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駒澤大学佛教学部論集 43 010小栗 隆博「虎伯大宣の行実について」

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Academic year: 2021

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駒澤大學佛教學部論集   第四十三號   平成二十四年十月 二四五 一 、 は じ め に   江 戸 初 期 の 五 山 僧 の 一 人 で あ る 聖 一 派 の 虎 伯 大 宣 ( 一 六 〇 五 〜 七 三 ) は 、 三 代 将 軍 徳 川 家 光 ( 一 六 〇 四 〜 五 一 ) は じ め 、 多 く の 僧 俗 に 教 化 を 及 ぼ し た と さ れ て い る 。   虎 伯 は 東 福 寺 二 四 〇 世 、 東 京 駒 込 龍 光 寺 の 開 山 と し て 知 ら れ 、 当 時 、 芝 の 金 地 院 で 碧 巌 録 を 提 唱 す る な ど 、 大 い に 禅 風 を 振 っ て い た と さ れ る 。 ま た 、 当 時 の 朝 鮮 通 信 使 の 外 交 文 書 の 作 成 を 担 当 し て い た と も さ れ 、 政 治 文 化 の 両 面 に 多 大 な る 影 響 が あ っ た 事 が 伺 わ れ る 。 し か し な が ら 、 今 日 で は そ の 行 実 も 詳 ら か で は な く 、 こ れ ま で 仏 教 人 名 事 典 の 類 に お い て も ほ と ん ど 採 り 上 げ ら れ る 事 の な か っ た 人 物 で あ る 。   虎 伯 の 生 き た 時 代 と は 、 慶 長 年 間 の 関 ヶ 原 の 役 を 経 て 、 江 戸 時 代 に 入 り 、 安 定 し た 徳 川 幕 藩 体 制 が 形 成 さ れ て い っ た 頃 で あ る 。 そ れ ま で の 戦 乱 の 続 い た 時 代 が 、 あ る 程 度 の 落 ち 着 き を 見 せ 始 め た 頃 で あ っ た 。   そ し て 、 江 戸 城 の 建 設 と 、 新 都 市 と し て の 江 戸 の 開 発 が 進 む に つ れ て 、 多 く の 文 物 の み な ら ず 、 人 も 江 戸 に 集 ま り は じ め た 。 ま た 、 全 国 各 地 の 大 名 た ち が 参 勤 な ど の た め に 江 戸 に 居 を 構 え る に あ た り 、 自 ら の 菩 提 寺 を 江 戸 に 建 設 し た り 、 或 い は 自 ら の ゆ か り の あ る 僧 侶 の た め に 新 寺 を 建 立 し て 住 持 さ せ た り し た 。   こ の 時 代 に 活 躍 し た 僧 侶 に は 、 政 治 に 深 く 関 わ る 者 も あ っ    

虎伯大宣の行実について

  

  

  

    虎伯大宣頂相 東京龍光寺所蔵

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二四六 た 。 例 え ば 黒 衣 の 宰 相 と も 呼 ば れ 、 新 都 市 江 戸 の 設 計 に も 深 く 関 与 し た 天 海 ( 一 三 五 六 〜 一 六 四 三 )。 あ る い は 各 宗 の 寺 院 諸 法 度 や 僧 録 制 度 の 制 定 に 深 く 関 わ り 、 そ の 後 の 宗 教 政 策 の 方 向 性 に 大 き な 影 響 を 与 え た 金 地 院 の 以 心 崇 伝 ( 一 五 六 九 〜 一 六 三 三 ) な ど が 挙 げ ら れ る 。   ま た 、 そ の ほ か に も 、 こ の 頃 に 、 地 方 か ら 上 京 し た 僧 侶 の 中 に は 、 多 く の 者 の 帰 依 を 集 め 、 非 常 に 興 味 深 い 活 躍 を し た 者 も 居 よ う 。 だ が 、 こ の 江 戸 時 代 初 め 頃 に 活 躍 し た 僧 侶 た ち に つ い て は 、 僧 伝 資 料 な ど の 類 で も 取 り 上 げ ら れ て 居 な い 場 合 が 多 い 。 な ぜ な ら そ れ は 、 そ の 後 に 編 さ ん さ れ て い た 僧 伝 の 編 集 時 点 で ま だ 存 命 中 で あ っ た 、 或 い は 没 後 ま も な く で あ っ た た め に 、 収 載 さ れ な か っ た の で は な い か と 思 わ れ る 場 合 も 少 な く な い か ら で あ る )( ( 。   ま た 、 江 戸 ( 東 京 ) の 場 合 は 、 そ の 後 の 戦 乱 、 特 に 太 平 洋 戦 争 末 期 の 米 軍 の 空 襲 に よ っ て 、 貴 重 な る 寺 院 の 諸 資 料 が 、 灰 燼 に 帰 し て し ま っ た 場 合 も 少 な く な い 。 そ の た め 、 た と え ば 、 あ る 寺 院 の 開 山 で あ っ て も 、 資 料 が 殆 ど 残 さ れ て お ら ず 、 そ の 行 実 が 審 ら か で は な い 場 合 も ま ま あ る 。 今 回 紹 介 す る 虎 伯 大 宣 に つ い て も 、 示 寂 の 地 で あ る 駒 込 龍 光 寺 に は 、 関 係 資 料 が ほ ぼ 皆 無 の 状 態 で あ っ た )( ( 。   そ こ で 、 出 身 の 鈴 鹿 龍 光 寺 を は じ め 、 勧 請 開 山 で あ る 豊 橋 臨 済 寺 )( ( 等 に 残 さ れ た 資 料 も 調 査 し 、 そ れ ら に つ い て は こ れ ま で 翻 刻 等 の 形 で 紹 介 )( ( を し て き た 。   本 論 文 に 於 い て は 、 こ れ ま で に 発 見 さ れ た 虎 伯 関 係 の 資 料 の 整 理 と 、 そ の 行 実 を 明 ら か に し て 、 江 戸 初 期 の 五 山 僧 の 活 躍 の 一 端 を 紹 介 で き れ ば と 思 っ て い る 。   な お 、 本 論 文 中 で の 僧 侶 の 呼 称 に 関 し て は 、 初 出 に は 道 号 と 僧 名 を 併 せ て 表 記 し 、 次 回 以 降 は 基 本 的 に 僧 名 の 二 文 字 を も っ て 示 し て い る 。 し か し 、 虎 伯 大 宣 に つ い て は 、 虎 伯 と い う 道 号 が 、 大 宣 と い う 僧 名 よ り も 、 よ り 通 称 と し て 通 用 し て い る こ と と 、 そ の 語 録 に も 『 虎 伯 和 尚 語 録 』 と 、 道 号 が 冠 せ ら れ て い る こ と か ら 、 筆 者 の 判 断 に よ り 、 特 に 虎 伯 の 道 号 を 以 て 表 記 し た い 。 二 、 虎 伯 大 宣 の 行 実   は じ め に 、 虎 伯 大 宣 の 生 涯 を 、 衣 斐 仁 峰 『 龍 光 寺 誌 』( 鈴 鹿 龍 光 寺 、 原 文 筆 書 本 、 昭 和 初 期 頃 の 記 述 か ) を 基 に 、 よ り 詳 細 な 情 報 を 加 え つ つ 、 年 譜 形 式 に ま と め 、 紹 介 し た い 。 な お 、 詳 細 に つ い て は そ れ ぞ れ に 注 を 付 し て 解 説 し た 。 【 虎 伯 和 尚 年 譜 】 慶 長 一 〇 ( 一 六 〇 五 ) 年   鈴 鹿 郡 野 登 村 大 字 南 原 尾 )( ( に 生 ま れ る )( ( 。 寛 永 二 ( 一 六 二 五 ) 年   鈴 鹿 龍 光 寺 )( ( の 庫 裡 を 造 営 す る 。

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二四七 寛 永 五 ( 一 六 二 八 ) 年   越 渓 禮 格 ( 東 福 寺 二 三 三 世 ) の 禅 扉 を 敲 き 、 其 心 印 を 得 る 。 ※ こ の 際 の 印 可 状 に つ い て は 後 に 掲 載 す る 。 同 九 ( 一 六 三 二 ) 年   東 京 牛 込 に 一 寺 を 創 建 し て 天 澤 山 龍 光 寺 と 名 付 け 、 鈴 鹿 龍 光 寺 の 分 院 と な す 。 正 保 年 中 ( 一 六 四 四 〜 一 六 四 七 )  三 代 将 軍 徳 川 家 光 ( 一 六 〇 四 〜 一 六 五 一 、 在 職 一 六 二 三 〜 一 六 五 一 ) は 、 特 に 師 を 召 し て 伊 勢 龍 光 寺 の 由 緒 を 問 う 。 ま た 、 三 州 ( 豊 橋 市 ) 吉 田 臨 済 寺 は 小 笠 原 家 の 廟 院 に し て 、 初 め 宗 玄 寺 と 称 し て い た 。 正 保 四 ( 一 六 四 七 ) 年   小 笠 原 忠 知 ( 一 五 九 九 〜 一 六 六 三 ) )(( は 、 こ れ を そ の 封 地 た る 豊 後 杵 築 に 創 建 し 、 虎 伯 の 高 弟 、 日 東 大 暢 を 請 し 、 開 山 と し た 。 ま た 、 虎 伯 は 勧 請 開 山 と な る 。 正 保 二 ( 一 六 四 五 ) 年   小 笠 原 忠 知 は 、 三 河 吉 田 城 主 と し て 移 封 し 、 寺 を 同 地 に 移 す 。 寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 に 寺 名 を 臨 済 寺 )( ( と 改 め る 。 正 保 四 ( 一 六 四 七 ) 年 三 月 一 八 日   虎 伯 は 東 福 寺 に て 佛 鑑 禅 師 ( 聖 一 国 師 の 本 師 、 無 準 師 範 )(( ( 一 一 七 八 〜 一 二 四 九 ) 四 百 年 忌 預 修 )(( ( を な す 。 慶 安 元 ( 一 六 四 八 ) 年 二 月 二 四 日   旧 龍 光 寺 伽 藍 敷 地 ( 現 今 飯 野 村 西 條 地 に し て 飯 野 小 学 校 南 方 一 帯 の 地 ) 及 び 現 龍 光 寺 境 内 門 前 地 に て 、 都 合 高 二 一 石 三 斗 余 を 拝 領 し 、 同 時 に 伽 藍 修 繕 料 若 干 を 賜 う 。 慶 安 元 ( 一 六 四 八 ) 年   旧 神 戸 城 主 一 柳 監 場 直 盛 候 の 十 三 回 忌 法 要 を 修 す 。 香 語 あ り 。 慶 安 三 ( 一 六 五 〇 ) 年 一 〇 月 一 五 日   東 京 龍 光 寺 に て 先 師 、 養 之 玄 長 の 十 三 回 忌 を 修 す 。 香 語 )(( ( あ り 。 明 暦 二 ( 一 六 五 六 ) 年   牛 込 の 地 を 御 用 地 と し て 召 上 げ ら れ た 後 、 酒 井 讃 岐 守 の 斡 旋 に て 駒 込 に 三 千 六 百 坪 余 を 替 地 と し て 拝 領 し 、 こ の 地 に 寺 を 移 転 )(( ( す る 。 寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 一 三 日   大 本 山 東 福 寺 に 住 し 、 第 二 四 〇 世 と な る )(( ( 。 在 職 中 、 東 福 寺 秉 拂 例 を 改 め る )(( ( 。 寛 文 一 二 ( 一 六 七 二 ) 年 一 月 一 七 日   伊 勢 な ら び に 江 戸 の 両 龍 光 寺 の 規 矩 を 定 め る )(( ( 。 寛 文 一 三 ( 一 六 七 三 ) 年 八 月 一 七 日 ( 一 説 に 九 月 一 七 日 )  東 京 龍 光 寺 に て 示 寂 。 世 寿 六 八 。 法 嗣 に 俊 峯 大 良 、 如 林 士 賢 な ど 一 一 名 が あ る 。 ※ そ の 他 の 弟 子 、 法 系 に つ い て は 、 そ れ ぞ れ 論 文 末 の 法 系 図 )(( ( を 参 照 の こ と 。 【『 隔 蓂 記 』 中 に 見 ら れ る 京 都 で の 動 静 】   加 え て 、 京 都 に 在 住 し て い た 時 の 、 虎 伯 の よ り 詳 細 な 動 静 の 記 録 と し て は 、 鳳 林 承 章 ( 一 五 九 三 〜 一 六 六 八 ) に よ る 日 記 で あ る 『 隔 蓂 記 』 )((( 中 の 記 述 が あ る 。  

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二四八   鳳 林 承 章 は 文 禄 二 年 生 ま れ 。 勧 修 寺 晴 豊 ( 一 五 四 四 〜 一 六 〇 二 ) )((( の 子 。 西 笑 承 兌 ( 一 五 四 八 〜 一 六 〇 七 ) )((( の 法 を 嗣 ぐ 。 慶 長 一 六 ( 一 六 一 一 ) 年 、 一 九 歳 に し て 秉 拂 。 元 和 六 ( 一 六 二 〇 ) 年 、 京 都 の 等 持 院 に 、 後 に 鹿 苑 寺 、 相 国 寺 を 歴 住 す 。 寛 文 八 年 八 月 二 四 日 示 寂 。 世 寿 七 六 歳 。   承 章 は 、 公 卿 や 金 森 宗 和 ( 一 五 八 四 〜 一 六 五 七 ) )((( ら の 茶 人 、 林 羅 山 ( 一 五 八 三 〜 一 六 五 七 ) )((( ら の 儒 者 と も 親 交 が あ り 、 日 記 『 隔 蓂 記 』 は 、 当 時 の 京 都 五 山 僧 の 様 子 を 知 る 貴 重 な 史 料 で あ る 。   『 隔 蓂 記 』 は 寛 永 一 三 ( 一 六 三 六 ) 年 の 、 承 章 が 四 四 歳 の 時 か ら 書 き 始 め ら れ 、 示 寂 の 二 ヶ 月 前 で あ る 寛 文 八 ( 一 六 六 八 ) 年 の 六 月 二 八 日 に そ の 筆 が 止 ま っ て い る 。   こ の 日 記 中 に 見 ら れ る 虎 伯 の 名 前 は 、 合 計 四 二 カ 所 に の ぼ る 。 そ れ で は 以 下 、 虎 伯 の 動 静 が 分 か る 箇 所 に つ い て 順 次 抽 出 し て み て い き た い 。   虎 伯 に つ い て の 記 述 が み ら れ る 初 回 は 、 寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 九 月 二 五 日 付 の 日 記 か ら で あ る 。 す な わ ち 、 赴 龍 吟 庵 、 而 虎 伯 西 堂 先 日 被 尋 之 謝 、 伸 之 。 被 赴 方 丈 之 由 、 不 對 、 自 門 外 、 帰 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 三 三 頁 ) と い う 記 述 が そ れ で あ る 。     虎 伯 が 東 福 寺 に 二 四 〇 世 と し て 晋 山 す る の は 、 同 年 の 一 二 月 一 三 日 で あ る が 、 こ の と き は 京 都 の 東 福 寺 塔 頭 龍 吟 庵 )(( ( に い た こ と が 分 か る 。 こ の 日 の 日 記 に は 、 青 天 で 、 春 の 如 く 暖 か な 日 、 朝 早 く 食 事 を し た 後 に 、 東 福 寺 の 各 塔 頭 を 訪 ね て い る 事 が 記 録 さ れ て い る 。 こ の と き 虎 伯 は 西 堂 と し て 、 東 福 寺 塔 頭 の 一 つ で あ る 龍 吟 庵 に 居 た と 思 わ れ る 。 承 章 は 過 日 に 尋 ね ら れ た こ と の 礼 を 述 べ る に 留 め 、 山 内 に 入 る こ と な く 次 の 目 的 地 で あ る 建 仁 寺 に 向 か っ た と の こ と で あ る 。 ち な み に こ の 頃 、 承 章 は 鹿 苑 寺 )(( ( に 住 し て い た 。   日 付 と 年 号 を 正 確 に 記 録 し 、 併 せ て 天 気 や 、 そ の 日 に あ っ た 人 の 名 前 な ど が 詳 細 に 記 録 さ れ て い る こ の 日 記 の 資 料 価 値 は 、 相 当 に 高 い で あ ろ う 。   寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 〇 月 七 日 の 記 事 に は 、 翌 日 の 天 澤 圓 育 ( 東 福 寺 二 三 九 世 、 寛 文 二 〈 一 六 六 二 〉 年 一 一 月 一 一 日 示 寂 ) の 入 寺 式 を 控 え 、 東 福 寺 に 前 日 入 り し た も の の 、 体 調 に す ぐ れ な い 様 が 記 録 さ れ て お り 、 そ の た め 虎 伯 は じ め 、 泰 岳 明 宗 、 楚 蔵 主 が 宿 坊 へ 見 舞 い に 来 て く れ た と い う 。 虎 伯 西 堂 ・ 泰 岳 西 堂 ・ 楚 蔵 主 宿 坊 江 被 見 舞 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 四 〇 頁 )   寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 一 月 二 七 日 の 記 事 に は 、 予 赴 東 福 寺 之 新 命 虎 伯 西 堂 、 而 伸 賀 儀 也 。 五 山 十 刹 之 賀

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二四九 儀 者 昨 日 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 六 三 頁 ) と あ る 。 一 二 月 一 三 日 の 晋 山 を 控 え 、 少 な く と も こ の 時 点 で は 、 東 福 寺 新 命 住 職 と の 認 識 の 元 、 祝 賀 が 述 べ ら れ て い た と の こ と で あ る 。   寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 一 二 日 は 、 虎 伯 大 宣 の 晋 山 前 日 で あ り 、 そ の た め に 前 日 入 り し て 相 国 寺 の 宿 坊 で あ る 東 福 寺 塔 頭 正 覚 庵 に 諸 々 の 道 具 や 法 衣 を 持 参 し て 、 侍 者 と 共 に 向 か っ た 旨 が 記 録 さ れ て い る 。 明 日 伊 勢 之 虎 伯 大 宣 西 堂 之 入 院 也 。 相 國 寺 之 宿 坊 正 覺 菴 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 七 一 頁 )   寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 一 三 日 は 、 い よ い よ 晋 山 当 日 で あ る 。 当 日 の 様 子 を 知 る た め に 、 や や 長 い が 一 日 分 の 日 記 を そ の ま ま 左 に 紹 介 し た い 。 一 三 日 、 天 気 晴 也 。 山 門 佛 事 ・ 上 堂 之 時 、 予 與 勝 定 者 乗 物 而 西 門 之 下 迄 行 也 。 帰 亦 其 通 也 。 山 門 佛 事 済 、 赴 佛 殿 、 而 佛 事 済 、 予 赴 方 丈 。 列 刹 之 衆 者 草 賀 禮 可 有 之 。 僧 録 金 地 被 招 予 、 於 方 丈 、 令 打 談 也 。 有 湯 、 金 地 主 位 、 白 槌 天 授 、 賓 位 其 、 次 掛 盛 坐 也 。 湯 二 返 也 。 各 帰 院 也 。 於 宿 坊 、 早 晨 有 飯 、 酒 二 返 、 菓 子 ・ 茶 也 。 自 新 命 、 濃 茶 来 也 。 侍 衣 為 使 、 被 来 也 。 香 徳 寺 南 隣 周 長 老 ・ 太 華 西 堂 ・ 泰 岳 ・ 無 外 ・ 江 雪 西 堂 衆 宿 坊 江 被 見 舞 也 。 鼓 鳴 、 則 各 集 法 堂 也 。 山 門 ・ 諸 山 疏 二 篇 也 。 山 門 者 無 外 陽 西 堂 被 唱 也 。 齋 之 時 、 主 位 金 地 ・ 賓 位 某 ・ 主 對 勝 定 ・ 賓 對 大 圓 也 。 齋 之 中 盛 油 麩 也 。 菓 子 五 種 也 。 上 堂 之 前 、 慈 照 院 持 参 之 濃 茶 、 各 喫 之 也 。 方 丈 齋 相 済 、 帰 于 宿 坊 、 則 建 仁 之 清 住 茂 源 柏 東 堂 ・ 韋 天 昶 東 堂 被 来 于 宿 坊 、 而 今 日 自 仙 洞 、 被 仰 付 、 富 士 山 ・ 三 穂 松 原 之 詩 持 参 、 見 之 也 。 予 拙 作 亦 令 見 之 也 。 予 急 帰 于 晴 雲 軒 、 而 各 喫 夕 飡 、 而 令 帰 山 也 。 以 桃 燈 、 而 令 帰 山 也 。 自 東 海 寺 、 書 状 来 也 。 自 江 戸 、 葡 萄 被 登 、 仙 洞 江 奉 献 上 度 之 旨 也 。 於 予 、 亦 少 令 給 分 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 七 二 頁 )   晋 山 式 の 当 日 は 、 好 天 に 恵 ま れ 、 山 門 仏 事 と 上 堂 は 梵 崟 勝 定 と 共 に 、 乗 り 物 で 向 か い 、 西 門 で 降 り 、 ま た 同 じ 道 で 帰 っ て き た と の こ と で あ る 。 諸 仏 事 が 終 わ り 、 方 丈 に 向 か う と 、 五 山 の 僧 衆 が 祝 い の 礼 を 為 し て い た 。 金 地 崇 五 ( 竺 隠 崇 五 、 後 の 南 禅 寺 二 七 八 世 ) に 招 か れ 、 し ば し の 会 話 と 點 湯 を 受 け た 。 そ れ に 続 く 朝 の 行 持 を 初 め 、 山 門 法 語 な ど 種 々 の 行 持 が 滞 り な く 行 わ れ て い っ た 様 子 が 分 か る 。 行 持 次 第 の 詳 細 に つ い て は 別 の 機 会 に 論 じ た い 。 ち な み に こ こ に 登 場 す る 僧 侶 の 道 号 と 僧 名 は 『 隔 蓂 記 』 の 脇 註 に よ れ ば 、 そ れ ぞ れ 天 授 玄 承 、 南 隣 永 周 、 太 華 令 瞻 、 泰 岳 明 宗 、 無 外 令 用 、 茂 源 紹 柏 、 韋 天 祖 昶 で あ る 。

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五〇   入 院 か ら 五 日 た っ た 寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 一 八 日 に は 、 虎 伯 が 承 章 の も と に 晋 山 の 隨 喜 へ の 礼 を 述 べ に 訪 れ て い る 。 東 福 寺 之 新 命 宣 長 老 為 還 禮 、 於 北 山 、 来 訊 、 布 襪 子 返 納 也 。 當 山 煤 払 故 、 内 々 留 主 之 旨 、 申 付 故 、 他 出 之 由 、 申 由 、 不 對 、 自 門 外 、 被 帰 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 七 四 頁 )   し か し こ の 日 は 鹿 苑 寺 の 煤 払 い の 日 で あ り 、 来 客 は 受 け 付 け な い こ と に な っ て い た た め 、 在 山 で は あ り な が ら 相 見 す る こ と な く 、 虎 伯 は 布 襪 子 を 置 い て 帰 っ て 行 っ た と の こ と で あ る 。 当 時 は 隨 喜 の 礼 と し て 、 襪 子 を や り 取 り す る 習 慣 が あ っ た も の で あ ろ う か 。 あ る い は 返 納 と あ る こ と か ら 、 ま た 何 か 違 っ た 意 味 合 い が あ る の で あ ろ う か 。 ち な み に 晋 山 に 際 し て 、 随 喜 の 僧 侶 に 襪 子 を 贈 る 習 慣 は 、 現 在 の 洞 門 寺 院 で も 地 域 に よ っ て は し ば し 見 ら れ る も の で あ る 。   そ し て そ の 翌 々 日 の 寛 文 元 ( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 二 〇 日 に は 、 そ の 更 に 返 礼 と し て 、 遣 い の 僧 と し て 圓 立 を や っ た と い う 。 一 昨 日 恵 日 虎 伯 宣 東 堂 為 還 禮 、 被 来 故 、 今 日 遣 使 僧 圓 立 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 一 七 六 頁 ) こ の よ う に 互 い に 親 密 な や り 取 り を 丁 寧 に 行 っ て い る 様 子 が う か が わ れ る 。   こ の 後 し ば ら く の 間 、 虎 伯 に つ い て の 記 述 が 見 ら れ な い が 、 や が て ま た 、 し ば し ば 虎 伯 が 承 章 の も と を 訪 れ て い る 様 子 を 知 る こ と が 出 来 る 。   寛 文 三 ( 一 六 六 三 ) 年 一 一 月 二 九 日 に は 、 予 未 出 洛 前 、 東 福 寺 之 虎 伯 東 堂 来 臨 之 由 、 布 襪 壱 両 持 参 也 。 予 未 對 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 四 八 二 頁 ) と 、 出 掛 け る 前 に 虎 伯 が 布 襪 を 一 足 持 参 し て 来 山 し た こ と が 記 録 さ れ て い る 。 ち な み に 布 襪 と は 脚 絆 ま た は 足 袋 の こ と を 意 味 す る と 思 わ れ る 。   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 一 月 一 六 日 に は 、 虎 伯 が 承 章 に 年 頭 の 挨 拶 に 来 て い る 。 恵 日 院 莊 嚴 院 虎 伯 宣 東 堂 為 年 頭 之 禮 、 来 訊 、 於 晴 雲 門 外 、 而 相 對 也 。 香 合 棗 梧 箱 入 被 惠 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 五 二 五 頁 )   そ の 際 、 桐 箱 入 り の 香 合 と 棗 を 年 賀 の 品 と し て 贈 っ た と い う 。 こ の と き 承 章 は 相 国 寺 晴 雲 軒 に 居 た よ う で あ る 。 こ の 頃 は 、 虎 伯 が 訊 ね て も 門 外 で や り 取 り を す る だ け で 済 ま せ て い る こ と が 多 か っ た よ う で あ る 。 或 い は 本 人 が 遠 慮 し て 敢 え て

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五一 山 内 に 入 ら ず に 辞 去 し た も の で あ ろ う か 。   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 一 月 二 二 日 に は 、 五 山 の 住 持 が そ ろ っ て 参 内 し 、 年 頭 の 挨 拶 に 訪 れ て い る 。 五 山 参 内 、 予 亦 初 参 御 禮 申 上 也 。 早 晨 喫 齋 也 。 赴 勧 修 寺 也 。 金 地 院 竺 隠 僧 録 ・ 天 授 承 東 堂 ・ 妙 智 修 東 堂 ・ 慈 照 吉 東 堂 ・ 大 統 憲 東 堂 ・ 荘 厳 宣 東 堂 、 此 衆 也 。 於 勧 大 、 而 羹 ・ 吸 物 、 被 浮 杯 、 被 點 濃 茶 也 。 長 老 衆 江 以 三 方 膳 、 居 之 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 五 二 九 頁 )   勧 修 寺 )(( ( に て 金 地 院 竺 隠 崇 五 ・ 天 授 玄 承 ・ 妙 智 等 修 ・ 慈 照 顯 吉 ・ 大 統 通 憲 ら と と も に 、 正 式 な 年 賀 の 振 る 舞 い が 為 さ れ た 様 子 が わ か る 。 京 都 山 科 の 門 跡 寺 院 で あ る 勧 修 寺 が 宮 中 と 五 山 僧 と の 取 り 次 ぎ や 接 待 の 場 と な っ て い た の で あ ろ う 。   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 二 月 三 〇 日 に は 、 承 章 が 虎 伯 を 訪 ね 、 畦 踏 皮 ( お そ ら く 草 履 の 皮 で あ ろ う ) 五 足 を 贈 っ て い る が 、 こ の と き は 留 守 の た め に 会 え な か っ た 。 こ の 日 、 承 章 は 京 都 府 内 を さ ま ざ ま な 用 事 を す ま す た め に 精 力 的 に 動 き ま わ っ て い る 。 そ の う ち の 一 つ と し て 虎 伯 を 訪 ね た の で あ る 。 予 赴 虎 伯 宣 東 堂 、 畦 踏 皮 五 足 令 贈 進 于 宣 東 堂 、 他 出 之 由 、 不 對 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 五 三 四 頁 )   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 一 一 月 一 二 日 に は 、 留 守 中 に 虎 伯 が 高 崎 煙 草 )(( ( を 五 把 届 け て く れ た 旨 の 記 述 が あ る 。 東 福 虎 伯 東 堂 亦 来 訊 、 高 崎 多 波 古 五 把 被 惠 之 也 。 予 未 帰 故 、 不 對 也 。 明 日 可 遣 謝 簡 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 六 七 〇 頁 )   こ の ほ か に も 『 隔 蓂 記 』 中 に は 煙 草 が 届 け ら れ る と い う 記 述 が し ば し 散 見 さ れ る 。 承 章 は 或 い は 煙 草 が 好 き だ っ た の だ ろ う か 。 ま た 、 こ の 頃 の 五 山 僧 に は 喫 煙 の 習 慣 が あ っ た と も 推 測 で き る 。   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 一 一 月 二 七 日 は 、 相 国 寺 に 春 葩 宗 全 ( 九 八 世 、 元 禄 九 〈 一 六 九 六 〉 年 五 月 八 日 示 寂 ) が 入 寺 す る 日 で あ り 、 そ の 際 に は 塔 頭 の 鹿 苑 院 が 東 福 寺 の 宿 坊 と し て 充 て ら れ て お り 、 そ こ に 虎 伯 を 訪 ね た 旨 が 記 さ れ て い る 。 赴 東 福 寺 宿 坊 鹿 苑 院 、 虎 伯 宣 東 堂 ・ 泰 岳 西 堂 、 相 對 。 (『 隔 蓂 記 』 第 五 、 六 七 八 頁 )   寛 文 四 ( 一 六 六 四 ) 年 一 二 月 二 〇 日 に は 、 虎 伯 に 頭 巾 を 一 片 贈 り 、 二 一 日 に は そ の 返 礼 の 書 簡 が 届 け ら れ た 事 が 記 録 さ れ て い る 。 頭 巾 一 片 令 贈 投 東 福 之 虎 伯 宣 東 堂 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 五 、 六 八 九 頁 、 二 〇 日 の 項 )

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五二 恵 日 荘 厳 院 宣 東 堂 昨 投 頭 巾 之 返 翰 之 次 、 被 恵 謝 詩 、 其 和 韻 為 持 、 遣 也 。( 同 、 二 一 日 の 項 )   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 一 月 二 四 日 に は 、 例 年 の 如 く 五 山 の 住 持 た ち が 年 賀 に 参 内 し て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 三 頁 )。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 二 月 三 日 に は 承 章 が 虎 伯 の 元 を 年 賀 の 挨 拶 に 訪 れ 、 山 内 で 蕎 麦 を ご ち そ う に な っ て い る 。 予 赴 東 福 寺 、 赴 荘 厳 院 虎 伯 宣 東 堂 、 而 伸 年 頭 賀 、 則 被 呼 入 、 打 談 、 蕎 麦 切 被 出 、 数 盃 喫 之 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 三 〇 頁 )   こ れ ま で は 公 式 の 行 持 の 場 で な け れ ば 、 門 外 で や り 取 り す る こ と し か な か っ た 間 柄 が 、 こ の 頃 か ら 親 し く 共 に 食 事 を す る よ う に な っ た と 思 わ れ る 。 或 い は 五 山 僧 同 士 で も 、 山 内 に 招 き 入 れ る と 言 う こ と は 、 そ れ な り の 展 待 を し な け れ ば な ら な い と い う 意 味 合 い か ら 、 あ え て 座 敷 に 上 が ら ず に 辞 去 す る 事 が 多 か っ た の で あ ろ う か 。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 二 月 二 三 日 に は 、 午 後 に 金 地 院 )(( ( に 赴 き 、 二 六 日 か ら 江 戸 に 向 か う 金 地 院 崇 五 を 訪 ね て い る 。 ま た そ の 時 に 、 同 じ く 訪 れ て い た 虎 伯 と も 会 っ た 旨 が 記 録 さ れ て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 三 九 頁 )。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 三 月 一 一 日 に は 、 先 に 蕎 麦 を 馳 走 に な っ た 返 礼 で あ ろ う か 、 虎 伯 は じ め 何 人 か の 僧 侶 を 招 き 、 内 々 に 食 事 が 振 る ま わ れ て い る 。 内 々 午 時 招 虎 伯 東 堂 、 振 舞 也 。 雖 招 湘 雪 西 堂 與 東 嶺 旭 首 座 、 湘 雪 者 隙 入 、 東 嶺 者 灸 痛 之 由 、 不 被 来 也 。 東 堂 之 内 、 俊 峯 良 首 座 被 来 、 行 者 正 源 云 者 供 仕 也 。 良 首 座 ・ 正 源 予 初 相 對 也 。 自 虎 伯 、 菓 子 一 折 ・ 菓 子 三 袋 被 惠 之 。 彦 西 堂 被 見 舞 也 。 圓 長 給 仕 倩 也 。 非 時 齋 、 點 濃 茶 、 非 茶 之 湯 也 。 虎 伯 翁 被 製 狂 句 之 隔 句 、 則 予 令 對 。 彦 ・ 良 共 十 句 有 之 。 狂 句 曰 、 北 山 時 雨 変 。 花 上 彩 霞 横 呼 々 。 東 國 海 原 住 。 叢 中 白 額 獰 木 屑 。 於 茶 屋 、 粽 ・ 練 酒 ・ 薄 茶 也 。 後 段 蕎 麦 切 、 又 點 濃 茶 也 。 申 下 刻 被 帰 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 四 六 頁 ) こ の と き 、 湘 雪 守 沅 、 東 嶺 旭 ら も 招 い た も の の 、 そ れ ぞ れ 事 情 に よ り 来 ら れ ず 、 虎 伯 と 共 に 俊 峯 大 良 ( 東 福 寺 二 四 八 世 、 宝 永 七 〈 一 七 一 〇 〉 年 八 月 二 〇 日 示 寂 ) と 正 源 と い う 行 者 が 訪 れ 、 慶 彦 も 併 せ て 食 事 を 饗 し た と い う 。 虎 伯 と と も に 狂 句 を な し 、 さ ま ざ ま に 楽 し ん だ 後 、 午 後 四 時 か ら 五 時 頃 に 帰 っ た と い う 。 返 礼 と し て は か な り 大 が か り な 接 待 と な っ た 事 が 分 か る 。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 五 月 一 日 の 記 事 に は 、 南 禅 寺 に て 五

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五三 山 住 持 の 評 議 が 行 わ れ 、 こ こ に 虎 伯 も 出 席 し て い た と 記 録 さ れ て い る 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 六 九 頁 )   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 五 月 七 日 に は 五 山 僧 が 新 た な る 朱 印 を 受 け る た め に 江 戸 に 出 仕 す る こ と の 説 明 を 受 け る た め に 、 京 都 所 司 代 牧 野 佐 渡 守 親 成 ( 一 六 〇 七 〜 一 六 七 七 ) )((( の も と に 参 集 し た と い う 記 録 が な さ れ て い る 。 こ の 際 、 今 ま で の 朱 印 状 を 返 納 す る た め に 、 そ れ ぞ れ 持 参 し た と い う 。 こ の と き 、 虎 伯 に 出 会 っ た 承 章 は 、 遅 れ て き た 者 た ち を 待 つ 間 、 次 の よ う に 狂 句 を か わ し て い る 。 予 殊 外 早 赴 門 外 、 然 則 東 福 寺 之 虎 伯 宣 東 堂 来 訊 。( 中 略 ) 予 狂 句 投 虎 伯 翁 也 。 午 時 来 牧 野 木 屑 。 霖 雨 湿 王 城 虎 伯 。 假 寝 終 留 笋 虎 伯 。 中 開 寄 接 櫻 木 屑 。 如 此 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 七 三 頁 )   こ の 頃 、 徳 川 家 綱 は 寛 文 五 年 に 大 名 に 対 し て 一 斉 に 継 目 安 堵 を 行 い 、 同 様 に 徳 川 家 二 代 、 三 代 の 朱 印 状 所 持 寺 社 に 対 し て は 全 部 、 一 代 の み は 五 十 石 以 上 、 寺 領 が な く 境 内 ば か り の 朱 印 状 で も 一 宗 の 本 寺 に は 朱 印 状 を 頒 布 し た と い う 。 大 多 数 の 寺 社 は 七 月 十 一 日 付 で 、 そ の 他 は 多 少 遅 れ る な ど 例 外 は あ る が 、 千 五 百 七 通 が ほ ぼ 一 斉 に 頒 布 さ れ た と い う (『 国 史 大 事 典 』 を 参 考 )。 な お 、 日 記 の こ の 後 の 記 述 に お け る 虎 伯 と の 出 会 い は 、 し ば ら く の 間 は 旅 の 途 上 や 江 戸 で の も の に な る 。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 五 月 二 四 日 に 、 承 章 は 供 の も の を 引 き 連 れ て 京 を 立 っ た 。 そ の 後 江 戸 に 向 か う 道 中 で 、 二 八 日 に 、 岡 崎 を 過 ぎ た あ た り の 茶 屋 で 蕎 麦 を 食 べ て い る と き 、 虎 伯 に 会 っ た 旨 が 記 録 さ れ て い る 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 三 一 頁 ) 虎 伯 も 同 じ く 江 戸 に 向 か う 道 中 の こ と で あ っ た の で あ ろ う か 、 或 い は 豊 橋 臨 済 寺 に 滞 在 し て い た 虎 伯 が 、 承 章 の 道 程 を 聞 き つ け て 、 訊 ね て き た も の で あ ろ う か 。   そ の 後 江 戸 に 着 き 、 五 山 の 朱 印 状 に つ い て の 手 続 き 等 の た め 、 寺 社 奉 行 と の 折 衝 な ど を 精 力 的 に 行 っ て い る 様 子 が 記 録 さ れ て い る 。 そ ん な 中 、 寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 六 月 二 一 日 は 、 承 章 の 姉 で あ る 光 壽 院 殿 の 忌 日 の た め 、 光 岳 寺 に て 供 養 が 行 わ れ た 。 そ の 際 に 虎 伯 も 同 寺 を 訪 れ 、 そ ば 粉 三 袋 を 持 参 し て く れ た と い う (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 三 六 頁 )。 ま た 、 こ の と き 良 首 座 も 同 道 し て お り 、 言 葉 を 交 わ し て い る 。   寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 八 月 七 日 に は 、 翌 日 に 五 山 の 朱 印 が 発 行 さ れ る と の こ と で 、 芝 の 金 地 院 )(( ( を 訪 れ 、 そ の 際 、 虎 伯 に も 会 っ て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 四 八 頁 )。 同 じ く 一 八 日 に は 虎 伯 が 杉 二 重 菓 子 を 持 参 し 、 と も に 吸 物 を 喫 し た と 記 録 さ れ て い る 。 な お こ の と き に は 虎 伯 の こ と は 「 龍 光 ○ 虎 伯 宣 東

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五四 堂 」( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 五 三 頁 ) と 表 記 さ れ て い る 。   こ の 後 、 京 都 に 戻 っ た 承 章 は 、 や は り 同 じ く 京 都 に 戻 っ て い る 虎 伯 と も 会 う 機 会 に 恵 ま れ て い る 。 寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 一 〇 月 二 〇 日 は 高 峰 顕 日 ( 一 二 四 一 〜 一 三 一 六 ) の 三 百 五 十 年 遠 忌 の 日 で あ っ た 。 そ の 午 前 の 法 要 と 食 事 ま で を 済 ま せ 、 午 後 に は 東 福 寺 に 向 か っ て い る 。 東 福 寺 二 四 一 世 太 華 令 膽 が 、 去 る 七 日 に 、 対 馬 よ り 帰 洛 し 、 再 住 し た た め に 、 そ の 祝 い の 品 を 届 け る た め で あ る 。 同 時 に 虎 伯 に も 会 い 、 吉 野 葛 の 大 袋 を 二 個 持 参 し て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 九 七 頁 )。 こ れ へ の 返 礼 で あ ろ う 、 寛 文 五 ( 一 六 六 五 ) 年 一 二 月 一 日 に は 、 虎 伯 が 晴 雲 軒 を 訪 れ 、 有 馬 の 竹 細 工 と 岩 茸 一 箱 を 持 参 し て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 一 四 頁 )。   年 が 改 ま り 、 寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 一 月 一 六 日 、 こ の 日 よ り 承 章 は 相 国 寺 の 住 持 と 成 っ た 。 ま た 、 例 年 の 通 り 五 山 住 持 が 参 内 し 、 年 賀 を 述 べ て い る 。 勧 修 寺 の 書 院 に 於 い て 、 虎 伯 は じ め 五 山 僧 が 雑 煮 、 酒 、 濃 茶 の 接 待 を 受 け て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 八 一 頁 )。   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 一 月 一 九 日 に は 、 五 山 の 住 持 が 京 都 所 司 代 牧 野 佐 渡 守 親 成 の 元 に 年 賀 に 訪 れ て い る 。 通 常 で は こ れ は 毎 年 一 〇 日 に 行 う も の で あ る が 、 留 守 で あ っ た た め こ の 日 ま で 順 延 さ れ た と の こ と 。 や は り こ こ に も 虎 伯 が 参 加 し た 旨 が 記 録 さ れ て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 八 四 頁 )。 二 一 日 に は 相 国 寺 に 於 い て 、 五 山 住 持 の 評 議 が 行 わ れ 、 土 屋 数 馬 と 板 倉 重 矩 ( 一 六 一 七 〜 一 六 七 三 ) )((( の 老 中 就 任 の 賀 使 派 遣 と 祝 賀 文 の 内 容 に つ い て 話 し 合 わ れ 、 そ の 評 議 に 虎 伯 も 侍 者 と 共 に 参 加 し た (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 八 五 頁 )。 評 議 が 終 わ り 、 食 事 が 振 る 舞 わ れ た 旨 が 記 録 さ れ て い る 。 こ の 書 状 は 二 七 日 付 け で 発 送 さ れ る 予 定 で 、 使 者 を 遣 わ す 当 番 寺 院 は 東 福 寺 と の こ と で あ っ た 。   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 二 月 一 四 日 に 、 承 章 は 東 福 寺 に 虎 伯 を 訪 ね 、 年 頭 の 返 礼 を し て い る 。 蕎 麦 や 種 々 の 馳 走 の 饗 応 を 受 け 、 狂 句 を 共 に 作 っ て い る 。 虎 伯 翁 狂 句 曰 、 御 出 喜 梅 晩 。 予 對 曰 、 見 廻 服 茗 湘 。 両 吟 七 八 句 有 之 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 九 六 頁 )   ま た 、 こ の と き 虎 伯 の 弟 子 が 秉 拂 を な し た こ と を 知 り 、 襪 子 一 足 を 贈 っ て い る 。   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 二 月 二 〇 日 に は 、 後 水 尾 法 皇 よ り 、 相 国 寺 内 に 穏 仁 親 王 の た め の 一 宇 を 建 立 し た い が 、 そ の た め の 用 地 が 山 内 に あ る か の 問 い 合 わ せ が あ り 、 急 い で そ れ に 答

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五五 え 、 ま た 法 皇 よ り 依 頼 の 「 列 仙 傳 之 團 扇 」 に 書 を し た た め て も ら う た め に 、 韋 天 祖 昶 、 三 峯 紹 善 、 顯 令 通 憲 、 虎 伯 大 宣 、 太 華 令 瞻 等 へ 遣 い を や っ て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 一 九 九 頁 )。   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 三 月 一 一 日 に は 、 虎 伯 等 、 東 福 寺 関 係 者 を 招 き 、 振 る 舞 い を し て い る 。 こ の と き 虎 伯 以 下 の 招 か れ た 者 は 、 太 華 令 瞻 東 堂 、 石 室 聖 碓 首 座 、 東 嶺 旭 首 座 、 賓 首 座 、 良 首 座 ら で あ っ た 。 非 時 食 と し て 蕎 麦 や 濃 茶 を 振 る 舞 い 、 ま た 、 茶 屋 で の 喫 茶 を 楽 し み 、 遠 景 の 見 ら れ る 山 内 の 小 山 で あ ろ う か 、 そ こ か ら の 景 色 を 楽 し み つ つ 、 虎 伯 の 申 し 出 で 狂 句 を か わ し て い る 。 虎 伯 翁 於 山 上 、 狂 句 申 懸 也 。 春 慰 北 山 頂 、 花 都 一 目 看 。 予 對 曰 、 今 尋 東 福 主 、 茶 屋 獨 身 歓 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 〇 七 頁 )   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 四 月 二 一 日 は 、 虎 伯 の 弟 子 如 林 士 賢 の 秉 拂 に あ た り 、 布 襪 と 金 扇 を 贈 ら れ 、 ま た 虎 伯 か ら は 高 崎 煙 草 五 把 と 書 状 が 送 ら れ た 旨 が 記 さ れ て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 二 三 頁 )。 二 三 日 に は そ の 礼 状 を 虎 伯 に 書 き 送 る に 際 し 、 近 日 中 に 江 戸 に 向 か う と の こ と も あ り 、 狂 句 一 聯 を 贈 っ て い る 。 上 句 曰 、 頻 為 鶴 声 促 、 残 多 東 武 行 。 虎 伯 翁 之 對 句 曰 、 縦 然 驢 背 去 、 思 出 北 山 清 、 云 々 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 二 四 頁 )   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 四 月 二 五 日 に は 、 虎 伯 が 江 戸 に 行 く に あ た り 、 承 章 は 餞 別 を 持 っ て 東 福 寺 を 訪 れ て い る 。 そ の ま ま 帰 ろ う と す る 承 章 を 留 め 、 懇 ろ に 接 待 し て い る 様 子 が う か が わ れ る 。 予 赴 東 福 寺 、 而 龍 光 寺 虎 伯 宣 東 堂 近 日 被 赴 江 戸 、 為 暇 乞 也 。 畦 踏 皮 五 足 為 餞 行 、 投 之 。 自 門 外 、 欲 帰 、 則 達 而 押 留 、 入 寺 内 、 則 打 談 、 蕎 麦 切 被 出 、 令 喫 之 、 冷 飯 、 被 浮 盃 、 被 點 濃 茶 、 而 令 帰 山 也 。 供 之 者 振 舞 也 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 二 五 頁 )   寛 文 六 ( 一 六 六 六 ) 年 四 月 二 九 日 に は 、 虎 伯 が 乞 暇 の 挨 拶 に 晴 雲 軒 の 承 章 の も と を 尋 ね 、 濃 茶 の 展 待 を 受 け て い る (『 隔 蓂 記 』 第 六 、 二 二 六 頁 )。 な お 、 京 都 に お け る 虎 伯 の 動 静 に つ い て は 、 こ の 記 事 が 最 後 と な っ て い る 。 お そ ら く こ の 後 そ れ ほ ど 遠 く は な い う ち に 京 を 離 れ 、 江 戸 に 向 か っ た の で あ ろ う 。   こ の 後 の 記 録 と し て は 、 虎 伯 の 弟 子 の 如 林 士 賢 が 承 章 の も と を 訪 れ た り ( 寛 文 七 〈 一 六 六 七 〉 年 一 一 月 一 日 )、 あ る い

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五六 は 士 賢 が 京 を 離 れ 、 江 戸 に 向 か う た め に 挨 拶 に 訪 れ た 際 ( 寛 文 七 〈 一 六 六 七 〉 年 一 一 月 一 四 日 ) に 、 餞 別 と 共 に 虎 伯 へ の 書 状 を し た た め 渡 し た り し て い る 記 事 が あ る 。 於 虎 伯 翁 、 亦 投 書 状 也 。 其 状 之 白 地 、 狂 句 一 聯 書 付 、 遣 之 也 。 狂 章 句 曰 、 東 遊 應 面 白 、 冨 士 雪 明 方 云 々 。( 『 隔 蓂 記 』 第 六 、 五 二 九 頁 )   日 記 の う え で は お よ そ 六 年 間 に わ た っ た こ れ ら の 虎 伯 と 承 章 の 交 流 を 見 る に 、 互 い に や り と り 続 け る に つ れ 、 非 常 に 親 密 な 付 き 合 い と な っ た こ と が 分 か る 。 当 初 は 門 外 で の や り 取 り に 終 わ っ て い た も の が 、 互 い に 山 内 に 招 き 入 れ 、 狂 句 の 交 換 を 通 じ て 、 よ り 交 流 を 深 め て い っ た 様 子 が わ か る 。 初 め は 訪 問 者 を 冷 遇 す る の が 京 都 の 五 山 寺 院 の 通 常 で あ っ た の で あ る の か も し れ な い が 、 次 第 に 打 ち 解 け あ い 、 親 し く 行 き 来 を す る 様 子 か ら 、 虎 伯 の 暖 か さ と 言 お う か 、 人 な つ っ こ さ が 随 処 に 感 じ ら れ る 記 録 で あ る 。 三 、 虎 伯 の 印 可 状 と 号 に つ い て   そ れ で は 次 に 、 虎 伯 に 与 え ら れ た 印 可 状 の 写 し を 見 て み よ う 。   虎 伯 は 、 二 三 歳 で 印 可 を 受 け る ま で に 、 何 人 か の 師 僧 に つ い て 修 行 を し て い る 事 が 分 か る 。 そ の 経 緯 は 、『 資 料 一 』( 一 丁 表 ) に 書 写 記 録 さ れ て い る 、 次 に 挙 げ る 虎 伯 へ の 印 可 状 に 詳 し い 。 【 虎 伯 へ の 印 可 状 】 虎 伯 宣 大 禅 伯 者 竜 光 派 下 英 衲 子 也 。 自 艸 童 歳 入 養 之 老 漢 之 室 、 霜 辛 雪 苦 。 可 謂 勉 矣 。 雖 然 宗 門 大 病 終 未 治 。 俄 然 而 戢 化 。 後 予 敲 禅 扉 、 朝 参 暮 請 有 年 。 于 茲 予 初 祖 之 心 印 従 養 之 老 古 錐 相 承 、 持 来 旧 云 案 。 予 今 付 与 禅 伯 、 以 与 鳥 頭 毒 。 禅 伯 汲 曹 溪 一 滴 、 以 径 山 文 武 火 煎 沸 而 眼 之 、 則 病 忽 然 治 矣 。 因 焉 視 之 、 則 転 鉄 女 成 金 、 悉 是 天 沢 餘 派 。 曹 溪 一 滴 當 頭 無 異 流 者 也 。 不 庶 他 日 法 霈 、 流 伝 扶 桑 宗 門 大 幸 也 。     旹 寛 永 五 戊 辰 暮 春 十 有 七 日   見 東 福 越 溪 叟 礼 格 焚 香 書 令 済 云 茲 年 虎 伯 師 廿 三 歳 也 【 読 み 下 し 】 虎 伯 宣 禅 伯 は 、 竜 光 派 下 の 英 衲 子 な り 。 草 童 の 歳 自 り 養 之 老 漢 の 室 に 入 り 、 霜 辛 雪 苦 す 。 謂 つ べ し 、 勉 め り と 。 然 り と 雖 も 、 宗 門 の 大 病 、 終 に 未 だ 治 ら ず 、 俄 然 と し て 戢 化 す 。 後 に 予 が 禅 扉 を 敲 き 、 朝 参 暮 請 し て 年 有 り 。 茲 に 于 い て 、 予 、 初 祖 の 心 印 を 養 之 老 古 錐 従 り 相 承 し 、 旧 云 案 を 持 ち 来 る 。 予 、 今 、 禅 伯 に 付 与 し 、 以 て 鳥 頭 毒 を

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五七 与 う 。 禅 伯 、 曹 溪 の 一 滴 を 汲 み 、 径 山 文 武 の 火 を 以 っ て 煎 沸 し て 之 を 眼 れ ば 、 則 ち 病 い 忽 然 と し て 治 ゆ 。 焉 に 因 り て 之 を 視 れ ば 、 則 ち 鉄 女 転 じ て 金 と 成 り 、 悉 く 是 れ 天 沢 の 餘 派 な り 。 曹 溪 の 一 滴 は 當 頭 ( た ち ま ち ) に 異 流 無 き 者 な り 。 他 日 の 法 霈 ( 恩 沢 、 恵 み ) を 庶 ( こ い ね が ) わ ず 、 扶 桑 に 流 伝 す る は 宗 門 の 大 幸 な り 。     年 寛 永 五 戊 辰 暮 春 、 十 有 七 日  見 東 福 越 溪 叟 礼 格 、 焚 香 し て 書 す 令 済 云 く 、 茲 の 年 、 虎 伯 師 廿 三 歳 な り 。   虎 伯 は 、 は じ め 九 轉 玄 丹 ( 鈴 鹿 龍 光 寺 二 三 世 、 興 隆 寺 開 山 ) に 受 業 し 、 そ の の ち 養 之 玄 長 ( 鈴 鹿 龍 光 寺 二 二 世 、 東 福 寺 二 二 六 世 ) の 室 に 参 し た が 、 そ の 遷 化 に 遇 い 、 養 之 の 法 嗣 で あ る 越 渓 禮 格 ( 東 福 寺 二 三 三 世 、 三 河 長 興 寺 住 ) に 参 じ 、 そ の も と で 寛 永 五 ( 一 六 二 八 ) 年 に 、 二 三 歳 に し て 心 印 を 得 た と い う 。 【 虎 伯 号 に つ い て 】   ま た 、 虎 伯 へ の 道 号 に つ い て 記 し た と 思 わ れ る 記 述 が 、 鈴 鹿 龍 光 寺 に 蔵 さ れ て い る 『 故 㕝 』 )((( と 表 題 さ れ た 書 物 の 中 の 二 丁 裏 、 三 丁 表 に 記 録 さ れ て い る 。     虎 伯 号       剛 外 食 牛 威 気 甚 猛 烈   彰 牙 宗 門 咬 生 鉄 忽 向 風 前 咆 吼 来   百 獣 脳 七 花 八 裂   衣 斐 弘 行 氏 )(( ( に よ れ ば 、 こ の 剛 外 と は 東 福 寺 二 三 〇 世 剛 外 令 柔 ( 一 五 六 二 〜 一 六 二 七 ) の 事 で あ り 、 こ れ は 剛 外 が 虎 伯 に 号 を 与 え た 際 の 偈 で は な い か と さ れ て い る 。 参 考 と し て こ こ に 挙 げ て お く 。 四 、 著 作 と 墨 跡 に つ い て 【 著 作 に つ い て 】   こ こ で こ れ ま で 虎 伯 の 著 作 と し て 確 認 さ れ た も の を 左 に 挙 げ 、 一 応 の 整 理 を し た い 。   ① 『 虎 伯 和 尚 語 録 』  松 ヶ 岡 文 庫   五 七 丁     ② 『 生 風 集 』 鈴 鹿 龍 光 寺   一 六 丁   ③ 『 資 料 一 』 鈴 鹿 龍 光 寺   一 九 丁   ④  『 虎 伯 和 尚 見 聞 集 』 お 茶 の 水 図 書 館 、 正 徳 三 ( 一 七 一 三 ) 年   七 〇 丁   ⑤  『 虎 伯 和 尚 語 録 』 東 京 ・ 鈴 鹿 龍 光 寺 、 昭 和 四 七 ( 一 九 七 二 ) 年   ① 〜 ③ に つ い て は 全 文 翻 刻 し て 、 筆 者 に よ り 『 曹 洞 宗 研 究 員 研 究 紀 要 』 四 一 号 ( ① ) と 四 二 号 ( ② と ③ ) に て 報 告 済 み の も の で あ る 。 内 容 の 詳 細 と 解 題 に つ い て も そ ち ら を 参 照 さ れ た い 。 な お 、『 虎 伯 和 尚 語 録 』 と 『 生 風 集 』『 資 料 一 』 に は 少 な か ら ぬ 同 内 容 の 記 述 が み ら れ る 。 後 者 は 編 集 途 中 の 資 料

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五八 断 片 で あ る 可 能 性 も 考 え ら れ る 。   ⑤ の 、 筆 写 本 の 複 製 、 和 綴 じ 製 本 の 『 虎 伯 和 尚 語 録 』( 東 京 龍 光 寺 、 昭 和 四 七 年 ) は 、 昭 和 四 七 年 の 虎 伯 和 尚 三 百 回 忌 に 際 し て 、 東 京 龍 光 寺 に お い て 印 刷 配 布 さ れ た も の で あ る 。 内 容 と し て は 、 松 ヶ 岡 文 庫 本 と は 、 記 述 の 順 番 の 違 い と 一 部 記 事 の 脱 落 が あ る も の の 、 ほ ぼ 同 じ 内 容 と な っ て い る 。 駒 大 図 書 館 に も 所 蔵 さ れ て い る 。   さ ら に 、 こ れ 以 外 に 虎 伯 の 語 録 と し て 筆 者 が 確 認 で き た も の に 、 ④ の 、 お 茶 の 水 図 書 館 成 簣 堂 文 庫 所 蔵 『 虎 伯 和 尚 見 聞 集 』 が 存 す る 。 こ の 中 に は 東 福 寺 入 寺 法 語 を は じ め 、 多 く の 印 可 状 、 頂 相 の 讃 な ど 、 興 味 深 い 資 料 が 多 い 。 全 文 の 翻 刻 は 許 可 さ れ な い た め 、 必 要 箇 所 に 関 し て は 可 能 で あ れ ば 今 後 適 宜 紹 介 し た い 。 【 墨 跡 に つ い て 】   ま た 虎 伯 の 墨 跡 に つ い て は 、 現 時 点 で 筆 者 が 確 認 で き た も の が 左 の 通 り 、 一 〇 点 存 す る 。 な お 、 墨 跡 の 表 題 と し て は 最 初 の 一 行 目 の 文 字 を 用 い て い る 。 「 尊 翰 並 葡 萄 一 臺 」 豊 橋 臨 済 寺 蔵   尺 牘 「 龍 寶 山 下 相 随 軒 心 居 士 」 豊 橋 臨 済 寺 蔵   香 語 「 以 前 無 生 自 悟 一 往 」 豊 橋 臨 済 寺 蔵   巻 子 「 万 治 辛 丑 三 月 」 伊 勢 龍 光 寺 蔵   碧 巌 録 講 読 香 語 「 生 死 元 来 休 曰 」 伊 勢 龍 光 寺 蔵   香 語 「 更 無 一 點 掛 心 頭 」 東 京 龍 光 寺 蔵   布 袋 図 賛 「 女 子 失 宝 」 東 京 龍 光 寺 蔵   香 語 「 小 春 単 五 伏 値 」 東 京 龍 光 寺 蔵   達 磨 忌 香 語 「 如 々 斜 」 東 京 龍 光 寺 蔵   香 語 ※ 「 雲 凝 大 野 乾 坤 黒 」 伊 勢 龍 光 寺 蔵   頂 相 自 賛   今 回 は そ の 中 で も 右 に ※ 印 を 付 し た 頂 相 と 、 そ れ に 付 さ れ た 讃 を 紹 介 し た い 。 な お 、 本 論 文 の 冒 頭 に 掲 載 し た 虎 伯 の 頂 相 は 、 こ の 伊 勢 龍 光 寺 の 頂 相 を 模 写 し た 東 京 龍 光 寺 所 蔵 も の で あ る 。 紙 の 変 色 が 少 な く 、 印 刷 に 適 し て い る と 判 断 し て 掲 載 し た 。 ま た 、 こ の 東 京 龍 光 寺 蔵 の 頂 相 賛 は 、 虎 伯 の 自 賛 と 同 じ 文 章 が 、 東 福 寺 派 管 長 二 九 九 世 ・ 晦 宗 恵 鏡 ( 一 八 九 六 〜 一 九 七 九 ) に よ っ て 書 か れ た も の で あ る 。 な お 、『 虎 伯 和 尚 見 聞 集 』 に よ れ ば 、 こ の ほ か に 同 じ 日 に 賛 を 書 い た 頂 相 の 存 在 が さ ら に 二 点 あ っ た と 思 わ れ る が 、 現 存 す る か は 確 認 さ れ て い な い 。 【 原 文 】     「 伊 勢 龍 光 寺 蔵 頂 相 賛 」 雲 凝 大 野 乾 坤 黒

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二五九 風 起 長 空 日 月 光 任 性 随 縁 無 所 礙 紅 塵 紫 陌 露 真 常 肖 子 如 林 西 菴 繪 山 僧 幻 質 請 賛 題 一 偈 以 應 其 需 云 寛 文 十 二 壬 子 秊 結 制 日 前 住 東 福 虎 伯 叟 大 宣 書 【 読 み 下 し 】 雲 は 大 野 に 凝 ま り て 、 乾 坤 黒 し 。 風 は 長 空 に 起 こ り て 日 月 光 る 。 性 に 任 せ 縁 に 随 い て 礙 る 所 無 し 。 紅 塵 紫 陌 、 真 常 を 露 わ す 。 肖 子 如 林 、 西 菴 を し て 山 僧 が 幻 質 を 絵 が き 、 賛 を 請 う 。 一 偈 を 題 し て 、 以 っ て 其 の 需 め に 応 じ て 云 う 。 寛 文 十 二 壬 子 年 結 制 の 日 、 前 住 東 福 虎 伯 叟 大 宣 、 書 す 。 【 語 義 】 大 野 : 広 い 野 原 。 紅 塵 : 土 ぼ こ り 、 俗 人 の 住 む 世 の 中 、 煩 わ し さ 。 紫 陌 : 都 の 市 街 。 真 常 : 人 間 全 て に 行 き 渡 る 真 実 の 本 性 。 寛 文 一 二 壬 子 :( じ ん し 、 み ず の え ね ) 一 六 七 二 年 。

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六〇 【 私 訳 】 雲 が 広 い 野 原 に 集 ま っ て 天 地 が 黒 く な っ た 。 風 が 大 空 に 起 こ り 、( 雲 が 晴 れ て ) 日 月 が 光 り は じ め た 。 仏 性 に ま か せ 、 縁 に 従 っ て ( 生 き て き た こ と に ) さ ま た げ は な か っ た 。 俗 世 の 町 中 で 本 当 の 姿 を 現 し て き た の だ 。 弟 子 、 如 林 が 画 師 の 西 菴 に 私 の 姿 を 描 か せ 、 賛 を 請 う の で 、 一 首 を 題 し て も っ て そ の 求 め に 応 じ た 。   虎 伯 の 書 風 は の び の び と し て 自 由 闊 達 で あ り 、 ま た 、 そ の た め 判 読 に ひ ど く 苦 労 す る 場 合 も ま ま あ る 。 ち な み に こ の 墨 跡 に つ い て は 虎 伯 の 残 し た も の の 中 で も か な り 読 み や す い 部 類 に 属 す る 。   な お 、 こ の 墨 跡 は 虎 伯 の 示 寂 前 年 、 六 七 歳 の 時 の も の で あ る 。 晩 年 に 至 り 、 そ れ ま で の 人 生 に 何 の 悔 い も な く の び の び と 過 ご し て き た 境 界 が 詠 わ れ て い る 。 ま た 、 頂 相 を 見 る に 、 そ こ か ら は 若 々 し さ と 元 気 の 良 さ が 伺 わ れ 、 京 都 、 鈴 鹿 、 江 戸 を 往 復 し な が ら 活 動 的 に 過 ご し て い た 虎 伯 の あ り よ う が 浮 か び 上 が っ て く る よ う で あ る 。 五 、 お わ り に   本 論 文 で は 、 今 ま で に 判 明 し て い る 虎 伯 大 宣 の 行 実 と 、 そ の 著 作 や 墨 跡 を 、 一 部 で は あ る が 紹 介 す る こ と が 出 来 た 。 特 に 京 都 で の 活 動 を 知 る こ と の 出 来 る 資 料 で あ る 『 隔 蓂 記 』 に 関 し て は 、 語 録 や 香 語 だ け か ら は 知 る こ と の 出 来 な い 虎 伯 の 日 常 の 実 際 を 知 る こ と が 出 来 た 。   お そ ら く 虎 伯 と は 、 非 常 に 人 付 き 合 い に ま め で 、 ま た 気 配 り の 出 来 る 、 上 下 関 わ ら ず に 人 を 大 切 に す る 人 物 で あ っ た の で あ ろ う 。   僧 伝 資 料 の エ ア ポ ケ ッ ト に 落 ち て し ま っ た か の よ う な 江 戸 時 代 初 期 の 五 山 僧 の 有 り 様 を 知 る こ と は 、 日 本 禅 宗 の 歴 史 を 探 究 す る う え で 、 欠 か せ な い も の で あ る と 筆 者 は 考 え る 。   末 筆 で は あ る が 、 さ ま ざ ま に 御 教 示 、 資 料 の 提 供 ほ か 便 宜 を は か っ て い た だ い た 、 東 京 駒 込 龍 光 寺 様 、 鈴 鹿 龍 光 寺 様 、 豊 橋 臨 済 寺 様 に は 謝 意 を 表 す る も の で あ る 。 註 (1)  た と え ば、 卍 元 師 蛮 が、 禅 宗 の 高 僧 に 絞 っ て、 お よ そ 千 人 の 伝 記 を 三 〇 余 年 に わ た っ て 蒐 集 し、 編 纂 し た も の が『 延 宝 傳 燈 録 』 と し て 延 宝 六( 一 六 七 八 ) 年 に 完 成 さ れ た( た だ し、 刊 行 は そ の 二 八 年 後 の 宝 永 三 年 と な る )。 ま た、 同 じ く 卍 元 師 蛮 に よ り 我 が 国 の 各 宗 の 名 僧 一 六 六 二 人 の 伝 記 を ま と め た も の が、 『 本 朝 高 僧 伝 』 と し て 刊 行 さ れ た の が 翌 年 の 宝 永 四( 一 七 〇 七 ) 年 で あ る。 こ の、 我 が 国 初 の 僧 伝 資 料 で あ る『 延 宝 傳 燈 録 』 の 完 成 の わ ず か 五 年 前 で あ る、 一 六 七 三 年 に 虎 伯 は 示 寂 し て い る。

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六一 そ の た め に、 こ れ ら の 僧 伝 資 料 に 虎 伯 の 伝 記 が 収 載 さ れ る こ と が無くなってしまったのではないかと筆者は推測する。 ( 2)  東 京 駒 込 の 龍 光 寺 は 虎 伯 の 開 山 に な る 寺 院 で あ り、 ま た 示 寂 地 で も あ る。 し か し な が ら 東 京 大 空 襲 の 被 害 を う け、 殆 ど の 資 料 が 焼 失 し た。 現 在 同 寺 所 蔵 の 虎 伯 に 関 す る 資 料 も 戦 後 に 蒐 集 さ れ た 墨 跡 数 点 に と ど ま る。 ま た、 開 山 墓 地 に つ い て も、 そ の ど れ が、 ど の 歴 代 住 職 の も の か、 ど れ が 開 山 墓 で あ る の か も、 空 襲 に よ り 墓 石 が 焼 却 さ れ て し ま た た め に、 判 別 不 能 の 状 態 と なってしまっているのが現状である。 (3)  豊 橋 臨 済 寺 は 虎 伯 を 勧 請 開 山 と し て、 そ の 資 で あ る 日 東 大 暘 を 開 山 に 迎 え て 寛 文 四( 一 六 六 四 ) 年 に 創 建 さ れ た。 し か し な が ら 後 の 豊 橋 空 襲( 昭 和 二 〇 年 六 月 一 九 日 深 夜 ) の 被 害 を 受 け、 やはり多くの資料が焼失した。 (4)  「 松 ヶ 岡 文 庫 蔵『 虎 伯 和 尚 語 録 』 の 翻 刻 」( 『 曹 洞 宗 研 究 員 研 究 紀 要 』 四 一 号、 平 成 二 三 年 三 月 ) お よ び「 虎 伯 大 宣『 生 風 集 』 お よ び『 資 料 一 』( 鈴 鹿 龍 光 寺 蔵 ) の 翻 刻 」( 『 曹 洞 宗 研 究 員 研 究 紀要』四二号、平成二四年三月)など。 (5)  現 在 の 住 所 表 記 で は、 町 村 合 併 に よ り 亀 山 市 両 尾( ふ た お ) 町となる。 (6)  俗姓は横山ともされるが、俗名については審らかではない。 (7)  現 在 地 は 三 重 県 鈴 鹿 市 神 戸 二 ― 二 〇 ― 八。 虎 伯 は 二 四 世 で あ り、また中興開山となっている。 (8)  三 河 吉 田 城 主 小 笠 原 壱 岐 守 忠 知( 一 五 九 九 〜 一 六 六 三 ) は、 讃 岐 丸 亀 城 主 京 極 刑 部 少 輔 高 和 と と も に、 駒 込 龍 光 寺 の 開 基 で あ る。 信 濃 松 本 藩 主 小 笠 原 秀 政( 一 五 六 九 〜 一 六 一 五 ) の 三 男 と し て 生 ま れ る。 寛 永 九( 一 六 三 二 ) 年 に 豊 後 杵 築( き つ き ) に 四 万 石 を 賜 り、 正 保 四( 一 六 四 七 ) 年、 同 地 に 虎 伯 を 勧 請 開 山 と し て 宗 玄 寺 を 創 建 し た。 の ち 三 河 に 移 さ れ る に 伴 い、 寛 文 四( 一 六 六 四 ) 年 に 宗 玄 寺 も 同 地 に 移 し て 臨 済 寺 と 寺 名 を 改 め た。 こ れ よ り 先、 忠 知 が 駒 込 龍 光 寺 の 開 基 と な っ た の は、 江 戸 に 参 勤 に 及 ん で の 事 で あ ろ う。 寛 永 九( 一 六 三 二 ) 年 に 駒 込 龍 光 寺 が 鈴 鹿 龍 光 寺 の 分 院 と し て 創 建 さ れ た 際、 江 戸 で の 菩 提 寺 と し 開 基 と な る。 の ち、 こ の 家 系 は 肥 前 唐 津 藩 主 と な り 幕 末 に 至る。 (9)  現在地は愛知県豊橋市東田町坂上字西郷一一四番地。 (⓾)  中 国、 南 宋 代 の 臨 済 宗 の 僧。 「 む じ ゅ ん し ば ん 」 と も 読 む。 号 は 無 準、 賜 号 は 仏 鑑 禅 師。 剣 閣( 四 川 省 ) の 出 身。 九 歳 で 出 家 し、 一 一 九 五 年 成 都 で 大 悟 の 体 験 を し た。 の ち に 育 王 寺 の 仏 照 徳 光 に 参 じ、 ま た 霊 隠 寺 の 破 菴 祖 先 に 師 事 し て 悟 り を 得、 破 菴 の 法 を 嗣 い だ。 の ち 明 州( 浙 江 省 ) 清 凉 寺、 焦 山、 雪 竇 山、 育 王 山 な ど に 歴 住 し、 詔 に よ り 径 山 に 住 し た。 理 宗 と の 問 答 は 有 名 で あ る。 弟 子 に 雪 巌 祖 欽、 無 学 祖 元 や、 日 本 か ら 入 宋 し た 円 爾 な ど が い る。 著 述 に は『 仏 鑑 禅 師 語 録 』 五 巻 が あ る。 ( 椎 名 宏 雄『日本大百科全書』小学館)

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六二 (⓫)  この法要に際しての、虎伯の香語は左記の如し、     今月今日値     大宋国径山佛鑑禅師四百年諱之辰法孫比丘大宣     度命浄侶諷演白傘蓋之次賦伽陀一章以酬法乳之     恩云         某九拜      三月桂華薫普天   爛材別不挿炉辺      凌霄蠱毒未消尽   殃及児孫四百年      (『虎伯和尚語録』十六丁表)  ※ な お、 若 干 の 異 同 は あ る が、 同 じ 香 語 は『 東 福 寺 誌 』( 白 石 虎 月 編、 思 文 閣、 昭 和 五 年 ) の 八 五 五 頁、 正 保 四 年 三 月 一 八 日 の 項 に も 存 す る。 若 干 の 字 の 違 い が あ る が、 こ こ で は そ の 校 合 は しない。 (⓬)  『 虎 伯 和 尚 語 録 』 十 丁 表、 裏 お よ び、 『 東 福 寺 誌 』 八 五 七 頁、 慶安三(一六五〇)年一〇月一五日の項に、それぞれ香語あり。 (⓭)  現在地は東京都文京区本駒込一―五―二二。 (⓮)  『 東 福 寺 誌 』 八 七 三 頁、 寛 文 元( 一 六 六 一 ) 年 一 二 月 一 三 日 の 項 に、 釣 語、 提 要、 総 謝 等 の、 晋 山 に 際 し て の 香 語 が 収 載 さ れ て い る。 し か し 内 容 は 明 ら か に 小 参 問 答 に 際 し て の も の で あ り、 晋 山 当 日 の 小 参 に 際 し て の 諸 香 語 と 推 測 さ れ る。 一 方、 『 虎 伯 和 尚 見 聞 集 』 に は、 「 東 福 入 寺 拙 語 」 と し て、 山 門、 仏 殿 等、 諸 堂 で の 香 語 や、 嗣 法 香、 将 軍 香 な ど の 拈 香 法 語 な ど、 各 種 が 収 載 さ れ て い る。 ま た、 筆 者 未 見 な が ら、 鎌 倉 市 教 育 委 員 会 編『 鎌 倉 市 文 化 財 総 合 目 録 ― 古 文 書・ 典 籍・ 民 俗 編 』( 同 朋 舎 出 版、 昭 和 六 〇 年 ) に よ れ ば、 円 覚 寺 の 所 蔵 と し て「 虎 伯 大 宣 東 福 寺 入 寺 法 語 」( 整 理 番 号 五 六 二 番、 寛 文 元 年 一 二 月 一 三 日、 一 冊 ) が 存 す る と い う。 ど の よ う な 経 緯 で こ れ が 円 覚 寺 に 所 蔵 さ れ る こ と に な っ た の か、 ま た そ の 内 容 に つ い て も、 現 時 点 で は 不 明 で ある。 (⓯)  『 東 福 寺 誌 』 八 七 六 頁 に は、 寛 文 二( 一 六 六 二 ) 年 一 二 月 の 記 事 と し て「 住 持 虎 伯 大 宣 等、 東 福 寺 秉 拂 例 を 簡 略 に 掟 す 」 と 題 さ れ て、 〔 秉 拂 寮 中 簡 略 條 々〕 が、 一 五 項 目 挙 げ ら れ て い る。 こ の そ れ ぞ れ の 項 目 か ら は、 上 山 者 に よ る 無 用 に 派 手 な 振 る 舞 い や 浪 費 を 避 け さ せ、 同 時 に 山 内 の 大 衆 に も 質 素 倹 約 に 努 め さ せ よ う と し た 様 子 が う か が わ れ る。 な お、 秉 拂 と は、 本 来 的 に は 住 持 に 代 わ っ て 拂 子 を 振 る こ と を 言 う が、 こ の 場 合 は、 臨 済 宗 に お い て、 本 山 に 上 山 し て、 大 衆 に 対 し て 垂 示 を す る 式 を い う。 こ れ に よ っ て 住 職 資 格 を 得 る の で あ る。 洞 門 で い う 所 の 瑞 世 に 相当する行持である。 (⓰)  規 矩 の 内 容 と し て は、 自 身 の 体 調 の 不 良 が あ っ た の で あ ろ う か。 伊 勢 と 江 戸 の 龍 光 寺 の そ れ ぞ れ の 次 期 住 職 と そ の 次 の 住 職 ま で も 指 定 し て、 そ の 後 の 紛 争 が な い よ う に と、 心 細 や か に 書 き 送 っ て い る。 〔 江 戸 龍 光 寺 旧 記 〕 と し て『 東 福 寺 誌 』 に 収 載 さ れている記事は左記の通り、      山 僧 百 年 後、 勢 州 龍 光 寺、 武 陽 龍 光 寺 両 寺( 共 ) 一 寺 也、

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六三 関 東 以 山 僧 為 永 代 拝 領 地 也、 新 築 以 檀 越 力 建 立 成 就 當 地 者、 如 林 西 堂 住 持、 勢 州 峻 峯 可 令 住 持 者 也、 其 後 士 全 士 温 両 人 取立為住持者也( 『東福寺誌』八九三頁) (⓱)  こ の 法 系 図 は、 衣 斐 弘 行『 虎 伯 和 尚 伝 』( 東 京 龍 光 寺、 昭 和 四 七年)を参考にした。 (⓲)  こ こ で の『 隔 蓂 記 』 の 記 事 は、 赤 松 俊 秀 編 纂『 隔 蓂 記 』( 鹿 苑 寺、 昭 和 四 二 年 ) に 翻 刻 さ れ て い る も の に よ る。 本 書 に は 詳 細 な索引が付されており、検索至便である。 (⓳)  織 豊 時 代 の 公 卿。 天 文 一 三 年 二 月 二 四 日 生 ま れ。 勧 修 寺 晴 右 の 長 男。 元 亀 三 年 参 議 と な り、 権 中 納 言、 権 大 納 言 を へ て 慶 長 六( 一 六 〇 一 ) 年、 従 一 位、 准 大 臣 に す す む。 慶 長 七 年 一 二 月 八 日 死 去。 五 九 歳。 一 九 年 内 大 臣 を 追 贈 さ れ た。 日 記 に「 晴 豊 公記」 。( 『日本人名大辞典』講談社) (⓴)  安 土 桃 山・ 江 戸 時 代 初 期 臨 済 宗 夢 窓 派 の 僧。 天 文 十 七 年( 一 五 四 八 ) 生 ま れ る。 は じ め 真 如 寺 の 麟 甫 功 に つ い て 得 度、 の ち 相 国 寺 の 仁 如 集 堯 に つ い て 詩 文 を 学 ぶ。 後 年、 十 三 歳 の 時 仁 如 に 試 毫 詩 を 呈 し て 唐 の 張 九 齢 同 年 の 詩 に 擬 さ れ た こ と を 自 負 し て い る。 『 惺 窩 先 生 文 集 』 に「 与 先 生 旧 相 識、 頗 自 負 文 字 」 と 評 す る。 中 華 承 舜 に 拝 塔 嗣 法 し た。 天 正 十 二 年( 一 五 八 四 ) 相 国 寺 に 入 寺。 心 華 院 を 創 建。 同 十 三 年 初 め こ ろ 鹿 苑 院 主 と な り、 僧 録 を 司 り、 同 十 九 年 二 月 こ ろ ま で 在 院。 こ の 間 十 七 年 四 月 南 禅 寺 坐 公 文 を 受 け た。 慶 長 年 中( 一 五 九 六 〜 一 六 一 五 ) 相 国 寺 内 に 豊 光 寺 を 開 創。 晩 年 は こ こ に 退 居 し た。 慶 長 二 年 三 月 鹿 苑 僧 録 に 再 任、 示 寂 の 時 ま で 在 職 す る。 同 十 二 年 十 二 月 二 十 七 日 寂。 六 十 歳。 法 嗣 に 文 嶺 承 良・ 鳳 林 承 章・ 丘 叔 志 左 が い る。 豊 臣 秀 吉・ 徳 川 家 康 の ブ レ ー ン の 一 人 と し て 主 要 仏 事 を 差 配 す る 一 方 で 寺 社 行 政 と 外 交 通 商 文 書 を 作 成 し た。 こ の 方 面 の 著 に 『 異 国 来 翰 認 』『 交 隣 考 略 』 が あ る。 『 鹿 苑 日 録 』 中 に 永 禄 九 年 ( 一 五 六 六 )・ 天 正 十 七 年・ 慶 長 二 年 の 日 記( 『 日 用 集 』 影 写 本 三 冊、 尊 経 閣 文 庫 所 蔵 ) が あ り、 ほ か に『 西 笑 和 尚 文 案 』 お よ び 詩 文 集『 南 陽 稿 』 が あ る。 慶 長 二 年 の『 伏 見 城 学 問 所 記 』 が よ く 知 ら れ る。 兌 長 老 と も 称 さ れ る。 そ の 功 名 の 生 涯 は、 「 豊 光 寺、 当 代 依 為 帰 依 僧、 寺 院 繁 昌 異 他 寺 者 也 」( 『 慶 長 日 件 録 』) と 権 勢 を 称 さ れ る 一 方 で、 「 惣 別 僧 方 無 行 儀 ニ シ テ 成 人 ノ 息 有 ナ ン ト 於 京 中 嘲 哢 ス、 金 銀 貯 甚 多 ト 」( 『 当 代 記 』) と 褒 貶 相 半 ば す る 間 に あって、衰退期五山を代表する。 (『国史大事典』吉川弘文館) (㉑)  江 戸 時 代 前 期 の 茶 人。 天 正 一 二 年 生 ま れ。 飛 騨 高 山 藩 主 金 森 可 重 の 長 男。 祖 父 金 森 長 近 は 古 田 織 部 の 弟 子、 父 は 千 道 安 の 門 人 と い う 茶 道 の 名 家 に そ だ つ。 大 坂 冬 の 陣 に 意 見 を 異 に し て 父 か ら 勘 当 さ れ、 慶 長 一 九 年 京 都 に う つ る。 小 堀 遠 州 ら と ま じ わ り、 宗 和 流 を ひ ら く。 そ の 茶 風 は 姫 宗 和 と い わ れ、 公 家 に 愛 好 さ れ た。 明 暦 二 年 一 二 月 一 五 日 死 去。 七 三 歳。 名 は 重 近。 (『 日 本人名大辞典』講談社) (㉒)  江 戸 時 代 前 期 の 儒 者。 天 正 一 一 年 八 月 生 ま れ。 藤 原 惺 窩 に 朱

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六四 子 学 を ま な ぶ。 慶 長 一 〇 年 将 軍 徳 川 家 康 に つ か え、 以 後 四 代 の 将 軍 の 侍 講 を つ と め る。 法 令 の 制 定、 外 交 文 書 の 起 草、 典 礼 の 調 査・ 整 備 な ど に も か か わ る。 幕 命 で「 寛 永 諸 家 系 図 伝 」「 本 朝 編 年 録 」 を 編 修。 上 野 忍 岡 に 私 塾( 昌 平 黌 の 前 身 ) や 孔 子 廟 を た て、 林 家 が 幕 府 の 教 学 を に な う 基 礎 を つ く っ た。 明 暦 三 年 一 月 二 三 日 死 去。 七 五 歳。 京 都 出 身。 名 は 信 勝、 忠。 字 は 子 信。 通 称 は 又 三 郎。 僧 号 は 道 春。 別 号 に 夕 顔 巷、 羅 浮 子 な ど。 (『 日 本人名大辞典』講談社) (㉓)  京 都 市 東 山 区 本 町 一 五 丁 目 に あ る 東 福 寺 の 塔 頭 の 一 つ。 正 応 四( 一 二 九 一 ) 年、 無 関 普 門 が 創 建。 方 丈 は 現 存 最 古 の 禅 宗 方 丈 建 築 で 国 宝。 入 母 屋 造 で、 こ け ら 葺 き。 蔀 戸( し と み ど ) を 用 い、 寝 殿 造 の 形 式 を 残 す。 足 利 義 満 の 庵 号 額 裏 面 に 嘉 慶 元 ( 一 三 八 七 ) 年 の 年 記 が あ り、 そ の こ ろ の 建 築 と 考 え ら れ る。 (『日本国語大辞典』小学館) (㉔)  京 都 市 北 区 金 閣 寺 町 に あ る 臨 済 宗 相 国 寺 派 の 寺。 山 号 は 北 山。 金 閣 寺 の 通 称 で 知 ら れ る。 応 永 四( 一 三 九 七 ) 年 足 利 義 満 が 西 園 寺 家 の 山 荘 北 山 第 を 譲 り 受 け て 北 山 殿 と 称 し た の を、 義 満 の 死 後、 そ の 遺 命 で 子 の 義 持 が 寺 と し た も の。 開 山 は 夢 窓 疎 石。 義 満 が 造 営 し た 十 数 棟 の 殿 舎 の う ち 三 層 の 楼 閣、 金 閣 だ け が 残 っ て い た が 昭 和 二 五( 一 九 五 〇 ) 年 焼 失、 同 三 〇 年 再 建 さ れ た。 北 山 を 借 景 と す る 庭 園 は 国 特 別 名 勝・ 特 別 史 跡 に 指 定 さ れ ている。 (『日本国語大辞典』小学館) (㉕)  京 都 市 山 科 区 勧 修 寺 仁 王 堂 町 に あ る 真 言 宗 山 階 派 の 大 本 山。 山 号 は 亀 甲 山。 開 創 は 昌 泰 三( 九 〇 〇 ) 年、 開 基 は 醍 醐 天 皇、 開 山 は 承 俊。 延 喜 五( 九 〇 五 ) 年、 定 額 寺 と な る。 代 々、 法 親 王門跡寺院(山科門跡)として栄えた。 (『大辞泉』小学館) (㉖)  な お、 江 戸 時 代 に は 上 州 高 崎 の 南 方 山 名 村( 群 馬 県 高 崎 市 ) を 中 心 に 栽 培 さ れ て い た 煙 草 が、 高 崎 煙 草 と し て 知 ら れ て お り、 香りと辛みが強いものとして珍重されていたようである。 (㉗)  京 都 市 左 京 区 南 禅 寺 福 地 町 に あ り、 南 禅 寺 塔 頭 の 一 院、 臨 済 宗 南 禅 寺 派 に 所 属 す る。 南 禅 寺 六 一 八 世 住 持 大 業 徳 基 が 洛 北 鷹 ヶ 峰 に 開 い た 寺 と 伝 え ら れ て い る が 明 ら か で な い。 大 業 の 法 曾 孫 以 心 崇 伝 が 慶 長 一 〇( 一 六 〇 五 ) 年 南 禅 寺 住 持 に 就 任 す る 直 前 に 現 在 地 に 再 建 し た。 崇 伝 が 徳 川 家 康 の 帰 依 を 得 て 徳 川 秀 忠・ 家 光 に も 仕 え て 幕 府 に 重 き を な す と、 寺 領 も 次 第 に 加 増 さ れ て 千 九 百 石 に も 及 ん だ。 伽 藍 の 増 改 築 も し ば し ば 行 わ れ た が、 寛 永 四( 一 六 二 七 ) 年 に 着 手 さ れ た 工 事 は 最 大 の も の で 現 存 す る 大 方 丈・ 小 方 丈・ 東 照 宮( い ず れ も 重 要 文 化 財 )、 庭 園( 小 堀 遠 州 作 庭、 特 別 名 勝 ) は そ れ か ら 数 年 の う ち に 完 成 し た。 こ の ほ か 崇 伝 が 家 康 に 用 い ら れ 幕 府 の 行 政 に 関 わ る よ う に な る と 慶 長 一 五 年 に は 駿 府 に、 元 和 五( 一 六 一 九 ) 年 に は 江 戸 に 金 地 院 が 建 立 さ れ た。 ま た 同 年 崇 伝 が 僧 録 に 任 命 さ れ て 以 後 明 治 元 ( 一 八 六 八 ) 年 ま で 歴 代 住 職 が そ の 職 を 奉 じ 五 山 寺 院 の 支 配 的 地 位に立った。 (『国史大辞典』吉川弘文館)

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虎伯大宣の行実について(小栗) 二六五 (㉘)  江 戸 時 代 前 期 の 大 名。 慶 長 一 二 年 生 ま れ。 牧 野 信 成 の 次 男。 正 保 四 年 下 総 関 宿 藩 ( 千 葉 県 ) 藩 主 と な る。 承 応 三 年 か ら 一 五 年 間 京 都 所 司 代 を つ と め る。 寛 文 八 年 転 封 と な り、 丹 後( 京 都 府 ) 田 辺 藩 主 牧 野 家 初 代。 三 万 五 千 石。 延 宝 五 年 九 月 二 三 日 死 去。 七 一 歳。 通 称 は 半 右 衛 門。 号 は 哲 山。 佐 渡 守。 (『 日 本 人 名 大 辞 典』講談社) (㉙)  こ れ は 東 京 都 港 区 芝 公 園 に あ る 臨 済 宗 南 禅 寺 派 の 寺。 は じ め 崇 伝 の 宿 坊 と し て 駿 府( 静 岡 市 ) に 創 建 さ れ た が、 元 和 四( 一 六一八)年に現在地に移転したものである。 (㉚)  江 戸 時 代 前 期 の 大 名。 元 和 三 年 一 〇 月 二 四 日 生 ま れ。 板 倉 重 昌 の 長 男。 寛 永 一 四 年 父 と と も に 島 原 の 乱 に 出 陣。 一 六 年 三 河 ( 愛 知 県 ) 深 溝 藩 主 板 倉 家( 二 代 ) を つ ぎ、 同 時 に 三 河 中 島 藩 主 に 転 じ た。 寛 文 五 年 老 中。 京 都 所 司 代 を へ て、 一 〇 年 老 中 に 再 任。 一 二 年 下 野( 栃 木 県 ) 烏 山 藩 主 板 倉 家 初 代 と な る。 五 万 石。 寛 文 一 三 年 五 月 二 九 日 死 去。 五 七 歳。 (『 日 本 人 名 大 辞 典 』 講 談 社) (㉛)  筆 写 本 で あ る『 故 㕝 』 は 四 八 丁。 表 紙 は 紺 色 で、 表 一 と 表 三 に も 書 き 込 み が あ る。 表 紙 の 左 側 に 黒 字 で『 故 㕝 』 と、 右 側 に 朱 文 字 で「 虎 伯 点 削 并 八 句 唄 」 と あ る。 ま た 表 三 に は「 虎 伯 和 尚 書 此 八 句 図 与 侍 者 」 と 書 か れ て い る こ と か ら、 侍 者 が 書 き た め た も の に、 虎 伯 が 朱 点 を 施 し た も の で は な い か と 推 測 で き る。 し か し な が ら そ の 内 容 と し て は、 語 録 と 言 う よ り も 種 々 の 雑 記 帳、 あ る い は 備 忘 録 の よ う な も の で あ り、 侍 者 を 勤 め て い た 者 の 学 習 ノ ー ト 的 な 位 置 づ け で あ る と 思 わ れ る。 よ っ て、 内 容 の 確認のみに留め、全文の翻刻は行っていない。 (㉜)  『虎伯和尚伝』 (昭和四七年、四頁)参照。

参照

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