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いわゆる「安全弁説」《Safety Valve Theory》に ついて(1)

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(1)

いわゆる「安全弁説」《Safety Valve Theory》に ついて(1)

その他のタイトル On the 'So‑called' Safety Valve Theory (1)

著者 小林 英夫

雑誌名 關西大學經済論集

11

5

ページ 490‑517

発行年 1961‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15499

(2)

49

二︑安全弁説の歴史 その一︑広義の安全弁説 その二︑狭義の安全弁説 三︑安全弁説の確立

ゆる﹁安全弁説﹂

︿S a f e

t y V a l v e   T h e o r y }  

フレデリック・ターナーの安全弁説 その二︑その後の安全弁説

について

(3)

四︑安全弁説批判

てとくに重要な伝統的仮設の︱つであつて︑

ここにいわゆる﹁安全弁説﹂A

S af e

t y 

Va

lv

e  T

h e o r y ; ; ,

>

とは︑アメリカ史またはアメリカ労働運動史の解釈におい

( 1 )  

つぎの二つの前提に立脚しているものと考えられる︒すなわち︑日不

満な工場労働者たちは︑もし欲するならば︑西部へ移住して独立自営の農民となりえたということ︑口その結果︑

のちに述べるように︑その起源はアメリカの歴史とともに古いといえるけれども︑

ターナー教授がそれを︱つのアカデミックな理論に仕上げてからというものは︑もはや仮設の衣裳をかなぐり捨て

てしまった︒ジョン・コモンズ教授をはじめとする多くの研究者たちが︑

からである︒したがつて一部の懐疑主義者をのぞき︑その仮設がアメリカの歴史解釈を支配したことも︑なんら不

しかし︑仮設はあくまで仮設にすぎない︒カーター・グッドリチとソル・デヴィソンの両氏がたまたまその仮設

いわゆる﹁安全弁説﹂^

S af e t y  V

al

ve

  Theory

J J .  

思議ではない︒ 東部にとどまった労働者たちの賃金は上昇し︑

る ︒

団結の強固な労働運動の発展がおくれたということ︑

その二︑直接的批判 ︶ 

の二つであ

フレデリック・

その仮設を︱つの史実に鋳造しなおした

(4)

(2

) 

なおのこと望ましい︒ いわゆる﹁安全弁説﹂

A S et y Va lv e Theory

1 l ついて

の実証のいかに困難であるかを示すと︑安全弁説はとたんに色あせてしまった︒そして真向からそれを否定する空

気が強くなった︒それにたいする反批判も︑むしろ逆にこの否定的空気を強めた感がある︒しかし︑

数年を経た今日よりみると︑当時の論争もいささか古びて感じられるのみでなく︑

ろに落ちついたことを思わせる︒論争当時の過ぎたる破壊的批判は影をひそめはしたが︑安全弁説の否定論は︑そ

の修正論として︑みずからの地位を築きあげた︒もはやかつての執念深い安全弁論者はいない︒

いまは︑ちょうど論争の実の熟した頃である︒熟れた実は︑みずから摘みとられんことを欲する︒それは︑アメ

リカ労働運動の伝続的解釈に比較的疎縁なところでは︑

( 2 )  

い︒その意味でこの一文は︑おくればせながらも︑それを口せんと意図したものである︒それに︑その風味がどう

あるにせよ︑すくなくともアメリカ労働運動の研究にとつては︑それは欠くことのできないものなのだから︒

(1

) Ca rt er   Go od ri ch

 

̲ S o l D   av is on ,  T he   Wag e Ea rn er i n    t he  W es tw ar d  M ov em en

!

i n P o l i t i c a l   S c i en c e   Q u a rt e r ly ,   Vo lu me  L

, 

Ju ne  1 93 5,

P 

. 

161 

る︒すなわち︑い不況︑失業︑苦しい労働条件︑不満な賃金のもとでは︑賃金労働者は︑西部の機会の利用を望ましいも

西

の機会にかなりの人数で行動した︒という三つである︒けれども︑これは︑ダンホフ教授が自己の厳論を推しすすめるた めに便宜上分けたものと考えられる︒実際のところ︑グッドリチおよびデヴィソンの二氏による二分類とダンホフ教授に よる三分類との相違は本質的なものではなく︑したがつて大した重要性をもたない︒なおダンホフについては︑

Cl ar en ce H•

D an h . of ,   F ar m ,  M ak in g  C os ts  a nd   the 'S af et y  V al ve ':

0 18506 

i n t he   Jo ur na l  o f  P o l i t i c a l

 

no my ,  Vo lu me   XL IX ,  J un e 

1941 ̀ 

Nu mb er

 3

,  P.  3 18 . 

﹁おくればせながらも﹂という意味は︑安全弁説の批判については︑すでに一部分の紹介がおこなわれているからである︒

しかもその実は︑禁断の実ではな それより二十

その結論も︑落ちつくべきとこ

(5)

たとえば安全弁説批判の口火をきったグッドリチおよびデヴィソソ両氏の論文については︑経済史家の商村象平氏が戦後 すぐに詳しい紹介文を書いておられるし︵高村象平著﹁経済史随想﹂昭和二十六年刊︑塙書房︶︑またアメリカ史の研究 家たる中屋健一教授も︑安全弁説をめぐる論争についての文献をあげ︑かつ論争についてのごく簡単な素描をされている

︵中屋健一著﹁米国史研究入門﹂昭和二十七年︑弘文堂︶︒けれども高村氏の湯合は一論文の紹介にとどまるし︑また中 屋氏の場合は︑論争についてのまったくの手引にすぎない︒またアメリカの労働運動の研究家がとくにこの問題をとりあ げたこともなさそうである︒﹁おくればせながらも﹂この論文が書かれたのは︑たんにその程度の理由によるにすぎない︒

安全弁説の歴史は︑厳密には︑相互に関連しながらも次元のいささか異った二つの思想の流れを含んでいる︒そ

( 1 )  

の一っは広義の安全弁説というべく︑すなわち︑英本国の過剰人口の排出口として︑また植民地アメリカの工業発

展の拘束衣としての西部という思想である︒他は狭義の安全弁説といつてよく︑すなわち︑

社会的圧力の減圧弁としての西部という思想である︒前者は︑ アメリカとくに東部の

その性質上もっぱら独立以前の植民地アメリカにた

( 2 )  

いするものであり︑後者は︑独立前にもみられるとはいえ︑主として独立後のアメリカにおけるものである︒

(1

) イギリスの過剰人口圧力にたいする安全弁としてのアメリカというこの思想は︑たんに植民地アメリカにたいしてのみな らず︑独立後のアメリカにたいしても抱かれてきたものである︒十九世紀のイギリスの旧組合主義の指尊者たちが︑組合 資金をもつて労働者の合衆国への移住を援助せんとしたことは︑有名な事実であるけれども︑これなどは安全弁としての アメリカという思想の一典型であった︒またイギリスの移民たちのなかには︑宗教的移民︑政治的亡命者︑および追放さ れた犯罪者などが多数含まれていたから

(H en ry P el l i ng , A  me ri ca n  L a bo r ,  C hi ca go , 

1960, 

PP . 

1 6

︑安全弁はたん)

に経済的なものではなくて︑かなり社会的なものであった︒なおアメリカのフロンティヤーが︑たんにイギリスのみなら いわゆる﹁安全弁説﹂^

Sa fe ty V  al ve  Theory

について

(6)

る ︒

いわゆる﹁安全弁説﹂A

Sa fe ty a  V lv e  T h e o r y ; ; , , ‑

! , l

ついて

ずヨーロッパのそれであったことについては︑フレデリック・ターナー教授のいうごとくである︒すなわち﹁最初はフロ

ンティヤーは太西洋岸であった︒それは︑まったく真実の意味において︑ヨーロッパのフロンティヤーであった﹂とC

(F re de ri ck   Tu rn er  , Th e  Fron ti er   in   Am er ic an   Hi s t or y

1920 ,  

P.

 4) 

(2

)

アメリカの独立を契機にして安全弁説の内容の若干変化したことについて︑ヘ・ンリー・ス︑︑︑ス氏は︑つぎのようにいう︒

﹁アメリカの独立の確立とともに︑この種の経済分析︵イギリス工業にとつての安全弁としてのアメリカ自由地という思

想のこと︶の意味は変化した︒政策判断の基準は︑もはやイギリス商人の利益ではなかった︒それにかわって︑発展する

アメリカのナショナリズムは︑全世界の被抑圧者たちの避難所としての西部という人道主義的観念をいだいたのである﹂

と ︒ (H en ry Na sh   Smith, 

V ir g i n  La nd   ;  Th e  A me ri ca n  We st   as  S ym bo l  a nd   Myt h, e  N w  York, 

19 57 , 

P.

 

236) 

広義の安全弁説

広義の安全弁説のうち︑英国過剰人口の圧力にたいするそれについては︑

﹁今日合衆国となっている部分の東部海岸へのもっとも初期の植民地は︑他の憂慮とともに︑母国よりの過剰労働力の排出口の

発見への関心をももつていた人々によってつくられた︒実際植民地の成功は︑主として十六世紀および十七世紀初期におけるイ

ギリスの過剰人口にたいする憂慮によっていた︒早くも一五七六年には︑ハムフリー・ギルパート卿は︑その圧力を緩和する手

段として植民を擁護したし︑また数年のちには︑リチャード・ハックルートが︑その﹃西方植民論﹄のなかで︑

( 1 )  

多数の失業者のための多様な雇用のためのものとなろう』と論じえたのである。…•••」

本国産業を脅かす植民地工業の発展の可能性を否定する議論があらわれ

一七ニ︱年にロンドンの商人ジョシュア・ジー

Jo sh ua Ge e

これにたいして十八世紀にいたると︑ 短いが適切である︒

ヘンリー・ペリング氏の次の文章が︑

五八

(7)

と ︒

五九 ﹁⁝⁝土地が非常に値打ちの少ない湯合には︑小さな農場でささやかな家畜によって営まれる暮しは非常に楽であるから︑かれ

( 2 )  

らのほとんどは製造業を馬鹿にしている﹂

者の工業への転化を妨止するため 一七三一年には︑ペシシルヴァニアとデラウェアの植民地総督ウィリャム・キース卿

Wi ll ia m Ke it h

は︑植民

アレゲニー山脈以西の土地の下附を本国政府に要求している6またアレクサン

ダー・ハミルトンは︑前二者とは逆の立場から︑まったく同じ事実を指摘している︒すなわち

﹁⁝もともと製造業的見地によって惹かれてきたものの︑後にはそれを放棄して農業的見地をとるに至ろう外国人の増加は︑わ

( 4 )  

が市民のうち偶々立ち去つていくものに相当する数よりも多いであろう⁝⁝という可能性は大である︒﹂

と︒ただしかれにとつては︑西部は︑

( 5 )  

磁石にすぎなかった︒ アメリカ工業の発展に必要な海外の工業労働者を合衆国に引きつけるための

( 1 )

He nr y  F e ll i n g,   Am er ic an   La b o r,  

PP

. 

1 2  

(2

) 

He nr y  N as h  Smith, 

V ir g i n  La nd , 

P.

 

235 

(3

) 

I b i d . ;  

P.

 2

36 , 

すなわち︑そのエネルギーのかかる新しいはけ口︵新しい自由地のこと︶がなけれぽ︑植民者は︑煙草︑

米︑たうもろこし︑の過剰のために︑工業に転ぜざるをえないだろうと︑考えられたのである︒

(4

) 

Jo se ph c h   S a fe r ,  C on ce rn in g  t he   Fr on ti er   as  Safety

  Va lv e, i n    P o l i t i c a l   S ci e n ce   Q ua r t er l y ,  Vo ul me  L l l ,   Se pt em be r 

19 37 , 

Nu mb er  3 , 

P.

 4 1

1  

(5

)

この点についてツェファー博士はいう︒﹁廉価な土地は︑ときどきそれを利用しうるに至るはずのアメリカ生れの労働者

にたいする捌け口を提供するのみならず︑外国人労働者をわが海岸にひきつける磁石として作用するであろう︒かれ︵ハ

ミルトン︶は︑外国人労働者がまず産業にひきいれられることを期待したのだが︑結局はジェファーソンのいうように︑

^ ^  

Go   to   th e  p ol w  a nd   th e  ho e"

するであろう﹂と︒

( I b i d . ,

P.

 4 1

1 )  

いわゆる﹁安全弁説﹂A

Sa fe ty V  al ve  Theoryについて

(8)

いわゆる﹁安全弁説﹂^

Sa fe ty  V al ve   Th eo ry }>

について

ランクリンであろう︒ 狭義の安全弁説

いわゆる安全弁説︑すなわち狭義の安全弁説の朋芽は︑古く一六三四年にマサチュセッツ植民地においてみいだ

される︒その年に同植民地総督ウィンスロップ

Wi nt hr op

は︑植民者の土地保有が

( 1 )  

するために﹂制限された事実を指摘している︒しかし植民時代のもっとも有力な安全弁論者は︑

﹁北アメリカの領域は非常に広大であるから︑それがまったく定住されつくすには長年月を要するであろうし︑また完全に定住

( 2 )  

ないであろう⁝⁝︒﹂

一七九六年にアルバート・ギャラティン

Al be rt G al l a ti n も ︑

前にもふれたように︑合衆国の独立が自由の空気を溢れるばかりに卒むと︑安全弁説も英本国の利害を中心に考

えられることをやめ︑いまや世界のオアシスとしての合衆国が浮彫にされはじめる︒ジョージ・ワシントンもラフ

﹁わたしは︑世界の息子や娘たちが安らかにして︑

ァイエットにつぎのように書いている︒ と ︒

ベンジャミン・フ

( 3 )  

この国の幸福をおなじくその点に求めている︒

In cr ea se an d  Multiply

を遂行するという快よき楽

( 4 )  

の地におけるがごとく︑︑︑ルクと蜂蜜で豊かになろう︒﹂

﹁一部には工業の閑却化を妨止

(9)

障された独立は︑マルサスをはじめとするヨーロッパ経済学者たちの能く理解しえなかったものであることを強調

( 9 )

1 0

)  

した︒有名なジョン・・スチュアート・ミルの﹁経済学原理﹂も︑かかる自由地の影聾を無視してはいない︒

いま現実の社会的な運動への安全弁説の適用という観点からすると︑ 9もつとも生彩を放ったのは土地改革論者た

( 1 1 )  

ちである︒その一人ジョージ・ヘンリー・エヴァンス と ︒

いわゆる﹁安全弁説﹂A

S af e t y  V

al

ve

  T h e o r y ; ; , , ‑

! J .  

ついて

のうちの一っを示しうるにすぎない︒⁝⁝しかし反対にアメリカでは︑かかる団結は︑

( 8 )  

は西部に行くのだ。』ということを意味する•…•,0

一八四六年にはカルヴィン・コルトン氏

C al v i n C ol t o n

が登場し︑自由地によってアメリカの労働者たちに保 ﹁:・ヨーロッパでは労働者の団結は︑

と︒またジェファーソンも︑産業労働者たちが自由にして独立的道徳的なることにふれ︑

低の生存水準にまで落とすことが他の階級によって企てられるときには︑かれらはその職業を去り土地を耕やしに

( 5 )  

行く﹂ことに求めている︒

けれども︑安全弁説が真に安全弁説として成長するのは︑十九世紀においてである︒

一八三九年にはミシェル・シュヴァリェ

その理由を﹁かれらを最

ントン議員

Th

om

as

H.

 

nt

on

は︑労働賃金の上昇を妨げるために西部移住制限を企図するニュー・イングランド

( 6 )  

の工業家たちを攻撃している︒アリェ・マルチノー

H a r r

i e t

M~rtineauは、逆に労働不足と高賃金との解決を土地

( 7 )  

価格のひき上げに求めんとし︑

Mi

ch

el

C h  

e v a l

i e r

が︑有名な次の文章を書

﹃賃金をあげよ︑しからざれば︑われわれは愚かなことだが︑妻子もろとも餓死するだろ

Ge

or

ge

  He

nr

y 

Ev

an

s

は︑機関紙﹁ワーキング・マンス・ア

﹃賃金をあげよ︑しからざればわれわれ

一八二九年にトーマス・ベ

(10)

そして未来をバラ色に描く︒ いわゆる﹁安全弁説﹂A

Sa fe ty V  al ve  Theoryについて

ドヴォケート﹂のなかに︑数多くの安全弁説を展開している︒たとえば︒

( 1 2 )  

﹁必要なことは︑過剰な労働者が吸収されるよう土地が自由たるぺきことである︒﹂

﹁もし人々が自由に土地に接近できるならば︑労働者は服主に依存しようとしないだろうし︑その結果︑自己の力に応じて身を

( 1 3 )  

落とすかわりに︑自己にふさわしい社会的地位にまで立ち上るであろう︒﹂

と叫んだことで有名なホレイス・グリーレイ Ho ra ce  G re el ey

は︑賃金ひきあげの政策を労働需要の増加とその結果たる労働生産物の増大とに求め︑

﹁公有地を真の移住者に自由にして農業にできるかぎり転用し︑かつ効果的な保護関税によってわが製造業者たちにたいする安

( 1 5 )  

定と経験と変化とを確保すること﹂

を説いている︒そしてホームステッド法を弁護し︑これによってこそ

「·…••この大地に土地なき数百方人は、もはや孤児や乞食ではなくなろう。……すぺての市民が、他人のために働くか、それと

も自立して働<│ー

lこれが︑かれにはもっとも有利に思われようー│'かの選択権を附与されるときに︑そのまま留まつてストラ

( 1 6 )  

ィキをやるのは︑明かに馬鹿げているだろう︒﹂

とのべている︒ホームステッド法が通過するや︑土地改革の完成を夢みたグリーレーは︑いまや都会人の西部移住

「••…•もし諸君にして広大な自由の西部に分け入り、アンクル・サムの肥沃な土地から自力で農場を築きあげるならば、だれを

( 1 7 )  

も押しのけたり飢えさせたりすることはなかろう⁝⁝﹂

を喧伝しはじめる︒ と︒またおなじく土地改革論者であり︑かつ

( 1 4 )  

西

‑  

1,/ 

(11)

する末尾の章において︑

C

Mi ch el so n

上院議員︶ という反対論や︑またこれにたいして︑

' s u f f i c i e n t  

. .  

p ri c e  

を土地

﹁⁝⁝もし一青年にして植付をなして五エーカーの林檎園をよく手入れすれば︑十年もたてば︑要君は絹のドレスに事欠く必要

( 1 8 )  

もなく︑娘も金の耳飾りに困る必要もない︒﹂

一八五二年に連邦議会に提出されたホームステッド法案をめぐる論戦は︑安全弁説の集中的にあらわれたよき例

﹁このホームステッド法案は︑労働を工業州より農業州へ︑すなわち東部の工場より西部の農場へと移動せしめ︑その結果とし

( 1 9 )  

て労働費と製造費とを高めるだろう︒﹂ である︒たとえば' と ︒

︵ニュー・ヨーク州選出サザーランド

Su th er la nd

上院議員︶

﹁その︵法案の︶直接的傾向としては︑臓を求めている人々の一部をひき去ることによって職を求める競争を減ぜしめ︑かくて

(20) 後に残ったものを利するであろう︒﹂

( 2 1 )  

﹁各都市が︑その地下穴や屋根裏より飢え痩せおとろえた無用の人々を吐きだすのを援助するのは︑議会の務め﹂である︵アラ バマ州選出のウィリャム・スミス

Wi ll ia mS mi th

( 2 2 )  

といった賛成論などをあげることができる︒賛成論が南部出身議員のなかにみいだせるのは︑いささか愉快な事実

さて以上のように西部安全弁説は︑現実の開弁作用の有無を別として︑十九世紀をつうじての支配的な社会通念

であった︒かの惹眼のマルクスにしても︑その例外ではなかった︒その﹁資本論﹂第一巻の﹁近代的植民論﹂と題

賃労働者の独立農民化を妨げるにたる﹁充分な価格﹂

いわゆる﹁安全弁説﹂^

Sa fe ty a  V lv e Theoryについて

(12)

な集中﹂のために︑ いわゆる﹁安全弁説﹂A

Sa

fe

ty

a  V

lv

e  Theory:}>

について

に設定するというエドワード・ウェイクフィールドの処方を痛烈に批判し︑﹁ヨーロッ︒ハからの移民の波は︑西部

(23) への移民の波の洗い流しうるよりも︑急速に東部の労働市場に人間を投げこむ﹂ために︑さらに﹁資本の最も急速

( 2 4 )  

﹁この大共和国は︑移住労働者のための憧れの地ではなくなった﹂と論じ︑安全弁の作用に否

定的であったけれども︑しかしながらマルクスがさらに続けて︑

(25) まだヨーロッパの標準的水準まで落ちてはいない﹂というとき︑かれは︑

( 2 6 )  

作用を明かに認めていたものといつてよい︒ その限りにおいてではあるが︑安全弁の

﹁もしそれができることであるならば﹂土地の価格をひきあげるこ

(1

)

Fr

ed

er

ic

k  Tur

ne

r,

T 

he

  Fr

on

ti

er

 i n

 A

me

ri

ca

n  History. 

P.

 62

ターナー教授によれば︑﹁工業地帯としてのニュー・イ ングランドの自由なホームステッド政策もしくは廉価な土地政策にたいする反対の大部分﹂は︑これに根ざしているので あって︑その点で﹁これは︑意味深い考えである﹂とされている︒

( Ib i

d .P.62) 

(2

) 

Jo

se

ph

  Sc

ha

fe

r,

 C

on

ce

rn

in

g  t

he

  Fr

on

ti

er

 as

  Sa

fe

ty

  Va

lv

e,

i 

n 

P ol i

t ic a

l  S

ci

en

ce

 Quarterly, Sept. 

1937  P. 409 

3

︶アルパート・ギャラティンはいう︒﹁この国の幸福の原因を追求してみると︑それは︑市民の政治的諸政度のもつ叡智か らでているとおなじく︑その市民の享受しているところの住民数に比しての土地の大なる豊富さよりでていることが︑分

るであろう﹂と︒

( F.

J .  

Tu

rn

er

,  o

p . 

c i t . ,  

P. '1 91 ) 

(4

)  H

en

ry

a  N

sh

 Smith•

Vi

rg

in

 L

an

d,

.  P

 236 

(5

)  I

b id .

,  P. 

2 3 7

 

(6

) トーマス・ベントン議員は当時議会で審議中の法案にふれ︑それは﹁法律によって被救憔民をつくるという恐るぺき政策 ーすなわち北東部の貧民をして︑新しい地方に赴き︑土地を得︑独立の自由土地保有者となり︑そして自分の子供たちの ために安楽と独立の基磯をきづくことをさせないで︑かれらを職人として工場で働くように制限するところの残酷な立法

﹂であると攻撃したのである︒

( Ib i

d .,

P.237) 

(7

) かれは︑その﹁アメリカの社会﹂なる著述のなかで︑

﹁そこでは︑賃金下落と賃労働者の従属とはまだ

(13)

(C ar te r Go od ri ch   an d  S o l  Da vi so n,   Th e  W ag e Ea rn er n     ithe

  We st wa rd   Mo ve me nt

 I, 

i n  P o li t i ca l   S c i en c e   Q u a rt e r ly ,

 P.172) 

(8

) 

Go od ri ch  a nd   Davison,

  op .   c i t . ,  

P. 172 

(9

) コルトンはいう︒﹁労働者がこの意味で独立の力でなかった時代︑すなわち不満な申し出を拒むこともできないで尚も生 活したという時代は︑独立国としての合衆国の歴史には︑いまだかつて存在しなかった︒労働者がみずからの条件を命令

的に決定しえたということは、うそではない。…•••この広大な森林地帯は、アメリカの労働者たちにとつて、永久にでは

ないにせよ来る年々︑ヨーロッパの経済学者のまだ評価することのできなかつた独立の保障である︒マルサスがつまづ き︑マルサスの理論に疑いもなく影響されたマッカロックをも例外としないで︑マルサスの後継者たちがすべてマルサス に倣つてつまづいたのは︑こうした知識の不足であった︒かれらは︑労働者がいかに独立的たりうるかということを︑け っして知りえなかったし︑またかれらは︑自己の体系をば︑労働者は永久に動力でしかなく︑たんなる糊口だけで満足せ ねばならないという仮定の上に︑樹立したのである﹂と︒

( I b i

d .

P.173) 

( 1 0 )

︑︑︑ルはつぎのようにいう︒.﹁北アメリカおよびオーストラリヤ植民地の如き国においては︑文明の知識技術および高度の

蓄積欲と加ふるに無限の未占有地とが存するので︑人口如何に増加するも資本の増加はこれに容易に並行し︑却つて労働者 の不足こそ資本の増加を遅らせる主な原因である﹂︵ミル﹁経済学原理﹂

2

戸田正雄訳︑二五九頁︶と︒また﹁土地の割 に人口の多過ぎる国﹂においては︑﹁食物の高価なるため︑労働者の実質労賃少きにも拘らず︑労働の買手にとつては費 用大となり︑かくして低労賃と低利潤とが同時に存在するのである︒これと反対の例は︑アメリカ合衆国の湯合である︒

同国の労働者の裕福なることは︑最新の植民地を除き世界にその比を見ない﹂︵前掲書︑三六九頁︶と︒さらに﹁かのア メリカやオーストラリアの如く︑富者および人口の急速に増加しつつある新国においては︑まず最初は服用労働者とな り︑その後数年にして自営をなすに至り︑遂には他人を雁用するに至るというのが労働者の普通の状態である﹂︵ミル﹁

経済学原理﹂4︑戸田訳︑一0‑10三頁︶と︒

( 1 1 ) 土地改革論者たちについては︑たとえば

J.

R .  

Co mm on s  a nd o t   h er s ,   D

oc um en ta ry   Histo ry

o f  Am er ic an  l u d us t r ia /   S o c i e t y ,   V I I , 

PP. 

29 9,

 301302,  306307, 

Cl ev el an d,  1 9 1 0 .  

55J

4U

る ︒ (1 2) Wo rk

i

'M an 's Ad vo ca te ,  Ma rc h 

16

, 

18 44 , 

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G oo dr ic h  a nd   Davison,

  op .   c i t . ,  

P.175 

(1 3) Ib id .[ a  M rc h 

16

, 

1844 

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P. 178 

いわゆる﹁安全弁説﹂^

Sa fe ty  V al ve  Theory

について

六五

参照

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