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研究ノート 尾高鮮之助と岸田劉生

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(1)

研究ノート 尾高鮮之助と岸田劉生

著者 田中 淳

雑誌名 美術研究

号 395

ページ 57‑84

発行年 2008‑08‑28

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006167/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

尾高鮮之助と岸田劉生

研   究   ノ   ー   ト

尾高鮮之助と岸田劉生

田  中      淳

  はじめに

 自己形成期の尾高鮮之助

 劉生「日記」にみる尾高鮮之助、そして劉生の「古典」への傾斜 付記二 「掃苔記」 付記一 岸田劉生「水浴せる三人の子供」始末記   おわりに   研究ニ従事ス」

 もうひとつの古典への傾斜 田中喜作の場合︱「其以後西洋美術史及浮世絵ノ

    はじめに

  尾 高 鮮 之 助

(一九〇一︱一九三三)

は、 当 東 京 文 化 財 研 究 所 の 前 身 で あ る 美 術 研 究所草創期の東洋美術史研究者として、しかも一九三〇年代にアジア各地を踏査し ながらも、三十三歳という若さで夭折した研究者として名前をとどめている。その 中 心 的 な 役 割 を 担 っ て い た 矢 代 幸 雄

(一八九〇︱一九七五)

が 美 術 研 究 所 創 設 期 に 構想したアジア美術研究のなかに、尾高も一役かっていたわけである。いや、その 一翼を担うべく矢代から期待されていたといっていいだろう。   その矢代幸雄のことを調べているうちに 尾高のことをもう少し調べようと、つま り「尾高鮮之助」の箇所に脚注をつけるつもりではじめたのだっ た ) (

( 。ところが調べ る に つ け 意 外 に も 尾 高 鮮 之 助 と 画 家 岸 田 劉 生

(一八九一︱一九二九)

、 さ ら に 尾 高 に と っ て 同 じ く 美 術 研 究 所 の 先 輩、 同 僚 で あ っ た 田 中 喜 作

(一八八五︱一九四五)

を 加えた三者の関係がすくなからず色濃いものであり、しかも、たとえ ば 劉生が尾高 に影響を与えたという一方的なものではなく、互いに影響を与えていたのではない かということがわかりかけてきた

(挿図

が い ま だ 明 瞭 で は な い が、 は や く か ら 岸 田 劉 生 の 芸 術 を み と め、 ま た 美 術 評 論

(翻

家田中喜作についても言及したいとおもう。田中喜作については、個人史的な部分 劉生の二人にあるときは距離をもち、あるときは接近しながら活動していた美術史 傾斜していった経緯を、尾高鮮之助の視点を通してみていきたい。さらに、尾高、 く、一方で画家岸田劉生がひとかたならぬほどの情熱をもって日本東洋の古美術に   本稿では、尾高というひとりの青年が美術に 関心を抱いて美術史研究を志してい (

訳を含む)

、 美 術 史 研 究 を 通 じ て、 ヨ ー ロ ッ パ の 近 代 美 術 か ら 日 本 東 洋 の 古 美 術 に 転じていった点で、劉生の芸術嗜好の展開とかさなる ば かりではない。田中は美術 研 究 所 創 設 準 備 の 当 時 か ら、 「 浮 世 絵 」 研 究 を 通 じ て 尾 高 と も 仕 事 上 の 交 わ り が あ り、 尾高に少なからず影響を与えていたとおもわれる。したがって本稿では、 尾高、 劉生、田中の三人の関係をさぐることで、ふたりの美術史研究者とひとりの画家と が、 「 浮 世 絵 」 を 通 じ て お 互 い に 共 鳴 し あ い な が ら 同 じ 時 代 の な か に あ り、 そ れ ぞ れが光をはなって生きていたことをあきらかにできれ ば とおもう。

    

(   自己形成期の尾高鮮之助

  『 亡 き 尾 高 鮮 之 助 を 偲 ぶ 』

(編者尾高邦雄 昭和十年三月 非売品)

と い う、 尾 高 の 家 族 た ち に よ っ て つ く ら れ た 遺 稿 集 を 読 ん で い て お ど ろ い た こ と が あ る。 同 書

(以

下、本文では『遺稿集』と略称する)

に は、 尾 高 が 第 一 高 等 学 校 を 卒 業 し た 時 代 に 書 いたノートもおさめられているのだが、それを読むと岸田劉生のその独特の唯心的 な美術論から、はっきりと影響されていることがわかる。これほどまでに、劉生に 感化されていたのかとおもうほどである。   ところではなしをすすめる前に 、当の尾高鮮之助、および尾高家に ついて言及し て お き た い。 尾 高 の 母 文 子 は、 明 治 か ら の 実 業 家 渋 沢 栄 一

(一八四〇︱一九三一)

の娘である。現在の埼玉県深谷市出身の渋沢家と尾高家とは代々深いつながりがあ り ) (

( 、 文 子

(ふみ)

と 結 婚 し た 尾 高 次 郎 は、 鮮 之 助 誕 生 時 に は、 渋 沢 家 が 頭 取 を つ と

五七

(3)

美 術 研 究  三 九 五 号

めた第一銀行の朝鮮半島の仁川支店長を務めていた。後に 父次郎は東洋生命保険会 社 の 社 長 と な っ た が、 一 九 一 六 年

(大正六)

に 亡 く な っ て い る。 父 没 後 も、 尾 高 家 は母文子と残された兄弟姉妹とともに、おそらくは渋沢家からの庇護もあったのだ ろう、 経済的には何ら不自由することなく東京根岸に住んでいた。 そして鮮之助は、 この六人兄弟のなかで四男にあたっていた。   尾 高 鮮 之 助 は、 東 京 師 範 学 校 附 属 中 学 校 を 経 て 一 九 一 九 年

(大正八)

に 第 一 高 等 学 校

(一高)

に 入 学、 二 十 二 年

(大正十一)

に 同 校 卒 業 し て い る。 し か し 卒 業 し た 年の六月に急性盲腸炎のため入院、手術後の七月、さらに十月に療養のため伊香保 に滞在している。 次兄朝雄に 伊香保から送った書簡が、 『遺稿集』 に 収められている。 その一節には、つぎのように記されている。

自然の中には永劫にわたつて動いて行く真実そのものを見る様な気がします。 そこには真実のみがよこたはつて居る。真実は真実を生み、かくてそこに永劫 に わ た る 運 命 の 流 れ が、 力 強 く 動 い て 行 く。 そ れ は、 『 人 情 の 世 界 』 を 絶 し た 境 地 で す。

(中略)

真 実 は い か に お ご そ か で も、 あ く ま で も 真 実 そ の も の の 姿 をもつて終始して居ました。真実そのものを期待する自分の心は、自然の中の いたる所によこたはるその真実の姿を感じる事が出来ました。セザンヌの絵が わかる様な気がして参ります。芸術がなつかしくなりました。劉生の絵の中に 感じて居た、引きつめた様な真実さは、今本当にわかつて来た様な気がしまし た。自分の一生、美の世界に普遍の境をたづねたいと思ひます。

(『遺稿集』、一三一頁)

  ここからは、はじめに 岸田劉生の絵に 対する体験があって、つぎに セザンヌの作 品へと理解が深まったことが述べられている。またこの時期に書き綴ったノートに は、つぎのようにも記している。

  私の自然に対する愛は、やがて芸術に 対する愛 著

ママ

となつて現はれて来た。私 は殊に絵画に対して非常に心がひかれるのを感じた。 自然を愛し、 自然を眺め、 そ こ に 自 分 の 心 の、 唯 一 の 友 と し て、 『 真 実 』 を 求 め て 居 た 私 は、 今 や 芸 術 の 広 大 な る 分 野 の 中 か ら、 特 に 絵 画 ︱

(視覚による芸術)

の 更 に 懐 か し い、 心 の 友である事を感じる様に成つた。それは即ち、画面にこもる美である。それを 私 は 美 と も、 亦 真 実 と も 呼 ん だ。 『 芸 術 と、 そ し て 自 然 の 中 に 見 出 さ れ る 美、 も し く は 真 実 の 姿。 』 こ の 句 を よ く 繰 り 返 へ し た。 私 は そ の 時 も、 決 し て 美 を 本当にはわかつて居なかつた。しかしたゞ、美に到る一つのヒントをつかみか けて居た。それはまず質から来る、カツチリとした美感である。

(中略)

  私は伊香保に岸田劉生氏の『画集及び芸術観』を持つて来て居た。その事は 私にとつて重大な機縁となつた。それを一人しづかに熟読玩味して、私には、 まづ質の美に対する眼が開けた。静物画の前に立つ時、私はしーんとする。実 に端的に心を打つて来る美を感じる。私はその時、すべてのさみしさや、なや みからはなれる事が出来た。その時だけ、私は、真実と共にある事をハツキリ 感じる事が出来る様に思はれた。その他の世界は、あまりにも偽りが多く、裏 切りが多く、 私の心はそれにたえられなかつた。 質の美は私の心をあたためた。 そして私の心に新らしい愛をめざましつつあつた。          ○

挿図 ( 美術研究所創設準備にあたる研究員達(左から 田中喜作、尾高鮮之助、矢代幸雄、青山新、(((( 年頃)

挿図 ( 岸田劉生ポートレート(田中敏男撮影、(((( 年 頃)

五八

(4)

尾高鮮之助と岸田劉生

  質の美は写実の美である。

(「体験録『桐陰を思ふ』より 大正十二年一月作」、『遺

稿集』一五九︱一六〇頁 傍線は稿者による)

  ここから伊香保に 尾高が岸田劉生の自選画集『劉生画集及芸術観』

(一九二〇年、聚英閣)

を 持 参 し た こ と が わ か る。 そ し て こ こ に 引 用 し た 部 分 と、 つ ぎ の 劉 生 の 同 書に収められた一文とを比較すれ ば 、自然のなかに「真実」を見出し、 その「真実」 こそ「美」だという劉生の芸術観、写実観があきらかに尾高に影響を与えていたこ とがわかる。

人 生 や 芸 術 に は『 事 実 』 以 上 の 事 が あ る。 人 生 の 目 的 に と つ て、 『 本 当 』 の 事 か否か、これが大切である。即ち、 『事実』と『真実』の相違である。 『事実』 は至る所にある。否凡ての事皆事実である。人がくしやみを一つしてもそれは 『 事 実 』 で あ る。 し か し、 『 真 実 』 は さ う や た ら に は な い。 し か し 又 凡 て の 事 実 の 中 に も 秘 さ れ て あ る と も 云 へ る。

(中略)

人 生 に と つ て も 芸 術 に と つ て も 大切なのはこの 『真実』 である。 美術に於ては自然はこの 『事実』 に相当する。 そして『真実』は即ち美である 。美術にとつて、 最も真なるもの、 『これこそ』 と 思 ふ も の は、 『 美 』 の 外 に な い。 美 と は、 形 象 の『 真 』 で あ る と も 云 へ る。 美術家が美を見た気持は『動かし難い』といふ気持である。絶対を見た気持で ある。 代へるものなきものを見る。

(『岸田劉生全集』第二巻、岩波書店、一九七九年、

四一六︱四一七頁)

写実の道の特質について考へやうと思ふ。写実の道の特質は、外界の形象と内 なる美とが一致して、外界の形、即、美となる点にある。写実の道の根本的な 要素又は内容はこの『外界の形象に即した美』にある。更にこの外物の形象に 即した美の中で最も純粋に独立的な写実的な内容及要素であるのは、物質それ 自身の特質の美感である。この『質の美感』には素描的要素を含まないと云つ ていゝ。従つて写実以外の領土ではこの『質から来る感じ』を表現する道がな い。他の道によつてもし、或る質の感じを人に起さす事があるとしたら、それ は必ず、 聯想によつてゞある。 質の美感がもし主題となつて表現されるなら ば 、 それが如何なる表現法にあつても、写実の道を執つたものと云ひ得る 。質が視 覚に与へる感じそのものを美化するのが写実の要素である。他の道に於てはよ し、或る物質感を人に感じさせてもそれは質の美化ではなく、内なる美が表現 される為めに借りられた、自然の形から来る聯想に過ぎない。聯想であつても それは一つの美術的効果にはちがひないがしかしそれは主のものでなく、必然 に生じた効果である。

(同前、四二三頁)

  両者の引用文、ことに 傍線部を比較すれ ば 明らかなように 、尾高ははっきりと劉 生の芸術観から感化をうけていたことがわかる。しかも『画集』のなかの複製図版 ば か り で は な く、 実 作 に も ふ れ た 体 験 を も っ て い た こ と が、 『 遺 稿 集 』 で も つ ぎ の ように記されていた。

かうした傾向は仏像と壁画とを見る事によつて更に深く私の心の中に育てられ て行つた。私は芝川氏の所で、はじめてそうした美の高さに打たれた。私は其 処に今まで自分が一度も触れた事のない高いおごそかな世界に、はじめて触れ たのを感じた。

(『遺稿集』、一六八頁)

  こ こ で い う「 芝 川 氏 」 と は、 劉 生 の パ ト ロ ン で あ っ た 芝 川 照 吉

(一八七一︱一九

二三)

の こ と だ と お も わ れ る。 劉 生 の「 年 譜 」 に よ れ ば 、 一 九 二 一 年

(大正十一)

十二月に二日間だけ「芝川照吉所蔵の劉生作品展が同氏宅で展覧され る ) (

( 」とある。 したがって、このときに劉生の絵を眼にすることができたのではないかと、推察し てみた。個人宅での作品展覧であるから、かなり限定された来場者、さらにいえ ば 芝川、あるいは劉生周辺の者ということが考えられる。先の尾高の『遺稿集』の巻 末には、尾高の母親の日記にもとづいた尾高の「年譜」が付されている。一九二二 年の伊香保での療養の記事の後には、つぎのように記されている。

盲腸炎も幸無事快方に向ひしも、其頃結婚問題に関する或事情の為、精神的に

五九

(5)

美 術 研 究  三 九 五 号

0

大打撃を受け、折角本復せし体まで障ありはせぬかと心痛せり。此事ありて後 は、一層鮮之助の気持を察して幾分なりとも慰め度く考へ、その頃始められた る 画 家 方 と の 御 交 際 に も 出 来 る 限 り 快 く 便 宜 を 計 る 様 な せ り。

(『遺稿集』、四八九頁)

  こ こ で 気 に な る の は、 「 画 家 方 と の 御 交 際 」 と い う 記 述 で あ る。 な ぜ な ら「 岸 田 劉生」とは特定していないことである、しかも複数だったような書きぶりだからで あ る。 そ こ で 劉 生 周 辺 で、 し か も ひ と り の 東 京 帝 国 大 学 の 学 生

(この当時、一高卒

業者は、文科を選択すれば無試験で入学できた)

が 接 す る こ と が で き る 画 家 と し て 浮 か ん だ の が、 木 村 荘 八

(一八九三︱一九五八)

で あ っ た。 こ の 時 期、 荘 八 は 本 郷 森 川町に住み、東京帝国大学は彼にとって写生地でもあったからである。その荘八の 「 日 記 」

(大正十一年、未公刊、小杉放菴記念日光美術館蔵)

を 借 覧 し た と こ ろ、 十 二 月二十四日の記述につぎのように記されていた。

今日尾高鮮之助から文房堂へ出した絵を批

難した様な事を云つて来た。それに 対して手紙をかいたが心

ママ

に画の事が兆して、仕事をしたい、切に。

(挿図

ことが、荘八による芝川を追悼する一文のなかで回想されている。 た。しかも、芝川邸は、当時草土社の同人たちの「サロン」のような場所であった あるが、劉生とともに草土社の同人として、やはり芝川をパトロンとして接してい   ここから、すでに 木村荘八と尾高が知己に なっていたことがわかる。その荘八で

故人に就ては全く思出は尽きない。今年の七月五日は岸田、清宮等とその日芝 川さんのことを通信し合つた様なわけだが、 去年は中川、 横堀、 清宮、 河野と、 生前芝川さんが好きでよく一緒に行つたことのある百花園へ行つて、記念日を し た。

(中略)

回 想 は 如 何 か す る と そ れ を 再 び す る の は い や の 場 合 が 多 い も の だが、 芝川さんを中心とした、 一週間おき位ひの冬の牛肉会や、 秋の百花園や、 夏 芝 川 さ ん の 所 で い つ も 飲 ん だ 冷 た い 紅 茶 を 思 ひ 出 す。

(木村荘八、『芝川照吉蒐集図録』、一九二五年十二月

) (

  これは推測の域をでないのだが、尾高はまず木村荘八を知り、その伝手で芝川邸 を訪れ劉生の作品に触れたとおもわれる。当時、芝川は、劉生の「道路と土手と塀

(切通之写生)

(一九一五年、東京国立近代美術館蔵、挿図

、「 静 物

(土瓶とシュス

の布と林檎五個)

(一九一七年、個人蔵、挿図

一九二三年

(大正十二)

四月十一日のことである。 「尾高君」 に 「返事」 を書いてい る。その「日記」のなかで、 「尾高」という名前を最初に認めることができるのは、 二 〇 年

(大正九)

一 月 か ら、 二 五 年 七 月 ま で 一 日 も 欠 か す こ と な く 日 記 を 記 し て い 画家岸田劉生であったことも見逃すことができない。劉生は、鵠沼に転居後の一九 で あ る。 し か し そ れ 以 上 に 尾 高 に 「 個 性

(人間)

」 と し て 大 き な 影 響 を 与 え た の が 後年の活動にどのような影響を与えたのかということを考察することは重要なこと とおもわれる。したがって尾高の自己形成期に、こうした鑑賞体験があったことが るだろう。そして美術への関心が、大学での専攻とも重なっていったのではないか   このように木村荘八、岸田劉生の作品から、尾高の美術体験ははじまったといえ ヌへの関心を抱いたのではないかと考えられる。 尾高が、芝川のもとでこれらの作品、ことに劉生の静物画を眼にし、さらにセザン (

などの作品を所蔵していたとされる。

挿図 ( 木村荘八「日記」(大正 (( 年)、(( 月 (( 日 小杉放菴記念日光美術館蔵

六〇

(6)

尾高鮮之助と岸田劉生

ることが記されている。その三日後には「尾高より二百五十円来る由、大分つまつ てゐるので有難し」とあり、四月十七日の記述では、初めて劉生は尾高に東京で会 っ て い る。 場 所 は、 現 在 の 東 京 国 立 博 物 館 の 表 慶 館 で あ っ た。 「 日 記 」 に は、 つ ぎ のように記されている。

  今日は、春陽会の新聞記者招待会があるので上京の日、それで博物館に 支那 の古画があるといふので行く事にし、 そこで尾高君に 会ふ事に なつてゐる。

(中

略)

山 下 よ り 俥 に て 博 物 館 迄 尾 高 君 に 会 ふ。 ま だ 廿 一 二 の 青 年 に て い ゝ 人 也。 一緒に表慶館に入る。画をみてゐる中蓁来る。かけてあるものは舜挙となつて ゐる牡丹蓮、 呂紀花花、 舜 弼

ヒツ

といふ人の花鳥牡丹に おしどり、 王蒙の画巻と幅、 宋画維摩、日本では雪舟の有名なだるまと、腕を切つた坊さんの図、元信其他 皆相当にいゝが、やはり舜挙の牡丹は逸品だ。蓮はまるでいけない。舜弼とい ふ人ははじめてだが、一寸いゝ。おしどりなどへんに感じがあつた。しかし、 余の鳩に及ぶものは一寸ない。牡丹はさすがにいゝが。其処で金うけとれたら 蓁に渡すはづのところ其処でうけとれなかつたので蓁しかたがなく別れる。表 慶館で中村章太郎に会ふ。能面、伎楽面いつもよし。支那土偶やはりいゝのが ある。せとものいつもよし。   蓁 と 別 れ

(蓁は高嶋屋銀座の家、麻布等へ行く)

、 美 術 協 会 の 展 覧 会 に 参 考 品 の 古 画 を み に 行 く。

(中略)

そ れ か ら 尾 高 君 の と こ ろ へ 行 き 夕 方 迄 い ろ 〳〵 話 し俥にて、会場の、下谷同朋町伊ヨ紋へ行く。会は別に面白くなし、少し閉口 なり。

(『劉生全集』八巻、前掲、一二六︱一二八頁)

  劉生「日記」の欄外に 描かれたスケッチに は「表慶館鑑賞図」と題して帽子に マ ン ト を 着 た 劉 生 自 身 と、 そ の か た わ ら に 男 性 と 女 性 が 描 か れ て い る。 こ の「 日 記 」 の記述から、劉生の隣に立って「支那の古画」を鑑賞している人物が尾高というこ とになるであろう

(挿図

術、演劇)

に向きはじめ、 古美術品収集、 その創作も変化させていったことである。 せている。一九二〇年

(大正九)

頃を境に、 劉生の嗜好、 関心が日本東洋の芸術

(美

京 都 へ の 移 住 時 代

(一九二三年からの二六年二月)

の 間 に 、 そ の 芸 術 を 内 か ら 変 化 さ   と こ ろ で 劉 生 は、 鵠 沼 転 居

(一九一七年六月)

以 降 か ら 関 東 大 震 災 に よ る 被 災 と (

挿図 ( 岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」、(((( 年、

東京国立近代美術館蔵

挿図 ( 岸田劉生「静物(土瓶とシュスの布と林檎五個)」、

(((( 年、個人蔵

挿図 ( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)( 月 (( 日、

東京国立近代美術館蔵

六一

(7)

美 術 研 究  三 九 五 号

そうした劉生の変化の過程のなかで、尾高は劉生に出会ったことになる。ふたりの 初 対 面 の 場 所 が、 「 表 慶 館 」 で あ っ た の も 象 徴 的 だ ろ う し、 劉 生 の 展 示 作 品 に 対 す る コ メ ン ト も 彼 の 関 心 の あ り 様 を う か が え て 興 味 深 い。 そ し て、 「 ま だ 廿 一 二 の 青 年にていゝ人也」と評された尾高から「二百五十円」を受け取るつもりであったの が、その場で受け取ることができずに尾高の私邸まで、これも初めて訪れたことが わ か る。 「 二 百 五 十 円 」 と い う 金 額 が、 当 時 東 京 市 内 の 食 堂 で 食 事 を す れ ば 、 五 十 銭前後で十分だったといわれていることを考えれ ば ) (

( 、一大学生が手にする金額とし ては破格である。特定はできないものの、おそらく劉生の作品の購入代金だったの だろう。この日を契機に、劉生と尾高の交わりがはじまることになる。そこで、つ ぎに劉生「日記」のなかに登場する尾高鮮之助を追いながら、同時に劉生の日本東 洋古美術への傾斜(耽溺)の過程をたどってみようとおもう。

   

       「古典」への傾斜 (   劉生「日記」にみる尾高鮮之助、そして劉生の

  この初対面以後、劉生の「日記」をたどっていくと、同年五月に 第一回春陽会展 が 開 催 さ れ、 そ こ で「 尾 高 君 木 村 の 静 物 を 一 点 売 約 」

(五月二十二日)

と あ る。 翌 六 月 十 三 日 に は、 「 約 束 で 尾 高、 木 村 清 宮 来 訪。 又 し ば ら く し た ら 椿 も 来 訪 昨 日 木 村 を た づ ね て 今 日 皆 が 来 る と 知 つ た の で 来 た 由、 又 所 蔵 の 画 な ど 出 し て 皆 で な が め、 いろいろ楽しく話す。夜食を皆とたべ、九時皆帰る」とあり、尾高が木村荘八、清 宮彬と鵠沼の劉生宅を訪れ、 やがて椿貞雄も加わり、 歓談したことが記されている。 七 月 一 日 に は、 劉 生 は 上 京 し、 午 後 に「 木 村 を 訪 ね た ら 丁 度 ゐ て、 い ろ い ろ 話 す。 どうも少しではあるが頭痛がしてゐたが夕食後はなほつた。夕食は余のこのみでか らいこぶの煮たのでたべさしてもらふ。尾高鮮の

ママ

助を呼んだらやつて来て、余の長 唄や尾高の珍妙な義太夫が出る」とあり、夕刻になるのだろうか、木村宅に尾高を 呼びよせ、興がのったのだろうか、尾高が「珍妙な義太夫」をかたったことが記さ れていて、なんとも微笑ましい。   さて、先に あげた尾高の『遺稿集』の「年譜」に よれ ば 、同年七月五日の項に つ ぎ の よ う に 記 さ れ て い る。 「 岸 田 劉 生 氏 外 数 名 の 画 家 諸 氏 を 招 待、 文 楽 人 形 見 物 を なす。此の以前より岸田氏とは頻繁なる交際あり」 。一方、 当の劉生の 「日記」 では、 同日のことをつぎのように記している。

今 日 は 尾 高 君 の 家 か ら 文 楽 に 呼 ば れ て ゐ る。

(中略)

新 富 坐 へ つ い た ら 丁 度 四 時三十五分で、第一幕の開くところであつた。其の前に三番叟があつた由なれ ど見落す。しかしこれは一昨年有楽座でみた。狂言は義経千本桜の通しと吉野 山道行

(千本桜の中)

、それから八百屋お七で、皆非常に面白かつた。文楽の人 形をこれ迄これ程芸術的に面白く陶酔してみた事はなかつた。やはり新富坐と いふ小屋がいゝのだと思ふ。

(『劉生全集』八巻、前掲、二一九頁、挿図

  ここからは、尾高ひとりではなく、すでに 尾高家ぐるみで劉生との交際がはじま っていることがわかる。また、 劉生にとって、 二度目になる「文楽」の鑑賞体験が、 古典美術への関心とともに、旧劇への関心と重なっていたこと、その契機が尾高家 による「招待」であったことは記録に値することだといえる。   その尾高家との交際は、さらなる劉生作品の収集へとすすんでいる。ただ七月十

挿図 ( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)( 月 ( 日、

東京国立近代美術館蔵

六二

(8)

尾高鮮之助と岸田劉生

六日の劉生の「日記」によれ ば 、つぎのように尾高を介して購入しようとした作品 が、おもいのほか高額だったことから、尾高当人が当惑してしまったこと、さらに 尾高家にて家族とともに劉生が「遊ぶ」様子も記されている。

五時過辞して俥にて仲根岸に尾高君を訪ふ。先日の椿花籠図を五百円を気がつ かず持ち帰つたが御母さんと相談したが三百円位迄と云はれて弱つてゐる様子 であつたがあの画は五百円より下では一寸困るので余も困つたが磯ヶ谷に電話 かけてもう一つの花籠の図を持つて来てもらひこれを三百円にしてあげてよろ しいといふ事にしたがまだ考へ中。原田清宮木村等来る。尾高の弟妹さんたち に御母様も出て来られて御坐敷でいろいろ遊ぶ。題を出して其のまねを姿でし たり、音曲でしたりする遊びをした。余は酒呑童子其他大出来也呵々。十時自 働車を呼んでもらつて十時半の汽車で帰宅。

(『劉生全集』八巻、前掲、二三一頁)

  購入のはなしがまとまらなかったため劉生に は残念だったようだが、それに もか かわらず八月二十四日には、尾高は木村とともに 鵠沼の劉生を訪ねており、その日 宿泊している。   翌日の劉生「日記」に は、つぎのように 記述されている。 九 時 半 お き る。 寝 不 足 に て ね む し。 木 村、 尾 高 も お き て 来 る。

(中略)

横 堀 も 来て木村尾高麗子余横堀等で海岸へ行く。今年にて二度目也。余は海水着を着 て行く。これは今年はじめて、それでこれも今年はじめて海へ入る。入つてみ ると面白く、泳いだりする。木村は夕方用があるのでし ば らく遊んで帰宅。途 中小さい桃を買ひ菓子などとつて帰る。海へ行く前尾高が余の旧作欲しいとい ふ 事 に な り、 黒 い 帽 子 の 自 画 像 に き ま り か ゝ つ た の を 蓁 か ら 故 障 が 出 て

(これは蓁のもの故いけないとの事、わづかに売るのが惜しいなる可し。もしうつたら売

つた金をねらつてゐるなる可し呵々)

別 の 小 品 の 自 画 像 に き ま る。 木 村 尾 高 五 時 半過帰る。

(『劉生全集』八巻、前掲、二六六頁、挿図

  こ こ か ら は 劉 生 と 尾 高 と の 交 友 も、 「 遊 び 」 を と も な っ た 富 裕 な 大 学 生 コ レ ク タ ーと画家との関係という一面があったことがわかる。また、この一週間後に 誰もが 想像することのなかった突然の大災害にみまわれたことをおもえ ば 、なんとも長閑 な 交 友 で あ る。 そ し て 一 九 二 三 年

(大正十二)

九 月 一 日、 関 東 大 震 災 が お そ っ た ) (

( 。 この未曽有の自然災害に命こそ落とさなかったが、これによってその後の運命を少 なからず変えてしまったといえるのが岸田劉生である。劉生の一家は、倒壊した鵠 沼 の 家 を 引 き は ら い、 名 古 屋 に 滞 在 し た 後 に 同 年 十 月 に 京 都 市 上 京 区

(現在の左京

区)

南禅寺草川町四十一に転居した。   こ の 劉 生 の 京 都 時 代

(一九二三年十月から一九二六年三月)

と も い え る 二 年 半 の 歳 月の間は、生活、趣味の面では、それまでの劉生の古美術収集に拍車がかかり、同 時に酒色にふけるようになったことである。また、たとえ ば 東洋趣味を色濃くただ よわせた麗子像の展開にみられるように、やがて劉生の創作にも変化をきたしたこ とである

(挿図

(0

こ の 旅 の 無 事 幸 福 を 祈 り 留 守 中 の 無 事 幸 福 を 祈 り つ ゝ 寝 台 に 入 る 」

(十二月二十九

十八日には劉生は尾高家に宿泊している。 「日記」には、 「なつかしき友よ、 幸なれ、 ぐに画家仲間が劉生を囲むのだが、その席には尾高もいたことがわかる。さらに 二 をうけとり、そして十二月二十六日に上京している。はじめ木村荘八宅に宿泊、す   そうしたなか、劉生は同年十一月一日に 尾高から「心の籠つたなつかしい手紙」 ((

挿図 ( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)( 月 (( 日、

東京国立近代美術館蔵

挿図 ( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)( 月 (( 日、

東京国立近代美術館蔵

六三

(9)

美 術 研 究  三 九 五 号

日)

と 記 し て、 翌 日 夜 に 帰 京 し た

(この劉生の上京が、「住友君に麗子の小品を買つて

貰ふ事」(十一月二十九日)になったために作品を仕上げ、その代金六百円を受け取ることがひとつの目的であったようだ。しかし劉生は上京中に自作の代金以上に古美術品の借

金を支払い、また新たな作品を購入している)

。   ま た 年 が 明 け て「 日 記 」

(一九二四年一月二日)

の 記 述 を み る と、 劉 生 は 自 身 の 古 美術コレクションの目録をつくっては悦に入り、一方で画室のある家を物色し、そ のための金策に頭を悩ませながらも、コレクションの金銭的な価値に自惚れをみせ ている。

午后川端君を対手に陶雅堂蔵宝の目録を造ってみる。唐画の逸品が九点次のも のが二点、その他合せて唐画が総てゞ十七、日本画が又兵衛をはじめとして十 一、浮世絵木版画のみでも清元丹画其たをはじめとして十七総数四十五点其他 い ろ 〳〵 あ わ せ た ら 五 十 幾 点 に な る。 価 格 も 五 六 千 円 の も の に な る ) (

( 。

(『劉生全集』九巻、前掲、四︱五頁。挿図

((

((

挿図 (0 岸田劉生「野童女」、(((( 年、個人蔵

挿図 (( 岸田劉生「童女舞姿」、(((( 年、

大原美術館蔵

挿図 (( 岸田劉生旧蔵 徐煕筆「雁図」

挿図 (( 岸田劉生旧蔵 胡瓉筆「桔梗香図」

六四

(10)

尾高鮮之助と岸田劉生

  さらに年があけると、今度は尾高が劉生を京都に 訪ねていることわかる。一月七 日の劉生の「日記」には、つぎのように劉生の一家が尾高来訪を歓迎していること がわかる。

今日は尾高君が来てくれる事になつてゐるので心待ちしてゐる。尾高君は麗子 に活動写真のおもちやを持つて来てくれる由、麗子には二三日前近日御前のう れしい事があるよとだけ云つてある。其中尾高君来訪、活動写真のおもちやを 麗 子 も ら ひ 少 し 赤 く な つ て 興 奮 し 大 喜 び し て ゐ た。 早 速 階 下 の 御 坐 敷 で や る。 よくうつる。中々面白し。尾高君の兄さんが静物と風景が欲しい由、近作の画 会の分二百円にてゆづる事にし猶他に麗子のかきかけか何かを仕上げてあげる 事にする。

(『劉生全集』九巻、前掲、十一頁、挿図

((

  一月九日の「日記」では、尾高は劉生夫婦とともに 歌舞伎に 行っている。

十一時十九分の急行に て京都迄、タクシーにて帰宅。尾高君オルガン弾いてゐ た。遠ちやんが来る由電報あり。時間がないので先に出かける。尾高蓁余の三 人也。今日は南坐の見物也。坐へ行つたら木村さんのところの一家あり。場所 がたいへん悪く、一番後のマスにて閉口一寸もう見る気持になれず、仕方がな いので其処でみる。京都で芝居はもうみまいなど腹を立つ。其中遠ちやんも来 る。木村さんからめがねが来てそれでやつと少しみへる。遠ちやんにつれられ て七三郎さんの部屋に行く。 楽屋へ役者をたづねるのははじめ也。

(『劉生全集』九巻、前掲、十四頁)

  ここで、 劉生は、 京都の日本画家木村斯光

(一八九六︱一九七六)

、「遠ちやん」 こと、 鵠 沼 時 代 に 知 己 と な り、 当 時 大 阪 に 住 ん で い た 浮 世 絵 師

(摺師)

高 見 沢 遠 治

(一八二〇︱一九二七)

と、 高 見 沢 と は 素 人 歌 舞 伎 の 仲 間 で、 や が て 中 村 吉 衛 門 に 弟 子 入 り 役 者 と な っ た 中 村 七 三 郎

(本名、安田直次郎、日本画家安田靫彦の実兄)

と 会 っ て いる ) (

( 。劉生の京都時代を象徴するような顔ぶれがそろっている時に、尾高も同席し たことになる。これに劉生が日々往来する種々の古美術商が加わることで、この京 都時代の劉生の交友の実態がしだいにつかめることになる。   その後も、この年の八月に 講演のため上京した折に は、八月七日に 尾高家に 宿泊 し て い る

(八月十九日劉生、帰京)

。 一 方 京 都 の 劉 生 の も と に は、 同 年 十 月 三 十 日 に 再び尾高が訪れ宿泊している。尾高の京都、もしくは関西への旅行が、いずれの場 合もどのような目的だったかは、劉生「日記」からは明らかではない。ただ十二月 十八日の劉生訪問は、ひとつの目的があったことは、その「日記」からうかがわれ る。というのも尾高の訪問の前日、京都大学にいた尾高の次兄朝雄が劉生を訪ね、 尾高兄弟の来意をつたえていることがうかがえるからである。

午后仕事中珍らしく尾高の兄さん朝雄君来訪。明日尾高君来る由、し ば らく話 して帰る。尾高の一番上の兄さんが、 出版業をやる由。

(『劉生全集』九巻、前掲、三七二頁)

  そして尾高は、十八日に 劉生のもとを訪れ、その翌日に は長兄豊作とともに 訪ね

挿図 (( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)( 月 ( 日、

東京国立近代美術館蔵

六五

(11)

美 術 研 究  三 九 五 号

ている。

仕事中尾高君が一番上の兄さんと来訪、いろいろ出版の話など出、一つ三十円 位 の 本 で 筆 耕 園 の 様 な 色 刷 を 入 れ た 唐 画 集 を 出 さ う か と い ふ 話 も 出 る。

(『劉生全集』九巻、前掲、三七四頁)

  長兄豊作は、出版社刀江書院を起こそうとする時期だったのだろう、劉生に 出版 のはなしをもちかけていることがわかる。さらに 十二月二十日の「日記」に は、つ ぎのように出版のはなしが具体的に話され、劉生も幾分とも期待していたことがう かがわれる。

仕 事 し て ゐ た ら、 尾 高 君 来 訪。

(中略)

五 時 迄 尾 高 の 兄 さ ん に 鳥 屋 の 新 三 浦 へ よ ば れてゐて尾高は今日迎へに来たの也。仕事の都合にて、五時迄かき、それ から出かける。尾高の兄さん二人の他に 尾高の中の兄さんの大学の友人といふ 人三人あり楽しくめしをたべ大分酔ふ。五題話など出る。昨夜の筆耕園風の本 は余の思つた通り実行困難にて止め、五円か六円位の支那古画、写生画集を出 さうといふ事になる。尾高つれて帰宅。とうとう夜明かしでいろいろ話をして しまつた。 又楽しい。 皆の幸福を祈るものだ。 神よ守り給へ。

(『劉生全集』九巻、

前掲、三七五頁、挿図

((

  しかし、同出版社からの刊行は実現しなかったようだ。その後の劉生「日記」か らは、ますます古美術への執着と遊楽の記述が多くなっていく。たとえ ば 、一九二 五年

(大正十四)

六月六日の 「日記」 から、 劉生の当時の日常をみてみようとおもう。

九時半におき、入浴、めしをたべる。蓁は髪を結いに行く。久しぶりにて油絵 の仕事をしはじめやうと思ふ。山岸に画布を張らせ、画室をとゝのへさす。昨 夜山岸の買つて来た枇杷を写す。八号のやりやめ、六号をやり、又構図気に入 ら ず か へ て か き な ほ す。

(中略)

福 西 君 来 訪 馬 遠 に す つ か り 感 心 し て ゐ た。 七 時頃から常盤津師匠へ行く。中々むつかしい。けいこしてから広野屋の払ひを 持つて広の家に行く。 木村斯光をよび、 若石やでぼちんや、 もう一人知らぬ芸者、 そ れ か ら 花 菊、 梅 楽 な ど 来 て 遊 ぶ。 十 二 時 過 帰 る。

(『劉生全集』一〇巻、前掲、

一三四頁)

  こ こ か ら は、 創 作

(油彩画)

に 対 す る 集 中 力 が 希 薄 に な り、 か わ ら な い の は 古 美 術

(ここでは「馬遠」)

へ の 執 着 で あ り、 常 盤 津 の 稽 古、 酒 色 と い う 遊 興 へ の 耽 溺 が つづられている。 こうした日常は、 特別なものではもはやなくなってきてしまった。 たしかに、ときには「反省」するという言葉を見いだすことがあるが、それもなが つ づ き は し な い。 ま た、 「 日 記 」 か ら は、 し ば ら く 尾 高 の 名 前 を 見 い だ す こ と が で き な く な っ て い る。 同 月 二 十 九 日 の「 日 記 」 に は、 「 尾 高 か ら 手 紙 に て 冬 瓜 の 画 を 待つてゐると云つて来た」とあるだけである。以後の「日記」からは「尾高」とい う名前を見いだすことはできない。   劉生も、さすがに こうした京都での生活を改めようとしたのか、翌年三月末日に 家を引き払い、翌月神奈川県鎌倉に転居した。ちょうど同月には、尾高は東京帝国

挿図 (( 岸田劉生「日記」(大正 (( 年)(( 月 (0 日、

東京国立近代美術館蔵

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(12)

尾高鮮之助と岸田劉生

大学文学部美学美術史科を卒業した。鎌倉転居後の五月に 、劉生は『初期肉筆浮世 絵』

(岩波書店、一九二六年、挿図

「初期肉筆浮世絵」の魅力について、つぎのように記している。   本章の最後に、 この劉生の本に ついて述べておきたい。劉生は、 「自序」 に おいて、 ((

を刊行した。

私が初期肉筆浮世絵に 心酔し出したのはいつの頃からであつたか、七八年も前 に な ら う か と 思 は れ る。

(中略)

私 は そ れ 等 の 絵 に あ る、 へ ん に 生 々 し い 男 女 の顔、一種古拙でしかも深く現実感をとらへたミスチツクな姿態、気味悪い程 生きものの感じを持つた、東洋人独特のぬるりとした顔の描写、さういふ、私 の所謂でろりとした美しさの味。それと同時に、私は又かなり前から、美術上 の審美的境地に 『事象』 の美といふ一境のあることを覚つて来てゐた。

(「自序」、

『劉生全集』四巻、前掲、一〇二頁)

  この「自序」で記したことをつづく本文に おいて、劉生は存分に 持論を展開して いくわけだが、ここで「初期肉筆浮世絵」︱近世風俗画のなかに劉生が見いだした ものは、どのような「美」なのだろうか。実は冒頭で語った「でろりとした」美と いう表現だけではない。 ひとつは、 そこに描かれた 「世の中」 というモチーフであり、 いまひとつは劉生の日本美術史観である。以下、この二点について考えてみたい。   まず劉生のとらえた「世の中」というものを考えてみようとおもう。以下、やや 長い引用になるが、劉生が見ていた「世の中」とはどのようなものだったのかをさ ぐってみたい。

  どこ迄も形そのものの美ではなく、形に よつて表はされたる『世の中』又は 『人事』といふ『事』の持つ魅惑、即ち美である。   たとへ ば 、吾々が道を歩け ば 、いろいろの商家の店頭に は様々なものが並べ られてある。玩具屋をみれ ば 、風車、ブリキの電車、セルロイドの人形、それ も近来流行の飛行機乗りや洋装少女、安物の羽子板、風船等、様々な色と様々 な 形 の 中 に 、 そ れ 等 の 品 々 の 持 つ『 事 』 の 美、 実 際 感 の 美 と い ふ も の が あ る。 呉 服 屋、 紙 屋、 時 計 屋、 米 屋、 砂 糖 屋、 そ れ 等 の 新 式、 旧 式 い ろ い ろ の 看 板、 ペンキの安つぽい味も 『世』 といふものの形象的表現の興味の一つであり、 重々 し い 古 風 な 金 看 板 も 亦 同 じ、 仁 丹 の 広 告、 交 番、 乞 食、 子 女、 車 屋、 自 転 車、 人夫、それぞれに皆一つ一つ『世』といふことを表はす。吾々がそれ等のもの を見る時一つの画的興味を感ずるが、それは決してそれ等個々の品物や又町と し て の 風 景 の 形 象 的 美 感 で は な い。

(中略)

さ う い ふ『 事 』 の 持 つ と こ ろ の 一 種無形なる、しかも形に於てのみ表はれ又表はし得るところの魅惑である。   この魅惑は前にも一寸述べた通り、実に 吾々の生存なり生活なりの実状を其 処 に 感 じ 見 る 所 の 快 感 で あ つ て、 『 人 事 』 と い ふ 事 を 離 れ て は 存 在 し な い も の である。

(『劉生全集』四巻、前掲、一三六︱一四〇頁)

  劉 生 に と っ て「 世 の 中 」、 す な わ ち 彼 が 街 で み る「 玩 具 屋 」 に な ら ぶ お も ち ゃ の ひとつひとつまで、事物が実に微細に記述されている。そして街の情景であり、老 舗 の 金 看 板 も「 仁 丹 」 の 広 告 も、 「 世 の 中 」 で 目 に す る も の と し て 同 列 に あ げ ら れ ている。それこそが劉生にとっての「世の中」そのものであり、そこに「美」を見 いだし、 「魅惑」されるというのだ。   いまひとつ同書で明らかに されているのは、劉生のアジア美術観である。劉生の 東洋古美術趣味は、その日記から、はじめに宋元画から浮世絵へと展開していると

挿図 (( 岸田劉生『初期肉筆浮世絵』、

岩波書店、(((( 年

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(13)

美 術 研 究  三 九 五 号

みられがちである。それは、劉生なりのアジア美術に対する歴史観とも関連してい るといえるだろう。古代における中国大陸からの仏教美術の伝来からはじまる、日 本の美術の受容史を念頭においている。そこで、劉生にとって「写実」表現にうら づけられた「東洋に於ける正統美術」は、あくまでの宋元時代の中国絵画であると ことわりつつ、つぎのように記している。

支那が日本に美術を伝へ、日本の美術がやうやく興隆するとともに、宋朝の盛 をみせたあとは漸次に 衰調に向つた事である。そして、日本の浮世絵が確立し た 慶 長 前 後、 支 那 は 明 末 時 代 で あ つ て、 北 宋 の 正 統 は 全 く 衰 滅 し た の で あ る。 この事は、支那が日本に美術民族としての使命を譲り渡した事と見る事が出来 る。

(『劉生全集』四巻、前掲、一三一頁)

  「新しき美術の興隆者」として、 また「美術的使命」をおった日本に おいては、 「支 那に於て完成された自然描写としての本流美術ではない」とかさねてことわりなが ら、つづけて「日本はその丁度よき民族性によつて、新しく、人類なり世界なりが 要求するところの新興の美術を造るべく選まれたのである。だから日本に於ける支 那伝統の美術は、狩野にしろ、雲谷にしろ、三阿弥にしろ、南画の各家にしても、 可なりいゝ画家が出たにしても、それは結局支那の一流に は及 ば ない。しかし古土 佐から浮世絵に版画に 至る迄、日本独自の美術あつては、そのよきものは美術とし て世界にやはり一流の価値を持つ。殊に 私がいつも推讃するところの初期肉筆画の よきものや、 古土佐絵巻の逸品の如きは、 美術として真に世界に無類の逸品である」

(『劉生全集』四巻、前掲、一三〇︱一三二頁)

と い い き っ て い る。 い さ さ か 我 田 引 水 ともいうべき、 強引な論理ではあるけれども、 劉生という個性が「初期肉筆浮世絵」 に与えた美術史上の位置づけである。もとより当時としても、さらに今日の美術史 研究からいっても、いくらでも異論があっておかしくはない論理である。しかしな がら「後期印象派」絵画に個性の表現を自覚し、やがてヨーロッパ古典絵画に 写実 表現の深さを見いだし、ついで宋元画に魅せられ、さらに「初期肉筆浮世絵」に関 心が向かった劉生自身の美的な遍歴に対する独特の論理ととれ ば 、それはそれで納 得するところもある。   ただしヨーロッパ近代美術から古典への回帰、しかも日本東洋の古典への回帰と いう変遷は、劉生 ば かりではない。尾高鮮之助、岸田劉生とも関係の深かった田中 喜作の場合も、まさにそうした変遷をしている。ただし表面的には、劉生と軌を一 にしているようにみえるが、田中の場合はまた事情が異なっている。そこで、つぎ に尾高と劉生との関係をみながら、田中喜作というひとりの美術評論家、美術史研 究者の軌跡をみてみようとおもう。    

       ︱「其以後西洋美術史及浮世絵ノ研究ニ従事ス」 (   もうひとつの古典への傾斜   田中喜作の場合

  田中は、 一九四五年

(昭和二十)

七月一日に六十一歳で亡くなっている。当時の 『日 本 美 術 年 鑑  昭 和 十 九、 二 十、 二 十 一 年 版 』

(国立博物館、一九四九年)

の「 物 故 作 家及美術関係者」記事には、つぎのようにその生涯と業績が簡潔に記されている。

田中喜作

(学)

  七月一日歿   東京美術学校教授、美術研究所嘱託田中喜作は山梨県に 疎開中逝去した。享 年六十一。明治十八年京都下京に生れ、 三十六年京都市立美術工芸学校に入学、 三十八年同校退学後関西美術院に学んだが、 四十一年同院を退くとともに渡欧、 パリでアカデミー・ジュリアンに入学した。四十二年帰朝後は美術史ことに近 世日本絵画の研究に入り、浮世絵の研究で知られた。一方批評家としても活躍 し、国画創作協会にはグループの一人として参加している。昭和二年美術研究 所創立と同時にその一員となり、その後『美術研究』誌上に種々の研究論文を 発表して卓抜の見解をうたわれた。昭和十九年には東京美術学校教授として美 術史を担当したが、戦時中の無理が因となつて斃れたものである。なお美術研 究 所 長 田 中 豊 蔵 は そ の 兄 に あ た る。 著 書 に 主 な る も の に 『 ル ノ ア ー ル 』『 マ イ ヨ ー ル 』『 浮 世 絵 概 説 』 が あ り、 後 年 の 研 究 は 主 と し て 桃 山 時 代 の 美 術、 発 祥 時代の日本南画に向つていた。

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尾高鮮之助と岸田劉生

  ここからわかる田中の軌跡は、フランス留学後に 美術史研究をはじめたこと、そ して創立期の美術研究所員であり、最後は東京美術学校教授であったことである。 一方、現在東京藝術大学の美術学部教育資料編纂室に残る田中の「履歴書」には、 つぎのように記されている。

明治三十六年十一月   京都市立美術工芸学校一学年ニ入学 仝  三十八年   五月   仝校退学 仝     年  六月   関西美術院ヘ入学 仝  四十一年   四月   仝院退学 仝     年  仝月   欧州ニ渡航シ佛蘭西巴里『アカデミー、ジユリアン』ニ        入学ス 明治四十二年   六月   帰朝ス其以後西洋美術史及浮世絵ノ研究ニ従事ス 昭和    二年   三月七日   本校講師ヲ嘱託ス 昭和    五年   六月三十日   帝国美術院附属美術研究所々員ヲ嘱託ス

  こ の「 履 歴 書 」 か ら ふ し ぎ に お も う こ と は、 留 学 か ら の 帰 国 後、 「 其 以 後 西 洋 美 術史及浮世絵ノ研究ニ従事ス」とあるだけで、東京美術学校の講師になるまでの十 八 年 間 の 職 歴 の 記 載 が ま っ た く な い こ と で あ る。 こ の 間 に 唯 一 知 ら れ て い る こ と は、帰国後の一九一〇年代前半における京都、東京での活動ぐらいなもので、いっ たい「研究ニ従事ス」といっても、どのように生計をたてていたものなのかまった く詳らかではない。田中喜作については、すでに熊田司氏による詳細な研究「美術 店 田 中 屋 と 雑 誌『 卓 上 』 ︱ 大 正 期 美 術 の 青 春 の 交 差 点 ︱」

(復刻版『卓上』別冊、京

都書院、一九九〇年)

が あ る

(稿者の以下の記述も、同研究に負うところが多いことをことわっておく)

。 同 研 究 を も と に 田 中 喜 作 の 留 学 後 の 足 ど り を 略 述 す る と、 京 都 で は「 無 名 会 」、 「 黒 猫 会

(シャ・ノワール)

」、 「 仮 面 会

(ル・マスク)

」 と い っ た 若 い 日 本画家、洋画家などとともに美術界の「日本画」と「洋画」両者の障壁をとりはら い、新しい芸術を目指そうとする運動の理論的な支柱として活動したようだ。その 後、 一 九 一 三 年 に 上 京 し て、 雑 誌『 芸 術 』 の 同 人 と し て「 太 陽 」

(モーリス・ドニの 翻訳、同年五月号

) (

、また『白樺』に「アンリ、ルソーの生涯及び其芸術」

(四月号)

を寄稿している。一九一四年

(大正三)

五月、 美術店 「田中屋」

(銀座竹川町)

を開店、 同時に雑誌 『卓上』

(一九一四年四月︱一九一五年五月の間に一号︱六号)

を刊行した。 「美術店」とは、 今日でいうところで画廊

(ギャラリー)

であり、 高村光太郎の「琅 玕洞」を先例とするのだが、自らの眼で選んだ美術家の個展、作品を展示販売する こ と が 目 的 だ っ た。 一 足 先 に 上 京 し て い た 旧 友 川 路 柳 虹

(一八八八︱一九五九)

の 協力を得て田中は、この「美術店」で、一年間の間に富本憲吉、岸田劉生、バーナ ー ド・ リ ー チ、 澤 部 清 五 郎、 梅 原 良

(龍)

三 郎、 木 村 荘 八 等 の 個 展 を 開 催 し た。 同 時に『卓上』において、モーリス・ドニ「アリシチード・マイヨール論」をはじめ として翻訳等を積極的に執筆している。田中屋における個展開催の作家選択に おい て、この大正初年のインデペンデントとしての創作活動をすすめようとしている美 術 家 を 選 ん で い る 点 か ら、 熊 田 氏 は 先 述 の 論 文 に お い て、 「 群 を 離 れ 個 を 発 現 す る というかれらの厳しい態度は、どこか田中喜作の批評活動の根底に通じるものがあ る 」

(前掲)

と 指 摘 し て い る。 こ の 点 は、 田 中 喜 作 側 か ら み れ ば 、 田 中 自 身 の 生 涯 にわたってどこか 「孤軍」 的な批評、 研究活動の在り様をみれ ば 首肯される。また、 モーリス ・ ドニの翻訳紹介という点では、 日本における先駆的な位置にあることは、 近年のモーリス・ドニを含めたナビ派受容の研究において明らかにされてい る ) ((

( 。   そ し て 一 九 二 一 年

(大正十)

七 月 に は、 『 泰 西 名 画 家 伝  ル ノ ア ル 』

(日本美術学院)

を刊行した。同書の「緒言」中、 田中は「この画人に対する表敬

(オマージュ)

と微意と、またルノアルの日本に於ける唯一の遺弟梅原龍三郎氏の友情の記念とし てこの危険な仕事を敢てしたのである」とことわり、当時、わずかにマイヤー・グ レーフェの Auguste R enoir の仏訳、 及び印象派に関する研究書と諸雑誌の記事に基づ き、さらに梅原に対する「同氏の私信はルノアルに対する最近の自分の思想を整理 するに負ふところが多かつた」 と付言している。ルノアール

(一八四一︱一九一九)

没 後 の 評 伝 と し て は、 T. D ur et, Auguste Renoir , P aris, 1924 が 最 初 だ と い わ れ て い る こ とをおもえ ば 、この著作は、国内にとどまらず没後としてはもっとも早いものでは な か っ た の で は な い だ ろ う か ) ((

( 。 ま た、 批 評 活 動 の 面 で は、 「 仮 面 会 」 以 後 に 発 展 結 成された国画創作協会に対しても、ある共感をいだきながらも、厳しい眼をむけて

六九

(15)

美 術 研 究  三 九 五 号

0 いる。一九二二年

(大正十一)

一月には、 「巴里に在る国画創作協会諸同人に与へて 現代の日本画を論ずる書」

(『中央美術』八巻一、二号)

を寄稿してい る ) ((

( 。   そして一九二四年

(大正十三)

には、 つづけて 「菱川師宣」

(『アトリヱ』一巻七号、

九月)

、「 浮 世 絵 概 論 」

(『改造』六巻十号、十月)

と、 「 浮 世 絵 」 を テ ー マ と し た 論 文 を発表している。田中自身の側に、 『マイヨール』

(日本美術学院、一九二一年十一月)

以後から「浮世絵」研究者として展開する背景には、どのようなきっかけと経緯が あったのだろうか。先にあげた熊田司氏の研究では、 田中は青年時代からすでに 「浮 世絵」に対して関心を持っていたと指摘されている。同氏は、その証左として「仮 面会」当時田中周辺に いた黒田重太郎のつぎのような言葉をあげている。

それから一二年の間のことであらう。 華岳君は大いに浮世絵に凝り出してゐた。 「夜桜」

(稿者注、一九一三年制作)

はその収穫の一つである。尤もこれは君 ば か りでなく、私達の大部分にその傾きがあつたのは、否めない。そして中井さん からクールト、田中喜作君からゴンクールなぞの著作について、色色内容を話 して貰つたりした。

(黒田重太郎『画房襍筆』、湯川弘文社、一九四二年、二五三頁)

  「 仮 面 会 」 当 時、 田 中 が「 ゴ ン ク ー ル 」 の 話 を し た と い う の で あ れ ば 、 フ ラ ン ス 留学から帰って、フランスでのジャポニスムの流行、そのなかでの浮世絵の評価な どを理解したうえでのことであろう。また、先述のようにモーリス・ドニを翻訳紹 介していることなどをみれ ば 、ドニも加わっていた「ナビ派」の志向が平坦な色面 による表現へと向かうことになるひとつのヒントに「浮世絵」版画があったことを おもえ ば 、田中のなかでヨーロッパ近代美術を通じて、あらためて認識することに なった「浮世絵」は逆輸入のようなものではなかったろうか。   さて今一度、一九二〇年代の田中に もどれ ば 、この時点まで「浮世絵」に 関する 著述を公にはしていない。つまり、この頃を境にヨーロッパ近代美術から日本の古 美術へ学術的な関心が変化したといえるだろう。それは、ちょうど劉生の美的な関 心の変化の内容と時間とが一致することから、ことに京都時代に劉生が「浮世絵収 集に日も夜もなくなる熱狂へと導かれた一つの大きなきっかけがこの田中に あった ことを指摘しておこう」という瀬木慎一氏による見解もあ る ) ((

( 。しかし、それは劉生 と田中の間で相互に影響しあったものではなかったろうか。また、田中の側からみ ると、田中が美術批評家であり古美術研究者の立場から同時代の画家に助言をした と仮定するなら ば 、それは劉生以上に梅原龍三郎ではなかったかとおもわれる。そ うおもわせるほど、劉生の「日記」をたどっていくと、劉生がし ば し ば 梅原と田中 が同伴している場面に出会っているからであ る ) ((

( 。そして、梅原自身も、この当時、 浮世絵をはじめとして古美術品の収集をしており、前掲の劉生の本には、見開きの カラー印刷で劉生、梅原の所蔵する肉筆風俗画が掲載されてい る ) ((

(挿図

に記されている。   先にあげた『改造』に 発表された田中の「浮世絵概論」の冒頭では、つぎのよう ないのがその「浮世絵」観の相違である。   ところで劉生と田中の「浮世絵」を介した関係を考える場合、見落としてはなら ((

。 陽春の一夜であつた。 長崎に客となつた私は隠れたる篤学の士古賀十 次

ママ

郎氏

(知る人こそ知つてゐる氏を隠れたる学者とすることは決して応はしくないかもしれな

いが)

を 其 の 門 を 叩 い て 崎 陽 に 関 す る 文 献 に 就 い て 教 を 乞 ふ た こ と が あ る。 坐 談会、徳川氏鎖港の令に及むだとき、氏は其の燃ゆるが如き郷土愛から、此の 悲しむべき政策が三百年の長崎を徒に萎縮せしめ、其の市人の心をも疲靡せし めた ば かりでなく、それはまたやがて日本文明の歴乱たる開花に最も呪ふべき 圧 迫 を 加 へ た こ と を 痛 論 さ れ た こ と が あ る。

(中略)

高 遠 な 文 化 に 対 す る 愛 惜 から、無論私も亦過去の消極政策を呪はざるを得ないものの一人であることは 云ふまでもない。然し翻つて考へると、たとひ此の悲むべき消極主義が我々の 祖先の文化を狭小な一国家の藩蔽裏に閉ぢ込めたとしても、他面にはどれだけ 内の発酵と爛熟とを寄興したかを想ひ到るとき、また更に新なる喜びを感ぜざ るを得ないものである。

  こ こ か ら 田 中 が、 か つ て 長 崎 ま で 赴 き 長 崎 学 で 知 ら れ る 古 賀 十 二 郎

(一八七九︱一九五四)

に 会 っ て「 痛 論 」 さ れ て い る こ と に も 驚 く が、 す で に 近 世 美 術 へ の 研 究

七〇

(16)

尾高鮮之助と岸田劉生

を 重 ね て い た こ と を う か が わ せ る 書 き 出 し で あ る。 そ し て、 「 浮 世 絵 」 と い う 言 葉 の発生から説き起こし、その概念を歴史的に論じすすめ、その精華ともいうべきも のが浮世絵「版画」にあると、つぎのように認めていることにも驚かされる。

此の画人と彫師と摺師との三者が互に作画の三昧に入つて完成せる芸術、それ は実に江戸時代と云ふ不可思議なる時代を背景として、かの不思議なる空気を 呼吸してのみ産出し得るもので、 かくの如き統一せる情感の時代を外にしては、 今後如何なる未来にも、如何なる境土にも再びかくの如き神秘なる芸術を産す ることはないであろう。私はこの意味に於て、かのあやしき江戸文明を悲しみ 喜ぶと共に、此の偉大なる浮世絵の芸術に讃仰を禁じ得ないものである。

  この点は、あくまでも「肉筆」風俗画を高く評価する劉生とはまったくことなる 点である。田中のこの論文を読んだ劉生は、その「日記」に「改造が来る。田中喜 作君が浮世絵の事をかいてゐるのを拾い読みしたが参考にはなる。浮世絵を只のデ カ ダ ンスにしてしまつてゐるのは浅見也」

(同年九月二十一日)

とだけ記している。   そ の 一 ヵ 月 後 の 劉 生 の「 日 記 」

(同年十一月七日)

に は、 再 び つ ぎ の よ う に「 田 中 喜作君」の名を見いだすことができる。

午后から原稿かいてゐたら、内藤琪土君来訪、武者は今日大阪へ梅蘭芳をみに 行つたから来られぬ明日は神戸の田中喜作君の紹介にて志賀たちと松方氏所蔵 の浮世絵をみに行くから一緒に行かぬかといふ。しかし明日は多忙なので行か れぬので断る。

(『劉生全集』九巻、前掲、三四一頁)

  ここからうかがわれるのは、 「武者」 、 つまり武者小路実篤が、 「神戸の田中喜作」 の紹介で志賀直哉とともに 「松方氏所蔵の浮世絵」 を見に行くことを誘われながら、 劉生が 「多忙」 のために断っていることである。ここでいう 「松方氏所蔵の浮世絵」 とは、どのようなものなのだろうか。これは、川崎造船社長の松方幸次郎が、第一 次 世 界 大 戦 後 の 一 九 一 九 年

(大正八)

に フ ラ ン ス の 宝 石 商 ア ン リ・ ヴ ェ ヴ ェ ー ル か ら買い取った約八千点に及ぶ浮世絵コレクションを指しているとおもわれる。周知 のとおり、当時の造船業の好景気により松方は西洋画とゴブラン織を収集し、その 美術品のコレクションに加わったのがこの浮世絵コレクションであった ) ((

( 。田中が、 どのようなかたちでこのコレクションに関わるようになったかは不明である。しか し、 こ の コ レ ク シ ョ ン の 一 部 は、 翌 一 九 二 五 年

(大正十四)

四 月 二 十 日 か ら 五 月 五 日まで恩賜京都博物館において「松方木版浮世絵展」として松方所蔵の浮世絵版画 二〇〇点が特陳された ) ((

( 。この展覧会に、 田中喜作も関わっていたらしく、 劉生の「日 記」

(四月二十三日)

には、つぎのように記されている。

挿図 (( 『初期肉筆浮世絵』より、

右が「慶長舞妓図」(一)(梅原龍三郎氏蔵)、左が「慶長舞妓図」(二)(著者蔵)となっている。

七一

(17)

美 術 研 究  三 九 五 号

今日は清水と博物館へ浮世絵の展覧会をみに行く事になつてゐる。これは松方 幸次郎氏が西洋から将来したものである。十二時頃出かける。丹絵漆画に珍品 多し、清倍の和唐内、珍宝の例の西国屋、寿の字の絵利信のうちわ売其他大に よろしきものあり歌麿にも感心する。田中喜作、梅原、田中善之助、土田麦僊 等に会ふ。

(『劉生全集』、前掲、一〇〇頁)

  その翌日の「日記」に は、さらに つづけ「朝田中喜作君来訪、大毎に 浮世絵の事 かいてもよろしいとうけ合う」とある。このことから、田中喜作自身、この展覧会 に関わり、 原稿の依頼を劉生にしたと推察される

(ただし、「大毎」とあることから、当時の「大阪毎日新聞」を調べてみたが、件の劉生の記事は見いだすことができなかった。

別の新聞社であった可能性もあるが、未調査である)

。 こ の 当 時、 つ ま り 関 東 大 震 災 後 のことであるが、浮世絵はある種のブームになっていたようである。欧米のコレク ターによる収集、さらに震災後の江戸情緒への懐旧、そして収集家、研究者の増加 などにより震災前よりも浮世絵がもてはやされるようになったといわれる。たとえ ば 、 一 九 二 六 年 八 月 に は 一 般 文 芸 誌 で あ る『 新 小 説 』 で も、 「 浮 世 絵 趣 味 号 」 な る 特集を組んでいる

(挿図

して寄稿している。田中も、劉生もすでに「浮世絵」趣味のただなかにいたといっ 田中喜作「浮世絵の発祥」という一文であり、最後には劉生が「浮世絵雑考」と題 ((

。十二人による寄稿者で構成された特集記事の巻頭は、 めて「田中喜作」の名前を見いだすことできる。 述 に よ れ ば 、 一 九 二 七 年

(昭和二)

「 十 月 二 十 三 日 」 の 項 に は、 つ ぎ の よ う に は じ の仲介をしたのは、劉生だったという可能性もある。さらに、同じく「年譜」の記 の前後には尾高と田中喜作とは接点があったのではないかと推察される。さらに そ そ の「 六 月 四 日 」 の 項 で、 「 神 戸 に て 松 方 家 の 浮 世 絵 見 学 」 と あ る。 こ れ か ら、 そ によれ ば 、 同年五月、 尾高は母、 妻愛子、 姉妹の雪子の四人で関西に旅行している。 に湯原愛子と結婚し、 翌年三月に大学を卒業している。尾高の 『遺稿集』 の 「年譜」 の も と で 会 合 し た 記 述 は な い。 尾 高 は、 大 学 在 学 中 の 一 九 二 五 年

(大正十四)

十 月 これまでその手がかりとしてきた劉生「日記」には、尾高、田中のふたりが、劉生   一方で、尾高と田中喜作の交わりは、何時、どのように はじまったのだろうか。 た。これが機縁だったのだろうか、同年三月には同校の講師を嘱託されている。 特殊研究講義「浮世絵発達の文化史的考察」と題して六回にわたり講義をおこなっ て い い だ ろ う。 つ づ い て 一 九 二 七 年

(昭和二)

一 月 に、 田 中 喜 作 は 東 京 美 術 学 校 で

母の許に来たり、田中喜作氏が熱心に美術研究所の事に就き相談相手に 御成下 さる事を語り喜ぶ。且つ、 此美術学校附属美術研究所に勤向の定まる事を話し、 種々将来の事を相談なし合ひたり。

  美術研究所創設の任に あった矢代幸雄の回想では、尾高の研究所の採用に ついて は、田中喜作の推薦のほか、尾高の兄豊作の友人からの紹介もあったという ) ((

( 。いず れにせよ、先の「年譜」にある一九二七年の秋には、ほぼ美術研究所に勤務するこ とが決まっていたとみていいだろう。   この研究所勤務とは別に 、田中喜作は浮世絵研究と松方コレクションにかかわる 展覧会の開催にむけて、尾高とともに仕事をすすめていたようだ。二七年十一月に は、 丹緑堂から田中喜作、 岸田劉生共編で大型画集 『初期浮世絵聚芳』 が刊行された。 同書のなかには、 劉生のコレクションから作者不詳ながら 「婦女図」

(二曲屛風一隻、

挿図

((

が 掲 載 さ れ、 さ ら に 尾 高 鮮 之 助 蔵 と し て「 筆 者 不 詳『 男 女 遊 楽 図 』」

(挿図

(0

が 掲 載 さ れ て い る。 こ こ で、 は じ め て 尾 高、 田 中、 劉 生 の 三 人 が 合 間 見 え る こ

挿図 (( 『新小説』第 (( 巻 ( 号表紙、((((

年 ( 月

七二

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