O 世 界 の 中 国 学
ド イ ツ 中 国 学
西脇常記
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はじめに
寺田寅彦が一九三四年に発表した随筆に︑﹁電車で老子
に会った話﹂がある︒そこにはドイツのインゼル・ビュ
フェライ叢書に入っているアレクサンダー・ウラール訳の
﹃老子﹄が出てくる︒寅彦はこれを購入して電車の中で読
んだそうだ︒彼は︑﹁この独逸語で紹介された老子は最早
薄汚ない唐人服を着たにがにがとこわい顔をした貧血老人
ではなく︑さっぱりとした明るい色の背広に暖かそうな
オーバーを着た童顔でブロンドのドイツ人である︒⁝⁝同
じ思想が︑支那服を着ていてそうして栄養不良の漢学者に
手を引かれてよぼよぼ出て来たのではどうしても理解がで きなかったのに︑それが背広にオーバー姿で電車の中で
ひょっくり隣合って独逸語で話しかけられたばかりに一遍
に友達になってしまったような体裁である﹂と述べ︑日本
人の従来の注釈とは異なるこの翻訳を︑誤訳ありとしなが
らも高く評価している︒
寅彦は気に入った老子の断片を二︑三引いて解説してい
る︒その一つは﹃老子﹄第四一章の﹁大方無隅︑大器晩
成︑大音希声︑大象無形﹂である︒ドイツ語訳は︑﹁無限
に大きな四角には角がない︒無限に大きい容器は何物をも
包蔵しない︒無限に大きい音は声がない︒無限に大きな像
には形態がない﹂となっている︒﹁大器晩成﹂の本来の意
味は日本語に今も生きている通りである︒間違いは別とし
てこの解釈は数学者や物理学者には面白いと寅彦は言う︒
Iog‑一 ド イ ツ 中 国 学
ドイッ語訳者がこの翻訳の際にどんなテキストを用い︑ど
のような注釈書や参考書を用いたのかは分からないが︑わ
れわれ日本の中国学者が﹃老子﹄を読み︑翻訳するのであ
れば︑漢代の隠者であるとされる河上公と三国時代の王弼
の注をはずすことはない︒そこから出発する限り︑このよ
うな訳は生まれない︒
寅彦の言う﹁支那服を着ていてそうして栄養不良の漢学
者﹂(中国古典学者)のイメージは︑八〇年以上を経過し
てわれわれ日本人の中にもほとんどないだろう︒さらに言
えば︑漢学者の存在そのものも消えつつある︒しかし中国
学と﹁伝統﹂とは依然しっかり結びついている︒右で取り
あげたドイッ人の﹃老子﹄訳のように解釈者の立場から自
由に読み取ったり︑伝えられたテキストを軽々に変えるよ
うなことは︑日本の中国学者には考えられない︒日本の中
国学者はあくまで原典を重視し'm‑‑Rッパの中国学者は
原典を自分の眼で捉えようとしている︒そしてこの傾向は
歴史的産物なのである︒
さて本論に入る前に︑筆者のドイツとの接触について述
べておかねばならない︒最初は三〇年以上前である︒この
時は留学生として西ドイツに比較的長く滞在したが︑中国
学を専攻していたわけではなかった︒その後中国学を専門
にしてからは︑学会あるいはベルリン所蔵のトルファン漢
語文書の調査等で︑たびたびドイツに出かける機会を持つ ことになった︒しかしこれらは比較的短い滞在である︒
従って︑ドイツの中国学全般にわたって情報を正しく伝え
られるかどうかは︑実ははなはだ心許ない︒もっとも中国
学で教壇に立ってからは︑ドイツをはじめとする外国から
の留学生や研究者を数多く迎えている︒その経験は︑上記
の欠陥を多少とも補ってくれるだろう︒
いずれにしても︑事実は雄弁である︒そこでまずドイツ
の大学と中国学について少し述べた上で︑ドイツ中国学の
歴史をふり返ってみよう︒そして各大学の中国学講座の開
設の事情と︑そこに集まった教授や彼らの作品を紹介する
つもりである︒これらによって︑本稿の目的は自ずから果
たされるであろう︒
ドイツの大学と中国学
ドイツの正式な国名はドイツ連邦共和国である︒つまり
いくつかの州から成り立っており︑それを核に文化︑政
治︑経済すべてが動いている︒中央集権的な日本とは違
い︑例えば︑南のバイエルンと北のプロイセンでは風土︑
気質ともに随分異なり︑それが文化ひいては大学の特質に
も深く関わっている︒またドイツの大学には︑中世に創設
されてから六百年︑七百年の歳月を刻むものがいくつもあ
り︑日本の大学が明治以降に開学されたのとは比較になら
ないほど長い歴史を持っている︒しかし︑中国学が大学に
講座を開き︑講義︑研究活動を開始するのは︑以下に述べ
るように︑やっと百年前である︒従って︑有史以来︑中国
大陸との交流を持ち︑ずっとその影響を受けてきた日本と
は︑同じ中国学といっても︑その扱う範囲や扱い方には当
然相違がある︒
昨今︑日本の大学では︑講座の名前がどんどん変わっ
て︑何を研究しているのか分からない例も多くなったが︑
最近までは︑中国関係と言えば中国哲学︑東洋史(中国
盛史)︑中国文学︑
景風栗
諾国甲
字大ンヘン
ユI// 中国語といった語
が︑講座なり学科
なりに冠せられた
ものであった︒す
なわち日本で中国
学というのは︑中
国の哲学思想︑歴
史︑文学・言語を
扱うものと考えら
れてきたのであ
る︒現在でもその
認識は基本的には
あまり変わらな い︒しかしドイツでは︑中国学を表す︒︒ぎ9︒αq冨の示す範囲
はもっと広い︒大学の中では︑東アジア学科︑東アジア研
究所(OstasiatishesInstitut)6̀中に︑日本学(Japanologie)
や朝鮮fit}+(Koreanistik)とならんで中国学が置かれてい
る︒その扱う対象は︑中国に関するもの全てを含むことに
なる︒日本の中国学がいわゆる哲・史・文に限られてきた
のに対し︑その他に政治︑経済︑科学︑民俗学等々が含ま
れる︒日本でも近年は︑こうした様々な分野に目が向けら
れるようになってきた︒しかし例えば中国科学・科学史研
究のように︑ニーダムを初めとする欧米人の影響をうけて
始まったものも少なくないのである︒
またドイツでは︑中国学の扱う対象範囲は広いのに︑中
国学の置かれている大学は非常に少ない︒インターネット
の時代とあって︑いろいろな形でドイツの中国学の情報も
流されているが︑それを見ると︑九〇ほどある総合大学の
中で︑語学を含めて中国学を学べる所は二〇に届かない
し︑教授の数は四〇人(語学には教授はいない︒教師であ
る)ほどである︒筆者の勤務する京都大学の中国学関係
者︑すなわち綜合人間学部︑文学部︑人文科学研究所のス
タッフを数えると︑これに匹敵する︒つまりドイツの大学
では中国学はマイナーな学問だということである︒なぜ
か︒それは歴史が浅いからである︒大学での学問研究の歴
史の長いヨーロッパで︑中国学が講座として設けられたの
ドイ ツ 中 国 学
III
触れるつもりである︒
二中国学の歴史
e前史
ミュンヘ ン大学 中国学図書室
はフランスが一番
早いが︑それでも
一九世紀の初めで
あり︑ドイツでは
それよりさらに一
世紀遅れて二〇世
紀の初めであっ
た︒それらは当然
ヨーロッパのアジ
ア進出と深く関
わっている︒これ
については︑以
下︑中国学の成立
の歴史を見る中で
一般的に︑ヨーロッパ中国学の起源は︑大航海時代以降
にイエズス会宣教師のもたらした中国に関する新知見で
あったと考えられている︒中でも︑明末から清初に天文学
や暦学で活躍し︑清では暦法を司る役人となったアダム・ シャール(JohannAdamSchallvonBell,1591‑166°︒︑中国名
は湯若望)は有名であるが︑彼はドイツのケルン出身であ
る︒
またイエスズ会士アタナジウス・キ^.Lヤ^(Athanasius
Kircher,1602‑16°︒O)は︑フルダの近くの小村︑ガイザで神学者の息子として生まれ︑自らも神学者の道を歩む︒彼自
身は中国に行くことはなかったが︑その下には︑宣教師た
ちからの手紙や書物の形で︑中国の情報知識が集められ
た︒
彼がある時から関心を示したのはエジプトの神聖文字
(ヒエログリフ)であった︒そしてそれは言語と宗教の起
源探求と結びついた︒旧約聖書に見えるバベルの塔の事件
までは︑あらゆる人々はアダムと同じ言語︑つまりヘブラ
イ語を用いていたが︑その事件の後に言語に分裂と分岐が
起こって混乱が生じ︑宗教も同じ道を歩むことになった
と︑キルヒヤーは考えた︒この頃︑宣教師たちによっても
たらされた中国の象形文字を見て︑彼はエジプトのヒエロ
グリフと起源を同じくするものであると確信した︒そして
ノアの大洪水後に︑その子孫がエジプトにわたり︑そこか
ら中国にも文字や宗教が伝えられたと結論づけた︒これ
は︑彼以前から主張されていた中国文化の西欧起源説を補
強することになった︒
キルヒヤーがいかに漢字を注視したかは︑彼の著書の