一ヘーゲル宗教哲学の一考察一
田 原 善 郎
「宗教とは,それ自身,即自対自的である真なるものの意識の立場であり,
したがって,思弁的内容一般が意識にとって対象である,精神の段階である。」
(X〜贋,30f)ヘーゲルは,「宗教哲学講i義(Vorlesung Uber die Philosophie der Religion)」のなかで,哲学が現象形態としての世界を介して,はじめて 神を認識するにたいして,宗教とは,端的に絶対者,神を意識する精神の立場 であると述べている。さらに「自分の胸を有限なるものの営みから拡げて,永 遠なるものへの憧れ,予感あるいは感情のうちに自己自身の心を高めることが できず,魂の純粋な霊気を凝視することもない人は,ここく宗教哲学講義〉で 把握さるべき素材を所有していないといわざるを得ない。」(XVI,13 f)といっ ている。この引用文にも明らかなように,ヘーゲルは,神についての意識を疑 い得ない現実性として前提しているのである。「神が何であるかということは,
宗教を有するわれわれにとって,既知のことであり,主観的意識に現にある内 容である。」(XW,92)では,ヘーゲルは宗教心や神の意識をもたない人間を 無視してしまっているのだろうか。ヘーゲルにとっては,神の意識,宗教の観 念は,人間に基本的に前提されているのではあるが,しかし,人間は自由であ るからこそ選択意志があり,おのれの本分に背くことができる。したがって,
人間は,たとえ宗教的な意識と敬度な心をもって,宗教が必然的であることを 認識しても,それでもなお,恣意や怠惰な心,欲望に負けて,神に背き自己を 立てざるを得ない存在であり,また,宗教的敬慶心から,遠ざかっているどこ うか,宗教そのものを否定し退ける人間にしても,その否定的関係において,
宗教,あるいは,神の意識と係わらざるを得ない存在なのであるという。以上
のように,ヘーゲルの宗教にたいする基本的立場は,神を,意識のなかに,い
ま現在し,内在し,生きている現実性として捉えることにあるが,この「胸中
にあるもの」(XW,92)を意識の対象として捉え,思想の形式をあたえるの が,彼の宗教哲学の立場なのである。
ヘーゲルが宗教哲学の講義を行った19世紀の20年代から,30年代にかけて,
ヨーロッパの思想界では,神を否定する潮流はますます高まっていたが,その 時代原理に反対して,神を否定する人間をもその枠内に入れながら,ヘーゲル は,「端的に神の意識」という現実性から出発するのである。ところで,この 普遍的なるものの意識は,はじめわれわれの感情の内部に自己意識と直接一つ になっているが,「〈この意識の〉内容を発展し,そこから生ずる諸関係を把 握し,表現し,意識にもたらすことが宗教の発生であり,産出であり,示現で ある。」(X皿,89)意識の発展とともに,その内容は意識内部から外的世界へ 現れ,対象性をもつことになる。最初に対象性を得るのは,直観の形式におい てであり,さらには,表象の形式においてである。この神の対象化において,
宗教は,心情を出て,外的世界において現実的なるものとしてその存在をもつ のである。ところで,ヘーゲルは,「法の哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts)」の序文のなかで,哲学的認識について,「そこで重要なことは,
時間的な過ぎ去りゆくものの外見のうちに実体を,内在的な実体を,そして,
現在する永遠なものを認識することである。」(孤,25)といっているが,宗教 哲学においても,同様に,意識内部の直接的意識内容としての神から出発し,
さらに対象化された現実的なるものとしての神に,思惟によって,「現在的な 永遠なもの」を認識するという過程が組まれている。以上のようにして,時間 的,空間的に現在するものとしての宗教に真の意味での現実性を認識すること を,ヘーゲルは宗教哲学の課題とするのであるが,一方,合理主義やロマン主 義の考え方とは異なり,ヘーゲルにおいては,神話や歴史あるいは実証的なも のなど,時間的,空間的に現在するものなくしては,宗教は成立しないと考え られているのであるから,外的世界に現に存在する現実的なるものにこそ,宗 教は自己の意味を求めるのであり,それらを離れては宗教を意味づけするもの は存在しないという考え方である。この論文では,現実的なるものとしての宗 教を,ヘーゲルが宗教哲学において,どのような立場から捉えていたかをみて みたい。
1
サこで,ヘーゲルは,まず,一般的な意識として,主観の内部に直接的意識
内容としてある神についての,「われわれは神が存在するということを直接的 に知る(wissen)」(XW,118)という直接知の命題を挙げる(1)。この命題は,
いかなる具体的関係をも持たない抽象的普遍者としての神が,私の意識の中に 単に直接的に存在するということのみを,われわれは知るという意味である。
さらに,そこでは,神が何であるかを知るのではなく,単にそれがあるという ことのみを知るのであるから,「思惟された神はまだいかなる内容も,それ以 上の意味ももたない。」(XW,119)それでは神は私の意識のなかの存在にす ぎないのであろうか。ヘーゲルは「神は,ただ思惟されるのではなくして,神 は存在する。」(XW,120)という。「さらにいえば,神は私の意識の対象であ
り,私は神を私から区別する。すなわち,神は私の他者であり,私は神の他者 である。」(XW,121)一方,「私は対象く神〉を表象し,対象く神〉を信ずる。
しかし,この信じられたものく神〉は私の意識内においてのみの存在である。」
(XW,122)反省においては,私と神とはおたがいに他者であり,神は私の直 接的意識の対象として,私からは区別されて,対自的に存在するのであり,一 方,自我においてのみ神は存在するのである。かくて,直接知においては,神 は独立の存在者であるとともに,一方,意識内においてのみ存在するにすぎな いことになる。
ここで直接知と感情の関係に考察をすすめてみよう。まず感情について,
「神への信仰は宗教的感情のなかに与えられる。感情は神が存在することが我々 に端的に確実であるもっとも内的な地盤である。」(XW,123)という一般的,
常識的な見解からヘーゲルは出発する。それは,神についての現在的,内在的 な現実性を前提として,神の考察をはじめたのと同様の論理である。この見解 において「端的に確実である」という神の確実性とは,まず,私の意識の中に,
神という内容が私とは独立に存在するという意識であり,さらには,それにも かかわらずこの意識内容である神は私とは離れがたく結びついているという意 識であり,その内容からみると直接知において述べられていることと同一であ る。とすると,感情と直接知はいかなる関係をもつと考えられているのだろう か。直接知において,神の存在は私の存在から区別されるが,同時に,私の存 在であり,私に属するという反省が現れる。その場合に「私が自分のものとす るこの〈私の〉存在のなかに,また対象く神〉が存在するという要求がおこる。
この要求が感情である。」(XV[,124)「私が私と対象というとき,まだ両者は
対自的である。感情においてはじめて二重の存在は消える。対象の規定性は私
のものとなり,しかも客体にたいする反省がはじめまったく欠落するほど,私 のものとなる。」(XW,124)以上,直接知において示された私への神の一体 化は,感情の要求のうちにはじめて具体化され,現実に存在するとヘーゲルは 考えるのである。いいかえるならば,直接知は,現象として現れる場合は感情 と結びついて現れるのであり,その意味で,感情は直接知の現実的根拠といわ れるのである。「直接知においては対象は存在せず,対象の存在は知る主体に 属した。そして主体は感情のなかにこの存在の根拠を見いだしたのである。」
(X〜肛,134f)
ところで,ヘーゲルは,感情は内容次第であって,それ自身は偶然的である という。感情は多種多様であり,おたがいに矛盾する内容が同時に見出され得 る。したがって,内容が真であるときにはじめて,私の感情は真なのである。
「感情はすべての可能的内容にたいする形式であり,… 内容は,感情のな かでは即自対自的に規定されていない,すなわち普遍者によっても概念によっ ても定立されていないという形式をもつ。」(XW,128f)とするならば,何 故に「〈神、法などの〉真の内容は,われわれの感情のなかに存在し得るのみ
ならず,また,存在すべきであり,存在しなければならない」(XW,130)と ヘーゲルは主張するのであろうか。真の内容をもつにふさわしい感情をヘーゲ ルは心胸(Herz)とよぶのであるが,「このようにして,神,法などのく真の 内容〉も,また私の感情のなかに,私の心胸においてあるべきであるといわれ るならば,私と分かれ難く同一であるべきである,ということのみが表現され ているのである。」(XW,130f)神はあくまで私の対象ではなくて,私と分 かち難く同一であらねばならない。このことこそ,感情のなかに,すなわち対 象を自分のものとする感情のなかに真の内容があるべきであるということの意 味なのである。その意味で感情は,宗教において己れの場所をもつのである。
ただし,この場合の感情とは,純化され,陶冶されたものでなければならない とヘーゲルはいっている。「陶冶された表象と認識は,感情と感覚を排除しな い。反対に,感情は表象によって育てられ,持続的となり,そして表象におい て,ふたたび新たにされ,点火される。」(XW,131)感情が陶冶されるとは,
感情以外のより高いものによって,感情自らがより高くなるということである。
神や法についての陶冶された表象や認識が感情の形式へ移されて,感情に養分
をあたえ,それによって,感情も陶冶される。すなわち,われわれは神につい
ての諸規定を,感情とは別の思惟の領域において求め,そのあとで,それらの
規定を感情のなかに見いだすとき,感情は宗教にふさわしく陶冶されたという ことができるのである。
ところで,直接知においては,神についての知は,私自身の意識のなかに直 接的にのみあった。このことをヘーゲルの立場から考えるならば,直接知の命 題において,すでに神と意識の関係が成立しているのである。「われわれは,
神は主観的精神から分離して考察されないということのなかにある真理を承認 しなければならない。それは,ただ神が未知であるという理由からではなく,
神は本質的に精神であり,知るものであるという理由からである。かくて精神 と精神にたいする関係がある。精神と精神とのこの関係が宗教の基礎にあるの である。」(XW,102)意識としての主観と神との関係は,特殊性と普遍性の 関係であり,両者は一つの自己内連関として把えられなければならない。両者 は,直接知にはじまって,一つの内的関連として,概念的に展開するのである。
したがって,直接知とは,神を認識するための出発点にすぎない。
さらに,直接知において示された私の神への一・体化は,感情においてはじめ て現実化するとヘーゲルは考えた。いいかえれば,感情において媒介されるこ とによってのみ,直接知における神と主観の関係はあり得る。直接知は,感情 によって,「生き生きしたこの意識」(XW,19)を得て,はじめて,真の意味 で自己と神とを不可分のものとしてとらえることができる。そこに神と主観の 関係としての宗教は,第一歩をふみだすことになる。感情においては,神はあ くまでも対象でなく内容であった。そこでは,その内容である神と私は分かち 難く同一であった。感情のなかで,神は私のものである,この存在のなかに存 在すべきであるという感情の要求のなかに,二重の存在は消えてしまう。感情 において区別は消滅し,私は規定性で満たされ,規定性を超えることはない。
自我はこの単純な直接的統一性においてある。一方,ヘーゲルは直接知におい て神と意識としての主観の関係を捉えていた。「感情においては区別は即自的 にふくまれている。」(XW,124)というヘーゲルにとっては,この区別は,
「感情のなかにある私」と「私の規定性における私」との区別であるが,この
区別は感情においては,それは私自身のなかにおける内的な区別であって表面
には現れない。しかし,この即自的な区別に反省が入ると,区別は区別そのも
のとして定立される。私の規定性は他者として私に対立する。自我としての主
観は,客観との関係において対自的となる。そこで「自我は自己自身を自己自
身にたいして規定されたものとして見いだす。」(XW,135)自我の活動は,
自己の規定性を自己から離し対象化することである。ここで,自己の規定性を 対象化することによって主観と客観は対自的となるが,さらに,この自我が客 観にたいする主観としてあるという分裂は,まさに一つの関係であって,ここ で客観を対象として区別すると同時に一つの関係,すなわち同一性としてとら えるという意味で,ここに直接性は止揚されて普遍性がはじまる。このように して,客観を他者として区別して,同一性をふくむところの区別として関係す るのは,直観,表象の段階である。
2
O節において,感情のなかで主観に合一されていた神は,つぎに他者として 対象化される。「人間は規定性との直接的同一性から,自己自身を取り戻すご とによってのみ,自己自身について知る。」(XW,132)感情においては,神 は自己自身と不可分なものとして,単一な直接的同一性のもとに捉えられてき たのであるが,すでにみたように感情においても,内容を自己から区別する展 開の必然性は示されていたのである。いまや,神は,自己の規定性として対象 化されなければならない。ヘーゲルは,それはまず「時間性と空間性において」
(XW,135)定立され,「このようなく時間性と空間性という〉外面性におい て対象を定立し,対象に関係する意識は直観である。」(XW,135)という。
時間・空間において神を直観することが,神の対象化においてまず問題になる。
一ところで,神的なものの直観が,芸術を生み出すとヘーゲルは考える。芸術と は,神的なものが直接的直観の対象であれ,という精神的欲求によって生み出 されたものであると彼はいう(2)。それは,神的真理が,人間によって,外的,
感性的な様式において表現(Darstellung)されることを意味する。ところで 芸術における感性的直観は,精神によって必然的に生み出されるものであり,
生き生きとした中心としての理念をもっていると考えられている。しかして,
「真の意味における真の真理とは,対象とその概念の一致すなわち理念であ る。」(XW,136)理念においては,概念は偶然性や恣意によって侵害される ことなく,自由に表出(Ausserung)されるのであり,このような概念の表出 が芸術の即自対自的に存在する内容となる。このような理念をその中心にもつ 芸術的直観は,「自然と精神の実体的,普遍的な境地(Element),本質性,力
にかかわる内容」(X〜肛,136)を表現するのである。
以上の事柄を芸術家の立場から考えるならば,かれらは概念がその力を持ち
支配している実在性(Realit蕊t)が,同時に感性的なものであるように真理を 表現しなければならないのである。そこでは,理念は感性的な姿をもって表現
されるので偶然性は避けることができないのであるが。「芸術作品は,芸術家 の精神のなかで受胎され,そのなかで即自的に概念と実在性の一致が生じる。
しかしながら,芸術家は〈一致の生じた〉自己の思想を外面へと放出してしま い,作品が完成すれば,そこから退くのである。」(XW,136)芸術家によっ て,芸術作品は完成するが,この作品は直観にたいして定立されたもので外的 対象であるから,「自己を自ら感じ,自己を自ら知るということはない。」(X VI,137)したがって,ヘーゲルは,「完成された主観性は芸術作品には欠けて いる」(XW,137)という。芸術家がその作品にあたえた主観性は外的なもの に過ぎず,自己意識という形式はもたない。芸術家は自己の思想を放出したあ と,その作品から退いてしまっているのである。「したがって,自己自身にお いて知る者(das Wissende)でない芸術作品にたいして,自己意識の契機は 他者である。しかし,それは端的に芸術作品に属する契機であり,表現された
ものを知り,実体的真理として表象する契機である。」(XW,137)芸術的直 観は理念をその中心にもっていたのであり,理念には自己意識が必要である。
いま,完成された芸術作品からは,芸術家はすでに退いているのであるから,
そこに芸術家の自己意識はない。そこで,芸術作品が完成するためには他者で ある鑑賞者が,自己意識の契機として補完(Er齢nzung)される必要がある。
すなわち,「この自己意識は,主観的な意識,すなわち直観する主体に属する。」
(XVI,137)さらに,この自己意識のなかでは,芸術作品は単に対象であるこ とを止め,自己意識は他者として現れた芸術作品を自己自身と同一なものとし て定立する。芸術作品では真理は外面性において現れるのであるが,ここでは
「この死んだ直接的なものく外面性としての芸術作品〉との関係」(XW,137)
は滅ぼされ,「直観する主体は,対象く芸術作品〉のなかに自己の本質をもつ という意識的な感情を得る。」(XVI,137)宗教とは特殊性である主観と普遍 性である神との関係であったが,いま外的,感性的な対象としての芸術作品に おいて,直観する主体は,自己の本質として神的なものを意識するのであり,
そのような意味で,宗教関係が成立する。ところで,主観と作品の以上のよう な同一化の過程にもかかわらず,ここに両者のあいだに分離が生ずるとヘーゲ ルはいう。それは、対象のなかに自己の本質をもつという自己意識の運動が,
外面性から自分自身のなかへ帰る(lnsichgehen)という意味での分離であり,
ここに主体と芸術作品は分離される。この分離が実際に現れるのは作品の批評 などにおいてである。そこでは,主体は作品を外的対象としてみなし,作品を こわし,無遠慮に,美的見地からはどう,学問的にはどうと論評する。ヘーゲ ルは,この分離を,芸術作品が直観されるためには必要なものであると考えて いる。というのは,「芸術直観は,自己自身に,自己の真理と実体性を自由に 対立させる,自己意識のより高い自由を前提する」(XW,137)からである。
ヘーゲルは,近東の国々においては,この分離が行われていないとして,描か れた魚に魂を与えなかったと非難した一人のトルコ人の例を挙げている(3)が,
そこでは,トルコ人の意識はどこまでも作品との統一(Einheit)にとどまっ ており,作品に埋もれているのである。この統一から,神的なものが一方にお いて魂のない形態としてあり,一方において,直観する自己意識があるという 分離へとすすみ,さらに,直観する自己意識によってこの分離を止揚するとい う過程こそ必要なのである。芸術作品にたいする直観には,自己意識の契機が 補完されることが不可欠であったのであるから,この「散文的な分離」(XW,
137)はふたたび止揚される。
直観においては,神は客体性として現れた。しかし,ここではまだ神は真理
として「感性的,直接的に自立性」(XW,138)という状態にある。それは主
観によって生産された自立性であり,直観する主観性と自己意識においてはじ
めて自己を獲得する自立性である。宗教的過程は,この見地からは直観する主
体にのみ属しており,しかも,主体は感性的な直観された対象を必要とするの
である。他面からいえば,対象が真理であり,しかし,真理であらんがために
は,自己の外に自己意識(直観する主体)を必要とするのである。いま,対象
と自己意識は相互に補完されるべきものとしてあるが,まだ,両者は内的に統
一されていない。したがって,「直観においては,宗教的関係の総体性は,す
なわち対象と自己意識はばらばらである。」(XVI,138)といわれる。ヘーゲ
ルは,宗教的関係が総体性そのものとして,ばらばらではなく単一体(Einhei
t)として定立されることが必要であると主張しているのである。そのために
は対象が内面化し,直観が感性的な要素を捨てて精神化されることが必要にな
る。そこでは「真理は,その内容が即自対自的に存在するものとして,単に定
立されたものではない客体性を,本質的に主観性自身の形式のなかにおいてあ
る客体性を,自己意識の境地にある全過程がそこにおいて生ずる客体性を得る
のである。」(XW,138)このような宗教的関係の樹立のためには,まず,表
象の段階へと進まなければならない。
3
¥象とは何か。この問題を明らかにするために,ヘーゲルは表象と形像
(Bild)を比較する。「形像はその内容を感性的なものの領域からとる。その存 在の直接的な様式において,その個別性において,その感性的な現象の恣意性
において,形像はその内容を表現する。」(XVI,139)形像は,個々別々なも のとして無数にあるわけであるから,それらをいかに詳細に表現しようとして も,ひとつの全体に再現され得ない。またそれは感性的な現象として,その内 容の表現に必然性はないのだから,われわれは任意にその内容の表現を受け取
ることができる。だから形像は必然的に制限されたものなのである。前章でみ た宗教的直観においては,その内容は形像においてのみ表現されたのであるが,
この場合,理念は,自らを制限し,有限化して,多くの形態(Gestalt)に分 散する。すなわち,直観の対象は,作品として一つ一つはその中心的な理念を
もっているのであるが,個々の形態を統一する普遍的理念には欠けるのである。
さて,ヘーゲルは以上の形像との比較のなかで,表象の一般的本質を三つに 分けて論ずる。まず,第一に,「表象とは,普遍性の形式,思考の形式へと高 められた形像である。」(XW,139)神は個々の形像において直接的,恣意的 にその本質を表現したが,表象においては,神という対象の本質を構成する一 つの根本規定が確立されている。その根本規定(本質)が現れる(現象)ため に,表象は言葉(Wort)を必要とする。ここで,ヘーゲルは,「世界(Welt)」
という言葉を例にあげている。「われわれは,このく世界という〉一つの音の なかへ,このく世界の〉無限の富の全体を集め,一つにしたのである。」(XVI,
139)表象は多様な内容を単一化し,根本規定をもたらすのである。第二に,
表象が成立するためには「抽象化の方法」が必要であるという。抽象化の方法 とは,直観において理念と結びついている感性的なものや形像的なものに普遍 性の形式を与えることである。直観にとっては理念は表現の仕方と密接に結び ついているが,表象においてはこのような両者の結びつきは止揚さるべきもの
となる。「絶対的に真の理念」(XW,140)は形像によっては得られない。「表
象は,形像とその意味が統一されていること(Einigkeit)を退けて,その意
味だけを取り出す。」(XW,140)のである。第三に,ヘーゲルは,表象の内
容は客観的であり,真理であるという。それは表象が抽象化の方法によって普
遍的なものを見いだすということになるならば当然な帰結であろう。表象の内 容は即自対自的に存在するところのものであり,思いつきや,願望,好き嫌い の類ではない。
以上のように,表象は規定されるが,ここでヘーゲルは,表象の第一の本質 規定である「思想の形式」について,考察を一歩進める。彼は,表象において は,その本質的な内容は「思想の形式」(XVI,140)へと定立されているが,
「思想そのもの」(XW,140)としてはまだ定立されていないという。「表象は,
まだ感性的なものと本質的にもつれ合っている。自己自身であらんがためには,
表象は,感性的なものと,そして感性的なものにたいするこの戦いを必要とす る。」(X〜α,141)表象は感性的なものを必要とするが,表象の段階において 感性的なものが普遍的な形式へと高められると,表象はただちに感性的なもの を否定し非難する。表象は感性的なものを必要としながら,あるいは,必要と するからこそ,感性的なものへの否定的,論難的態度をも必要とするのである。
「かくて,感性的なものは本質的に表象に属するのである,たとえ表象はそれ を独立したものとして妥当せしめてはならないにしても。」(XW,141)とい われる。さらに,表象を普遍性の立場からみるならば,表象が意識する普遍性 とは,抽象化によって得られた普遍性であるから抽象的普遍性にすぎない。し たがって,それはまだ規定されない本質であり,対象のおおまそにすぎない。
さらに,すすんで対象あるいは本質を規定していこうとすると,表象はふたた び感性的なもの,形像的なものへ戻らざるを得ない。表象は,感性的なもの,
形像的なものに直接に意味を与えるのではないが,それらを媒介にして,それ らとは異なった本来的な内容を表象するために,それらを必要とするのである。
すなわち,感性的なものを介してその意味を表象せざるを得ないのであり,そ こに形像的なものが必要とされるのである。表象は,感性的なものからとられ た感性的な仕方で規定されるが,しかし,思惟がそこに投げ入れられている。
「感性的なものは抽象化の途上にあって思惟へと高められている。」(XW,141)
したがって,「表象は直接的,感性的直観と本来的な思想の間にあって,たえ ず動揺している。」(XW,141)ということができる。そこでは思惟はまだ完 全には感性的規定を克服していないから,まだ表象の内容は「自然性の形式」
(X〜旺,141)を必要とする。そこでは「両者,すなわち感性的なものと普遍的 なものは,おたがいに内的に浸透し合っていない。」(XW,141)のである。
「自然性の形式」についてヘーゲルは例をあげて説明している。宗教において
「息子」「創造者」(XVI,141)という言葉が使われる場合,「例えば,〈息子
〉,〈創造者〉とは自然的関係からとって来られた単なる形像にすぎない。」
(XVI,141)息子,創造者といった感性的関係が,神において本来的に思われ ている関係にもっともおおく相応するものをそれ自身においてもっているとい うことを,われわれが知っているから使うのである。神の怒り,悔恨,復讐な どについても同じことがいえる。それは単なる類比であり,例えであるにすぎ ないのである。「善悪を知る木」(XVI,142)についても,ヘーゲルは同じこ とをいう。この木から果物を食べるという場合,この木は,歴史的な本来の木 なのか,あるいは一つの形像としてとらえるべきなのか。この場合,善悪を知 るということと木は,あまりにも対照的で違いがはっきりしているので,この 木は,本来的な意味にとらえるべきでないということがわかる。果物を食べる という行為についても,同じである。このような意味で,表象は「自然性の形 式」を必要とするのである。
つぎに,ヘーゲルは,表象の様式に属する感性的なものが単に形像としての みならず,歴史的なもの(Geschichtliches)としてとらるべき場合があると述 べる。その例として「イエス・キリストの歴史(die Geschichte Jesu Christi)」
(XW,142)がとりあげられる。イエス・キリストの歴史は外的現象として描 かれると形像にしたがった神話としてみなされるが,単にそれだけではなく
「完全に歴史的な何ものか」(XVI,142)である。この歴史的なものは,感性 的に得られる事実の面があって表象にたいして存在しているが,またもう一つ の側面をもっている。すなわち,それは歴史における内なるものとして,神的 なものを,神的な行動,神的な,超時間的な出来事,絶対的に神的な行為など をもっている。それは理性の対象として,真実なるもの,実体的なものである。
イエス・キリストの歴史も,以上のように,外的,時間的出来事としての人と しての歴史と,そのような現象における内的なもの,実体的なものの歴史,す なわち,神の歴史とをもっている。「この二重性は,一般にあらゆる歴史にお いて存在している。神話も,同様に,それ自身において意味をもっている。も ちうん,外的現象が優勢である神話も存在する。しかし,普通では,そのよう な神話くといえど〉もプラトンの神話のように,一つの寓意を含んでいる。」
(X〜贋,142f)
二重性として捉えられた歴史の二つの側面の関係について,ヘーゲルととも
に見てみよう。一般に歴史は外的な出来事や行為の系列を含んでいるが,これ
らの出来事などは人間の,あるいは精神の出来事である。国家の歴史は,普遍 的精神の行為であり,行動であり,運命である。現れた結果としては外的な出 来事であっても,それを生みだしたのは精神であり,精神はすでに即自対自的 に普遍的なものを自分自身のなかに含んでいる。人が,「あらゆる歴史から,
道徳を引き出すことができる」(XM,143)というような場合などは,そのこ とを表面的にではあるが示している。「そこく歴史〉から引き出される道徳は,
少なくとも,歴史においてはたらき,道徳を生みだしたところの本質的な,倫 理的な力(Machte)を含んでいる。これらの力は内的な,実体的なものであ る。」(XW,143)歴史は,出来事や行為に個別化されるが,それらの個々の もののなかに普遍的な法則,倫理的なものの力を認識できるのである。それで は,さきに理性の対象として捉えられた歴史における内的なもの,実体的なも のは,表象にも認識可能なのであろうか。「これらく普遍的法則,倫理的なも のの力〉は,表象そのものにとっては存在しない。表象にとっては,歴史は出 来事として現れ,現象において存在する仕方において存在する。」(XVI,143)
とするならば,表象は,これら歴史における内的なものに関係なく,外的出来 事の表面的な解釈に終始するのだろうか。「そのような歴史のなかには,まだ
自己の思想,概念が確かな訓練を受けていない人間にとってすら,なにものか
(etwas)が存在する。彼は歴史のなかにこれらの力を感じ,それらについて の漠然とした意識をもつ。」(XW,143)感じ,漠然とした意識をもつという ことは,ここでは,表象をもつと言いかえることができよう。表象は,歴史の なかの普遍的なもの,倫理的なもの,あるいは神的なものを漠然とではあるが 意識することができる能力であると考えられている。
第三に,表象全体をつらぬく規定として,ヘーゲルは次のようにいう。「あ らゆる精神的な内容,関係一般は,その内的な諸規定が単一に自己自身に関係 し独立性の形式においてあるように把握されているとき,表象である。」(XVI,
133f)たとえば,神は全知である,情け深い,正しい,という場合,これら の神についての規定された内容の一つ一つは,個別的で独立している。全知で あり,そして(und)情け深く,また(auch)正しいというときの「そして」
「また」は,表象を結ぶときの様式である。各々の内容規定はばらばらにそれ
だけで規定されている。全知,至仁とは概念であり,もはや形像的なもの,感
性的なものではなく精神的な規定であるが,しかし,「それらは,まだそれ自
身において分析されていない,また,いかにして相互に関係しているかという
区別が定立されていない。」(XW,144)したがって,定立されているのは
「外的同一性」(XW,144)であって,これらの規定は「偶然性の形式」(XW,
144)であると考えられる。「神は世界を創造した」という場合において表象は ますます思想に近い(神の創造と世界との)関係を含んでいるとヘーゲルはい うが,しかし,その関係は外面性と偶然性の形式にまだ捉えられている。「神 の創造」という表象と「世界」という表象は,自然的生活や出来事の類比にし たがって結合される。しかし,「創造」として表現される場合は,両者の結び つきは,それだけではまったく理解しがたい。「活動」という表現を用いて,
活動によって世界が造り出されたという場合にも,より抽象的な表現にはなっ ているがまだ概念ではない。そこでは活動の内容はそれだけで単一の普遍性の 形式のうちに固定されており,自己自身をとおして他者へ移行するということ
と,他者との同一性が欠けている。それは単なる自己同一性にすぎない。必然 性の絆と区別の統一が欠けているのである。したがって,表象が,そこから本 質的連関を捉えようとするや,表象は連関を偶然性の形式にとどめ,真の連関,
自己を突き抜ける永遠の統一へとは進まない。摂理の思想や歴史の運動は「永 遠なる神の思し召し(der ewige Ratschuluss Gottes)」(XVI,145)といっ た,それだけでは理解されそうもない領域へと移ることになる。以上のように,
ヘーゲルは表象を基本的には形像と思惟の中間にあるものとして規定するので
ある。
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¥象は,現象に内在する普遍的なもの,神的なものを漠然と意識することが できた。しかし,感性的なものが混ざった形式でしか認識し得ない表象におい ては,真理は,つねに偶然性につきまとわれざるを得ない。ヘーゲルは,この ような表象の限界を論じ,それともに表象を超えた段階を展望しようとする。
以下において,それを見てみたい。
「宗教は対象的な様式で表象しなければならないような内容をもっている。」
(XW,145)宗教が,単に内面上の問題だけではなく表象する対象をもつとい うことは,このような宗教的内容が伝達され得るということである。表象は,
対象の本質を現象として表現するために言葉(Wort)を必要としたが,この 言葉を媒介にして,ここに「宗教を教える」という可能性をヘーゲルは見出す。
ところで,ヘーゲルは,心を暖めるとか,感情を興奮させるなど,感情を媒介
にして宗教的内容を伝達することは私の主観性をして何ものかに関心を向けさ せるということであり,それは「説教」の事柄であって,「教える」こととは
区別されるという。感情を始源として,表象は感情から生ずるとしても,それ は感情が精神自身の本性のなかで規定されている限りでは正しい。しかし,感 情は,あらゆるもののなかにあることが出来るのであり,したがって,「感情 のなかにある知は,感情自身に属しているのではなくして,表象を伝達すると ころの教化と教訓(Bildung und Lehre)によってのみ与えられる。」(XW,
145)知は感情ではなく,表象を媒介にして伝達されるのである。
しかるに,教育者とよばれる人々は,子供たちや一般に人間たちを愛という 主観的感情にとどめ,神の愛を親子の愛情と同一視する。しかし,ヘーゲルは
「愛が純粋であるべきならば,愛は前もって我欲を断念し,〈その〉束縛を奪 してしまっていなければならない。」(XW,146)という。我欲より解放され ることが,愛の条件であるというとき,ヘーゲルは,教育者たちのいう感情に 溺れた愛のなかに不純な我欲をみているのである。それではヘーゲルのいう純 粋な愛とはなにか。かれは,つづけて次のようにいう。「精神は,自分自身の 外に出て,実体的なものを,一度,自分自身にたいする他者,より高きものと
して直観することによってのみ解放される。精神は絶対的な力にたいして,す なわち巨大な客体にたいして関係し,このなかで自己自身の外に出て,自分自 身から自分を解放し,そして自分自身を止揚してしまうことによって,はじめ て,精神は,真に自己自身へと帰るのである。すなわち,神への畏れは真の愛 の前提である。」(XW,146)いままで見てきたように,感情においては,神
と私は区別された存在でありながら,神の存在は私の存在へと統一されていた。
神は私の主観性のなかで脈動していた。この場合,神と自己意識は直接的に一 つである。しかし,精神は,それが精神であるがゆえに本質的に意識であり,
このような直接的な内容(神)は自分の対象とならねばならない。この展開さ
れた内容が,表象において対象性の意識となった。いま,上の引用で,「自己
自身の外に出て」と言われているのは,この感情のなかで神と分かれ難く結ば
れた状態から脱し,そのことによって,自己から神を分離し,対象化するとい
うことであり,自己の他者である「巨大な客体」としての「絶対的な力」に関
係し,自己自身から自己を解放するということである。絶対的な力,「客観的
真理」(XW,146)としての神に関係するとき,「私は私自身を放棄し,私の
ために何物をも持たず,同時に,この真理く神〉を私自身のものとして捉える。」
(XW,146)このように,神と自己を同一化し,我欲を捨てた純粋な自己意識 として神のなかに自己を維持する関係を,ヘーゲルは「信仰」(XW,146)と 呼んでいる。この信仰は,「内容〈としての神〉と私の絶対的同一性」(XW,
146)であり,神との同一性ということに関しては感情の場合と同一であるが,
しかし,感情のなかでのように自分と区別なく一つになった神ではなく,その 神を他者として,より高きものとしてみなすことを媒介として,自分と同一化 する神である(4)。その場合,「このく神と私の〉関係くすなわち,信仰〉は,
〈神という〉内容が私にたいしてもっている絶対的な客観性を同時に表現する。」
(XW,146)この絶対的な対象において,われわれは自分の意見や確信を捨て ることによって,自分自身を回復し,そこに真の自由を得るのである。したがっ て,へ一ゲルのいう真の愛の前提として神への畏れとは,神を他者として,絶 対的な力とみなすことによって,自己を放棄する場合の心情であり,この畏れ を介して,神と合一する心情が純粋な愛と考えられる。「かれら(教会や宗教 改革者たち)は,感情,感覚,アイステーシスによって至福(selig)になっ たのではなく,信仰によって,至福に至ったのである。」(XW,146)
ヘーゲルのいう教えなければならない純粋な愛とは,絶対的な客観性として の神にたいして,自己を捨て神と合一する信仰であった。この意味での信仰へ と導くことが,ヘーゲルにとっては,宗教を教えるということになる。表象に とってはその内容は対象性へと高められているのであり,したがって,表象の 内容としての神は対自的に根拠づけられており(sich berechtigen),「内容く 神〉は本質的に自己意識と結合するという必然性」(XW,147)をもっている ということができる。したがって,ヘーゲルは,この表象を媒介にして,上の 客観的真理にたいする宗教教育が可能であると考えているようである。しかし,
一方,ヘーゲルは宗教教育については,このあと特に触れることなく,表象の 限界についての論を展開しているが,客観的真理への信仰のためには,表象の 段階では不十分であり,この段階を超えるべきであるという主張である。表象
によってのみでは,まだその内容は「それについては,ただ,それはそうであ るということのみが知られている,与えられたもの。」(X〜T,147)にすぎな いとヘーゲルはいう。対象性へ高められているとはいえ,その対象は「抽象的,
直接的客観性」(XW,147)にすぎない。したがって,このような客観性にた いしては,内容(神)と自己意識の結合も,それを「私が気にいる」とか,
「精神の証がこれを真理として教える」とか主観的なものとなる。「たとえば,
神の化身という無限の理念一この思弁的中心点一は,そのなかに非常に大きな 力をもっているので,不可抗的にまだ反省によって曇らされていない心情に押 し入ってくる。」(XW,147)「神の化身」は,神を単に主観の対象で客観とす ることによって,ヘーゲルの高く評価するところであるが,表象の段階におい ては,この私と,化身としての神との連結はまだ必然的結合として展開されて はいない。したがって,神は,気に入るとかいったような「本能的ななにか」
(XW,147)として現れるにすぎないのである。「あるいは,その上に,いか に宗教がおどろくほど広まり,数百万の人々が宗教のなかに慰めと満足と尊厳 を見いだしたかということが省みられる。」(XW,147)数百万人の証(あか し)というこの事実を前にして,自分の意見(Meinung)から後退し,宗教の 権威を受け入れるということはよく見られることであるが,ヘーゲルは,この
ような形で,自分の確信が普遍的なものの権威に屈服し和らげられるのは,
「ゆがんだ転向」(XW,148)であるといっている。この場合,数百万の人が,
それは正しいに違いないと見なしたという推測も根拠も,主観的,偶然的なも のが混ざっているから,もう一度,事柄をよく見てみれば,事態は変わるとい う可能性をもっている。この数百万人の証(あかし)に,「宗教の真理に対す る証明」(XVI,)をみる護教家たちは,「神は表象されるべきものを人間に啓 示した」(XW,148)という。これまた一つの権威にすぎない。
護教家たちによって示された神の啓示も,最高の神的権威でありながら,ふ たたび根拠づけが必要となる。「なぜならば,れわれは,神が啓示したときに,
その場に居合わせなかったからであり,神を見なかったからである。」(X〜贋,
148)こうしてみると,それを物語り,それを保証するのは,いつも他者にす ぎない。歴史的なものを体験した,あるいはそれを最初に目撃者から伝えられ た他者の証言が,護教論者たちによって時間空間を超えた内容として確信とな るのである。「しかし,この媒介は絶対的に確実ではない。というのは,ここ では,われわれと内容(神の啓示)のあいだにある媒介,すなわち,他者の知 覚がどの様な性質のものであるかが問題である。」(XW,149)からである。
ここでヘーゲルは知覚する能力に「散文的な悟性とその陶冶」(XVI,149)を 要求する。ヘーゲルは,古代人にはこの陶冶された悟性が欠けていたために,
「詩的なもの(das Poetisches)」と「散文的なもの(das Prosaisches)」(X
VI,149)の対立を鋭く定立することができず,そのために歴史を有限性にお
いてとられるだけで,そのなかに内的な意味を見出すことができなかった。
「われわれは神的なものを歴史的なものへと置くならば,すべての歴史的なも のに固有な動揺するもの,不安定なものへとおちいる。」(XVI,149)この立 場も表象の立場である。漠然とした表象の立場で神的なものを歴史的なものの なかで,両者を鋭く区別することなく捉えるならば,外的時間的歴史を超えた 歴史における内的なもの,実体的なものを捉えることは出来ないのである。つ
ぎの例として奇蹟が挙げられる。「使徒たちが報告した奇蹟に,散文的理性と 不信仰は対立する。そして客観的側面にしたがえば,奇蹟と神的なるものは不 釣合である。」(XW,149)奇蹟を奇蹟として得るのは,また表象の立場であ
る。表象は,感性的なものと理性的な思惟との問にあって不安定である。した がって,偶然的であり,奇蹟を神的なものとして見なす要素をもっている。し かし,神的なものは,先に示したように,客観的に現実的なるもののなかに内 的意味として捉えらるべきなのであり,したがって,奇蹟と神的なものは不釣
り合いなのである。神的なものは理性によって捉えるべきであり,その意味で 表象を超えるものである。
ヘーゲルは,このような表象の立場においては,外面性の形式がまだ残って いるのであり,そこでは心情や,護教論に唯々諾々の反省などは満足できても,
「私は,もっと別のより高い欲求をもっている。」(X〜q,150)という。それは
「私は絶対的に具体的な自我である。自己自身のなかで自己自身を規定する思 惟である。私は概念としてある。」(XW,150)からである。概念としての具 体的自我が,外面性を超えて,その内的意味を求めようとするのである。それ
は,主観的偶然的要素の混ざっている表象の立場を超えて,対象の概念的連関 を求めようとすることである。このような概念的連関を求めることによっての み,われわれの求めてきた神と自己意識の本質的結合の必然性を認識できるか
らである。ここでは,具体的自我は,客観的,普遍的な神的精神を理解するも のとして,その限りにおいて自らも神的精神そのものである。精神は,自分自 身だけに関係しているのである。このような精神の実体的統一において,私は
「自己自身のなかで自己自身を規定する思惟である」のである。「思惟が自己を 規定して,対象を対自的に私に対して確立し,それ自身に置いて根拠づけられ ているようにしたとすれば,〈その場合〉思惟は,自己自身のなかで自己を特 殊化し,特殊において自己自身と同一にとどまる普遍的思惟としての概念であ
る。」(XW,150)このような思惟の働きを,ヘーゲルは「理性的洞察」(XW,
150)と呼んだのであるが,ここでいわれていることは,唯一の普遍的,神的
精神によって対象化された神とそれに対してある私との関係は,自己意識の立 場からみれば,私によって,普遍的なものと主観的なものの統一として捉えら れた具体的な概念としての神なのであるということである。このような理性的 洞察において神と自己意識の結合が必然的となるのである。
ヘーゲルは,「宗教は教えられるか」という問題を提起した。この問題にた いする結論は,表象はその内容を対象性へと高めているので,教えることは可 能であるということであった。ただ,表象においては,神は客体性をもってい たのであるが,それはまだ感性的でもあったために,客観的真理への信仰が真 に成立するには至らなかった。ヘーゲルは,ここで表象の限界については多く を論じたが,伝達可能なものとしての表象の取扱いについては触れていない。
そのために宗教教育の可能性についての論は,必ずしも明確なものではなかっ た。ここでは,宗教教育の問題を離れて,以上の論議を見るならば,この箇所 では,表象の限界と,それとともに理性的洞察への道筋が示されているのであ り,かくて,「表象は思惟の形式へと解体され,哲学的認識が〈表象の〉真理 に付加するのは,形式のかの〈絶対的に具体的なものの〉規定である。」(XW,
150)かくて表象から思惟へと,神的なものの認識は進むのである。
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uしかし,ここから,宗教をひっくりかえして,宗教の内容はそれ自体で真 理であり得ないと主張したりなどすることは,哲学にとってはまったく問題で
はないということが明らかになる。むしろ,宗教は表象の形式においてのみ,
まさに真の内容である。哲学がはじめて実体的真理を与えるべきでもないし,
真理の意識を受容すべく,人類は哲学を待たなければならなかったということ でもない。」(XW,150f)表象から思惟の形式へと高まることによって,単 なる確信や確実性ではなく,はじめて「真理としての,真理の形式における真 理」(XW,150)を認識することができるという立場に立ちながら,ヘーゲル は宗教は表象の形式においてのみ成立するとして,宗教の独自性を主張する。
ここでは,宗教をその役割において哲学からはっきり区別して捉えているとい うことができる。また,「宗教は表象の形式においてのみ,まさに真の内容で ある。」ということは,表象を超えたものとしての宗教を否定していることに なるのである。
「哲学史講義(Vorlesung曲er die Geschichite der Philosophie)」の序文
のなかで,ヘーゲルは,「真の宗教においては,無限的思惟,絶対的精神は自 己を啓示してきたし,また啓示している。とはいえ,自己を啓示する容器は心 胸であり,表象する意識であり,有限なるものの悟性である。」(X皿,90)と いっている。宗教とは,心胸,心情に向けられるものであるから,主観性の領 域,有限的表象の様式の領域に入り込まざるを得ない。宗教において無限なる
ものの本性や諸関係を把握するためには,人間は有限的諸関係しか持ち合わせ ていないのである。すなわち,表象の形式とそれにたいして反省する有限的思 惟の形式だけが宗教的意識の理解し得る唯一の形式であり,この形式において 神が現象するのである。「真にして永遠なるものが知らるべきである以上,す なわち,有限なる意識へと入って精神にとってあるべきである以上,それがま ず意識される精神は,有限な精神であり,その意識の様式は,表象と有限な事 物との関係において存立する。」(X四,91)したがって,ヘーゲルのあげる例 である(5)が,モーゼが神を燃える草むらで見たとか,ギリシャ人が大理石像 に神を意識したとか,真理はまず「感性的に表象された現在する対象として」
(X皿,92)人間に現れてくる。ところで,われわれは先に直観と表象の段階 において,感情のなかで主観に埋もれていた神が対象化されるのを見た。いま,
萌える草むらのなかで,また,大理石の像にみる神は,表象のなかに現れ,他 のものとなり,対象的なものになった神である。それは,先にも「宗教は対象 的な様式で表象しなければならない内容をもつ」といわれていたとおりである。
一方,「宗教においても哲学においても,さらに進んだものは,それがこの外 的な仕方にとどまらない,また,とどまるべきでないということである。想像 の形態,あるいは(キリストのような)歴史的な内容は,精神にとって精神的 なものとなるべきである。それは外的なものであることをやめるべきである。」
(X田,92f)キリストはユダヤにあった個別的な存在者とされてはならない。
彼はいまもなお,彼岸に,天に,神の知るどこかに,現実的な,現にあるあり 方で,神の共同体のなかにいるのである。精神は普遍的なものであり,有限的
な理解にとどまってはならないのである。われわれは,精神において神を認識
すべきである。もちろん,表象においては,精神は対象に内在する実体的なも
のを,まだ真理の形式においては捉えられず,漠然とした形式でそれを認識す
るしかないのであるが,しかし,表象は,対象化された歴史的なるもの,実証
的なものを直接に受けとるのではなく,それらを媒介にして,それらから意味
だけを取り出すのである。以上のように,ヘーゲルは宗教においては,有限な
事物を媒介にして,実体的なものを理解するという段階を踏まざるを得ないと 考える。「即自対自的にある精神にとって,宗教という形態は必然的である。」
(X皿,101)
「思考や概念がまだ一定の訓練を経ていない人間にとってすら,<出来事や 現象としての〉歴史のなかに,何ものかが存在する。人間は,歴史のなかに,
これらのく倫理的な〉力を感じ,それらについて漠然とした(dunkel)意識を もつ。このような仕方で,宗教は,普通の意識にとって,普通の訓練をうけた 意識にとって,本質的に存在する。」(XW,143)ヘーゲルは,宗教は,とく にそのために訓練を受けたのではない,普通の日常的な常識のなかに,漠然と して実体的なものへの意識として存在すると考える。ここに,ヘーゲルの宗教 にたいする基本的考え方があるのではないだろうか。この論文の最初にふれた ように,宗教の意識,神の意識は,ヘーゲルにとって,人間に基本的に前提さ れていたのである。宗教を否定する人間も,その否定的関係において宗教ある いは神の意識と関わらざるを得ないと考えるヘーゲルにとって,「端的に神の 意識」という現実こそ宗教の出発点であったのである。この意識は,いま見て きたように,表象の段階において,歴史などのなかに対象性をもって現れるこ とによって,外的世界における現実性を得る。この段階で,ヘーゲルは,「現 実的なるもの」としての宗教が成立すると考えた。さらに,ヘーゲルは,「神 への畏れは真の愛の前提である」といっていた。神への畏れとは,神を他者と して,絶対的な力として見倣すことによって,我欲を捨てて,神と同一化する 場合の心情であり,そこに神への真の愛が生まれ,信仰が成立した。感情のな かにおぼれた信仰ではなく,それを超えて,このような客観的信仰が成立する ためにこそ,ヘーゲルが必要としたものが宗教的内容としての神的なるものの 客体化であり,それに対応するものが表象の形式における宗教であった。とす ると,「普通の意識」をもった人々が,感情のなかでの主観的信仰ではなく,
絶対的な力,客観的真理としての神に関係することによって,真の信仰へと向 かうには,表象の形式における宗教は不可欠だったのである。
われわれは,いま,表象としての宗教的内容が精神,理性の段階へと高まる
のを見てきたが,ここで現にあるものとしての宗教は,単なる通り過ぎるだけ
の過程ではなかった。現在的,現実的な表象としての宗教を把握することによっ
てのみ,われわれは精神の段階へと高まり,「現実的なるもの」へ到達するこ
とができるのであり,ヘーゲルにとってはこの宗教を離れては神はない。対象
化され,客体化された宗教的なるものと主観との関係においてこそ,客観的信 仰への道が開けるのである。哲学的見地からみれば十分ではないにしても,
「普通の意識」にとっては,現在する宗教の内にのみ実体的真理が与えられる のであり,その意味においては,真理を受容すべく哲学が待たれるのではなく,
宗教の内容はそれ自体で真理であり,真の内容なのである。
引用文ならびに註におけるローマ数字は,
G.W. R Hegel, Werke in zwanzig Banden;Suhrkamp Verlag,1973 の巻数を示し,それにつづくアラビヤ数字はそのページ数を示す。
「参考文献」
Quentin Lauer s. J.;Hege1 s concept of God,1982
James Yearkes;The Christology of Hegel,1983 岩波哲男「ヘーゲル宗教哲学の研究」創文社
「註」
(1)拙稿「ヘーゲル宗教哲学における感情の役割」(茨城大学人文学部紀要『人文学科 論集』第26号所収)参照
(2)cf. XW,135
(3)cf. X〜贋,137
(4)cf, XW,146
(5)cf. XW,92