方を持つもの」であり,「一方が成立してい ない理由」と同様に特定の期間だけ疑惑状態として存在すると考える8) 一方で,主題を除く単純な外遍充の立場に基づく推論が困難であることはジャ ヤンタも承知している.仏教徒は「主題において必然関係が把捉されていない理 由は,息子を産むことに対して不能者が能力を持たないのと同様に,論証対象を 思い起こさせるのに能力を持たないものに他ならない」という外遍充批判を展開 し,ジャヤンタもその見解を意識している9).また,チャールヴァーカが批判す るように全ての基体を緻密に調べることによる遍充把捉は不可能である10) 以上のジレンマを解消するために,ジャヤンタは主題を含みうる一切があくま で「一般的にのみ把捉される」という「普遍」(sāmānya)レベルでの遍充把捉の 立場をとる11).すなわち,普遍的必然関係として把捉された遍充を推論におい て未確定の個々の主題に当て嵌め,その際,排撃等が認められない場合には主題 に関する内遍充の立場が確立されるという特殊な内遍充の立場をとりながら,客 観主義的な拘束関係と経験的な排撃理論との接合を図っているといえる12) ジャヤンタの推論体系において「火は冷たい.所作性から」という論証式にお ける誤 は未確定の主題において生じるのではなく(=擬似主張の排除),「所作性 →冷たい」という普遍レベルでの遍充関係を持つ理由を適用する段階において生 じ,当の主題に関して直接知覚によって排撃されることで,その拘束関係の非妥 当性が初めて理解される13).一方,原子の無常性論証の場合には,主題である 原子に直接知覚・聖言による排撃は確認されない.ジャヤンタの排撃理論におい て,いくら努力しても排撃が確認されないのであれば,排撃は存在しないと理解 される14).また,推論段階において同じ未確定の主題に関する他の推論との間 に排撃被排撃の関係はない(=「推論と矛盾するもの」の否定)15).それゆえ,一つ の推論の中でその正誤を判定可能な基準としてprayojakaaprayojakaが要請され る.この原子の無常性論証においても,「別の仕方で成立する理由」(=「引き起こ さない理由」)であることこそが推論の非真知性の根拠であり,推論による排撃で はない.ジャヤンタの推論構造が結果的に内遍充に依拠している以上,力の強弱 にかかわらず「誤った推論」は実在レベルにおいて存在しないのである. 5. 結論 小野[2002: 16]が指摘する通りジャヤンタは「推論と矛盾する推論」 を承認しない.その背景には,内遍充と外遍充が本来的にはらんでいた推論上の 不都合を,両者の折衷案《一切を含む普遍的拘束関係の把捉→推論→個別的な内 遍充の確定》を採用することによって排除しようという意図があったといえる.

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(17) ― 476 ― ジャヤンタの擬似論証因におけるaprayojaka(須 藤) 対論者である仏教徒と同様にジャヤンタにとっても実在の在り方はただ一つであ り,その点で「引き起こさない理由のみが究極的には唯一の擬似論証因であ る」16)という見解をジャヤンタも実質的には支持していたのであろう.後代のニ ヤーヤ学派においてaprayojakaを擬似論証因として別個に立てることは好意的に は受け取られておらず,ウダヤナの著作にみられるように「別の仕方で成立する 理由」はヴァーチャスパティミシュラ等に由来する「わきにあるものを持つも の」(aupādhika)に吸収され,aprayojakaは同義語として言及されるに過ぎない. しかし,ジャヤンタは仏教徒による排撃理論批判及び「別の仕方で成立するも の」批判を退け,遍充把捉論の整理と擬似論証因の再構築を通して一つの解決策 を提示したといえる. 1)NM II p. 625.   2)NM II pp. 625–626.   3)NM II p. 631.   4)NM II pp. 626– 627.   5)NM I pp. 284–286. Cf. Kataoka[2014].  6)NM I pp. 290–291, 498, NM II p. 627.   7)Cf. 小野[1987].  8)NM II p. 627等.  9)NM I p. 289等.Cf. 片岡 [2014: 277–278].  10)Cf. 渡邊[2001: 13].  11)NM I p.287, 499. Cf. 片岡[2003: 12].  12)NM I p. 288.   13)NM I p. 292.   14)NM I p. 292.   15)NM I p. 325. Cf. 小野[2002].  16)NM II p. 563. 〈略号表〉

NM  Nyāyamañjarī of Jayantabhaṭṭa with Ṭippaṇi̶Nyāyasaurabha by the Editor. Ed. K. S. Varadācārya. 2 vols. Mysore: Oriental Research Institute, 1969–1983.

〈参考文献〉

小野卓也 2002「推理は推理を排撃するか」『仏教文化研究論集』6: 3–19.   小野基 1987

「ダルマキールティの擬似論証因説」『仏教学』21: 1–21.   片岡啓 2003「経験と内省」

『南都仏教』83: 1–32.   片岡啓 2014「インド哲学における反証可能性の議論」『南アジ

ア古典学』9: 259–290.   渡邊重朗 2013「Nyāyamañjarīにおけるanumāna-lakṣaṇam部門 の翻訳研究」『成田山仏教研究所紀要』36: 11–57.   Gokhale, Pradeep P. 1992. Inference and Fallacies Discussed in Ancient Indian Logic: With Special Reference to Nyāya and Buddhism. Del-hi: Sri Satguru Publications.

(JSPS特別研究員奨励費(課題番号17J07057)による研究成果の一部)

〈キーワード〉 ニヤーヤ,Nyāyamañjarī,hetvābhāsa,擬似論証因,aprayojaka

参照

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