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章 生 命 概 念 の 歴 史 的 展 開
河 本 英 夫
はじめに
万物が生きものであり,世界全体が生けるものであるなら,筆え立つ岩も,
荒狂う海も生けるものの刻印を帯びている。その限りで生きものは遍在するよ うに見える。だが生きものの遍在する呪術的アニミズム世界においては,対象 としての生物が知の対象となることはない。認知的には,生命と対置される他 の何ものも存在しない以上,生命の固有性が問われることはなく,実践的には,
生命こそ生きる世界の基礎であり認識一般の対象とはなりえないからである。
だが生きものの固有の原理が,逆に万物にさらには世界全体にモデノレを提供す ることは,歴史上ありふれた現象である。この時生命に関する学は,世界の解 読の鍵を与える。こうした構想のもっとも体系的に整った出発点をアリストテ レスに見ることができる。
1 節 目的論的生命像
自然界の事物への問いは,日常的には,それがどのように役立つているのか という用在性へ向けられたまなざしである。椅子は,そこに腰かけるものとし て,木は紙になるものとして,知覚される。四本足をもち背もたれのついた対 象を腰かけるものとして知覚する際には,そこに知覚の一般型をみることがで きるし,木が紙になるものとして知覚される際には,生成の相を含んだ、知覚の 一般型をみることができる。この生成に不可欠な要素とは何か,と問う時,こ こに素材としての木と目標として設定される紙とが,素材一形という対象項の もとに取り出される。つまり生成そのものの知覚の構造を解明するのではなく,
生成に不可欠の要素を示差弁別的に取り出すところに,素材と完成品の形とそ
の用在性が区別されるのである。この中でも木は何のためにあるのかという目
的への聞いは,人間の生存価に裏打ちされた基本的な問いである。この間いを 拡大してみよう。人間の手の指が 5 本であって, 4 本でも 6 本でもないのはな ぜか,足の
5本の指はなぜ並行に伸びているのか,というように問いを拡張す ることができる。これらは一般に「目的論的j考察様式と呼ばれ,アリストテ レスの生命観の柱の一つになっている。
あるものがなぜそのようにあるのかという問いに対して,それに不可欠の要 素を示差弁別的に取り出すとき,アリストテレスに従えば四種の原因が区別さ れる。調子の狂ったピアノを理解するためには,それが何から出来ているのか (素材への問い),どのような作用によって出来たのか(作用への問い),本来 どのような形をしているのか(形への問い),さらにはそれが何のために使われ るのか(目的への聞い)を知らなければならない。それぞれの聞いによって知 ろうとしているものが,質料因,作用因,形相因,そして目的因である。これ らは
14原因説」と称されている。とりわけ目的因は,アリストテレスの原因 論のなかで,優先権をもつが,それというのも事柄を理解するという意味で,
目的因だけが「なぜという聞い」に答えることができるからである。人工物に ついて明示的に立てられる探究の方途を自然物一般に拡大するところにアリス トテレスの自然学が成立する。石はなぜ下に落ちるのか,煙はなぜ上に立ち昇 るのかという問いにしたがって自然を捉えることが自然学の課題となる
ω。
石や煙の目的は,本来それらが「固有に在る場所」として設定され,石に固 有の場所は大地であり,煙の本来ある場所は天上である。それ故地球周辺の事 物の運動は直線運動であり,目標の到達点、において運動は終鷲する以上有限な 運動である。これに対して天体の運行は,始めも終りもなく,永劫に繰り返す 運動であり,円運動こそ理想的な運動形態であった。運動の理想形を円運動だ とする構想、は,後に体内の血液が円運動のように循環しているという発見をも たらすきっかけを与えたので、ある。
人工物にみられる特徴を,自然物へとそのまま投影する構想は,しばしば「擬 人観」だとして批判されてきた。だがこれは不当な批判である。理由は大別し て三点にまとめることができる。
第一に,人間ならびに製作物(人工物)にみられる特徴を,自然物へ投影 することを批判するさい,明らかにそこには主観的人間と客観的自然という,
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2章生命概念の歴史的展開
主観一客観の二元的対抗図式が前提されている。主観的なものを客観的なもの へ投影することの誤謬を言挙げするこの批判の依り所こそ,実のところ近代的 な主観一客観図式を前提とし,それを自ら確認するものにすぎないのである。
第二に,かりに擬人観だと認めても,擬人観的であることがそのまま批判の 標的になるということはない。一般的に言えば,自然への対象化的な語りの内 には,半ば必然的に人間の本質が投影されるものであり,人間ならびに自らの 本質の投影のない言明を想定することの方がよほど困難である。たとえば夕、ー ウィンの進化論は,マルサスの「人口論」を自然界一般に拡大したものだと言 われる。人口は幾何級数的に増大するのに,食物は算術級数的にしか増大せず,
食物を争って人聞が抗争する結果,人口の増大はおさえられるというのがマノレ サスの主張である。この人聞に関する見解をダーウィンは動植物に適応し,生 存競争の概念を明示したのである。この場合,人間に見られる理論が,自然界 の動植物に投影されているが,それを「擬人観」だとして批判する理由は何も ないように,思える。
第三に,擬人観に対する批判は,原理上まったく別個の主張を,擬人観的な ものへの批判だ、ととりちがえているのである。擬人観は,人聞に関する事柄を 自然へと投影する点で批判されるが,問題なのは人間というごく局所的な対象 に関する知識を,過剰に一般化し宇宙全般に拡大している点である。特定の対 象についての知識はいつも局所的で,偏狭なものだ。それを過剰に一般化する ところに問題の根はあり,この偏狭主義は非難に値するが,擬人観と偏狭主義 は明確に区別されねばならないのである。
アリストテレスの擬人観の基本線は,人工物の製作の行為が,自然において はおのずとそれ自体で行われている,とする点にある。
物をつくる製作の行為においては,諸々の行為が組織化され,製作を完了す るために必要な因果のプロセスがそれに従う。目的はこの行為を動機づけてい る。人間と自然との関連については,以下のような前提を入れる。人間の技術 的製作は,不完全な仕方で自然を模倣するのだから,自然の事物は,自らのう
ちに目的を備えているはずである。そしてこの合目的的存在の典型例が生物で ある。
生物の合目的性を主張する事実上の論拠は,生物の再生産においては,同
じ秩序立った形で生まれてくること,ハチが巣を造るときのように,幾何学的 に整然とした行為が反復すること,寄型について語るさいに正常性の概念が規 範化されているが,この規範性は合目的性によってはじめて充分に基礎づけら れること,等によっている。ここでは形相と目的は一つになっており,目的は 事物の形相自体である。
目的の考察は,一面では生物の機能をそれとして了解したものだと言っても よい。生物の示す規則性,秩序性を,何のためにという聞いへと関連づげ,機 能連関を捉え出そうとするからである。心臓や肺の動きを,全体的な生命の保 持のためにどのように寄与しているかという点で解釈する。このとき各器官が
r~への努力」というかたちで普遍構造へと関連づけられ理解されていることになる。現代的に言えば,機能の理解は,構造的な各器官の配置,相闘を特定 するための前段階的要件であり,生命現象の解明にとって不可欠の契機である。
アリストテレスにおいては,目的論は運動論と結びついている。運動を語る ためには,特定の時点の特定の事態のみを指示するだけでは不可能であり,同 時に未来を先取りしていなければならないからである。自然の変化を知るため には,始まりの根拠のみならず,終りまで運動が続けられるための根拠が必要 である。あらゆる現実の運動は方向づけられており,指向的な構造をもっ。こ の方向づけを担い運動の終りを指標するものこそ目的に他ならない。種子は未 来において花になるが,未来が可能性として現在の規定に含まれることが,運 動を可能性の実現として捉えることの内実である。種子は花の「可能態」であ
り花は「現実態」である。
それ故「運動は可能なものの資格で可能が現実化されていることである。」だ がしばしば誤解されることだが,このことは運動が「可能態から現実態への移 行j を意味すると理解してはならない。時間的に隔たる二つの状態をあらかじ め設定し,その聞の相対差を運動だというのであれば,近代の運動論と同型の 構想、であるにすぎない。そうではなく,特定の時点、での事物の状態を運動とし て語ろうとすれば,その事物の未来の状態を先取りして両者を関連づける以外 にはない。つまり特定の時点での事物の運動には,未来の可能性が現在の定義 に含まれることになる。ある時点、での事物の運動を語ろうとすれば,現にある 状態と未来の可能性が同時に現在に含まれていなければならない。「運動は可能
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2章生命概念の歴史的展開
なものの資格で可能が現実化されていること」だというのは,こうした意味で 解するべきであろう(九
他面,物質の構造を支える最終的要素として,エンペドクレスを継承して四 元素「土,水,火,空気jが設定される(四元素説)。アリストテレスは,さら に五番目の元素として天上界の基本物質であるエーテルを加える。通常元素の 定義通りの意味は,性質の分割可能性によって定義され,分割を続けても同じ ものへと分割されるような物質が元素と規定される。そして分割の最終単位を,
もはや分割しえないものとして指定するところに「原子論」が成立する。だが アリストテレスはこれとはまったく異なった元素観を提起する。温,乾,冷,
湿という四つの基本となる質の側から元素を規定し,質の聞の優先度の違いに よって,元素は他の元素へと変換可能である。
火は温,乾,土は乾,冷,空気は,温,湿,水は湿,冷という 2 つずつの性 質をもつが,それぞれの元素において,温,乾,湿,冷が優性で、ある。しかし 共有している性質の媒介によって四元素は,他の元素へと移り行くことができ る。空気において湿が優性になれば水へと変換する。
これらの元素は様々に複合して,肉,腫,血液,骨のような均質な生体部分 をつくりあげている。だがこの構成の仕方は,化学元素の複合のようなもので はない。むしろ元素は質料として等質部分の形相のために存在する,というよ うに形成されるのである。血液の形成についてみれば,血液は,組織のうちに 繰り込まれる以前の栄養によって構成される合目的的な形態であり,水と土が 成分として多く含まれている。これらの成分のバランスが,個人の資質に影響 を与えるのである。より水が多く冷たい血液は知性をもたらし,より土が多く 温い血液は,情念や勇気をもたらすことになる。正常で、善なる気質は,これら の均衡によって成立し,健康であることの意味は,均衡から基礎づけられてい る。バランスのとれた均衡こそ,健康の規範化された基準となっているのであ る 。
さらに等質部分は,眼,手,内蔵のような非等質的器官のために存在する。
ここでも等質部分は非等質部分のために存在する,というように言はば手段 一目的連闘をみたすものとして階層区分されている。こうして現代的に言えば,
生物は元素,組織,器官,有機体へと多階層的に組み立てられていることにな
る。だがこの多階層性は,タンパク質の
1次構造.
2次構造.
3次構造のよう な複合度の度合いによって階層化されたものではない。むしろ下位の階層がす ぐ上位の段階の目的に適合するよう機能的な従属関係によって区分されている。
いわば手段一目的関係の連鎖によって形づくられた多階層性なのである。
生体全体にとっての各器官の機能配分という点では,体熱の維持に対して各 器官がどのような役割を担うかに力点が置かれている。体熱が過少であれば,
腐敗や老衰が生じ,逆に過剰であれば破局に到る。心臓は血液の源泉であり,
体熱の起源とみなされている。また水と土とに共通した冷という性質をおびて いる脳は,心臓の熱を調節するという役割を担うのである。ここでも各器官に よる体熱の均衡維持という基本前提のもとに,器官の相互関係が考察されてい ることがわかる。
2 節 測 定 と 機 械 論
近代に入ると目的の探究に替えて,測定と数量化が生物の理解の基軸となる。
さらに生命現象を類比的に捉える際のモデルが機械に置かれる。アリストテレ スにおいては,人間の製作行為が自然把握の主要なモデルとなっており,それ 故目的への探究が優先的な聞いとなっていた。人工物は不完全な仕方で自然を 模倣する以上,製作物の理想化された延長上に自然物を理解しえたのである。
これに対し,近代の「機械論」においては,生物は複雑になった機械にすぎな い。心臓は,デカルトやハーヴィが記すように精密になった自動ポンプである。
人工物をモデルにして自然物を捉えるという点で,アリストテレスと機械論は ほぼ同一の構造をもつように見える。差異は微少なものであり,対象化された 機械そのものをモデルとするか,製作の行為全体をモデルにするかの差異でし かないようにみえる。だがこの微少な差異こそ決定的な大転換をもたらすので ある。
機械の運動をモデルにして心臓の動きを把握するさい,第ーに心臓は機械の 運動の側へ,分析され帰着されねばならない。心臓は複雑になったポンプにす ぎないのだ、から,機械の主要部分へと分解かつ分析可能なはずであり,また機 械の運動へと還元可能なはずである。要素的部分の組み合わせと複合によって 機械が成立している以上,機械の部品へと「要素分析可能」であり,より複雑
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2章生命概念の歴史的展開
な現象をより単純な要素の現象へと「還元可能」である。モデルの延長上に対 象の固有性を次々と把握するのではなく,多様な現象であれ,すべてをモデル へと還元する知の形態こそ,近代科学に特有の方法なのである。この結果方法 に制約され,方法論の内を新たな適用対象を求めてただ物食するだけの方法的 な探究が普遍化されることになった。「方法論的制覇」とは近代にふさわしい装 飾である。
第二に聞いの立て方も変更される。血液は何のために存在するのかという目 的論的(現代的に言えば機能論的)聞いに替えて,血液はどのように運行する のかを問うのである。「なぜ」から「いかに」への問いの変換こそ,探究の方途 をくつがえしたのである。「いかに jへの聞いは,運動の原因ではなく,運動そ のものの規則性の解明を課題とするのであり,現象の背後の根拠を求めること にかえ,現象そのものを救済するのである。そしてこの現象の規則性の表記を 担うのが数学である。したがって数学は当初一つの表現技法として,ニュート ンにおいてもデカルトにおいても,いわば私家版として表記の道具として開発 されたものであった。現象の規則性の解明は,現象の終駕した後の結果と初発 の条件との相夫寸差の聞に定量的秩序をもとめる方法にしたがう。それ故運動は 完了した時点から遡行的に定式化されるにすぎない。ところが数学のもつ演鐸
という特質が,かえって未来への言及を可能にしたのである。
第三に外科職人の伝統をひく実験の広範な導入がある。ドイツ語,フランス 語の外科を意味する
chirurgieは語源的には手仕事を意味し,もっぱら床屋が
とり行っていた。現在も床屋の看板がわりに,赤と青の二重らせんが置かれて いるが,あれは動脈と静脈を模写したものである。動物の解剖学的実験によっ て , トカゲ,へビ,カエノレ,ウナギなどの下等脊椎動物の生体構造の活動と仕 組みが知られるようになっていたのである
(3)。
近代生理学のもっとも特徴的な出来事の一つに,
W.ハーヴィによる血液の循
環運動の発見がある。それ以前の心臓血管系の説明では,静脈系も動脈系も全
身へ血液を運ぶ、ための器官であり,血液は組織へ運ばれて消費されるものだと
考えられていた。血液が体内を循環するものだという発想には,たしかに着想
段階で大きな転換が必要である。ここにはアリストテレスの運動の理想形は円
運動であるという構想と,人体を小宇宙(ミクロコスモス)と捉え,小宇宙と
大宇宙(マクロコスモス)との対比を並行対照するという構想が介在している。
だが何よりも血液循環の学説を顕著なものにしているのは,構想そのものでは なく,論証法である。証明すべきことを,ハーヴィは実験的に証明可能な事柄 へと分析し,以下のように掲げる。
第一に,血液は摂取された食物では決して補充され得ないほど大量に,静 脈から不断に連続的に心樽動によって静脈中に送り込まれること,ならびに こうしてその全量は,短時間内に,そこを通過すること。第二に,血液は同 じように,不断に連続して,動脈脈揮によっておのおのの四肢および身体各 部に圧し送られ,しかもそれは,栄養のために必要である以上に,あるいは 全貯溜量によって追加供給しうべきよりも,はるかに大量であること。そし て同じく第三には,静脈自身,この血液を心臓に送りかえすことである。(ノ、ー ヴィ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』岩波文庫)
第一の点については,死体の心臓中の血液量,心臓と血管の多きさと構造,
及び半時間の樽動数にもとづき,一定時間に流れる血液量を算定した結果,血 液が循環しているのでなければ,血管が破裂するほど大量の血液が体内に存在 することになってしまうという事実を明らかにした。
第二,第三の点については止血の方法として古くから用いられていた結紫を,
治療法としてではなく,仮説のもとでの事実的証拠の証示のために用いている。
心臓近くで静脈を結紫すると,結殺したところと心臓の間では,静脈内は急速 にカラになり,心臓のそばで動脈を結殺すると,動脈は血液ではちきれそうに なる。また腕を強く結紫すると結兼の上方の動脈はふくれるが,下方の血管は ふくれず,腕を弱く結紫すると,下方の静脈はふくれるが,上方の血管はふく れないことを確認している。これらの事実から,動脈によって血液は身体各部 に送られ,静脈によって血液が心臓に送り返されることが証明されるのであ る(九測定によって数量の規定を行うこと,ならびに治療実践とは別個に論証の ための生体制御を行うことが,ここでの特徴となっている。測量術,度量衡に 発つする測定を数量的規定と連接するところに,近代科学の方法が確立される のである。
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2章 生 命 概 念 の 歴 史 的 展 開
こうした近代の構想のうちで,機械をモデルにし機械の動きへと生体の働き を還元していく限り,生物に固有の特徴は何も残らないのではないか,という 疑問が生じる。日常の知覚において,石塊と植物,動物とはまったく異質なも のに見える。この差異を有効に解明できないのであれば,生物を捉えたことに ならないのではないか,というのがその際の言い分である。ここから選択肢は 二つに分れ,それらは探究に先立つ方法論上の始点を争う以上,見かけのうえ では決着のつきそうもない争いが生じることになった。
第一の選択肢は,生物はどのように複雑になったものであろうと結局は機械 でしかない,という主張である。この主張は生物の構造把握という点では,通 常「機械論」と俗称されるが,探究手続き上では,力学や物理学の原理に生命 現象を還元する以上,
I物理化学的還元」と呼ばれる。生命現象は原理的に物理 化学に還元されるはずだという信念は,探究実践に先立つ「立場」を表明した ものであり,後の探究によって得られた事実から,この立場を突き崩すことは 論理的には不可能である。ある歴史的時点で物理化学の言葉によって説明でき そうもない現象であろうとも,やがては解明しうるはずだ、という可能性に賭け 続ける議論だからである。
ただし機械論の内実は,手本となる機械そのものの歴史的水準によって,加 速度的に変更されていく。機械ほど急速な進化を遂げたものは,類例がないか らである。近代当初もっとも理想的な機械のモデルを与えたのは,懐中時計で ある。歯車と軸棒が幾重にも連動しており,運動を一義必然的に伝達していく のである。次に機械の典型例となったのは水車であり,水車においては水の動 力が,粉挽きへと変換されており,物理化学的力の転換が見られる。産業革命 以降の機械の優先的事例としては,工場があげられる。工場では,与えられた 原料から,まったく別個の秩序立った製品がつくられる。いわば化学的代謝に も似た分解と統合が進行するのである。工場の中で一つの飛躍点となっている のは,フォードによるベルトコンベア一式分業体制の確立であり,そこでの製 品のフローチャートによる形成の見取り図である。解糖系サイクルは,フロー チャートの上に,反応の分業を記したものだとみることもできる。
機械の水準によって機械論自体が変貌する以上,本来機械論は固有の立場で
さえない。機械の進化に随伴して,機械論自体も進化しうるのである。
他方第二の選択肢は,生物はいかに物理化学的素材から成るものであろうと,
生物に固有の原理が存在し,生命現象は,物理化学的現象以上のものだ,とい う主張である。探究手続き上は,力学や物理学によって解明される以上の内実,
固有性を生命現象に見出そうという立場であり,物理化学への全面的還元は不 可能だと主張し続けるのである。物理化学的還元を行う際,物理化学的ではな い何かが捉えられており,それを物理化学へと還元する手続きがとられる。そ うでなければそもそも還元は不要なものになる。ところが物理化学的ではない 何かが捉えられている以上,還元をどのように遂行したところで残余は生じる。
そしてこの残余が生じるという論理的可能性を,生命像の立脚点にするのであ る 。
この際しばしば生物に固有の原理が想定される。アニマ,有機化力,生命力,
形成衝動等々によって指標される原理がそれに相当する。このように生命に特 有の原理を設定する立場は「生気論」と呼ばれる。生気論において設定される 原理は,生命に特有の現象領域,とりわけ問題の焦点となり続けている現象領 域を指示している。トカゲのシッポの再生能力,発生に介在する力,生物の全 体性を統御する力等々のように,生物の特性の所在を的確に指標しているので ある。だが生気論は多くの場合,生命原理を,生物に特有な現象をもたらす原 因や作用因として導入する。この意味で生命固有の現象の原因を要請する以上,
この構想、は,しばしば誤解されていることとは正反対に,非合理主義でも非科 学的で、もなく,むしろ近代的因果分析の枠内にとどまり続けているのである。
そしてこれこそこの構想の限界であった。
こうして力学,物理学主導の近代科学の枠内では,生命現象の扱いをめぐっ て解消しようのない対立が不可避的に持続しつづけている理由が明確になる。
一面ではこの対立は,分業上の役割を担っており,生気論は生命現象の固有性 の領域を次々と明るみに出し,機械論はそれに物理化学的な説明を与えようと 不断に企てるのである。だが生命という固有の領域の固有の理論は,これら両 者のいずれからも生じはしなかった。還元型の発想を放棄し,生命固有の領域 を独自の論理で取り出すとともに,因果関係にそくして生物固有の現象の原因 を設定することを断念し,生命の固有性を構造的に特定すること,こうした回 路が聞かれることによって,はじめて「生物学
Jbio(生けるもの)
logos(論理〕
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2章生命概念の歴史的展開
が誕生するのである。
3
節 生 物 学 の 誕 生
2
世紀前の世紀末,
18世紀と
19世紀の境界あたりで,生命論の新たな構想、が 新大陸のように知の水平線上に浮かび、あがってきた。哲学史の上では,近代二 元論の基本構図とされる物質と精神という双極の聞に,第三領域としての「生 命」が広大な裾野をともなって出現する。文化史の上では,ギリシャ以来の自 然の三大区分,つまり鉱物界,植物界,動物界の区分を再編し,無機物と有機 物,すなわち死せるものと生けるものという二大領野を形づくる。現在の化学 の教科書が無機と有機に区分されているのは,この再編の死せる遺産である。
ここで生じた生命の概念の根本的な転換にいくつかの特徴づけを試みておき たい。生命の構造という点では,生物はもはや機械へと還元されるものではな しまた特牲を指標する固有な力や原理によって表象されるのでもなしユ。生物 に特有の構成関係の在り方こそ生物を全体として特徴づけるのである。これこ そ有機構成
(Organization)に他ならない。物質の構成は各元素の組み合わせ と配置とは異次元にある独特の構成をもっ。この意味で生物を特徴づける構成 は,化学に還元しえないのである。ここには物質的元素と有機構成という対比 で,再度質料一形相体制が回復されている。これらの構成関係は,当初器官の 聞の相互配別の関係や,器官の聞の機能的統ーを見出すという比較解剖学の成 果の上に樹立されたものであった。
比較解剖学のもたらした知見のなかでも,器官相互の関係を取り出し,それ によって個体を特徴づける方途は,構造把握の転轍点となっている。肉食動物 の特徴の一つに腸が短いことがある。目的論的に問えば,なぜ腸が短いのか,
という問いになるが,この間いへの回答はまったく別回路が用意された。つま
り腸が短いという事実は,歯が鋭く,アゴが丈夫で,足が太くて短いという一
連の事実との対照関係のうちで意味づけられるのである。各器官それぞれの特
徴は,器官ごとに別個のものではなく,肉食という機能に関連づけられて,一
連の関係構造をとっている。有機構成とは,器官群の織り成すシステムのこと
である。これによって全体性を持ち出すことなし可朔的でゆるやかなつなが
りについて語ることができる。この際目的とは,器官の関係へと射映された構
成化の水準自体を指示するものとなる。
もとより有機構成は,物質的元素とはことなる独自の領域を占める。たとえ それが物質的元素から成ろうともそこへと還元することはできず,また分解し たのでは有機構成の意義が失われる以外にないような次元を占めるのである。
これによってまた生物構造上,多階層性の論理構造が回復される。階層聞の関 係に関して,半ば自明なことだが上位の構成段階は下位の段階を含み,かつ下 位の段階を次元一般として規定するので,個々の構成素を一義必然的に決定す ることはない。器官は同一の次元として自己保持され,下位構成段階の細胞は 半ば自由に代謝している。
こうした多階層的構造論をとるとき,もっとも困難な問題は,どのようにし て階層区分が生じるのかという疑問である。分子レベル,細胞,組織,器官,
個体,集団のような階層構造は今月ではほぼ自明の常識であるが,どのように して階層の区分が進行するのかは,なお難題でありつづけている
(5)。
ごく単純な例で考えてみよう。水素と酸素から水ができる場合,水は水素の 性質にも酸素の性質にも還元できない以上,水素と酸素という原子レベルと分 子である水のレベルの聞には明らかに階層区分がある。この場合水素と酸素の 反応が停止するエネルギ一安定状態を見出すことで,水という生成産物を特定 する理由がみつかるだろう。だが化学的分子から細胞への移行においては,細 胞内の反応は継続するのであり, ["動的平衡」状態を設定しなげればならない。
単なる化学反応の組み合わせが,何処で循環する平衡状態に移行するのか。こ れが多階層的構造論をとる際の焦点となる間いである。
避けなければならないのは,化学的分子には細胞へなろうとする傾向があり,
やがて細胞が形成されるといった論理である。これは形成の結果得られたもの を,あらかじめの前提へとすりかえる確かな誤謬である。目的論と生気論は,
秩序立った生物形態の合目的性を,形成過程の結果としてではなし形成の前 提へと繰り込む以上,こうした誤謬に陥っている。聞いの焦点は,生成過程に あるものが,ある階層としての閉域を形成する場面にある。
1.生成過程と生成物が同じ水準にあるように個々の作用が閉域をつくるとき,
そこに一つの階層が生じる。
2.
自己の作用が,因果連鎖,相互作用連鎖の帰結として自己に効果的に回帰
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2章生命概念の歴史的展開
し,連鎖の円環性を形づくるようになったとき,そこに一つの階層が生じる。
3.
生成過程が生成物を通じて自らの過程を反復するようになったとき,そこ に一つの階層が生じる。
これらはいずれも同じ事柄を表現しようとしている。不断の生成過程が同時 に閉域としての円環性を形づくる際の生成構造を,論理化しようと企てている のである。
生命の論理のうち,もう一つ緊要なものがある。生成のパターンに独特の論 理をもちこんだのである。原子論的な構想から生成を捉えると,元素の複合化 の段階が高度になっていくというのが構成の基本である。ところが発生学にお いては,未分化な腔から具体的な部分への分割が進行し,分化が進むという生 成の在り方が提起された。つまり生成とは組み合わせの多重化ではなく,未規 定で,未分化な全体性から,個別化や具体化が進行する過程だと言うのである。
各種動物の任発生の最初期段階は,ほとんど類似しており,しだいに個別的に なっていく。たとえばニワトリの旺は最初,それによって脊椎動物だと同定で きるもっとも基本的な特徴のうち,ほんのごくわずかのものしか備えていない。
肢となる似たような芽条突起から,鳥の翼,ヒトの腕,ウマの脚がでてくるか らである。さらにあとになってやっとその腔は鳥のものだと判別できるように なり,次にそれはキジ自に属すこと,次にはニワトリ属だということ,その次 にはガルス・ドメスティクスという種だとわかり,最後には個体の特徴を備え るに到る。
こうして生成の新たなパターンが得られたことになる。これは元素の複合で もなく,また当初に設定された規則や計画からのたんなる導出でもない。分化 とは個別性の増大へと方向づけられた各部分間の自立化を構造的に関係づける 秩序化のことである。少なくとも個性化と関係規定の進捗を裏合わせに統合し
うる可能性は聞かれたのである。
註
(1)
R .
Low,
Philoso戸hiedes Lebendigen,
Suhrkamp Verlag,
1980,
S. 20‑53.(2)
R .
Spaemann,R .
Low, Die Frage Wozu? Geschichte und Wiederentdeckung des teleologischen Denkens, R .
Piper GmbH & Co. KG,
Munchen,
1981. 2. Kap(3) このあたりの事情については川喜田愛郎『近代医学の史的基盤j (岩波書庖.1977)第 11. 12章を参照。
(4) ハーヴィについては,中村禎里「血液循環の発見j (岩波新書.1977)参照。
(5) この問題については,いまだ明確な解決策がない。とりあえず以下のものを参照。アー サー・ケストラー『還元主義を超えてj (工作社.1984)ウンベルト・マチュラーナ,フラ ンシス・バレーラ『知恵の樹j(朝日出版社.1987)
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