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真宗教学研究 第17号(1994)

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浄土−「還相回向

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をめぐって一

講 演 会 浄土一一ー「還相回向」をめぐって叩一一 寺 川 俊 昭 1 池 田 勇 諦 研究発表 減度および還相廻向に関する 棲 部 建 33 平 川 博 士 の 新 説 に つ い て 趨 宋 時 代 の 浄 土 観 柏 倉 明 裕 40 善 導 大 師 の 浄 土 観 鈴 木 善 鳳 56 一一九品往生人釈を中心に一一 浄 土 の 真 宗 江 J馬 耀 準 67 教 行 信 証 の 原 典 確 定 の 基 礎 研 究 鳥 越 正 道 80 一一坂東本教行信託の写本研究を中心にして一一一 『 浄 土 論 』 に お け る 菩 薩 四 種 荘 厳 の 意 義 尾 畑 文 正 92 大 悲 往 還 の 回 向 楽 真 103 4年度教学大会発表要旨 三 好 智 朗 蓮 寺 諦 成 草 間 文 秀 114 西 田 真 因 雲 村 賢 淳 加 来 雄 之 草 野 顕 之 細 川 行 信 機 弘 信

平成

6年 2月

真 宗 教 学 学 会

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生涯とその教え

浄土真宗興隆の使命感に午きた宗祖税繍馬県人つ の 教 え を 明 か す 。 仲 士 法 と そ 顛/定価各 1

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町椛鴬型人の教えを生活に即して川快に解き明かし、ル行行 をして﹁今川の溝義は私の人生の総決算﹂と−Jわしめた 成 義 鈷 の 決 定 版 。 − 仲 野 良 俊 / 定 価 1

000 円 − 宮 城

親鷺の仏教史観

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講 演 会

||﹁還相同向﹂をめぐって|| 土 ただ今から、講演会を開催したいと思います。そ れに先立ちまして、少し今回の講演会に到ります主旨と 経過を御説明申し上げておきたいと思います。昨年から この教学大会のテ l マを﹁浄土﹂と決めさせていただき ました。昨年は、サブテ 1 マ と い た し ま し て 、 ! ﹁ 往 生 ﹂ をめぐって

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という問題のもとで、シンポジウムを聞き ました。往生という問題につきましては、大谷派の教学 におきまして、多少の振幅はありましても、一応は往生 論という形でだいたい同意見の方々が多いようでござい 司 会 浄 i葺

池 寺

︵同朋大学長︶ Jfo. Z久 刀 ロ 円 H U ド

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− − ﹃ ﹄ 目 , z ’ ︵大谷大学長︶ 師

水 ネ * 司 会

﹁ 真 宗 同 学 会 幹 事 J r 大谷大学教授﹂

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’ E E , , , ますが、その往生、往生論につきまして、本派西本願寺 の方の教学ではどうなっているのか、或は、浄土宗の教 学ではどうなっているのかという問題。それは、必ずし も一致はしておりません。それで昨年度の教学大会で は、仏教大学の藤本浄彦先生、それから龍谷大学の浅井 成海先生、それから大谷大学の神戸和麿先生、このお三 方にそれぞれの立場から、往生の問題について提題をし ていただきまして、それについて質疑応答というシンポ ジウムの形式を採った訳でございます。そのシンポジウ

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2 ムが、必ずしも成功裏に終わったとは申せませんけども、 御参集いただいた方々がその前年度或は今までの同学会 としては、驚くほどの多くの方々の御参加をいただきま して、シンポジウムが盛大に行なわれたということでい えば、大変意義があったのではないかと思います。それ を受けまして今年は、その浄土というテiマにとって、 特に、還相回向という、これも大変に重要な大きな問題 がございます Q この還相回向という問題につきましては、 曇驚教学という基本的な教学の立場からの還相回向論、 或は、近代教学において還相回向はどうなっているのか。 これは、大谷派の教学において、必ずしも往生論ほどま とまってはいないのではないかと思います。従いまして 今回は、大谷派教学として、いろいろな場でそれぞれに、 今まで還相回向論を展開しておられます方々にお集りい ただきまして、シンポジウムを聞こうと、そういう計画 をした訳でございます。けれども、色々な御事情がござ いまして、誠に残念ですが、シンポジウムという形でこ の場を持つことができない状況になりました Q そ れ で 、 寺川俊昭先生、池田勇一前先生、お二人とも大変お忙しい 中を、御無理をお願いいたしまして、今日はこの問題に つきましての問題提起をしていただき、それをふまえま して、今後に向けて大谷派教学というところにおいて還 相回向とはどういうことなのかということを、相互に論 じあえるシンポジウムという形へともっていきたいと考 えておる訳でございます。従いまして今日は、講演会と いうことでございますが、寺川先生、池田先生両先生の 御了承をいただきまして、もし時聞が余りましたら、二 三の質疑をうけさせていただくということにいたしたい と思います。時間は五時までとなっておりますけども、 五時から懇親会が聞かれますので、四時半か四時四

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分 位までには終わりたいと思います。両先生の御講演を拝 聴した後時聞がありましたら、それを質疑応答にあてた いと思いますので、よろしくお願いいたします。以上、 今回の講演会についての主旨と経過を簡単に申し上げた 次 第 で す 。 寺 俊 日 召

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今年の、同学会主催で行われる真宗教学大会のテ l マ

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土 が、ご案内の通り、﹁浄土|還相回向をめぐって|﹂とい うことでございます。それで、午前の研究発表におきま して、宗祖の還相回向のご了解についてのいくつかのご 発表が行なわれました。私もお聞きいたしまして、改め ていろいろの示唆をいただいたことでございます。この 還相回向という主題は、最近宗門の内外で、大谷派のみ ならず本願寺派におきましても、或は宗派の外ですけれ ども親驚の思想に関心をお持ちの方々の場でもですね、 大切な事柄として、かなり強い関心をもって改めて問わ れてきている主題であるという感がいたします。そこに はいわゆる社会的実践、こういう言葉でいわれるような 課題、或は念仏者の生きかたはどういうものであるのか、 こういう問いかけ、つまり言葉を換えていえば、様止な 問題の露出している歴史的な現実に対して、真宗の関わ っていくその姿勢があまりにも消極的でありすぎたので はないか。こういう反省、非常に真面目な反省でござい ますけれども、それが強く動いてまいりまして、その社 会的な現実への関わりを促すもの、或は原理として、還 相回向が改めて強い関心をもって問われてきているので あろうかと考えられます。二種回向が改めて関心をもた れてきた状況は、だいたいこういうものであろうかと思 浄 3 います c その動機、課題感は、大変大切なものでありま すが、私が課題と感じますことは、そのような課題をふ まえて、いわゆる社会的実践の原理として宗祖の顕揚さ れた還相回向を了解することは、十分に適切であるか否 か、これが問題であります。私は必ずしもその考え方を 採りません。しかしそういうことを課題としてもちなが ら、宗祖が展開なさった極めて独自の回向論である二種 目向論の思し召しを、虚心に学んでいきたいと思います。 現在の状況は、先程小川先生が一つの問題提起として とおっしゃいましたように、従来の通念としてのこ種目 向の了解はありますけれども、本格的な論議としては、 やっと始まってきた状況だと思います。それで、今私は こう了解しているということを申し上げますけれども、 又いろいろな機会にご教示を賜われば幸いであると存じ ま す 。 講演の主題は改めて申し上げるまでもなく﹁還相田向 をめぐって﹂ということでありますが、しかしながらこ の遺相回向ということは、それだけが独立してある事柄 ではございません。往還二種回向の一つとしてあること

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4 でありまずから、遺相回向について正しく了解するため には、宗祖の顕揚なさった二種田向の全体をみながら、 その中で還相回向という事柄も尋ねるべきかと思います。 二種田向につきまして、宗祖はまず﹁教巻﹂の冒頭に、 極めて簡潔にお述べになっております。これはたいへん 有名な文章でありまずから、改めて読むまでもありませ んが、基本となる文章ですから、まず読んでみます。 謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つ には往相、二つには還相なり。往相の回向について、 真実の教行信証あり。 この命題です。これは﹁教巻﹂の冒頭にありますけれど も、もっている重さから考えて、﹃教行信証﹄の全体を貫 く根本主題であると、解すべきだと思います。のみなら ずこれが、﹁教巻﹂に記された、浄土真宗の大綱を表し ている文章でもあります。この中で宗祖は、二つの事柄 をお述べになっているように思われます。第一は、往相 同向と還相回向の二種の同向です。第三は、真実の教行 信証の四法であります。それについてこの往還二種の回 向は、これはあげて如来の思徳であると、宗祖はご了解 になったと解すべきだと思います。﹁正像末和讃﹂に、 無始流転の苦をすてて無上程繋を期すること 如来二種の回向の恩徳まことに謝しがたし。 という、たいへん内容の濃い和讃がございます。その和 讃に依ってみますと、これはもう誤解の余地なく、宗祖 は如来二種の回向は、これは如来の恩徳である。こう感 銘深くいただいておいでになる。これをまず注意すべき ではないかと思います。第二は﹁真実の教行信証﹂であ りますが、これはあげて衆生の分際である。衆生の所に あるものと了解すべきだと思います。﹁証巻﹂の、往相 回向についての考察がすべて終わる最後の所に記されて いる文章でありますが、そこに宗但は、 それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の 利 益 な り 。 こうおっしゃいます。 この﹁証巻﹂の一言葉において親驚 聖人が述べようとなさっていること、これによく注意し たいのです。それは、教行信証すなわち教と行と信と証、 この四法を我々が獲ることができたとき、もっともこの 獲るというのは、行信証については獲得なのですが、教 は獲得というわけにはいきませんから、真実教に値遇し、 行信証を獲得することができたとき、こういう意味でご ざいますけれども、いまは単純にいって、真実の教行信 証の四法を我々が獲ることができたときに、我々つまり

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土 衆生の生、衆生の生きている命といいましょうか、衆生 の人生ですね、それが浄土真宗という仏道に転成する。 教行信証を獲たときに、これを獲た人は、永い流転を超 えて浄土真宗という仏道に立つことができたものとなる。 こういう意味であると解されます。教行信証を獲ること に依って、人生が真宗という仏道の意味をもって生きら れることとなるのだ。その教行信証、これは如来の大悲 回向の利益である。こうお述べになります。つまり、衆 生の人生を浄土真宗という仏道とするもの、これが教行 信証の四法でありますけれども、その四法はあげて如来 の二種目向の恩徳の賜物であると、﹁証巻﹂で宗祖ははっ きりおっしゃっていると響いてまいります。そのような 教行信証を衆生に恵む恩徳である如来の大悲の回向を、 宗祖は二種の回向という展開した形でご了解になってい ます。でありまずから、二種田向というのは、衆生に教 行信証を団施して、衆生を仏道に立たしめる思徳である。 同じことを反復しておりますけれども、これは基本でご ざいますので、よくこのように腹に入れて了解をしたい の で す 。 浄 そのときに、二種目向の恩徳として衆生に賜わる教行 信証に依って、衆生に成就する真宗という仏道とは、ど 5 ういう自覚道であるか。これは﹁証巻﹂ 尋ねるのが、一番適切だと思います。 加悩成就の凡夫、生死罪判の群州、住相岡山の心行 を獲れば、即の時に大乗正定衆の数に入るなり。正 定楽に住するがゆえに、必ず滅ー度に至る。 こういう言葉で表されるような人生、あるいは生命の歩 み、それが真宗という仏道です。もしその意を、もう少 しやわらげておっしゃった﹃唯信紗文意﹄の言葉に依っ て い え ば 、 の言葉に依って ひとすじに、具縛の凡愚、屠泊の下類、無碍光仏の 不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩 悩を具足しながら、無上大担架にいたるなり。 これが浄土真宗と宗祖が表白なさる仏道の、堂々たる内 容でございます。ところで、今申したようなことは、﹃浄 土三経往生文類﹄という晩年の宗祖の著作に、はっきり と で す ね 、 如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、 かならず正定緊のくらいに住するがゆえに、他力と も う す な り 。 と述べられております。これも疑問の余地はありません でしょう。我々が真実の信楽を獲るのは、偏に如来の二

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6 種田向の思徳に依る、こうお述べになっているわけです から。ですから二種田向と教行信証と、この二つの事柄 の分際を混乱をしてはならないということを、まず強く 思 い ま す 。 ところでそのような如来の大悲回向、これを主題とし て宗祖が推求なさった思索がございます。それは﹁信巻﹂ の三心一心の問答ですが、殊にその中の欲生釈といわれ ている宗祖の思索です。それに依りますと、宗祖はこの 如来の大悲回向と﹁証巻﹂でお述べになったそれを、大 悲回向心というものとして、ご了解になります。回向心 というのは、和らげていえば回向する願心、こう了解し ていいと思います。回向する願心、それが回向心です。 改めて申し上げるまでもございませんが、親驚聖人が この回向ということを、浄土真宗という仏道のいわば基 礎というか、根幹として、大切な意味をご覧になるので すが、そのことを宗祖に促したものは、世親菩薩の教説 でございます。その中のいわゆる五念門の教えですね、 五念門の第五に回向門がございますが、それです。これ はよくご存知の通りでありますけども、﹃論註﹄の引文に 依ってみましょう。 ﹃浄土論﹄に日く、いかんが回向したまえる、一切 苦悩の衆生を捨て、ずして心に常に作願すらく、回向 を首と為して、大悲心を成就することを得たまえる が故にとのたまえりと。 ﹃浄土論﹄のこの世親菩薩の言葉を、宗祖は非常に深い 感銘をもってお読みになったかと思います。例えばこれ をほぼ直訳して、和讃が作られております。よくご存知 の 通 り 、 如来の作願をたずねれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり この和讃に依ってみますと、これも疑問の余地なく、回 向する主体は如来といただかれております。しかもそれ を﹁いかんが回向したまえる﹂と、敬語で宗祖はお読み になりまずから、我々にいわば回向する思徳がかけられ ている。大体こういう回向のご了解です。 ところが、天親菩薩が﹁回向を首として大悲心を成就 する﹂、こうお述べになっているそれぞ、親驚聖人は欲 生釈に﹁回向心を首として大悲心を成就することを得た

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土 まえるが故に﹂、こうお述べになります。だから天親が ﹁ 回 向 為 法 目 ﹂ と お っ し ゃ る の を 、 宗 祖 は ﹁ 回 向 心 為 ぼ ﹂ 、 回向心を首となしてと、こうご了解になるわけです。そ の回向心、それが﹁回向する願心﹂です。ところが﹃浄 土論﹄が回向を語るその教一言を、国寒驚大師が注釈なさい まして、有名な﹁回向に二種の相あり﹂というご了解を お述べになります。それを宗祖は、大切に引かれます。 念のため読んでみますと、回向心、回向する願心、こう 宗祖がご了解になるその回向について、曇驚はコ一種の 相がある﹂といいます。回向に二種の相がある。本願力 の回向が用らくときに、往還二種の相をもって用らく。 曇驚はこういっているのです。﹁回向に二種の相あり、 一つには往相、二つには還相なり。﹂和讃でいえば、 弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ ところがその回向に、宗祖のご了解によっていえば回向 心に、二種の相があると述べているように思われるその 曇驚の了解に依って、宗祖は往相の回向と還相の回向と、 この二種の回向がある。こう展開して了解なさるのです。 浄 7 このことを、やはり注意しておくべきだと思います。 宗但は、往相の回向と還相の回向と、二種類の回向が あるとおっしゃるのですから、住相の回向と還相の回向 との聞には、二種類と区別される差異がある、こう了解 すべきですね。往相回向の用らく形と、還相回向の用ら く形とは違うのだ。こういうご了解が当然記されている と解されます。私はいろんな方の、最近次第に増えてま いりました親驚聖人の二種田向論を読んでおりまして、 いろいろ感ずる疑問があるのです。それは、例えば住相 即還相と、こういう言葉が表すような了解です。これは、 適切とは思えませんですね。往相即還相なら、始めから 宗祖はそうおっしゃればいいのに、二種の回向があると おっしゃっているのに、又往相即還相。つまり宗祖のご 苦労を充分理解なさっていないと思います。それからま た、曇驚は二種回向を語ったとは思えません。曇驚は、 回向に二種の相がある、こういっているのでありまして、 曇驚大師の二種回向という言い方はしばしば見ますけど も、これも不正確だと思います。充分に適切であるとは、 考えにくいのです。曇驚が回向に二種の相を展開なさっ たその教説に、宗祖は大きな教示を受けて、回向心を二 種の回向に展開してご了解になっていったと解すべきで

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8 あろうかと思います。 もっと了解しにくいのは、宗祖は二種の回向をおっし ゃっているのにもかかわらず、回向を落としてしまって、 二相論をまるで宗祖の回向論であるかの如く語る了解が A たいへん多うございます。宗祖は、往相還相をおっしゃ っているのではないのでありまして、往相の回向と、還 相の回向と、この二種類の回向の恩徳に依って、我等は 教行信証を恵まれ、真宗という仏道に立つことが出来る のだとおっしゃっているのですから、宗祖の思し召しを、 私たちは正しく了解したいと思います。そのためには、 お書きになった文章を正確に読まなければなりません。 こういうことを、いろんな方の回向論を読むについて、 改めて思うことでございます。 四 そのようにして宗祖は、世親が﹁回向を首と為して、 大悲心を成就する﹂こうおっしゃるその回向に、宗祖は 回向心、こういう了解を欲生の願心の教説から感得され ていったと思いますけれども、そのようにして宗祖が ﹃論註﹄に依って回向する願心の往相として学び取られ たもの、これが、しばしば引かれる﹃論註﹄の言葉です ね 。 そ こ に は 、 往相は、己が功徳をもって、一切衆生に廻施したま いて、作願して共に、彼の阿弥陀如来の安楽浄土に 往生せしめたまうなり。 こういう形で用らく如来の願心が、回向の往相と曇驚か ら、学ばれるわけです。同じように、回向する願心の還相 として曇驚から宗祖が学び取られたものが、 還相は、彼の土に生じ己りて、本省摩他・毘婆舎那・ 方便力成就することを得て、生死の調林に廻入して、 一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまう な り 。 この願心の用きを、回向の還相、こう曇驚から宗祖は学 び取られていったのです。その後に、 若しは往、若しは還、皆衆生を抜きて、生死海を渡 せんが為に、とのたまえり。 こういう一言葉がございますでしょう。回向の往相であれ、 凶向の還相であれ、それは共に、衆生を抜いて生死海を 渡せんがためである。その願いが、そこに動いているの だ。このことにも、充分出意をしておきたいと思います。 繰り返すようでありますけれども、このようにして宗 祖は、回向する願心の主体、これは欲生の願心ですから

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土 当然如来もしくは法蔵菩薩の名で表される、衆生にとっ ては超越的なものというほかはないものでしょう。その 願心は、如来の心でありまずから、我々には容易に知る ことのできない心でしょう。今の、曇驚が往相と還相に ついて述べている言葉、そこにご切衆生﹂という一言葉 がどちらへも出てまいります。それについて注意したい のですが、回向する主体は如来もしくは菩薩です。宗祖 は、祖師たちの教説に菩薩という言葉があれば、だいた いそれは法蔵菩薩とご了解になると考えてよいでしょう。 自分を菩薩に擬することはまずないと、了解したいので す。そうではなくて、﹁一切衆生﹂という言葉がここに ございますけれども、衆生とか苦悩する衆生という言葉 があれば、宗祖はそこに自分をごらんになる。自分を教 えられておいでになる。こう解すべきだと思います。だ から往相でしたら、その一切衆生に、法蔵菩薩が五念門 の行を修することによって得られた功徳のすべてを、団 施したもう。その功徳の団施を受ける一切の衆生、そこ に宗祖は頭を垂れて自分をごらんになっているのではあ りませんか。それから還相の場合は、一切の衆生を教化 してとおっしゃる。その還相の菩薩の教化を受ける一切 の衆生に、同じように頭を垂れて宗祖は、自分自身を教 浄 9 えられておいでになる。こう読むのがおそらく、宗祖の 思し召しに適う読み方であろうと、了解いたします。そ のような積極的な内容をもって用らく凹向心、その用き を一所す教言を宗祖は﹃論註﹄から学ばれて、それを展開 して往相の回向、還相の回向、この宗祖の独自の二種目 向の了解が形成せられていった、こう考えられます。 五 まずその往相の回向でありますが、これは先ほど注意 いたしましたように、衆生を抜いて生死海を渡する如来 の恩徳です。往生浄土ということと深い関係があります けれども、それは生死海に流転する衆生を渡す、生死海 に流転する衆生を、その流転を超える大般担繋道に衆生 を立たしめる、そういう思徳、これが往相回向です。も う少し展開していえば、如来のあの兆載永劫の修業によ って得られた真実功徳を団施する。そのことに依って、 天親菩薩が﹁普くもろもろの衆生と共に、安楽園に往生 せん﹂、こういう一言葉で表明なされた大きな仏道の志願 がございますが、それぞ内容とする願生の心に衆生を目 覚めさせて、願生浄土の大きな道に衆生を立たしめる如 来の恩徳、これが宗祖のご了解になワた往相の回向であ

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10 る、こういうべきであろうかと思います。 そこで改めて注意したいことがあります。それは﹃教 行信証﹄が述べていることですが、それを分かりゃすい 方の文章によってみます。それは、﹃如来二種目向文﹄ という晩年の文章ですが、その中に宗祖は、 ﹃ 無 量 寿 経 優 婆 提 舎 願 生 用 問 ﹄ に 日 わ く 、 ﹁ 云 何 回 向 、 不捨一切苦悩衆生、心常作願、回向為首、得成就大 悲心故﹂文﹂この本願力の回向をもって、如来の回 向に二種あり。一には往相の回向、二には還相の回 向 な り 。 今申したいのはその次です。﹁往相の回向につきて、真 実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。﹂こ の一言葉です。つまり宗祖は、こうおっしゃっているので す。往相の回向、往相回向の恩徳は、さっき申しましだ けれども、あの衆生を願生浄土の仏道に立たしめる如来 の恩徳と解すべき往相の回向は、真実の行業、真実の信 心、真実の証果をまって、衆生の上にその用らぎが現前 するのであると、こうおっしゃっているのです。往相回 向は往相回向として裸ではたらいているのではないので ありまして、真実の行業、信心、証果をまって、その用 らぎに依って、往相回向の思徳が衆生の上に、衆生を仏 道に立たしめるものとして用く。このことに充分注意を したいのです。のみならず、真実の行業。往相回向の用 きというか、住相回向の恩徳を衆生の上に具体化する第 一の用きは真実の行業ですが、それは諸仏称名の願にあ らわれたり。真実の信心は、至心信楽の願にあらわれた り。真実の証果は、必至滅度の願にあらわれたり。こう おっしゃいます。ですから、親驚聖人の二種目向と申し ますと、私たちは大体二種目向、或いは往相還相、回向 は如来に約していい、往還二相は衆生に約していう、そ んないろんなことをいいますけれども、往相の回向は、 今いった諸仏称名の願と、至心信楽の願と、必至滅度の 願と、この三つの本願をまって、衆生を仏道に立たしめ るその用きを実現するのです。二種田向を考える場合に、 それを衆生に成就する本願そして四法、これを視野の中 に入れて考えないといけないのです。繰り返すように、 二種目向を裸で考えては、宗祖の思し召しにおそらくは 適わない。二種同向と四法とは、ワン・セザトで考えな ければならない。こういうことが改めて思われることで ご ざ い ま す 。

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...

土 そうするとですね、私はここで改めて聞いを感ずるの です。それは、﹁教巻﹂の冒頭のいわゆる三種目向と四法 をもって真宗の大綱を顕揚される文章、そこでは﹁往相 の回向について、真実の教行信証あり。﹂と、四法が挙 げられております。﹁証巻﹂で往相回向についての考察を 結ぼれるところにも、﹁真宗の教行信証を案ずれば﹂とあ りますが、親概略聖人が往相の回向についておっしゃる時 には、今いった行信証の三法をお挙げになって、教は落 ちているのです。これは何故でしょうか。往相回向の恩 徳は、行信証をまって衆生を仏道に立たしめるものとし て、その用きを具体化します。しかし教は、宗祖の著作 の中では述べていないのです。これが一つの問題です。 そういう問題を持ちまして、還相回向についてお述べに なる、それを尋ねてまいりますと、還相回向も又、﹁衆 生を抜きて生死海を渡﹂す如来の思徳である Q これをま ずよく踏まえておくべきだと思います。 何故こんなことをいうかと申しますと、通念的な、私 は通俗的だというべきだと思いますが、通念化した二種 目向の了解によれば、往相というのは如来の回向に依っ 浄 11 て私が浄土に往生すること、還相というのは如来の回向 に依って私が浄土から械土に還米して、還来蹴悶度人天 の用きを行ずることと理解されています。往相するのも 私、還相するのも私、これが通俗的了解でしょう。とこ ろが、ここではっきりと﹁若しは往若しは還﹂往相の回 向も、還相の回向も、これは﹁衆生を抜きて生死海を渡 せん﹂とする如来の恩徳だとおっしゃっているのですか ら、私が還来械国度人天する、そんなことを宗祖がお考 えになっているとは思えません。私が生死海に流転して いる。そして苦悩している私が、それを渡して無上正真 道に立たしめる如来の恩徳を戴くのだ。こうおっしゃっ ているわけですから、宗祖がおっしゃっている通りに読 むべきであろうと思います。 それについてもう一度、曇驚がお述べになっていると ころを見ますと、﹁彼の士に生じ巳りて、奪摩他・毘婆舎 那・方便力成就することを得て、生死の桐林に廻入して、 一切衆生を教化して、共に仏道に向えしめたまう﹂思徳 Q これが還相回向でございます。ところが、それを曇驚は 回向の還相だと語っていた。ところがその、宗祖の目を 通していえば回向する願心の還相は、今曇驚がのべたよ うな言葉で語られているものでありますが、それをより

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12 具体化していえば、世親が五功徳門の第五、いわゆる菩 薩の出第五円、こう理解されている教説で語っているも のです。それを踏まえて宗祖は、還相回向という回向の ご了解をうちたてていかれたのであろう、こう思います。 その﹃浄土論﹄が、菩薩の出第五門として述べているも の、これはいたるところに述べられていますが、 ﹃浄土論﹄に日く、出第五門とは、大慈悲を以て一 切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の 園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して、教 化地に至る。本願力の回向を以ての故に Q 是を出第 五 門 と 名 く と 。 これに宗祖は、繰り返すように、ご自身の独自のご了解 である還相回向の了解をうちたてられる、たいへん大き な教示を受けられたに違いないと考えられます。しかも 往相回向について、その恩徳を衆生の上に具体化するも のは行信証の三法ですが、行信託として成就するその根 源に諸仏称名の願、至心信楽の願、必至滅度の三つの本 願がある。こう宗祖はご了解になりますね。 それと同じように、還相回向の思徳を衆生の上に具体 化するもの、これは還一相回向の顕であります。これも、 ﹃ 三 経 往 生 文 類 ﹄ 、 ﹃ 二 種 目 向 文 ﹄ 、 どちらにも還相凹向の 願文が引かれておりますでしょう。要するに還相回向の 本願をまって、如来の還相回向の思徳は、衆生の上に具 体的に用くこととなる。こうご了解になっていると解す べきです。それに従いまして、還相回向の願文、それか ら曇驚が回向の還相を語った教言、さらに﹃浄土論﹄が 出第五門を語る教一言、これらを併せ尋ねてみますとき、 還相回向といわれる如来の恩徳を形成している、いくつ かの契機となっているものがあることが思われます。そ の第一は、教化です。しかもこれは﹁証巻﹂でいえば、﹁還 相の回向というは、則ち是れ利他教化地の益なり﹂と、 こういわれますでしょう。この教化地というのは、浄土 の菩薩が法爾自然に衆生を教化する用ぎを行ずる位です。 われわれ衆生、つまり凡夫である衆生も、勿論教化する ことができないわけではありません。常行大悲の益を頂 く。あるいは自信教人信の願いに目覚める。これは全部 信心の利益ですから、真実信心を獲ることによって、常 行大悲を行じていきたいという願いに目覚めていく。ま たそれを自信教入信、こういう形で行じていきたい、こ ういう願いに目覚めることともなるのですが、そういう 形で凡夫である我々、も、教化に関わることがないわけで はありません。しかし凡夫が教化する場合、 つ ま り 我 々

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土 が実際やっている教化は、すぐに分かりますように、遊 ぶが如く教化するというようなことをやれる人は、あま りおいでになりません。悪戦苦闘です。凡夫もまた時に、 教化といわれるような意味をもっ努力をいたします。だ から凡夫が教化しないということはないのです。信心に 目覚めれば、よき人の教えに遇うて感動を得ればですね、 自然に常行大悲、自信教人信、こういう願いが動くわけ です。ところがそれと教化地ということとは、違うとい うべきです。我々の宗門にも、教化の達人というか、す ばらしい教化の仕事を果たしていかれた先輩は、多くお いでになります。ある意味で遊ぶが如く、ちょっと不謹 慎な言葉で恐れ入りますけれども、遊ぶが如く法を説く ということもありますけれども、それは凡夫、がそこまで 自己をお磨きになったので、ありまして菩薩の行ずる教 化地に立つての、あの自然法爾に行ぜられる教化である かどうか、これは一線画すべきではないかと思います。 教化地というのは、浄土還来の菩薩が、あの阿修羅の 琴の立日で警られるような、任運無功用に、作心なく行ず る、そういう教化の行ぜられる立場であって、曇驚はそ れを﹁菩薩の白娯楽の地﹂といっています。還相回向は そういう意味で、まず教化がたいへん大事な内容として、 浄 13 今いった三つの教説、すなわち還相回向の願、日 E Z 鴬の回 向の還相、あるいは世親が出第五門を語る教説、そこに 語られている。例えば﹁恒沙無量の衆生を開化して、無 上正真の道を立せしめん﹂という行。これは、還相回向 の願ですが、﹁恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の 道を立せしめん﹂というような志願を行ずる。しかも無 碍白在に、作心なく。その境位が利他教化地です。しか も利他というのは、如来が衆生を救う用きであって、衆 生が他の衆生を救う用きを

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う一言葉ではありません。如 来が苦悩する衆生を救う用きが、利他であります。それ から﹃浄土論﹄でいえば、﹁神通に遊戯して、教化地に 至る﹂とあります。﹁遊戯神通﹂、﹁神通に遊戯して﹂。こ れは凡夫の出来る境位とは、全然違うというべきです。 それから﹃論詰﹄であれば、﹁一切衆生を教化して、共 に仏道に向えしめたもう﹂。それを踏まえて宗祖は、﹁還 相の回向とは則ち是れ利他教化地の益なり﹂と、こうお っしゃっていきます。そのような教化が、還相回向の内 容を構成する第一に大事な意味をもっ要件であると、思 わ れ ま す 。 第二の要件として応化身、これをあげるべきだと思い ます。﹁生死の園・煩悩の林の中に回入して﹂、あるいは

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14 ﹁生死の桐林に凶入して﹂つまり我々が生きて、そして 苦しんでいるこの械土に身を捨ててくださって、無碍自 在に教化衆生の仏事を行じてくださるその恩徳です。我 々のために、つまり流転の中に苦悩する我等を抜きて生 死海を渡せんがために、我々の煩悩にまみれて生きるそ の真っ只中に身を捨ててくださったのだ Q こういう恩徳 と共に感ぜられる如来の用きが、示応化身として宗祖に は了解されていると思われます。少し錯綜いたしますけ れども、﹃論註﹄に曇驚が﹁彼の土に生じ己りて、本省摩 多・回比婆舎那・方便力成就することを得て﹂と、こう述 べますでしょう。例えばその方便力について、 菩薩の巧方便回向は、謂わく礼拝等の五種の修行を 説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求 めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに、作願 して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国 に生ぜしむ。これを菩薩の巧方使副向成就と名づく。 そういう行を行”するというのが、還相回向の大切な要件 であるかと思います Q そのようにして、還相凶向の願の成就、或いは出第五 門の功徳の具体相ですね、これが還相凶向を宗組がご了 解になってレくときに、大変大切な意味を討つ事柄とし であったことが思われるのでありますが、いったいその 応化身を示し、教化地に至ってといわれるその具体相で すね。ちょうど往相回向のはたらぎを衆生の上に現前せ しめる第一の法が、真実の行業でありますが、それは、 諸仏称名の悲願、の成就でした。それと同じように、如来 の還相回向の恩徳を成就する、その根本にあるものは還 相回向の顕でありますが、還相回向の願の成就という意 味をもつものと宗祖が仰がれた事実は、いったい何であ ったのであろうか。これがなかなかよく、これがそうだ と了解し切れない、私にとりまして。難しい課題でござ い ま す 。 七 そのときに、先ほど申しましたように真宗の教行信証 と、こう四法を挙げておいでであるのにもかかわらず、 往相の回向については、行信証の三法が挙げてあって、 真実教が挙げてございませんでしたでしょう。あのこと を思い出すのです。そうすると真実教、これを開顕する のは勿論﹁教泣きです。﹁教巻﹂で、応化の如来の代表は、 釈尊でありまずから、宗組は﹃大経﹄の大志を述べると い v う形で、まず阿叫陀如米の忠徳を述べ、次いで釈迦如

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来の思徳を述べられます。そこに、 夫れ真実の教を顕さは、則ち﹃大無量寿経﹄これな り。この経の大意は、弥陀誓を超発して、広く法蔵 を聞きて、九小を哀れみて、選びて功徳の宝を施す る こ と を 致 す 。 土 こう述べてありますが、これが阿弥陀の思徳です。それ に次いで釈尊の恩徳が、 釈迎世に出興して、道教を光闘して、群萌を抵い、 商品むに真実の利を以てせんと欲してなり c と 、 こ れ は ﹃ 大 経 ﹄ の 一 一 一 口 葉 に 依 っ て で あ り ま す け れ ど も 、 釈尊の思徳をこのように捉らえておいでになります。釈 迎という名で呼ばれる如来は、どのような方であるか。 第一に、世に出興せられた方である。﹁世に出輿﹂する。 これは、応化身ぞ一不すという言葉で語られることと同じ でしょう。それから﹁道教を光闇﹂するというのは、一 切衆生を教化する。こういうことです。そして﹁群萌を 紙仁わんと欲すという、これはもちろん、衆生を抜きて 生死海を渡せんが為ということであります。 これについて実は、曾我量深先生が早く一つの問題提 起をなさっておいでになるのです。浄土真宗は教行信証 の四法に依って成就する仏道であるが、﹃教行信証﹄をみ 浄 15 ると、その行信証については、それを成就する本願が必 ず標挙として最初に挙げてございます。例えば﹁顕浄土 真実行文類﹂でしたら、諸仏称名の願と本願を挙げ、浄 土真実の行・選択本願の行と細註されます。﹁信巻﹂でし たら、至心信楽の願をお挙げになって、正定緊の機と細 註されます。それが主題となって﹁行巻﹂・﹁信巻﹂の思 索が展開するわけです。それで真宗は本願の仏道という はっきりとした性格を持つということが、よく分かるの ですが、第一の教については、本願が挙げられていない。 これは、昔から問題になっていることだそうです。それ で、真実教を成就する本願はどの本願であるかというこ とが、議論されてきたのですが、︹曾我先生は釈尊は還相 回向の願に乗じ、諸仏称名の願に応えて、真実教を説か れたと解すべきだと、了解しておられます。 だから釈尊の教説、﹃大経﹄の教説の内容は、﹁如来の 本願を説くをもって経の宗致となす。すなわち、仏の名 号をもって、経の体とする。﹂こういう教説です。その点 で往相回向、つまり行信を衆生に生む所依となるもので す。つまり本願念仏の教えに依って、人は本願を信じ念 仏する身になヮていくわけですから、行信が衆生に成就 する縁となるのは、本願為宗・名号為体の教言に遇うと

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16 いうことです。宗祖の行実に即していえば、﹁ただ念仏 して、弥陀にたすけられまいらすべし﹂、こう語り続け たよき人法然のあの仰せに遇い、それに育てられて、宗 祖は本願を信じ念仏する者となっていかれた。その信ぜ られた本願、行ぜられた念仏が、宗祖を仏道に立たして い る わ け で す 。 ところがその、如来の本願を説き、仏の名号を体とす る教説を語る人、その存在は如何なるものか。これは、 如来の還相回向の願に乗じて、浄土から械土に応化した 方である。こう解すべきではないかというのが、曾我先 生のご了解でありました。私は全く、よく宗祖の思し召 しを尋ね当てられたご了解だと、感保していることであ ります。そうすると、還相回向の成就の事実、つまり還 相回向の願に乗じて臓土に応化して、衆生を教化する用 きを行じているその事実は何か。これは、目のあたり遇 うた人を挙げれば、あの大変厳しい顕密体制からの弾圧 を受けながらですね、生死出づべき道をばただひとすじ に、選択本願の念仏と語り続けている法然という方の存 在そのものでしょう。もし限があるものが見れば、如来 の還相回向の願に乗じて、苦悩するわれらのところに応 化してくださった浄土の菩薩であるかと仰ぐほかに、ど ういう見方があり得るか。こういう感じでございます。 その法然の仰せは、釈尊の教説へ帰すことができまずか ら、根本教主釈尊、これは﹃大経﹄そのものが、 如来、無差の大悲をもって三界を衿哀したまう。世 に出興したまう所以は、道教を光聞して、・ とありますね。﹃大経﹄自身が、釈尊は応化の如来であ ると語っているわけですから、なるほどわれわれに本願 念仏の教えを説いて止まない。そしてわれらの心を養い 育てて、仏道を求めるものとしてくださる教主世尊、或 いはよき人の恩徳、これが還相回向の具体相であるか。 宗祖はこうご了解になったと考えて、まず間違いないと 思います。それを伝えるのが幾つかの和讃でございまし て、一番よく分かるのは、あの、 智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまう 或 い は 、 阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ 或いは、善導大師でいえば、

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大心海より化してこそ 善導和尚とおわしけれ こういう和詰によって、宗祖に動いた同じ感銘がよく語 られていることが思われます。だいたい還相回向につい て、基本的に二種目向として全体を考えながら尋ねてい きます時に、要点はそのあたりではないかと今考えてい るところでごぎいます。 i¥ 土 何故そう考えざるを得ないかという、もう一つの理由 があります。それは、宗祖の二二問答の中に、回心機悔 において信知せられた機が表白せられているのですが、 そこにはご存知の通り、 無始より己来、一切群生海、無明海に流転し、諸有 輸に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽な し。法爾として真実の信楽なし。ここをもヮて無上 功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。 こういうことでありまして、われわれは本来、仏道を求 めるというその根機に欠けているものではないかという、 痛みにみちた信知が表白されています。そのわれらが本 願を信じ、念仏する身となる。それが起こるのは、われ 浄 17 われのあの砂漠のように荒んでいる心を教化し、養い育 てて、仏道を求めるものに育て上げてくださった、よき 人の教えの思徳があるからだ。それをまって初めて、わ れわれは念仏する身となることができるのであって、も しよき人の教化の思徳をいただかなかったならば、われ われは終に流転の境界を出ること、ができないではないか。 こういう、宗祖のあの回心機悔において知られた機の信 知における非常に深刻な問題があるわけです。それがあ るからこそ宗祖は、回向を展開して、二種田向は挙げて 如来の思徳である。衆生の分際は、教に遇い、行信証を 獲る、そこにある。これはもう暖昧さを止めない、非常 に明快な知見としてお持ちになったご了解だと思います。 現在の私たちの課題である、真宗のいわゆる現実的課 題との関わり、これを促し支える場は還相回向ではなく て、私は願生浄土、願生浄土の自覚道、そこで考えてい くのが適切ではなかろうか、こう思っていることでござ います。真宗は単に往生浄土の仏道というのでは足らな いのであって、往生浄土の仏道をさらに展開して、如来 の欲生の願心に呼び覚まされたものとして、願生浄土の 自覚道に立つ。その願生浄土の仏道は、われわれが業を 果たすべき場ですから、全力を挙げて例えば常行大悲で

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18 あれ、自信教人信であれ、全力をあげて責任を背負って いくその場を、そこに恵まれているのだ。こう了解した らどうであろうかと思っていることでございます。 早口で申しまして、ご迷惑であったかと思いますが、 要点だけ一応申苫せていただきました。 池

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帝 田 勇 ただいまは寺川先生から二種目向について、数かずの 文証を通して発揮されるところを精般にお話しくださり 改めて向後の研鏡の課題を頂戴した感銘がでざいました が、あたえられた時間の中でわたくしなりの日ごろの領 解を申しあげ、また種々ご教示にあずかれればと思うこ とでございます。 さて、わたし達にとって根本的かつ全体を尽すような ﹁浄土﹂のテlマが昨年に引き続いて掲げられておりま すが、今回は特に﹁還相回向をめぐって﹂となっており ますので、まずはじめに H いまなぜ還相回向なのか U を 一言ふりかえってかかりたいと思います。 現在わたし達の宗門における教学・教化の最たる課題 は 、 H 個人と社会 H の問題でないかと思います。それは 個人の内面的自覚と、対社会的な実践とが、真に統一さ れていくようなあり方の明確化が、いまもっとも強く問 われているからであります。それと申しますのも、そう した真宗に生きることについての基本的な事柄が、改め て確認されねばならぬほどに強い促しを時代社会の状況 がもっているからでありましょう。いうまでもなく﹁基 本的人権﹂に立場する社会の体制、少なくともそのこと を基本として提供される洪水のごとき情報社会の現実は、 わたし達がそのなかに身をおくかぎり、真宗を単に個人 の内面にとどまらせず、現実の諸問題をも真に見極め関 わっていけるような確かな見識として可動しなければな らぬことを、強く要請しているからであります。しかし そうした現在的課題の前で、これまでの教学・教化のあ り方をふりかえるとき、次のような反省が強くなされる の で あ り ま す 。 白己と社会という本来一如なる事柄があっく覆われ、 身と土、個人と社会が切り離された単なる身、単なる伺 人という範時に真宗が限定されてきてしまっているので

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はないか。そのために今日のような時代社会のなかにあ って、真宗がいま一つ現実の力となりえない、極言すれ ば真宗が単なる主観性のなかに埋没して観念化してしま っているのではないか。真宗の信心がわたし達の真の主 体の獲得を意味するかぎり、真に身土が、個人と社会が 共に間い続けられていくようなあり方でなければならな い。そのような反省から、そこに現実への主体的な関わ りの原理として還相回向ということが特に明確化されね ばならねのでないか、とそのような文脈で提起されてき ているようであります。そうした視点から、すでに宗門 外のいわゆる歴史家・思想家といった人びとからも、教 学的課題が鋭く提出されていることは、よくご承知のこ とと存じます。近年改めて特に還相田向の問題が間われ ていることについて、そのように受けとめているもので あ り ま す 。 土 そこでいま還相田向の問題をいかに領解すべきかとい うことでありますが、わたくしは何よりも主題の﹁浄土﹂ についての観点、つまり浄土をうけとめるわたし達の視 座から、極めて基本的な確かめを一言提出させていただ 浄 19 ければと思うことであります。 およそ﹁浄土 L の問題について教学上からは、﹃教行信 証﹄﹁瓦仏土巻﹂に 謹んで其仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思 議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しか ればすなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の 報仏土と日うなり と述べられている﹁報仏土﹂、﹁報土﹂こそそのすべてを 集約する決定的な一語であると思います。しかしその確 認においては、日ごろ様ざまな方がたと共学するなかで、 次の二点が素通りできない問題であるかに存じます。 一つは、いわゆる民族宗教の名においてわたし達が体 質的に引きずっている霊魂観念に基づく輪廻思想として の他界・転生観念との異質性の明確化であります。 いま一つは、宗祖が﹁臨終一念の夕、大般市は葉を超証 す﹂と、肉体の死をもって往生浄土を示されている側面 の意味の明確化であります。 まず第一の点ですが、他界観念といえばもっとも根本 的には、わたし達の無明の心情の﹁生﹂に対する、また ﹁善悪﹂に対するかぎりない執着の投影として体質的な ものでありますが、それだけにそこには輪廻・業等の思

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20 想がからまり、容易に解消する事柄ではありません。し かしこれに対して真実証・浬繋界である浄土は彼岸とも 説かれることにおいて、他界との異質性が明確にされね ばなりません。それについて例えば幡谷明先生も、本年 度の安居講本に 他界も彼岸も共に此界を超えた境界を表わしている が、他界は此界の延長線上に求められる来世・死後 の世界を意味しており、その限り輪廻の世界を完全 に超脱するものではない。それに対して善悪・生死 の彼岸は、その他界をも絶対否定的に超えた浬梁・ 不 死 ︵

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?目玉ロ︶の境界を指し示して い る 。 ︵ ﹃ 三 経 往 生 文 類 試 解 ﹄ 七 頁 ︶ と、的確に指摘されているように、まったく異質的であ ります。にもかかわらず、両者の無自覚的混同というか、 他界観念の意識的受け皿で往生浄土、つまり念仏往生を 受けとめているということが根深くあるように思われま す。早い話が、念仏往生といえば、この世で念仏すれば 死して霊魂が肉体から遊離して、極楽浄土という世界へ 生まれかわるのだといった形です。そこでは浄土も一つ の他界であり、往生も実質転生と化していまずから、他 界が来世であるのと同様に、浄土・浬撲も死後であると いう了解となってきているわけであります。しかし彼岸 はそのような実体観に立つ輪廻転生という時間・空間の 次元の沙汰ではなく、むしろそれを自覚的に超出した、 どこまでも願心荘厳の報仏土として、わたし達の自我の 執心、つまり霊魂・他界・転生を生み出している無明の 心情の彼岸、かなた性といわねばなりません。したがっ て彼岸は報仏土であることにおいて、願心の回向成就た る真実の行信においてのみ感知され、仰がれる世界であ り ま す 。 ﹁浄土﹂についてこの基本的な視座の一点が見失なわ れてならぬことは、﹃教行信証﹄六巻の展開をみれば明ら かといえましょう。いうまでもなく各巻の冒頭には、そ の一巻が明かすところの法の根基を本願をもって標挙せ られておりますが、それはわたし達の宗教的自覚として の第十七・十八二願の回向成就たる真実の行信、すなわ ち本願の名号の主体化たる真実信心に帰せられます。し たがって六巻の内容はすべて真実信心から、真実信心の 根源的かつ必然的意義を説き聞く文脈として、そこに真 実証およびその内実たる阿弥陀仏とその浄土も讃仰され ているのであります。ゆえにそこには一点の仮定性も独 断性もゆるさぬ心証として、開顕されていることによく

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よく留意すべきだと存じます。その意味で真実信心の一 法こそは全く教行信証真仮六法を領受する視座であり、 浄土の問題もそれを離れて窺うすべはありません。 土 ﹁真仏土﹂が﹁真実証﹂より開示せられていることに よって、真実証の問題のうえに、いまの一点を一言確認 したいと思います。周知のように後序には﹁痛かに以み れば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道 いま盛なり﹂といわれておりますが、宗祖において行と 共に証の問題がいかに大きな課題であったかはいうまで もありません。しかしそれだけに証の問題が今日のわた し達のうえに、何か暖昧さをかこつような受けとめ方に なっていないかが反省させられてなりません。それは続 いて述べる意味においてです。 宗祖が証の問題でもっとも重要な意義と位置とをもつ ものとして見開かれたものは、住正定緊ということであ りました。いうまでもなく住正定来は、もと第十一願の 願事でありますが、それは信巻に﹁至心信楽之願﹂と標 挙して、﹁正定粟之機﹂と細註されているように、能至 の因たる住正定緊を真実信心の事実に確信されたことで 浄 21 あります。したがって証巻には第十一願を専ら﹁必至波 度之願﹂として掲げられ、この本願こそ真実証の成立根 拠であり、この願の成就することこそ仏道の究極的課題 たる証道の成就であることを一不されております。ここに おいて何よりも注目されるものが第十一願成就文であり ます。証巻には因願文に続いて出文されておりますが、 そこでは﹁それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みな ことごとく正定の棄に住す﹂云云と訓まれ、﹃一念多念文 意﹄では﹁それ衆生あって、かのくににうまれんとする ものは、みなことごとく正定の棄に住す﹂云云と訓まれ ております。しかし住正定緊と必至減度が﹁願因・願果﹂ の関係において領受されている︵﹃三経往生文類﹄参照︶か ぎり、共に住正定棄が質的に浄土の利益であることをあ らわしていることに異なりはありません。 ところがこの因願と成就を対比するとき、そこに見落 してならぬ重要なことに気づかされます。というのは、 因願は浄土に生まれたものは正定楽に住し必ず滅度に至 らないなら正覚を取らぬという。したがってこの願を ﹁必至滅度之願﹂、また﹁証大担架之願﹂と名づけられま す。つまり一切衆主をして波度を証せしめんという本顕 であります。ところがその願の成就には、この願が成就

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22 した事実を住正定莱と説かれております。筋からいえば 必至滅度之願・証大浬繋之願の成就ならば、それによっ てみなが滅度杢証した、大浬柴を証したとなければなり ません。しかし事実はそうではなく、必至滅度之願はみ なが正定緊に住ずることにおいて成就するのです。とい うことは、必至滅度は必至滅度の願心であり、法なので あります。必至滅度の法が衆生に凹向成就された事実が 住正定緊なのです。必至滅度の願心、法が機に受領され ぬかぎり、必至滅度之願は成満することはない。ゆえに 必至滅度の法と住正定衰の機との出会いの証しが、﹁称 無碍光如来名﹂の大行なのであります。念仏申す身とな らしめられたということは、そこにわたし達の永遠の歩 みが始まったことであります。 その意味において浄土が本願成就の報土であることは、 如来が一方的にどこかに建立された陛界ということでは なく、どこまでもわれら衆生の機のうえに成就建立され る質のことといわねばなりません。ゆえに浄土はどこか に在る世界として予想される世界ではなく、この救われ るべきこの身のうえに成就されるもの、したがって浄土 が建立されたことは、この身のうえに確一証されねばなら ないのです Q それが住正定緊の事実にほかならない。ま ことに機は法を待ち、法は機を待って成就することであ り ま す 。 四 このように第十一顧成就の意義を見極めますとき、こ こに次のことが確かめられるでありましょう。それは減 度とか浬繋とかを一つの心境ないし境地とすることへの 反省であります。とかく滅度とか浬撲とかいえば、一つ の心境または境地のごとくうけとりがちでありますが。 例えば 浬繋とは、その言葉の意味は﹁吹き消すこと﹂とか ﹁桐林のないこと﹂とか説明されるが、それは貧欲 ・隈事・愚痴などの一切の煩悩︵理想生活をさまた げるもの︶が吹き消され滅除された状態を指す。 ︵中略︶それは苦楽や生死を超えたものであって、そ のような世界が客観的に存在するのではなく、さと りを得た人の心の状態を指すものである。そのよう な達人にとっては、すべての世界が安砲の寂光土と なるのであって、達人の心の状態がやがて周囲の環 境をも理想の同士と化成せしめるのである。これが 仏教の理想にほかならない。

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︵ 水 野 弘 一 万 著 ﹁ 仏 教 の 基 鑓 知 識 ﹄ 一 五 五 J 七 頁 ︶ といわれていることによっても、そのへんの傾向を知る ことができましょう。 土 しかし現に原始経典のなかにおいても、浬撲の同義語 といわれるものに﹁不壊・燈明・庇護・帰依所﹂︵前同・ 一 五 五 頁 ︶ の 一 請 が み ら れ る こ と は 、 同 輔 衆 は 絶 対 に し て 畢 克 依 で あ る ・ : ︵ 宮 本 正 尊 著 ﹃ 一 誕 巻 講 読 ﹄ 昭 泊 本 ・ コ 一 八 頁 ︶ と明言されているように、いかなる動乱のなかにあって も不壊にして、常に潟閣を照らす燈明であり、庇護であ り、ゆえに万人の帰依所として、決して個人的主観的な 心境ないし境地的なものでないことが知られます。 ﹃教行信証﹄は真実証・滅度が弥陀のさとりそのもの であることを一市すことからも、万人万象の皐寛依である ことを明かすものであります。それを滅度を単に機とし て心境ないし境地視すれば、それによって前述の正定衆 との立体的な関係的構造性は覆われてしまい、現在の住 正定楽とは異なる別なる滅度を予想化ずる結果とならぎ るをえません。宗祖はその点、証巻に しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回 向の心行を獲れば、即の時に大乗正定衰の数に入る 浄 23 な り 。

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定楽に住するがゆえに、必ず滅度に至る。 必ず減度に至るは、すなわちこれや巾楽なり。 といわれて、特に﹁正定棄に住するがゆえに、必ず滅度 に至る﹂といって、そこには時間と空間の指摘が見えて おりません。しかしこの二つの事柄が﹁故・必﹂という 因果必然の関係で一ぶされていることは、如来回向の真実 の行信、すなわち真実信心の内実としてうけとられてい ることを示しています。ということは、浄土がいま真実 の行信としてわたし達に来りはたらいているということ であります。﹃浄土文類爽紗﹄をみれば 常没の凡夫人、願力の回向に縁って真実の功徳を聞 き、無上の信心を獲。すなわち大慶喜を得、不退転 地を獲。煩悩を断ぜしめずして、速やかに大浬紫を 証 す と な り 。 と述べられておりますが、これはまさしく第十八願成就 文の意であります。文面に明らかなように、﹁煩悩を断 ぜしめずして、速やかに大浬撲を証すとなり﹂、真実信 心において確かにこの身に感得されたればこそ大慶喜心 といわれます。宗祖のこの深い確信からは、もはや正定 緊と滅度は不完全と完全の二者という関係でなく、住正 定棄はそれだけで一つの完全態、つまり救済の完結性を

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24 意味するものといわねばなりません。それが現生不退の 重さでないでしょうか。浄土の生活の始まりであります。 宗祖にとっては単に滅度ということはその信証において 存在せず、在るものはどこまでも必至滅度であったので あります。その意味で住正定緊のほかに必至滅度がある のではなく、住正定緊のままが必至滅度なのであります。 では、そのような現生不退の確信に生きられた宗祖が、 何ゆえに﹁臨終一念の夕、大般浬梁を超証す﹂といわれ るのでありましょうか。はじめに指摘した第二の点です が、それは端的にいって現生不退の信証がもっ機悔の表 現にちがいありません。真実の行信がもっ﹁この身﹂の 自覚、つまり﹁煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌﹂の痛 みがかくいわしめるのであります。しかしそれは、もは や不完全・不充分・不満足なるがゆえに、なお未来に期 待をかける未来往生の類でないことはいうをまちません。 どこまでも﹁臨終まつことなし、来迎たのむことなし﹂ ︵ ﹁ 末 灯 紗 ﹄ ︶ 、 ﹁ こ の 阿 弥 陀 如 来 の 往 相 田 向 の 選 択 本 願 を 、 みたてまつるなり。これを難思議往生ともうす﹂︵﹃一二経 往生文類﹄︶といいきれる現生不退の満足心、信力の表現 であります。したがってそれは﹁煩悩具足の凡夫、火宅 無常の世界﹂なる人生を、真に尽くさしめ、仏道の証し の場としていくことのできる充足心にほかならない。金 子大栄講師が﹁われは仏であるといえるいわれが、われ は仏であるといわせないいわれである﹂といいあてられ ていることが、深く味識されることであります。 ここまで申しのべてまいりまして一点念を押したいの は、宗祖以前の浄土教と以後のそれとの異なりの見聞き です。それは一口でいえば、死後の往生と現生不退の異 なりであります。その意味でわれわれの課題は、どこま でも宗祖以前の浄土教の克服にあることを銘記すべきと 存 じ ま す 。

以上、﹁浄土﹂の視座としての真実の行信を見定めてま いりましたが、この真実の行信においていま二種目向の 問題も領解されねばならぬと存じます。なぜなら、いま その一一を挙げることは省略いたしますが、﹃教行信証﹄、 をはじめ、﹃三帖和讃﹄や和文のもの等の祖意に照らせば 往還二回向は真実の行信の成立根拠であると同時に、そ れゆえに真実の行信の境界

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利益として示されているか ら で あ り ま す 。 およそ﹃教行信証﹄が二同向四法をその綱要とするこ

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土 とから、宗学の伝統においてはその理解方式として、﹁因 果門﹂と﹁二凶向門﹂の二つの扱いが論ぜられてきてお ります。因果門というのは教行信証の四法に二回向を摂 して理解する方式であり、二凹向門は二回向に四法を摂 して理解する方式であります。そして二回向門からは ﹃教行信証﹄は全く如来回向の開顕書であり、因果門か らは専ら念仏往生の開顕書であるといわれております。 しかもそうした二つの扱い方において、なお﹃教行信証﹄ が真仮批判の相対的形態をとっていることから、因果門 を主とされてきております。つまり六巻の内容がすべて 衆生往生の因果を中心に理解されてきているということ で あ り ま す 。 ところがそうした学びの流れにおいて、一点反省させ られることは、衆生往生の因果を主とする因果門の方式 が、そこに何か如来と衆生の実体化的理解を生起してこ なかったかという点であります。その懸念を否めない事 例が、この往還二回向の理解ではないかと思われます。 端的にいってそれは往還二回向を平面化した、いわゆる U タ lン的理解であります。代表的な一つの解釈をあげ 九 平 J a

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浄 25 廻向と云ふは如来の方から施与し給ふが廻向なり・

. .

:・往相還相と云ふは、衆生の方にあることなり:: 衆生が裟婆より浄土に往生する往相も、浄土から立 ち還りて衆生を済度する還相も、皆な他力廻向なり、 それを二種の廻向と云ふ ︵ 呑 月 院 深 励 | | ﹃ 教 行 信 証 講 義 集 成 ﹄ 一 の 二 四 三 頁 ︶ 等がそれでありますが、こうした理解を寺川先生もその 著﹃教行信証の思想﹄のなかに深く問いかえされており ますし、またすでに昭和六十一年五月発行の同朋大学の ﹃同朋例教﹄第二十・二十一合併号に、麿瀬握氏が﹁親 驚の二種目向観|| 1 凡夫往生道の確立|| l ﹂ と 題 し て 、 すぐれた提起をされております。果たして N 往相・還相 は衆生に就き、回向は如来に就く H という分別でもって、 宗祖の往還二回向観が充分に受領できるか否か、わたし 達は深く吟味すべきであると存じます。 そこでわたくしは 謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つ には往相、二つには還相なり に始まる﹃教行信証﹄の文脈からして、その往還二回向 の何たるかを示す根本的かつ決定的な一文は、如来回向 の願心を開顕する信巻、欲生釈下の﹃論註﹄の文だと存 じ ま す 。

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26 ﹁云何が凶向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てず して、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心 を成就することを得たまえるがぺゆえに﹂とのたまえ り。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには 還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に凹 施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽 浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生 じ己りて、奪摩他・昆婆舎那・方便力成就すること を得て、生死の禍林に回入して、一切衆生を教化し て、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・ もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがため に 、 と の た ま え り 。 ﹁ 回 向 為 首 得 成 就 大 このゆえに 悲心故﹂と言えり、と。 これによって明らかなことは、往還ともに如来が衆生 を救済せんとする相として把握されていることでありま す。つまり苦悩の衆生と共に往生成仏せんとする如来の 大悲行が凹向であり、その回向に往還の二相があるとい う。この点﹃浄土文類底抗紗﹄に しかるに本願力の回向に二種の相あり とあることのうえに確かめられます。ということは、 必陀の回向成就して、住相還相ふたつなり、これら の回向によりてこそ、心行ともにえしむなれ の意として、真実の行信こそ如来の往還回向のはたらき そのものであります。であれば、往還の回向は如来の往 還回向であって、如来の回向の二種相として相即的とい わねばなりません。 では、それはいかなる内容かといえば、ここに二回向 門の方式が注目されます。しかし二回向門も宗学の伝統 では、還一相回向を証巻の後半の直接的叙述の部分にかぎ ってきたようですが、それを化身土巻の終りまでに拡充 理解されたのは稲葉秀賢先生でありました。教巻の初め から証巻の﹁それ真宗の教行信証を案ずれば﹂等の釈文 までを往相回向、﹁二つに還相回向と一言うは﹂から第六巻 終りまでを還相回向とおさえ、証巻のそれを還相回向の 直接的表現、真仏土巻をその根源的表現、化身士巻をそ の具体的表現と読みとられています︵吋教行信証の諸問題﹄ 参照︶。こうした徹底した二回向門の領解は、偶然にも近 年公刊された﹃真宗相伝義書﹄第一巻︵深解科文︶およ び第三巻︵深解別伝・広本要訣︶に提示されるところで あり、深く留意すべきものと存じます。 この二凶向門からいえば、第十七・十八二願の真実行 信の回向成就は、その実第十二・十三願を本源とする第

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