中国帰国生徒のアイデンティティを育む教育 −大 阪府立高校における二つの民族サークルを中心にし て−
著者 田渕 五十生, 森川 与志夫
雑誌名 教育実践総合センター研究紀要
巻 10
ページ 43‑50
発行年 2001‑03‑31
その他のタイトル Education for Cultural Identity of Chinese−
Japanese Students
URL http://hdl.handle.net/10105/4155
大阪府立高校における二つの民族サークルを中心にして
田 渕 五十生・森 川 与志夫
(奈良教育大学社会科教育教室)
(奈良教育大学・大学院生)
EducationforCuIturaHdentityofChinese−JapaneseStudents
Isoo TABUTCHI・Yoshio MORIKAWA
(DepartmentofSocialStudiesEducation,NaraUniversityofEducation)
1980年代後半より、大都市圏の公立高校に中国帰国生徒の在籍数が増えた。彼(彼女)たちの教育に関わる課題を 解決する方途を探るために、大阪府立高校の民族サークルの実践を分析した。大阪府立上神谷高校の中国文化交流倶 楽部と大阪府立松原高校のJCBC(JapanChinaBridgeClub/中国と日本の掛け橋クラブ)の実践から、文化的ア イデンティティや異文化集団との関係性の意義について考察していく。
キーワード:中国帰国生徒ChineseTJapanese Student,
民族サークルEthniccircle,異文化適応Cross−Culturaladaptation
1.はじめに
1980年代後半から大都市圏の公立高校に残留孤児・
残留婦人の3・4世の生徒(以下中国帰国生徒と称す)
が急増した。大阪府教育委員会によれば、中国帰国生 徒は1997年には61高校に187人、1998年には53校に212 人、1999年には69校に258人と増加している1)。
彼(彼女)たちは高校生活において様々な課題を抱 えているが、これまでの研究では彼(彼女)たちの問 題点を指摘するに留まり、課題解決の方途を示す研究 が少なかったのが実情である。
広島市の公立中学校で中国帰国生徒の日本語指導に 関わっている倉谷は、中学校現場での課題として以下 の3点を挙げている2)。
(1)日本語や教科の学習上の課題。
(2)文化習慣の相違による生活指導上の課題。
(3)コミュニケーションギャップによる親子間断絶 などの家庭状況上の課題。
また留学生としての経験を持つ周は、中国帰国生徒 が日本社会に適応する際として次のような問題点を指 摘している3)。
(1)中国帰国生徒の帰属意識と帰国意識の布離の問 題。
(2)中国帰国生徒と日本人生徒間の相互理解の不充 分さの問題。
(3)中国帰国生徒と親とのコミュニケーションギャッ プなどの問題。
都立高校で中国帰国生徒に関わってきた清田は、中 国帰国生徒集団と日本人生徒集団はしばしば対立関係 に陥りやすく、その背後に言語問題があると指摘して いる4)。そして中国帰国生徒集団を少数派言語集団、
日本人生徒集団を多数派言語集団と捉え、日本人生徒 たちが文化の多様性を認識する教育がどうしても必要 であると訴えている。
中国帰国生徒の抱える課題を整理するには、彼(彼 女)たちが日本社会への適応においてどのような状況 に置かれているかを異文化適応モデルで一般化して考 察することが必要であり、ベリー(Berry)の四類型 は示唆に富んでいる5)。
第一は、文化的アイデンティティと特徴が保たれ、
異文化集団との関係も保持される「統合」(integration)
の状態。
第二は、文化的アイデンティティと特徴は保持たれ るが、異文化集団との関係が保持されない「離脱」
(separation)の状態。
第三は、異文化集団との関係は保持されるが、文化 的アイデンティティと特徴が喪失される「同化」
(assimilation)の状態。
第四は、文化的アイデンティティと特徴が保持され ず、かつ異文化集団との関係も保持されない「境界イu
(marginalization)の状態。
文化的アイデンティティと特徴の保持の有無を縦軸 に、異文化集団との距離を横軸にとると、下図のよう な概念図を描くことができる。
文化 的アイデ ン
離脱 (sep a ra tio n )
テ ィテ ィの保 持
総合 ( in teg ra tio n )
異文化集団 との 異文化集 団 との
庭 巨離が遠 い 距離 が近 い
境界化 同化
( m a rg in a liza tio n )
文化的 アイデ
(a ssim ila tio n )
ンテ ィの喪失
中国帰国生徒は、しばしば「境界化」GnarginalizatiorD の状態に陥りやすい。また周りの日本人生徒や教員は、
彼(彼女)たちが「同化」(assimilation)の状態に あるにもかかわらず、日本社会に適応したと誤解する ことがある。一方、中国帰国生徒が文化的アイデンティ ティを確立しても、日本人生徒と友好関係が作れない 場合、「離脱」(separation)の状態に陥りやすい。で は中国帰国生徒が文化的アイデンティティを確立し、
さらに日本人生徒と友好的関係を築く「統合」
(integration)の状態に達するにはどのような教育や 具体的な取り組みが求められているのだろうか。
本稿では、中国帰国生徒が母語(中国語)を保持し つつ文化的アイデンティティを確立していく大阪府立 上神谷(にわだに)高校の中国文化交流倶楽部の実践 と、彼(彼女)たちが日本人生徒との友好的な関係を 構築していく大阪府立松原高校のJCBC(JapanChina BridgeClub)の実践を取り上げ、彼(彼女)たちが
「統合」(integration)の状態に達するための具体的 な方途を明らかにしてみたい。
研究方法としては、上神谷高校と松原高校の教員や 生徒への聞き取り調査を行い、中国文化交流倶楽部や JCBC活動への参与観察を行う。また教職員によって 編集された実践報告の分析も行う。なお本稿で使用し た資料の大半は、既に公刊・公表されたものである。
2.上神谷高校における中国文化交流倶楽部の実践 大阪府立上神谷高校は1979年に開校した新設校であ る。1980年代後半から同校は「底辺校・教育困難校」
と位置づけられ、教員は生徒と徹底的に関わるように なる。その経緯を、中国文化交流倶楽部の顧問の山田 教諭(仮名)は、次のように述べている6)。
1980年代の後半から、本校の中途退学者がものすご く増えました。堺近辺の人たちからは、「底辺校・教 育困難校」という烙印を押されていました。本校の制 服を着ているだけで、「あれはダニ高や」と言われる ようになっていきました。制服を着ている本人達も、
「おれらダニもんやから」という意識をずっと持たさ れていました。
何をするにも教員が指導して「やれ」と言うのでは なく、一緒に行動します。学校謹慎をした生徒ととも に草むしりをし、ともに廊下の掃除をやるといったよ うにいろいろな形で関わります。
下校時にバス指導があります。生徒のバス乗車時に おけるマナーの徹底のため、教員もバスに乗り込み、
最寄の駅まで生徒を送っていきます。
家庭謹慎になった生徒の家には学年の教員で手分け して、ほぼ毎日家庭訪問をします。
そのような生徒との関わりのチャンスを意図的に作 り出すことにより、教員も生徒と一緒に上神谷高校を 作っているんだ、上神谷高校の教員は生徒と一緒に歩 んでいるんだという思いを育てていくことができると 思います。それをわたしは「学校への思い」と呼んで います。生活が破壊され、落ちこぼれの烙印を背負っ ている生徒たちは、教員自身で何とか彼らの「学校へ の思い」を育てないと、「人間としての誇り」を持っ ことができないという現実があります。
「ダニもん」という生徒の自嘲的な表現は、所属す る学校に誇りが持てず、セルフエスティーム(自尊感 情)が確立できない生徒の心境を表わしている。それ ゆえ在籍する学校に愛着と誇りを持たせること(「学 校への思い」)を通して、生徒が自分自身を肯定的に 評価し、「人間としての誇り」を回復させようとした
のである。
そのために、教員はできるだけ生徒と共に過ごす機 会を多く持つようにして、彼(彼女)たちとにラポー ル(信頼関係)を構築するよう努力した。そのような 実践のなかから、中国帰国生徒の民族サークル(中国 文化交流倶楽部)の活動が生まれたのである。
1989年、上神谷高校に1人の中国帰国生徒H(女子)
が入学した。翌年には3人となり、その後横ばいの状 況が続いた。しかし1996年には16人と急増し、現在30 人が在籍している。
1991年から中国帰国生徒に対し、中国人指導員の劉 氏がボランティアとして中国語指導を行うようになり、
1994年から中国帰国生徒による中国文化交流倶楽部の 活動が開始された。
中国帰国生徒は原則として全員中国文化交流倶楽部 に所属することになっている。その主な活動は、毎週 水・金曜日の放課後の中国語教室である。劉はこの中 国語教室を1998年まで担当した。また1998年度からは、
この中国語教室と平行して、大阪府の第8学区内の中 国帰国生徒を集めて第1・3土曜日に中国語学習会が 実施されるようになった。
劉は、日本社会における中国帰国生徒の生き方につ いて、次のように述べている7)。
「中国帰日華裔生徒」たちは「異国」においてよう やく自分に属する小さな空間ができました。自分の
「中国の根」を忘れないため、「中国帰日華南生徒」た ちは精一杯に中国語を復習、勉強し、むさぼるように 中国についての知識を吸収します。みなさんは華裔少 数民族として、第二の祖国、この「単一民族」と言わ れている国で、団結、奮闘し、生存、開拓、及び発展 して、かならず明るい未来があると、私は固く信じて います。
劉は、中国帰国生徒を「中国帰日華裔生徒」と位置 づける。彼(彼女)たちが中国に文化的なルーツがあ ることを「中国の根」と表現する。そして彼(彼女)
たちが文化的アイデンティティを確立するため堕、劉 は母語(中国語)の必要性を提唱し、その指導に尽力 する。
中国帰国生徒にとって、劉先生の中国語教室はどの ように映ったのだろうか。かって中国語教室に在籍し たAは、次のように述べている8)。
迷いが一度に晴れる日がやってきました。上神谷高 校の勉強会に参加してから、私の思想、行動は少しず つ変化し始めています。中国語が確なものになり、さ らに水準が上がっただけでなく、私の視野を広げ中国 文化の精華を見極め、さらにもっと重要なのは、同じ 山に登っている友人を見つけたことです。私はもはや さまよう孤舟ではありません。
「中国人」なのか「日本人」なのかとアイデンティ ティが揺れ動いていたAは、中国語教室で「同じ山に 登っている友人」(中国語・中国文化を学ぶ中国帰国 生徒)に出会う。そしてAは「中国人」としての文化 的アイデンティティを確立し、「境刑」blarginalizatiori)
あるいは「同化」(assimilation)の状態から脱して いくのである。
では「中国人」としての文化的アイデンティティを 確立した中国帰国生徒にとり、劉はどのような存在な のだろうか。Aと同様に中国語教室に参加したBは、
劉を次のように評している。(引用は原文のままであ
9)る)
劉先生からいろいろな中国文化を持らえました。特 に国内の情報が持らえました。実に、国内に関するこ と、私と王先生とは別々の認識がありますので常々に 争論があります。しかし、わたしは王先生が教えたの 中国文化が好きだと恩ています。私と王先生の関係は すっと生徒と先生の関係です。中国語で言いますと
「一日為師、終生為師」まだ、私と王先生の争論は
「求同存異」とはしいです。
Bにとり劉は、中国の文化を伝え、「中国人」とし ての誇りを抱かせる伝道者であり、「一日為師、終生 為師」(中国語で生涯の師)という存在である。この ように多くの中国帰国生徒は劉と出会い、彼を日本社 会で生きる「中国人」のロールモデルとみなすのであ
る。
中国文化交流倶楽部の部室には、中国語の書籍や日 本語の書架があり、中国帰国生徒は登校時、昼休み、
放課後と間断なく集まってきて語り合う。この部室を Cは、「上神谷高校に入学してから、私はもうさすら い人ではない。私は私たち帰国生の部屋を見出したの だ。そこで私たちはいろんな中国語の本を読むことも できるし、中国語の勉強も続けることができる。私は 本当の帰国生の生活を見つけたのだ。」と語っている。
一方、上神谷高校の教員は中国文化交流倶楽部の部 室をどのように見ているのだろうか。島田教諭(仮名)
は次のように分析している10)。
社会科教室(中国文化交流倶楽部の部室)に生徒が いなくなるのは授業中ぐらいだろうか。チャイムが鳴 ると、2分と経たずに生徒が飛び込んでくる。5分も するとほとんどの帰国生が教室に姿をみせる。とりと めのないお喋りをしたり、ふざけあったりしているが、
チャイムが鳴る2,3分前になると、波が引くように いなくなる。一番賑やかなのは昼休みで、ほとんど全 員が出席する。誰かが中国語のテープをかけ、中国語
のポップやロックが教室いっぱいに流れ出す。
食事を終えて、書架にある中国語や雑誌を読む生徒 もいる。現在準備室には中国語で書かれた教科書、小 説、古典など約80冊はどの中国書籍があるが、それで
も読書好きの生徒には物足りないらしく、新しい書籍 が入ると、ものすごく嬉しそうな顔をして、瞬く間に 借りていってしまう。(中略)
外国という常に緊張感を強いられる場所にあって、
社会科教室は単に「気の休まる場所」というだけでな く、日本で必死に泳ぎ続けるために必要な息継ぎの場 所ではないかと思う。あるいはマラソンの給水地点の
ような。
この部室は中国帰国生徒にとり、文化的アイデンティ ティを碓認する居場所である。またそこは「必死に泳
ぎっづけるために必要な息継ぎの場所」、あるいは
「マラソンの給水地点」と島田教諭が表現するように、
ホスト社会の有形無形の文化的同化への圧力に対し、
必死で抵抗している中国帰国生徒が母国文化を五感で 感じることのできる貴重な空間である。
しかし島田教諭は、授業の休み時間、昼休み時間、
放課後と授業以外の時間をほとんど部室で過ごす中国 帰国生徒の姿に一抹の不安を抱いている。教室以外に は中国帰国生徒の居場所がないのではないかと危惧し ているのである。
また一方日本人には、この部室がある種「異質な場」
と映っていることも否定できない。同僚の土田(仮名)
教諭は、この部室を「異国・中国にいるような錯覚を 覚える。まさに異国だ。だが、そこはまざれもなく上 神谷高校の社会科の部屋である。(中略) 中国語の わからないわたしは、彼らの問に挟まっていると軽い 疎外された気持ちになることがある。」と述べてい る12)。
では、日本人生徒と中国帰国生徒の間には、どのよ うな関係が成立しているのだろうか。武田教諭(仮名)
は両者の関係について、次のように述べている13)。
中国帰国生徒は社会科教室に居場所を求めて集まっ てきます。彼らはそこで中国語で話し、笑い、昼休み には中国の歌を聞きながら食事をとります。異国の香 りのする料理を、たまに分けてくれることもありまし た。中国の食べ物をくれるとき、「辛い?この味っけ いける?」とちょっと心配そうに尋ねてきます。中国 の味を拒否されるのが怖いかのように。
ロに落花生を放り込みながら、もし彼らがクラスで お弁当を広げたとき、異国の香りに気がついた周りの 同級生たちはどんな態度を示すのだろうと考えました。
何にも言わないだろうか。興味を持ってそれが何なの か聞いてくるだろうか。 (中略)
あるとき「日本人の友情というものは薄くない?」
と聞かれたことがありました。「薄いかな?」「薄いよ。
中国の友達は友達が大変なとき、きっと駆けつけてく れる。助けようとしてくれる。」「日本人は?」「日本 人は普段優しいけど、なにかあっても助けてくれない。
それは本当の友達じゃないだろう。」
「中国の味を拒否されることが怖いかのように」尋 ねた中国帰国生徒の態度は、日本人生徒から自己の文 化的特性を否定された経験からきたものであろう。
「日本人の友情は薄くない?」とか「日本人は普段優 しいけど、何かあっても助けてくれない。」という表 現は、現在のクラスでも日本人生徒との友情作りが困 難であることを示している。それは、日本人生徒と中 国帰国生徒との心理的な距離とともに、「日本人型友 情」への不信感を示している。その不信感が、中国帰
国生徒だけでグループを形成する要因になっている。
例えば卒業した中国帰国生徒Dは、中国帰国生徒だ けが集まる状況を、「でも私が一番気になるのは帰国 生(「中国帰国生徒」)同志がべったりとくっっいて、
積極的に日本人生徒と交流をしなくなり、と同時に日 本語の上達も遅いということです。現にそのような生 徒がいます。」と述べている14)。
日本語指導員として中国帰国生徒に関わる鍛冶は、
高校入試段階にある中国帰国生徒を以下の四つの集団 に分類している15)。
1.「幹部・留学生出身生徒」:中国社会で親が上位 階層出身である中国帰国生徒。
2.「知識青年」:中国において習得した「優等生文 化」が比較的強い中国帰国生徒。
3.「セミリンガル」:学習言語としての中国語・日 本語とも充分に習得していない中国帰国生徒。
4.「DP−1ize」:中国においても「優等生文化」が 比較的弱く、「反学校文化」を中国や日本で習得
した中国帰国生徒。
鍛冶によれば、「幹部・留学生出身生徒」は「一般 的高校」に入学し、「知識青年」と「セミLリンガル」
は「底辺校」に多く在籍するという。この分類によれ ば、上神谷高校の中国帰国生徒は「知識青年」に該当 するであろう。
中国帰国生徒の大学進学への課題を取り上げた友沢 によれば、1999年卒業した上神谷高校の中国帰国生徒 13名中10名が大学(7名が国公立、3名が私立)に進 学している16)。同校の日本人生徒の大学進学率(1学 年400名中20名で5%)と比較すると、中国帰国生徒 の大学進学率(77%)は非常に高い。
日本社会の「階級社会」化の状況を分析した佐藤に よれば、階層移動の手段として高学歴の取得が機能し ているという17)。いくつかの国立大学や私立大学の推 薦入試制度で、中国帰国生枠が設けられるようになり、
中国帰国生徒は日本人生徒と比べ有利な面がある。中 国帰国生徒は大学進学をし、将来は通訳など中国語の 能力を生かす専門職に就くことも可能であり、日本社 会での階層移動も期待できる。彼(彼女)たちと日本 人生徒とは、将来への展望と学校生活の目的が異なり、
それぞれの生活背景にある思いを共有する部分が少な い。その結果、中国帰国生徒と日本人生徒の間には友 好的な関係が生まれにくく、相互に干渉しない状況と
なるのである。
換言すれば中国帰国生徒は「統合」(integration)
ではなく、「離脱」(separation)の状態にとどまって いると解釈できる。したがって日本人生徒との相互理 解に基づく友好的な関係をどう作るかが、今後の上神 谷高校の中国文化交流倶楽部の課題となっている。
3.大阪府立松原高校におけるJCBCの実践 松原高校は、「地元高校育成運動」の高まりのなか で、1974年に開校した。「多くの子供たちが進学でき る地元高校」という住民の願いで開校した松原高校は、
同和教育を中心にした独自の教育実践を行ってきた歴 史を持っている。JCBC(JapanChinaBridgeClub
/中国と日本の掛け橋クラブ)の活動は、この同和教 育の実践が基盤にあって成立したものである。
例えば同校の実践に「私たちの人権を考える集い
(人権の集い)」という学校行事がある。人権について
「私は〜」という一人称で生徒が語り、参加者との感 動を共有しようという取り組みである。長年、松原高 校に勤務する森田教諭(仮名)は「人権の集い」につ
いて、次のように述べている18)。
そこには常に被差別部落出身者や在日韓国朝鮮人生 徒の宣言と、それに連なる生徒達の反差別の生き方が あった。例えばある在韓被爆者との出会いからその半 生を劇化し、集いの前日まで劇の猛練習を重ねる横で、
ある在日朝鮮人の生徒が「本名宣言」の原稿を書き、
仲間が笑顔で支えるというように。また「渡日生」
(「中国帰国生徒」)が中国残留者の孫として日本の学 校に学んだとき、誰にも言えぬ言葉の苦しみに耐え
たことを壇上で語ったとき、周囲の仲間が一緒に喜納 呂吾の「花」を大合唱するシーンもあった。
1960〜70年代の同和教育で「語り」を中心にした取 り組みが盛んに行われた。その取り組みを研究者の立 場から分析を行っている森は、生徒が自分を語ること で、セルフエスティームを確立し、他者の多様性に気 づき、豊かな人間関係を作ることにつながると、「語
り」の取り組みを評価している19)。
「私たちの人権を考える集い(人権の集い)」は、
その「語り」の取り組みを継承した実践である。「語 り」を通じて多様な背景を持っ生徒が存在することを 理解し、他者の痛みや想いに共感できるような生徒集 団を作っていくのである。松原高校には、多様な背景 を持っ生徒が支えあい、励まし合う幾っかのサークル 活動がある。
それらは中国帰国生徒と日本人生徒の交流サークル であるJCBC、在日コリアンの民族サークルである
「朝鮮文化研究会」、部落差別等の人権問題を考える
「部落問題研究会」、障害者の問題を考える「友の会」
などである。
JCBCは、「日本と中国の掛け橋」という名称が示 すように、中国帰国生徒と日本人生徒の友好的な関係 作りを目的にしたサークルである。
サークルの活動として、週に2回部員が集まり、卒 業生の指導のもとで中国語の学習や日本語の補習を行
なっている。基本的には生徒たちは自学自習で中国語 や日本語を学び、質問事項を卒業生などに聞くという 学習形態をとっている。JCBCの特定の部室はなく、
放課後に空いている教室を利用している。
また年に数回、1泊2日の合宿を行なっている。合 宿では部員たちの友好を深める飯食炊飯などの行事の 他、部員が自分の悩みを相談し合う内容のミーティン グを行なっている。
顧問である松島教諭(仮名)は、JCBC結成の目的
を次のように述べている卸)。
JCBCの顧問となった当初、私の中には、言語を学 べる場を設定するとともに、JCBCを「心が穏やかに なる場」とすることで、彼らが「中国人としての民族 意識」を感じられる場所にしたかった。〜中略〜
しかし、やがて「彼らが安心して自分を出せる場が 同朋の集団の中だけではなく、日本人の集団のなかに こそ創られることを目指すべきではないか?」と思い 至った。当然そのために必要なことは、彼ら周囲の日 本人が彼らの患いに共感し、「彼らとともに生きるこ とが楽しいことだ、自分を豊かにすることだ」と感じ る感性をはぐくむことが大前提であり、「渡日生」(中 国帰国生徒)といることが日本人の側を豊かにしてい
ること」に気づくことである。
様々な差別の問題が披差別者本人に問題があるわけ ではなく、彼を取り巻く周りにこそ問題があるのと同 じように、渡日生(中国帰国生徒)の心の問題は、彼 らを取り巻く側の問題なのである。
松島教諭が言うように、中国帰国生徒を取り巻く課 題は、ホスト社会(日本社会)の課題である。中国帰 国生徒が文化的アイデンティティを確立しても、周囲 の日本人生徒との友好的な関係が築けなければ、「離 脱」(separation)の状態に置かれることになる。日 本人生徒が中国帰国生徒と交流し、彼(彼女)たちの 文化的特性を認め、多様な価値観を受容する態度を培
うことが重要なのである。
しかし中国帰国生徒が「統合」(integration)の状 態に達するには、その一方で、中国語の保持も重要で ある。ではJCBCの中国帰国生徒は、どのような方法 で中国語を保持するのだろうか。また彼(彼女)たち にとって中国語や日本語はどのような意味を持つのだ ろうか。
共同執筆者の一人である森川は、JCBCの合宿に参 加し、彼(彼女)たちの中国語と日本語の使用状況を つぶさに観察することができた。合宿は2000年7月20 日から1泊2日の日程で実施され、参加者は20名(中 国帰国生徒12名、日本人生徒8名)である。1泊2日 の合宿でのミーティングでの参与観察の結果は、以下 の様に整理できる。
1・中国帰国生徒同志の会話は日本語が中心である。
冗談を中国語で言い合い、ふざける場面もあるが、
その場合必ず中国帰国生徒が冗談の内容を日本人 生徒に日本語で訳す。
2・中国帰国生徒が中国語で話す場合、必ずの誰かが 日本人生徒に話の内容を日本語に訳し、中国帰国 生徒同志、日本人生徒同志がグループにならない。
3・日本語がほとんど理解できない中国帰国生徒に対 して、常に中国帰国生徒と日本人生徒双方からの 支援がある。
4・日本人生徒で、授業で中国語を選択する生徒に対 して、中国帰国生徒が中国語を教えている。
JCBCの活動のなかで、中国語を保持している中国 帰国生徒が中心となり、中国語を忘れかけている中国 帰国生徒や日本人生徒を支援する。また日本人生徒が 中心となり、日本語が充分でない中国帰国生徒を支援 する。ここでの中国語学習、H本語学習は生徒が主体 的に行い、学習者であると同時に支援者でもある。
中国帰国生徒同志が中国語で会話するとき、中国語 がマジョリティ言語であり、日本語で会話するときは、
日本語がマジョリティ言語である。多数派言語が中国 語や日本語とその場の状況で変わることを体験し、中 国帰国生徒も日本人生徒も、マジョリティとマイノリ ティが相対的な関係であることを認識するのである。
またここでも生徒の「語り」が重要な役割を果たす。
中国帰国生徒・日本人生徒双方が他者の「語り」を聞 くことで、個々の生徒の生活背景からくる思いを知る。
そして意見を主張し、他人の意見を尊重する態度を身
につけていく。生徒の一人がコミュニケーション上で
支障が出れば、必ず周りの生徒が支援する。日本人生 徒が支援者になることもあれば、被支援者になることもある。中国帰国生徒も同様である。このように支援 者と被支援者の関係が一定でない状況のなかで、生徒 は支援と被支援の関係が相対的であることに気づくの である。
JCBCで中国帰国生徒は、どのようなアイデンティ ティを確立するのだろうか。例えば松島教諭(仮名)
は、卒業した中国帰国生徒Eについて、次のように述 べている21)。
「私は何人なんだろう?中国語も日本語も話せる。
日本人は私のことを中国人だと言う。でも国籍は日本 だから日本人だと思っている人もいる。中国に住む友 達は、私を中国人と思っている。でも日本人だと思っ
ている人もいる。そんな私は何人なのだろう?」と自 分自身に問い続けていたが、「私はわたしなのだ。中 国人でもあり、日本人でもある、でも中国人だけでも
ない、日本人だけでもない私。私は、全部私なのだ。」
という結論に達した者がいる。まさにそうなのだ。
「私は、私。ありのままの私」を肯定できることが
大切なのだ。これはまた私たち「日本人」の側にも言え ることであるし、生徒にも言えることなのだ。
「私は何人」と悩むEは、「中国人」という一方的 な民族アイデンティティにとらわれず、他者との関係 で「中国人でもあり、日本人でもある、でも中国人だ けでもない、日本人だけでもない私」という結論に達 し、「私は全部私なのだ」として、複数の民族的なア イデンティティを持つ自己をそのまま受容する。そし て「ありのままの自分で良い」という気づきが、他者 の多様性を受容する態度につながったのである。それ が「共に生きる」教育の内実なのである。
JCBCの部長であったFは、卒業式のスピーチで、
「共に生きる」教育について、次のように述べてい る22)。(引用は原文のままである)
「松高」で私は少しずっ自分を取り戻すことができ ました。自分の思いを伝えることで、共に悩み、考え、
歩んでくれる友達がたくさんできました。「中国人」
や「日本人」という枠組みを超えて、「共に生きる」
ことを肌で感じることができた3年間でした。(中略)
中国と日本の両方を知っている私にしかできないこ とがあると思い、「松高」だけでなく、いろんな場所 で自分をアピールし、思いを伝えてきました。(中略)
体育館でアピールするとき、緊張していましたが、
でもみんなの真剣な目に驚きました。みんなが聞いて いてくれるとわかって、力が湧きました。みんなに
「話しを聞いてくれてありがとう」と私は言いたいで す。
「松高」のみんなは私を一人の人間として接してく れました。「松高」に来てよかったし、みんなに逢え てよかった。「自分は生きているんだ」と実感できた
3年間です。
卒業式の様子はビデオに録画されている。Fのスピー チ前は、私語も聞こえ、リラックスした卒業式の雰囲 気だった。ところがFのスピーチが始まると、会場に は真剣さがみなぎり、私語はまったく聞こえなくなっ て、スピーチの終了と同時に満場の拍手が起こったの である。
Fは「みんなが聞いていてくれるとわかって、力が 湧きました」と言う。Fの「語り」を聞き「共に悩み、
考え、歩んでくれる」存在があって始めて、彼女は中 国帰国生徒としての「ありのままの自分」(自己)を 肯定できた。そしてFの「語り」から、日本人生徒も 多様性を受容することの大切さに気づかされたのであ る。満場の拍手は、Fの「語り」への連帯を表してい るのである。
執筆者の森川と田渕は卒業後9ケ月経過した12月9 日、Fと面談し、彼女のアイデンティティについて聞
く機会があった。「中国人としての立場を明確にして 生きようと思ったきっかけは何だったのか」という質 問に対し、彼女は実にさわやかに次のように答えてい た。
「松 高 で は 部 落 の 子 が 自 分 は 部 落 出 身 で あ る と 宣 言 し 、 そ の 立 場 に 立 っ て 行 動 す る と 言 っ た り 、 在 日 朝 鮮 人 が 自 分 は 朝 鮮 人 で あ り 、 朝 鮮 人 と し て 誇 り を 持 っ て い き た い と 訴 え た り す る 雰 囲 気 が あ り ま し た 。 そ の よ う な 仲 間 に 励 ま さ れ て 、 私 も あ り の ま ま の 中 国 人 の 自 分 で い い ん だ と 思 う よ う に な り ま し た 。」
Fの言葉を借りるならば、「中国人」や「日本人」
という枠組みを超え、それぞれ自分の置かれた立場を 自覚し、「自分は自分なのだ」と自己を受容する生き 方を学ぶ場所が「松高」なのである。
4.中国帰国生徒に関わる諸課題の解決に向けて 上神谷高校の中国文化交流倶楽部と松原高校の JCBCの活動を分析してきたが、ここでは二つの実践 を比較しながら、中国帰国生徒のアイデンティティに 関わる教育の意義について整理してみたい。
上神谷高校の中国文化交流倶楽部の部室は、日本社 会における「小さな中国」である。中国帰国生徒が
「中国人」という文化的アイデンティティを確立する には、「『異国』において自分に属する小さな空間」が 必要である。その空間に身を置き、中国帰国生徒同士 が交流することで、肯定的な意味で「中国人」として のアイデンティティーを確立することができた。しか
しその交流は、あくまで中国帰国生徒同士のもので、
日本人生徒を含むものではない。つまり中国帰国生徒 は、「同化」(assimilation)あるいは「境界化」
(marginalization)の状態から、「離脱」(separation)
の状態へと移行していったのである。
それに対して、松原高校のJCBCの活動では、「中 国帰国生徒が安心して自分を出せる場が同朋の集団の 中だけではなく、H本人の集団のなかにこそ創られる」
ことが目標とされ、中国帰国生徒と日本人生徒の関係 づくりが重視された。その取り組みのなかで、中国帰 国生徒は「同化」あるいは「境界化」の状態から、
「統合」(integration)の状態へと移行することがで きたのである。
またJCBCの実践から、生徒は「中国人」や「日本 人」という国籍によるアイデンティティや文化的アイ
デンティティが、本質的なものでないことに気づくこ とができた。
載は、固定不変的な文化的アイデンティティは存在 せず、またその前提となる「真性」文化にも疑問を提 す23)。中国帰国生徒を「中国人」あるいは「中国帰日
華南生徒」として捉えることは、日本人生徒を「日本 人」という枠組みでのみ一律に括ることに繋がり、生 徒一人一人が抱える固有性を見失うことにもなる。
ホールは、文化的アイデンティティが常に「あるも の」ではなく「なるもの」というように変容するもの と捉えている飢)。ホールは、ディアスポラ状況での、
ハイブリッドなアイデンティティを肯定的に捉えてい る。それは多様なアイデンティティを内包しながらも、
その場の状況で自己に有利なように選択するアイデン ティティを指している。
中国帰国生徒のアイデンティティを、「中国人」で あるか「日本人」であるかというように固定的なアイ デンティティと捉えず、多様なアイデンティティを包 括するものと捉えることが重要である。
JCBCの活動を通して、日本人生徒は文化の多様性 とともに、アイデンティティの多様性も認識する。そ してこの認識から、彼(彼女)たちは、中国帰国生徒 と日本人生徒という枠組みを相対化する視点を持っに 至るのである。
卒業生である日本人生徒Gは、「違うことを認め合 うことのできる環境のなかで、自分は変わっていった。
いろんな友達と出会った。その一つ一つの出会いは私 を成長させるきっかけとなった。」と述べている。こ のスピーチは、松原高校で、生徒が様々な背景を持っ 個人と出会い、相互に交流することで多様な文化やア イデンティティの存在を学んだことを立証している。
かつて日本の学校は海外帰国生に対して、「外国剥 がし」をしてきた。「外国剥がし」とは、帰国生が海 外生活で身につけた自己主張や文化的特性を剥奪し、
日本の学校文化に無理やり同化させようとしたプロセ スを椰捺した表現である。中国帰国生徒に対して、学 校教育は同じ過ちを繰り返してはならない。
日本の学校教育は今、ノヾラダイムの転換が求められ ている。中国帰国生徒の存在を「問題」として受けと 止める発想そのものが旧来の教育パラダイムである。
そこでは学校の機能を均質化した人材育成のみに限定 していたのである。中国帰国生徒の「自分は何者なの か」という真の意味でのアイデンティティを育む取り 組みは、多様性を志向する教育パラダイムの中に存在
しているようである。
引用文献・資料
1)平成9・10・11年度帰国児童生徒在籍状況実態調 票(大阪府教育委員会作成)
2)倉谷治賀子「中国帰国生徒の異文化適応例−ジャー ナル・アプローチを通して」
『中国帰国者定着促進センター紀要』第5号1997 年
3)周飛帆「中国帰国生徒の異文化適応に関する一考
察」(筑波大学)『教育学研究集録』15集1991年 4)清田洋一「中国帰国生徒の学校における準拠集団
について−学校における言語集団という視点−」
『中国帰国者定着促進センター紀要』第7号1999 年
5)Berry,J.W.Poortinga,Y.H.,Segall,
M.H,.&Dasen,P..R.1992.
CrossrculturalPsychology.
CambridgeU.P.pp.271−291
6)『劉先生とその仲間たち一中国帰国生徒の記録−』
第三集 大阪府立上神谷高校1997年114−125頁 7)同上105頁
8)同上104−105貢 9)同上 67−68貢 10)同上 71貢 12)同上 2−3貢
13)『劉先生とその仲間たち−中国帰国生徒の記録−』
第四集1998年133−134頁 14)同上 86−87貢
15)鍛冶致 「中国帰国生徒と高校進学一言語・文化・
民族・階級−」
蘭信三編『「中国帰国者」の生活世界』行路杜2000 年
16)友沢昭江「バイリンガル教育の可能性一中国帰国 生徒の大学進学との関連において−」
異文化間教育学会第21回大会研究発表抄録2000年 17)佐藤俊樹『不平等社会日本一さよなら総中流−』
中央公論社2000年
18)菊地栄治編『月刊高校教育2000年10月増刊号 進 化する高校深化する学び』学事出版 2000年 44 貢
19)森実「解放教育におけるカリキュラム想像の課題」
部落解放・人権研究所編『大阪発 解放教育の展 望』解放出版社2000年 58−81貢
20)前掲18181−182貢 21)前掲18184頁 22)前掲18185貢
23)載エイカ『多文化主義とディアスポラ』明石書店 1999年113−138貢
24)Hall,Stuart.1990.
CulturalIdentityandDiaspora.
Identlty:Community,Culture,Difference.
Ed.JonathanRutherford,
London:1awrence&Wishart.pp.222−237