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動態論としての金融論

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動態論としての金融論

その他のタイトル Monetary Economics as Dynamics

著者 小寺 武四郎

雑誌名 關西大學商學論集

巻 28

号 1

ページ 31‑44

発行年 1983‑04‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020798

(2)

関西大学商学論集第

28

巻第

1(19834月) (31)31 

動態論としての金融論

小 寺 武 四 郎

198212

20

日に関西大学商学部において故安田信ー教授の追悼会がもた れたが,その席で追悼講演を行う機会があたえられたことは私にとり大変光 栄なことであった。いま『商学論集』の「故安田信一先生追悼号」の発刊に 際し,その講演の大要を記して,安田信ー教授に対する私の追悼の辞とした い 。

安田信一先生とは特に個人的なつき合いがあったわけではないが,学会そ の他でお合いする機会が多く,その都度よく話し合ったものである。先生は 関西大学のバレーポール部の部長をしておられ,私も関西学院大学のバレー ボール部長をしていたので,良きライバルとして,しばしばコートサイドで もお目にかかったものである。

しかし何といっても学会でお会いしいろいろお話しする機会が多くあっ

た。学問の話しだけではなく,関西大学を卒業し関西大学に奉職する者とし

て負わねばならない苦悩,とくに商学部長として,あるいは理事としての悩

みなどについても話され,同じ立場にある私には同感できることが多くあっ

た。学会などで顔が会えばかならず私のところに話しに来られ,御健康のせ

(3)

32(32) 28巻 第 1

いか,言葉がだんだん聞きとりにくくなっていたが,いつも熱心に話してお られたことが,今ではなつかしい思い出となった。

安田信ー教授は金融論専攻者としては,私の方が少し年長ではあるが,比 較的同年輩の学者として今日まで注目し期待しつづけてきたかたである。今 日,論題を「動態論としての金融論」としたのは,このことが両者の共通の 関心事であったのではないかと考えられるからである。

私は『金融ジャーナル』から,私の研究逼歴について書くよう求められた とき,私は「動態論としての金融論を」

(1965

4

月号)と題をつけた。こ れが私が金融論を追うときの一つの願いであったのである。

安田教授には,私の知る限りでは

2

冊の著書がある。『貨幣本質論序説』

(産業経済社, 1951年)と『経済成長•発展と産業構造』(ミネルヴァ書房,

1957

年)とである。新進気鋭の経済学者として油の乗った頃だったように思 われる。

この第一の書物『貨幣本質論序説』については,私は「二つの貨幣原論」

(『経済学論究』

1954

1

月 , 第

7

巻第

4

号)と題して, 翌年に出た新庄博 先生の『貨幣論』(岩波書店,

1952

年)とあわせて書評を書いているが,こ の安田先生の『貨幣本質論序説』には「動態論的展開」という副題がついて いるのである。

第二の書物はまさに経済の成長論,発展論の追及である。ただ,この著書 では,主として,実物経済的な側面からの分析がなされており,金融的側面 からの追求がなされていないのが残念であるが, しかし,安田教授の関心 が,経済の動態の解明にあったことは確かである。

私は,さらにこの第二の書物で取りあげられた問題が,金融的側面から追 及されることを期待していたが,今,その期待が満たされる可能性がなくな

ったことは,悲しいことである。

このようなことから,ここで「動態論としての金融論」を考えてみること

(4)

動態論としての金融論(小寺)

(33)33 

としたのである。もちろん,ここで述ぺることが私自身の考え方であること は言うまでもない。

一般に金融といわれる事象の中には,経済的にまったく異った性質をもつ

2

種の事象が含まれている。しかも,経済的には性質を異にする

2

種類の金 融が,密接にからまり合っており,しかも,しばしば同一の金融機関によっ て扱われているのである。それは短期金融と長期金融とである。

短期金融は,本質的には,いわゆる前貸しであり,生産活動を円滑にする ためのものである。生産には時間を要し,生産費の支出が先行し,売上げに よる入金が後に発生する。生産ではなく流通面について考えても同様であ る。仕入代金の支払が先行し,後になって売上代金が入手できるのである。

この先行する支払代金を融資し,後の売上代金によって返済を受けるという のが短期金憩なのである。典型的には,銀行の商業手形の割引の形をとる。

これに対し,長期金融は貯蓄を投資につなぐ機能をはたすものである。貯 蓄によって総産出高の中から消費されずに残された財を,投資によって資本 財として,資本の追加分として活用してゆく,その継ぎをするのが長期金融 である。その硯実の姿にはいろいろの形態がある。貯蓄した家計が,企業の 新規に発行する株式や社債を購入するいわゆる直接金融の形態もあれば,貯 蓄した家計がその貯蓄分を金融機関に預金し,その金融機関が企業の発行す る株式や社債を購入したり,また長期の貸付をするといったいわゆる間接金 融の形態をとることもある。

いずれにしても,長期金融は資本蓄積にかかわる問題であり,その点で短 期金融とはその経済的な性質を異にするものなのである。しかし,それにも かかわらず,現実には,この経済的性質を異にした長期金融と短期金融とは 混交した姿をとっている。

第一に,両者は同じ銀行という金融機襲で取り扱われている。第二は,長

期資本が株式や社債といった債券の形をとっていることである。債務者にと

(5)

(34)28巻 第 1

っては長期の債務であるにもかかわらず,債権者すなわちこのような債券の 所有者にとっては,いつでも処分できる短期の性質をもった資産となってい るのである。

そして,金融面におけるこのような混交が実物経済の変動のみならず,そ の成長にも大きくかかわってくる。経済の不安定性を助長するような側面も あるし,経済成長を加速するような側面もある。

たとえば,ケインズ

(J.M. Keynes)

の『一般理論』では,まず投資が なされ,それによって乗数倍の所得が生みだされ,その結果,投資と同額の 貯蓄が形成されてくる,と考えられている。金融的側面から考えれば,この 投資の先行を可能にするのは,銀行の信用創造であるといえよう。このこと は,金融がつねに経済の動態にかかわりを持つことを示す一つの例である。

金融を動態論的にみることの重要性と必然性とを示すものでもあろう。

以下では,主として長期金融の問題について考えてみることにしよう。す

なわち,貯蓄•投資と,したがって経済成長の問題である。

最近ではすこし情勢が変ってきているが,日本の高度成長の原因は,しば しば,日本の高い貯蓄率にあると言われてきた。ハロッド

(R.Harrod)

の 成長論によれば,経済の成長率は貯蓄率を資本係数で割ったものとされる。

すなわち

G=•一s 

で示される。

G

は成長率であり,

S

は貯蓄率,

C

は資本係数である。硯実の 資本係数を算定することは,きわめて困難な問題であるが,仮りに日本の資 本係数が

2

であったとすれば,現実の貯蓄率はほど20 %であるから,成長率 は

10

%になるという考え方である。

ここでハロッドが導き出す成長率は,当然のこととして,貯蓄されたもの

がすべて生産的に投資されるということが前提となっている。それでは,現

(6)

動態論としての金融論(小寺) (

35)35 

実の経済問題を考える場合,貯蓄はつねに生産的に投資されると考えていい のであろうか。これには,経済学上いろいろの考え方がある。

たとえば古典的な経済学では,貯蓄は利子率の増加関数であり,投資は利 子率の減少関数であると考えられている。したがって,利子率は貯蓄と投資 とが一致する点に決まるとする。逆にいえば,利子率が変動することによっ て,つねに貯蓄と投資とは等しくなるというのである。貯蓄と投資とが等し いということは,貯蓄によって消費されずに残された財が,すべて投資によ って買いとられ,資本財として生産的に利用されるということを意味する。

貯蓄されたものは,すべて生産的に投資にあてられてゆくということは,産 出物の中で消費され

t

ぃかった財は,すべて投資によって買いとられるのであ るから,産出物はつねにすべて売りつくされるという楽観論となるのであ る 。

ケインズも,彼の『一般理諭』の中で, くり返し貯蓄は投資に等しいと主 張している。しかし,ここで注意せねばならないのは,ケインズが『一般理

論』の中でいう貯蓄•投資はいずれも事後的概念であるということである。

さらに注目せねばならないのは,この事後的な貯蓄•投資の恒等性について

のケインズの説明には, 2 種類のものがあるということである。

第一の説明は,総産出物のうち消費により取り去られなかったものは,す べて投資と考えられるという説明である。意図的に生産力を拡大するために 買いとられた資本財のほかに,なお売れ残ったものがあれば,それは在庫の 増大となっているはずである。意図したものではないとしても,それは在庫 投資の増加であり,それを加えた投資は,つねに貯蓄に等しいわけである。

古典学派における先の貯蓄•投資の一致は経済の均衡状態を示しているのに 対し,ケインズのこのような意図しなかった投資を含む貯蓄•投資の一致は

けっして経済の均衡を示すものではなく,経済の変動の要因をその中に含ん でいるものなのである。

第二の説明は,先にふれたように,投資があれば乗数作用により所得が増

加し,

投資に等しい貯蓄が結果するまで,•この増加が進むという説明であ

(7)

36(36)  28巻 第 1

る。この場合にも,投資が経済の変動の要因であると考えられているわけで ある。

これらの説明で,さらに注意しておくべきことは,貯蓄•投資の大きさが

何で測られているかということである。ケインズの『一般理論』では,経済 量の測定は実質クームでなされている。より厳密にいえば,賃金単位で測定

されている。したがって,ここでも貯蓄•投資は実質で考えられているとみ

るべきであろう。しかし,第二の説明の場合には,実質ではなく,貨幣によ

る名目で表示しても同じ説明が可能であろう。そのことによって,貯蓄•投

資の問題が金融的側面につながってゆく可能性があたえられてくると考えら れる。

また,ケインズは『貨幣論』では,物価変動の説明に周知の第二基本方程 式を用いている。すなわち,

E,I‑S 

冗=—+ー

  ・ o o 

である。物価水準冗は,生産物一単位当りの生産費ーできまるが,

その

変動は主として貯蓄•投資の差額によって生じると考えられている。

特に,この『貨幣論』の場合には,雇用の問題は視野の外にあり,物価の

問題が関心の中心となっているので,そこでの貯蓄•投資はすべて名目量で

とらえられているとみられる。

このように,古典的経済学では均衡状態の自然発生が前提的に考えられて

いたのであるが,今日では,経済変動あるいは経済成長の問題が,貯蓄•投

資の関係から動態的に説明されるのが一般的となっているのである。そして

現実の経済は貨幣経済であるから,この貯蓄•投資の問題は金融の問題,と

くに長期金融の問題として出硯してくるのである。

以上で,経済理論的にみて,貯蓄が資本蓄積,したがって経済成長の可能

性をつくり出すこと,また貯蓄•投資の恒等性が主張されているような場合

(8)

動態論としての金融論(小寺)

(37)37  にも,経済変動や経済成長を説明する鍵がこの貯蓄•投資の開係に求められ

ていること,などが明らかとなったと思う。そして現実の貨幣経済では,こ れが金融の問題として出硯してくることも理解できたと思う。

そこで,以下では,もう少し硯実に即して,この問題を金融の面から考察 してみることにしよう。

ケインズは所得処分について,二段階の決意ということを問題にした。す なわち,第一段階の決意というのは,所得を消費と貯蓄にどのような割合で 分けるかという決意である。そして第二段階の決意というのは,貯蓄にあて られた分を貨幣で持つか,それとも債券で持つか,この両者の割合の決定な のである。

周知のように,第一の決意にかかわる一般的な傾向がいわゆる貯蓄性向に よって示される。貯蓄性向は所得のうち貯蓄に廻される部分の割合であるか ら,当然,

1

から貯蓄性向を引いたものが,所得のうち消費される部分の割 合,すなわち消費性向なのである。そして,この貯蓄性向または消費性向の 大きさが所得乗数の大きさを決める。すなわち,この第一の決意は,ケイン ズ理論において重要な役割をはたす所得乗数の大きさを決めるという意味で 重大な意味をもつのである。

しかし,金融とのかかわりでさらに重要な意味をもつのが第二段階の決意 である。

ケインズは貯蓄分は貨幣か債券かのいずれかで持たれると想定している。

そしてこの両者の選択に決定的に作用するのが利子率であると考えた。逆に 言えば,この選択の仕方が利子率を決定すると考えたのである。これがいわ ゆる流動性選好説である。貯蓄分から債券を需要せずに貨幣を需要する。こ の貨幣への需要が利子率の関数であり,外生的にあたえられた貨幣の供給と 相い倹って利子率の高さがきまる。このようにして決まる利子率の高さに応

じて投資の大きさが決まってくる。

このようにして決まる投資の大きさが,ケインズにあっては,有効需要の

大きさを決め, したがって所得の大きさ,すなわち経済の活動水準の高さを

(9)

88(38) 28巻 第 1

決めるということになる。ケインズにあっては投資は有効需要の面だけで把 えられていたが,さらに,投資の二面性,すなわち投資は有効需要であると 同時に資本の追加, したがって生産力の増大であること,を認めるハロッド などの成長理論にあっては,投資は経済の成長率を決める要因としても重要 となってくるのである。

このように第二段階の決意の仕方は,経済の変動や経済成長にかかわるも のとして重要な意味をもつのであるが,ここではさらに現実的な観点からこ の問題を考察してみよう。

家計がその所得の一部を貯蓄する。この貯蓄分はその家計の保有する富の 追加である。問題はこの富の追加分を家計がどのような資産で保有しようと するかである。ケインズはその資産選択を貨幣と債券との選択に限定して考 えた。しかし現実的に考えるならば,この資産選択の対象となる資産は数お おく存在する。そして非常に大切なことは,どのような資産が選択されるか によって,経済に及ぼす作用が異なるということである。とくに選択される 資産の中には経済成長につながってゆくような資産と,経済成長にはつなが らない資産とがあることには注意せねばならない。

経済成長につながらない資産を具体的にあげるならば,まず金や宝石が考 えられよう。土地の購入もそうである。個人の貯蓄による土地の購入は,貯 蓄者個人の富の培加ではあるが,国民経済的にみれば,それは土地をふやす ものではなく,その経済的な効果は地価を上昇さすだけである。さらに外国 の資産の購入に向ったものも自国の生産力にはつながらない。

貯蓄分がこのような資産の購入に向うならば,それは個人的富の蓄積では あるが,一国経済の資本蓄積とはならず,貯蓄があってもそれは経済成長に はつながらない。

具体的な問題として開発途上国の経済成長の問題にふれておこう。所得水

準の低い開発途上国では当然の結果として貯蓄額は小さい。したがって,こ

の小さい貯蓄額が有効に生産的な投資に向けられたとしても,経済の成長率

はけっして大きなものとはならない。それにもかかわらず,開発途上国では

(10)

動態論としての金融論(小寺)

(39)39 

この乏しい貯蓄すら投資に結びつかない可能性が大きいのである。貯蓄の蓄 積で富の蓄積をはかった個人は,その富を最も安全な形で保有しようとする 傾向が強い。金とか土地を購入する場合が多い。さらに政治的不安があるよ うな場合には,その富を国外に持ちだすことも珍らしくはない。海外への資 本逃避である。資本の乏しい国から資本の豊富な国へ資本は逆流するのであ る。このような国にあっては,どのようにして貯蓄されたものを投資に結ぴ つけてゆくかが大問題なのである。

政治的社会的な不安定性が貯蓄を生産的な投資に結びつけることを阻げて いるのであり,さらに政治的社会的に一応の安定をえているとしても,金融 機関が未発達のために,貯蓄を投資に結びつけてゆくルートに欠けている場 合も多いのである。このような場合には金融機構の整備が重要な課題となっ てくる。

それでは金融機関の整備も十分である日本の場合には問題はないのであろ うか。問題がないとは言いきれないであろう。

日本における貯蓄の状況を大づかみに把えるために,まず

1981

年の「部門 別の資金過不足」(日本銀行調査統計局『資金循環勘定』による)を見ると 第

1

表の如くである。

1i981

年の「部門別資金過不足」

法人企業部門

‑ 78,018億円

個人部門

281,318 

公共部門

‑187,127 

中央政府 ‑ 96,518 

公社公団・地方公共団体

‑ 90,609 

金融部門

‑ 4,703 

海外部門

‑ 11,470 

(11)

40(40) 28巻 第 1

この表でみると,ネットで考えるかぎり,貯蓄の主体は個人部門だけであ る。ただ,この統計の個人部門には個人企業が含まれていることには注意せ ねばならないが,それにしても殆んどの貯蓄が家計によってなされているこ とがわかる。さらに,この個人部門の貯蓄がどのような形で保有されている かを見ると,この

1981

年の個人部門の資産の増加でもっとも大きな金額を示

しているのは定期性預金の増加であり,その額は

215,854

億円にのぼってい る。これだけで個人部門の資金余剰の約77 彩を占めている。日本における間 接金融の優位制がこの点だけからでも十分にうかがい知れるのである。

このように日本では貯蓄資金の大部分が金融機関に流れこんでし・ヽるのであ るから,貯蓄が有効に生産的な投資に結ぴついているかどうかは,金融機関 がこの資金をどこに流しているかにかかわる問題となる。

「部門別の資金過不足」からもすぐ推測できるように,もっとも大きな資 金不足部門は公共部門であり,次いで法人企業部門となっている。当然,金 融機関を通って個人部門の余剰資金が,この両部門に流れこんでいるのであ る。この年の公共部門の資金不足の内訳をみると, 中央政府が一

96,518

億 円,公社公団・地方公共団体が一

90,609

億円となっている。

金融機関のこの

1981

年の資産の増加からみると,最も大きく増加したのは 貸出金であり

349,945

億円である。次いで大きいのが有価証券の保有増であ り

196,121

億円である。このうちの

148,890

億円が公共部門の発行した有価証 券によって占められている。

以上,「資金循環勘定」を手がかりにして, 貯蓄資金がどのように流れた かをマクロ的に見たのであるが,このことをもうー度,貯蓄がはたして生産 的な投資に結ぴついているのかどうかという観点から検討することが必要で あろう。

1

表の資金循環勘定でまず目をひくのは,個人部門の資金余剰の約%が

公共部門の資金不足にまわっていることである。ちなみに

1965

年の「部門別

の資金過不足」をみれば第 2表の通りである。

(12)

動態論としての金融論(小寺)

(41)41 21965

年の「部門別の資金過不足」

法人企業部門

‑ 14,297億円

個人部門

25,176 

公共部門

‑ 9,205 

中央政府

969 

公社公団・地方公共団体

‑ 10,174 

金融部門

1,678 

海外部門

‑ 3,352 

この年には個人部門の資金余剰の%に近いものが法人企業部門にまわり,

生産的な投資にあてられているのである。とくに中央政府は少額ながら資金 余剰を示している。中央政府が決定的に資金不足を示しはじめたのは,

1975

年以降のことである。今日のような資金循環の様相で貯蓄分がはたして生産 的な投資に向っているのかどうかを知るためには,したがって,公共部門の 資金不足がなぜ生じているのかを考えてみねばならない。

1975

年以降の公共部門の資金不足を大きく拡大してきたのは,とくに中央 政府の資金不足が大きくなってきたためである。そして,この頃から,財政 の経常収支の赤字が生じたために,中央政府の資金不足が拡大してきたわけ である。

このことをもっと現実の金融に即して考察すると,家計の貯蓄が主として 金融機関に集中するいわゆる間接金融の形態をとる日本では,金融機関に集 った貯蓄資金によって,公共部門の発行する債券が大量に購入されるという ことになっているのである。しかも中央政府の発行する国債が買いとられて いるわけである。

金融機関の国債への投資であるが,国債には,いわゆる赤字国債と建設国

債とがある。建設国債の代り金として政府の手に入った資金は資本建設のた

めに支出される。道路となり港湾となり,資本財として存続しつづける。家

計の金融機関への預金の背後には建設国債が存在し,さらにその背後には道

(13)

42(42) 28巻 第 1

路や港湾といった実物資本が存在するのである。

これに反し,金融機関へ流入した資金が赤字国債の購入にあてられた場合 はどうであろうか。赤字国債の代り金として国庫に入った資金は政府の経常 的な経費のために支出され,いわば雲散霧消してしまうのである。国債を保 有する経済主体にとっては,その国債はきまった利子の支払をうける債権で あり,国債を持つことは富の追加であるが,国民経済的には,民間の債権と 政府の債務とが相殺され,けっして富の追加とはなっていないのである。赤 字国債の背後にはどのような実物も存在しないのである。すなわち貯蓄は投 資にはつながらないのである。それでは赤字国債の最終的な経済効果は何な のであろうか。それは納税者から国債保有者への所得の再分配でしかないの である。

このように貯蓄が投資につながらないような形で費消されてしまっておる とすれば,たとえ貯蓄率が高いとしても,高い経済成長が実現しないのは当 然のことである。マルクス経済学では擬制資本という言葉が使われる。すこ し意味は遮うかもしれないが,赤字国債はまさに擬制資本であり,架空資本 なのである。生産力を生みだすような資本とはならないのである。

最後に,今日しばしば論議を呼んでいる金融問題に一言ふれておこう。そ れは銀行預金対郵便貯金の問題である。

この問題は,近年の郵便貯金の急増に対する銀行の側からする反撥から始 まったと言うことができよう。論議の焦点は,遥常,両者間の競争が不公正 であるという点におかれているようである。一つ象徴的なことをあげておこ う。両者の論争がはげしくなっていた頃,しばしば郵政省と銀行協会の双方 から各種の資料を私などにも送付してきた。その際,銀行協会からのものは 多額の郵便切手がはってあったが,郵政省からのものは通信事務として無料 あつかいであった。

これは象徴的ではあるがあまり重要なことではない。郵便貯金には,かな

(14)

動態論としての金融論(小寺)

(43)43 

らずしも独立採算的な収支が明確になっておらず,したがって収支に赤字を 出しながらも,貯金に対して高利子を支払うことが可能であることなどはさ らに重要な事態である。また郵便貯金の利子率が金融政策の枠外で郵政省の 主導のもとできめられるといったことも問題である。

しかし,郵便貯金に過大な貯蓄資金が集まることのもっと根本的な問題は 別のところにある。それにもかかわらず,その問題があまり論議されていな いのは残念なことである。それは貯蓄資金が銀行預金に流れこむか,それと も郵便貯金に流れこむかによって,一国の資金の流れ方が変るということで ある。

郵便貯金により多くの資金が流れこむことは,国の経済の公的部門へまわ る資金がそれだけ多くなることを意味する。したがって,公的部門にまわっ た資金と民間部門にとどまった資金と, どちらがより生産的かが問題とな る。その際,今日の公的部門の資金需要の大きな部分が,財政の赤字公債に よって占められていることを忘れてはならない。貯蓄資金が赤字国債にまわ るとき,それはまったく生産力につながらないものであることは,すでに述 ぺた通りである。

このことを考慮するとき,郵便貯金に過大な資金がまわることが,かなら ずしも好ましいことではないことが理解できよう。しかもそれが不公正な競 争手段によって実現したとすればなおさら問題であろう。

もう一度,貯蓄がはたして投資につながってゆくものかどうかという観点 から根本的に考えなおしてみる必要のある問題なのである。

経済というものは,今日では,どのような未開の社会をも含めて,貨幣経

済の形態をとっている。したがって,貨幣の流れ,すなわち金融というもの

は,つねに経済の変動や成長にかかわりももってくるのである。金融硯象の

解明は,つねに経済の動態にかかわってくる。金融論が動態経済論の形をと

る必然性がそこにあるのである。

(15)

44(44) 28巻 第 1

たとえば,開発途上国の経済発展を考えるにしても,もちろん物的な生産 技術の習得が重要でないわけではない。しかし金融の仕組の理解と整備が一 層,重要なのではなかろうか。そして前者の習得の方がよほど容易であり,

後者の理解と整備は,・人間の社会の問題と直接にかかわりをもつだけに,一 層,困難であるように思われる。

もちろん動態論としての金融論の重要性は開発途上国にだけかかわる問題 ではない。先進工業国にあっても同様に解明されなければならない重要な問 題を提示している。とくに世界的に低成長が一般化しつつある今日,また新 たな課題が動態論としての金融論に課せられつつあるのではなかろうか。

安田信ー教授が念頭においておられたこともこのような動態論としての金 融論ではなかったかと推測されるのである。

(関西学院大学名誉教授)

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