――目次――
1,
朝鮮巫俗の神統(承前),赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.1-9.
2,
反動の暴圧下に置かれたる預言運動の地下潜行について,松井了穏,Ryōon MATSUI,pp.10-27.
3,
支那仏教初期の般若経に対する課題,梶芳光運,Kōun KAJIYOSHI,pp.28-45.
4,
神秘主義と邪悪の問題の一考察,特にヨーガ思想における無明 avidya について,岸本英夫,Hideo
KISHIMOTO,pp.46-57.
5,
大毘婆沙論に引用されたる品類足論について,坂本幸男,Yukio SAKAMOTO,pp.58-75.
6,
十地経の序註について,月輪賢隆,Kenryū TSUKINOWA,pp.76-84.
7,
役行者,村上俊雄,Toshio MURAKAMI,pp.85-99.
8,
獅子造像について(続),厭勝と護法,鈴木治,Osamu SUZUKI,pp.100-111.
9,
ドイツ宗教社会学の発展(上),小口偉一,Iichi OGUCHI,pp.112-124.
10,
大塚節治氏著『基督教倫理学序説』,佐野勝也,Katsuya SANO,pp.125-127.
11,
金蔵に関する第二報告,蒋唯心氏の研究,桜部文鏡,Bunkyō SAKURABE,pp.128-138.
12,
ハース先生の訃をいたむ,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.139-142.
13,
神に関する一つの論争,棚瀬日出麿,Hidemaro TANASE,pp.143-144.
14,
新刊紹介,pp.145-155.
Posted in 1935
(昭和10)年
一一﹁
朝鮮巫俗の新枕︵凍前︶
赤 松 智
城 ︵四︶ 水神。上記の山神と相対して、河川や海水、湖水や非泉等の水神の主化にあるものは、支那倖来の龍神 又は龍王である。然もそれにはかの東海西海絹拇北海の主としての桝謂囲掃龍王む始めとして、その王妃として ?龍夫人、その女としての龍宮阿只氏︵能女︶や、龍宮の軍隊の統領としての龍将軍、その大甘としての靴官大⊥小グ
監や鶴首大紳、また龍宮の群臣の死還としての龍宮胡鬼などの一統がある。此等の水神は普通には龍神堂又は龍 宮堂に奉祀されてゐるが、必ずしも一定の堂守はなくとも、或る河流渕悔む龍帥の任虞と信じ、共虞でこれを奉 賽することもあつて、例へば鮮内の朗々にある龍渾又は龍淵の地名などはか1る龍神の空所である。而して他の 民俗にも見られるやうに朝鮮に於いても、この水和としての龍紳は放火所柄のために祭られるが、特にまた河畔 ヨシ や海岸地方では、これに漁独の幸を祈り、几つ靴舶と航路の安全を朗ふことが多く、か1る巫祭は地方に伐て龍 シンク ︵l︶ ヨンクヨ、/グンマヂ 榊賽紳︵或は現に龍雄紳︶龍宮迎、龍王所蒔︵或は脚単に龍王︶たどゝ呼ばれ、それはヰ亮不幸なる水死者の慰墓 ︳ のためにも、水遼や船中で執行されてゐる。現今苑堂に奉安されてゐる多ぐの統帥傑は、端麗な一人格納が大龍 に跨ってゐる形相に措かれ、それは恰も前記の山紳が同様に人格神僅ではあるが、虎に乗ってゐるのと好一封で あつて、水神と山神とが故に謂はば配虎の封照をなしつつ、然もそれが屡々同一の草堂内に合祀されてゐるのも、 朝鮮砿俗の刷統 甘が亦一奇観である。 次に輿水、還元、紳井又は供物としての浄水など一般に聖浄なる水に封する信仰が朝鮮にも靡く行はれてゐる のは周知の事葦であつて、夫等の中にもまた龍神︵或は累蛇︶が任してゐるといふ傍詮とH念とが甚だ多く、硯 に龍非と呼ばれる名栴も所々にある。近く京城府内でも三清洞の丘腹にある星祭泉は本来はかの七崖を祭る神泉 であるが、その泉水には龍神が居て、産婦の乳に異状がある時にはこれに折ると云はれ、また路山葵水茎の一巫 堂日月堂の傍にある葬水では、正月十四日に龍宮迎を行ふ巫俗がある。しかし水神は必すしもこの龍神の一統の ● ムルハ八モニムルハラボヂ みではなくして、薬水や重来にはまた別に水租母と水父父と呼ばれる面相の水貢が任してゐるとも云はれ、例へ ︵2︶ ば京城府外梯饗場の水王耐の如きそれであるが、絶じてか1る聖渾た水の信仰は或る特定の水が所謂﹁生命の水﹂ ︵Lebenswasser︶若くは﹁生命の飲物﹂ ︵L2benstrank︶ としての威力又は呪力を有するとの信念に基き、従っ て上記の水菜も龍耐も賓はこの水の威力の粕憲化進んでは人格神化に外ならぬことは、故に詳説するまでもなく 他の代休の類例に於いても同様に見出される桝である。然るに水にはかくの如く生命を輿へこれむ促進して浮隔 をもたらす一面の力用と共に、他所にはまたこれに反して知らるる如く或る水には却て生命を亡ぼし或は水桐を もたらす威力もあつて、従って所謂﹁死の水﹂︵Tedeswasser︶ の観念も起ってゐる。それで朝鮮に於いてもか かる水の厄椰は或はかの龍紳の怒りとして、又は水車に潜む珊鬼即ら水鬼︵溺死者の亡韮とも川心はれてゐる︶の 研〓といザられ、かくて此等ふ牢宥和せんがためにも亦た爬和が吊はれてゐる。殊にその死の水と殆ど文†通りに スサル 平行するもむには水投の信念があつて、これは本爽は水の凶威を意味し、次いで水の悪霊︵霊感骨且t︶恕壷ふの 朝鮮巫俗の挿統 卯好
であるがlその水厄を紡ぐ光めにはl腰職郵と耕する↓種の紳竿を部落q∼嘆疇華Ⅶ≠冊冊ぞ掛率盛珊朴な*剃嘩水 珊 鳥の形をつけてゐるものもあり、或はこの水鳥むその境の壁掛の抜上に打ちつけてゐる囲もある。託しこの野趣 に富んだ水鳥は即ち水殺の厄除の象徴であつて、現に民間の信仰に於いてはそれは巌にタブーとされてゐるので ある。 椅ほ性の水と死の水との仁念は或る民俗に於いては往々交錯し或は一虞に並立し又は封立して、故に水の威力 ︵3︶ 観念の両面恵くほ輌稀代を示してゐるやうに、上述せる龍神の如きも主としては半袖であるが、それが怒った時 には悪紳ともなつて危宰を輿へることがあり、また現寮に生命の水である薬水の紳霞も、一定の埜忌を守らすし ︵4︶ てこれに近けば、却てその忌諒に解れて直ちにその神罰を蒙ると信ぜられ、立に生の水は忽ち特じて死の水とも たる。水設の如きもまた憩室ではあるが、一部落が戒惜してこれを奉賽すれば、不時の‖水や洪水の厄難を免れ ることができるから、その除災はやがて招隔となつて来る。かくの如く総じて一の甜菜に多少の程度を異にする も両面の性能があることは、勿論水神には限らすして、他の紳買に於いても同様であり、またかの生と死若くは 菩と態との相反する紳憂が互に封立しながら然も並存して、例へばさきの龍神と水鬼との如く、両者が全く同一 の水中に任することもあり、或はまた聖揮な葬水の重と不浄な水没とが一部落内に仰祀されてゐることなどもあ ● って、か1る事例は固より他の場合にも多く見出されるが、故には唯だ朝鮮の水面に就いて少しくこれを例示し たに過ぎないのである。 ︵五し 石柵。須石類に封する朝鮒民間の元俗的信仰も他の民俗に於けると〓じく、怖々これを次の三軒に分けて 朝鮮巫俗の刷錠
朝鮮巫俗の紳統 四 見ることができると思ふ。即ち一は或る岩石自膿が神聖視されてゐる最も原本的な場合であつて、これは全く本 ハイソゲ●スタイン 釆の意味に於いての聖石墨岩であるが、二はそれから特じて或る人格的な紳重の任鹿又は象徴として特定の岩石 を認める事例であつて、云ふまでもなくかゝる石は所謂御紳醍であり神石である。三はこれと閲聯してぎた或る 石は何等かの紳墓若くは曳研に接解し附屠してゐるから、併せてこれをも聖化して聖石と見倣してゐる場合であ る。更にまたかゝる特異な岩石はその形態特性等に伐ても種々に分類されるのであつて、例へばその石の大小や ヒーブ●オブ●ストーシズ モーリス 単複︵革石か或は石雉乱ち輿石か︶、又は自然石か加工石か、或はそれが聖渾の石か不浄の石であるかなどに依て も置別されるであらう。それで今故には暫らく此等の分目に従って、夫々の代表的な例符を下に列馨して見よう。 第一に或る岩石自照を神聖視してこれを崇敬するものには、兜づ立岩や豆石と油稲される一類があつて、それ は概して宜岩であり文字通りに突先として立ってゐる仰単石か或は一封の所謂大姉岩であることもある。素城の仁 王山腹にある有名な立岩は賓に最も血ハ型的な夫婦岩であつて、見を東宮れない婦人や或は自分の生見がその貫岩 の如く堅茸安全に且つ長詩ならんことを朗ふ者が、陸続としてこの立i完ハ者に多弁し研蒔してゐる。尤もこの求 子の所願はか1る夫婦岩には限らす、箪石にも亦行はれ、同じく京城郊外付り・有里の付岩の如きは著名であるが、 しかしこれは宜岩ではあるけれども立岩では克くして、寧ろ纏状の謂はば伏岩である。佃ほ後述する如くこの所 願は他の石神や石俳に向つても現に健に行はれてゐて、〓様m獅側は︺い山た仙〃民俗の小にも在れする。さて次に .︰ソ は前の大小には拘らすその形状から見て、所謂奇根性前の獅にも敷石があつて、就中甚だ怪異なるは男根石と女 バウ 陰石如ち触解し七陰脇石止も呼ぶべ食ものが朝鮮忙鴇亦少放くないと法で偽る。政虹は患肝軸七池ぺ称ないけ ㈱
れども勿論これ粗野しても主として米子の抑傾と行事とが行はれてゐふ。今上記の署石は何れも自然石であつて 甜 ハU また夫婦岩と女捨石の戎者とむ除けばそれは竹耶れでれろが、更に佃腔人工に情りチ\り.小γ上れ㌫∵梢ばて㌧れ た特殊の石雅文は累石が別にあつて、それが景敬の封象及び場所とされてゐる事例も甚だ多い。かの城捏堂の森 々たる輿石はその一代表であるが、しかしこれが城陪紳の任所としてか又はこれに附址してゐるから聖化されて ゐる場合は斬らくこれを後段に譲って、若しも今朝俳の城陛は本木は特に村里の境域む結界する意義をもつてゐ た㌧のとすれば、その頃石は茸は元は集積せる界石又は界標︵b。undary・旨nes。ニandmarks︶として紳教組 されたのではなからうか。而して若しこれを是認するならば、それはかの蒙古のオポの架石とHじく、元来は境 界の神聖を標示した結界の石堆であつたのであらうと思ふ。しかし或る村里にあ牟累石の聖研止血にこれのみに タブチヨサン は止まらすして、その外にも地方に依り軽々の構造と異名とを以て呼ばれてゐるものがあつて、例へば堵、浮山 ′サ′︼一 路祀土などゝ栴せられる特殊の石堆白醍が夫々の村里に於いて崇敬され、洞祭を行ふ柴研となつてゐるが、これ ︵5︶ は正に所謂﹁柑の石﹂︵くiuage・StOneS︶に外ならない。終りに特殊の鍍石として或る結‖m石や薬石 ︵Curing・ stOne︶ が主として治療のために尊崇されてゐる事例がまた朝鮮にもあつて、前記梯埜順の﹁山廿﹂の如きは最 も有名であるが、それは一種の結晶石であつて、現にそのまゝ納車として服川されてゐる。 第二には或る紳藁の任腱若くは象徴として、謂はば御紳鰻となつてゐる帥岩には、石城睦︵又は城陪石︶、山神 岩、洞紳岩など、夫々紳名を以て呼ばれてゐるものと、特にまた沸教的なるものには別に種々の石仰があつて、 それには摘勒の石像や仰岩が多い。城睦の累石は前述せる如く元は界石であつたとしても、一たび叛担納付が支 朝鮪巫俗の刷統 ヨ工
棚直打
六 郷から移入されてそれと習︿‖さる1や、その累石はかの城捏木と北ハに円ら城捏柵の任所ともなり、戎はその紳堂 に附属じて聖石地ともなつてゐる。またこの城捏と略々同様の形態と性質とをもつてゐる眈逃せる北鮮地方の固 ク.ノナントル 師堂にも石堆があり、南鮮地方の或る堂山にも堂山石と糾せられる敷石があろ。伺ほ所謂摘勒の石傑︵石弼勤と ︵6︶ も云ふ︶や彿㍍石俳に向つても、求子の所願が庭言行はれ、殊にその弼勒には男性と女性とを分けて奉祀してゐ ︵7︶ る研ごへあつて、踊勒は致では全く一種の性紳となり生殖紳ともなつてゐるのは願る奇怪であるが、しかし此等 は勿論本来の陰陽石に後に至つて裳まゝに弼勒や諸仰の名を血ハへて、多少これに人工を加へ彫刻むも試みたもの に外な、hない。更にまたこの外にも精巧な彫刻を施した石俳石神や石塔などが随虞に崇敬されてゐることは云ふ までもない。而して上乗列馨した種々の聖石や石神俳は固より皆緊浮な石であるが、唯だ上記の図師堂の石の申 に、私の賓見した研では、不浄な所謂艶械の黒石があつたことは注意に帖すると思ふ。それは成北吉川邑外里飲 の河畔にあるトルモロパウイ国師と稲せられる右堆の聖研にあるものであつて、この図師には鼎封立してゐる二 ●ク・一 仰の堂があるが、左方のものほ清浄な〓石を封象としてゐるに反して、右方のものには柳樹の前に縄を以て縛り つけた黒石を供へ、その上に藁を置いてゐる。託しこの石は巫が呪術的に悪鬼をその中に封じ込み、それが脱出 しないやうに縄でこれを緊縛したものであつて、従ってこの黒石は即ちその悪鬼の任所であり像徴でもあるから 蕨にまたタブー硯されてゐる﹁呪岨の石﹂︵Curse計tOne︶ であつて、それは一方の尖つた日興⋮れでーで心がドポで ︵ボ︶ はない。そこで聖石にもかくの如く亦刷聖の両面性が表はれてゐて、然も上述せる如く聖渾なる石は〓色で透 り、穿稜の石は組色であることは、云ふまでもなく色に監いて明白と幡恕、替と怒.浮と籠上む匿別したのであ 鵜沼−雲
って、この対照は底ちに吾々にかの郎鵬脚と登威一サ御との相連なも想ひ適させるのである。 第三に或ろ紳難文ほ兜川に附属してゐる瞑りに就いて教化ぺ正てゐるれは、本木は川より榊憫でJltJなくハ弄わ 封象でもないから、それを今甜統の中に掲げるのは誓冒はないでもあらうが、しかし前述せる諸榊小葦神山青 直接隷属してゐるから、故に暫らくこれを附記すれば、この類の聖石には先づ祭壇若くは供物噌となつてゐる多 ︵9︶ 少とも加工された石があつて、これにも亦他の民俗に於いて見るやうに、畢石と累石の場合とがある。前者はか り休石や魂遊石の如きものであつて、或る紳堂帥櫻女は墳墓の前たどに置かれて、祭祀や賽紳を行ふ時に、その 上に代物犠牲む突供するのは匪石であり、また特に基前にある魂遊石はその上に死者の魂脱が来遊する桝と仁ぜ られで−ゐる。寺陀の境内にある碓食石も魚紳に食物む供する聖石噂の一種である。次に累石の場合は多く城捏堂 や岡帥堂にあつて、例へば城鰹木の下に堆漬され、その供物埠ともなつてゐるもの1如きそれであるが、この場 合にはその石堆は城陪紳や図師の聖桝を形成する一部分として、その神像や紳鰐共著とは別であるが、しかしそ れに附隠して変化されてゐるものである。即ち放では上述せる如き本来の現石や神石からその紳怖が謂はば分離 ︵10︶ するやうになつて、その石は唯だ供犠を供へる食卓となつたとも云はれるであらう。佃ほその石堆には通行者や 参詣者が新たに小石を置く習俗が贋く行はれてゐるが、これは元は桝謂﹁供物の石﹂︵Opferstein︶であつたのコングエシシヨナヲイズ
が、今は畢に俸 召 化したのであつて、後に笹更に種々の佃誼さへそこに物語られてゐるのである。 経りにかゝる岩石の聖研には冊ほ〓黙の大いなる最猫も附け加へられるであらう。例へば前記砧雅呪ぃ水‡両 ?如きも、その形鹿から軌れば、蜜は一の石研両でもあつて、それはさきの薬水車れかぃ仰と川木箱川罪との結令 朝巫偉再 脚J以上列記した紳統の外にも更に種々の神霊があつて、それには方位榊、守謹紳、人間の望芋死霊、動物紳と
霊獣、木紳と取掛、遊魂と郷鬼、地下の望貰ど数多の部類を拳げ得るが、しかし今その記述は便宜上これを他
の横合に譲りたい。尤もかくの如き難多の神霊や鬼魅の信仰は、勿論唯だ巫硲のみに行はれてゐるのではなくし
て、それは茸は殆ど曹風の朝鮮民関大衆の信する桝であり、且つその帥統には完教壁上から翫れば若干の特徴を
も認めることができるが、それも故には全く署略して置く。
朝鮮逓俗の紳統
入
であり、また上述せる幾多の所子巌にもこの種の重箱に類するものが少なくない。或る洞窟の入口即ち岩戸やそ
の例の草木に種々の術前を懸けてゐるのを屡々見受けるのも、亦タブーされた岩窟を標示してゐるものである。
またこの外にも人エの所謂石耐があつて、それは或る山腹や路傍に石を積み重ねて作った洞堂であーるが、成北鏡
城邑外蛇川谷にある国師堂の多くの石岡や、京城北岳山腹にある石堆の城隠堂の如きはそれであつて、此等は現
に何れも或る家庭の奉祀する嗣堂即ち家耐として、薫祭の行はれる一聖研となつてゐる。
クーマ〃コーサ ︵一︶ 例へば慶北柏項の漁民11F︼に行はれてゐる﹁漁某省拙﹂の第二節は﹁髄王﹂と呼げれ、偶は∵∴∵岬に十㍍∵﹂霊とキ疇 ・りしLから ・、桝と米と一ビ批に包み、水申に㍑tて批エに仇へ絆又を前山するが、その裾文には紬※粧、龍刷結、拙 舶組隼がムろ。 ︵lこ 敏年こ阿三月三日と九月九日とに舷で﹁山骨﹂を求め築水を飲む盛大なる行串がある。また津新曲山地の一首巫霜 廊夕彦︵八︶ この黒石は私が採抜して現布は京城・竹岡大聖民俗品参考草丈ある。
︵九︺ rf.EREこく01.Ⅰ.p∴挙葦RGGこN.Auf−こ1.S.N∽〇.
︵一〇︶ TOy.1ntrOductiOn︵O the H訪tOry Of Re−igiOnS﹀畑.N彗.
︹附記︺ 本砦は帝開封士院の補助に伐る瑚郁雄俗の研究のl部であつて、本誌三・四月米所載拙稿の総括である。 ′ヽ ′■ ̄ヽ ′■ ̄ヽ /’ ̄、 ′1ヽ 七 六 五 押 二二 し′ ) \J ) し‘ 朝鮮瓜俗の相成 徒食の祭る十世の紳條の中には水裳位と稲する男紳もある。 rf.RCG.一tJ.Auflこく.S.−∃Of. 和製降﹁熱水信仰わー河﹂︵い俗聾一の五、三一四某︶参惜。 Cf. EREこく○︻.〓.∽リN. 村山椚順﹁朝粧の鬼柵﹂ 二四七貫以下参M⋮。 臍洲烏山地の郊外に東西に刑射して捕物の右傾かあるが、先方は女爛勒であつて一種の女陰石であり、四方は男摘 靭であって明かに男根石であり、それにも大小がある。前者は男子の参詣すべきものであるけれども賓客は殆どな く、これに反して後鶉には軒人の謂するものが多い。この弼勒像の腹加に結ばれてゐる紙を渦動楷と云ひ、それは プッチエ 所子 のために拡が附けた.ものであるが、小さい珊瑚化は特に桃子と呼ばれ、軒人の郎者はこれを跨いで、束子のた めに寄怪なる共感的模倣的呪術行篤を行ふてゐる。 九 βタき
−預言者の時代性 凡そ人間の中でも完教史上に視るる所謂頂言斉左るもの程性格に於ける猫自性の色調の強烈で個性の敬遠した 者の妙いことは云ふまでもなからう。然し一面より之れを見れば被等とても畢克は時代の見であ少、背景たる時 代との閲聯を考へすしては、彼等の性格思想言動の何れをも充分に理僻するを得たい事も亦事賓である。否それ が預言者であればある丈け、そり、時代との椚紬恍は他の何人に於けるよりも至大であり緊密であるのであつて、 預言者む粘性づける最も切要なる要素の随一は賓に此の瓢にたければならない。カール・マルティは其の著﹃蕾 約狸帯の︵一九数﹄に於いて預言者を定義し、 預﹁==者とけ北ハの事業が仰の伴一本に根ざし、其の〓的が洒の力わ確昔に在り、其のF投が紳淀むハ圧∴==するに在る 人の謂である と畢者夙に失しく教えたが、然しその知有村融合し、載も附黙するととろなきかに見ゆる限定にも拘らず・時代 触 h、刷〃オ性卜に低かれたる預言押勤の地下潜行に就いて
反動の暴座下に置かれたろ
預言遅動の地下潜行に就いて
松 井 了 穏
一〇と預言者との必然的な連絡網係、即ち構翻的辞令的政治的非常危局が侶仰に燃ゆる特記偶人の異常に俄感な忍神
経を甚だしく刑賎し、被れをして〓い∵一〓念理想に基斗∴〓L▼︰生命小机に於い∵、芦∴時代性チ了▼〃址曾監県 っ向より批判すろに終始するの人たらしJげるといふ、関北両様の意味に於ける時代との相関関係の典昭的事既を共の中から紬象してゐること、少くとも此の意兼を其の中に色潰く浮ヰ血ぎしめてをらないことは大きな紋陥で
ある。預言者は他り何ものであるよりも先づ歴む的仰性である。時代に刺摸せられ、時代によつて感情⋮興起せし
められ、時代を誓壮批判することに不惜身命の全景的活動を集中することに於いて六大たる歴史的役割を潰する
色彩損黒丸圧勝史的佃性である。歴史が破れをつくり被れ叉歴史をつくる。理に於いては天下何物も此の例に洩る
ろものはないとも云へるが、然し此の詞に毅もよく適合するものは英雄と撃一日者でなければならぬ。しかも罷な
る≠俗の英雄と精神的な預言者との相違は、前者が時代批判と理想の提示に於いては何の因縁ゆかりもたきに反
し、後者は正しくそのことをこそその唯一埜一の使命とし存在理由とする人たる瓢に在る。預言者は宗教的信念
に燃え盛るところの、しかも時代に封して極度に敏感なる魂が、正にそれがためにその絶対的な信念の力に使役
駆使せられて、時代む徹底的に批判し、批判することにょつて復人類永遠の眞理に奉仕し、歴史的仰性と歴史的
使命を通じて其の彼方なる永遠なるものを開示額彰した人に外ならないのである。
l弐上の平俗な立言の安蕾性は今揖雪新しく多くの具醍的事例の撃不にょつて例許する必要もない明かな革賞で あつて、且て論述した如く︵本誌新一〇ノ二︶、イスラエルに現れた最古の撃一=者運動、此の粗野にして狂嘆憶 昧なる、持場骨柄人の名さへ侍へられてをらない、尤伶甥的な墾■=骨運動に於いてすら名取することが出乗る。 反拙∵∵堅陣∵∴に乱かれたチ預言叩嘲ハ柚卜声〓﹁凡∵し 卵慮反動の菜揮与た静かれたる預言遅廟の地下準〃に就いて
一二
以下文献的倫理時代の預言者、アモス、ホゼア、イザヤ、ミカ等、第八せ紀の諸代表者にしても、始源湖ペリシ
テ人の雛に比すべき外患こそなけれ、ヱロボアム二世時代が野した幾たびもの戟捷と、其の結果たる国富の未曾
有なる増進及びその偏在、貧富の隔絶、祀昏々級の教生と社食悪の醍醸等々々の外的原因の理解たくしては彼等
の使命並びに活動の内容意義を掴むことが出来ないだらう。のみならす社食的政治的乃至間際的等、くさぐさの
諸関係を含む外面的情勢の感化は、替り据望一口常襲川興起の積極的原因として働く計りでなく、同時に又その中断
碑滅の河極的原動力の有力なる一因チとしても作川すること亦舜ひなきところであつて、紀元前十一世紀、イス
ラエル立君の前後を劃して爾来綿々絡麻紀、流れ鳩きせぬ滑河のそれにも似て、連続無窮に堰縄畿展した預言者
の運動が、何故に時として勢を線殺せられ、或は比較的良きに亘って中断するに至ったかの事由は、これを少く
も常該時代の一般的外的寄附の中に穿婁の迂を尋ぬ求むるのでなければ充分たるを得ないであらう。例へば第八
せ紀の中年前後に於いては廿ケ年にも満たぬ短日月の問に、史粟に赫々たる盛名を遺した幾多の優れ牢預言者が
筍生綬目したに拘らず、イザヤ及びミカの清躍を最後として、何故突如として、第七1−世紀の頭初以来七八十年の 久しきに亘つて滞滅し去ったか、而して該≠紀の後年中期を劃して、旦て一存び完全なる沈款に陥つた預▲一・=常の 叫びが、何故再び、猫り一二輩の口舌を通じてのみたらす、賓に八1−ヒ紀の成遺にも敢て劣らぎろ多故の偉大なる人々によつて混褐せらるるに至ったかの串情は、素より罷に偶然の常葦と認むべきではなくして、暗里蒔代の汚
名む正常に情する専燕暴虐たる政穐に終始した沼≠数十隼に及ぶマナセ、及びこれた踏製横川したそのチアキン
常時の時代恥柿、並に此の画王の1世路七計ろげてヨシアの時代となるに及び、先王原動時代の救治が如何に努め 脚られ一成咄東めら恕肴町雌努怒頭四uづづ=訝づ1池離≠直感鴨殉職働蘭噂溺劉仙川劇閻制覇 凋・冊嘲 言者の幣策を喚起刺棟する何等か特異の危横を住みつ?あつたのでたかつたか等、種々の外面的強面に説明の根 掠を求むることにょつて初抄てよく其の尾田を明かにすることが旧来るのである。 私は故にこれらの一般的問題を汎論することを控えて、マナセ、アモンの時代に限り、何故預言者の運動が一 時長く地上より影を答めたかの原因恕尋求すると共に、第七世紀後年中期の預言運動が、如何に常時の封外囲係 にょつて強く刺戟せられ促進せられて再起するに至ったかの事情、並びにこれに封する預言者の態度封策は如何 たる内容いむのであつたかの問題をば、現に一二の純正撃一日者のそれについて尋ねて見たいと思ふ。素より第七 ≠紀末期に於いては、これらの純正預言者の外にも、魯文献的預言者として聖典中にその預言を保有せられなが ら、しかもその内容に於いては、これと相封航する民衆阿俗の預言者として、石橋博士によりその位置を立話確 足せられたところの、ナフーム、ハバクックの如きがあり、︵﹃背約全書解題﹄附鋒琴一、=﹃史学雑誌﹄大正九 年三月競、﹃イスラエルハ小数文化上のメシア思想の攣遷﹄第四編第二部︶、此等の預言者の預言は、純正警固の反 民衆預言者、殊に直接ヱレミヤの如き、常時の反封派に封する反慣抗寧の意味む有す︵同上請書︶坤るが故に、間 接に外難の影轡として解絆し得ると共に、叉虹接的にも、封外一時の形勢事情が彼等の確信を某付けたと解樺し 得る節撫きに非るも、此等両者の歴史的地位は、故に述べんとする純正預言者達の如く外離それ白身の直接の刺 輯によるものとしてよりは、外患促迫の恐怖等に催喜一れて亡国障都の畏催すべき預言を侍燈相承し来った正統適 への反動として、漸く意義づけFJれ得るも〃に過ぎないか、h一、日盲くこれを故に取扱ふ課題山範園外に敬遠して ● 圧制い笹峠下に僅かれたる預言滞如い地†推力に北いて
こ マナセ、アモンの暗黒時代に於ける預言者の沈款 既に述べた如く、紀元前第八世紀のイスラエルは琴富者の最も輝かしい黄金峠代であつて、従来の墓園的であ った預言運動が純粋に個人化せられ、或はその大部分が光法的卜占巫術的性質を帯びて殆んど先倫理的段階に止 るもの多かつたものが完全に倫理化せられ、精神化せられたのは全く此の時代に始ること多言む要しない。しか してその初めは、アセスとべテルの祭司アマジャとの問答艇酬︵﹃アキス書﹄七二〇1一七︶に暴露せられて ゐる通少、運動は、時運と世相の非なるむ痛感した純情篤信にして餓火の如き怖熱を懐ける偶人が、古来の葉蘭 的若くは陣業酌預言ゐ倖統雰同気とは全く紺係なく、自ら鷹倒的威力む以て迫り来る納言を衷に感得し、紀封的 尤紳の辟示を身親しく感受することにょつて、全く突蟹的に猫り立ちして開始した純乎たる個人的運動吃外なら なかつたのである。然るに此の新しり創始的な運動も廿年朴年と相続後屁せらるる問には、その内容と精神に於 いて更に一骨進化向上を示しっつも、なほ漸く組織化せられ俸統化せらるる勢を示したのであつて、7モス、ホ ゼヤに於ては、彼等自らの外に、これに随喜しこれを支へその精神と主張む侍政経持して後代に流通せんとする 一人の周ぶも一人の輿賞も無く、叉彼等巨11らも放てこれた求めんともしなかったにも拘左す、イザヤに空っては その偉大なる精細的迫力は、おのづから被れい周囲にこれむ随韮︰洞仰する従を吸引するわ感化力となつて現れ. 彼れも亦此の牡を壇己の論争として、既に早ぺより琉確約に恕品軍訓l練して之の渠虹多大の裟みむ喝したものの ● 反動の重鷹下に筒かれたる預言運動の地下潜行に就いて 置いて支障ないと考へるのである。 仰さ
如くであ一句り即ち童木ザ水音﹄八・⊥⊥ハ阻 ●■●● 誇詞をつかね扶雑をわが弗ナのうちに対バ一一べし といひ、続いて いま面をおほひてヤコブの家をかへりみ給はすといへども、我そのヱホバを待ち、そのヱホバを望みまつら ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ん。硯よ、われとヱホバが我にたまひたるナ発とはイスラエルのうちの預兆なり、奇しき標なり。此はシオン の山にいます萬軍のヱホバの輿へたまふ桝なり。 と云へるものい正しくこのことを推知せしむるものでなければたらぬ。ロバートソン・スミスは此の一文及び事 案の意義を最も重税し力説高調した単利の人で、其の著﹃イスラ ﹁此の小かな共同鰹の形成は宗教史上、一ケの新しい出来事であつて、此の時まで未だ何人も、凡ゆる国民的形 願より分離せられ、儀腔の共同途行によらず、唯紳の言草に封する信仰によつてのみ結ばれた同信の朋の囲慣を 夢想した者はなかつた。誠にそれは維=約完教に封する一ケの新しき時代の誕生を告ぐるものであり、致命観念の 膚初の教生を示す望芸あらた。それは精神的宗教が政治的生活の形態より解放せらるる第一歩であつた﹂と道 破してゐるが、預言者ミカの如きも、通例、スミスの所謂紳の言に封する信仰によってイザヤと結ばれた同信の 朋の一人で奉り、イザヤによって青春された弟子の随一に外ならないものの如く想像せられて為る。事茸側是く で思つ、たせサれば、・イザヤの此の努力と感化によつて、純正な宗教倫理化運動としての聖口者の活動は、イザヤ の後に於いて益々急速に畿達し弼々盛んに伸張し行くべき管であるのに、イザヤとミカとの其の行方知らぬ煎親 反動の韮陛下に置かれたる頂言邦扁㌫地下野付に就いて 肋
反動の津幡下に肯かれたろ瀬音運動の地下僻村に就いて 一六 の後に咋忽ちにして︹■姦㈹散掩彗の溶け果てたるが如く、久しきに亘つて誰一人として師の精神を代表し、或は ナモス良木の侍統を奉じて、精神的宗教を骨張し、預言者の使命を発途せんとする者のなかつたのは甚だ奇怪な 市賓でなければならぬ。殊にイザヤの生涯の終末がその中に在ったでもあらうところの王マナセの時代は、一皮 び初期の倫理的純正預言者の奮闘によつて、少くとも民族的には、ヤーウェー一紳を奉じて他紳を顧みざること がイスラエル民族に取っての唯一の正しき途なることが確認せられ、叉これら預言者の感化の下に多少共立った ところの先代ヒゼキヤ王が、ヱルサレム神殿の異数的たアシラ像や民の尊信厚き偶像を破壊し宗儀の改革に先梗 をつけた︵﹃列王妃﹄下一八・四−五︶直後であるにも拘らず、反動大いに至って世は再び混沌たる異教的崇拝 横溢盛行の時代へと逆縛し、王自らの宗儀的嗜好は、革に預言者の如く、辟粛な聖にして正なる紳に紀封踪命す る反儀撒的た精神的信仰によつては到底満足せらるべくもなく、異教的な或は年異教的な宗儀の豪華複雑に心牽 かれて、再び盛んに﹁バアルのために祭壇を築き、アシラ像を作り、且つ天の衆群を井みてこれに事へ﹂、﹁その 作りしアシラの銅像を殿立て﹂、﹁エホバの家の巾に数箇の祭埠を築き﹂、その﹁二つの庭に祭壇を築き﹂て小鬼犠 牲をすら復活し、王子を火中に投じた計りでたく、占卜魔術の類を好み、口寄せ卜笠師の類を甚だ厚遇した︵﹃列 王妃﹄下二一・三−七、﹃歴代志﹄三三・三1七︶と正史に記し侍へらるる時代を現出したのであるから、殊に 王府や槽力符を痛撃批判する猪突的勇菊を、最古の時代よりの蒋も特徴的な悼締約精神として赫つキ常とした現 言者にとづては、加是き時代こ圭托に其の錐錐む現して獅ナ奮陣縦横目れに活躍すべき温も時む紹たる好借の時 代でなければたらぬ。然るを警Ei者の寮化此較的最も伸びて、其の輿裳を生じ﹂顎骨者のギルーをすら軽み特つ 伽
に至つたであらうと侶せら料乱此の時代V此の潮音骨相革新にとつで鹿も意魂あ、町†懲秒漁連砂蹄躍こそ鹿部欄 冊 ヽ 待うるべ普此の時≠に、薔綺寂とし∴華中潜め、一人い㍑止づて王か政鞘と≠態ハ堕落を痛打反正せしめんとする 者の出でなかつたのは最も不思議な現象といふべきであらう。これは単に迷信横行、≠違非にして、王自ら此の 迷仁迷行を奨励助長したといふが如き、平穏安易なる事賓に撤由するのではなくて、何等か他に一骨積極的なる 重大原因のあるあつて然るのでなければ到底理解山木ない謎であ匂に相違ない。 由来マナセの時代は暗黒時代と酒精せられる時代である丈けに、その治績は、以上列記した完儀に関する被れ ハ熊鹿方策の外に殆んど侍ふるものがない。唯何れにしても此の王は比頸妙き横虐無道な専制の暴君であり、恵 執政粛でユれつたことに聞達ひなく、青史も王の功即を概折許にして、 マナセはヱホバの目の前に悪をおこなひてユダに罪を犯させたる上に、また無事者の血を多く流してヱルサレ ムのこの極よりかの極にまで盈せり︵﹃列王妃﹄二一二六︶ と記せる程である。故に罪無き者の血を以て固都を充すとは、恐らく唯完儀としての小鬼犠牲の事茸をのみ指す のではなくて、更に一骨重大にして残虐な鷹制行焉の史寅を含蓄反映せるものであらう。 一醍マナセは倦誼の上では苗木、預言者の徒裳を迫害し殺致した王と侍へられてゐる。イザヤの如きも、ミシ ュナは記してマナセの禿めに殺害せられたと倍へてゐる︵yebam。th告b︶。けれども正史の桝侍では、三口 軋此い事茸に眞正面より解れたものはない。比較的最も時代の接近し努ものとしては、ヱレミヤの初年の..二義 に、 玩甜∴∵丹峠下にm机かれたる頂∵渾酬い柚.﹁植わ﹁就いて
一入 反動㌫重峠下に置かれたろ瀕言運動の地下潜行に就いて ユダよ、汝の紳は汝の邑の数に同じ︰⋮汝等の創は猛き獅子の如く汝等の預言者を滅せ少︵二・二八後年−三 〇︶ とあるのが、正しく此のマナセ時代の殺教を指す批判の詞せして推定せらるるも防があるだけである。事茸ヱレ ミヤの右の個所は、マナセ、アモンの反動時代に最も相厳しき宗教界の賞状を封象とせるものの如く想像せらる る計りでなく、又イスラエル・ユダの歴史の上では、申命記法の桝謂﹁惰りの預言者﹂は格別として︵﹃申命記﹄ 一八・二〇︶、ヤーウニーの正統琴富者が、しかも集圃的一掃的に弾麒直られ殺致せられるが如き事茸は、他に桝 倦もなく、叉考へられもしないところでもあるから、ヱレミヤの言が、道徳的な強い比喩的表現ではなくして、 何等か眈成の史茸む指摘し非難せるものとすれば、そは他の如何たる時代の事賞であるよりも、マナセ時代の反 動虐政の生み即した悲劇と見撤すのが最も眞に近い見方であらう。それは兎も角として、これらの諸の理由や諸 侍誰其の他の文誇を併せ拗ふれば、その一つ一つは置場には比較的薄弱な詳接をしか値しないにしても、それら を絶て綜合した全牌の上では可なり有力なものに特化し、マナセ時代に取られ芦預言者の徹底的澤願は殆んど否 定し得ない事茸の如く考へられるのであり、従来・の撃者の見解に於いても亦之れを疑ふ者殆んど絶無なるに近い 状態であるのは誠に由れある事柄であると云はなければたらたい。時代の反理 些一なる活舞茎とすべき琴富者、しかも鴬政審推力肯或は俗衆の少々ハ︰迫嘗弼嘩︼]、何等彼等燭往巴県境た押ぐ に足りL十、追富加って共〃気力わハサ倍加するた常とする預.■:=者、如是き性質を持った預言者の敷と勢力とが、イ ザヤを中心としてl骨相加躍進tた︷僻する外なき此の時代転、イザヤの受難は且らや槽骨﹂倦詮の備ふるがや 冊
うた預言者徒旅の打倒暴投の如ヰ一大叩明大迫宰がなくぼ、彼等は断じてその矛モ収め〓敵組して沌激するもので 1鋸 7 はないのである。 マナセの斯様な宗教政策は、先王、ヒゼキヤの完儀改革の試みに対する反動として、これを嫌悲し呪岨し或は共 靡に不利益を感する反封的勢力の接頭結成と、其の若衆陰謀の成功を意味すると共に、文王の宗教的認識と其の 性格嗜好及び信仰が、自ら此の反封勢力の支持若くは使喉と合硯一致しての結果でもあらうが、叉一つには常時 の国際情勢、殊にユダの封アッシリア関係に感化刺戟せられた飴俵なき現象とも考へられるのであつて、バール ヤアシュラの崇拝はカナーン侵入以来の苗俗習信の復興なること疑ひなきも、﹃列王妃﹄等の所謂﹁天の衆群﹂の 崇拝は明かにバビロニア、アッシリアの完俵の移植であり、﹃宿代志﹄が此の崇拝儀漕がヱルサレムの神殿境内に 杵試せられた祭壇に於いて行はれたことを記してゐる︵下三三・五︶のは恐らく﹃列王妃﹄の記載に軟けたると ヽヽヽ︳■ ころを事茸む以て祁正したものであるに違ひない。 抑ユダの圃は、先王ヒゼキアの末年に襲ひ来ったアッシサアの大王センナケリブ︵七〇五−六八一︶の西征に よつて重大な致命的打撃を受けた。大王の軍は七〇二年バビ。ニアを打ってメ。ダック・バラダンの軍を放り、 敵勢は吏貯西に伸びて、翌年シドン、アシケロンを初めとするフエ.ニキア、ペリシテ、パレスティナ地方の諸小 邦は破竹の勢を以て進照し来る大王の軍の前に悉く征服操潤せられ、ユダの閥亦其の領土と諸邑の大牛を荒掠せ られて、国都ヱルサレムも亦重岡に陥り、これが陥落は単に時口の問題にして、国家王都は正に風前の燈なるか に見えたのであつた。然るに、さしもに危よ存亡む井=げ㍗此のユダ及びヱルサレムい一躍命も∵異に偶然示可思議 夜勤の笹岬卜に擢かルたる頂∴詳勅の抽卜汀右に放いて
ニ0・ 反動の市郎下に置か.㌣−′ろ斬言運動の地下滞けに就いて たる犬砧によつて危く破滅の悲劇より救はるることが出来た。その原因は種々に臆測されてゐるが、兎に角、大 王の重岡は、何等かの理由によつて突如として解かれ、アッシリア軍は忽ちにして悉く本国に向つて引き上げて 仕舞ったのである。かくの如くにして、滅亡の一歩手前迄追ひつめられつつも、不同直読に、自力ならぬ偶然の他 力によつて一拳に好輯快復したユダの開運ではあつたが、併しそれが薦のに蒙り受けたユダの傷痍は仲々に深く、 到底再び完全に治癒さるべき横あるべしとも見えぬ大いたるものであつた。アッシワァ軍の勢威の凄じき、ユダ の国土は殆んど靡墟と攣するまでに踏み荒され、王は放る重里見税む之れに納れなければならなかつた。此の状 態は六九五・六年の頃、ヒゼキヤに次いでユダに君臨するに至った、治世五十徐年の長きに及ぶマナそ王の時代 にも、其の依存摸した。元来此の常時のアッシリアは其の輝かしい覇樵の歴史中に於いても、潜も輝かしい極盛 期に際合してゐたのであつて、センナケリブの嗣、アサルハッドン︵六八一1六六八︶は、前後三回迄エジプト を遠征して西方諸邦を悉く切り従へ、そのチアッシュルバニ。ハル︵六六八−六二六︶も亦、三度び填及侵略む敢 行し、その第二同日のそれ︵六六三或■竺ハ六一︶に於いては、その首轡アーべをすら陥るる程の大勝を博するこ とが出奔たのであつた。マナセがこれらの諮王に臣従の祀を取り、多大の貢を納れなければたらなかつたことは、 聖巷にけ何等俸ふるところ無いけれども、却ってアッシリアの記録には匿然と媒されてゐる︵Schrader−Die
Ke已nschriftelJ und dasA−te Testaヨent︸SS.∽泣−・∽賀︶ので、シヤール・ジ7ンの物した﹃耶鮮基常以前
ハ聖班‖わ還境﹄に堺げてゐろアッシュルバニパル王の囲憶測丈の綱諸に徹しても、√大王は攻及遠征のことを記し
た後に
紳7ッシェルと女御イシュタルは、填及及びエチオビヤへの脱が邁啓畝導き絶へ町d騰が嘩祇頑迷速虻放いで・雌 ︼7一
服に隷属する什へ人なる、清掃、溢中、及び陣土の≠二わ諦‡は、その軍き鳥納た献に賛し、舵の納足に接吻
せり
と誇栴しながら、廿二王の名を列饗した中、其の第二に、ヤウヅ︵laudu︶の王ミンセ ︵mins巴▼なるものを奉 げてゐる︵C官r12S・﹃・Jean、Lemi−i211bib︼iqu2aくantI紛us・C巨st、く○︼.戸pp.∽○00ー∽Oe が、これぞ正しくユダ〃我がマナセ王に外たらないのである。
これ左わ記雉から推定するに、ユダがそれへ臣従隷威することを飴依なくされたところの、アッシリアの風俗
や宗儀が軽々としてユダに流れ入つたことは、そのままでも寧ろ自然な勢であるのに、加へて、王の信仰と反動
復古派の好倍や志向にも適合するととろから、益其の勢を近しうするに至つたのであらうととは想像に難くない
事賓である。のみならす此の時代は箪にアッシリアとの関係丈けでは塞きず、攻及やフェニキヤ、キプルス地方
の諸小国との交渉往来繁く、異園の風物の渡来と移柿とは到底これを阻止せんとするも能はぎるせ運に際合して
ゐたのであつた。マナセが、そのチにして被れに次いで王位に登つた太子に封して、嘆及の都テーベ︵ノ・アモ ン︶の偉大なる太陽神の名を取つてアモンと命名したことは、被れの異数崇拝を喜んだ事茸を暗示するものであり、アモン叉、生涯其の名を吏めなかつたといふ事寒は、被れの時代が父王マナセと轍を同じうする依然たる反
動時代の相繚であつたと共に、王の仁仰が何物に繋がれてゐたかを示す顕著な一許でなければた圭扶い= 如是き混沌たるハ▲小数界の託情は反動的勢力に収って廿遠ゝ・議てあつたらうけれども、純11三甲=宵・㌫盛、及び 圧制二∵叩峠下に町田かトたス伸予=叩酬い地†宮′〓に就いT反動の蛋駆下に置かれたる預言運動の柚下潜行に就いて 二二 その感化を受けて衷心縮かにこれがシンパを以て任じた人々にとつては、誠に悲憤憤慨に堪えざる遣る瀬なき時 代であつたに相違ない。預言者ミカ其の人の言葉には非ざるも.﹃ミカ苔﹄の終りには、多くの聾者によつて此の 時代から侍へ残された文献と推定せられてゐるところの、貴重な一握りわ記録が挿入せられてゐる︵六・一−七・ 六。Weごhausen−His−OryOニsra2−andJudOhこ筆∽ら亡害イスラエル宗教文化整丸川仁夫氏諜一望。 倍バ﹂トン﹃イそフエルの宗教﹄、一一六参照︶。その中に種々のおぞましき宗儀の賓践を否定し、最も純粋な 宗教を規定して、 我、ヱホバの前に何をもちゆきて高き紳を押せん。熔祭の物、および菖歳の墳をもてその前にいたるべきか。 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヱホバ数千の牡羊、百流の油を悦びたまはんか。我慾のためにわが長子社殿げんか。我霊魂の罪のために我身 の露見献げんか。人よ、被さきに善事の何たるを汝に普げたり。ヱホバの汝に安めたまふ事は、唯正義を行ひ、 憐憫を愛し、謙遜りて汝の紳とともに歩むことならすや︵六・六−八︶ と主張したのは、即ち常時の預言者的精神が、輿裳を代表して、無限に特落勅願し行く教界の浅間しき姿に封し てなした、意味深長なる批判であゎ自己主張であると共に、又最後に 汝ら伴侶を信する勿れ、朋友む悼むなかれ。汝の懐の申に應める布にむかひても汝の口の戸を守れ。男子は父 を教組しめ、女子は母に背き、姐は他に背かん。人の敵はその家の者なるべし︵七・冗⊥ハ︶ と恐るべき予=キ吐露してゐるのは、‡の虐政圧ハわ極に通して、不義・骨爪・栗切り・密骨わ獅囲に満ち、人に代 ♪U. なく、近しき対と即互に精髄瞥城の心を寸刻も忽がせにするー﹂との川東なかった俊惨極まカなきせ潤む幡落する 押
ものであり、叉以て鱒一−−=者及びその徒が、如何に埴モモの知友によつて裳切られ、肯頚億刑せらるるわ背き君臨 甘 7
を持たねばならなかつたかを暗示するに足るものがあるであらう。
世情凡そ如是くであつたが故に、仮令如何に豪気晃年なる聖一着及びその一味の者ど緋、かかる礎じき碁歴の
荒しには到底正面より抗することが出来す、さればとて、それが預言者的精神と理想の上に立ち、叉その感化影
響の下に香はれた者であればある丈け、≠相のかかる朗動堕落、清新の窺の全く失はれた有様を見ては、到底こ
れを獣組傍観するに忍びす、故に一方法を実刑して地下潜行の戦術に隠れ﹂預言者の心を心して理想の開港を私
案し、示己を後代子孫のせにまつべく、草稿を神殿の壁中に隠屡し置きたるが、後にヨシアの時代に偶然蔑見せ
ちれて図法として採用畿布せられた申命記法そのものであると考へられるのであつて、多くの聾者亦、此の淡典
の書き下された時代を、マナセ或はアモンの反動時代と想定するに一致してゐる。凡そ新棟た二囲の黍気は、固
に自由寛容の博大なる理想や精紳更に無くして、低俗偏狭愚昧野班なる反動の荒しのみ時を得顔に吹き荒み、正
論は悉く弾整せられ、露はたる暴力と、隅劣なる威燃や告訴、並に怪文書の数々のみ徒らに跳梁放屁して、≠は
拳げて無限に陰欝な客気に鎖され、鰊智と不正の暴贋下に推し拉がれて気息奄竺.民に生色たく、智者叉黙して語らぎる何庭かの囲の悲しむべき現状と一味相通する性質がないであらうか。
三 マナセ特向の研侍と其の検討
以上はイスラエルニダの正史の資料と雷望一口著わ文献と近世に至って後見.せられ・た楔形文書の勢竺畏Ⅴむ材料L 巨拙▼︰布陣卜に許⋮かル〃る河東ル一助の地†1什■〓﹂雄いて反動の重殿下に置かれたろ璽告澤勧の地下野付に就いて
二晩
して、マナセ、アモンの∴晰黒斥動時代わ情勢一般と、それが預言者及び預言運動の上に及ぼした教具を概観した
の㌔ぁるが、因みに聖書中比較的後代の史粟であると認められてゐるところの﹃歴代志略﹄三三には、その前年
に於いては大略﹃列王妃﹄の研侍を共催踏襲しっつ、其の後年に至つて︵十一節以下︶﹃列王紀﹄には全く紋如した新しい耶茸を俸へてゐる。即ち同書は、此の箇所に至つて、マナセ王の時代にアッシワァ軍の再びユダに未完
したことと、而して王がアッシリア軍の薦めに捕へられ、釣と足械の辱しめを受けて、バビロンに造られ患難を
受けたこと、及び其れが薦めにJさしもにイスラエル・ユダの紳ヤーウェ一に不信を極めたマナセも、痛く往事む悔ひてヤークェーの正常信仰に復鐸し、囚はれの地より故国に許され踪るに及んでは、首都と地方諸邑の防備
を問うした外、進んでヱルサレムの神殿及び市中より異数的神々の崇拝並びに其の祭場偶像等を清掃し、吏めて
ヤーウェーの聖垣を修覆し、故に酬恩祭と感謝祭の供犠を営むと同時に、叉国民に合して、ヤーウニーを彼等の
紳として奉戴信仰すべく論告したことを侍へてゐる。この数倍は、然し、﹃列王妃﹄記者の全然興り知らざりしと
ころのもので、如何なる資料に基いてのものであるか全く判明しない。アッシリアの記録にも此の鮎を明示した
ものもなければ一暗示したものさへ見出されないのであ▲る。一鰐アッシリア軍に捕へられたと述べながら、王の護
送された場所をバビロン杯と記すことが、眈に場所錯誤たるのみならず叉時代錯誤でもあつて、此の記事が単に
記者の筆先きで提ぬ上げられた架室な記述に過ぎす、何等生きた史葦に立脚したものでないことをそれ白り曝露
するもの■でなければたらない。シニフーダーは、アッシュルバニパル王の兄弟で六四八年より六E七年に至るm バゼけンに融王たりしシャマシュ・シュムキンが、アッシ∴リアの文鼓の停ふる如く、西方緒小邦女優凌しモアッ⋮旧叩 ︼′.シェルパニ.ハルに叛かしめた際、ヤナセがこの謀戊に加つたか或は其の嫌碗を受け顆がために、王の催すところ ㈲ ぐ︰ とた少、捕関わ地も特にバビロンとせられたかの如く解してゐる︵前掲の害三六云−〓七二︶ のであるが、これ は棍描甚だ薄射た畠左る臆詮であつて、右のアッシリアの記録にも、マナセがアッシリヤ軍に捕へられたことに 関しては何等記すところがないのである。然るにピータースは此のシ㌦ラーダーと殆んど同様た推定の上に立 ち、﹃歴代志﹄の記述を正史の事寛と認めて、マナセ王の信仰及び宗教政策の轄向について論じ乍ら、しかも王 の子アモンの時、アモソが敵裳の陰謀の血祭りとなつて就せられ、そのチョシアが代って王位に登ったことをば、 マナセの封アッシリア政策の失敗の薦め、若くは異数風を奨励復活せしめた共の本来の宗教政策に封する反感の ために、ヤーウニーの純正預言者の感化を強く受けてゐた徒寛が、マナセの反動精神とその政策を手本としてそ のままこれを堰承し貴行したアモンに反感を懐いて取ったところの非常手段が成功した結果であつて、ヨシアは 即ち父組両王とは反封に、純正預言者某に同情するそれの支持者であつたがためである杯と頗る穿った説明を下 して得意の風がある︵﹃ヘブル人の宗教﹄二五六︶。けれども此の説明には甚だしい矛盾が含まれてゐるので、若 し彼れの如く﹃歴代志﹄の記述払史茸と解絆すれば、マナセのヤーウニ一致への轄向復踪をも亦、勿論、事寛と 認定しなければ息らない筈であるが、兆して然らばアモンの悲惨な末路は、先王の政策をそのまま踏襲したがた めではなくして、却りて、.被れが父王の新政寛に従はす、依然曹政策を取ったといはんよりも寧ろこれに邁拝し たがためであると説明しなければ清浄が一貫しない。ピータースの所論の此の手落ちは、借りに笹純な言葉㌫問 題であり、詮明不足に過ぎないとしても、そのh莞刷の根底す一なす史椚〃歴史性に封する認識は、然し佃、到底展 反動の笹駆†に置かれたろ鱒﹁‖揮別の地下酢′付に就いて
反動の重腔下k置かれた†預言運動の地下潜行に就いて 二六 なりと認むるを得す、氏の推定は有理性を放くこと頗る大なるものがあると許する外はないのでぁって、.マナセ の特向は、.﹃歴代志﹄所侍の如くば、王及びユダの名啓や照面と甚だ密接潅関係があり、引いては鴛政策に固執す る腐鼎惹き超さるべき国家将来の運命に封する見透しと緊密に相関聯しての悔悟であり轄向であると認めざるを 得ないのでやるから、アモンに異教的信仰への再韓向があつたとすれば、そは飴程の強い確信と理由とに基く庵 のでなければならなかつた筈であるにも拘らず、﹃歴代志﹄も何等首肯するに足るべき其の問の事情を倦へす、 ﹃列王紀﹄も亦このことに閲して少しの暗示を輿へるところなくて、却って王の政治は、.俗に於いても宗教に関 心て.も、父王の逢そのままであつたことを述べてをる︵二一二﹁○−二二︶に過ぎないのは甚だ怪訝に堪えない Jヱろである。のみならす、常識的に判断しても、一国に於ける宗教政策の如是き目まぐるしき輯奨が、あり得 一 べ一き事寛一は到底認必難いところで庭なからうか。それ故以上にあげた﹃歴代志﹄の桝俸は、何等か特別な必要 と理由の下に、記者によつて創作せられた架茎の事葦であるに相違ないので、ピークの如きはこれを以下の如く 解絆してゐる。日く、﹃胚代志﹄記すところの王マナセのバビロンへの幽囚は、彼の時代に起ったユダの慶史の最 大事攣であるところのパピロ一二ノの捕囚は㍍望一口者達によつて蜃とマナセの犯した罪の報ひと批判せられ・てゐる ︵﹃列王紀﹄下二三三六ノー二七、二月・二−四等々︶ が、抑と此の筆法七以てすれば、如是き国東民族わ悲惨事 ヽヽヽヽ を招く原因を作り〓した其の常の犯人が自うも同様にバビロンへ捕はれて悲惨径鱒命を惜博すろぃでたくては天 道甚だ公†む放き、柵の正義に反すると考へられたこtLと、二つにはマナセの如き極悪探革の般大恋人が、何等 正しき理由もなくて五十有飴年の長き叱.思って天下鱒君鰯し.▼牽ので恵、.七生竺入h蒜寄軽真言の拠︰賢﹂、こ rJO
れには何等か特珊の青草が、甘腐の珊櫛挑珊雌y‖感珊憫繁簡借用戦慄推峨貸借灘鰯劇葡報望儒惚 瑠 ]ワ・一
王の統治〃異常な良さを溝田化するた拾に、自らの無傑的刊紺㍗≠軒、化して、被れの情改遷幸上根作したわに外
息らないであらう.と︵ヘスティングス﹃聖書離典﹄琴三二二九−二三〇︶。此の詮穿ち得て最も妙。叉以て﹃歴代志﹄記者の特性の一斑をも窺知せしむるに足るものがあると許すべきで
あらうか。
追記、此の小論の目的は、賓はスキダイ族の侵入が預言者に及ぼした影響について述ぶるを本旨とすうものではある・が1紙数の都合にょり、今岡は、その前払としてのアナマ、アモン時代に於ける預言運動の中断の問題丈けに止めることと
した。表題は恰も弼立の論文なるかの如き健裁のものとなつてはゐるけれども、それは空言骨頂すれば、仝ぐ⊥秤
の郡誌政策の餌めに外ならないもであつて、本論は引き絞き次の機偏に遺‖lを夏めて叙することと七度い。反動の賽軸下に置かれたる預言運動の地下洒直に就いて
般若経は支部に侍課された大乗経典のうちで最も早き時期に屠するものゝ一つであり、而もそれは他に先んじ
て最も研究せられたものであることは最近字非教授の﹁支那併教初期の般若研究﹂として蟄表せられたものに依
っても知られるのである。然し今此鹿に偶れようとするものは﹁般若研究﹂喜ひ換へれば専ら﹁経の内容﹂に亙つ
ての研究ではなくして、侍課せられた経そのものが如何なる存在の意義を有したか即ち脛の存在に封して如何な ■
る問題が課せられ、従ってそれを課題として支那例数初期に於いて如何様に展開したかと云ふ事である。而もそ
れが爾後の支部俳教或は印度沸教乃至は現茸の我々に封して如何なる意味を有するものであるかをも合せ明かに
せんとするに因んで、此慶に﹁支那併教初期の般若経に封する課題﹂と云ふのである。
∵
先づ第一に此磨では最も早く課された﹃道行般若経﹄の翻諸に就いて述べなければならない。何となれば蔵初
の詩経者として額げられる朱士行の研究し講じたものはこの追行般荒であるが、然しそり底本に就いては或空
港本と云ひ或は十巻本とも耕せられてゐるからで盾る。即ち逆行緻若は天竺の抄椚監制紗那梵鉢巻忙医∵坪
支那偶数初期の腰若経に封ザる課題
梶 芳 光 蓮
支那僻放出刑力蝦行宮に封す・︺課題桓帝の世に東湖し、これと前後して兼安した風発の克憂義盛認懲耶魂義勝ぺ。議牒彗苛mⅧ牒凋瑚欄Ⅶ ︵一︶ 藁帝の≠に浦山て諾成れるもわであると云はれる。かくわ如く二人共謀と云はれ空車も、他方辟錐のとでは二人 が別時に︰一で一れ′川1一本づ1を諸出したとも鋒せられ、或は現代に至つては、そのうちの現存の十巻本が支識め鐸. ︵二︶ 朝であり、他の一本は二人共諸に成るものであるとも言はれてゐる。 そのうち控錬に就いて■.=ふたらば、先づ竺朔俳が﹃道行控﹄一巻を諾し次いで支識が﹃追行品﹄として十巻を謂出 したとも、或は文識先づ諾し、次いで竺朔怖が一巻本を諾したとも云はれて、此塵にまた前Ⅲ後出の紺係が節々 としてゐる〃である。然らばその何れが前諾後出であるか、或些一人別謂でなくて共謀であるか、共謀としても 一本であるか二本であつたか、これ等の矛盾が取り去られなければならない。 それで先づ二人別刑としてその繹ル年時を見るに、硯存の﹃道安鋒﹄から些一本の諜出年時が窟はれないが、 爾後の控録に於いては一巻本と十巻本との謂出の前諾後出に就いて矛盾が存する。無論一巻本を竺朔俳とし十巻 本を支識諒とすることには相違はないが、第lに﹃出三森記集﹄に依るならば、 追行経一巻 霞帝時竺朔俳澤 道行品苧巻
雷光竺年十月八日義撃
となつてゐるから、一は漫然と墓前時に規定せられたものであつて、これによつて何れが第一出であり第二〓で あるかは明僚には看取旧来ないのである。然るに﹃歴代三貧紀﹄や﹃内典鋒﹄等には 遣行紆一怨 嘉中元年叩膵竺胡桃見朱士行漠録及三蔵記 支那彿敏和期の般若経に封する諜飽 用l○ハ︶ となつてゐる。これは.﹃貞元鋒﹄も共に同じであるから、此麿に至つて十巻本が先に諾出され、次いで一巻本 が出でたことになり、正に前の㌍錬と二本の前詳後出は逆になるのである。けれども﹃歴代三賓紀﹄以下すべて の控錬の此ハ按となるところは﹃担二藤記集﹄であることは、皆等しく明言してゐるところであるから、これに依 って﹃坦二蔵記集﹄に潮漉して考へることが出来る。沸渡すれば十巻本は明かに光和二年十月八日であるから ﹃閃元鋒﹄、﹃貞元錬﹄等の七月八日とするは誤りとなる。然らば一巻本十巻本の二本は同年同日の諜Hとなる。 更に﹃歴代三賓紀﹄や﹃内此ハ鋒﹄の言ふ一巻本嘉中元年はその出典とする﹃出三蔵記集﹄には見苦らないとすれ ば、朱士行漢鋒に依つたものか、然しかくの如き群銀は無論現存してゐるのではないから、不明である。従つて ﹃開元鋒﹄等より還元して同年同日の諾出としての二木の作木となるか。旬論閃元錐等わ十日が七り遍ったの ︵七︺ は七が十に識鳥され易かつたとも云はれるであ■らうが、一巻本と十巻本との二粁の同年同日の詳〓を − それが 可能ではあらうが ー 一膝不合理l考へたなちばそれ嘉漉す葛のが自然や鬼患わ准であらう・。然しをれ鞋掲と せられてゐるから、一巻本が先づ嘉中元年︵一七l一︶に諾され、次いで十巻本が光和二年︵一七九︶に繹されたこ
とになるが、二控錬共に拳ぐる輿接としての﹃出三織記集﹄に望恭平元年とする詮は見常らない。けれども兎も角
二本の前後関係はこれによつて明かになつたのである。然るに﹃踊元録﹄等になれば、
逆行経一巻 逆行経十巻 支那彿数和知の般若経に封する課題 逆行軍容羞二年十月八口蓋
光和二年十月八日〓、見控後記朱士行漢鋒恰祓録等。 ︵五︶ 光和二年七月八口出、見敏鮪二鋒。 ,1〟に尋ね、れくして二本とするか或は﹃藤代三茸紀﹄等の嘗ぷ東出後酢劇二嘩むず説かり何州‖琳“唱歌乱砂場載忍● かくの如く考へるた㍉ば二木右裾いオ爪︰竺應解附されろぃでキUがた腔∴い何れに仕ろ∵きかけ決定せられ ないのである。従ってその何れの控錬も興接を﹃些二赦記集﹄に求めてゐるのであるから、檜前に迄働漉して考 へなければならない。然らば共庭に先づ矛盾と考へられるものは道安の序及び詫を下したものが茸にこの﹃追行 控﹄一巻本であるとせられることである。典してこの序註は遺行紅一巻本に封するものであつたかどうか。先づ 序註に就いて見、それと必然的紺係に置かるゝ﹃追行繹﹄一巻本に及び、次いで﹃道術粁﹄十巻本む窺ふこと1 すー㌔第一の序託と遣行控一巻本とに就いては﹃H三蔵記集﹄には、
㌍岨
遣行控一巻 法 ︵八︶ ・ ︵九︶ 由是般若願石首尾隠者。古賢諭之、綻往石澤。仕行恥此、尋米英本、到子閻力待。 と云はれてゐるから、朱士行はこの一巻本を読みて大品を求めむとしたものと云はなければならない。これを一 巻本とすれば、それは竺朔仰が郡謂時に常つて抄出したところの控抄と老へられなければたらない。然らば、朱 士行がそのもとを諒ぬべき直接の理由はその胡本であるべきで、それから大品を求むべき必然的理由は後見せら れない。それ政道安の﹁道行厩有首尾隠者﹂と云ふのは翻諾時に雷つて梵本から支那諸本への欄ぎの難きを言ふ 与しても、必ずしも郡諜時の控抄抄撮を意味するものではなく、寧ろ道行品が眈に九十童の抄経たることそのこ とにも師係するのである。これは支造林の﹃大小品封此要抄序﹄中に小品を許して 支那沸教初期の般若経に射する課恩■ ● ︵一〇︶ 戌取共和要、靡北ハ後致、或笠攻轟㌫、倒基首尾、戎散在群‖⋮、略撮玄要。時有此事、帝互不同。 と云ふに依っても略ミ看取せられるであらうが、更に直接の符接となる道安のその﹃道行㌍序﹄中にも朱士行の 論じた逆行品を許して、 恨無放光、何由解斯控乎。永謝先哲所蒙多夫。今某所見電解句下、始況硯首経隠硯届出経見異、鈴其得否、拳 本置抄敢増税適。 と云うてゐるのであるから、首尾陰るゝ者ありとするのは既に抄本たるものより漢文へ侍諾する場合の楷ぎがそ のもとである九十茸にも閲聯して来てゐるのである。それ政道安はその首尾醸るゝところのものを澤木の上に於 いて放光品と封此して検出し、その得香を論じその抄経たる道行品が正しく九十章の抄机たる所以を論じたので ある。鼎して然らば、道安のこの序のうちに朱士行が嘗てこれを論じその滞るところ必然大品を求めなければな らなかつたことを言ふのであるから、朱士行の講じたものは正しくこの十撃二十品の道行品でなければならない であらう。 次に序託と十巻本との関係に就いては先づその十撃二十品退行品は竺朔俳の翻諜時に必ずしも経抄とせられた ものではなく、反つてその原本が眈に九十重の抄授であつたことを知らなければならない。先づ便宜のため支道 杯の﹃大小品対比要抄序﹄巾のものと遣安の道行控序とを比較封照して理解に便ならしむることにすろ。 A 大小品封比婆抄序 是政肘小‖⋮者、参引王統、簡儲群冒、苓域布教、標 支購伸東西期の轍差.踏に対する課題 B 遣行群序