亜欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版『全世界新地図 帖(ニユウエ・アトラス)』の銅版画(下)
著者 菅野 陽
雑誌名 美術研究
号 330
ページ 7‑13
発行年 1984‑12‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006366/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
亜欧堂田善製作の銅版画と
﹃ 全世界新地図帖 ﹄ 阿蘭陀版
ア ム ス テ ル ダ ム 刊 の
﹃世 界新 地図 帖﹄
田善が原画を得た表記の地図帳には︑
その刊行年は何処にも見出せな い︒その地図帳の第一冊の見返しには
﹁万
国輿
地図
﹂︑
第二冊には﹁万
国地図﹂と墨書した貼紙があり︑
﹁静
岡学
校﹂
の矩形印が第一冊の最終
にある地図の裏に押してある︒
また地図帖の各地図の諸所に金︑銀の短冊状に切った小さな紙に︑漢 字や片仮名を墨書して貼り込んである︒もっともそれらの小紙片表面は 黒変して︑文字は判読しにくくなったものが多い︒その小紙片上に地名 等を和訳して貼ったのは︑寛政二年(一七九
O
﹀戊九月﹃阿蘭陀全世界地図書訳﹄上中下三巻の訳稿を完成した長崎通詞本木仁太夫良栄であった
こと
は︑
訳 文 中 に
﹁今此図上に小金紙ヲ以テ左右‑一字ヲ記スル符号
﹂などとあることからも明らかである︒
その﹃阿蘭陀全世界地図書
訳﹄
(松
平定
晴氏
旧蔵
︑
と葵文庫所蔵の
﹃世界地図帖﹄の内天理図書館蔵)
容の始めの一部分の比較対照は﹁葵﹂十八号(昭和五九年二月﹀に山本正
亜欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版﹃全世界新地図帖﹄の銅版画(下﹀
の銅版画 (下﹀
声量手
目
野
陽
氏によって為されている︒
しかし刊年不明の原本の地図帖が詳しく紹介されたことはなかった︒
それぞれが縦万センチ︑横山センチ︑厚さが
7
センチもあるこの地図帖
t主
一冊でもかなり重い大きな本である︒茶色の厚い草表紙には表裏と
も天球を担うアトラスが描かれ︑
その周囲に装飾文様と二重にかこんだ 矩形の輪廓が箔押しされた豪華な装隙である︒内容の概略を多少の検討
を加えながら紹介したい︒
第一冊は銅版画の扉画で始まるが︑
それにはアトラスや四頭の馬の曳 く二輪馬車にのる太陽神へリオスが上方に描かれ︑山上には水の流れ出 る査に寄りかふった老人や︑城壁冠や果実を盛った冠を戴く寓意的な婦 人や黒人など十数人の像や動物等が描かれ︑
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り少し下の台にラテン語︑下辺に
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・と フ ラ ン ス 語 で 書 い て あ る
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︑この扉画の原画作者︑
彫
版 者を示すものだと思うが︑詳細は判らない︒
七
美
研
号
究
第
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術
『 ニ ュ ウ エ ア ト ラ ス 』
表紙
静岡県立中央図書館蔵 挿 図1
タ イ ト ル ペ ー ジ 同右
挿図2
次はオランダ文のタイ
トル
ペ
I
ジである︒本木
﹁ 世 界 良
ノ 牙く
四 の 方 訳
ヲ の
分
2
は別;じ
タ チ め ノレ Uこ
新 地
図ナリ﹂とあるが︑
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の 後の訳と出版者の読み方 が今日とは異る︒下辺の 二行の上に彫刻銅版画の カットがある︒最下段の 印刷出版者二人の頭文字 を組合わせた紋章ふうの ものを囲む天使の群を彫 カール回2
ロω丘 一E S
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は一六七三年のパリ生れ︑E
つであるが︑下に回・H V ‑ 2
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吋と読める︒ωC一七三三年アムステル ベルナlル・ピ
ダムで死んだ彫刻銅版画師︑木版画師︑細密画師でもあり︑
十八世紀の 仕事をした
︒
彼は本の仕事に関係したが︑初めの三分の一世紀にフランス派の影響を受けたオランダ彫版家として
ショメi
ル百科辞典一七四 は第二冊目のタイトルベ
lジにも使われている︒
年版にも挿画銅版画を残している︒そのピカ!ルの同じ銅版画のカット
次の
︒
へlジには茶色がかったベンの字で︑
に内容の表題が書いてある︒
オランダ語を主にして二列
明文字はフランス語︑ラテン語などで印刷され︑
このアムステルダム刊の地図帖の各図の説
オランダ語は僅かしか 使われていない︒印刷文字ではなく︑
ベン字で書いた目次は長崎の蘭館
j¥、
それはリ
l
ディンガ!の
﹁諸国乗馬図帳﹂
のオランダ人が日本人のために書いたものではないかとも考えられる︒
の各図の下に︑独仏の二カ国 語あるいは独仏ラテン語の三種類の言葉で馬の出身地の刻字があり︑そ の下に同様のことをオランダ語のベン字で書いてあるのは︑
日本人のた めに蘭館のオランダ人︑が書いたものと考えられるのと似ているからであ
以上の扉画タイトル︑文字タイトル︑
る︒もっともその目次にはフランス語の表題も多少残っている︒
C
オランダ語の目次をA
︑B
その次から彫刻銅版画の地図等が入っているが︑始めの五枚は南ル ﹂
1
レ︑
北の両天球図︑東西両半球図による地球全図︑北半球図︑南半球図︑距
離図表で︑
係︑黒海周辺関係︑ロシア関係︑東欧︑
六枚目はヨーロッパ図になる︒そしてイギリス関係︑北欧関
v o
イa
ツ ︑ オランダ関係などの各
地の地図で第一冊は終る︒
『 ニ ュ ウ エ ・ ア ト ラ ス 』 第1冊にある天球図
田中道口の原画として結びつく
直接的図像は全部この巻に
ある
第二冊は ︒
A
が文字タイト ル ︑
B
がオランダ文目次で
次から地図が始まる︒
ス。
" " ' "
イン
︑
フ一
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イタリアなどでこの巻の半
挿 図 3
分組までを占める︒ヨ
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ロ
ッパ以外の大陸︑アジアは
必図から
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図まで
︑
アフリ
カ大陸関係は臼図から侃図まで︑
ア メ リ カ 大 陸 で は 南 北 ア メ リ カ が
ω
図 一 枚︑ 北 ア メ リ カ は 刊 か ら 幻 図 ま で の 十 三 枚
︑ 南 ア メ リ カ は お か ら 釘 図 ま で の 五 枚 で あ る
︒ 最 後 の 一 枚 は 地 図 で は な く
︑ 戦 争 用 機 械 の 図 表
︑ 本 木 訳 で は
﹁町開術器械城郭火術弁軍器等ノ図﹂
の 銅 版 図 が 地 図 よ り は 多 少 大 き な 紙 に 刷 つ で あ る
︒ 以 上 が 大 冊 二 巻 の 地 図 帳 の 内 容 で あ る
︒ 刊 年 の 表 記 の な い こ の 地 図 帖 の 製 作 年 は 地 図 そ れ ぞ れ の 製 作 時 期 や 地 図 製 作 者
︑ 出 版 者 等 の 活 動 年 代 な ど か ら も あ る 程 度 つ め て い く こ と が で きる
︒ この地図帖の中で年代の記録のあるものは次の通りである︒
第 一 冊
B
ー 一 七 三
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ヨーロッパl
一七三3
︑半 球 図 ー 一 七 四
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︑九︑おドニエプル︑幻ポ
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ド│一七八一︑5 5
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一七 三八
︑
レジア│一七四一︑
日低ルサティア│一七五九︑
町 高 ル サ テ ィ ア
! 一 七
五九
︑ 印パパリア│一七四五︑
約 ナ ミ ュ
lル
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一七
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四 ︑
の十か所︒
第 二 冊
必 ア ジ プ ロ シ ア
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一七 四八
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︑七七 四︑ 河北アメリカ│一七六七︑
ねアメリカ 九カナダ
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一 七
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三 ﹀ ︑合 衆 国 ー 一 七 八 三
︑ 江 コ ネ チ カ ッ ト
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一七八O
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一七五本木訳は北亜墨利加安的児列島ノ内ヱウスタテユスト名ル小島大図
八
︑ 回 セ ン ト
・ エ ウ ス タ テ イ ユ ス
│ 一 七 七 五
︑ お 南 ア メ リ カ
l
一七五七
︑ 以 上 十 か 所
︒ 年 号 の 下 限 一 七 八 三 年 は イ ギ リ ス が 合 衆 国 の 独 立 承 認 の 予 備 条 約 を パ リ で 結 ん だ 年
︑ 上 限 は 一 七
O
三年
︑ つ ま り 十 八 世 紀 の 初 期 か ら 八 三 年 ま で の 八
0
年 間 に わ た る 期 間 に 製 作 さ れ た 地 図 を 集 め た 地
図帖である︒
その地図帖の製作期聞が長期にわたったのは︑
そ れ を 刊 行 し た ヨ ハ ネ ス
・ コ フ ェ ン ス と コ ル ネ イ レ
・ モ ル テ ィ
l
ル 商 会 の 成 立 ち を 見 る こ と に よ っ て 明 ら か に な る
︒ 彼 等 が コ フ ェ ン ス
・ モ ル テ ィ l ル の 商 号 で 地 図 の
亜欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版﹃全世界新地図帖﹄の銅版画(下﹀
印 刷 出 版 業 を 営 み 始 め た の は 一 七 三
O
年頃からとも︑一七一二年からと もいわれているが︑彼等はピlテル・モルティlルから業務を引継︑ぎ請 負ったものだった︒
ピ
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テル・モルティ
l
ル は オ ラ ン ダ の 地 図 業 界 で 活 躍 し た の は 一 六 八 五 年 か ら 一 七 一 九 年 頃 の 間 と さ れ る
︒ 息 子
︑ 孫 に も 同 じ 名 前 を つ け た
︒ そ れ と は 別 に ダ ヴ ッ ド と い う 息 子 も い た が
︑ 彼 は ロ ン ド ン で イ ギ リ ス の 地 図 帖 五 巻 を 一 七 一 五 年 か ら 二 八 年 ま で に 出 版 し て い る
︒
コル
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モルティ
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テ ル と が ど ん な 親 戚 関 係 に あ っ た の か た だ 同 姓 で あ
ったのかは明かでない︒
モ ル テ ィ l ル 商 会 は 次 の 世 紀 の
コフェンス︑
八六六年まで業務を続けた︒﹁ニュウエ
アトラス﹂
にはコフェンス・
ジュニアが加わって︑名を連ねた地図が二︑
三あ る︒ 十 七 世 紀 後 半 の オ ラ ン ダ の 地 図 業 界 で は
︑ 地 図 の よ り 古 い 原 版 が
︑ あ る 印 刷 一 家 か ら 他 の 印 刷 一 家 へ 移 動 し た 跡 を 辿 る こ と が で き る
︒
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ル・モルティ
l
ル は 彫 版 師 で 地 図 販 売 人 の ピ
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テル・シェンク
司目
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¥ 忌 か ら 一 六 九 四 年 の 競 売 で ヤ ン ソ i ン
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の原版を手に入れ︑5 白AF
一七
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六 年 に は 三 代 続 い た フ レ デ リ ッ ク
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・ ウ イ ッ ト 甲 包
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当日
同の
死後
︑ そ の 全 ス ト ッ ク を 譲 り 受 け 出 版 権 を 買 取 っ て い た
︒ そ の デ
・ ウ イ ッ ト は 一 六 七 二 年 の 火 災 で 破 壊 し た ヨアン・ブラ!ウ
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ロH印沼山
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の 印 刷 所 か ら
︑ 焼 け 残 っ た 版 を 買取っていた︒ピ
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テル・モルティ
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ル は 十 七 世 紀 末 頃
︑ 以 上 の ほ か フ ラ ン ス で 種 々 の 地 図 を 製 作 し た ニ コ ラ
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﹀ の 地 図 を 再 版 し た り
︑ 彼 の 地 図 の あ る も の の 出 版 権 を 買 っ て
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し た が っ て 十 八 世 紀 の 十 年 代 の ピ l テ ル
・ モ ル テ ィ l ル の 原 版 の 九
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研
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号
都?
究 第
ストックや買取った地図の出版権は莫大なものだったろう︒それを引継 いだヨハネス・コフェンスとコルネイレ・モルティ
I
ル商会は十八世紀 前半のオランダ地図業界では数少ない有力な商会の一つであった︒
当時の風潮は大規模な世界各地の地図を多数の版に彫り︑大部の地図
帳に仕立てるのが特徴だった︒
コフェンス・モルテイ
lル商会もいくつ
かの地図帖を出版した︒そのほとんどはフランス地理学派の創立者とい われるニコラ・サンソン
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ミやドウ・リールの己口白日ロo
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N∞の地図に拠っていた︒ピ!テルモルティlルの時
代から一六五八年サンソンの第二回目の地図帖を出版し︑
ドウ・リlル のアトラl
ス・ヌーボーの最初のものはアム久テルダムのコフェンス・
モルティlル商会から出版され︑
さらに一七
一年から六
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年にかけて
の聞にも同商会から出版された︒しかし生産高こそ大量であったが︑そ
の頃までには︑
かつて貿易や船海に貢献した海図を作り︑繰り返し複製 されたブラ
l
ウの地図帖を産み出し︑十七世紀を通じて市場を左右した 偉大なオランダの地図製作は衰退の道をたどっていた︒
より後期のオラ ンダの地図出版業者たちの作品は剰窃と模倣ばかりだった︒地図製作の
主導権はフランスに移った︒
フランスの理論と科学が十八世紀を支配し た︒しかしアムステルダムの版彫りの伝統はなお生き続け︑
イギリスの
地図製作者たちはそこで地図の原版を彫らせていた︒
葵文庫の二冊本の﹃ニュウエ・アトラス﹄
の 第 二 冊 の カ ナ ダ の 地 図
』ま ス ケ ル ト ン の
﹃ 装 飾 印 刷 地 図
﹄
司江
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図版乃に同じ図版が載っており同書六九ページの挿S 画の注でドウ・リ
lルの一七
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三年作の地図であることや︑
コフエン
。
ス・モルティl
ルがこの原版を所有していることや日付が削除されてい この地図が種々のアトラ
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ス・
ヌ
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ボウの版にいれられたこと
るこ
と︑
を述べている︒なお奥書を囲む装飾枠の美しいデザインであることはそ
の注と同書の他の個所でもふれ︑
フランスの植民地支配が王の紋章と僧 侶と弁護士との姿で象徴されていることを指摘している︒
葵文庫の二冊本の各地図の年記のあるものについてはすでに記述した カ1
フランス学派の地理学者たち製作の地図が右のカナダの他にもある し
オランダの地図業者の名前の入った地図もあるので︑それらを列挙
してみる︒
第一冊
フランス学派
二
O
図図 ジアイヨオドウ・リlル オランダの十七世紀の同業者フレデリック・デ・ウイット
二九図
第二冊
フランス学派
ド ウ
・
六図サンソンジアイヨオ
図
リール三三図
オランダの十七世紀の同業者
フレデリック・デ・ウイット
一二
図 同オッテンス
二図
余人の名を挙げず︑
コフェンス・モルティ!ルの名だけを挙げてあるの は第一冊では九図︑第二冊では十三図ある︒地理学者向︒
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を名乗
ったものもあるが︑
作者
2 8
印刷所︒自己
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︑等種々な名称を自らに
冠している︒
スケルトンは彼等両者の商会を地図販売人に分類して扱っ
てい
る︒
なおその地図帳にはフランス学派の名前が三人でてくるが︑最初が前 述のようにニコラ・サンソンである︒
サ ン ソ ン の 死 後 も そ の 家 族
息 子 ︑ 孫 ︑
その事業はやがてジャ
義理の息子﹀らが地図製作に従事したが︑
イヨオ
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と2
2
出口
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N
ーロロが引き継ぐ︒ジャイヨオ一族は一七八
O
年まで事業を続けた︒しかし十八世紀の始めに最も傑出した地理
学者はギイヨlム・ドウ・リールの巳ロ
2
目︒
ロ
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ミωーロ混といわれる︒彼は歴史家で地理学者の父クロード
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仏 ー ロNC
から教育を受
けた
が︑
双子の弟がいた︒二人とも同じ年に死んでいる民∞∞ーロ∞∞︒その
一人
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は歴史家になり︑他の一人同︒
ωG rZ 85
はセント・
ベテルスプルグで王室天文観測所を預かるほどの傑れた天文学者であっ
R
‑ゃ︑︑
ふ れ カ
一七四五年に二
O
枚から成るロシアの地図帖を出している︒ド ウ
‑リ
l
ルの最初の地図帖の時からアムステルダムのコフェンス・モルテ
ィl
ル商
会
はほとんど半世紀の問︑関わっていたことになる︒葵文庫の 二冊本には全部で五三枚のドウ・リールの地図が入っている︒
四一図が入っているフレデリック・デ・ウイットのことはコフエン
ス・モルテイi
ル商会の元ともいえる十七世紀の地図業者であり︑前述 もしたが︑初代から孫まで全部フレデリックを名乗ったためまぎらわし
い︒初代(一六一六ー一六九八)一六四八年印刷工場
はアムステルダムに
を設立した地図出版業者だった︑
一六九八年息子が継ぎ︑孫も事業所に
入っ
た︒
一六
七
O
年頃から世界地図帖をいろいろな名称を使って出版し
た︒その他に海図を一六七五年︑
ベルギーの地図帖を一六八
O
年に出し た ︒
一七
O
六年に編集された総目録によれば初代は一二四枚の地図︑
七枚の海図︑その他多数の壁面用地図を出版している︒その一七
O
六年ピ
lテル・モルティlル商会が引継ぎ︑後にコフェンス・モルティ!ル
商会がさらに引き継いだ︒﹁ニュウエ・アトラス﹂
には前述したように 明かにデ・ウイットの名を出したものもあるが︑名前の個所を削り取っ
亜欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版﹃全世界新地図帖﹄の銅版画(下﹀
てヨハネス・コフェンスとコルネイレ・モルティ
lルの名を入れ代えた
もの︿第一冊の南北両天球図
挿図
3﹀
もあ
る︒
第二冊にオッテンス︒
2 0
が二枚あるが︑
5
アムステルダムの地図製作
者の一族︒
ヨア
キム
ト﹃
山岳
山田
は一
七
一年までデ
‑ウイットのため働い
た︒彼の死後︑未亡人は二人の息子レイネル同巳ロ2とヨシュア同
2 5
た
ちと引継いだ︒後にはその商会は二人の兄弟の名前で続けられた︒おの
日本の地図はHN・除H・
9 z g
ω山は
HN巴
HH
20
28 ♂ロ訟とある︒
であ
り︑
この大冊の地図帖を閲覧利用したことの明かなものに︑すでに指摘さ
れている近藤守重著﹃辺要分界図考﹄(文化元年一八
O
四)
(﹃
近藤
正斎
全集
﹄
第一巻所収﹀と山田聯編﹃北奇図説集覧﹄(文化八年一八一一﹀(国立国会図書
館蔵)
の二本にそれぞれ引用されている
︒
前者では引用書目には挙げてないが︑巻之
図 目
の第一︑第二に
﹁蛮人モルチイル所編図﹂として原書
の 地 図 を 模 写 し て い る
︒ そ し て
﹁第
一
ノ図ハ蛮人モルチl
ル ナ ル モ ノ ノ 所 輯 ノ 輿 地 蛮 図 中 ノ 抜 翠 ナ リ
制臨 時
p
r
﹂とある﹁此蛮書一諸侯所蔵﹂と書いている所は﹃荷蘭馬具図﹄o(内閣文庫蔵﹀を模写した時の守重の説明にやはり﹁一諸侯所蔵の蘭版西
洋諸国馬図を見る﹂とあるのと同様だし︑両
霊園とも田善が自由に模写模
刻していることからも︑一諸侯は松平定信のことであると考え得る︒
しかし守重が実際借覧したのは何処からであったかは明確には判らな いが︑もしかすると谷文晃からであったかも知れない︒
そ れ は 守 重 の
文目兆宛の書簡から考えられる
( そ
の
書簡
は森
鉄三
著作
集第三巻﹁谷文晃伝の研
究﹂
﹁モルチイル所著万六ページに紹介されている)︒その書簡で守重は三
O
美
一一 一一一 一
。
号 研 究 第 術
国地
図﹂
の借覧を文日兆に懇願しているが︑
その脚註に﹁通詞共金紙ヲ張 リ国名ヲ記し候事之由﹂とあることで︑始めに述べたその地図帖の状態 と合致している︒そしてその後に﹁所々に而承候所︑官へは不出︑貴家
に御珍蔵之由︑怯に承り・申候﹂とあり︑同地図帳が定信から文晃の所ヘ
移っていたと思われる
o
しかも﹁千古未発之辺塞地理図説急度出来可申 候故︑くれぐれも是非々々奉懇祈候﹂
の 文 面 は
︑ 守 重 が
﹃ 辺 要 分 界 図 考﹄の執筆達成に苦心していたためではなかったかと推考できる︒
同書簡を紹介された森氏は近藤正斎の借覧申出が︑熱心すぎて執搬を
感ぜしむる︑
と評されたが︑寛政年間の後半から北辺に強い関心を持ち
続け
︑
﹃辺要分界図考﹄巻之一の図目の最初に二図を模写引用している ところからも守重の執着のほどが推し量られる︒同書の序の年月は文化 元年甲子十二月二十三日とあるので︑右の書簡の十一月七日は文化元年 か︑またはその前年享和三年あたりではないだろうか︒ただし文晃のと ころから静岡学校に移った経路は不明である︒
オランダから将軍家に献
上︑幕府から定信に下賜(永田由緒による﹀
されたその地図帖はさらに文 目兆の所ヘ移っていたとすると前号二十四ページで守重が閲覧したの頃は 幕府の所管になっていたのかも知れないとしたのは訂正しなければなら ないし︑山聯田が閲覧した時はどうであったのかは判らない︒
そし
て同
書巻
之四
に﹁
荷蘭
全世
界地
図書
訳三
云法
胃液
倣純
一一
耕一
械が
か矧
だ旭
川
叫ん幻翻﹂とあって︑同訳書の下
第
北方半円図の二丁一畏から四丁表の
一行目までの全文ではないが︑ほとんどを引用している︒
後者の山田聯には﹁蘭人モルチイル著書所見
蝦夷地図
今
又有別図
不収載︒壬葵﹂とあって東はカムシャツカ︑南は蝦夷︑
そして日本の東北
地方の一部を入れた地図を部分的に写している︒
田善は文化六年六月に﹁新鋳総界全図﹂と﹁日本辺界略図﹂を附けた 銅版地図二枚を製作した︒それは文化四年丁卯︿一八
O
七﹀十二月四日に高橋景保が﹁林大学頭申談︑蛮書を以地図等仕立可申旨︑於同所御同人 被仰渡﹂れたことを実現するための試作であった︒当時︑景保たちが白 白に出来た蛮書がどの程度あったか判らないが︑
田善の製作した﹁新鋳
総界全図﹂
の東西両半球図で表わした世界図は﹃ニュウエ・アトラス﹄
第一冊の
2
にあるドウ・リールの両半球図による世界地図を参考にした とはオーストラリアや北アメリカの地形の点からも考えられない︒
高橋景保は︑重蔵のカラフトは大陸からつき出た一半島であるとする 説︑や︑山田聯の﹁北喬図説﹄の決論である﹁蝦夷全地略図﹂を否定し
た(上原久著﹃高橋景保の研究﹄昭和五二年講談社︑七
O
一l
七O
四ペ
ージ
﹀︒
そ の両人が引用参照した所謂﹁モルチイルの地図﹂
の不確かさや︑製作年 の古さなどについて︑景保は文化六年﹁新鋳総界全図﹂を田善に試作さ せる際各種のヨーロッパ製世界地図を比較検討して︑すでに見定めてい たと考えられる︒したがってイギリスのアロ
l
スミスの世界図を基本図 とし︑東西の資料を蒐集して田善に製版させた﹁新訂万国全図﹂
こは同 地図帖を参照したことを示す記録は見当らない︒
おわりに
今回の田善の模刻銅版画を発見できたのは︑司馬江漢の銅版﹁地球全 図﹂の原図を確認しようとしたことから始まった︒﹁地球全図﹂の原図に
つい
ては
︑
すでに鮎沢信太郎著﹃鎖国時代の世界地理学﹄(昭和十六年﹀
にそれが宮城県立図書に所蔵されていることを図版を付けて明かにされ ている︒その地図の上辺の枠内に三行ほどあるフランス文は黒田源次著
﹃司
馬江
漢﹄
( 二 二 八 ペ ー ジ ﹀
にも載っているが︑原地図の磨粍などもあ って完全なものではない︒そこで原地図を確認したいと思い︑同図書館 に問合せたところ︑戦災で焼失したものが多く︑当時の記録も残ってい ないため不明である旨の返事を受取った︒そこで江戸見在蘭書目録を見 直したところ︑静岡県立中央図書館の﹁江戸幕府所蔵蘭書目録﹂中に
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(U05ロωの見出しで
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が出
ていた︒江漢の原図は
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による世界両半球図でやはりの︒
5 5 8
γ向︒円巴日刊行のものであることは知っていたので︑
同目録の世界地図を
確めたいとコ一月中旬︑静岡に出向き︑
そこでその地図帖の第一冊を閲覧
し始めると︑次々と田善の原画となったと思われる図を見出し得た︒
先に江漢が寛政八年(一七九六)銅版にした
﹁ 天 球 図
﹂
の原
図は
︑
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デ・ウイットの彩色した﹁天
球図
﹂ に 拠 っ た も の と 見 倣 し て 報 告 し た
(拙
稿﹁
江漢
の﹃
種痘
伝法
﹄と
銅版
﹁天
球図
﹂に
つい
て﹂
︑
﹃日本洋学史の研究 V
﹄昭 和 五 四 年 創 元 社 ) ︒
それに関連して同図書館の堀尾弘和氏からお尋ねを 受けた︒それは稿者の報告したデ・ウイットの﹁天球図﹂と同館所蔵の
﹃ニュウエ・アトラス﹄第一冊1
の天球団が大きさ︑内容が甚だしく似
てい
るが
︑ 六等星の区別を示した下の刻字の内早色色
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以下が F85
目 ︒
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そうした修正が銅版
面上で可能であろだろうか︑
ということであった︒前述したように
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デ・ウイットの原版はピ
lテル・モルティl
ルを
経て
︑
コ フ ェ ン ス ︑
ルテ
ィ
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ル商会が所有していたので︑所蔵者の変還によって当時の所蔵
車欧堂田善製作の銅版画と阿蘭陀版﹃全世界新地図帖﹄の銅版画(下﹀
発行者名に変えることは当然であり︑銅版技法上からも同一原版上のそ
うした削除訂正は可能である︒江漢が入手した﹁天球図﹂の原図は坂口
茂氏所蔵のように︑個々の図像に着色してあったと考えられる︒
一介
の
町絵師であった江漢が
﹁天
球
﹃ニュウエ・アトラス﹄
の 着 色 し て な い
図﹂を閲覧した可能性はまずなかった︑
と思われるが︑彼の入手できた
﹁天球図﹂がデ・ウイット時代のものか︑コフェンス・モルティl
ルに
なってからのものだったかは確めようもない︒ここで云えるのは同
の
原版がそのように変還したことを示す刷りが︑
﹁ 天 球 図
﹂
だけでなく﹁オlフェル・エイセル﹂
の実例にも見られるように︑今日並存している
ことである︒
﹃ニュウエ・アトラス﹄について述べるためには十八世紀のオランダの地図製作の状況を
知らねばならず︑文献の不足を補うため石山洋氏に御力添えを頂いた︒また図版撮影や︑天
理図書館所蔵の本木仁太夫の﹃阿関陀全世界地図書訳﹄全巻の複写入手等について︑静岡県
立中央図書館には便宜を計って頂いた︒記して謝意を表したい︒
細かい註記はさけ︑なるべく本文に書き入れるように努めたが︑なお本稿のため参照した
文献に次のものがある︒
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