近 代 小 説 の 成 立 と 危 機
ヴォルフガング・カイザー
中川勇治訳
現今の文学の動きに読者として関心を寄せる人なら︑小説を読むのがふつうである︒今日かなり広範な層まで知ら
れている拝情詩人の数は僅少であって︑文学に造詣の深い人でも︑近年世に現われた拝情詩集の標題を半ダレス以上
も挙げることは困難であろう︒どんな詩作があるかという知識は︑新聞︑雑誌︑詩華集などで偶然見掛けることによ
りもたらされている︒劇場といえば︑夜毎に満員とはなるが︑それにしても劇文学作品の現存量はか細いものだし︑
ある戯曲がその上演を実際に見た人の体験を越えて︑他の人まで感動させることはほとんどない︒いま︑個々の人間
が飾い分け︑比較︑値踏み︑分類などをやりたくなるほど︑現象に充満した領域が文学にあるとすれば︑それは今日
では︑根本的に小説の作りあげている領域である︒私達は過去百五十年から二百年に関しても︑同様の事実を認めざ
るをえない︒ただその場合︑節い分け︑比較︑値踏み︑分類の仕事は︑今日では文学史の役目となっている︒文学史
の多くの重要な章が︑物語作家としてのみ名声を得た文学者達にさかれている︒ドイッ語文学の世界からほんの数名
を挙げるだけでも︑ゴットヘルフ︑ラーベ︑ケラi︑シュティフター︑アレクシス︑フォンターネ等がいるし︑外国
語文学の世界からはたちま■ち︑デ甘ケソズ︑サッ声レー︑ハーデ揮︑ジョゼフ戸コソラッざ︑ジェイムズ・ジゴイス︑
近代小説の成立と危機
人交研究第三十六輯
ゾラ︑プルースト︑ジッド︑あるいはゴソチャロフ︑ドスふエラスキー︑トルストイ等の名が私達の脳裡に浮んで
くる︒
小説が文学の領域にこれほど本質的に関与するようになったのは︑ほぼ二百年以来のことである︒小説にょる文学
領域の征服は驚くほど短い過程を経て行なわれた︒しかも言うなれば︑無から出発して行なわれたのである︒という
のは︑一七四〇年頃ドイッで出版されていた年間十冊の小説は︑純文学には数えられて.いなかつたし︑文芸雑誌の方
もその後何十年以上も︑この種の新刊物を論評せず︑新作の悲劇︑喜劇︑詩︑叙事詩等と同等には扱わなかったから
である︒つまり小説は暇をもてあました婦人や怠惰な学生のための読み物としか見なされていなかったのである︒小
説の年間出版数が︑一七四〇年頃には十冊であったとすると︑一七七〇年頃には百冊となるが︑その時までには︑小
説の純文学圏への参加はすでに完了している︒やがて一七八五年頃には小説の年間出版数は三百冊︑,一八〇〇年頃に
は五百冊となったのである︒以上の数字によって明らかになることは︑ドイツについてもイギリスについても等しく
十ニー十四倍と算定され︑それ自身大半が小説勃興の結果(もちろんその一因でもあるが)である一八世紀の読者人
口の増加だけではない︒
小説が一八世紀の前半に純文学の一員と認められなかった理由のプつは︑それが散文と結びついていたことであ
る︒詩文となるためには韻文で書かれる必要があった︒この世紀が推移するにつれ︑律動的な散文で書かれたゲスナ
ーの田園詩が世人の感興を呼び覚まし︑市民悲劇とともに断乎たる散文が演劇の世界へ迫ってくると︑この基準はた
しかに動揺し始めゐ︒しかし︑それでもシラーは一七九八年に︑散文は﹁非文学的な厳粛さ﹂を生みだす﹁むき出し
のリアリズム﹂の原因どなる︑どいうテ匙ゼを掲げて︑ゲーデの﹃ヴィルヘルム・マイスター﹄が及ぼす影響からお
のれの心を究極的に解放しようと努める︒さらに小説にとって不利だったのは︑古代の模範が欠けていることであっ
た︒小説はヘレニズムの時代︑つまり西紀三世紀に入ってようやく︑ヘリオドロスのエチオピヤ紀行をもって西洋の
芸術形式として出現する︒この最古の小説が︑世界文学の中でもっとも光芒豊かな作品の一つとなり︑一七世紀にお
いてもなお到達し得ない典型として尊重されていたのが事実としても︑一八世紀が指針と仰いだ規範的な古典作品に
は︑結局所属していなかった︒なぜなら︑そしてこれこそ小説が軽視されたもっとも重大な理由であるが︑一七世紀
末以来︑小説という形をとって出現したものは︑純文学としての取り扱いをいささかも要求できない代物だったので
ある︒いわゆる情事小説がこの代表的なタイプであるが︑それは学生小説や冒険小説などの変種とまったく変わらな
い娯楽読物であった︒情事小説とは︑宮廷世界の恋愛物語を︑その世界に属せぬ読者のために物語るものであるが︑
まさにその閉鎖性のためになんらの発展可能性をももたらさなかった︒ボーゼ︑フーノルト︑ハーマン︑シュナーベ
ルその他によるこの種の小説は︑あらゆる時代の娯楽文学と同様に︑つくりが非常に見事であり︑きちんとまとまっ
ていた︒きわめて高い目標を掲げ︑かつそれを実現したバロヅク時代の大作品は︑まだたしかに世の中に知られてい
たし︑ゲーテの世代になっても︑まだA・ブ:フホルツ︑アソトソ・ウルリヒ・フォソ・ブラウソシュヴァイク︑ロ
ーエソシュタイソ︑ツィーグラーけクリヅプハゥゼン等の小説が読まれていた︒しかし一七世紀の読者達とは違い︑
彼等の読み方には︑それらの小説の育成的な内容を認めようとする気持が必ずしももう見られない︒彼等がひかれた
のは︑題材的興味のためであった︒事実︑これらの小説は決してその要素を欠いてはいなかった︒
これらのバロック小説はいずれも︑まさしくヘリオドロスの作品においてもっとも純粋に顕現しているある構造を
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土台とする︒冒頭に置かれるのは一組みの男女の邊遁である︒しかし︑彼等の結合を願う気持‑それは全体の事近代小説の成立と危機
人文研究第三十六輯
件を展開させるための目的を意識した力を意味するがーはさまざまな障害にぶつかる︒二人は敵の襲撃︑幽囚︑難
破︑その他の妨害モティーフによって別れ別れとなる︒ところでこの二人はーそしてこれがバロック小説の本質的
特色であるが1同時に王侯であり︑したがって彼等の恋愛は私人としての問題ではなく︑きわめて政治性の強い問
題となるため︑他の君主が︑あるいは恋敵となり︑あるいは味方となって事件に干渉する︒両人の運命が曲線を描く
舞台は途方もなく拡がる︒それは空間的にも時間的にも︑好んでローマ帝国の世界となるし︑ツィーグラー1ークリッ
プハウゼンの作品では極東の世界となる︒これらの小説は入り組んだ︑手に汗を握るような出来事で充満しているか
ら︑今後も永く興味深い娯楽作品として読むことができるであろう︒それは︑オーピッツが一七世紀の初頭にその詩
学の中で叙事文芸に要求した課題を実現している︒叙事文芸とは﹁新奇で予期せざるものや︑その他︑人々の心情に
奇異の念を呼び起すに必要なものを数多く配置する﹂︑あるいは﹃アジアのバニ!ゼ﹄の本文中に押し込まれた語り
手が約束するもの︑つまり﹁珍奇で錯綜した偶発事件﹂を盛り込むものである︒今ここで語り手が表現上︑ヘリオド
ロスの直接本題に入る手法にしたがい︑本題以前の出来事を︑挿入談を用いながら徐々に︑しかも少しずつしか解き膿明かさないならぽ︑小説全体の事件はますます錯綜する︒一七世紀の作家達は︑主役の恋人同志の傍に数多くの他の瀞恋人同志を配置して事件の複雑さや曖昧さの度合を高める︒そのため︑ことに作中人物自身が名前︑服装︑身分を取
り替えたり︑あるいは本名を隠してよその土地で養育されたりすると︑各人の血統関係はほとんど解きほぐせぬほど
紛糾する︒人間的な意図にさからう不意打ち︑激変︑妨害︑抵抗︒これこそ︑盛り沢山な事件の動きが聴従する法則
である︒つまり精神的な面から言えば︑このことはバロックの小説においては︑運命の支配する世界のことであると
解されている︒だがそうではあっても︑読者のほうは事件のスリルに安んじて陶酔していてよかった︒なぜなら︑バ
へ
ロヅク小説は︑いずれも恋人同志の幸福な結合と︑すべての紛糾の解決を構造の終結点として目指すものだから︒こ
こにもまた︑精神的な解釈が用意されている︒すなわち︑運命の上位に立つのは神の摂理だが︑これは既に前の方で
いくつかの前兆とか事件への明白な干渉などによって予告されている︒この摂理が幸福な結末の到来するように配慮
するのである︒
だが︑事件全体のモティーフやつながり具合が解明されても︑それはまだようやくこれらの小説の一部分でしかな
い︒語り手の視線はこれと同時に事件に遭遇する人々︑あるいは事件の発端となる人々にも向けられているのであ
る︒ここで作品を書く本来の意味は︑運命の世界に巻き込まれた人間達を素描し︑解き明かし︑評価することにつき
る︑と作家が考えていることは明瞭である︒ここでいささか︑人物造形の問題を取りあげる必要がある︒そこからま
た︑同時に物語叙述に関する疑問の答がでてこよう︒まず始めに︑これらの人物は物語全体を覆う筋の一部としてし
か存在していない︒実際︑私達が作中人物達と顔見知りになるのが︑事件の動きのまっただ中にある重要な一点にお
いてであるように︑彼等の全存在はあくまでも物語の筋への関与いかんによって規定されている︒人物創造は人物の
挙動を描くこととして行なわれる︒語り手にょる直接の記述と談話や表情味豊かな仕草を用いた間接的な表示とが叙
述の手段となる︒その場合三点が目立つ︒一︑挙動が顕わすものは︑人間存在の最深層としての志操である︒二︑諸
々の叙述手段は相互にぴったり一致するようになっている︒つまり(語り手を通しての)直接的手段と(作中人物自
身を通しての)間接的手段は︑その表出内容が完全に重なりあう︒三︑言葉に対する驚くべき信頼感がこの小説の世
界を支配している︒すなわち言葉には︑挙動と志操を厳密に把握し︑解釈する能力︑言い換えれば︑表出内容を明確
に陳述し︑したがっていかなる瞬間にも価値評価を可能ならしむる能力がある︒
近代小説の成立と危機