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「教育的宗教」に関する一考察 : 人間改造における宗教の必要と限界

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(1)Title. 「教育的宗教」に関する一考察 : 人間改造における宗教の必要と限界. Author(s). 草刈, 善造. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 9(2): 189-205. Issue Date. 1958-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3682. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道学芸大学 紀要 (第一部). 第9巻 第2 号. 昭和33年12月. 「教 育 的 宗 教」 に 関 す る 一 考 察 一人間改造における宗教の必要と限界- 刈. 草. 霊. 造. (北海道学芸大学釧路分校教育学研究室). Zenz6 KUHAKART:. ‘Educat l igion“ ionaI Re A Study on ‘. ion-- igion in Human Reorganizat i t of Rel ty and Limi --The Necess. 次. 日. 3 . 宗教と教育 -宗教教育方法論- 4 . 教育的宗教は成立するか. は じめに 1 . 人間改造の方法原理と宗教 2 . 宗教と科学 -宗教批判- は. おわりに. じ. め. に. 自然科学によって リー ドされた原子力時代の出現は, 社会科学ないし人間科学に対 しても, 社会 と人間の変貌を迫りっ. あ る こ と は 周 知 のと こ ろ で あ る,. ズ 今 日ま で の と こ ろ では, 社 会 と 人 間 の 改 造 に或 る程 度 の 実 績 を示 した も のと して は, マ ル キ シ. ムと宗教とがあげられる, 前者の抱く闘争原理に比べて, 後者のもつ融合原理が, 「世界平和のた めの哲学」 を蔵 しているかもしれないという期待から, 新しく宗 教を見直そうとする試 みもある, しかしながら, 在来の宗教は, 少くとも具体的実践力をもって大衆化した場合, 宗派性を払拭 し きれないところから, やはり闘争史の圏外に立つわけにはいかなかった, 宗派間の争い, 科学との 闘争, 政教分離, 公教育からの駆逐な どが示す歴史的経緯は, 宗教が 「世界を一つに結ぶ原理」 と して, その古色蒼然たる峡を払つて再登場することに対 して, 多大の疑念を投げかけているといえ よう,. 昨今, 道徳教育の要望に伴い, 心ある学者によって, 或は叉宗教界から, 道徳教育における宗教 的基礎の必要が強調 せられている, 理論的には一応異議ないとしても, 実践的に具体化しうるかど うか, 欧米諸国においても種々問題を芋む宗教教育 が, 「宗教のデパー ト」 と言われる日本におい て可能であるかどうか, 殊に明治以来, 無宗教教育によって培われた この精神的風土にもなおかつ 根づくような 「教育的宗教」 が, 果して成立するものか どう か, も し成立しないとしたら, 道徳教. 育を更に徹底させた人間改造の世紀的要望に対 しては, 何をもって答えたらよいであろうか, つき つめて行くと, 手におえない大課題でもあるが, 焦点を教育にあてながら考察してみたい, 教育と宗教 の関係, 教育にふさわしい 「教育的宗教」 の問題は今日までに, 既に論じ尽されてい るかの感がないでも ない, しかし, 時代は大きな転換期に臨んでいる. 新しい女明の陣痛期であ り, 新しい道徳の胎動期であるだけに, 問題を白紙に帰して再検討することも無意義ではあるま い, い ず れ に して も 問 題 の 困 難 性 は, こ の小稿 のよ く論 究 しうる と ころ で はな い が, 考 察 の 手 が か り, 研 究 の 足 場 を き づ く た め の試 み と した ま で ゞあ る,. -189-.

(3) . 草. 刈. 義. 造. 1 . 人間改造の方法原理と宗教 核兵器の出現による戦争文明の破局 から世界を救うために 変貌を迫られつ ある人間社会の在 , り方については, 哲学的知性或は科学的知性と呼ばれる一群の人々 例えば ) (B , ラッセル1 . , Russel l )( ), ラ ダ ク リ シ ュ ナ ン2 3 R h k i h ) S d パー ス (K.Jasper , オ ッ ペ ソ ・イ マ , a a rs nan), ヤ ス ) 0 R o enhe ー4 imer ) 石原 莞 爾6 ノ な ど に よっ て 論 ぜ られ ると こ ろ を要 約 す るも ) . . pp と , 湯川 秀樹5 , ほぼ次のように言うことができる 即ち 人間社会の改造を巨 視的遠心的方向に求めれば その極 , , , 点に世界改造, 世界政府の創建が遠 望されると共に 逆に微視的求心的方向にこれを求めれば そ , , の極処に人間改造 精神革命の徹底が切望されている と , , , ところで′ この人間改造と社会改造の相関関係については 明確にその前後軽 重関係を割り切る , こ と が で き な い. 例 え ば ラ ダ ク リ シュ ナ ン は 「宗 教 と社 会」 の 中 で , , 「宗 教 の 主 張 に 従 え ば, 人. 間改造なき社会改造はあり得ないことになるが マルキシズムはこれに反対 して 社会改造なくし , , て人間改造はあり得 ないとす るゎ 」 と鋭く対立す る両者の見解を 傾聴 しながらも 結局 その宗教 . , , 的理想主義 に立って, 「自己革命なく して社会革命はあり得ない 社会制度の高低はその構成メン . バーの 質に比例す る す ぐれた社会組織はす ぐれた人々の存 在を物語る. 生活革命のために我々は , 生まれ変わらねばならない, 宗教が衰えたのはただ我々がまじめに版上げなかったためである ,宗 教の中心目的は人間改造である8 ) と人 間改造に 」 重点を指向し ている, .. し か し 和 辻 哲郎氏 の い う 「『人』 で あ る と 同 時 に 人 の , 々 結 合 共 同 態 と して の 社 会 で も ある. 『人 間』 の こ の二 重性 格 が 人 間 の根 本的 性 格 で ある9 )」 とす る 人 間 観 に 立 つ 時 . , む しろ, マ ンハイ ム (K. Mannhe im) が「人 間 と 社 会」の 中 で 述 べる よ う な 人 間 と 会 の o ) 社 時 同 相 即, 相 互依 存 関 係l , ,. 高島善哉氏が 「社会科学と人間革命」 でいうところの 二つの中心をもつ楕円1 1 )のような密接な相 , 補関係においてとらえる方が, より真相に近いのではないかと考えられる , この ように不可分の関係にある人間と社会ではあるが 実際問題としては考究の便宜上 この こ , , とを十分承知しながらも, いずれかの角度 から どちらかに重点を定めて進めるほかは ない そこ , , で, 政治及び社会科学の分 野により多く比 重がおかれる 「社会改造」 の問題をしばらくおき 教育 , 及 び人間科学の見地から, 「人間改造」 に重点を指向して考えて みたい , 「人 間 改 造」 が 版上 げ られ る 場 合 当 然 そ の 前 提 と し て 1 2」 と い う こ と が 解 明 , , 「人 間 と は 何 か ) さ れ て い なく て は な らな い 哲学 的 人 間学 に 販 組 ん だ シ ラト (M Sche l er) が 「人 類 史上, 今 日 , . ェ. 程 (人間が) 問題となった時代はかつてない1 3 )」と述べたように 人間に関する研究と論説1 4 )は極 . , めて活発であり, 原 子力に関する問題と共に 20世 紀 中 葉 を 飾る ト ピ ッ ク の 双 壁 と い え る で あろ ,. う, し か し, こ れは 周 知 の よ う に 古 来 , , 難 問 中 の 難 問 と さ れ る と こ ろ で あ っ て, カ レル (A. l Carre ) が 「人 間, こ の 未 知 な る も の」 の 中 で述 べる よ う に 新 し い人 間科 学 の 成 果 を ま た ね ば な , ら ぬ こ と で あ る,. と は 言 うも の , 「人間」 の究明は人間の存在する限り おそらく永遠の課題となるのではなか ,. ろうか, 結論が得られると仮定しても, 当分の間は期待できないことである, しかも時代の現実は 人間の改造を要求 して止まないとすれば, 人間科学の完成をまって人間改造へという論理的コース. を必ずしも辿 ることなく, 人間改造を必要とする具体的現実から出発し これと真 塾に取組むとこ , ろから, 逆に人間が明らかにされる面も考慮して みる必要がある, 我々と してはこの逆説的発想 6 )によって, 現実の要求にいくらかでも答えながら研究を進めるべきではないかと考えられる 法1 , 差当って具体的な改造が問題となるわけであるが, 具体的方法論のみでは陥 りやすい独断と偏向 をさけるためには, 未だ不完全とはいえ, 今日迄の人間学の成果を参酌しっふ原理的な究明も合わ せ行わねばならぬ, こ に方法論の基礎となる方法原理が版上げ られオ蝕まな らぬ理由がある 以下 , -190-.

(4) . 「教育的宗教」 に関する一考察. 焦点をこれにしぼって論究してみたい,. 人間改造の方法原理は, このように, 一面人間改造の具体的事 実, 実績を基礎として, そこから 経験的, 帰納的に引出されると共に, 他面, 人間学的研究に本づき論理的, 演輝的に割出され, 双. 方がかみ合うところに成立すると考えられる, そ こで先ず, 人間改造の具体的事実の面について見ることにする, 今日人間改造について謎でも 7 ) 問題 に す る の は, ソ 連 及 び中 国 の 「学 習1 」 に よるそ れ で あ る, そ の マ ルク ス・ レー ニ ン主義 に よ. i る 強力 なイ デ オロ ギー の 当 否 は 別 と して, 「洗脳」 Bra }Washing と呼ばれる程の驚く べき事実は l 十 分 究 明 に 値 す る, しか しベ ル ヂ ア エ フ (N, Berdyaev) が 「マ ルク ス主義 は 一 つ の 新 しい宗 教 で. 8 )」 と鋭く指摘するところによっても ある1 . , 叉ラッセルに至っては, 世界的大宗教の一つに教 9 ) フ ァ ナ テ ィ シ ズ ム Fanat ici え1 sm. えな い 何物 か が あ る よ う で あ る,. の範時に入れて扱うところからも, その宗教的性格を否定し. マルキシ ズムを除いては, 今日実績をあげている団体, 施設, 家庭, 人物その他は, これらを直 接に視察 し, 叉書物, 新聞, ラ ジオなどの報道機関を通 して間接に調査したところでは, ロゴテラ ピー, カウンセリング, 集団療法, 精神療法, 作業療法, その他の心理療法な どもかなりの成果を あげ て は い る が, 何 とい っ て も 宗 教 (宗 派 に よ る) か 叉は宗 派 性 を ぬ い た, デ ュ ーイ (1 , Dewey). 0 ) ig i のい わ ゆ る 「宗 教 的 なも の2 」 the Rel ous か, そのいずれかに基盤をおいているものが大部分 1 ) 」 と して, こ 数 で あ る こと が わ か る, 例 え ば 直 接 視 察 した15ヶ 所 の 中の 一つ, 「白い 共 産 部 落2. 年来, 注目されている奈良県宇陀郡榛原町にある心境村の実態は後者の典型であるというよりも, もっと適切に言えば, その 「宗教的なもの」 さえ感じさせないまで に俗化 (より正 しくは浄化) さ れ て い る, し か し, こ > に 張 る 温 い 雰 囲気 は, も と も と, こ の 村 の リー ダー と な って い る 人 た ち の. 2 ) 宗教性 (天理教) に由来 していることがほぼ推察される2 , 次に過去の実績について検討すると, 方向の是非は別として人間変革に力あったのは, 武士教育 僧庵教育, 学塾, 道場教育, 軍隊教育などいろいろあるが, 教育史上に輝く人物, 事蹟の背後には 必 ず と い っ て も よ い 程, 「宗 教」 叉 は 「宗 教 的 な も の」 が 働 い て い た こ とは 周 知 の と こ ろ で ある,. 精神革命 (それは人間教造の中核をなすものであるが) の極点に達し, 宗教そのもの. 創始者とな った聖者たちは勿論のことふして, 例えば, 東西の教育史に大きな足跡を印した尊徳とペスタロ ッ lozzi 七 ) に つ い て み て も, こ の点 は極 めて 鮮 明 で あ る, チ (J a . H .Pes. 尊徳の場合, 桜町報徳仕法の行詰りが成田山の参龍となり, 「心術の革命」 がその後の仕法を完 3 ) 成せしめるに至った経緯は, 富田高慶の 「報徳説2 」 によっても余りにも有名である, 尊徳自身の. 述懐にみても, 「忠勤 (仁愛, 孝行) を尽して, 至善を思えば忠にあらず, 忠勤を尽して, 道理を 4 )」 という我身を空じての人間超克が成し 思わば可なり, 忠 、勘を尽して, 報徳を思わば忠に至る2 . 遂げられているのである, しかし尊徳にとっては, 道はネ串儒仏正味一粒丸で特定の宗教性は認めら れないが, あの高い心境は 「宗教的」 と表現するほかはないようである, ペスタロッチも亦熱心な宗教教育の主唱者であったが, その宗教は決 してキリスト教そのもので. ) しか し 5 は な か っ た.同 時 代 の復 活 論 者 た ち は彼 をク リ ス チ ャ ンと 見 る こ と を 拒 絶 した程 で あ る2 , .. ブルグ ドルフ時代の家庭的学校教育の豊かな体験から溢れる陶治論の中心が, 何であるかは人のよ. く 知 る とこ ろ で あ る. 即 ち, 「私 は い か に して神 の概 念 が 私 の 魂 の中 に 芽生 え る か, と 自 問 して み. る, ……・ 神を愛し, 神に感謝 し, 神を信頼 し, 神に従順であるように自ら向上しうる前に, 私は人 間を愛し, 人間を信じ, 人間に感謝し, 人間に従順でなくてはならぬ, ……私はそれらが主として 6 )」 と 述 べ 幼 い 子 供と 母 親と の 間 に 存 す る関 係 か ら 生ず るこ と を 見 出 す の で あ る2 , ,. 家庭で母子の. 間に醗 議する愛情 と信頼 (信仰) が, やがてその千の宗教的心情に決定的役割りを演ずることを深 - 191 -.

(5) . 草. 刈. 善. 造. い体験と内省の底から湧 き上る感慨と して しみじみと語っている,. 以上は事実, 実績の面から帰納的に, 人間改造における宗教 (宗教的なものをも含めて) の役割 を概観 したのであるが, 反面これを人間学的立場から理論的に究明してみることが必要なのは上述 した と お り で あ る.. 人間とは何か, その存在構造いかんということについては, 人間科学ないし人間学の進歩を今後 に期するという理由からばかりでなく, 現在の成果をまとめて限られた紙数の中に盛りこむという 7 )に 本 づ いて 前 述 こ と は, 到底 こ の 小稿 が な しう る こ と で は な い, そ こ で, ラ ッ セ ル の 関 係 的把 握2. 8 ) した人間研究の諸論説を要約し, しかもこれに下程勇吉氏の 「教育人間学2 」 的体系を参酌Lて, ほぼ次のように図式的類型化を試 みることにした, 人間存在の構造類型的考察………… …・ ・ ・……〔教育人間学の体系〕 全人下. ( 1 1 人間対自然. 部 け o は ヨ 構 o を B ( 身体 き き 造 か め ! し ナ 逆 説的二重性. . ↓ T冴. ′ ÷ ℃ 舞 餌 A O X 容 色上 続. o G部 か 体 = き構 ー 相造 互交流. ( 精. お ・報 一 円 統一. 自然人. MAN and NパrURE. homo n i l t a ur a s. 直立人 homo erectus. 工作人. h…nof l贈 a. i 経済人 hon ・ cus o econonl. 身体的存在 (自然) , 物質, 生命……{地}. 2 { ) 人間対人間. MAN and MAN. 言語人 homo loquens i ・ l o sap ens は 知性人 hol な 社会人 homo Social i s. お 道徳人. 科学, 技術 〔自然科学的基礎〕 … … 生 物 学, 生理学など 生廷 ……生物学. 的平 力 衡 笑蕩 駕動髪. ホメ オ ス夕 タ シス ′身 体 的 的 成 身、体 成 長 長 健 康. 情緒 \ t 的 安 定性 し つ け. 神的秩. 〔社会科学的賭礎〕 ……社会学, 心理学など. 序 ( 理性. 反. :在 し・ 社会的有 / (生命) ) \ , 意識, 社会……{. 象徴人 かんが 超越人 孤独人. i i homo t ranscendenta s. 〔心霊科学的基礎〕 ……教育学的残基, 宗教など. 灘接的統一. homo SoI L 1 s. 代理不可能者の愛の共同体 の場. igosus え 宗教人 honlo rel る. ) ii i 慈悲. MAN and HIMSELF (GOD). in i homo S ・bol cus. 性 ) ・ ーー・ 精. 政治, 戦争. homo n i l ・ora s. ( 3 ) 人間対自身 (れ ) =. 身 体 的 秩 序 ( 感. の 秩序 ( 心 憎). 根元ヒ ューマ ニ ズム. 精神的存在. 精神, 超越…… … … …{天 ). 天地の親心. 人間の回心, 新生. 図式に見るように, ごく大づかみではあるが, 人間の存在構造を三つの段階 (類型) に分けて考. 察 す る こ と が で き る,. ところで, 人間改造は人間の全存在構造を或る目的のもとに再構成することであるとすれば, 単 に第一段階のみにタッチする 「身体改造」 や第二段階に止まる 「道徳教育」 , 或は叉第三段階のみ を問題にする観念的な 「精神錬成」 などと違って, この三段階は全面的綜合的にとりあげられねば な ら ぬ で あろ う, し か し, そ う か と い って, 叉 漠 然 たる 「人間 教育」 や 「人 間形 成」 の よ う に, 三. 類型が同一次元で平面的な量的 バランスを保つことでもないであろう, このような方法ではカバー. しきれない質的飛躍, 暦的深化を意図するものが 「人間改造」 であり, 新しい時イヒと社会はそれを - 192←.

(6) . 「教育的宗教」 に関する一考察. あるともいえよう, ソ連でも会議がもたれる時の主題は, 新しい質と型の人間を 0 9 ) を見 ても, 「新 ) 人 間 改造 に関 す る若 干 の論 説3 い か に してつ く るか, と い う こと で あ る ら しい2 ,. 求 めてもが きつ. ‘Remaking’”Renewar と い うよ うな 表 現 に よっ て こ の質 的 次 生」 n回心 ・ 」 「洗脳」 ”Chang〆 ‘ , 元 の 断 層 を 示 して い る,. ~構造 我々が人間存在の構造に深く分け入って行く時, 図式にみるように下部構造から次第に上部 へと進み、 第二段階の知的, 道徳的, 社会的人間をつきつめたぎりぎりの限界状況的な場に酪然と 1 ) 」 としての超越人, 孤独人の場を考 開けてくる実存的主体性, 「人間を超えて人間を生かすもの3 えてみないわけにはいかない, このあたりの消息については, 日本の教育学者の中 でも宗教に深い. 関心を示している前述の下程氏や正木正, 平塚益徳, 両氏な どの所説にきいてみると一層明かとな る,. .. 下程氏は 「道徳教育の人間像」 の中で, その究極の相に宗教人を不可欠 として 「人間そのものを. 人間として生かすべき使命をもつ教育の学問は, その最初にもっていた深い根 (宗教的, 哲学的 根) をもう一度生かしてこぬ以上, それが科学的などといって誇っているものも, 人類の運命には 何一つか わ ら ぬ 空 々 しし 仇花にすぎないのではないでしょうか. 人類の運命にとりくむ今世紀の 教育は, 人間の本質的要求という最も深い根から出て来ねばなりません, ……あれ程科学的知性を 重んずるラッセルも原爆をめぐる問題については, ;賢者 (宗教人) の知恵にかえれ』 と説いてい 2 } ることが思い起されるのです3 .」 と述べている, 次に正木氏は道徳人と宗教人との断層を心理的 に分析して, 「日常的人間の善の中にはエ ゴイ ズムは誇り顔にそれと調和されて潜んでいるのであ る, しかも か. る エ ゴイ ズ ム をも な お 超 越 しよ う とす る こ とは, 自 己 の 今 ま でに 生活 し来 っ た 全 地. 盤が否定されねばならぬ, これは理性, 良心の自他批判を通して果たされるかに見える. しかし自 3 ) 」 と述 べて い る 最 覚的決意によって果して可能であろうか. こ に 道 徳の苦悩 と 悲 劇 が ある3 , . 後に平塚氏は教育基本法に言及して, 「最も根 本問題である歴史哲学的然り, 宗教的世界への深き 4 ’ 沈潜が強く要求されていないことば戦操 に値する誤謬であると断ぜざるを得ない3 .」 とまで痛烈. に批判を浴びせている, 叉宗教の主目的 が人間改造にあることを強調するラ ダクリシ ュ ナ ソ は, 「我々が今日求めるものは人間の生活態度の根本的改造である. 我々自身の改造によってのみ将来. を保証しうる, この自己改造は自動的に行なわれるものではない. ……真実への服従, 宗教の実践 5 1 によ っ て 行な われ る も の で ある3 .」 と も 述 べ て い る,. このように, 人間存在の根元に直到し, 人間構造の頂上に内迫する人間改造の方法原理と しては 第一, 第二段階を貫通し, しかもそれらを超えて第三段階に位置する 「宗教」 が当然要請されて来 な け れ ば な ら ぬ こ と が分 る,. 以上を通じて, 事実, 実績からの帰納的方法によっても, 叉人間学的考察に本づき演輝される理 論的帰結もいづれも宗教 (広義の) が人間改造の方法原理として無視することのできない重要な位 置 を占 め る こ と が 明 か に な っ た, しか しな か ら, この 宗 教 が, 新 しい時イヒと社会 の求 め る 人 間 改. 造の方法原理として組織性と具体性をそなえるためには, 現代女明の根本性格を形成する科学から のきびしい批判と, 公共の広場と しての教育の観点からの綿密な検討を経なくてはならないであろ う, 1) 2) 3) 4 ). l d B. Rus l: New Hopesfor Changing Wor se ,20 . ,p ,1951 i 8 i d S 4 1 i h R i 1 9 h l t S R d k ) n a n o c e r n n: e o a a p s 1, 0一2 g y . , , , . a be und Di tdes Menschen K.Jaspers: Di ] e zukun【 e At ombon ,24 ,1958 ,S i i i 4 t 5 〕mon Unde J ence and Con n l er: S r ng s and . 矢島敬二. 矢島文夫訳 「科学と . R. oppenhe ,19 r 人間社会il 召31新評論社 130‐132 頁. 5 ) 湯川秀樹 「原子力と人類の転機」 昭29・3・31朝日新聞 6立命館出版部 38-42 頁 6) 石原莞爾 「世界最終戦論」! 昭1 - 193 -.

(7) . 草 7) 8) 9 ) lo) 11) 1 2) 3) 1 1 4 ). 15) 16) 17) 1 8). 刈. 書. 造. Radhakr i i t shnan,op .c .p .56 . i lb d . P.70 .. 和辻哲郎 「風土」 昭27岩波書店 14一15 頁 K. Manhe im : Man and Soc i ty e . ,1954 ,p.227. 高島善哉 「社会科 学と人間革命」 昭2 6顕草書房 2頁. A. Carre l: Man own , The Unkn . 桜沢如一訳 「人間この未知なるもの」 昭27角川文庫 19-41 M.scheler: Die stel l 1 1 Kosmos ung des Menschen i 1 . , S.i2 ,1949. 頁. 主な る論説をあげると次のようなものがある. ” t der Mens (a) E, Brunner: Der MenschinI Widerspruch,1937 s chr 吉村 . そ の 要 約 wasi 善夫訳 「人間」 昭31新教出版社 (b) E. Cassirrer: An Bssay on Man 4 ,194 . 宮城音弥訳 「人間」1953 .岩波書店 (c) K. Goldstein: Hun・an Naturein the LighL of Psychopathology,1947. 西 谷 三 四 郎 訳 「人 間. 」 その精神病理学的考察」 昭32誠信書房 iny of Ma (d) N. Herdyaev: The Det n l954. l ・ of Men,1946 (e) J en . Dewey : Prob . l (f) J er: Man i s a Mi rocos n c l 8みすゞ書 . A. V. But . 飯島術訳 「人間この微小なる宇宙」 昭2 房 ldane: Wh fe PI 947 -訳 「人間とは何か」 昭2 (g) J 8岩波書店 atis Li . B,S . Ha . 八杉龍▼ その他は引用語句の註と重複するために省く. カ レル, 前場書, 42 -65頁 多田政一 「精神の科学的健康法」 人間改造 No .82 .13頁 新島淳良 「中国の教育」 昭32東洋経済新報社 173‐188 頁 N. Berdi f: Le Marxi i i l 31 aef sme et]a Re 1 on g 召28創元 . 宮崎信彦訳 「マルクス主義と宗教」 - ,19 女庫 D‐97 26,36頁 i i B. Russe l: Wh t 1 r an;1957 s ylan・ not a CI ,p . =.. 19 ) i th,1934 1 lon Fa l l ・ 20 ). .8 . . Dewey: A Con ,p 37月号 21) 梶季彦 「白い共産部落」 文芸春秋 昭3 22 ) 小縞 「新しい人間社会の胎動」 かいぴやく 昭337 ,8月号 23) 佐々井信太郎編 「二宮尊徳全集」 第3 6巻別鱒門人集 昭688頁 24 ) 同上第1巻, 原理 昭7561頁 25 ) 鳩藤幾大 「宗教教育の根本問題」 教育学研究 昭32 No.2,32頁. i: Wi lozz 26) J ta e Gert rudihre Kinderl t ehr . H. Pes ,1801 ,S.185 . i t 2 7) B. Russel .c ,p .i8 . , op. 28 ) 下程勇吉 「教育学と人間学」 (長田篤 「教育哲学の課題」 昭29東洋館出版社)1 31 -ー 35 頁及び 「教育 l 召32 )89頁以下並びに 「道徳教育の方法」 昭3 学の体系についての試案」 (京大教育学部紀要l ul 3惣明 書房 22-25 頁 l l! d : Ren ing Men 29) P. cambe . 1 ,ak ,d. P. Howar . .8 , 1954 ,p 30) 註の引用文献以タ トのもので次のようなものがある. (a) 多田政--「人間改造法」 1953. オ リ オン社 tan: Peut ‐on n 6 9 5 (b) J lodi行e r じHommeFI . Ros . 丹羽弥太訳 「人間は改造されるか」 昭32講 談社 5 3 (c) 赤岩栄 「新 しい人間誕生」19 . 理倫社 (d) 平野零児 「人間改造」 昭31三一書房 (e) 妙憎空 「人間革命」 昭32精女館書房 (f) 二瓶要蔵 「人間の改造」 昭25北隆館 31) 下程勇吉 「道徳教育の方法」25 3 ,361頁 32) 同」 二「道徳教育の人間像」 昭31熱明書房 144頁 3 3) 正木正 「教育心理学序説」 昭31同学 社 214頁 34) 平塚 益徳 「教 育と宗教」 長田瀞前掲註(28 ) 302 303 頁 i i t 35 く r l lan sh ) Radhaー .c .p .48 ・ ,op. 2 . 宗教と科学-宗教批判- 今日迄の実績と理論的帰結において優位を占める宗教も, 新 しい瞬 イヒが求める新しい人間改造の ぎ -194-.

(8) . 「教育的宗教」 に関する一考察. 方法原理として定立されるためには, 新時代の推進力である科学との関係が最も問題となる であろ う, 即 ち, 科 学と の対 決 に お い て, 「宗 教 と は 何 か」 .「宗 教 は い か に ある べ きか」 と い う 既 に 論 じ. 尽されたかのようで, その実今なお未解決のま 残されている課題が, この歴史的転換期に当って 再び問われねばならないことになる, 過去の長い歴史を背負う既成教団や成立宗派の形態が, 必ず しも将来のあるべき宗教の形態を示. すものでないことは勿論であるが, それでは, 近代的教養をもつ現代人の心に適応し, しかも原子 力時代にふさわしい世 界人へと我々を改造 (変貌) するに力あるような宗教はいかなるものであろ うか, 新しい宗教の在り方は, 人間自体の問題と共に, 今日以後の人類に課せられた最大課題の一 ) つ となる で あ ろ う1 ,. 科学との関係を回顧すれば, 先ず, 宗教は自らについで生まれた哲学によってきびしい批判を受 )に当 けつ , ついで起った科学からの鋭い攻撃にさらされ, その命脈を断つかとも思われる危機2 面 しつ づ け て今 日 に 至 っ て い る, 既 に1873年 ドレー パー (J ) が「宗 教 と科 学 と の闘 争 史」 , Draper. において, 欧米の知識階級の間に宗教信仰の急速な衰旗傾向があることを指摘し, 「この脱退 (公 の宗教信仰からの) は非難や処罰によっては防止 しえない程広く圧倒的なものである, それは! 朝笑 によっても罵讐によっても, 叉暴力をもって しても根絶することは出来ない, 重大な政治的結果を J ひきおこす時が急速に近づいている3 」 と述べている, こうした傾向は, その後の欧米宗教界自身. の反省に本づく多少の改革や再生措置を以てしても, 近代的知性 (特に科学性) に矛盾する宗教の. 衰退要因に根本的なメスが加えられない限り, どうしようもない潤々たる歴史の潮流であるかも し. れない. 科学的知性を信頼 し既成宗教をはげ しく非難するラッセルの主張は, この立場を代表するもので あろ う, 「私 は な ぜク リ スチ ャ ンと な らな い か」 の 中 で, 世 界的 大宗 教 (仏 教, ヒ ン ズ ー 教, キリ. スト教, 回教, コミュニズム) の全部が非真理 しかも有害であると思うと大胆に前置きした後,「宗 教は合理的教育を妨げ, 戦争の根本原因の除去を妨げ, 罪と罰の古くさい教義に代ろうとする科学. 的協力の倫理をも妨害する, 人類が輝かしい時代の扉を開くためには, 門前を塞ぐこの宗教という 悪魔を先ず葬らオ蝕まならないであるうり」 とまで極言し, 世界が求めるものは ドグマではなくて科. 学的探究心であることを強調している, 更に 「科 学と宗教」 の中では, 宗教のこのドグマ性を攻撃 し 「科学的精神は慎重であり, 仮説的であり, 漸進的である, それはすべての真理を知っていると は思わず, 叉その最上の知識さえ全面的に真理であるとは思わない, それは どの理論も遅かれ早か つ」 と れ 修正 を 必 要 と し, そ の 修正 の た め 探 究 の 自 由 や 論 議 の 自 由 が必要 で ある こ と を 知 っ て いる5 .. 述べて科学によせる彼の深し 信 頼 を 示 して いる.. 原子力時代における新しい宗教の必要を力説 し, 宗教に対 しても深い理解と関心を示すラ ダクリ. シュ ナ ソも, 「信 仰 の 回 復」 の中 では, 科 学 と対 比 さ せ て 既 成宗 教 を 批 判す る 点 で は ラ ッセ ル と 同. 様である, 即ち, 「現代の科学的気風を満足させず, 社会的要望に同調せず, 世界統一を助成しな ) 」 と 断 言 し 「いわ ゆ る 宗教 は科学精神に反対する 科学 いよ うな宗 教 は 存 続 の見 込 み が な い6 . ,. の方法は宗教が独断的であるのに対 して実証的である, 科学は権威に依存 しないで, 知能の理解し うる共通の証明に訴える, 思考と探究の自由に対するいかなる束縛も許さない, 新知識, 新経験を 歓迎する, 真の科学者は ドグマにかくれない, その考え方は謙虚で自己批判的であり, 進んで他か ) ら学ぶ態度をもっている7 .」 と述べて科学者と科学精神をた えて い る, 「共通の信仰」 の中で, 新 しい宗教の在り方を 「宗教的なもの」 として積極的に展開するデュー イも, ほぼ同様の見解に立っている. 「科学と宗教との葛藤は結局のところ, 方法に対する忠誠と 動きのとれな い信念に対する忠誠との葛藤である, こ - 195 -. で信念というのは後から変えようもない様.

(9) . 刈. 審. 造. igi l ous と い う 語 も こ 〉か に予 め 固定 して しま っ て い る 最 小 限 度 の 信 念の 意 味 で ある, …… 固執 re. ) !学の力動的進歩性の前にやがて衰退の道を辿ら ら出て来た8 .」 と述べて, 宗教の信念的固募 注が穆 ねばならぬ運命に陥ちたことを明かにしている. 宗教 (勿論既成宗教) のもつこのような反科 学性は, 保守反動性を帯 びるから社会問題の解決に 対 しても当然, 非現実的となり, やがて普遍性を失って行くことになる. この間の事情について は, テクノロヂーを基盤に して生理学, 心理学, 社会学な どの綜合 学的立場から円熟した女明批評 を 吐露 す る マ ン フ ォー ド (L. Mumford) は, 「変 貌す る 人 間」 の中で次のように鋭く 傭 い て い. る. 「もしも女明の弱点が, 集団的な画一性にあるとすれば, 中枢的社会の弱点は宗閥である, こ のことは創始者の外にはいかなるタイ プの人格の出現も許さないこと, 即ち, それを資格づけ十分 に包括的なものにするようなっ ましやかな対立物を, 真理の体系に包括することに失敗したこと ) から生まれるのである9 .」 として教祖以上に一歩も出ないその保守性を則った後, 「社会制度に先 の 天的に無関心な で, 兄弟愛や平和を説いたけれども, 奴隷制度, 経済的搾取, そして戦争, 要す o )」 るに 女 明 の最 も い や な 害 悪 に ほ と ん ど 手 を 触 れ ず に残 した の で あ るl .. と も, 叉 「最 初 か ら中 枢. 的予言者は, 自分たちの世界観を政治的な義務や共同体の社会的複雑性から遁れる ことによって, 1 ) 純粋なもの高度なものとして維持しようと試みた1 .」 とも述べてその非現実性を指摘している, こうした現 実からの遊離は, 世界の融合に対 しても観 念的に普遍性を述 べるだけに終っている, マ. : ンフ ォー ドも 「今日ではかつてない程に, 普遍的な人間が誕生すると騒ぎ立て いる時 , 中枢的宗 教は自己閉鎖的な種族的ないし民族的社会と殆ん ど同じ位に大きな 障害となっているのである, ど の中 枢的宗教が, かつて純潔と謙虚の中に創始者が公言 して樟らなかった普遍性を具体化したであ 2 )」 ろ う か1 .. と い >, 更 に 「中 枢的 宗 教 (そ れ 自 体) で さ え, 世 界統 一 の要 求 をい さ. かも行使し. えない民族国家と同じ位に分裂された た態にある. 世界の弱点を研究しながら, 彼らはいまだに彼 3 )」 ら 自 身 と和 解 して いな い1 .. と き び しい 批 判を 向 け て い る, ブ ルー ベ ッ カー(J .S . Brubacher). 4 )で 世界融合の原理は宗教やイデオロ ギーではな が 「一つの世界のための教育哲学」 という講演1 , くて科学に求められる という意味を大胆に述べたのも, 以上のような観点から一応肯定されるであ ろ う.. 以上, 宗教に対していろいろな角度, 特に科学の観点からなされるきびしい論難を概観 したので あるが, 攻撃の鋭さは必ずしも宗教それ自体を抹殺 しようとしてなされたものではない. オル ポー 1por t ) が い う よ う に 「宗 教 に つ いて の 批 判 の ほ と ん どは, そ の 未 成 熟 な 形 態 に 向 け ト (G. W. AI 5 )」 と み る こ と も 出来 る, それ 自体--つ の 宗 教 性 を も ち な が ら不 倶 戴 天 の 敵 の よ う に られ て い る1 . 6 ) 」 と 浴 びせ る レーニ ンの論 難 宗 教 を 見イ放す マ ル キ シ ズ ム か ら の 批 判, 特 に r働く 人 民 の 阿 片 な り1. 妻 iにひそむ害毒に対して向けられたもの、 すらも, 結局, 成立宗派, 既成教団などの宗拝 であるとも言 え る.. この意味において科学との対比においてなされるきび しい批判は, むしろ宗教を浄化するもので 7 ) さえある1 , 事実, 哲学や科学の検証によってその不純な爽雑物を払拭し, 自家中毒を中和しつ , 「教祖に還れ」 の復活運動によって本来の面目を維持し来つたのが, 今日までに命脈を保ちつ. づけた宗教である, 従って, 今日では, 科学の進歩によって宗教は衰 滅するという考え方は過去の 8 ) ものであるとする見方もある1 , 哲学が進み科学が どれだけ飛躍しようとも, 哲学する人間, 科学 一切の基盤として存続する限り, 宗教の生命は人間の問題と共に消失しないで する人間それ自体は… く ′ あろうとも言われる, 例えば, 石津照璽氏などは, 「宗教的人間」 の中で, 「生きて行く上には汚 盾がある. ……生きることの至極はその破綻を超えることにある, その超え方は本質的な謂いにお い て宗 教 的 に 身 を 処す る こ と よ り外 に は な い, …… 種 々 の宗 教 の 教 える と こ ろ は 異 る が, そ の 底 の. - 196 -.

(10) . 「教育的宗教」 に関する一考察 メ カ ニ ズ ム を 人 間 存 在 の構 造 に つ い て礼 して みる と, こう な る の で は な い か と 思 わ れ る, そ して, こ. 9 )」 と述 べ て い る そ に 人 間 に と っ て 宗 教 の つ き つ め られ た 存 在 理 由 が あ る よ う に思 わ れ る1 . ,. して, それ どころか, その人間自身が科学の驚異的躍進に伴う核兵器の出現によって, 絶滅の脅威 にさらされるに及んで, 逆に科学の側から, 版行的科学文明に対する反省として, 宗教が見直され 0 ) る気 運 さ え も 生 じて いる と 言 え よ う, 例 え ば, アイ ン シ ュ タイ ンの あ の 深 い宗 教的 心情2 , ラッ セ 2 1 2 ) ル の 「原 子 力 と 平 和 ) ank) の 「科 学 は 何 処 へ2 」, プ ラ ンク (M. P1 「 の進歩 と 樹の 科 学 湯川 秀 」 , 3 〕 ど こ こ 人 間の 幸福2 を さ 見て も の 績ま肯 定 れ る, 」な. と は い う も の , 科学女明に対する反省から, 人間の正 しい生き方を示唆するものとして求め ら. れる宗教が, 成立宗教を肯定してかふるものでないことは再言するまでもない, 科学や哲学からの きびしい攻撃きた堪えて, しかもなお希求される程の宗教が, 成立宗教の純化再生によって得られる 新しく (新しい観点に立って新 しい構想のもとに) 生まれ出てくるものであるか か, それとも全くラ は, 簡 単 に 論 じ ら れ ない 大 きな 人 間 女 明の 課 題 と なる で あ ろ う, 中 には ツ ン ョ グ (B, Szunyogh). が 「宗教の危機」 で述べるように, 「古代の大宗教のような宗教組織は しばしば衰退の局面に遭遇 した, その組織は消滅し, 改革運動か新宗教かがその真空を充 した, だが, これらの変化は女明の. 欠除という完全に変わった環境の下に起ったことである, しかるに今日の変革は女明と知識の普及 によって直接もたらされたものであるから, 変化が逆転 しうるとは考えられない, 伝統的宗教の現 4 ) 在の衰退は, 未来の超自然主義の新変化によって置換されることは期待できない2 .」 という悲観 的見解をとるものもある, いずれにしても, 躍進をつづける科学の進歩性, 力動性, 真理に対する謙虚さに目を閉じて, 科 学と宗教は次元が異る, 宗教には宗 教独自の真理がある, 唯物論的科学では精神の課題は扱えない などとうそぶいて, その固定的保守性を カバーする論理を弄んでいる間に, 科 学は宇宙時代の扉を. 開きはじめたのである, 宗教は一体, 釈迦, キリスト以来どれだけの進展を見せたというのであろ うか, この意味でデューイ の, 「人間経験において宗教的な働きを自由に解放する道は只一つだと いうことである, 即ちそれは, 宗教だけに限られた宗教独得の真理がある, 宗教を通じて だけこの 5 )」 という所説は傾 真理に到達する特別な道 が与えられているという考え方をすてることである2 . 聴に値する,. 宗教がも し女字通り, 高山岩男氏のいう 「進歩は しないが頒落するものがある」 という宿命をも. 6 ) 」 と ころ の科 学 の 敵 では な い, し つ な ら, 到 底, 「ひ たす ら進 歩 して 退 歩 す る と い う こと が な い2. 7 )」 と かし, 我々は 「既成の宗教のみを宗教と考えず, 宗教も時代と共に発達進歩せねばならぬ2 . 人格の仲 類の最も人格的な属性であるから 「 宗教は人 叉 いう鶴藤幾太氏の力動的宗教観に立ち, , 介によって発達す る. 宗教は長く人類の所有物であり, 人類と共に生長する為には絶えず人類に適 8 l )」 と い う チー レ (C, P e e) の 宗 教 発 達観 に 同 調 し, 新 しい宗 教 -- それ に 応せ ね ばな ら ぬ2 . Ti .. 宗教という名を与えることの是非はしばらくおき--の成立を期待 して, 次に教育的角度からこれ を照 射 して み る こ と にす る,. 岸本英夫 「宗教教育」 教育研究事典昭29金子書房 775頁 i i l igi 95‐96 s sin Re B. Szunyogh: Cr on ,1955 , ,p,p . f the ConRi Hi i D t l i r tb t o o e r: s ence ace W r c e w e en Re a y J p gion and Sc . , Pref ,1873 . . i i t l l: 、V1 4) B, Rus l nota Chr s an ・ se y l an .37 . ,1957 ,p igi i l l: Re 5) B. Russel on and S r enc e . 津田元一郎訳 「宗教と科学」 昭31元々 社 196頁. 1) 2 ) 3). 6 ) s. Radhakrishnan: Recoverv of Faith,1956,p.10. lb id . .p .11 i th J l 1 ・ l on Fa .39 , ,1934 ,p . Dewey: A Con format ion of Man L. Mumford : The Trans .73 . ,1957 ,P. 7) 8) 9). - 197-.

(11) . id lo) lb . .p .74 id 11) 丁b . ・p .78 12) lbid.p.79 .. 13 ) lbid.p.139. i d losophy of Educat l on for one Wo r 14 ) J .5 .5 . 名古屋大学における , 昭32 .S. Bmbacher: The Phi 第16回日本教育学会講演 1頁 i dual and Hi i i 58 1 1por t: The工ndi 15) G. W. AI s Re v on g ,岩波書店6 , 原谷達夫訳 「個人と宗教」19 7 大月書店 頁 6) レーニ ン全集 「社会主義と宗教」 第十巻邦訳 1955 0 1 . 2大阪教育図書 49 7頁) 17) 平塚益徳 「宗教と道徳」 (文部省 「道徳教育の課題と指針」 昭2 18) 西谷啓治 「宗教とは何か」 現代宗教講座亘昭29剣文社 255頁 19 ) 石津照璽 「宗教的人間」 昭26培風館2ー3頁 i in ber t 20) H. G. Garbed t Ei ns e an: A1 .307 . ,p ,1939. 21) 2 2) 2 3) 2 4) 25) 2 6) 27 ) 28 ). ラッセル 「原子力と平和」 朝日新聞昭和29 . .1 .1 プランク (寮佐吉訳) 「科学は何故へ」 昭22白帝社 192-5頁 湯川秀樹 「人間の科学 6 」 昭31中山書店 280頁. i Szunyogh t .p.108 . , op.c Dewey i OP t c . , . .p.32. 37頁 高山岩男 「道徳の危機と新倫理」 昭32創女社 1 3宗教公論 1月号 lo頁 鶴藤幾大 「宗教教育の根本問題について」 昭3 小原国芳 「教育の根本問題としての宗教」 昭25玉川大学出販部 4189EL. 3 . 宗教と教育-宗教教育方法論- 宗教と教育の関係について最も焦点となるのは, 公共の広場と しての教育にとって必要, 不可欠 で, しかも 具体化するに当って無害でありうるような宗教とは一体どんなものであろうかというこ とである, 既成宗教の中にこのような教育的要望に応じうる宗教が存在しうるかどうか, ないと し ) た ら, い か に して こ の要 請 に 答 え る か と い う こ と で あ る1 , そ して こ の 課 題 は 主 と して先 ず 方 法論. の面から多大の難点に当面 し, そこから逆に宗教の在り方が問題となってく るのである, しかし, この問題も 「宗教と科学」 の関係同様, 決して新 しい問題ではないが, 歴史的転換期に臨む人間の. 在り方に随伴 して, 常に版上げられ ねばならぬ運命にあるようである, ところで, 教育における宗教的基礎の必要を理論的に強調する人は極めて多いが, 具体的方法論. になると, 漠然とした抽象論に終って鮮明を欠く憾みがある, 複雑な宗派事情から考えて, 特に日 本にあっては, 方法論の不徹底もやむを得ないが, 具体化されて評価と工夫を重ねない宗教教育論 は, 堂々 め ぐり して 一 歩も 前進 して い な い の が 実情 で あ る,. ’ ) 在来り宗教教育論中, 例えば, 浅野孝之2 , 長田新3 , 小原国芳など諸氏の所説を参照 してみて 宗教的情操の潤養という抽象的性格のものか までの準備教育か も, 結局は宗教へ , どちらかにな , の るようである, 小原氏は具体的方法として 7つ を あげているが, 流石に玉川学園の実践に裏づ け ら れ て い る も の , つ き つ めて 行 く と 結 局 キ リ ス ト教 的 方 法 と な っ て しま う よう で あ る, 特 定 の信. Jがあるが, 真に目的を達 仰内容をもたない宗教的情操がありうるかどうかについては多くの議論5 成しようとすれば特定の宗派的教育とならざるを得なくなり, 公共的性格から逸脱したものとなる と い う ジ レンマ に 陥 る こ と は ど うも さ け ら れ な い よ う で あ る,. 最近のものでは, 先ず唐沢富太郎氏が 「献身の道徳と自己完成の道徳」 と題 して, 両者の統一と して自他同一の宗教的 原理を考え, 「戦後の新教育においてあれほど自己完成を教えながら, それ がともすれば観念の空転に終りそ うになったことは, 一つには実体たるべき宗教性をもたなかった )」 と 述 べ て い る が, そ の 具体 的 方 法 と な る と, こ と が 考 え られ る6 .. 女 学 作品 や美 術 ・音 楽な どの. 芸術作品による宗教的,醜背の潤義という領域以上には出ない, 平塚氏も, 教育基本法における宗教 性の不徹底を戦探すべき誤謬だと痛撃した後, 「教育的宗教」 の必要を強調しているにもか わら 8- -19.

(12) . 「教育的宗教」 に関する一考察. 0年1 1月の次官通牒, 21年 8月 の議会の決議, 2 ず, 方法論としては, 昭和1 3年 7月の教育刷新委員 会の建議などを引用 した 後, 「諸外国以上に複雑な宗教事情下にある公立学校で, 一般宗教的情操. 陶 台をはかるためには, 慎重の上にも慎重を重 ねてなさるべきことを熟知せしめることこそ最大の )」 と い う慎 重論 に止 ま って しま っ て↓・る 急務 で あ る7 . ,. こうしてみると, 諸外国は別として少くとも日本を こおける宗教教育の方法論は, もっと別な角度 からの発想を迫られることになる, 教育人間学に本づき全人教育的観点に立つ下程氏は, 理想的人 ・ぅよりも, む しろ道徳教育の場の生き 間像の最後に 「宗教人J を据えるが, 「児童生徒のためとし ) た人格的中心である教育者自体の理想的人間像であります8 .」 と述べて, 宗教教育を教師論にまで 還元させている, 前述した小原氏もこの点については, 「実に吾人の最も要求するものは, 宗教の 教師よりも, 生ける宗教をもつ教師である, この方面におし・て特に教師論の必要を感ずるのであ ) る9 .」 と力説している, そして他の論者も, 教師の宗教的教養ないし宗教的教育愛を問題にする点. ではほぼ同様である, 方法論が教育内容や技術的方法へと遠心的な具体化を遂げ得ないで, 逆に求心的な教師論に回帰. 集中せざるを得ないことは, 複雑な宗教事青にある日本ではやむを得ない現象であるが, さてそれ では, その教師自身がいかにして生きた宗教を体得するかは容易なことではない, 上述の教育刷新 委員会の建議にも, 「教員養成機関の学科目に宗教学を加えて宗教に対する基礎的知識と一般的理. 解を深めること」 を提唱しているが, これも亦具体 的方法となると同じような複雑な問題を苧む し, 実質的な効果の程も疑わしい,. そこで, 問題を教師論から更に感化としての (教化でなく) 教育そのものへと還元解消 して, 教 育心理学の立場から内面的実質的に検討 しているのが正木氏である, 「教育の底にあるもの」 の中 で, 「教化の場合は教えるために多くの手段的苦労があるが感化の場合は全然なくなる, しか し一. 面において感化は教化以上に教師の人間像を高度なものに形成しなければならない. …… 教 師 は 手段的な苦労をあまり必要としない代りに自己を高める ことにより以上の苦労を積まね ば な ら な l o ) い. 」 という飯田公吾氏の教育実践から湧き上る 「感化」 の構造を分析して, 「感化を可能にする 教師の人間的在り方は宗教的なものということが出来るであろう, この様に教育を世間の通念とは. 異ってより深い基底的な次元で語るときには, 教育は宗教的なものに基礎づけられているとい>う 1 )」 る か ら で あ る1 .. と述 べ る, そ して, こ の よ うな 人 間 の宗 教 的在 り方 は, 「悩 み の力 学」 を通 し. て自我が再構成されるところに開かれてくる内的人間の成長でもある, しかし, それは本来各人の 実存的課題であって, 教えこまれたり, 学びうるものではないから, 方法論としては一応否定され. ることになる, だが自己は他から抽象された一個人ではなくて汝に対する我であるから, 「最も真 正の意味で内的人間の成長をもひらく, その可能性を豊かにしていく汝と我との関係は勝義におい 2 ’ て教育的関係である, 感化とはか る人間関係の端的な表現である1 .」とすれば, 感化の構造形式 は普通にいう教育的方法や操作技術によるものではなく, 態度における技術という表現を超えて心 情 (魂) に お け る 技 術と で も いう 外 は な い, と 述 べ て い る,. こ までつきつめてみると 宗教教育の方法論は方法でない方法 教師その人の実存的在り方に , , 解消されてしまい, 組織的計画的な人間改造の方法論からは一応除外されねばならぬことになる, 宗教教育の本来の姿は結論的にはこういうことになるであろうが, 日本の特殊事情はそれに拍車を. 加え, その必要性が強調されるにも拘らず, 結局, 棚上げされ ざるを得なくなり, 遂に方法論的発 展をみなかった一つの大きな理由がこの辺にあるのではないかとも考えられる, と・ころ で 欧 米 の 場 合 は こ の間 の 事 情 は 余 程 異つ て く る よう で ある, 宗 教 の デ パ ー トと言 わ れ る 日 本 と 変 わっ て,. 宗 派 の 差 異 は あ りな が らも,. キ リ ス ト教 と いう 点 で は ほ ぼ 一 致 して い る か らで あ. - 199 -.

(13) . 草. 刈. 善. 造. る. ドイ ツ と アメ リ カ に例を と っ て み よ う,. 公立学校主義をもって一貫する点で日本とよく似ている ドイツにおいては, 依然と して宗教教育. をもって全教育の中心たらしめるために, 他国に類のない方策が樹立されている, 即ち宗教を必要 と しな い ごく 一 部 の 父 兄 の 子 供 た ち の た め に世 界観 学 校. l We tanschaungsschul e を 設 けて は い る. tanschul が, 一般的には宗派別学校 Bekenntnisschule と 各 派共 同 学 校 Si 1 1 lul e に よ つ て, 極 め 1 3 J て合理的に徹底的に行われている. アメリカでは宗教と教育の分離から生まれた世俗化の行きすぎに対する反省から, 1913年 の週 間. 宗教教育運動. igious l Weekday Released‐time Rel i t ruct ns on とな り, つ い で1940年 の 宗 教 教 育. 委員会の第一回報告書となって本格化している, 即ち, 宗教が教育の上にもつ力を再確認 し, 宗教 についての指導が公立学校の教育に正 しい位置をもつべきだというのである, 問題の中心は宗教と 教育分離の根本原則を冒すことなく, いかに して教育と宗教を相関せしめるかということであり, 4 ) 学校と教団が有機的な協力の下に宗教教育を行うというところに新しい工夫をこら している1 ,. アメリカのようにキリスト教が圧倒的であり比較的に単一な宗教的伝統の国においても, 宗教に 5 )ことは考え とっての共通な根本信条を学校で教えるといつ考 え方に対 して, 否定的な意見が強い1. てみねばならない, 勿論, アメリカ教育が宗教に対 して中立性を守らざるを得ないのは, その民族 的従って宗派的な複雑性にも由るものである, だが現在では宗派によらない宗教教育, 即ち一般的 宗教教育が可能であるとの見通しが高まりつ ある, 即ち聖書朗読の許可や前述の週日宗教教育運 6 ) 動の前進が見られる1 , しか し, 学校が各宗 教に対 して中立性を持する限り, 人間改造につらなる ような積極的な宗教教育を行うことは困難ではなかろうか, そこまで要求 しないに しても, このよ う に アク ぬ き さ れ た一 般 的 宗 教 教育 が, 果 して どれ だ け の効 果 を 示 して い るの か と い う こ と に な る ) とメ イ (M.A. May) に よっ て ま とめ shorne と 甚 だ疑 わ しい, 例 え ばハ ー ト シ ョ ー ソ (H. Hart. られた評価では, 児童の道徳行為の向上や性格変化にさほ どの効果を示していない, 叉ペンシルバ ニア州立大学の最近の研究では, 校長や宗教教師から期待された項目についても余り効果がないこ 7 ) と を 示 して い る1 ,. こ >まで工夫 して一般化された宗教教育も,. 否一般化されたが故にそうであるのか, ともかく有. 名 無 実 の よう な 感 が あ るの は ど う した こと で あ ろ う か, アメ リ カ の場 合, 一 般 的 と い っ て も, な お キ リス ト教 と して の特 色は 残 り聖 書 は そ の ま. で ある, アメ リ カ の 宗 教 教 育 に お ける こ の 最 後の--. 線さえも撤去されて宗派性の皆無となった, それでいて宗 教的心情を培うような教育的宗教 --日 本にとっても叉今後の世界にとっても共通に求められるような宗教 --が果して存在しうるであろ. うか, 理論的に要請され, 観念的に成立すると しても, 事実として具体化され, 組織的に方法化さ れうるか どうか, もっと楓下げて究明する必要がある, 1) 2 ) 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9) lo ) 11 ) 12). 5頁 鰯藤幾大 「宗教教育の根本問題」 教 育学研究, 昭32 No .2 金子書房2 浅野考之 「宗教教育」 岩波講座, 教育科学昭7 20‐23頁 4 福村書店 59-82頁 召2 長田新 「宗教と教育」H 小原国芳 「教育の根本問題としての宗教」 昭25 玉川大学出版部 305‐310頁 画彫刻③宗教文学④自然の尊さ⑥式典の重大さ⑥社会の出来事⑦日曜学校 [ 岸 ゆき夫 「宗教現象とは何か」 宗教 研究 128号 昭271月号, 春E日用抜毛 ・30頁 唐沢富太郎 「献身の道徳と自己完成の道徳」 児童心理 昭331升月 52151[ 平塚益徳 「学校教育と宗教」 九大数数学部紀要 第1集 19 下程勇吉 「道徳教育の人間像」 昭31 熱明書房 159頁 小原国芳 前掲書 92頁 6頁 5 54-1 正木正 「教育の底にあるもの」 昭25 同学社 1 ; t 同 上 「教育的人間」 昭和28 同学社 281 3113 5頁 H ョ 同 上 「感化の教育心理学的構造」 京大教育学部紀要 I - - 一200-. ①雰囲気 (環境) ②絵.

(14) . 「教育的宗教」 に関する一考察 13) 下程勇吉篇 「世界各国の道徳教育」 昭33 数期書房 364頁 14) 岸本英失 「宗教教育」 教育研究辞典昭29 金子書房 769頁 i i ion i i i l l l t t c Educat 15) Commi ee on Re on and 日ducat on: The Re at on of Re on to pobl gi gi . , 1947 3 国民教育普及会 16頁 広安孝夫訳 「学校教育と宗教」 昭2 16) 平塚益億 「アメリカ教育 の根底にあるもの」 九大教育学部紀要 1952 , i ion) ig: Re igi l l t t and T. 日 uat rudion i n the Pub c School (Eval ooslns 17 ) W.E. Prat , (W. . Kend ionaI Resear S. Monroe: Encyc l a of Educat opedi ch .1030) ,1952 ,p. 4 . 教育的宗教は成立するか 科学の見地からする鋭い宗教批判も, 宗教そのもの 必要を全面的に否定するものでもなく, 叉 教育的観点からみた方法論の至難さも宗教教育 (人間改造における宗教の必要性) を断念させてし まう程のものではないとしたら, 科学からの批判に十分堪えうる科学性と, 教育の広場 にも組織的 に 具体化しうる普遍性とを具備 し, しかも人間改造の実績をあげうる実力をも兼備 した宗教の成立. いかんが残された課題である, 即ち原子力時代にふさわしい, このような新しい宗教, 叉は真実の ) 宗教 (も しあるとしたら) 平塚氏のいわゆる 「教育 的宗教1 」 , の成立可能性が問題となる, 可能性は必ずしも必要性か らひき出されるものではないが, 宗教に激 しい攻撃を浴びせかけた人 ) ) ラ メク リ シュ ナ ン6 ) な ど) が 同 時 に展 開 す る 宗 教 ) マ ンフ ポー ド4 ) ,5 々 (例 え ば, ラ ッ セ ル2 ,3 , ,. 必要論は, 新しい宗教の成立を検討する上に貴重な示唆を与えるものである, しか し, こ ではそ れらを論ずる余白もないので, 新しい普遍的宗教成立の根本的前提となる宗教の不可避性, 叉は共 通の信仰の地盤ともなるべきものについて端的に究明 してみたい、 宗教を心理的内面的な見地からみて信仰 (叉は信念) として捉え, 信仰の必要性から進んで絶対 不 可 避 性 に ま で論 及 した も の と して は, ラ ダク リ シ ュ ナ ソの 「信 仰 の回復」 や テ ィ リ ッ ヒ (P .. Ti l i ch) の 「信 仰 の 力 学」 が あ げ られ る, ラ ダク リ シ ュ ナ ンはい う, 「信 仰 な しに 生 き る こ と ば不. 可能である, 自然が真空の恐怖をもつなら人間の魂は空虚の恐怖をもつ, ……人間は未知の恐怖に 堪えられないから何かを信じようとする, 近代人のよるべなき魂はいっ迄もさ迷いつづ けはしない )」 と解 明 した 後, 「信 仰 は 時代 と共 に常 に ある, 変 わ る のは 対象 のみ で あ る, …… 信 ず る だろ う7 , )」 と信 仰 の 不 可避 性 を 力 説 す る, 事 実, 我 こと は 難 し い が, 信ず る こと の 必 要 は の が れ ら れ な い8 .. 々が日常生活行動の基盤としている我々自身の心理分析, 心境反省を行う時, 絶対的な無信という ことは成立 しないことが分る, 何かを信じないでは一挙手, 一投足, 一思考すら不可能である, 人 ) とさえい うる, この点を明確に 間存在そのもの 発生基盤が既に前論理的に信仰的存在である9 見透 してティリッヒは次のように信仰の力学を主張する, 即ち, 「信仰が自己を主張し信仰の攻撃 者に対 して自己を正当化するのは, 攻撃者自身も亦何かの信仰によらないでは この信仰を攻撃出来. ないからである, どんなに信仰を否定しようとしても, やはりその否定自体が, 基盤にある根本信 o )」 と述べて信仰の 仰 の 表 現 で あ る と いう こと に な る, こ > に 信仰 の力 学 の 勝利 が示 され てい るl . ポ 絶対不可避性に決定的な論断を下 したかの感がある, オル ー トも同様な見解を表明して, 「人に よっては, もとより充分な確証がなければ宗教的な言説を受け入れえないとする, -しかもそれ と同じ人たちが日常生活においては喜んで確率に身を委せている, 彼らは確証なくしては一歩も進 む 力 が なく な る と 恐 れて い る よ う に 見 え る, 彼 ら の ジ レンマは 自由 教育 の反 対 者 に よ っ て 述 べ られ 1 )」 と述 べ て い る る も のに 似 て い る1 . ,. この様に信仰はそれを観念的に肯定するか否定するかに関係なく, その基盤に事実として何らか の信仰 (信念) をもつことにおいて, 例外なく万人共通に信仰者たらざるを得ないとすれば, そこ に デ ュ ーイ の述 べ る 「共 通 の 信 仰」 が 成 立 しう る 可能 性 が で てく る, デ ユ ーイ は こ の よ う な 共 通 の - 201 ‐.

(15) . 草. 刈. 善. 造. 信仰を 「宗教的なもの」 として次のように説明 している, 即ち, 人間性を直観 して, 人間は一つの 大いなる全体の一部でありそれに協力している部分であるという意識をもっと人間の尊厳が感rら れてくる, その意識は畏敬や崇敬の感に劣らず宗教的なものである, ……理解と知識も亦宗教的特 性をもった全体的見透 しの中に入ってくる,・一定の方向をめざした人間の協力的な努力によって, 常に真理を見出しっ 2 )」 備 え てし・る1 .. ある信仰は既に完成して しまった啓示を信ずる信仰より遥かに宗教的特性を. と 述 べ て い る が, デ ュ ーイ に あっ て は, ドグ マ, 神, 天 啓 な ど の 固定 的 な 信仰 よ. りもむ しろ理想ない し真理に向う人間の態度 こそ 「宗教的」 であり, そこに万人共通の信仰がある と みる よ う で あ る,. ついでデューイは, このように理想に向って現 実と取組む科学的知性や哲学的理性などの協力的 努力 こそ 「神」 の名 に値するものであり, これを通 してのみ人間社会は着実な進歩をなしうるとし. て, このような 「社会的知性」 に深い信頼 (信仰) をよせる, そしてこの信仰内容を次のように具 体的に解明する, 「我々艮 =ち現在生きている我々は遠い過去にまでつながっている人間存 在の一部 でもある, 叉大自然と相互に影響 しあう人間存在の一部でもある, 文明の中にあるもので最も大切. なものは我々自身ではない, 大切なものは永続的な人間社会の営みや苦労のおかげで存在している ものである, 我々はその永続的な社会の一環である. 我々が受け継いだ遺産と しての価値を保存 し 伝 え, 調 え, 広 げ る こ と が 我々 の 責任 で あ る, そ して 我 々 よ り 後に 来 る も の が, そ れ を 我 々 が受 け. ついだよりも, もっと充実し安定し, もっと広く受け入れられ, もっと豊かに分ちあえるようにす る こ と で あ る, こ >に宗教的信仰に必要 なすべての要素が宗派, 階級, 民族に制限されることなく 存在する.」 とい. 最後に, 「かくの如き信仰は常に暗黙の中に人類にとって共通な誰でもの信仰. 3 )」 で あ っ た, そ して そ れ を も っ と 鮮 明に し, も っ と 溌 刺 と させ る こ と が残 さ れ た 仕事 で あ る1 .. と. 無理なく結んでいる, 新しい宗教が科 学性と普遍性を具備 した共通の信仰を基盤とするものであるとすれば, 以上のデ ューイの考え方は比較的無理なく この要請に答えるものではなかろうか, 即ち, 名もなき民の心を 貫く人生観, 世界観, 全人類の心の底流となって脈樽っ民主主義の哲学, 信仰, 従って叉民主主義. の宗教とでも言いうるものに近いのではなかろうか。 そこでは, 万人にとって容易には開顕しそう にもない神性や霊性に代って, より普遍性をもった 「社会的知性」 によって世界はつながれる可能 性を増 してくる, こ の よ うな 普 遍 性 を も つ 新 しい 世 界 的 宗 教 の 性 格 に つ い て ペ リイ (R. B. Perry) は, 「こ. で定. 義する正 しい宗教は全人類が直面する状況から湧き出た宗教である, 一般的ですべての既成宗教に. 共通の意味を与える宗教である, 自然の実在に根をもち, 自然環境の中に存在し, 人間の自然的能 力 (智恵) 以外に何らの能力を要 しない, 叉経験的知識とその限界を認める以外に何らの啓示を要 しない自然宗教である, これがあらゆる既成宗教から脱して再出発する時に人類が手に入れる宗教 4 )」 と述べる ペリイのいう様に 自然的能力と経験的知識以外に神や啓示を必要としな で あ る1 . . ,. l igi い観点からみれば, これは叉 「智恵の宗教」 The Wi sdom Re on と も 言 え る で あ ろ う, ハイ ド H 「 (L d ) が 懐疑主義や唯物主義を去って宗教にその道を求めっ ある大衆は, 父祖の信仰に . ye 5 」 帰 る の で は な く て, 或 る意 味 の 智 恵 の宗 教 へ 向 っ て い る の で ある1 .」. と 述 べ てL・る の は そ の一 例. であ ろ う,. 一 方, 新 しい 宗 教 を 真 実 の 宗 教 と して 把 え る立 場 か ら は, ラ ダク リ シ ュ ナ ソ が , 「真 の宗 教 は ど. .時空を超えて広がる んな信条, ドグマ的感傷, 超自然的要素にも束縛されない簡素なものである, ‘ 霊性 (智恵) の実在を肯定する, その実践的表現は ‘ good をなす者が god で あ る” と い う格 言 6↓」 で ある, 正 しく 行 い, 美 を 愛 し, 真理 と共 に 謙 虚 に 歩 む こ とが 最高 の 宗 教 で あ る1 2州 -20. とい , 叉.

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