中 野 清 麟
第第第第小 四三ニー 項項項項
空間的結合一般に閲鰯する瞥見 序
空間的結合の諸態様並びに群集
群集成立の背景
群集の惰緒と行動への傾き
小
序
蝿えがき風に小序を作ってみる︒
一︒この小論の意書する所は群集の本質をなすと考へらる玉諸契機を瞥見してみる事である︒換言すれば勉
禽豊島の一種としての群集關係の態様を規定してみる事である︒着眼してゆくの立脚黙はあくまで混播學的の
ものであらうとする︒その限り群集現象のいは穿主として杜會心理學的な規定に遷すると考へらる製群集の特
徴についての考察は一義的にはこれを考慮の外においてゆく︒唯然し群集の本質契機を説明するに必要叉は便
宜の存する限度に於てのみ群集の特徴に属する叙述を援用してみやうと思ふ︒
私はこの小論においては落潮うる限り私自らの理解を猫断に罵る危岩を充分に意識しながら展開してみる︒
從って多くの人々によって試みられたる群集理論との蓮絡については必要なる限りに於てのみこれにふれるに
止める︒ 一一︒問題をより具膿的に瞥見してみる︒私は敢て鮮集の本質を定義的に表現して次の如く言ふ︒群集とは特
殊なる理由及背景によって興奮せしめられたる統一的惰緒及び方向を有する室闇的︵感量的︶結合轟轟であ
る︒その限り読明を要求さる製事柄は恐らく次の如くに分ち考へらる玉であらう︒
の塞聞的結合といふ場合︑私はこれを観念的結合︵この言葉の用ぴ方は正確ではないが︶と封立せしめて ︵
群集現象の本質 一〇九
ご○
考へる︒とすれば前芸を後者より殊在せしむる所以の徴表はどの様のものなのであるか︒この聞ひに答ふる事
は淋集關係の上位概念を規定する意味に於て第一段の理論的限定を與ふる事を意味しやう︒
の 等しく塞開的結合といふもその現象する姿には様々なるものが存するであらう︒如何様のものが考へら ︵
れ︑如何なる種叢がその間に見出され︑而して群藥關係はその如何なる種類に偏するものとして考へうべきも
のなのであるか︒この間ひに答へんとする叙述は次の三に分たる玉︒まつ事實の申に沈潜しながら受忍的結合
陰雲姫様々のものを分ち考へてみる事がその第一︒群集を言成する人々相互の閥の専掌關係の姿を案じてみる
事がその第二︒最後に鮮集内にあっての作用焦勲と群集を構成する人々との關係を跡づける事が第三である︒
これらの叙蓮は後にみらる㌧如くに影壁概念の第二段及び第三段の規定を合せ含む︒
扮 群集の睡気を理由づける特殊の背景といふは如何なるものなのであるか︒この問ひに答ふる事は次に來 ︵
る問題をみてゆくための前提としての意味をもつ︒
↓ 群集に於て現はる﹄情緒は如何なる性質に於て如何なる作用を群集關係の上に及ぼしてくるのである ︵
か︒この情緒と群集の統一づけとはどう關蓮してくるのであるか︒この情緒と群集行動とはどう關罪するので
あるか︒農後に残された問題はこ玉に存してみやう︒
以下本論における私の叙蓮はこ曳に分ち考へ來つた様々な問題を右における順序に從ふて取扱ふ︒
第醐項 蜜間的結合醐般に關すみ瞥見
等しく二間的結合と呼ぶ場合にあっても廣狭二義のものを分ち考へる事ができるであらう︒同一塞閤内にあ
って結合關係の螢まる製ものを指す場合の用法はその廣義のもの︑図り同一塞間内にあるのみならす結合關係
に入る皆々が相互に相互を素朴なる経験的意味に於てそこにある賂のとして認めつ製ある如き場合に用ぴらる
曳ものはその語義のものであらう︒第一の意味に於て塞問的結合を云々する限り︑凡ゆる結合關係は塞間的の
ものたらざるはなきに到るであらう︒第二の意味に解する限りそれは観念的結合︑換言すれば等しく同一塞聞
内にあって螢まれ乍らも︑而して叉相互に黒瀬し合ひうる程の塞要語國内に於て螢なまる製事はあるとも︑そ
の結合の喫を何等かの意味における観念のうちにもつ如き結合の姿に封立して考へる事ができるであらう︒私
がこの小論で塞聞的結合といふ場合︑言葉の用ひ方は狭義におけるものである︒
狭義において用ひられた塞開的結合の一般的な約束は結合観賞に入る人々が相互に相亙を経験的意味に於て
そこにある馬のとして認め合ぴつ﹄︑この認め合ひを主なる機縁叉は紐帯として結合關係に入る如ぎ姿のもの
である︒こ﹄に経駿的とよぷのは主としては覗畳的に︑叉はある場合にあっては士爵的に︑更に叉他の場合に
あっては燭蝿的に︑より之を一般的に表現するならば置畳的にといふ事であり︑このいは穿激騰的なる認め合
ひを主なる機縁叉は紐帯としてといふは︑恐とよりこの種の結合關係にあってもそれが何等か結合關係である
群集現象の本質 一一一
︼=一
箪めにはいはΨ自然酵母的な意昧における集合の上に主帥科學的なる意味づけの作用が加はらねばならぬ事は
いふまでもないが︑この如き意味づけは上述の如き意味に於ける感毘的認め合ひの存すると否とによって︑少
くとも當議題には動かさる﹂事をさした庵のに平ならぬ︒もとよりこの意味づけの作用は怪態的認め合ひの鍍
無しさりたる後といへども生のうちにあみこまれて存署して行き得はするであらう︒だがこの場合の存績は明
らかに別檬の關係の下における存績とみるべきであらう︒
これに反して槻念的結合といふは結合關係の存立が感畳的な認め合ひの事理の存立と一義的には蓮製する事
なき姿のもの.である︒從って感厚的認め合ひのうちに畏まるN事もあり︑感畳的認め合ひを欠いて螢まる芝事
もあるであらう︒後の場合が如何にして可能であるかはこ玉では立入らない︒︵註−︶ こ玉に槻念的といふは思
惟的に︵從って叉表象的に︶叉は意志的に︑叉は無意識的︵こ玉にこれをあぐる事は一見奇異なるが如くにみ
ゆるであらう︑もし然る場合にあっては槻念的といふ用語を精榊的といふそれに改め︑精紳的なるもの︑領域
を意識的なるもの玉領域よりも戦く解する事を便宜としよう︶にといふ意昧に外ならぬ︒生の如何なる層にお
いてか意昧づけが存し︑この意味づけの存否と共に結合關係も叉存否する如き結合關係の姿を暫定的に観念的
結合といひ現はしたものに外ならぬ︒
もとよゆこの賦別は概念的のものに止る︒事實に於てはその何れに恕するかを俄かに見定めえざる場合が存
してもみやう︒にも關はらすこの如き概念上の匠別を施すの便宜はどこに存してみるのであるか︒答へていふ
べきの事柄は極めて軍純である︒臼常の膿験を思ひ合はしてみる︒感畳的に認め合ふ事の存せずになると癒も
とより籾互の關係は絶たる製ものであるのではないが︑感箆的意味に於て他の入の私の前に存してあるといふ
事は私の精神生活の内容を如何なる意味に於てか攣化せしめる︒ある場合にあっては心休むべく︑他の場合に
あっては悲しみが誘獲されてもくるであらう︒私は今これらの場合を一々墾げつくさうとは考へぬ︒この如き
事︑並びにこれが如何なる理由に基くものであるかは恐らく理論的には無きがたき事であらう︒私は唯禮瞼の
藪ぶるこの如き事實から出獲せんとするのみ︒
だが更に一歩を進めて考ふべき事がある︒等しく他人を感細工認めの範園内に於て有しつ玉ある場合にあっ ψ
てもその人の私に及ぼす影響を様々のものであらしむる二つの事情が存してみるであらう︒その一はその人と
の室間的距離の遠さ近さの事情︒その二はそこにある人が定数であるか複数であるかの事情︒今これらの事柄
に關して精細な叙蓮を試みるの準備はない︒唯群集現象を理解するに當って思ぴ合はす事を必要とすると考ふ
る一面のみをとりあげておこう︒
まっさきの事情から考へる︒ 一般に結合關係に於て工面しておる場合︑この封面には一定の常態的と考へら
る玉室聞的距離がその間におかれる︒常態的と考へらる﹄距離がどの程度のものであるかはこれを理論的に措
定する事は不可能であらう︒唯大鵬の事を言ふならばこの距離は恐らく相手の顔貌をいは認常態的な程度に於
て覗る事を得ると同時に相手の全貌︵實は全射ではないのであるが︶をも略とらへうる程度のものであるであ
群集現象の本質 一一三
一一四
らう︒この如き常態的な距離にある場合︑この出面關係に於て私は同時に相手によって注目されつ製ある事を
感ずる︒この如き封土關係にあっては自らも相手によって捉へられつ玉ある事を自幽しながら相手を捉へよ
うとする︒自ら相手によって制約せられながら相手を制約しようとする︒落着きながらの緊張にみる︒この
場合この隔りを前提として成立する相︑手への批制的な氣組は自らも批判されつΣありとの自畳によって制約せ
しめられてるる︒今この常態的な距離がより延長されたとする︒この距離の延長と共に相手の顔貌についての
把握は前面にた﹄・ず︑輪廓的な相手の全貌についての印象の中に投入されてゆくであらう︒この場合相手の自
分に向けてみると考へらる﹄批判は︑自分の相手についてもつイメーヂよりのみ乱してくるといふ風に直接さ
を失って閥接のものとなってくる︒相手との封立關係が當器的なもの製中から自分のイメーヂの中にそのより
所を移してくる︒この事は一方に於ては封立關係の間接的となってゆく事をいみすると同時に叉他方に於ては
批判さる㌧自分をさしおいて相手を一面的に批判してゆく氣組を高めてゆくであらう︒今便宜のためにブイヤ
カントの﹁行動者−ーー傍槻者﹂の概念︵註︑︶を借ゆ來ってこの聞の消息を憎くならば︑最初の常態的な距離の
存する場合にあっては自ら行動者としての自首に苦く背景づけられてのみ傍親者であるであらう︒これに反し.
第二のや製遠き距離の場合にあってはあくまで傍親者としての傍親者の地位にたってみるともいへよう︒更に
第三の場合に考へを移してみる︒この場合はさきの如き常態的な距離がより狭められた場合である︒第二の場
合と逆に相手の全貌についての印象は顔貌についてのいはい・急迫的な印象の申に投入されてくる︒この場合私
は凡ゆる意味に於て批判的な立場構へを失ってゆく︒相手によって衝く急談的に捉へらる曳一面のみが強く感
ぜられてくる︒これに從ふて︑相手のま鼠に動かされようとする傾きが成長してゆく︒封立關係が相手によっ
ていは穿二面せしめられ︑それにつれて相手に儒諭してゆく氣組が成長してゆくといふのである︒私はこ玉に
見た如き事情が群集現象とどう關聯するかを後に述べよう︒
第二の事惰に着眼を移してみる︒この如き事情を考ふる事は原理的には所謂コニ入無暗遺臣3︶ の現象を考
ふる事のうちに果されうるであらう︒私は固有の意味に於ける︵一般に三砂壌係として概念されるものには分
ち考ふべき三様のものがある︒その一は出座關係︑その二は一人中心關係︑その三は二入中心雪意である︒中
について第一のものをこ﹄に固有の三人關係とよぶ︒第二のものは實は二人關係の重複せるものに外ならず︑
叉第三のものは二人關係の一種に外ならないからである︒今この黙の細論に入る事をさける︶三人關係を特長
づける契機を求めて次の三とする◎曰く津経費斜曰く◎Q8霞片顎簿︾曰く○げ四王ぞ簿凶魯︒公共性とよぶ場合︑
二人關係を特色づける臨のとして考へられる回護ぎ戴けと封立した事惰を考へてるるのであるが︑意味する所
は三受忍係に入就くむ任意の一人を第三者としてその背後に就會規範の存在してみるかの如くに感ずる労組に
外ならぬ︒この場合任意の第三者はいは雪想§館麟ヨ節貯鑓として就會一般に安當する規範の捲載者として關
係にい葺くんでくる︒次に當艦性と言ふ場合︑右の如き規範領域における公共性によって規定されたる行動の
領域における§聡触︒・◎熱3の氣組をさしてみる︒公共性の制約の下にたつ事によって各人の行動がこの一般的
群集現象の本質 一一五
こ六
な規範との照合といふ一黙よりして重要さをもち意味をもつもののみであらうと努むる氣組をさすものに外な
らぬ︒更に叉客濃化といふ場合︑さきにみた如き無爵零同誌ご鶯としての任意の一入の役割が三人の何れの
人にも交替的に捨はれてゆくといふ事から生する規範性自膿の客親化︵三人のすべてをはなれてはその存立の
根擦を失ひはするがその一人一人からは猫立するといふ意味に於ての︶の事惰を私は考へてるる︒ズ誰4︶今か
くの如き役割の交替が何故にかくの如き客潮化の現象を生むのであるかを考へてみよう︒まつ役割の交替的で
あるといふ事實は三人關係の固有のものである限の轟然に露結されてくる事であるであらう︒さて自らが他の
人によって搬載されつ鼠ある規範の下にたっといふ置畳はその他の入も又交替的に自らによって澹載されつ玉
ある規範の下にたってふ自畳にうらづけられておる︒その限り規範の下にたつ読掛は自律的であると同時に他
律的であり︑逆に又他律的であると同時に自律的である︒この如き規範澹當の交替の螢まれてゆく申に規範は
次第にその固有の澹識者より遊離してくる︒自らより眺める限り他の一入が規範の運論者として現れてくる︒
この如き事情が箸入に共遁する所ハ規範はその現實的な捲載者から遊離してくるといふのである︒
かくの如き至親化の事情をもつ公共性の下に制約せられて記入の行動はいよいよ當膿的のものとなる︒相互
にゐ窪8ぼ署窪儀窪︑︑せんとする要求の下に純粋に主親的な領域は次第にその影をひそめてくる︒こXに誤解を
さくるが認めに附記すべき事柄がある︒次第に當膿的のものとなり二親的のものが影をひそめてゆくといふ事
はたfちに管下の姿が感情的のもの︑情緒的のものから合理的のもの︑思慮的のものに推稚してゆく事を意味
するものではありえない事即ち繋れである◎關係の内容が如何なる色彩のものとなるかはその場合々によつて
定まる︒如何なる内容のものであれ︑與へられたる一般的孤露氣︑各人に通する氣組に施の誘9齢≦窪儀窪..せん
とする氣組自膿の上にこそ重黙がおかる玉べきである︒從ってとの氣組は時に情緒的なる領域に於て現はる製
事があり︑時に合理的なる領域に於て現はる玉事がある︒︵この黙三人關係についての多くの學者の鼠紙は一・
方的である◎︶︵註5︶群集現象の理解に關⁝して重要なるものは就申前者の場合である︒この事叉後に再びふれや
うQ
第二項 室間的結合の諸態機並がに群集
第一︑察聞的結合の諸態檬︒塞間的結合がいかなる意味のものであるかは既に蓮べた︒次に隠る問題はその
様々な現象形態を分ち考へながらそのうちに群集の位置を案じてみる事である︒
今具膿的な例をひいてみる︒ある公園に多くの人々が散策しつ覧ありとする︒公園の占むる塞聞的範團を一
括して思ひ浮べるならばそこに感得しつ製ある品々の姿も叉一括して思ひ浮べうるであらう︒だがこ転に一群
として一括された入々の群れはこれを一括して捉へる入の叉は思ひ浮べる人の主観においてのみ統一の根擦を
窓つものにすぎす︑群れを構成する人々の志向上︵國導の漢凶配置3︶の統一であるとはいへないであらう︒もとよ
り多くの入々の申に自らも又編みこまれてある限り︑他の入々のそこに現在する事から來る何等かの意昧での
群集境象の本質 一一七
一一八
影響の下に自らも叉立ってるるであらうし︑柑互に㈹窪︒蕉≦差出窪せんとする關係も又含まれてはるよう︒︵前
項参照︶更に叉多くの人々の申にあって特定の人々について具腿的に檬々な關心をもちもするであらう︒偶然
既知の入口と相懸ふならばその人々との特殊な瀧會聖壇がこ玉に具現されてもこよう︒叉一般的に日常の即戦
生活において各人の澱むる地位︑墨入のもつ職能︑信念︑等々がその影響をこ玉にまで投影せしめて算入の聞
の關係を彩づけてもみるであらう︒だがこれらの事情は何れもその事の故にこの一定の範團内にある人々を一
括して統一と規定せしむるに充分であるとはいへない︒そこには具罷的にか抽象的にか共通なる封象が各人を
一括せしむる程に充分に明らかな形において存してみない︒共通なる黒馬ともみゆるこの場合にあっての散策
の夕惑といふ事も實は銘々において銘々のためにとらへられてるるにすぎない︒もとより多くの人々もそこに
來るであらうと昼ゆる事が自らの行動を制約してみる事はいふまでもないが︑而して叉この事の故にこの檬の
姿のものを室聞的結合の一種として考へえられるのではあるが︑なほ人と入との關係の前面はいはf微分的で
ある︒私はこ蕊にみた如き場合をその一例とする塞聞的結合の一形態を︾算毎巳践・pと名づけよう︒︵註6︶
他の例をとる︒公園内に人々の散策しつ玉ありし折︑ある場所に曲藝入が曲技を始めたりとする︒若干の人
々が集まってくるであらう︒集まり來つた人々の闇には公園の散策といふ事柄よりもより具膿的に明瞭なる封
象が存してみるであらう︒お互ひに肱をふれ肩をふれ合ひ︑人の呼息を身近く感ずる事によってさきにみた例
の場合よりは他の入よりσ影響をつよくうけてみるであらう︒だがこの如き場合にあっては共通の景象に向ふ
各人の受託と︑各人相互の闇の關係とは一義的には有機的に漣絡をしておらない︒事實としてはさきの關係に
俘ぴ後の關係が現れ來らうと︑相縫いで現はる覧爾種の關係の闇には一義的な連絡が欠けてみる︒その故に前
者は後者を俘ふ事なくして可能であり︑後者薫習前者から参詣に螢まる蕊︒この場合にみた如きものを一例と
する形態をなづけて載りに︾蕊帥ヨ巳§ぴqとよばう︒既述の︾罫償巳蝕︒嵩と︾霧齢巳巳毒﹃qとの相違は野象が後
者の場合にあってよの具膿的のものとなりたる事︑又各人が他のすべての人を一括的に見得る地位に︵後者に
あっては︶なり來つたといふ事であらう︒何れの場合にしても固有の意味に於て統一的なる結合律係とは呼び
得ざる一面をとらへて害者をロ謬論轟と假りによぶ共通の上位概念に書せしめやう︒
再び他の例につく︒從來自由なる散策を許されつ﹂ありし公園が何等かの事由︑例して云へば官鷹の命令に
よって閉鎖遮断せしめられたりとする︒而もこの事を知むすして人々は例の如くに公園入溝迄集り來りたりと
する︒彼等は公園内の遊歩の禁遇されたる事を知るであらう︒不快な感惰がわき始めよう︒籔多くの人々が集
まり來るに及んで官磨の措置に封ずる不第が一般的のものとなってくるであらう︒共通の問題の墜ちに於て共
通の封象が輿へられてるる︒もとよりこの場合も事柄を表面的にみる限り︑事態はさきにみた︾霧鋤ヨ巳毎嶺の
場合と無実であるかの如くにみえもするであらう︒だが仔細に立ち入って考へてみるならば︑この場合にはさ
きの場合とは異なれるものが存してみる事に氣つく︒如何なる事情であるか︒さきにみた如くに︾牽引ヨ邑§窪q
の場合にあっては共同の環象に向ふ各人の關係と︑各人相互の間の關係とは原理的には蓮絡する庭なき二つの
群集現象の本質 一一九
一二〇
猫立なる事柄であった︒こ曳に注目しつ蕊ある場合については然らすして︑共同の心象としての共同の問題に
封ずる關係によって各人相五の聞の關係は規定せられておる︒各人相互の他の場合に於て可能なる關係の姿は
悉く擾無せしめられてこの共同の封象に向ふ關係のうちにもりえらる玉もの温み相互の聞の關係としてとりあ
げられてくる︒人々相五の間の關係に即して共同の問題に封ずる關係が現れておるともいふ事ができよう︒も
とよりこの如き人々の集りにこの集砂の申心的な立場を形づくる人々の出現し來るに及んで︵この申心的な立
場にある人々といふのはたfに所謂指導者のみを指すのではない︒この事後にとく︶この中心黙に向ふて凡ゆ
る人々の關心が集中せしめらる製事となり︑その限りに於て人々相互の闇には軍なる並行關係が存するのみに
いたるといふ風に心慮は考へらる玉であらう︒︵スチーラーの累々の如き其代表的なものである︒︶︵註7︶が然し
この如き翻心黙の酸︑聡し來りたる後と難も上述の私の理解はそのま玉通りうるものと思ふ︒この黙も叉後に更
めて説くとして一歩を進める︒この如き人々の相集る姿のものにあっては︑そは豫め細密に考慮企劃せられた
るプランに從ふて現出する所のものではなくして︑その成立において突如的のものである事を恒とする︒別檬
の表現を與ふるならば常態的の集りならざる事を恒とする︒常態的ならざるといふのはその成立の背景が突嚢
的のものである事を示してみる︒如何なるものが突獲的の背景であるかを明確に理論的に見定むる事は難いが
相集る人々の生存に關して消極的にか積極的にか細く情緒を刺戟する事柄にして︑各入に共通するもの叉は共
通のものとして感じうるものと概括しておくの外はないであらう︒私はこの如き人々の集りの姿こそ固有の意
味における群集とよばる義べきものであると考へる︒この一般的な叙述に今少しく立入って考へてみる事︑又
この如き姿以外のものにまで群集の概念を適用せんとする試みに野する批判はやや後の仕事である︒
更に第四の例について考へてみる︒例へば株主早馬における株主の集合︑敏室内における生徒の集合︑野外
への生徒の遽足等々の如き場合についてみる︒第三の場合にあっての様に︑この場合にあっても叉共同の封象
はあり︑又ピの饗象に封ずる關係によつて相互の陳書も原理的に規定されてるよう︒だがこの第四の場合を第
三の場合より殊別せしめる二つの契機が存する︒その一はこれらの場合の入々の集合はいは薄野ンスタントな
る結合關係︵観念的結合である事を恒とするともいってい製︶の具現せるものに外ならす︑その具現の態様︑
本質は前者によって規定されておるといふ事情であり︑その二はこれらの場合にあってはウイゼの所謂機能の
配分づけが見られてるるといふ事である︒︵註8︶ いは穿この如き集合はその成立の背景において常態的のもの
であり︑計叢的のものであり︑組織的のものであるといふ事ができるであらう︒而して彊ひて云ふ事を許さる
玉ならば共通の結合の紐帯を情緒的なる領域にもたざる︵原理的に︶如きものである︒
私はこの簗三︑第四の場合に共通する共同の封象に封ずる關係が各人相互の間のそれを一義的に規定してお
るといふ一面をとらへ來って爾者をさきにみた如き顕魁氏§σqに封要せしめてく・湊風導巳麟轟と総饗したく思ふ︒
而してうちにあって第三の場合を假9に津①喧勢・・?<o同鶏霧ヨ囲§騎第四の場合を譜面せられたる5華ヨ巳き㈹と
名づけておかう︒︵ウイゼの群集一壷蓼︒⁝③と集注一O讐慧のとの匠別に毒する読明はより一般的には上の如
群集規象の本質 ご=
=一二
く第三︑第四の匿別として論かる製べき事柄である︒︶︵註9︶
私は右の如き大別二つの場合︑細別して四つの場合以外に塞閥的結合の考へうべき限ののもののとる形態は
原理的には存してみないと思ふ︒今理解の便宜のためこの如き分類を左の如く表示してみる︒
〜選ゆ番叢ゆ懇鶏
︵附認 意國されれるく鶏勇嘗託餐σqについてはなほ立入って分ち考ふべき揚合が賞しよう︒私ぼ今風羅彪おそれて︑・れに
立入らぬ3
第二︑鮮集内部の紺織と阯喜界係︒既にのべた虞の如くに群集は目凱σq講習?<︒鴇ω§巨§ぴqである︒そこに或
ぴは指導書はよく蕨くは作用焦鮎︵︾謀貞①算讐彰︶︵この事後にのべる︒︶とも云はる﹂機能の存する事はありと
しても機能の配分は存してみないとみねばならぬ︒︵面隠︶この見地よののみみる限りステイラーとは逆に︵註H︶
群集は等質的な結合形式とみなされなければならぬであらう︒その限り群集は屡々組織を響くともいはる玉︒
だが私は考へる︒鮮集に組織なしといはる玉は實は組織の概念についての見定めの不充分叉は限局されてある
が爲めに非ざるか◎今この難に若干の一般的考察を企ててみる︒
組織といふ概念について一般的な措定を企つる事から始める︒最も濃き意味に解羅されたる限りにおける組
織の概念は實は︑一切の就會關係を可能にするいはf論理的なる制約者としての就會的蓮關︵リツトのく︒マ
ぎa窪︒・①貯蒼拳ω窪に来る︒スタウヂン圃1の傷δ88蕊の菊罐鉱§ぼqをブイヤカント流に歪曲する事なく解す
ればこれにも聰る︒︶︵註鶴︶をこそ意味すると思ふが今姑くこの黙を措いて︑結合關係のみに着眼の範園を限局
して考へを進める︒一切の結合關係のうちにあって二人關係に属するものを姑く考慮の外におくとするならば
︵二人關係における組織的者ともいひうべきものは實は上述の杜會的蓮關そのものに外ならすと考へらる玉か
らである︒︶他の一切の結合關係にあってこの如き結合早縄の存立を可能にする一般的な原理を求むる所︵この
一般的な原理が究極的には祉會的連關にその掌り所をもつてみる事もこ蕊では着眼の外におかれておる︒︶そこ
に組織の概念が考へ出され適用されてこなければならぬと私は思ふ︒よしその結合關係が薬取的にみて極めて
瞬聞的の性質のものであらうと差支へはない筈である︒時聞的持績の長短に從ふて組織の概念σ適用の有無を
決定する事は許されないであらう︒蓋し組織の概念はあくまで論理的のそれであり歴史的のそれではないから
である︒一歩を進める︒この如き意味合ひに鞭て用ひられた組織の概念について二つの種類のものを分ち考へ
る事ができる︒その一は主髄鞘自然的次序とも名づけうべきもの︒その二は客観的次序とも嚢ひうべきもので
ある︒前者はその存立の耳擦を客擬化されたる形式のうちに有せざるもの︑後者はこれに反して客観化形式の
群集現象の本質 =一三
=西
形において組織が作用するものである︒︵こ瓦に用ひられた容槻化の意味については私の別の小論﹁肚裏形象の
客獺性と肚會浄几﹂を参照メ註・3︶大寒の見方にたつならば瞬間的な結合の組織は前者に︑持績的なるそれは
後者にそれぞれ痴ると思ふが今はこの黙に立入らない︒更に一歩を進めるならば前者について再び二様のもの
を分ち考ふる事ができるであらう︒その一は魯・○乱蒙おぽ伽窪O爬①嵩篤き︒誉︵註鱗︶叉は軍に○巳凶§八軒窪とも下
しうべきものであり︑その二は無①U議の学︒識⇔農㈹とも略しうべきものである︒前者は極めて瞬聞的なる結合
關係につきてみとめらる製所の窓のであり︑後者は結合關係が持績的な性質を有しつ蕊も猫未だ客観形象を結
果しおらざる︑叉はその關係富盛の性質上結果しえざる如きものにあってみらる玉所のものである︒例せば前
者は群集における如きものであり︑後者は友人愈愈における如きものである︒而して叉池魚的次序についても
ラ
イ慣習的のものである︷◎澤零曙⑳︵註15︶ 撚規範的性質を帯ぶる器σQ菖践○撮ハ合理的按配の結果である鈴羅窪σq?
︵ ︵ ︵
ヨ①無 の三に細分しうると思ふが︑當面の問題はこ玉に深く立入る事を必要としないであらう︒
以上極く一般的に群集といふ結合現象の存立を可能にする規制者が潮影概念の膿系中にあってその何れに位
置するものであるかを瞥見しておいた︒陰言の組織は臥器○巳雲謁ぎ伽霧Ω①じq①讃燭開けに外ならぬ︒今更らに一
歩を立ち入ってこの如く名稔づけられたる組織の細き規定を企て畏みよう︒
群集の組織を姑く分ち考へられた二つの側面から考察してゆく︒その一は鮮集を構成する人々相互の聞に存
するとみらる製紺織の一面から︒その二は群集の内部に存立叉は畿生せる作用焦黙と他の︵群集を構成する︶
入々との聞に存するものと考へらる玉組織の他の一面から︒
第一のものから考を進める︒今姑く群集を形づくる国々についてその位置する地堺に關し大艦に曾て三檬の
ものを分ち考へうるであらう︒︵註.ゆ︶ その一は群集が動的のものである場合にあってはその群集の向ふておる
一定の方向においていは壁先頭的な地勲に位置する人々︒叉群集が静的のものである場合にあってはその群集
の方向する所に向ふて先頭的であるか︑叉はその群集のいは貸圓心に向ふて集含せる場合にあってはその申心
的なる地黙にある人々◎その二は群集の向ふ方向を上の如く何れの場合に分って考ふるにしても㍉その何れも
の方向において申闇的な地瓢に位置する人々︒その三はその二と同じ意味に馬ていは穿背後叉は側面的な地黙
にある人々︒この如く位置する地黙の相異なるにつれて人々の竜つ氣組に如何なる攣異を効果してくるかにつ
いては後にとくとしてこ製では以上三つの場合の中第二の場合の如き人々のみに着眼し︑これらの人々の観黙
よりする考察をのべてみる◎
の 群集を即ちつくる實際の人々の数が精密に墨入と籔へられうるかは全く注意の外におかれ︑唯漠然と多 ︵
くの早々が自分の登園にありと感・ずる︒多型人についての原本的な意識はN鋤霞︒斧ヨ︒讐窪3を絶封に含ますと
スチイラーの論く所以である︒︵融17︶
④ 群集はその成立の背景において常態的ならざる事すでに述べた所の如くである︒群集を構成する人々は ︵
突如的なる原殴に基いて集合する事を恒とする︒この原因の要求する憂事において各人は相互の撃退にたつ︒
群集場象の本質 ・ =一五
⁝二六
この事から皇宮さる﹄事情は次の如く二である︒その一︑群集を構成する人々は相互に日常︵この一定の鮮集
への滲與を離れてといふ意味である︒︶相識の聞柄にありとする恋この事情は庭藤現象において中心的な重要さ
を主張しうるものではない︒その二︑群葉を構成する人々はこの群集のいは悼︑志向の要求する限度においての
み相万に所謂慈︒嵩B︒日Φ葺①︵註18︶を含む事なくして關係に入りくむ︒
扮 数の槻念を含ます債値の意識を含む事なくして群集宝尽に入りくんでくる場合︑さきにご製に主にその ︵
人々の寒卵から考察すると約束した如き地位にある人々がその周園の他の人々についてもつ経験的な印象は次
の如きものとなってくるであらう︒
まつ親 覚的印象の範囲を考へてみる︒周團を眺め渡す場合︑これらの地黙にある人々の覗畳に入ってくる入
々の数は極めて限られたものであらう︒︵スチイラーは七入乃至八入といふ︒Y註埠︶而も限られたこの少数の人
々についても群集の田中にあっては日常維験する場合よりも遙かに部分的に限られて印象に入ってくるとみな
ければならぬ︒直接に肱をふれ肩を並べてみる人々についてもその印象は限られてあり︑況んや聞接に接鰯す
る人々にいたっては僅に頭をみ︑肩を散見しうる等の如く極めて断片的のものをみるにすぎないであらう︒
これらの親単一限界をこえてある人々については或はそれらの人々の聲をきくにすぎす︑或はそれらの入々
の存在をそれらの角々より出つると思はる製﹁金野のうねり﹂によって感ずるにすぎないのであらう︒
↓ さてこの様の経験的印象をもつにすぎざる場合にあってこれらの人々を統一づける組織はいかなる姿の ︵
ものなのであるか︒私は最も近き人々と最も直接なる意味に於て相互の交渉に入る︒次第に私を遽ざかってゆ
くそれぞれの地算の叢々についてはそれぞれのもつ距離に準じて次第に淡くなる如き姿において劇毒に入る︒
この場合最も近き入に始まって最も遠き入にいたるまでにわたってそれぞれの地黙にある人受と私との關係は
リツトの用語を用ふるならば鷲誘需圏くに︵註2︒︶按配づけられてるる︒その限り私はこのいはば遠近法的な關
係層の焦瓢にたつ︒而もこの如く焦黙の地位にたつと感ずるものは猫砂この私一人に限られてみるのではな
い︒私以外の入も叉このいは野自畳をもつ︒凡そこ﹄に考察の心象となしつ製ある如き位置にある入々の全て
がこの如き自箆を保有してみるであらう︒この如き自尽は右に述べた如く交替的である事によって︑まつこれ
らの入々を群集といふ統一にひきよせると同時に叉これらの人々をして凡ゆる地黙にたつ人々よりなる群集の
申心黙たらしめる事情となる︒
耐 正確を期するために他の位置にある人々の獅⁝黙をもとって補足的に考へてみる︒まついは聖先頭的な地 ︵
位にたつ人々から始めてみる︒との如き位置にある謝々の聖慮は自らの背後に多くの人々の控へてある氣配に
よって強く動かされてみよう︒自ら群集を形成する一員であり乍らに不可抗的な群集の塵迫を背後に感ずる◎
群集の墜迫を背後に感ずるといふは群集の批判注目の焦黙となってみる氣配を畳ゆる事であらう︒この如き事
情によってこれらの入々は群集のうちにつよく繋縛せられてるる︒この如き事情の作用はこれらの人々が猫り
群衆の方向において先頭的なる地位にたつのみならす︑同時に指導者に最も近くある場合にあっては最も強き
群集現象の本質 一二七
一二八
ものとなってくる︒もとよりこれらの人々にあっても自らを現實的な又は可能的な關係の焦黙として感ずる事
情は存してみるであらうが︑この事惰よりも彼等を群集にひきよせる事情は右の如き黙にひそむといふ事がで
きよう︒ 背後的な叉は側両的な位置にたつ入戸の上に着眼をうつしてみる︒これらの人々は上にみた如き二つの場合
にある諾々に比してはいは雲や玉緩く群集に編みこまれてるるものといふ事ができるであらう︒や製批判的な
いは穿冷眼麗的な氣組にあるものとみる事庵できるであらう︒その限りいはf群集圏のうちにあって逸脱しや
すき周密を形ちっくるともいへよう︒自らを瓦全の焦貼として感ずるといふ事情も前二者の場合に比して淺き
ものであらう︒而もこれらの人々を群集に編みこましむる紐帯はどこに存するのであるか︒私は大要次の如く
に言へようと思ふ︒群集獲生の事惰がその度合において高度に激獲的のものである場合︑これらの周邊にある
オ 入々は自ら風趣である地位を能ふ限り廃棄して群集の中心黙たらんと努める︒この努力によって群集にあみこ
まれてゆくものとみる事ができる︒これに反して群集嚢生の事情にしてしかく高度に魚脳的のものたらざる場
合にあってはたえす︵原則的には︶この周邊である地位から輩純なる︵群集行動の︶傍観者たるの地位に逸脱
せんとする傾きをもつ︒唯この如き場合にあってこの如き逸腕を妨ぐる事情︑從ってこれらの人々を群集に編
みこむの事情はロツスの所謂群集の櫨大身に外ならないのであらう︒︵註班︶︵群集の籏湿性については後にふれ
る︒︶
藩眼を移して群集行動の申心瓢と鮮集を構成する人々との聞に現はる玉組織の一面を考へてみよう︒
群集はその外貌に於て極めて蕪雑の竜のであり乍らになほ一つの方向をもつ︒嚢生の事情が異常なるもので
あり︑強く梼緒を打つ事によって︑打たれた情緒のはけ口が何れかの方向に於て必ず求められてくる︒この捌
け口が鮮集の共同の手馴への方向と佐に一致するとは限らない事については後にふれよう︒何れにしても一つ
の方向の求められてある所︑この方向へ導くべき機能が畿生し來らざるをえぬ︒群集の申にはさきにみた如く
に機能の配分は存していないが︑この一定の方向への誘導を螢む機能は存する︒而して群集の申にあってこの
如き誘導の機能を最も顯著なる形に於て播饗するものは特に指導者と名づけらる﹄ものに外ならぬ︒だが仔細
に考へ來るならば誘導の機能を播ふものは痴り指導者のみと断定する事は出來ないであらう︒私は今その様々
な姿における捲載者の形式を分ち考へてみる︒
の まっさきに蓮べた如き意味に於て群集の先頭にある人々がこの如き誘導の作用を憺ふ場合を考ふる事が ︵
できる︒これらの人々はある場合に於ては特に指導者と名づけられうべき人々そのものである事があるであら
う︒だが恒に然りとはいひ難い︒一般に上述の如くこの如き位置にある人々はその背後に恰も猫立なる一鰹と
して存するかの如き威容をもつて迫り繋る一團の人々をもつ︒この背景における骨離に主として一面的に規定
されつ製一定の方向に誘導する作用を螢む限りに於ては︑これらの入々は直ちに普通にいふ意味での指導者で
あるのではない︒唯この如き背景よのの迫力に反作用をかへしつ﹄巧みにこの迫力を自らの手中に集申せしめ
群集硯象の本質 =一九
=二〇
つ玉背後の人々に呼びかくる如き場合にあってのみこれらの入々は指導者たるの役割を努めつ玉あるものとい
ふ事ができるであらう︒この二つの場合の斑別は略洋集の動態的なるものと静態的なるものとの聖別︵註鎗︶に
慮じて現はれてくるとは思ふが︑この蓮絡は理論的には一義的のものではない︒
司 次に進んで鶴述の如くいは樽瀞集の唯申に位置する人々がこの如き誘導の機能を螢む場合を考へざる ︵
か︒このいは穿鮮藥を形成する翌々の配列上の申心黙よりしてその周團にある凡ての入々に捌け口への道筋を
指示せんとする氣組の獲害してくる場合を考ふる事ができるであらう︒この如き場合は事實に当ては︑翻止的
なりし群集が行動に移る場合に於て屡々現はれてくるであらうと思ふ︒群集に運動を與へんとする動向は多く
の場合この如き地鮎に於て獲端するものとも考へられる︒
勾 所謂指導者の螢む誘導の機能と熟せらる玉事柄も仔細にこれを貼捜し來るならば︑上の如き二つの場合 ︵
にみらる曳方向づけのより思慮的なる按配であるか︑又は上の何れの場合も與へられておらざる場合にあって
も淋集一般に存する何等かの方向への志向を巧みに捉へて表現し來る事をいみするに外ならすとみるべきであ
らう︒﹁指導者は負︒奢瓢より來り︒♂鼠より來らす﹂謡23︶と吊せらる﹂所以である︒
以上何れの形に穿て現はる玉にしてもこの如く淋集に内在する方向への志向を誘導する機能を結果する人々
並びにそれらの人々の位置する地図をも合せ含んで群集の︾多発①葺挙挙︵作用焦黙と課しておく︶と名づけよ
うQ
さてこの如き作用焦黙の成立し來る所群集の成員はこの中心黙に向って集申し焦るであらう︒この藥串の姿
こそは鮮集の成員をして群集の中に緊縛せしむる原理を示すもの︑換言すれば群集における組織の一面を示す
竜のに斜ならぬ︒唯こ玉に附記すべき事がある︒この如き作用焦黙への集申によって各人相互の間のいはば微
分的な關係は如何なる磁化をうくるかを考へてみる事である︒換言すれば第一の意味における如き組織の一面
とこxにみた如き組織の他の一面とはどう關毒してみらる〜べきかの問題である︒スチイラ⁝は作用焦鮎への
胆石によって相互の關係は分散せしめられ︑從って相互の關係は軍なる並行關係とな珍來るといふ︒︵註24︶果
して然るか︒私は否定的に答へる︒作用言窯への集中によって相互の關係は断ち去られたかの如くみえて實は
然らす相互の關係を保有しながら︑從って又この相互の關係に於て現れてくる上蓮の如き組織的なる原理の制
約の下にたちながら作用焦黙に向ひ︑叉その限りでの組織的な制約の下に入りくると考ふべきである︒作用野
鼠の擦り所が實は多くの學者の考ふるが如くにその焦瓢にある人々︑特に指導者と呼ばる玉入々の創意の中に
存する竜のではなくして︑當初より群集の申に與へられてある如きある方向への志向にこそ潜んでみるといふ
事理を思ひ合はすならば︑作用焦窯への集申の可能は相互の關係の上述の如き姿を背景としてのみ與へられ︑
作用焦職を中心とする紐織的原理は相互の闇の組織的原理を背景としてのみ考へえらる玉ものでなければなら
ぬ︒相互の關係は分散せしめらる玉のではない︒相互の關係のうちに含まれた志向が實現せられたといふ意味
に於て相互の關係が作用焦黙への關係によって︑いは繋充實せしめられたものとみなければならぬ︒
群集税象の本質 ;=
一三二
以上私は二つの側面に分ちつ曳群集の組織と肚會關係の態様とを一般的に考察して來た︒この黙に關徹して
なほ読き淺されたる事柄にして重要なる黙二つを附記する︒
の 私はさきに三入關係を特長づける三契機について心す所があった︒公共性︑當膿性︑客槻化の三契機の ︵
相まって作用する所︑群集の場合にあっては情緒的なる領域に於て相互に適合せんとする氣組を生む事もすで
にのべておいた︒この事情は叉群集現象の統一を規制するの一契機たるに非ざるか︒もとよりこの如き応化は
た穿ちに群集に固有するものであるとはいぴ難いであらう︒唯私は既述の如く群集内部にあっての人々相互の
聞の重石の短縮せしめられてあるといふ事情の作用の下にある事によって︑三人貯砂の原理がいよいよその作
用を張めるであらうと考へる︒
勅 群集現象における統一の原理として墨者多くは模倣叉は噌示をとく︒︵ルボン︑タルド︑シゲーレを私は ︵
思ひ合はしてみる︒︶︵馳25︶これに關して私の思ふ所を述べてみる︒
その一︒b蕊需n鄭おとも︒︒才芸︒・瓜§︵正しくは︒︒嶺σQ鼻圃霞難酔︶とも呼ばる﹄所の賂のは實は群集現象の俘随
現象であって統一原理とみらる玉べきものではない︒︵註一20︶
その二︒一歩を進めてみるに件随現象としてのこれらの現象も實は仔細に考へ來るならば他の事態に誤って
かくの如く命名づけられたるものにすぎすと考ふべき理由が存する︒何故であるか︒今模倣過程についてその
成立し馨るための必要なる前提を考へてみる︒第一にまつ何等かの他入の側における表現活動の知畳が與へら
れてるなければならぬ︒第二にはこの如き知畳に基いての他人の無界の理解が存してみなければならぬ︒第三 ノ
に煙り理解さる製のみではなしに︑理解さる製他人の罷験が何等かの意味に於て呼値に於て優れたるものとし
で受けとられてみなければならぬであらう︒所で着眼を嵩じてこれらの條件が群集のうちに輿へられうるか否
かを考へてみる︒第一に群集の内部にあっては知畳の範翻は極めて限局されたものである事既に述べた所の如
くである︒從って叉第二の條件も叉與へられぬ︒故にスチイラーは云ふ﹁多数者の現象は①臥虚器欝さる曳もの
に非すしてぎ覚曹凶巽窪さる瓦のみ︑㈹三碧ぐ・講さる製のみQし︵註町︶第三に群集内にある人々は等しく群集の志向
の關はる限度に於てのみ關係にいりこむ事もすでに述べた所の如し︒從って叉債値の意識を含む事もありえす
とみるべき事も叉蓮べておいた︒もとよりこの檬の議論の進め方に書して恐らく次く如く可能なる駁論を豫想
する事ができるであらう︒第一に模倣過程はある一黙から次第に傳播してゆく事も可能である︒從って知蝿の
範團の限られてある事を理由とするも模倣過程の傳播を否定する事はできないであらう︒知蝿の範園は各人に
穿て限られてありと難もその範型は相交叉しつ〜全罷に穿ってるるものであるのであらう︒その限りこの交叉
をわたりつ曳模倣過程の受認しえざる理由はないであらう︒この如き考へ方については私こう考へる︒この交
叉圏をわたりながら模倣過程の普及してゆく場合︑姑くこの事を可能なりとして許すもこの可能はさきにのべ
た如き群集の組織のうちに與へられてるる︒いは貸この如き組織に俘ふ現象であるにすぎぬ︒更に叉かく漸次
的普及の姿を考ふるとしても︑その可能は鮮集の組織が上述の如く便値の意識を排除しさっておる事によって
群集現象の本質 一三三
一三四
存してみまいとみるべきである︒更に第二の可能なる反駁を考へてみる︒群集内には密漁の意識を含ますと云
ふも︑果して然りとぜば群集にあって指導者を聯秘化するの傾向︵註28︶はこれを如何に解すべきであるか︒こ
れについて答へていふ︒こ製に模倣とみらる玉所のものは實は群集自膿に内在せる傾向の漸次的なる表現であ
るにすぎぬ︒指導者の榊秘化と名づけらる玉所のものも實は指導者自性の創意旧註29︶を示すものではなくして
群集自膿に内在せる傾向の客糊化であるにすぎぬ︒
曙示過程とよばる乱軍のものも實は後にのぶる如き群集における統一的情緒の成立に誤って名づけられたる
ものに外ならぬQ
今第二項を絡るに當って群集概念の當らざる披大について附言する機會をもつてみたい︒無考或は群集を分
う
ち考へて一知早しえらる玉叉は具膿的群集と︑二抽象的群集の二となし︵註30︶或は一関◎乱︒と︑二U①覧窪ρ
︵ ︵ ︵ ︵