ヘーゲル哲学の教育的研究 : 「精神現象学」における理性の教育的諸問題
15
0
0
全文
(2) . 第 10 巻 第 1 号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 昭和34年7月. ヘー ゲル 哲 学 の 教育学 的研 究 (その 3) -- 「精神現象学」 における理性の教育的諸問題. 広. 川. 正. 治. 北海道学芸大学函館分校教育学研究室. , Sha i 日[ROKA“′A : Pedagogi j l losophy NO c Studi esof Hege S Phi .3 iona I Proble - The Educat lns of Reason in ‘ ’ ・ Ph l ino] logre des Geistes’ ぱ 1 eI Io. 次. 目 IV. 理性の陶治過程とその諸 問題 まえがき A. ヘーゲルの教育哲学の 歴史的位置づけ B. 「現象学」と「法哲学」 との関連の考察 C. 理性の発展過程の摘要 1 . 理性に至るまでの生成 の過程. 2 . 観察及び実験の教育的意. 義. 3 . 4 . 5 . 6 .. 個性の問題 実践の問題 社会集団の問題 自覚の時期と道徳教育の. 条件. 7 . 訓育の問題. IV 理性の陶冶過程とその諸問題. 〔ま え が き〕 1955年8月, 北海道大学での日本教育学会で, この小論 「その 2」 の 「自己意識の発展過程」 に ついて発表したさい, つぎの二点について批判され, 問題になった, その一つは, ヘーゲルの教育. 哲学の歴史的位置づけ如何, ということであり, もう一つは, 「現象学」 と 「法哲学」 との関連如 何, ということであった, この機会にこの問題に一応ふれておきたいと思う, , A ヘーゲル哲学を教育学の立場から歴史的に どう位置づけるか, というとき, われわれは彼の. 哲学の教育的重点を何処にとらえるか, ということがまずさきに規定されていなければならない. ヘーゲル哲学の教育学的把握の如何によって歴史的位置づけも異って来る, この点についてはわれ 1 ) で, 「法哲学」 の立場にではなくて 「現象学」 の立場に重 われはすでにこの小論の 「その1」 , 点をおくこと, さらに 「精神現象学」 の教育的性格を, マルクスの批判に従って, 逆立ちしている 観念的弁・証法をしっかりと足で立つ立場に復位せしめた上で, 教育作用を弁証法的な自覚的発展過 程とする点にとらえることを簡単ながら指摘しておいた, 重複を避けたいと思うが, も し 「法哲 2- - 20.
(3) . 広. 川. 正. 治. 学」 の立場において彼の教育哲学をとらえるならば, いわゆる国家至上主義の教育学として, ある いは他律的 ・強制的教育として, 民主的に発展 して行か ねばならない現代の教育には, 彼の教育哲 学はすでに亡びたるものとなるであろう, 彼の歴史哲学の立場が, 彼の論理学における弁証法的発 展をみずから否定する体系的終結という矛盾に陥 ったと同様の運命を教育哲学もまた負わねばなら. ないであろう, よしまたかりにその弁証法を論理的方法としてとらえたとしても, 観念的に逆立ち した ま ま を 肯 定 す るな ら ば, シュライ エ ルマ ッ ハ ー と は そ の 性格 を 異 に しつ つ も, 結局 は プ ラ トン. 的対話の完成としての境を脱しないものとして, 次第にその弁証法的性格を歴史の面から消失して しま うも の に す ぎな かっ た であ ろ う,. われわれがヘーゲルの弁証法を教育哲学の立場から問題にするゆえんは, 前述した通り 「精神現. 象学」 において特にあざやかに示されている自覚的発展の過程を, 客観的環境での生きた具体的な 生活経験の理論的把握として理解しようとするからである, もしそうだとすれば, 観念論哲学の頂 点 と して の ヘ ー ゲル の 弁 証法 か ら マ ルク ス の 唯 物 弁 証法 へ, そ して レー ニ ンの 弁 証法, ス タ ー リ ン. の弁証法, 毛沢東の弁証法と現代に発展して来ているように, 換言すれば, 近世に至るまでの唯物 論, 機械的唯物論を正しい唯物論に発展せしめた契機としてのヘーゲル弁証法と同様の意味におい l i dung ) の弁証法を, 観念的教育哲学いわゆる哲学的教 て, われわれはヘーゲルの形成的発展 (B 育 学 と して の 教 育 哲学 で はなく, 「生活 が 陶 冶 する」 と い う ペ ス タロ ッ チ-の 教育 を, デ コ ーイ の. 方向にではなく, 正しく唯物史観の立場に立った教育の哲学に発展せしめる契機にすることができ ようかと思うのである, ヘーゲル哲学における 「発展」 は弁証法的転化としてとらえられている点. は, われわれの教育哲学にもとり入れて生かさねばならない, なるほどそれは客観的実在の発展の 弁証法ではなく, 概念の自己発展の弁証法であり, 一般的精神という純なるエーテルの中での幻想. 的なものであったとしても, われわれがそれに強い魅力を感ずるゆえんは, 生きた具体的な現実生 活の客観性そのものの反映であったからにほ かならない, 以上のような意味でわれわれはヘー ゲル の教育哲学を理解し, それを観念哲学の蝉としての教育学から, 客観的現実生活が陶冶するという 教育哲学への転換点に位置ずけようと思う, B 「現象学」 と 「法哲学」 との関連ということが問題にされたねらいは, 時間の関係で充分理. 解されなかったけれ ども, どうやら方法論としての 「現象学」 と, 目的論としての 「法哲学」 との 関連という意味のものであったようである. 「その1」 のまえがきですでに簡単にふれておいた通 り, 「法哲学」 は彼の手によって公刊された最後の著作であり, その任務が, 「理性的なものは現 実的, 現実的なものは理性的」 という立場から, 現実の精神界を永遠なる精神の客観的実現として 理性的に組織することであった, しかし結果としてはそれは現実との宥和を標梯するに至り, 経験. 的・相対的なものを永遠なもの・絶対的なものとする傾向をもつに至ったことは否定できない. こ こにこそ彼の哲学が反動主義的であると非難される根拠がある, かかる意味からしても 「法哲学」. ldung) の考 え は, エ ン ゲ ル スも 批 判 して い るよ う に2 ) フ リー ドリ ッ ヒ , ヴ o に お け る 「陶 冶」 (Bi. イ ルヘルム 三世がその臣民に一度ならず空約束に終 らせた身分代表君主制を肯定し, 十八世紀末か ら十九世紀初頭に ドイ ツに存在したプロイ センの反動的な国家に奉仕する教育を肯定することにな ることは明らかである, しかも彼の国家観たるやすでに指摘した通り, 全体主義的国家機構の中で の教育なるがゆえに, 必然的に国家至上主義への強制的教育とならざるをえないものである, かか. る性格の教育目的を今われわれは肯定することはできない, もし 「方法論」 というとらえ方に従っ て, それは 「目的論」 によって限定されねばならないものとするならば, その限りヘー ゲルの教育 哲学を論ずるものは 「法哲学」 における思想を除外することはできないでもあろう, しかし果して. そうなければならぬものであろうか .「精神現象学」 序文において 「問題となる事項はその目的の 3【 - 20.
(4) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その3) 【 ihrung) の 中に つく さ れ て お り, 結 果 も ま た 中 に つく さ れ て い る の で は なく て, そ の 実 現 (Ausf. t seinem 駅′ erden) 現 実 的 zus ammen mi 現実的なる全体ではなく して, その成立過程を併せて ( ) がいまだ現実を欠ける単なる生長であると 同じように, なる全体だからである, 傾動 (Tendenz. Igemeine) で あ り, そ う して む き 出 し 目的はそれだけでは生命なき一般者 (das unlebendige AI 3 ) の結果は傾動を背後に残した屍である. 」 と彼がいうその考えは, どこまでも 弁 証法的であり, ゲ 一般にヘー ルにあっては 発展的である, , あるものが何であるかは, それが どのように して生成 esen) こ と に よ っ て 規 定 せ られ る. erwi (werden) して 来 た か と い う こ と を 証 示 す る (. あるも の. i はそれの先行形態の道程における ( ) 規定にほかならない, 彼がそれまでの形而上 ege n dem Wr da s 学的観念論を批判しているように, 先行の道程を表示せずに, 無 媒 介 的 に登場するもの ( i l i i h t t b G lbare Auf i tte t reten) は抽象的な無媒 介 的 確 信 ( e ne unm e are ew ss et) と して, unmi. 実は自分の意見を把握することも, 自 分の意 見を他人に把握せしめることもできない全くの断言 i した が って, 目 的 を さ き に前 提 して の 方法 とい う意 味 i (Vers cherung) に 終 止 す る も の で あ る.4. で 「現象学」 はとらえられているのではないし, とらえてはいけない, 始めにふれたように, われ われがヘーゲルを問題にするゆえんは, 彼のつく り出した体系的結果を重視するからではなくて, 彼の弁証法的方法にある. しかも観念的思弁のエーテルの中に おいてではなく, 現実生活の実践過 程の自覚的反映としてとらえるかぎり, 「法哲学」 の思想に規定せられることなく,「精神現象学」 をそれの特質において考察すべきであろう. in) の発 lbs in) 及 び自 己 意 識 (B. Se tbewuss t se tse C さ て わ れ わ れ はす で に 意識 (A. Bewuss. t ) を考察する段階に至った. 理性についての教育哲学 rnunf 展過程を考 察 し, いまや理性 (C . Ve 的問題を検討するに先立って, 理性の段階を概観 しておくことにする, 意識は自己自身の分裂, 他在に対する否定的関係から再びそれを自覚することによって, 肯定的 関係へ転化 し, 自己自身へと復帰する, 理性とはあらゆる客観的実在性の帰属する彼岸なるもの が, 自分の外にでなく, 自己自身の中にあることを発見するに至った意識であり, 「あらゆる実在 ) 」 である, 理性としての意識は, 一切の実在は現に自己自身にほかならないこ であるという確信5 とを知るものとして, 対象についての意識と自己について の意識とが弁証法的に止揚されたものと ) 理 性 (C, Vernunf t ) は い えよ う, か か る理 性 的 意 識 は, す でに 精 神 の 発 展 段 階 で示 した よ う に,6 V f i t 2 1そ d ){ r しての理性 e n u n (a さらに ( 1 )意識の確実性を真理性に高める運動における理性と , e. i t )t )絶対的精神における絶対的 3 s の確実性が真理にまで高められた理性と して の 精神 (b . der Ge l i i i 4 1絶対的精神 の概念的自己把握である学と )( on e Re c 真理性の直観的確実性 としての宗教 ( g .d ssen) へ と 発展 して いく の で あ る, と こ ろ で わ れ わ れ がと りあ して の 絶対 知) d , das absolute Wi. えずここで問題にす るのは, 広義 の理性ではなく, 狭義のそれである,. 自己意識として発展 して来た意識はいまや, 理性として自己を確信するのであるが, それは自己 自身が一切の実在性であるという意識の確信であり, 事物の内的本質がいまや理性の本質と一致す ることを意味する, したがって, かつては対象によって対象を説明しようとした意識は, いまや思 惟によって対象を説明しつくすことができなければならない, そこで理性のなすべき仕事は, か. る確実性を真理性にまで高めること , 自 分 の 信 じて いる こ と が 真 理 で あ る こ と を 証 明 しな け れ ば ならない, この向上の道程はつ ぎの三段階に分けられる, i t ) --an s ende Vernunf ch の段階 1 ( ) 観 察 的 理 性 (Beobacht igen inft i chung des vernt 性的自己意識の自己自身による実現 (Die Verwirkl 2 1 理- { i lbs t i t ) --f rs ls e ch の段階 ch sicl wusstseins dur. selbstbe←. l i l i ta t ch an che s e 工ndividua 鎧) それ自身において実在的であることを自覚せる個人 (Di , we 4- - 20.
(5) . 広 i 【 i t ) rs und f s ch selbst reelli .. 川. 正. 治. i an und fdrs ch の段階.. 観察の段階では理性は理論的な態度で, 世界には理性があり, 世界が理性であるということ, 自 然的事物の間に理性自身あるいは概念としての法則を発見しようとする, しかしただ観察するだけ では経験的認識の一 切を貫く ことはできない, 客観的現実生活 の実際はただちに概念の連鎖ではな い, 自然を観察する理性は自然における具体的存在, 生 成 発展の余りにも多い偶然性に迷わされ て, そこに究極的に自己の姿を描き出すことはできない, いわば 理 性 の本能的段階であり, an. i s ch の段階といわれるゆえんである, かく して理性は実践的に 実 現せらるべきものであることに. 想到して. f i t i rs ch. の段階へと移行するのであるが, 自然の観察において所期の目的を果しえなか. った理性は,むしろ自己意識そのものを純粋に観察して人間の意識生活の法則を究明しようとする. ここで求められる心理的ならびに論理的法則は結局形式的であって, 意識の実在的個性を把握する ことができない, ことに自己意識の純粋性と外的現実との相互的影響に関しては, 心理的観察では 何らの法則を発見することができない, そこで理性は自己意識の直接的な実在を求めようと して内 的 ・ 心 的 なも の を, 外 的 ・ 身 的 な も の に よ っ て 評 価 しよ うと 試 み るの で あ る, ここ に人 相 学 ・ 骨 相. 学および手跡鑑定学なるものが問題にされる. しかし人相や頭蓋骨は 「内的なもの」 の直接の表現 ではなく, つまるところ偶然的関係にすぎず, 理性の法則は発見できない ここに至って理性は , , 外部は内部の表現であるという盲信から目ざめて, 真に理性の要求するところは, 内部自身の本質. を具えているような外部を見出すのでなくて, 実現することであるとみる. 理性の要求とは, 世界 は理論的支配下に あるものと自覚するだけでなく, む しろ世界が理性の客観化による実現であるこ とを実践によって確証することである, いいかえれば, 客体に自己の実在をみい出すのでなく, む しろ自己の実践的行動によって世界に自己を実現 し, 自己を創造しようとすることである 理論理 , 性から実践理性への移行である, この行為 的実践理性はさらに 1.快 楽 (Lust) 2 .心 (Herz) 3 .徳 ) という三段階に細分される, 実践理性が自己を実現するところは 「人倫の国」(Rei (Tugend ch. l i i der Si t t t ) であ る, こ の 理 性 の 行 為 の 目 的 は, したが っ て 人 倫 性 で あ る が, そ の 第一 段 階 は chke. 快楽を追求する個人主義の段階である, しかしかかる個性は 「必然性」 (No i i twend t ) の前に gke は脆弱であり, 無力である, そこで第二段階では理性は内に心の幸福を求める, 心に法則を与え, 「心の 法 則」 (Gese t ) を 世 界 に 実 現 し, z des Herzens. この 法 則 に 従 っ て 世 界を 改 革 しよ うと す. l i る. けれ ども現実世界には心の 法則とは対立する 「神々や人間の秩序」 (g6tt che und mensch一 1 i h o d e c ) が支配 していて, 個性の窓意は認められない, やむなく理性は幸福をあきらめて r nung. 普遍的客観的法則を義務として認め, 義務のために主観的個性を犠牲にして, 社会に即して善を実 現 しよ う とす る, こ れ は す な わ ち 「徳」 の 実現 で あ り, こ こに第 三の 段 階 が ある,. i i rs ch の段階であった, その段階の終りで理性は客観的な徳の 実 現に 向うのである 以上は ft l l t ) と衝突する, 人格的個性の有徳は必ずしも世間に通用しな が, そこで徳は世間の動き (We aut. い, それどころか実践理性の弁証法的運動は, かえってこの現実の世界の動きこそが単なる 「徳」. よ りも 高 く 強 い こ と を, そ こに こ そ理 性 的 普 遍 性 が 実現 され て いる こ とを 悟 ら しめる の で あ る, か. l laut t ) と の たた か い に お い て, 理 性 はそ の 行 為 的 実践 に よ っ て自 己 く して 「徳」 は 「世 路」 (We. が実現されるのではなくて, むしろすでに世路の うちに実現せられていることに気づき, 再び理性 の 観想的態度が承認せられ, 個人は社会化せられて, 社会のうちに安住するようになる. これがす. の 段階であり,「それ自身において実在的たることを目覚せる個人」 の段 i i 階 で ある, いまや理性は an s ch における 「実践」 とを anfheben ch における 「観 察」 と fdrs i l i lndivdua tat ) と して現 われ る, この 個人 は, 自 己 の確 実 性 はあ ら ゆ る 実 在性 で した 「個人」 ( あるという観念をすでに所有 しているものである, この個人が自己の個性に客観的表現をあたえた. なわち. i 【 i an und f rs ch. - 205 -. . ● , . ● . ●. . ・ ● . ● . ● . ・ ● ● . ・ ● . . . ● . ● . ● ..
(6) . ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その3) も の が 「事 そ の も の」. lbs t ) で あ る, これ は 行 為 と 存 在 と の 統一 で ある, ache s e. かか る 行為 の. 成果は, いわば作品または生産物として批判され, 評価される ことになる. ここに生産者と批判者 との対立が生ずる. 前者は 「立法的理性」 (Di e gesetzgebende Vernunft) で あ り, 後者は 「査 ‐ i i ch 法的理性」 (Di e gesetzprtfend Vernunft) で あ る, この 二 段 階 の対 立 を 経 た an und fdrs. i t ) が誕生するのである, s な実在が個 々人の意識のうちに渉透するときに 「精神」 (Ge i t (註) 1 c on A. Vol .p .87~89 .6 , No .1 . . 本紀要, Se l ba 2 r s: Fe ue ch . 参照 . 青木文庫版 p.17 . Enge 3 nenol ogi e .S .il . . Phano・ i i d s 7 6~1 78 1 b 1 4 V g . . . . . id 5 . . 176 .S . ib ,178 ion A. VOI S t 6 紀 要 e 本 c .6 .l p .91~92 . , No . ,. 1 理性に至るまでの生成の過程 理 性とはあらゆる実在であるという意識の確信であるが, この確信はフィヒテのいわゆる 「自我 は 自 我 であ る」 と い う 命題 の 自 覚 に ほ か な らな い.. この 命 題 に お い て,. 自我 に と っ て対 象 で あ る. iberhaupt) に お け る が ご と く, erdet 「自 我」 は, 自 己 意 識 の 段 階 で の欲 望 一 般 (Begi. 感 覚的 確. 信や知覚の対象という自己意識にとって消極的な性質のものでなく, また自由なる自己意識におけ. るごとく, 否定的な対象でもない, それはいかなる他のものも存在しないという意識をもった対象 l i l l t tat und Gegenwar ) であ る. つ ま りあ らゆ であ り, 実存 し, 現 在す る す べ て の も の (a e Rea. る実在は自我にほかならないという確信が理性の自覚である, 理性のかかる自覚が主観的になり立 つのみならず, 客観的にも成立するためには, 自己意識がかかる理 性にまで生成する (werden) , i あ る い は か かる もの で あ る と い う 実 を 証 示 す る ( erwe sen) 過 程 がな け れ ば な らな い,. そ の道 程. は, 第一に私念と知覚と悟性との弁証法的運動において, 即目的なものと しての他有が消失し, 第 二に主と奴との関係における自立性を通ずる運動において, さらに自由の思想とスケプシス的解放. と, 自己分裂的な意識の絶対的解放を希求する闘いを通ずる運動において, 対目的であるにすぎぬ かぎりでの他有がみずからそれに対して消失する, この即目 的段階と対目的段階を発展的に止揚し. えてはじめて理性に至るのである, しかしその理性もはじめは右の道程を背後に忘却して, 無媒介 的に, ただ真理の確信として登場するにすぎない. つまりこの理性は一切の実在であると断言する i (vers chern) だ け で,. こ の こと を 理 解 して い な い .. しか して ヘ ー ゲ ルは 右 の 忘却 さ れ た 道 程 こ. 1 ) この把握は重要 そ, この無媒介的に表明された主張を自覚的に理解させるものであると考える. 訳 了 v 「 e r e s s e n e ) j な問題を含んでいる, 彼のいう 忘却された過程」 ( eg な しに, 現 在 の 理 ene r g 性ではありえなかったのである. 現在の即目的な理性がよ しそのことを自覚していないとしても,. 否定することのできない過程である. ヘーゲルは彼 以前の観念論を批判して 「空虚なる観念論」 と i いう. それが空虚なる理由は, 一切の実在であるという確信も, 単に 「私のもの」 (me ) である n ことを指摘するだけで, この 「私のもの」 が完全に実在であることを指摘したかのごとく妄信する からである, 空虚なる 「私のもの」 を充実するた めには, すなわち, それをあますところなく発展 f 形成するためには, 外来の障害 ( r emde r Anstoss),を 必 要 と す る, しか る に 従 来 の 観 念論 は 純粋. 意識を一切の実在であるとしながら, しかも外来の障害をも等しく実在であるとするニッの相矛盾 する思想を結合することなく, かえって一方から他方へ, 他方から一方へと去来紡錘しているにす ) そ れ は 統 覚 の 統 一 と と も に 「物」 (Ding) を つ ま り 対 立す る も の を と も に 実 在 と す ぎな い.2 , ,. る矛盾をもっている. この 「物」 は外来の障害と呼ばれようと, 物自体と呼ばれようと, 統覚の統 一にとっては外来のものである, カントやフィヒテがかかる矛盾に陥っているのは, 理性の抽象的 6一 - 20.
(7) . 広. 川. 正. 治. 概 念を も っ て 真 理 な り と 主張す る か らに ほ かな らな い 3 ) . ヘー ゲ ル の この考 えを 堀 り さ げ る な ら. ば, フィヒテ的観念のエーテルをつき破って, その外から対立する 「物」 を弁 証法的に統一する経 験の道程を 生かさ ねばならない, それならばわれわれはまたその弁証法的方法に従って, ヘーゲル. の意識のエーテルを突き破って, 客観的な現実生活の 「物」 的な実在との対 立を経験するのでなけ ればならないであろう. その実践によって意識に反映されたものであればこそ, 忘却された道程が 自覚されたとき, 死せる空虚な観念としての理 性でなく, 生きて発展する現実的な理性でありうる. のである, かく考えるとき, かれの空虚なる主観的な「私のもの」を充実するためには, 感覚または 表象の多様性の源泉であるところの客観的な 「物」 的世界を必要とする. これまでの意識にとって は, 「物」 に お い て, いく た の も の を 知 覚 し, 経 験す る と い う こ と は, た だ 生起 す る (geschehen). 4 ) かくいうとき, その経験 にすぎないけれども, 理性的意識は自分で観察し, 経験するのである. が即目的に生起するものであるにせよ, 対目的に実践 されるものであるにせよ, 物的世界の反映で. あるのでなければならないであろう, これまでの道程を背後に忘却して, 無媒介的に断言するだけ の理性に止まるのでないためには, 客観的な現実生活での実践によって, つねに媒介されていかな l i i t ければならない, 「哲学の内容は現実 (Wi ) でる, ……この内容を最初に意識するもの rk chke ) が経 験 と いわ れ る.5 」 と い う ヘー ゲ ルの 主 張 に よ っ て,. いっ そ う この こ とを 確 信す る, か く 理 解. してこそ, 観念的なエーテルの枠内で, しかも現在に止まってしまう傾向をもつヘー ゲルの教育哲 学を, 正しく弁証法的に未来に発展せしめることができるであろう. このことからわれわれの今後 の教育哲学に方向づけられるものは, 何よりもまず人間性の陶冶において 「物」 的な (ここで論じ. られた外来の障害としての) 客観的現実生活の経験が重視せられねばならない, そして遺伝と環境 との問題にしても, それらは 「二つの対立であり, 両者間の闘争は, 有機体の発展変化, より低い. 形態からよ り高い形態への運動の原因源泉となる, この対立の一 方,遺伝は,現存するものを保存 し. ようとする保守的原理であり, 対立の他方, 有機体の環境への順応変化は, 既存のものに対抗し, 6 ) という教育的原理 にな 古い遺伝質とたたかい, それを変化させ, 新しい特徴を遺伝質に加える」 る で あろ う,. i l (註) 1 nomenologi e . Vg1 . . Ph .S .176~177 i i 2 V 1 b d S 1 8 8 1 0~1 g . . . . . i b d 3 .i .S.181 , 4 ibd .i .S . 183 .. lopadi 5 e ・ Encyc .s 6 . l i j: Marks j Dたdekt i 6. M. M. Rozent j Me t a s ski cheski t od . 青木書店版 p.256~257 参照. 2 観察および実験の教育的意義 1 )ヘ ー ゲルに よ れ 観察するということは感覚的散乱を 一般者によって限定することで あ る.. immthe i ば, 限 定す る と い う こと・(di t in das Entgegengesetzte e Best ) は対 立 者 に 移 行 す る ( 2 t ibergehen) こと である ) か ら, 理 性 者が観 察す ると い う の は, 今 ま でた だ漠 然 と無 意識 的 に外 界. を眺めていたその無活動な受動的態度をすてて, 対象をわれに対するものとして積極的に観察する のであり, 自分の反対者へ実践的に関係することを意味する. いうまでもなく 観察によってか , くかくのものと判断するかぎり, 一般者によって限定するのであり, 対象をそれぞれの 「標識」. l (Merkma ) に よ って 区別 し, 他の も の との 関 係に お いて 比 較 して いる の であ る そ して そ の観 察 ,. がある偶然なものでなく必然的な定有となることを, その本能に従って求めるかぎり 理性本能 , ins inkt t t (di ) (な ぜ な ら こ の 観 察に お いて は 理 性 は 単に 本 能 的態 度 を と る に す ぎな い e Vernunf. i”) と を 求 め る こと に な る かく して 観 察 と い う 現 実 生 から) は法 則 (Gesetz) と そ の 概 念 (Begr , - 207 一.
(8) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その3). 活での経験は, 標識を通して法 則にまで発展するのであるが, そのためには対立するものへの実践 的関係が, つまり弁証法的統一が不可欠の条件なのである, しかもここに, 彼も主張しているよう に存在す べきものは事 実においてもまた存 在するのであり, 存在すべきのみで存在することのない 2 )とわれわれもまたいわざるをえない. これを裏がえせば, ものは, 何らの真理性をもっていない」 l l en) で あ i ch) 反 映 こ そ ある べ き も の (So an u. fdr s 現 実生活における 「物」 的経験の実践的 ( ちえない る学習も真理性をも るということ, この 「物」 的現実に対す る実践的経験なしに はいかな こ と で あ る. 逆 に そ れ が あ る と き に の み, い き い き と 存 在 は 当為 へ と 向 上発 展 す る こと が でき る の で あ る, そ して こ の こ と は よ り 正 しく 「実験」 に 妥 当 す る で あ ろ う,. )法 則の真理性を実践的に点検・ 実験はさらに観察によ ってえた法則について行われるのであり,3 iを研究す 吟味す るのである, なぜなら, ヘー ゲルにおいては, 現実および経験との一致こそ, 法則 4 ) 理性的意識 からであり る であ , るその哲学が, 正しいか否かを決定する少く とも外的な試金石 びに形 問の生成なら 哲学的学 のみでなく ばならない と一致しなけれ 観察 ) も, ただに自然経験 ( , 5 ) なければ び条件とする ので i l dung tehung und B ) は経験的物理学 (実験) を前提およ 成 (Ent s ならないからである, 以上のことから, われわれは効果的な教育活動にとって, 実践による吟味こ そ 死 活 を 決 す る か な め で あ る と い う ことを 知 る こ と が で き る で あ ろ う, な お こ こ で 注 意 して お か ね. ばならないことは, 対象をそれぞれの標識によって区別することができるためには, 同時に他のも のとの関係において比較されるのでなければならない, 存在す べきものが事実においても存 在する ‐それが真理性をえるのも, 現存する多くの他のものとの比較に おいて, 一貫して関連 ものであり, づけられることによるのである, そこに概念が生まれる, 法則も本質的には概念としてあるのであ ) 求 め られ る の で あ る, ヘー ケ ルは こ の現 i i t l )? chke s seiender Wirkl a り, 存在する現実として ( ) このことは法則が対 実を, やがて理性本能に とって消失するはずのものとしてはいるけれ ども,2 ) こと in)2 象 と して 偶 然 的 な も の でな く, 必 然 的 な も の と して現 実 に存 在 す る (notwendiges Dase. を意味するものとして強調すべきである. i i (註) 1 no l nenol ogie .S .188 . . Ph id 2 b .S.189 . .i i b d 3 .i .S .191 . E lop i i di 4 n e cyc .昼 6 . . i d b 5 .S 246 . .i. 3 個 性 の 問 題 ヘーゲルにあっては, 普遍的なものは世界史の主体としての民族精神であり, 世界精神 であっ て, その合理性の前には, 個人は影をひそめなければならないものにすぎない. またキコルケゴー ル的に, 彼には倫理がない, 主体性がない, といわれる, すべて個別的なものは全体の発展 の一契 機たることによってのみ, その真理性と現実性を獲得 し, かかるものとして のみ, 具体的に存在す 1 )そ る, だから個性を個性として教育するという個人的見解は ここに一掃されなければならない. うした見方が果して正しいであろうか, 確かに 「法哲学」 や 「歴史哲学講義」 において結論づけら れた客観精神や世界精神においては, 個別的なものはすでに絶対的に否定されているでもあろう,. けれ どもだからといって, 教育という立場から見るとき, 人 格的個性は無視されているとい えるで あろうか, 個人か集団か, 個性か普遍性かというように, 問題を抽象的・形 而上学的に, 時間的発 展過程を考慮しない形で提出す るのでなくて, 人倫的精神を長い弁 証法的発展の結果としてとらえ る, した が っ て, 個 人 も 集 団 も は じめか ら 出 来 上 っ た も の と して, あ れ か こ れ か と い う の でな く,. 弁証法的発展の過程において, それらは契機として自覚されていくのでなければならない. はじめ - 208 -.
(9) . 広. 川. 正. 治. から個性を個性として教育するということが果して正しいであろうか, 単にロマ ン主義的に個人の 自由を強調するとき, それは結果として放縦を意 味するように, 主観的に個性をとらえるなら, 偶 然的異常性をこそ教育的とする危険に陥るでもあ ろう ヘ←ゲルにとって, 理性の発展段階におけ , る個性はいかなる意味をもつであろうか,. へ←ゲルにとっては, 自我は普遍性であると同時に, 個別性でもある 自我はあらゆる規定性 , と内容を抽象し, 自己の中に溶解 した統一と しては普遍性であるが 自己を他者と対立させ 他 , , 2 ) したがって, 論 理 的 に は普遍 (das 者を排斥する否定的規定性としては個別的な人格である.. Igeme AI ine) も 個 別 (das Einze l l l e) も, そ れ ぞ れ 自 分 の 中に 他 者 の 規 定 を 含む も の であ り, と i l i ) 有機 的 生 命 に あ っ tat もに全体性 (d ) と して 全 く た だ‐一つ の も の (nur Eine e Tota ) で あ る.3. ては, 一方の極が一般者としての類 (Gat tung) であ り, 他 方 の極 が個 別 者 と して の 個 体 ( lndivi - duum) であって, 両者は種 (Ar t ) によって媒介されている. 両者はいわば具体的現実としての ) したが って何ら実在性のない全く形式的な立場からすれば 個 「種」 の両契機として存在する.4 , 別性と普遍性とは, あれかこれかという対立と してみられもしょうが, 具 体 的 実 在性の立場か らは, 弁証法的両 契機としてとらえられるのでなければならない 個 別 は質的な一者であり, ま , in qua l たは 此の もの ( i ives Eins oder Di ta t e ) であ る. そ して ま た 個別 は自 己 自 身 の 反 織 eses i (Repul s on) であ る, そ う い え る た め に は 多く の 他 の 一 者 (di i e vielen andern E ) が前提さ ns. れておろし, この前提された多くの他に対して, 個別は否定的関係をもつ そのかぎりにおいて個 .. ) こ の よ う に 論 理 学的 に は 実 在 す る も の が 単な る 抽 象 でな 別 は 排 他 的 (auss chi essend) であ る.5 ,. く, 全く形式的なものでないかぎり, 両項に分裂するものであ り 内容と形式との統一である か , , かる 統 一 と して の 個人 の 心 理 学的 一 側 面 と して と ら え ら れ る も の が 「個 性」 ( lndiv i l i dua tat ) であ. る. 個性の一方の側面が個性自身 (di ividua l i lbs t艶tse t e lnd ) で あ り, 他 方の 側面 をな すも の は,. そ の 一 般 的 な る 非 有機 体 的 自 然 ( ihrea l lgeme ine unorganiscl tur le Na ) , つ ま り 見 出 さ れ た 環 境・. 境遇・風俗・宗教等である. これらの一般的な社会的・文化的環境 (駅r l t t ) から一定の個 e zus and ) したがって 論理的・形式的にいえば 一般的な環境を 個性自身と 性がつくられるのである.6 , , , いわ れ る 「こ の 人」 の 「こ の」 と い う 限 定 によ っ て 写 しと られ た も の が . 「個 性」 に ほ かな ら な い. であろう. しかしそれが 「個性」 であるためにはさらに かかる両側面の関係は これらの一 定の , , 環境が個性にいかなる作用と影響をおよぼすかという, じ ・理学的な面を 含んでいなければならない. 個性は一般的側面として風俗・習慣な どの現存の社会 的・女化的環境に適合したものとなるが 同 , 時 に ま た, こ れ ら に 対 して反 抗の態 度 をと って これ ら を む しろ 変 革 し あ る い はま た こ れ ら に , , ,. 対して全然無関心の態度をとって, 社会環境からの影響を拒否しさえもする したがって, 「何が , 個人に対して影響をおよぼすべきか, またそれがいかなる影響をおよぼすべきか, は個性自身によ 7 ) ってのみきまることなのである. 」 個性は個人が自己を現実と して表示するために, その行為の 境 i 界 (Kre in日i s) を き め る こ と であ り,あ る い は個 人 が 自 己 に流 入 (e esen)して 来 る現 実 の 河 流 を 放 ) とす れ ば 個人 が 任す る こ と も あ れ ば, ま た こ の河 流 を 断 ち 転ず る こと も あ る と こ ろ に こ そ あ る8 ,. 個人としてとらえられるのは, 一方ではこれらの社会的・女化的環境が現存していなければならな い. 他 方 で は 「こ の」 一 定 の 個 性 の う ち に ( in dieser bes immten lndividua l i t at t 」 限定されるの. でなければならない. 「この」 によって限定する働き, そうした弁証法的否定性が, 個性を個性た ら しめ る も の であ る. し か も そ の 否 定 性 は, 現 存 の 社会 環 境 (We l t tand) の 中 で 生 活 して い る zus. もの, それなしには生存 しえない個人による, その環境・考え方・慣習の限定だということを忘れ てはならない, かく考えるならば, 「この」 による一般者の弁証法的否定性は, 教育的には自覚で. あるといえるであろう. すなわち, 社会的・女化的環境においてこそ生存 しうるものの, その社会 9- - 20.
(10) . へ←ゲル哲学の教育学的研究 (その3). における 「ここ」 という場所的自覚である, また自由が必然の自覚であるよう に, 個性は個人を含. i む 社 会 の 歴 史 的 発展 の 流 れ(F1 esen) に お け る 一 応 の 成 果 と して の 「いま」 と い う 時 間 的 自 覚 で あ る, 以 上 に よ っ て ヘ ー ゲ ル の い う 個 性 は い か な る も の であ る か を 理 解 す る こ と が で き た, も しか か る. ものとして 個性を理解するならば, 個性はその個人が生活 している社会環境との相互関係, しかも その個人の成育過程における環境影響から観察されなければならず. さらには成長過程にある児童 生徒の個性は, 彼をとりまく社会環境, とくに他の子 どもたちとの関係, 何よりもその子 どもを含. む仲間が 「集団」 へと質的に成長発展していく過程でこそとらえられ, また育成されるのでなけれ ばならないであろう. 「個別」 と 「一般」 との, 環境的境界における空間的限定および生長発展の 流れにおける時間的限定という二重の弁証法的影響を教育的に形成組織することが考えられなけれ ばならないであろう, ヘーゲル的には無自覚的・感覚的個人としての個別性を, 「類」 と 「個」 を 媒介する 「種」 的な性格をもっ媒語的個人へと自覚せしめるところに, 教育があるといえるであろ う, (註) 1 . . 篠原助市 「欧洲教育思想史」 上巻 p.476,477 f 2 tder Logik s sens Cha . . Wi i b d S 2 9 3 i 1 . . . . i l 4 es non [ ・enol ogi .218 . . Ph i k. 5 tder Log s senschaf . Wi. s son) .220 .(Las. S . .263 i S 2 P h 轟 l 2 5 6 e n o e n om 。 g . ・ . . id 7 .S .225 . (金 子 武 蔵 訳 に よ る) . ib i d 8 .S .226 . . ib. 2 実 践 の 問 題 意識が対象について確認しえたその確実性を真理性にまで高めることが, 理性の働きであった, そうした働きとしての理性が観察的理性である, そして観察する理性は, まず自然的事物につい て, そ の中に理性の法則を探究しようとする, しかし自然を外的・形式的にとらえることはできて も, 内なるものをそのままに観察することはできない, 無機的存在は観察しえても, 有機的存在に ついては, これを有機的ならしめている内的本質はみられない, 有機的生命体の内なるものは, 物 ) 「人 間 が な す と こ ろの も の, 語 り つ つ あ る 口 や, 労ィ動しつ つ あ る 手 と して 表 現 さ れ る.1. それが彼. 3 )といわれるよ 2 )といわれ, 「主体が何であるかといえば, それは彼の行動の系列である」 である」 うに, 理性は内なるものを外化されたものにおいて観察しようとする, しかしその結果は 「人相 学」 や 「骨相学」 というようなものに終ってしまう, ということは行為活動としての行為 (Tun). t ) であろうと, それが外的に表現されたものであるか であろうと, 行為の結果としての行為 (Ta ぎり, 結局するところ静止的な現実 である, この現実は自己意識的運動から分離されて, 単なる物 ) 精 神 が 存 在 す る と い う こと は, そ れ が物 であ ると い う こ と以 外 と して 存 在 す る も の に す ぎな い.4. 5 ) かくして理性は, 内なるものの表現としての外なるものを観察す のものを意味するのではない. ることによって, 自己の本質を見出すというのでは満足できない, む しろ世界が理性の客観化的実. 現であ ることを, 実践において確認することにならざるをえないのである, 理性は観察によって物 が我であるということの可能性は知った, しかしそれはまだ可能であって現実ではない. そこに実 践が必要になる, 理性的認識は観察では充分なのであって, 実践にまたねばならない, 「意識が即 ) と い わ れ る よ うに, 精 神 日 的 にも て る も の が 対 目 的 に な る た め に は, 行 動 しな け れ ばな ら な い」6. として自覚するためには行動が必要なのである, 個人が, 自分がいかなるものであるかを知るため - 210 -.
(11) . 広. 川. 正. 治. には, 行為によって自分を現実にもたらさなければならないのである, 行為的理性にとって実践の 7 ) 対象は何であろうか, 「自己意識が積極的に関係するところの対象は自己意識である」 . といわれ るように, それは物と我との統一を実現するに適切な対象として, 自己意識をもつ他者である す , なわち, 他人でなければならない. それは我と同じ自己意識でありながら, 他のものとして自立的. な対象 (de rselbstandige Gegenstand) で あ る, こ こ で目 と 他 と はそ れ ぞ れ 自 立 性 を も ち, 相 互 に 他 を 承 認 す る こ と に よ って 自 由 に 移 り行 く の で あ る.. i そこ に 「人倫 の 国」 (Re l i t t - ch der Si. ) な ぜな ら 人 倫 と い う の は 個 々人 が 相 互に 自 立 的 で あ りな が ら 相 互 に 他 i t) が 開 けて 来 る.8 cke , ,. を承認して統一を形づくる精神の立場だからであ る. そしてまた 「個人は実行 (Ta t ) によって自. 分 を 存 在 す る 現 実 の 一 般 的 場 面 の うち に, あ る い は む しろこ の 場 面 と して( in oder vielmehr a l ) s 9 ) 定 立 す る」 と い わ れ る よ うに, こ の 実 行 に よっ て, 個 人 はそ の 個ノv性か ら 自 由 に な り 純 化 さ れ ,. るのである. 個人が道徳的に自己を高めていくのは, 社会的法則のなかにあって, いやむしろ社会 的集団に対する責任から, 実行せられることによってでなければならない, ヘー ゲルが 「事そのも i の」 (d e sache selbst) というのは, 主観的な活動 (Tun ) がそのまま 客観的な行為 (Ta t )で o )とす れ あ る よ うな 実 行, お の れ の こ と で あ る と 同 時 に 公 共 的 な こ と であ る よ うな こ と を 意 味す るl. ば, 社会的に責任をもって行動する歴史的実践こそ個人をして自覚せしめる契機でなければならな 1 1 ) なのである い, その意味でこそ 「人間の真実の存在は自分の実 行」 , かく解するとき, ヘーゲルにおいても, 内的主体性の倫理とか, 良心の倫理という道徳教育の考 え方は, 排除されなければならないであろう, i l logi (註) 1 e nomeno . Ph .S .228 . 2 l tz e opadi . Bncyc .S 14 . Zusa , P i h i d h h l R 3 t lmer) e e o s o s e c oc s p .S . .S 124 .182 . (G1 4 三 i n。no. ogi es . Ph .238 . i b d 5 .i .S . .252 i i d S b 6 . .287 . .. bi d 7 .i .S .255 . b i d 8 .i .S .256 , b i 9 d.S .i .268 . ,269. id. S b 10 .i .291~295 . . Vg1 b id 11 .i .S .236 .. 5 社会集団の問題 他の自己意識のうちに自分が現実的に存在していると認めている自己意識, それ自身において一 般的である自己意識, それが 「人倫」 といわれる, この人倫の実体は習俗 (s i t t ) である, 反対に e 個別的意識は, 人倫的一般的意識を自分の存在と して意識することによってのみ, 自分の個別的な. 存在の仕方や行為が, 一般的習俗にかなっている ことによってのみ, 「この」 -人として存在する ) の で あ る.1. 個人は一般的実体のうちに自分の内容をも得ているのである. 個人がなすことはすべての人びと. が熟知していることであり, その内容も現実態においては, すべての人びとの行為とからみあって いる, すなわち, 個人が自分の諸要求のためにする労働は, 自分自身の要求と同じく他人の要求を. も満足させているのであり, 自 分 の要求は他の人びとの労働によって満足させられているのであ る. 個別者はその個別的労働においてすでに一般的労働を無意識的に成就 していると同じように, ) この こ と は 「3」 でも かれ は ま た一 般 的労 働 を 自分 の 意 識 的 目 的 と して も 成就 して い る の で ある.2. 考察したように, われわれの教養内容は社会性をもっていること, それはまた労働の社会性による -211-.
(12) . ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その3) こ と を 示 す も の であ ろ う,. 理性的自己意識はしかし, 単純に, すなおに自 己の 社会性を肯定するのではない, 抵抗なき肯定 は独断的確信にすぎない, 自己意識が正しく自覚的理性であるならば, 自己のおかれている人倫と いう一般的精神は, 習俗と 律法との全体と して, それ自身個別的であり, 限定されているものにす ぎないことを知っていなければならない, したがって自覚的理性は当然のなりゆきとして, かかる 人倫を制限されたも のと して理解する自分こそ, 純 然たる自立的個別性であることを主張する, そ して律法や習俗とに対抗する 「この」 私としての個人こそ生ける真理と考えるのである,.この人倫 l i tat ) を みるの であ 的 実体 の 限 定 を 個 の 方 向 に お い て 越 え ゆ く と こ ろ に, ヘ ー ゲル は 倫理性 (Mora. る. このように理性が反省し, 自覚していくのは 「実践的」 意識であるからにほかならない, 理性 的個人を, 一面においては個別化し, 他面においては人倫に帰一せしめるものは, 実に彼が実践的 ) で あ る こ と に よ る の で あ る. そ してま た 自 己 の こ の 二 重 化 を 統 一 す る も の も 実 践 的 意識 で あ る.3. ヘ ー ゲ ル に お い て は, か か る 統 一 を 確 信 でき る と こ ろ に 幸 福 が あ る の で あ る, しか も 個 別 的 な も. のと一般的精神との統一といっても, 個人は人倫を外にして, それから遊離 しては現 実的に存在し えないのであってみれば, 結局のところ幸福は, 一般的精神による個人的なものの否定にほかなら な い, そ して ヘ ー ゲ ル が 徳 (Tugend) と い う .と き,. ) 自 己の 民 族 か か る 個 人 的 な も の を 否 定 し,4. )を意味する とはいっても, 注意しなければならないのは, 徳の得 の習俗に従って生活すること5 , t i る経 験 は 幸 福 (G1 ck) で あ る と い う こ と, そ れ以 外 のも の では あ り え な い と い う こ と で あ る,. 以 上 の こ と か ら わ れ わ れ は つ ぎ の こ と を 確 認 し な け れ ば な ら な い,「こ の」 私 と して,の 個人 こ そ,. 自分にとって生ける真理なのだと個人に自覚できるのは, 自分の個別的な存在の仕方や行為が一般 )といわれるように, 彼は人倫的意識の基盤である社会的 的習俗にかなっていることによってのみ1. 集団に対抗しながら, しかも彼がその集団の成員であるときである, 人倫的実体である社会集団の 一員でありながら, しかもその習俗の 律法に同化しえないものが, 「徳」 としての高次の自己意識 にまで高められるのは, 実践による のである, 自分の願いが集団の願いであり, 自分の労ィ動が集団. の目的達成のために役立ち, 集団の労働が自分の願求を満足させるものになっているような, した がってそこにこそ幸福は感じられるのであるが, そうした実践によって徳は成り立つのである, 個 が個と して個 性的な自覚を高めるのも, その自覚が社会的な徳となるのも, ひとえに個人が社会的 集団における共同の目的に対する共同の実践によ るのでなければならない, これは実に道徳教育の 重要な原則となるであろう.. 道徳教育において内面化とか, 主体的自覚といっても, それは人倫における 「この」 私としての. 自覚をもつ集団の成員が, 彼の属する社会集団の共同の目的を, 他の成員と協力して実現していく その労働のなかにおいてこそなりたつ のであって, 徳を単に概念的に固定することによってな しう る も の で は あ り え な い,. i i no nenol ogi l (註) 1 e .S ,256 , . Ph i d b 2 . .i .S ,257 b i d 3 . .S.259 .i . Vg1 ,260 i d 4 b . .i .S .261 id b 5 .S .258 . .i. 6 目寛の時期と道徳教育の 条件 個 人 が 理 性 的 に 自 覚 す る と い う こ と は,. des An de rn),. in der se lbs l i t tand t 自立 的 な 他 人 の う ち に ( s chkei. この他 人との完全な統一を直観することである, 換言すれはそれは, 私自身ではな. i t ) と い う 形 を 具 えて い る 他 人 を,私 の, く, か え っ て 私に よ っ て 見 出 さ れ た 自 由 な 「物」 (Dinghe - 212 -.
(13) . 広. 川. 正. 治. in) と して対 象 とす る こ と で あ る 1 ) i i rmi chse 私のための存在 (Me n Ft . かか る 存 在 は 自 己意 識 に とって, 自分の現実とは異る現実と して対立している. ヘーゲルにおいては, 個人が自己を自覚す る の は, そ の う ち に 自 己 を対 象と して意 識 して いる こと に あ る が, そ の と き の 対 象 は 自 己意 識 に と. lbs t f t i i っ て, 自 分 自 身 の うち に (an ihn se ) 自 己 に 対 して ( rs ch) い る の で あって, いま だ存 在. す る も の で は な い, そ こ で, 普 遍 的・ 抽 象的 な 天 上 の 輝 け る 霊に で は な く ( tat t des himml i s sch. i tes i scheinenden Ge t ), 個 人 的 意識 の 現実 であ る地 霊 (Erdge s ) を 求 め るの で あ る s. , しか しこ の. 点では,, すでに前にも批判して来たように, 考え方が逆行している, 個人が地霊に魅せられるの は, 生物的立場における性的欲求によるのである. これは意識以前ともいうべき働きである. だか らこそ自己意識は, 個別的存在としての自分を, 他の自己意識のうちに意識するようになろうと し, こ の 他 人 を 自 分 自 身 と な そ うとす る こ と を, 最 初 の 目 的 (der erste Zweck) とす る の で あ 3 ) しか しこ れ は ヘ ー ゲル の い う 欲 求 (Beg i る. erde) の 立 場 で あっ て, いま だ快 楽 (Lus t ) になっ. ていない, 欲求が快楽の享受になるためには, 感性的段階から理性的段階に高められねばならな い. それには個別者に対する人倫的集団の制約が 自 覚されるのでなければならない. 「 5 」 におい て確かめたような人倫的実体における実践を通 してはじめて, 自己意識が自分自身にとって対象的. 自己意識となったことを詔 、める肯定的意識と, 自分自身が廃棄されたという否定的意識とが統一さ ’ 異 性は 自 己 の 欲 求 の 対 象 と して 「物」 で あ り れ るの で あ り, そ こに 快 楽 が享 受さ れ る の で あ る.3. ながら, それは自然物とは異って自立的な自己意識であり, 我にとってはいかんともなしえぬ汝で あ る と 認 め ざ るを え な い の も, と も に 集団 の 成 員 と して 共 同 の 目 的 を 実 践 している も の で あ る か ら. にほかならない, しかも他面, 生物的立場においては, その汝たる異性なしに我はありえないと 反 省 され る と こ ろ に, 理 性 の 自 覚は 成 り 立つ. ヘー ゲ ル が 統一 と 区 別 と 関係 と を範 時 と して,「快 楽」. ) 実にそのゆえでなければならない この意味において道徳教育は青年 に 「必然性」 をみたのは,4 , 期においてこそ重点的に展開されるべきであろう, なぜなら, 生物的欲求が人倫的場を媒介にして. 必然的に, 快楽の享受において, 理性的段階に関連づけられるのが, 性にめざめる頃であるから , 男女が, 我と汝として対立し, 統一される性的関係が, 個人を道徳的世界に導き入れる生理的・, じ 、 理的自然の条件であるならば, そこにとり出される 「欲求-快楽」 の関連を教育的に形成すること が, 道徳教育の条件となるであろう. 本来人間は自然的環境との相互関係において欲求を生じ, その欲求を満足させる働きのなかで , 人間同志社会的に結合せざるを得なかったのである. 人間同志の結合を余儀なくさせたものは自然 との不可避 の 闘争であった. そこに一団の集団が形成され, 共同体として労働し 生産 し 分配 , ,. し, 生活の闘いを続けて来た. その過程でヘーゲルのいう 「人倫」 も形成されたわけである 欲求 , は生物的立場であるが, 快楽の享受は理性的な個人相互間においてであると 正しくも彼が指摘 し , ノ も しわれわれは, 人間相互の関係を必然的な関係 (区別と統一の必然性) に形成す ている通り,3 ることが出来るならば, その場こそ, 性的関連にもまして, 人倫的な性格を育成しうる道徳教育の 場となるであろう, ここにも, 青年期といわず, 児童期をも含めて われわれは道徳教育のための , 集団指導の原理を求めることができるのである. i i l i (註) 1 nomeno og e . Ph .S .257 . l id 2 1 ) ・ Vg .i .S .262 ・ i d 3 .S .263 . . ib i i 4 b d S . . .264 .. 7 訓 育 の 問 題 ヘ ー ゲル に よ れ ば, 個 人 が 目 指 さ ね ばな らぬ ことは, 自分 の 心 (Herz) の 法 則に 矛 盾 せる 現 実 の 3【 - 21.
(14) . ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その3) 必 然 性 と, そ の た め に 生 じて い る苦 難 と を 廃 棄 (aufheben) しよ う と す る こ と で あ る,. この こと. ) といわれ, あるい から, 訓育とは, 個人性と必然性の両者を統一する運動, 媒介する運動である1 ) と考 え ら れ る は ま た, 即目 的 に 真 で あ り, 善 で あ る 一般 者 に導 く こ と で あ る2 ,. 一般的には, 心は現実と対立する, 個人の心にある法則は一応社会的女化を吸収しているとはい. i t i っ て も, 自 己 の快 楽 の 内 容 と して の も の であ っ て 「自 分 だけ」 (f rs ch) の も の であ る に す ぎな. い, それは現実の必然的法則とは対立する他なるあるもの twas Anderes) で あ る, 社 会 改 革 家 としての自覚をもっている人ならば, 単に個人的快楽のみを 意欲するのでなく, 自分自身の卓越せ i i l der Menschl t ) を 実 現す る こ と の chke oh る本質を表現することのうちに, また人類の幸福 (Wr. うちに, 自己の快楽を求めるものである, 彼が現実化するものは, それ自身法則であり, 彼の快楽 1 ) しかしそのような自覚者はすでに 教育 は同時にあまねくすべての人の心が感ずる快楽でもある. せられた人である, いまだ自己の心の願いと現実との対立を克服しえない人間を, 真であり, 善で. ある一般的法則に導き入れることが必要なのである, それこそがヘーゲルのいう訓育である, ここでわれわれの注意を必要とすることは, 「法哲学に」 おいて見られる傾向のように, 必然的 一般 者を現実の社会的人倫とみてはならないであ ろうということだ 彼がここで個ノV性 に 対 し て . 必然性 (da s Notwindige) と い って い るも の は, 教 育 的 に は人 類 一 般 の 法 則 と して 実 現 さる べ き in と して で なく, So l l も の, Se en として解すべきものであろう, 「暴力的なる神々および人間の. l i t 秩 序 (g6t che und menschliche ordnung) は 心 か ら 分 離 して い る か ら, こ の 秩序 は, そ れ が. i まだ同伴しているもの, すなわち暴力と現実性とを喪失す べき仮像 ( e n schein) であ る と, 心 に 3 ) と い う と き 心 に 対 立 す る現 実 社 会 の 秩 序 を は 思 わ れ て い る」 , ヘ ー ゲル 自 身 は よ しどう 考 え て , い る に も せよ, 少 く と も 今あ る 「心」 に と っ て は 克 服 (aufheben) す べ き 現 実 な の で あ る.. 克服. する方向はあるべき社会でなければならない, したがって 「個人は心の法則を遂行することによっ 3 ) といっても, どこまでも て, 法則は一般的秩序となり, 快楽は絶対的に合法則的な現実となる」 個人が教育せられた結果, おのずからそうなるのであって, 「自分にとって無縁であるばかりでな く, 自分より強大な敵対的威力と してのこの秩序のうちに自分を組み込み巻き込む ことであるにす 3 ) ものであるならば, われわれはそれを強制的・ファッ ショ的道徳教育と断じざるをえな ぎない」. し、 .. また個人をして一般的秩序のなかに価値あるも のとして位置づけるもの, 自分を自身から自由に )としても そ t ) である4 放免するもの, 一般性として個人性から純化するものは, 彼の実行 (Ta ,. のさい, 一般的秩序をすでに絶対的なものと して前提しているかぎり, われわれはその 「実行」 を 教育的とすることはできない. そうではなくて, 群を集団へと形成組織して いく過程での個人の実. 行であるときにのみ, 教育的意義をもつのである, その意味においてこそ, 集団における実行によ ) それ って, 自分の心の法則と他人の心の法則とが敵対的に関係しつつ統一されていくのであり,5. によって法則的規律が生まれてくるのである, そこに教育がある, 徳が自己に意識されるのは, 内に法則と個人性との両契機が対立するところにあるが, しかもそ れが徳として意識 されるときは, 法則こそ本質的・ 実在的なものであって, 個人性は廃棄せられね ば な ら ぬ も の と して, そ れ に対 して いる の であ る, こ の 考 え か ら して ヘ ー ゲ ル は真 実 の 訓 育 を, 個. )と みる, し 人がもはや個人性に執着することのない証拠として全人格を犠牲に供することにある6 かも訓育にはつぎの二つの段階が考えられている. 第一段階は, いわば内なる一般性, 理想主義的 1 1が現実我としての個人の感情や意欲を支配 している状態で に内観 された社会のあり方としての法貝 t あ る, ここ では 善 な る も の (das Gu ) は主観的な一般者にすぎない. かかる主観的な内なる善 e. は客観的に実現されなければならない. そこに個人の行為が必要となる, これは善なるものを実現 - 214 -.
(15) . 広. 川. 正. 治. しようと意志する段階である. 第二の段階は, かかる内的・抽象的一般者をもちつつ, 各個人が客 i 観的現実性である絶対的秩序 (d e absolute ordnung) に 服 従 す る 段 階 であ る, こ の 場 合 ヘ ー ゲ l tauf というのは, 徳の意識から見られるかぎり, 克服せらるべき個人の感情や ル に と って, We. 意欲の集りとしての世の成り行きであり, 日常性にすぎならのに, 正しくはすでに現実に善きもの i t ter der t ) と しての絶対的秩序なのである, そして第一段階の徳の騎士 (Ri (das wi rkl che Gu e. Tugend) も, こ れ と の 闘 い で, 自 己 の 抽 象 的 一 般 性 の ゆ え に 敗 北 せ ざる を えな いも の な の であ る.. もしそうだとすると, 教育的にはただ現実社会の支配的秩序, さらにはそれが真に して善なるもの として現実道徳を成長中の世代に強制することになるであろう, 訓育は道徳を創造的に子 どものう ち に 育 成 す る こと では なく て, と に な る.. i i t 既 成の (bere ) 一 般 者 (道 徳) に 順 応 せ しめ る こ rkl s verwi cht. l lauf) を 固 定 的 に と ら え る の で な t e こ れ は 強制 的 教 育 と いわ ね ば な らな い. 世 路 (帆′. く, 発展的にあるべきもの, 少くとも成長中の世代にとっては, 彼等を限定しつつ, また彼らによ って作られゆくものとして考えるべきであろう. 個人の天賦や才能も, もし現実性を欠くならば, 〕 そういう意味での現実性として 世路を考えるのでなけ 単なる受動的道具にすぎなくなるような,7 ればならない, -段階から第二段階へと発展せ しめる訓育の手段は何か, この点へ← ゲルにおいて なおまた, 第-. は明瞭でないけれども, 以上のように考えた上で, われわれは先にものべたように, 集団形成の過 程においてこそ, 主観的によきものが客観的にも善きものへと発展しゆくのであり, 徳が世路に敗 北す るというのでなく, 主観的・抽象的に善きも のは, 集団指導ににって客観的・現実的に善きも の, 社会的法則による規則へと発展するのである, それ こそが正しく訓育でなければならない, (58・12・7). i l i es ogi (註) 1 nomeno . .267 . Ph i d. S 2 , .274 . ib i d 3 . . ib . S.268 i i 4 b d . . .S .269 id b 5 . Vg1 .i .S .270 . i 6 b d .274 . .i .S id S 7 . ib , .279 .. 未 完) ) (未完. 5【 - 21.
(16)
関連したドキュメント
「教育とは,発達しつつある個人のなかに 主観的な文化を展開させようとする文化活動
これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ
これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と
[r]
[r]
英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき
経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を
ヘーゲル「法の哲学」 における刑罰理論の基礎