• 検索結果がありません。

今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に 見る女性たち

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に 見る女性たち"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に 見る女性たち

著者 ファン ギュンミン

発行年 2018‑05‑14

その他のタイトル Reexamining Gender Politics and Spatial

Representations of Women in Films of Imamura Shohei

学位授与機関 明治学院大学

学位授与番号 32683甲第43号

URL http://hdl.handle.net/10723/00003346

(2)

博士学位論文要約

今村昌平を問い直す

:空間とジェンダーの政治学に見る女性たち

明治学院大学院 文学研究科 芸術学専攻 博士後期課程

13LAD003

ファン ギュンミン

(3)

Ⅰ.論文題目

今村昌平を問い直す:空間とジェンダーの政治学に見る女性たち

Ⅱ.論文目次 序章

第一節 研究背景---1

第二節 研究目的---10

第三節 分析作品及び論文の構成---12

第一章 今村昌平の世界 第一節 今村昌平映画の概観:形式的な特徴と思想の背景---16

第二節 今村昌平の女性表象をめぐる言説とその問題---27

第二章 空間の二分化による女性身体と声の抑圧:『にっぽん昆虫記』 第一節 『にっぽん昆虫記』をめぐる言説---39

第二節 絡み合う二つの歴史---40

第三節 標本になった女---44

第四節 消去される声---59

第三章 抑圧と欲望が復活する空間:『赤い殺意』 第一節 『赤い殺意』をめぐる言説---72

第二節 抑圧の記憶が戻ってくる高橋家---75

第三節 家父長制を象徴する高橋本家---87

第四節 二重の束縛、東北という田舎---96

第四章 視線のヒエラルキーが交差する空間:『エロ事師たちより 人類学入門』 第一節 『エロ事師たちより 人類学入門』をめぐる言説---100

第二節 構造化された二重の視線---104

(4)

第三節 支配と抑圧の閉鎖的な空間---113

第四節 挫折の起源---122

第五章 終章---130

註---136

Ⅲ.要約

序章

本研究の目的は、今村昌平の映画において女性が最も重要な題材かつテーマであるにも かかわらず、女性表象にまつわるジェンダー・イデオロギーの問題が見落とされ、また女 性表象をめぐる議論のほとんどが、物語とテーマの分析に限られていることに注目し、既 存研究とは異なる方向から今村の女性表象と彼のアプローチを考察することにある。分析 テクストとしては、『にっぽん昆虫記』(1963)、『赤い殺意』(1964)、『エロ事師た ちより 人類学入門』(以下『人類学入門』、1966)を取り上げる。

貧しい農民出身の女の波乱に満ちた半生をクロニクルに描いた『にっぽん昆虫記』は、

「今村的女性の完成形」1が初めて主人公として登場するため、女性表象を論じるにあたっ て欠かせない作品である。タイトルが示しているように、今村はまるで昆虫を観察するか のように、ヒロインのとめ(左幸子)と一定の距離を隔てて彼女の物語を追っていくのだ が、そこから浮かび上がる今村の態度は人類学的アプローチの核心である。その意味で

『にっぽん昆虫記』は視線のジェンダー的観点から今村の方法論や女性表象を考察する本 研究に最も符合する映画であろう。

物語やテーマの側面から見ると、『赤い殺意』はより論争的な作品である。周知のとお り、ヒロインの貞子(春川ますみ)は強姦事件に巻き込まれた後、次第に変貌を遂げ、最 後に自分をないがしろにした夫と姑に妻と嫁の地位を認めさせる。このような結末である がために、『赤い殺意』は例外なく女性が勝利する映画として解釈されてきた。だが、こ こで問題なのは、貞子の変化が強姦という暴力的な行為によって起こること、またその変 化に貞子自身の意志が欠如していることである。貞子が封建的な高橋本家に戻る結末に関 しても、これが貞子の解放を意味するのではなく、彼女が家父長制の助力者になり、その

1 Audie Bock, “Shohei Imamura,” Japanese Film Directors (New York: Kodansha America, 1985), 293.

(5)

抑圧的なシステムの維持を意味するとはいえないだろうか。このように、『赤い殺意』に はテーマ上、議論の余地が多く見られるにもかかわらず、既存研究ではいかなる問題提起 も行われてこなかった。

一方、今村の映画で東北地方を舞台にしたのは、『にっぽん昆虫記』と『赤い殺意』だ けである。今村の映画は様々な地方都市や田舎を舞台にしているが、特に今村が注目した のは東北地方だった。戦後日本が経済的な復興を図り、国全体が西洋化と現代化に進んで いく中で、東北は相変わらず前近代的な伝統と思想が残っている保守的な地方であった。

民俗学の影響を強く受けた今村にとって、東北地方は田舎の典型性を保っている場所であ るが、その空間性に注目した研究は今のところ見当たらない。

ところが、この二作は東北地方を舞台にしている点では共通しているものの、空間の様 相や女性の表象においては大きく異なっている。『にっぽん昆虫記』の物語は東北の山村 だけではなく、大都市の東京でも展開されるが、都市と農村という二つの場所から二分化 され、ジェンダー化された空間の様相を見出すことができる。また、『赤い殺意』の物語 はもっぱら東北地方のみで展開するが、封建的な地域における家父長的な家という設定に よって、二重の抑圧的な空間が見事に具現化される。このように、『にっぽん昆虫記』と

『赤い殺意』には東北という地域の特徴がそれぞれ異なる形で具現化されており、同時に その空間的な属性が女性表象に密接に関わっている。そこで本研究は、東北という地方の 表象について女性表象との関係から考察し、これまで単に地域性や民俗学的な影響だけで 語られてきた東北の空間性をより詳しく解明する。

『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』に比べると、『人類学入門』はやや異質な作品であ る。まず、映画の主人公が女性ではなく、ブルーフィルム業者のスブやん(小沢昭一)と いう男である。当然ながら物語はスブやんを中心に進んでいき、頻繁に挿入されるフラッ シュバックも全て彼に関わっている。だが、物語の重要な部分を占めるスブやんの記憶と トラウマ、幻想は全て女から始まり、彼の過去と現在をも支配している。 『にっぽん昆 虫記』や『赤い殺意』とは違い、『人類学入門』では女性の存在が前面に押し出されては いないが、だからといって必ずしも女性表象の考察対象としてふさわしくないことにはな らない。むしろ、男性を主人公にした物語の中で女性がどのように表象されているのかを 見ることで、女性に対する男の視線とジェンダー的なヒエラルキーの問題を確認すること ができる。さらに、『人類学入門』の空間は、映画の構造的な形式と相まって、女性に対 して抑圧的に表象されている。この作品は劇中劇の「入れ子構造」を導入しているが、こ の形式には映画における視線、空間、女性の問題が複雑に絡み合っている。

これらの映画を選ぶにあたっては、時期的な連続性も重要な理由であった。勿論製作時 期の連続性が必ずしも映画の相互関係を保障するとはいえない。だが今村の場合、活動期 間が五十年代後半から二〇〇〇年代までに及んでおり、約十年間劇映画の現場から離れて、

テレビドキュメンタリーの製作に専念した時期もある。したがって、女性表象という特定 のテーマを考察するためには、特定の時期に集中する必要があった。さらに、『人類学入 門』は今村が独立して立ち上げた今村プロダクションの第一作であり、会社からの制約を 受けずに撮影ができる環境で初めて作った映画である。日活との関係が完全に絶たれたわ けではなかったが、専属監督ではない今村に強くブレーキをかける者はいなかっただろう。

その意味で『人類学入門』は今村の思考や観点を確かめることができる重要な一本である。

(6)

第一章 今村昌平の世界

第一章では、映画作家としての今村のキャリアと映画の形式的な特徴や思想の背景を確 認した上で、これまで今村の女性表象がどのように言説化されてきたかについて検討する。

映画作家としての今村は、文化人類学、民俗学などに対する関心を強く示し、また徹底し た調査に対する偏愛的な傾向を持っていたが、それは彼の女性表象と空間把握という形に 直接的、間接的に表れている。

また、なぜ今村の女性表象がしばしば肯定的に解釈され、「フェミニスト的」とも呼べ るような評価を持ちえたのか、という疑問に答えるには、先行研究における既存言説がど のような文化的、映画史的文脈から来ているのかを明確にする必要がある。そこで、本章 ではまず、今村映画を語る際に挙げられる幾つかのキーワード、つまり重喜劇、人類学、

民俗学、民衆、女性などを詳細に見ていくことで、今村映画に一貫する特徴を概観する。

ジャンルの枠組みから見ると、今村の映画は喜劇に属するが、単純に笑いを生み出す喜 劇には当てはまらない。デビューする前から、今村は「重喜劇を撮りたい」という信念を 抱いていた。「洒落たスマートな喜劇を意味する軽喜劇という言葉をもじった今村昌平の 造語である」2重喜劇は、「軽いばかりが笑いではない、もっと人間の真実を描いてずしり と腹に驚く重い笑い」を作り出す喜劇である3

今村が取り上げるテーマは決して軽いわけではなく、底辺に生きる人間たちの物語は悲 劇的に終わることが多いものの、ひたすら悲しく、暗いばかりでもない。登場人物が危険 に陥ったり、悲劇的な状況に置かれて観客のペーソスが喚起されようとすると、今村はそ の緊張感の走る瞬間、むしろ軽いユーモアを駆使する。そうして作り上げられた笑いは、

爆笑ではなく、どちらかというと失笑に近い。あまりに深刻な状況にも関わらず、キャラ クターの可笑しさや愚かさが軽い笑いを誘い、思わず笑ってしまった観客は、感情移入か ら抜け出す。これが今村のいう重喜劇である。

今村映画のもう一つの特徴は、ドキュメンタリー的スタイルである。現場でのやりとり を重視した今村は、スタジオでの撮影を好まなかった。当時の専属監督は、会社のスタジ オで撮影を行い、なるべくスターや専属俳優をキャスティングし、録音はアフレコをする のが当たり前だった。だが、今村は安全で、便利な撮影環境が保たれるスタジオ撮影では なく、突発的な出来事が起こりやすいオールロケとオールシンクロ(同時録音)を好んで いた。また、細かいところまで計算して演技するベテラン役者より、新人俳優を起用する ことで、「生な人間の存在感をさらけ出」した4

『にっぽん昆虫記』に代表されるドキュメンタリー的スタイルは、徹底的な現場中心主 義と嘘芝居を許さないリアリズムの追求から得られたものだが、それを可能にさせたのが、

精密な調査のもとで執筆されたシナリオである。今村にとって人間は、素材であると同時 にテーマであった。特に、下層階級の女性に興味を持った今村は、「文化人類学者が丹念

2 佐藤忠男『日本映画の巨匠たちⅢ』学陽書房、一九九七年、六三頁。

3 今村昌平『映画は狂気の旅である』日本経済新聞社、二〇〇四年 、八一頁。

4 同上、一〇〇頁。

(7)

に現地調査をするように、「女」という対象に向かって「現地調査」を重ねて、「資料」

を収集し、作品つくりに生か」していた5。今村は人間に興味を持った反面、一定の距離を 置き、感情移入せずに対象を見ていたが、このような演出方法は科学、人類学、昆虫学と いった異なる用語で説明されている。いずれも対象を観察し、得られた情報から客観的な 結論を出す方法論を基本にしている。

確かに今村の映画は一般的な劇映画とは違って、因果関係にあまり拘らない。物語の筋 が全くないわけではないが、物語の核となる重要な事件が起こり、その解決に向かって映 画が展開していくような構造を今村は好まなかった。物語の目標は事件の解決ではなく、

状況だけを提示し、その判断は観客に任せたのだ。

このように、「人類学」や「科学」と説明される演出方法は、柳田國男の民俗学に深く 関わっている。もちろん、今村は柳田の民俗学を「学問」としてではなく、民俗学を通じ て日本的な根源と本質を追求しようとした柳田の姿勢や精神性に影響をうけたのだろう。

民衆や地方、田舎を好み、昆虫学者の目で人間を観察するなど、柳田の影響は映画の内容 と形式的な特徴双方に具現化され、今村映画の本質になった。特に柳田の「郷土」と「常 民」の概念は、田舎を近代化が進んでも変わらない場所、日本的なアイデンティティの根 幹をなす場所として描いた今村のまなざしにも通じるものである。

より重要なのは、今村の女性像にも柳田の影響が見出せることである。今村映画に登場 する女性たちはとにかく強い。肉体的に逞しく、性的な欲望に満ちている。苦しいことが あっても決して挫折しない。苦境に立たされても、ただせっせと進んでいく。また、彼女 たちは誰かのための犠牲になったり、一歩下がって立場を譲ることはしない。彼女たちは 自己中心的だが、それはあくまで生存本能の表れであり、「今村の女性たち」が「サバイ バー」だと呼ばれたのもそのためである6

このような女性表象について、今村は「畏敬の念をこめて映画に描くことになる、たく ましく生命力豊かな女性像の原型は明らかに母である」と母親との関係性を言及している

7。北海道小樽出身の母親は、当時の女性としては大柄で腕力が強く、「豪快」で「少々乱 暴」な性格の持ち主だった8。「馬を連想する」肉体的な丈夫さと強い気質を持った母は、

まさに『にっぽん昆虫記』のとめや『赤い殺意』の貞子を思いださせる9

このような母のイメージはヒロインの外形にも反映されている。『にっぽん昆虫記』の 左幸子、『赤い殺意』の春川ますみ、『人類学入門』の坂本スミ子、『神々の深き欲望』

の沖山秀子などは、 いずれも、丸顔で比較的がっしりした体形をしている。今村は「す らりとした八頭身などという基準には眼もくれ」ず、そのような性質と体形を通じて、

「大地にどこまでもどっしりと根を生やし」たエネルギッシュな女性を追求したのである

5 香取俊介『今村昌平伝説』河出書房新社、二〇〇四年 、一一四頁。

6 Joan Mellen, The Waves at Genji’s Door: Japan Through Its Cinema (New York: Pantheon, 1976), 301.

7 今村昌平『映画は狂気の旅である』、二〇頁。

8 同上、一八頁。

9 香取俊介『今村昌平伝説』、七二頁。

(8)

10。デイビッド・デッサー11やオーディ・ボック12は、この「今村的な女性」を完璧に具現 化したのは『にっぽん昆虫記』のとめと『赤い殺意』の貞子だと指摘しているが、初期作 における女性たちも、部分的でありながらとめや貞子のような気質を共有している。

だが、今村が田舎の下層階級の女性に注目したのは、単に彼女たちの肉体的な逞しさか らだけではなかった。「死ぬまでうじ虫を書いてやる」13と決意したとおり、今村は主に 民衆、すなわち普通の庶民を描いていたが、女こそ民衆の中でも序列の最も低いところに 位置している。今村にとって「本当のうじ虫」に近いのは、教養もお金もない、もっぱら 丈夫な体しかもたない女性であり、だからこそ田舎出身の貧しい女に注目したのであろう。

今村に影響を与えた柳田も女性を特別な能力を持った重要な存在として認識し、特に主 婦と巫女の役割に注目した。しかし、彼は女性の力について語っているものの、主婦と巫 女の関連性や巫女という社会的な地位に関する問題などに触れておらず14、女性に対する 柳田の視線は男性中心的な思考に基づいている15

勿論、今村が柳田のように女性の霊力などを描いたわけではないが、旺盛な性的本能や 生命力を、女性の特別な力として見なしていた今村の眼差しは、柳田の女性観に通じると ころが少なくない。また、『赤い殺意』における貞子と姑の葛藤や、『神々の深き欲望』、

『赤い橋の下のぬるい水』における巫女のイメージは、主婦と巫女に対する柳田の議論に も重なる。一方、既存の言説において、女性の生命力あふれる人物造形と身体性、プリミ ティブなセクシュアリティは、家父長制に対する抵抗と転覆の可能性を持っていると解釈 されてきた。それは日本映画史の文脈でもある種の系譜として語られ、また欧米圏の批評 でも、同様の評価がなされてきた。

次節では、このような認識に異議を申し立てた上で、今村に関する作家研究を概観する。

具体的には既存研究において「今村的女性」がどのように言説化され、神話化され、そし て、フェミニスト的であるという評価に至ったかをまとめ、今村映画が潜在的に持ってい る二律背反的な女性表象について、詳しく論じる。この作業は主に『日本映画思想史』に 収録された佐藤忠男の「日本映画におけるフェミニズムの伝統」(1970)、デイビッド・

デッサーの『Eros Plus Massacre: An Introduction to the Japanese New Wave Cinema』(1988)、

ビアンカ・オティリア・ブリシウの『Negotiating Power: Gender and Body Politics in the New Wave Japanese Cinema』(2012)を取り上げ、日本映画におけるフェミニズムの言説がどの ように変遷し、またフェミニストとしての今村昌平と彼の映画における女性像がどのよう に評価されてきたかを考察する。この作業を行うことで、既存研究のアプローチでは今村 の女性表象の分析が不十分であることを確認したい。

10 佐藤忠男『日本映画の巨匠たちⅢ』、八一頁。

11 David Desser, Eros Plus Massacre: An Introduction to the Japanese New Wave Cinema, 123124.

12 Audie Bock, “Shohei Imamura,” 292.

13 今村昌平『映画は狂気の旅である』、一二〇頁。

14 福田アジオ「柳田國男における歴史と女性」『国立歴史民俗博物館研究報告』第二一集, 一九八九年三月、国立歴史民俗博物館、二九〜三〇頁。

15 同上、二四頁。

(9)

第二章 空間の二分化による女性身体と声の抑圧:『にっぽん昆虫記』

第二章では『にっぽん昆虫記』のオープニングとエンディング、フリーズ・フレームと ヴォイス・オーヴァーのシークエンスを中心に、女性表象と空間の様相を詳細に分析する。

タイトルが示しているように、昆虫は主人公のとめを象徴しているが、この比喩関係とと もに観察者としての今村の立場がどのように表象されているのかを、映画の始まりと終わ りの場面から検討する。また、対象に距離をおいて観察する人類学的なアプローチが、ど のように具現化され、女性を描いているのかを見ることで、『にっぽん昆虫記』における 女性表象の意味を明らかにする。フリーズ・フレームとヴォイス・オーヴァーの関係を検 討する作業では、オープニングとエンディングで確認した今村の視線が女性身体をどのよ うに抑圧するかを考察し、それが都市/田舎という空間の二分法と女性表象との関係にいか に繋がっていくのかを解明する。分析のためにミシェル・シオンとカジャ・シルヴァマン の研究を一部導入する。

第一節では当時の雑誌、評論、既存研究を取り上げ、『にっぽん昆虫記』をめぐる言説、

とりわけ女性像の描き方や解釈を確認する。第二節では『にっぽん昆虫記』における字幕 の機能とその意味を考察する。一三回挿入される字幕は、新しいシークエンスが始まる際 に示されるが、各シークエンス間の省略を埋め、物語の理解を助ける機能を担っている。

また、年号という具体的な数字が表示されるため、虚構であるはずの物語に信憑性を与え ている。より重要なのは、ほんとんどの字幕が、日本の近代史と現代史における重要な出 来事に関わっていることである。第二節では字幕のシークエンスを分析することで、物語 とコンテクストの関係性、つまりとめの人生と歴史的な事実がどのように絡み合っている のかを詳細に考察する。

第三節ではオープニングとエンディングなど、特定のショットとシークエンスを取り上 げ、昆虫ととめの類似関係だけではなく、物語の戦略と映画における視線の構造を確認し た上で、女性表象の意味を詳細に分析する。とめと昆虫の相関関係は、オープニングとエ ンディングのフリーズ・フレームによって明確になるが、動きを止めるフリーズ・フレー ムは物語の自然な流れを中断させることで、観客に感情移入をさせず、映画について考え させる。そうすることで観客は対象から距離を置き、状況を客観的に見ることができる。

その意味で、フリーズ・フレームは観察的な方法論を具現化する装置である。

身体の運動性がなくなったこのフリーズ・フレームのイメージは、昆虫のガラス標本を 連想させる。標本になった昆虫は生命力を失って全く動かないが、透明なガラスに封じこ められた昆虫の胴体は、観察者が見るには最も良い状態になっている。この意味で、オー プニングとエンディングで成立した昆虫ととめの相関関係は、観察される対象の受動性を も含んでいる。この受動的なイメージは、とめを観察する監督の視線、そこに横たわって いる監督の優越的な立場と女性身体への抑圧を表象し、人類学的アプローチという今村の 方法論に内在しているジェンダー・イデオロギーを表す核心となる。

第三節ではさらに、フリーズ・フレームにおけるヴォイス・オーヴァー・ナレーション についても分析を行なった。『にっぽん昆虫記』にはフリーズ・フレームと写真ショット

(静止場面)が合計一二箇所あるが、そのうちとめに関わっているものは一〇個、またヴ ォイス・オーヴァー・ナレーションが付いているものは五個である。さらに複数の写真シ

(10)

ョットとフリーズ・フレームで構成されたシーンが四箇所あるが、その中でとめに直接関 わっているのは、二回にわたって描かれる警察署の場面である。全てのフリーズ・フレー ムと写真ショットにヴォイス・オーヴァー・ナレーションが付いているわけではなく、七 個のフリーズ・フレームと一個の写真ショットにおいてのみ、とめのヴォイス・オーヴァ ーが被せられる。

動きが止まった後に聞こえてくるとめのヴォイス・オーヴァーは、映画の縫合規則に照 らし合わせると、動かない身体から発せられる声である点で奇妙である。また、対象に一 定の距離を持って観察する今村の方法論から見ると、とめの心境を表すこのヴォイス・オ ーヴァーは主観的であり、その意味で客観性を特徴とする人類学的なアプローチとは相反 する。さらに、とめの声は自分の行為を自己表出的に語っているため、その様相はより複 雑になる。

第三節の後半では、フリーズ・フレームとヴォイス・オーヴァーが使用されたシークエ ンスを中心に、今村の方法論と女性身体の表象をめぐる諸問題を詳細に検討する。議論を 進めるために、ここでは身体と声の問題を考察したカジャ・シルヴァマンとミシェル・シ オンの研究を導入する。

第四節では前節で行なった分析を踏まえて、とめの自己表出的なヴォイス・オーヴァー が、空間との関係の中でどのように変化するのかを検討する。とめの声は戦後間も無く日 記をつける時点から始まり、上京したとめが売春を始めた直後に消える。そして国家権力 を象徴する警察署で、とめの動きと声は、男性の警察官の視線と声に完全に統制される。

だが、消去された声はとめが一時帰郷した時、再び復活する。本節の分析は、このような 声の消去と復活が、都市空間との乖離、田舎との緊密性という二分化された空間性に関わ っていることの解明を目的に置いている。

都市と田舎という二分化された空間の様相とその意味は、今村が女性を田舎に戻らせる 映画の結末にも繋がっていき、昆虫と女性の同一視によって明確になる。女性は永遠に田 舎に閉じ込められねばならず、今村の言う逞しい女性たちは、近代日本の都市空間から排 除され続けるしかない。しかし、映画の最後、売春という違法の世界から抜け出した時、

都市空間でもとめの声が再び復活する。この、女性を都会から排除し、田舎の空間のみに 結びつけようとする態度こそ、そもそも女性に日本の根源を求め、肯定的なエネルギーを 見出そうした今村の方法論と、そうして作り上げられた今村的な女性像に横たわっている 男性中心的な眼差しなのである。

周辺的で逞しい女こそ、日本を牽引する本当の力だと考えた今村は、そのような女性た ちを人類学者のように、あるいは昆虫学者のように観察しようとした。今村にとって、田 舎に属する女性の表象は決して否定的なものではない。だが、その視線に横たわっている 男性としての無意識は、いつのまにか女性を客観的に見るのではなく、客体化させてしま った。完全なる支配イデオロギーの幻想から逃れることができず、今村は女性の肯定的な エネルギーを田舎に限定することで、逆説的に女性を田舎に閉じ込めてしまった。そこで 彼が見逃したのは、都市空間における女性の疎外であり、そのようにして女性の更なる神 話化が進んでいったのである。

(11)

第三章 抑圧と欲望が復活する空間:『赤い殺意』

第三章では物語の空間により重点を置いて、高橋家と高橋本家、東北という三つの空間 と女性表象の関係を考察する。まず、第一節では『赤い殺意』をめぐる当時の言説を検討 しながら、この映画を女性勝利の物語として読み取った既存研究に対して問題提起を行う。

高橋家を分析する第二節では、映画のオープニングと二つの強姦シークエンスを中心に、

空間の構成、カメラの構図と動き、小道具の配置などをショットごとに見ながら、高橋家 の空間的な属性がどのように具現化されているのか、階級と家父長制の権威やその保守的 な価値観によって抑圧された過去がどのように空間上で投影されているのか、またその過 去と現在がどのように繋がっているのかを考察し、最終的に高橋家という空間と、貞子に 対する抑圧や彼女の過去の欲望がどのように関わっているのかを論じる。

オープニングで確認した高橋家の空間性は、強姦事件を契機に変わっていくため、以降 の分析ではその空間性が貞子の変化とどのように繋がるのかを検討する。貞子に大きな変 化を呼び起こす強姦事件は、物語を進行させる引き金となるだけでなく、高橋家と貞子の 身体への侵入という象徴的な意味を持つ点においてより重要である。貞子の身体と彼女が 属している空間を支配している秩序は、結婚と家族制度に基づいたものであるが、それは つまり、彼女を統制する力を持っているのが夫の吏一(西村晃)であることを意味する。

結婚制度の基本的な前提は、結婚した女は夫以外の男と関係してはいけないというもので あり、その意味で貞子の体は吏一だけが所有できる。夫であり、家長である吏一は、高橋 家の支配者としてこの空間の秩序を作り、そして守る。この家は吏一によって支配されて おり、貞子は彼の秩序に従っているのだ。

しかし、吏一によるその家父長制の秩序は、余所の男の攻撃(強姦)によって崩壊し、

それは身体と空間ともに当てはまる。つまり、男(吏一)によって立てられた秩序は別の 男=平岡(露口茂)によって壊されるが、その混乱を乗り越えて新しい秩序を作るのは、

他ならぬ貞子である。その過程が高橋家という空間に具現化されているのである

強姦シークエンスの分析では、強固だった家父長制の秩序がいかに崩壊し、貞子を中心 に再編成するのかを、いたずら書きの象徴性、線路沿いという家の位置、編み機の空間的 な占有など、視覚的な装置を通して詳細に検討する。また断片的に挿入されるフラッシュ バックについては、いたずら書きの重層的な象徴性との関係から、フラッシュバックが貞 子の抑圧と欲望の起源を見せる重要な装置であることを明らかにする。

第三節では、封建的な家父長制を象徴し、貞子の抑圧の起源になる高橋本家を分析する。

貞子の家が、空間ごとに細分化され、テレビや洋ダンス、炬燵が置かれた茶の間や、子供 の落書きが描かれている襖、冷蔵庫がある台所など、日常的に接する普通の生活空間によ って提示されているのに比べて、高橋本家はただ二つのショットのみで構成されており、

そこには生活感覚が欠如している。落ち葉が舞い散り、草木が生い茂っている敷地内の神 社によってのみ視覚化されている高橋本家は、法事や葬式など、本家の公式的な儀式を行 う封建的で、家族中心的な空間である。このようにそれぞれ異なる空間的様相や形式的な 要素に注目し、その比較分析によって、忠江(赤木蘭子)と貞子の間のヒエラルキーと、

貞子に対する抑圧のシステムが空間を使っていかに表象されているのかが見えてくるだろ う。

(12)

周囲の環境から孤立した高橋本家で常に聞こえるのは、保守的な古い価値観と封建的な 家父長制を象徴する老婆たちの笑い声と、お経を読む僧侶の声である。そこには性的な欲 望と逸脱を誘う列車の音が入ってくる余地は全くない。三人の年寄りだけが住んでいる高 橋本家は、終始暗くて陰気な空間として提示されているが、このイメージは映画の最後で 覆される。

エンディングにおける高橋本家は、それまでの雰囲気とは全く異なる。暗く、閉鎖的だ ったはずの空間は、まるで「パラダイス」のように終始明るく、女性たちの活気に溢れて いる。年寄りの声の代わりに響くのは若い女たちの笑いであり、もう呪いのような話を呟 くきぬ(北林谷栄)も、貞子をいじめる忠江も、お金にうるさい吏一もいない。この場所 は現在、貞子の夢見た通りの空間になっており、それゆえに非現実的にも感じられる。封 建的で、家族中心的な秩序のもとに成り立っていた忠江の空間が、性のエネルギーと女性 の生産力が溢れる空間に生まれ変わっている。

この結末は貞子にとって間違いなくハッピーエンドである。だが、そのような大転換を 貞子の完全なる勝利として受け入れることには、まだ疑問の余地がある。なぜなら、貞子 は自分を抑圧した家父長制を壊したのではなく、むしろそこへ安定的に入り込んだからで ある。貞子の戦いの過程で明らかになった女性身体への暴力、家父長制による支配と抑圧 の問題は、解決されないまま、貞子が高橋本家の正式な嫁になるところで、物語は終わっ てしまうのである。

このように第三節では、物語の中心的な空間を分析することで、『赤い殺意』の結末が 女性の勝利ではなく、貞子が家父長制に安全に帰属し、忠江のような家父長制の遂行者に なるというテクストの保守性を保っていることを明らかにしている。

最後の第四節では、東北の地域的な特徴が二つの空間の属性とどのように繋がっている かを考察し、これまで今村が抱いた田舎への憧れと柳田民俗学への関心という点からのみ 議論されてきた東北地方という舞台が、実はテクストの保守性を規定する核心であること を明らかにしている。

周知の通り、『赤い殺意』は藤原審爾の同名小説を映画化している。小説の舞台になる のは東京の住宅地であるが、今村は映画化にあたって、物語の舞台を保守性の強い東北の 地方都市に移している。それによって、強姦事件に巻き込まれた平凡な主婦の物語には一 層の深みが加わる。言い換えれば、田舎特有の閉鎖性や封建的な雰囲気、貞子に対する抑 圧がさらに強調され、彼女の逸脱がより目立つようになったのだ。そして、貞子の闘いの 意味は、自分を犯した平岡だけではなく、貞子自身が属している家父長制にまで拡張する。

実際に東北地方は家中心の考えが非常に強いため、封建的な家父長制の抑圧を描くには、

最も相応しい場所である。

第四節は、東北地方の閉鎖的、保守的空間性が女性表象といかに関わっているのかを見 ることで、『赤い殺意』における女性のセクシュアリティの解放が、家父長制の中でのみ 有効であり、貞子が自分の欲望を解放させ、既存の秩序に亀裂を入れることに成功したの も、転覆の可能性と保守性を同時に保っているからであるという限界を明らかにする。

(13)

第四章 視線のヒエラルキーが交差する空間:『エロ事師たちより 人類学入門』

第四章では『人類学入門』における映画の形式的な構図に注目し、それが空間の属性を どのように具現化するか、その中で女性がどのように統制され、抑圧されるのかを詳しく 検討する。この分析によって女性に対する今村の視線がどのようなものかが浮かび上がる だろう。まず、第一節では前章と同じように、当時の日本国内での批評や海外での研究に 触れながら、『人類学入門』をめぐる言説とその限界を検討する。

第二節では劇中劇、すなわち入れ子構造を導入したオープニングとエンディング・シー クエンスを中心に、二重構造による視線のヒエラルキーがいかに成立しているのか、女性 への抑圧がいかに視覚化されているのかを考察する。劇中劇といえば、一般的にフレーム となる物語の中に別の物語が含まれる形をとるが、『人類学入門』は少し異なっている。

この映画の入れ子構造は、オープニングとエンディング・シークエンスをフレームとし、

その間に位置するのは、映画の実質的な物語であると同時に、スブやんが作った 8 ミリの

「ブルーフィルム」である。一般的な劇中劇の特徴をさらに進化させたこの形式は、スブ やんの視線を今村と同一ものに置き、それによって『人類学入門』に一種の「全知的な視 線」を施す効果をもたらしている。

続くシークエンスとショットの分析では、抑圧的な視線が物語の空間にどのように施さ れているのか、具体的な撮影方法や小道具の活用、画面構成によって閉鎖的な空間性や女 性に内面化された家父長制の規律がどのように視覚化しているのかを確認する。このよう な分析は、最終的に女性の抑圧が男性の挫折させられた欲望との関係でどのように構築さ れ、強化されるのかを解明する作業に繋がるだろう。

そこで視線のヒエラルキーを具現する装置として隠し撮りと鮒を取り上げる。『人類学 入門』において最も特徴的で多用された隠し撮りのショットは、厳密に言うとどこかにわ ざわざ隠れて撮るというよりは、小道具や建物の一部を前景に置いて、背後にある対象物 を撮る方法によって、結果的に誰かが覗いているような効果をもたらしている。

既述したように、『人類学入門』で今村は劇中劇の形式を導入し、それを通じてオープ ニングで二重の視線を構造的に設定しているが、だとすると、劇中劇における中身の劇、

つまり8ミリ映画が本格的に始まる時、最初に示される場面が隠し撮りショットであるの は、ただの偶然ではない。最初のショットは視線の主体と対象を明確に提示しているが、

隠し撮りはその窃視症的な欲望に基づいた視線を、見事に具現した映画的形式であるのだ。

一方、隠し撮りはロケ撮影の限界を乗り越えるために今村が考案した戦略でもある。今 村はいち早くスタジオ撮影の便利さを捨て、『にっぽん昆虫記』ではオールロケとオール シンクロを試みた。今村によれば、ロケ撮影をすると「面白い絵が生じ、ドキュメンタリ ーのような効果」が作られるという16。今村は安定的な現場でつまらない絵を作るより、

監督が統制しにくい厳しい環境で、予想外の効果が得られるロケ撮影を好んでいた。関西 ロケを行った『人類学入門』でも、今村は映画の主な舞台になった春(坂本スミ子)の二 階建ての家で撮影を行うため、様々な工夫を凝らしていた。窓越しや水槽越しのショット は、限定された現場で練り上げた撮影方法の一つであり、それによって誰かに覗き見られ

16 今村昌平『映画は狂気の旅である』、一一八頁。

(14)

ているような特徴的なスタイルが生まれたのである。

この隠し撮りを通して見えない視線を想定することができたとすれば、その視線はさら に小道具の活用によって表象されている。それが水槽の中の「鮒」である。鮒は春の夫が 死んだ日に生まれたが、それゆえに彼女は鮒を夫の生き返りだと信じ込んでいる。死んだ 夫が鮒に生まれ変わったという春の思い込みは、実際にはありえないことだが、それが事 実かどうかの当否より、春がその考えに強く囚われていることが重要である。鮒のせいで 春はスブやんとの関係に罪悪感を覚え、彼との間にできた子供まで堕ろしてしまう。以降、

春とスブやんは夫婦同様の関係になるが、彼らの関係が深くなればなるほど、鮒に対する 春の信心と恐れも次第に強くなる。鮒は、春にとっては世間を気にし、死んだ夫に対する 操を立てるよう監視する一種の検閲機関である。

もちろんここでいう監視とは、鮒が実際に春を追いかけて監視することを意味するので はない。むしろそれは春自身が作り出した幻想に近い。別の言い方をすると、春が女性と して自然に身につけた社会的な支配イデオロギー、つまり家父長制の美徳と規制を鮒に投 影し、そうして自らの欲望を抑圧しているのである。女としての欲望と母としての義務の 間で悩んでいた春は、結局狂っていく。

第三節では、支配と抑圧を象徴し、閉鎖的に具現化されている空間を、春の狂気と死の 関係から詳細に考察する。映画における春の空間とは、春の家と彼女が入院する病院に限 定されているが、いずれの場所でも春は室内にとどまる。また春の姿は、しばしば窓ガラ スやカーテン、鉄格子に囲まれており、画面に横たわるフレームによって孤立させられて いる。結局、春は刑務所のような病院の中で精神的な発作を起こす。春を囲む空間がどの ように具現化されているかを見るのは、彼女に対する抑圧の背景を探る作業につながるの だが、その過程で明らかになるのは、家父長制の統制だけではなく、春に内在している欲 望と罪悪感である。

ジュリア・ボロッサによると、狂気はヒステリーの症状の一つだが、このヒステリーは

「家父長制がもたらした病理的な結果」である一方、「家父長制の転覆」ともなりうる17 家父長制の秩序から見ると性的な欲望を持った女性は危険な存在であり、母性に繋がらな い性的欲望がヒステリーを起こすのである。性的欲望と社会の規定の間で絶え間なく葛藤 する女性には、望ましい母親になるか、正気を失うかという二つの選択肢しか与えられな 18。ボロッサの主張から見ると、春の狂気は家父長制のイデオロギーを強制した社会に 対する抵抗だといえよう。しかし、その試みは失敗に終わり、家父長制の統制と抑圧が一 層強化される。

最後のシークエンス分析では、春と名付けられたダッチワイフの象徴性、それを作るス ブやんの行為、全てが行われる小屋付きの船という空間に焦点を当てて、抑圧的な視線の ヒエラルキーが、どのように家父長制の秩序と女性への統制に繋がるのか、それが空間上 にどのように具現化されるのかを詳細に検討する。

17 줄리아 보로사 『히스테리』 홍수현 옮김, 이제이북스, 2002 년 (Julia Borossa, Hysteria (London: Icon Books, 1997)の韓国語訳), 63.

18 이은경 「광기/자살/능욕의 모성공간」 『한국의 식민지 근대와 여성공간』 여이연, 2004 년 (「狂気/自殺/陵辱の母性空間」『韓国の植民地近代と女性空間』図書出版ヨイヨ ン、二〇〇四年), 115〜119.

(15)

第四節では、第二節と三節で考察した抑圧的な視線の構造が、男たちの欲望と挫折に深 く関わっていることを検討する。春に対して男たちは監視者であり、支配者であるが、一 方で彼らには男性として何かが欠けている。春の死んだ夫は「遍在する魚」(ubiquitous fish19になって春を監視しているが、それは幻想の中だけに存在する。また、家父長制の 代理者である息子の幸一(近藤正臣)は、後に死んだ春の胸にすがりついて泣く弱い男で ある。実在しない夫、母に依存的な幸一より象徴的なのは、スブやんにおける欠如である。

彼は春の娘恵子(佐川啓子)と継母の記憶に苦しんだあげく、インポテンツになるが、こ れは明らかに「去勢」という男としての挫折を意味する。そして、この挫折の過程に関わ るのが恵子と継母であり、そこでは、フラッシュバックとファンタジーに表象されるスブ やんの記憶とトラウマが重要な題材であるのは言うまでもない。第四節ではスブやんのフ ラッシュバックを詳細に見ることで、最終的に『人類学入門』が男性性の挫折と克服に関 する典型的な物語であることを明らかにする。

第五章 終章

日本的な本質と旺盛な生命力に凝縮される逞しい女という今村映画の女性表象は、戦後 の日本映画において革新的かつ個性的に受け入れられた。だが、メディアとしての映画の 意味作用が持つ政治性は、作家自身の政治的な見解や登場人物の性格付けとは位相を別に して機能する。本研究が今村の映画における女性像を通じて見ようとしたのも、究極的に は、その肯定的な女性像に横たわっている男性中心的なイデオロギーの意味作用である。

したがって、本研究の目的は単に今村がフェミニストなのかどうかを判断することにある のではない。なぜなら、既存の言説で行われた議論、その中でも下層階級の女を通じて日 本の根源を見ようとした今村の信念そのものは否定できるものではなく、また本研究が女 性の抑圧の様相に焦点を当てているとは言っても、実は今村映画において抑圧の対象は、

単に女性には限らないからである。

『にっぽん昆虫記』でとめが苦労するのは、頭の弱い忠次(北村和夫)の代わりにお金 を儲けなければならないからである。また、『赤い殺意』における病弱な吏一と平岡は、

貞子に肉体的な暴力を振るうが、彼らの暴力性は男性性の乏しさに起因する。二人の男は その肉体的かつ精神的な弱さゆえ、貞子に寄りかからざるを得ない。貞子は体の弱い吏一 を母のように世話し、普段は気まずそうに妻を「貞子」と呼ぶ吏一も、なぜか寝る時だけ は貞子の胸に抱きついて「おかあちゃん」という。また、心臓病で捨て鉢になった平岡は、

一緒に東京へ行こうと貞子にすがりつく。興味深いことに、一種の甘えとも言える彼らの 矛盾した言動は、最終的に「母」を連想させる女性の典型的なイメージに繋がる。

イアン・ビュルマは女性に母の役割を求める依存的な男たちの姿が、日本社会の傾向で あり、「日本の男と女の関係では、すべての女が母になり、男はすべて息子になる」20 述べているが、この指摘は今村映画に関しても有効である。ただ今村映画の場合、それが

19 Joan Mellen, The Waves at Genji’s Door: Japan Through Its Cinema, 374.

20 イアン・ビュルマ『日本のサブカルチャー:大衆文化のヒーロー像』山本喜久男訳、

TBSブリタニカ、一九八六年、三四〜三五頁。

(16)

弱い男と強い女という一見一般的な男女の構図からかけ離れていることにおいて、一層の 歪みを作り出している。別の言い方をすると、男たちの弱さと彼らに支配される逞しい女 性という矛盾した図像は、逆説的に強固な男性中心的な権力構造を浮き彫りにするのであ る。女性がいかに強くても、男性中心の根本的な支配構造を転覆させるのは不可能であり、

家父長制によるジェンダー的ヒエラルキーは根強く残り続ける。

心身の弱い男という点で、今村映画の男たちも疎外され、抑圧される存在かもしれない が、だからこそ巨大な権力構造を明らかにするためには、まず最下部に横たわっているジ ェンダーのヒエラルキーを見る必要があり、本研究が今村の女性に注目した理由もそこに あった。支配構造の諸問題を見る作業は、弱い男に抑圧される女性たち、そのジェンダー 的な抑圧の構造に対する考察なしでは不可能である。したがって、今村映画における強い 女性像は、権力の問題が単に強い男と弱い女という単純な図像だけではなく、弱い男と強 い女の構図にも存在することを示唆する。さらに、その強い女性の戦いは一人の男に向か うものではなく、男性中心的な権力構造の中で見なければならず、弱い男の表象に対する 意味付けも女性の抑圧を解明した上で行うべきであろう。

女性表象に焦点を当てた本研究は、単にその様相や意味だけではなく、方法論と表象の 問題がどれほど緊密に繋がっているのかを示し、女性を見る今村の視線の意味を究明した。

勿論、今村が描いた多彩な人間群像と生涯探求し続けた日本的な根源、戦後日本社会の特 殊な時代性と権力の問題、また劇映画とドキュメンタリーの世界を横断した彼の作業を考 えれば、三本の映画のみを取り上げた本研究は、今村昌平という作家の全体像を明らかに するものであるとは言い難い。ただし、今村が最も興味を持っていた下層階級、中でも女 性に注目し、新しい眼差しを提示した点は、本研究の最大な成果であろう。本研究によっ て千編一律的な今村昌平論がより多様化され、深められることができたとすれば、その意 義は十分だといえよう。

今村昌平のフィルモグラフィー(劇場公開作)

No 作品名 製作年 製作(配給) 原作 脚本 出演 1 盗まれた欲情 一九五八 日活 今東光 今村昌平

鈴木敏郎

長門裕之、渡辺美佐 子、西村晃、殿山泰 司、小沢昭一

2 西銀座駅前 一九五八 日活 今村昌平 フランク永井、柳沢 真一、山岡久乃 3 果たしなき欲望 一九五八 日活 藤原審爾 鈴木敏郎

今村昌平

長 門 裕 之 、 中 原 早 苗、西村晃、殿山泰 司、小沢昭一

4 にあんちゃん 一九五九 日活 安本末子 今村昌平 長 門 裕 之 、 吉 行 和 子、二谷英明、沖村

(17)

池田一朗 武、前田暁子

5 豚と軍艦 一九六一 日活 山内久 長 門 裕 之 、 吉 村 実 子、三島雅夫、丹波 哲郎、大坂志郎 6 にっぽん昆虫記 一九六三 日活 長谷部慶次

今村昌平

左 幸 子 、 岸 輝 子 、 佐々木すみ江、北村 和夫、小池朝雄 7 赤い殺意 一九六四 日活 藤原審爾 長谷部慶次

今村昌平

西 村 晃 、 春 川 ま す み、赤木蘭子、加藤 嘉、北村和夫

8 エロ事師たちよ り 人類学入門

一九六六 今村プロダ ク シ ョ ン (日活)

野 坂 昭 如

今村昌平 沼田幸二

小沢昭一、坂本スミ 子、近藤正臣、佐川 啓子、田中春男 9 人間蒸発 一九六七 今村プロダ

クション・

日本映画新 社・ATG (A TG・日活)

今村昌平 浦山桐郎

早川佳江、露口茂

10 神々の深き欲望 一九六八 今村プロダ クション

今村昌平 長谷部慶次

三國連太郎、河原崎 長一郎、沖山秀子、

北村和夫、嵐寛寿郎 11 にっぽん戦後史

マ ダ ム お んぼ ろの生活

一九七〇 日本映画新 社(東宝)

今村昌平 赤 座 た み 、 赤 座 悦 子、赤座あけみ

12 復讐するは我に あり

一九七九 松竹・今村 プロダクシ ョン(松竹)

佐木隆三 馬場当 緒 形 拳 、 三 國 連 太 郎、ミヤコ蝶々、倍 賞美津子、小川真由

13 ええじゃないか 一九八一 松竹・今村 プロダクシ ョン

今村昌平 宮本研

桃井かおり、泉谷し げる、緒形拳、草刈 正雄、樋浦勉

14 楢山節考 一九八三 今村プロダ ク シ ョ ン (東映)

深沢七郎 今村昌平 緒 形 拳 、 坂 本 ス ミ 子、倉崎青児、左と ん平、あき竹城 15 女衒 ZEGEN 一九八七 東映・今村

プロダクシ ョン(東映)

今村昌平 岡部耕大

緒 形 拳 、 倍 賞 美 津 子、柯俊雄、三木の り平、小西博之 16 黒い雨 一九八九 今村プロダ 井伏鱒二 今村昌平 田 中 好 子 、 北 村 和

(18)

クション・

林原グルー プ(東映)

石堂淑朗 夫、市原悦子、原ひ さ子、沢たまき

17 うなぎ 一九九八 今村プロダ クション・

衛星劇場他 (松竹)

吉村昭 今村昌平 天願大介 冨川元文

役 所 広 司 、 清 水 美 砂、柄本明、倍賞美 津子、田口トモロヲ

18 カンゾー先生 一九九八 今村プロダ クション・

東映・東北 新社・角川 書店(東映)

坂口安吾 今村昌平 天願大介

柄 本 明 、 麻 生 久 美 子、ジャック・ガン ブラン、松坂慶子、

世良公則

19 赤い橋の下のぬ るい水

二〇〇一 日活・今村 プロダクシ ョン・バッ プ・衛星劇 場 ・ マ ル (日活)

辺見庸 冨川元文 天願大介 今村昌平

役 所 広 司 、 清 水 美 砂、中村嘉葎雄、ミ ッキー・カーチス、

矢野宣

20 11'09''01/セプ テンバー11(日 本編)

二〇〇二 今村プロダ クション

天願大介 田口トモロヲ、麻生 久美子、柄本明、倍 賞 美 津 子 、 市 原 悦 子、役所広司、緒形 拳、丹波哲郎

参考文献

【日本語文献】

「1963年度ベスト・テン 日本映画採点表」『キネマ旬報』一九六四年二月決算特別号、

二六〜四三頁。

アクターバーク、ジーン『癒しの女性史 : 医療における女性の復権』長井英子訳、春秋 社、一九九四年。

天沢退二郎、石上三登意、荻昌弘他「一九六六年映画評論ベストテン」『映画評論』一九 六七年三月号、一八〜二七頁。

飯島耕一「「赤い殺意」と「日本脱出」」『映画評論』一九六四年九月号、六二〜六七 頁。

飯田心美「邦画(下半期)」『キネマ旬報』一九六〇年二月特別号、九〇〜九二頁。

---「豚と軍艦」『キネマ旬報』一九六一年一月下旬号、六八〜六九。

生田勝義「日本における治安法と警察─その動向と法的課題─」『立命館法学』二九二

(19)

号、立命館大学、二〇〇三年、五七〜七九。

石井正己『柳田国男と遠野物語』三弥井書店、二〇〇三年。

石坂昌三『巨匠たちの伝説 映画記者現場日記』三一書房、一九八八年。

石塚道子「終わらない「問い」:「空間・場所・ジェンダー関係」再考(特集:ジェンダ ーと地理学)」『お茶の水地理』(第五〇号)、お茶の水地理学会、二〇一〇年、二

〜二六頁。

石堂淑朗「私たちは同質か異質か ベルイマン=今村昌平≪仮空≫対談」『映画芸術』一 九六五年一二月号、七~一〇頁。

---「創造としての性があるか」『映画芸術』一九六六年五月号、三一〜三二頁。

---「スブやんはマジメ人間か」『映画芸術』一九六六年五月号、三三〜三四。

市川沖「伝説の男今村昌平 ロケに見る、ひとりの映画作家」『キネマ旬報』一九六四年 六月号、一七〜二一頁。

稲場紀久雄「日本環境文化史に関する研究(その11)姥捨と山姥の関係性」『大阪経大論 集』第54巻第5号、大阪経大学会、二〇〇四年、三三〜四六頁。

今野勉「この女を徹底的に憎悪すべきだ―『にっぽん戦後史評』―」『映画評論』一九七

〇年八月号、三五~三七頁。

今村昌平「クロース・アップからロング・ショットまで」『キネマ旬報』一九五九年春の 特別号、四五~四六頁。

---「映画に生命をふき込むには」『映画評論』一九五九年一二月号、二四〜二九頁。

---「演出における佐田氏の角度 一つの心構え」『キネマ旬報』一九六一年四月特別 号、六六頁。

---「川島雄三の生と死」『映画芸術』一九六三年九月号、五九〜六三頁。

---「新・監督研究9 今村昌平研究 自作を語る」『キネマ旬報』一九六三年秋の特別

号、七二~七五頁。

---「わが性の原体験と祭の思想」『映画芸術』一九六九年四月号、二六~三五頁。

---「顔と言葉 「にっぽん戦後史」を巡ってのもろもろ」『キネマ旬報』一九七〇年 七月下旬号、二七頁。

---「全自作を語る」『世界の映画作家8』小藤田千栄子編、キネマ旬報社、一九七一

年、六三〜九二頁。

---「ヨコスカ裏街道の住人たち」『文芸春愁』一九七九年九月号、二六〇〜二七一

頁。

---『ええじゃないか』アシーネ、一九八一年。

---『遥かなる日本人』岩波書店、一九九六年。

---『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、二〇〇一年。

---『映画は狂気の旅である』日本経済新聞社、二〇〇四年。

---、裏山桐郎、小川徹、矢島翠他「今村昌平・浦山桐郎の答えた三つのインタビュー

『人間蒸発』のサヨはズバリ『赤い殺意』の貞子だ」『映画芸術』一九六七年九月 号、二三〜三四頁。

---、佐藤忠男『教育者・今村昌平』キネマ旬報社、二〇一〇年。

---、沼田幸二「人類学入門」『’66年鑑代表シナリオ集』日本シナリオ作家協会編、協

参照

関連したドキュメント

「美術の新運動を観て」本方昌 「聡明な人間味」相馬御風 「現代文学と女性作家」平林たい子 「文壇新風景」大宅壮一

強者と弱者として階級化されるジェンダーと民族問題について論じた。明治20年代の日本はアジア

Standard domino tableaux have already been considered by many authors [33], [6], [34], [8], [1], but, to the best of our knowledge, the expression of the

The idea is that this series can now be used to define the exponential of large classes of mathematical objects: complex numbers, matrices, power series, operators?. For the

The algebra of noncommutative symmetric functions Sym, introduced in [2], is the free associative algebra (over some field of characteristic zero) generated by an infinite sequence (

Applying the representation theory of the supergroupGL(m | n) and the supergroup analogue of Schur-Weyl Duality it becomes straightforward to calculate the combinatorial effect

政治エリートの戦略的判断とそれを促す女性票の 存在,国際圧力,政治文化・規範との親和性がほ ぼ通説となっている (Krook

 Whereas the Greater London Authority Act 1999 allows only one form of executive governance − a directly elected Mayor − the Local Government Act 2000 permits local authorities