中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
著者名(日) 郭 建[著], 王 建宜[翻訳]
雑誌名 山梨学院大学法学論集
巻 39
ページ 1‑26
発行年 1998‑02‑17
URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000797/
論 説
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
その背景と準備
1 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
復旦大学法律系副教授
南開大学外文系教授山梨学院大学客員教授 郭 建 著王 健宜 訳
中日両国はいずれも近代に入ってから法律体系を整えたものであり︑民事法体系においてもヨーロッパをはじめ
とする西洋法文化を吸収・消化した上で民事法の制定に着手しようとしたのである︒だが︑実際には西洋の民事法
をそのまま継受したものと言ってもいいであろう︒
民法制定のプロセスは中日両国において必ずしも同じではない︒日本は一九世紀の末に既に民法典を公布し︑今
世紀の初頭にはその整備をはかり比較的安定した民事法体系を確立することが出来た︒一方︑中国は今世紀の初頭
に民事法の制定に着手し︑三〇年代になって初めて民法典を公布するに至ったが︑それは新中国の誕生に伴って社
会に認められなくなり︑公布後十年で廃止された︒その後︑民法典がない状況は今日まで続いている︒ 呈A
日間
説
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
ーーーその背景と準備
1 1 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
復E大学法律系副教授
郭 建
著
南 開 大 学 外 文 系 教 授
山梨学院大学客員教授
健宜
訳 王
中日両国はいずれも近代に入ってから法律体系を整えたものであり︑民事法体系においてもヨーロッパをはじめ
をそのまま継受したものと言ってもいいであろう︒ とする西洋法文化を吸収・消化した上で民事法の制定に着手しようとしたのである︒だが︑実際には西洋の民事法
民法制定のプロセスは中日両国において必ずしも同じではない︒日本は一九世紀の末に既に民法典を公布し︑今
世紀の初頭にはその整備をはかり比較的安定した民事法体系を確立することが出来た︒一方︑中国は今世紀の初頭
に民事法の制定に着手し︑三
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年代になって初めて民法典を公布するに至ったが︑それは新中国の誕生に伴って社会に認められなくなり︑公布後十年で廃止された︒その後︑民法典がない状況は今日まで続いている︒
2
説 論
パ レ 現在︑中国は民法典の起草を検討しているところである︒
こうした状況のもとで︑中日両国の民法近代化過程の比較研究は学術上・実際上の意味を有するものと考え︑本
研究に取り組もうとしたものである︒
本研究の比較対象は︑いわゆる民法近代化の過程︑つまり民法典の起草から公布までの道程に限定したい︒換言
すれば︑一九世紀の六〇年代から同世紀の末までの日本の民法立法過程と二〇世紀初頭から同世紀の三〇年代まで
の中国の民法立法過程の比較研究と言い得る︒また︑本研究は︑中日両国の民法近代化の意義とその相違点︑並び
にその原因と影響︑外来の法律文化への吸収と消化の場合における共通の規則の有無︑継受した外来の法律文化と
伝統的法律文化の協調と整合が如何なる形で行なわれるべきか︑等々に重点を置いて考察を試みたい︒
しかして︑今回は紙面及び資料などの制限から︑本稿は上記の研究の第一段階として主に中日両国の民法の近代
化における政治︑社会背景︑法律文化の伝統的要因︑思想準備などの面に焦点を絞ってその相違点の比較を試みた
いと思う︒
法律は真空状態にあるものでなく︑その改正と変更は社会や政治の変化を反映するものである︒民法も同様であ
る︒中日両国の民法近代化は基本的に当時の政治的要請によっていたものであり︑必ずしも両国の経済発展と人民
の福利的な要望に応えようとするものではなかった︒両国の民法近代化は同じく巨大な政治的圧力のもとに行なわ
2
現在︑中国は民法典の起草を検討しているところである︒
説
こうした状況のもとで︑中日両国の民法近代化過程の比較研究は学術上・実際上の意味を有するものと考え︑本
研究に取り組もうとしたものである︒
論
本研究の比較対象は︑いわゆる民法近代化の過程︑つまり民法典の起草から公布までの道程に限定したい︒換言
すれ
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一九世紀の六0年代から同世紀の末までの日本の民法立法過程と二
O
世紀初頭から同世紀の三0年代までの中国の民法立法過程の比較研究と言い得る︒また︑本研究は︑中日両国の民法近代化の意義とその相違点︑並び
にその原因と影響︑外来の法律文化への吸収と消化の場合における共通の規則の有無︑継受した外来の法律文化と
伝統的法律文化の協調と整合が如何なる形で行なわれるべきか︑等々に重点を置いて考察を試みたい︒
しかして︑今回は紙面及び資料などの制限から︑本稿は上記の研究の第一段階として主に中日両国の民法の近代
化における政治︑社会背景︑法律文化の伝統的要因︑思想準備などの面に焦点を絞ってその相違点の比較を試みた
いと
思う
︒
法律は真空状態にあるものでなく︑その改正と変更は社会や政治の変化を反映するものである︒民法も同様であ
る︒中日両国の民法近代化は基本的に当時の政治的要請によっていたものであり︑必ずしも両国の経済発展と人民
の福利的な要望に応えようとするものではなかった︒両国の民法近代化は同じく巨大な政治的圧力のもとに行なわ
3 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
れたものである以上︑その民法立法の当時の政治背景を一通り検討しなければならないと思われる︒
両国の民法立法の政治的背景について本研究は次の四つの方面からアプローチし比較を行なうことができよう︒
つまり︑民法立法の動機︑国際状況及び外交面からの圧力︑法制改正を迫る政治権力の状況︑民法に対する社会の
受容程度等がそれである︒
まず︑民法立法の動機について言えば︑中日両国とも領事裁判権の回収と関税自主権の確立を図る目的から民法
近代化を進めたわけである︒この過程はある意味で言えば︑外交問題であり︑単なる内政上の要因に伴う立法過程
を辿ったわけではないと思う︒
一八四二年︑阿片戦争に敗北して以来︑中国は西洋列強と一連の不平等条約の締結を強いられ︑領土割譲と賠償
金支払いを強要され︑関税自主権を奪われた︒一八四三年にイギリスとの間に結ばれた﹁中英五港通商協定﹂によ
ってイギリスは中国での領事裁判権を獲得した︒以来︑西洋列強は相次いでこれを前例にして中国における領事裁
判権を強要した︒日本の状況も中国と類似していた︒一八五三年に開国を強いられて以来︑英米等西洋列強との間
に結ばれた一連の不平等条約により日本は領事裁判権を強要され︑関税自主権を失ってしまった︒
領事裁判権を回復するため︑日本は明治維新が行なわれた一八六八年から西洋の法制についての研究と導入の仕
事をスタートさせ︑外交と法制改革の両方から領事裁判権の廃止を積極的に働きかけた︒明治五年︵一八七二年︶︑
日本はヨーロッパヘ八人の訪間団を派遣し︑ヨーロッパの法律を実地調査した︒そして西洋から法律の専門家を招
き︑立法関係の指導を受けた︒明治十二年︵一八七九年︶から西洋列強と条約改正の交渉を開始した︒明治二十年
︵一八八七年︶﹁裁判管轄条約案﹂では条約締結後二年以内に日本は泰西式法典を編さん・整備することを約束し れ
たも
ので
ある
以上
︑
その民法立法の当時の政治背景を一通り検討しなければならないと思われる︒
両国の民法立法の政治的背景について本研究は次の四つの方面からアプローチし比較を行なうことができよう︒
つまり︑民法立法の動機︑国際状況及び外交面からの圧力︑法制改正を迫る政治権力の状況︑民法に対する社会の
受容程度等がそれである︒
まず︑民法立法の動機について言えば︑中日両国とも領事裁判権の回収と関税自主権の確立を図る目的から民法
近代化を進めたわけである︒この過程はある意味で言えば︑外交問題であり︑単なる内政上の要因に伴う立法過程
を辿ったわけではないと思う︒
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
一八四二年︑阿片戦争に敗北して以来︑中国は西洋列強と一連の不平等条約の締結を強いられ︑領土割譲と賠償
金支払いを強要され︑関税自主権を奪われた︒一八四三年にイギリスとの聞に結ぼれた﹁中英五港通商協定﹂によ
ってイギリスは中国での領事裁判権を獲得した︒以来︑西洋列強は相次いでこれを前例にして中国における領事裁
判権を強要した︒日本の状況も中国と類似していた︒一八五三年に開国を強いられて以来︑英米等西洋列強との間
に結ぼれた一連の不平等条約により日本は領事裁判権を強要され︑関税自主権を失ってしまった︒
領事裁判権を回復するため︑日本は明治維新が行なわれた一八六八年から西洋の法制についての研究と導入の仕
事をスタートさせ︑外交と法制改革の両方から領事裁判権の廃止を積極的に働きかけた︒明治五年(一八七二年)︑
日本はヨーロッパへ八人の訪問団を派遣し︑ヨーロッパの法律を実地調査した︒そして西洋から法律の専門家を招
き︑立法関係の指導を受けた︒明治十二年(一八七九年)から西洋列強と条約改正の交渉を開始した︒明治二十年
3
(一八八七年)﹁裁判管轄条約案﹂では条約締結後二年以内に日本は泰西式法典を編さん・整備することを約束し
4
説 論
た︒民法典の起草はこの時点から実質的な段階に入った︒フランスの法律家ボアソナアド︵日本雇用期間︑一八七
三ー九五︶の起草した民法典の財産取得編︑債権担保編︑証拠編はこのごろに出来上がっていた︒
一九〇一年中国は八ケ国連合軍の対中侵略戦争に負けたため︑屈辱の﹁辛丑条約﹂を結ばざるを得なかった︒光
緒二十八年︵一九〇二年︶イギリスと通商条約を修正する時︑﹁中国は西洋諸国の法律に合致するように自国の法
律整備に力を入れる︒イギリスはこれが成功するように協力することを約束する︒中国の法律並びに審判方法及び ︵2︶一切の関連事項が完備されたと判断された時点で︑イギリスは治外法権を放棄することを約束する﹂と合意した︒
その後︑清朝政府が他の列強と交わした協定にも類似したような規定が書きこまれた︒同年︑清朝政府は新しい法
典の編纂に着手し︑沈家本︵一八三七〜一九二︶︑伍廷芳︵一八四二〜一九二二︶を修訂法律大臣に任命した︒ パ レ﹁以来︑法律を議論する人は皆領事裁判権に意を置いた﹂︒一九〇三年︑﹁商人通例﹂と﹁公司律﹂が公布され︑一
九〇七年︑民法典の起草も本格的に始動した︒一九〇八年︑日本の法学者志田鐸太郎︵当時︑東大教授︑後に明大
総長などに就任︶松岡義正︵当時︑大審院判事︶が招聰され︑民法典総則︑債権︑物権の三編の起草を担当するこ
ととなった︒それを完成したのは一九一一年である︒
以上︑簡単な回顧から分かるように︑両国の民法典の起草は列強の領事裁判権の廃止という目標の外交戦略のも
とに展開したもので︑起草過程において国内の民事行為の規範化︑国内の社会経済発展の需要等のような問題は殆
ど度外視された︒つまり︑政治外交の動機が圧倒的に強かったのである︒
また︑民法典の制定がこれほど外交情勢と密接な関係を持っていたが︑両国の受けていた外交の圧力の相違によ
り︑民法典の制定及び西洋の法律の導入に対す両国の態度も違っていた︒
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た︒民法典の起草はこの時点から実質的な段階に入った︒フランスの法律家ボアソナアド(日本雇用期間︑
一八
七 説
一 一 一
l九
五)
の起草した民法典の財産取得編︑債権担保編︑証拠編はこのごろに出来上がっていた︒
一九
O一年中国は八ヶ国連合軍の対中侵略戦争に負けたため︑屈辱の﹁辛丑条約﹂を結ばざるを得なかった︒光
論
緒二十八年(一九O二年)イギリスと通商条約を修正する時︑﹁中国は西洋諸国の法律に合致するように自国の法
律整備に力を入れる︒イギリスはこれが成功するように協力することを約束する︒中国の法律並びに審判方法及び
一切の関連事項が完備されたと判断された時点で︑イギリスは治外法権を放棄することを約束する﹂と合意した︒
その後︑清朝政府が他の列強と交わした協定にも類似したような規定が書きこまれた︒同年︑清朝政府は新しい法
典の編纂に着手し︑沈家本(一八三七
1
一九一ご︑伍廷芳(一八四二i
一九二二)を修訂法律大臣に任命した︒﹁以来︑法律を議論する人は皆領事裁判権に意を置いた﹂︒
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一二
年︑
﹁商
人通
例﹂
と﹁
公司
律﹂
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九O七年︑民法典の起草も本格的に始動した︒
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O八年︑日本の法学者志田錦太郎(当時︑東大教授︑後に明大
総長などに就任)松岡義正(当時︑大審院判事)が招聴され︑民法典総則︑債権︑物権の三編の起草を担当するこ
ととなった︒それを完成したのは一九一一年である︒
以上︑簡単な回顧から分かるように︑両国の民法典の起草は列強の領事裁判権の廃止という目標の外交戦略のも
とに展開したもので︑起草過程において園内の民事行為の規範化︑国内の社会経済発展の需要等のような問題は殆
ど度
外視
され
た︒
つまり︑政治外交の動機が圧倒的に強かったのである︒
また︑民法典の制定がこれほど外交情勢と密接な関係を持っていたが︑両国の受けていた外交の圧力の相違によ
り︑民法典の制定及び西洋の法律の導入に対す両国の態度も違っていた︒
5 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
日本は西洋から直接侵略をうけていなかったため︑開港後︑一連の不平等条約を強いられたが︑西洋の侵略によ
る圧力は中国よりずっと軽かった︒相対的に言えば︑領事裁判権に関する問題が非常に目立った︒だから︑不平等
条約の改正は当時の日本外交の中心的問題だったとも言える︒明治政府は早くも成立の時から領事裁判権の交渉問
題に留意し︑法制改革の形でその交渉を始めると速やかに決定した︒これは日本に領事裁判権が確立してから十余
年しか立っていない時である︒
一方︑中国は西洋列強から一連の直接な軍事侵略と経済干渉を受けていた︒最初は領事裁判権問題は外交交渉の
焦点ではなかった︒実際上︑一八四三年にイギリスと通商協定を結んだ時︑清朝政府は何も不安を感じていなかっ
たようである︒むしろ︑これによって外国との摩擦が解消でき︑手問が省けると考えていたらしい︒一九世紀の中
国外交の焦点は︑如何にして領地割譲と戦争賠償金を免れるかにあった︒一八四〇年〜一八四二年の阿片戦争︑一
八五六年〜一八六九年の第二次阿片戦争︑一八八三年の中仏戦争︑一八九四年の中日甲午戦争︵日清戦争︶︑一九
〇〇年の義和団運動と八ケ国連合軍の中国侵略等々の戦争のすえ︑いずれも中国側は領地割譲か償金支払い︑或い
はその両方を強いられてしまった︒これらの戦争により︑中国は全ての藩属国を失ったばかりでなく︑広範な固有
の領土も失った︒列強の間から﹁中国を分け合おう﹂という叫びさえ出てきた︒毎回の戦争償金は当時の清朝政府
の年収の数倍乃至十数培に及んだ︒危機が踵を接するように現われてくる局面に対して︑清朝政府はもっと大きい
危機が来ないようにと受け身的態勢しか取れなかった︒中国の最初の外国駐在大使郭嵩煮︵一八一八−九一︶が政
府に提出した報告書が投げ遣りの口調で書かれていたように︑清朝外交はコロで言えば︑一時的な間に合わせに パ レ過ぎない﹂ということだった︒ 日本は西洋から直接侵略をうけていなかったため︑開港後︑一連の不平等条約を強いられたが︑西洋の侵略によ
る圧力は中国よりずっと軽かった︒相対的に言えば︑領事裁判権に関する問題が非常に目立った︒だから︑不平等
条約の改正は当時の日本外交の中心的問題だったとも言える︒明治政府は早くも成立の時から領事裁判権の交渉開
題に留意し︑法制改革の形でその交渉を始めると速やかに決定した︒これは日本に領事裁判権が確立してから十余
年しか立っていない時である︒
一方︑中国は西洋列強から一連の直接な軍事侵略と経済干渉を受けていた︒最初は領事裁判権問題は外交交渉の
焦点ではなかった︒実際上︑一八四三年にイギリスと通商協定を結んだ時︑清朝政府は何も不安を感じていなかっ
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
たようである︒むしろ︑これによって外国との摩擦が解消でき︑手間が省けると考えていたらしい︒一九世紀の中
国外交の焦点は︑如何にして領地割譲と戦争賠償金を免れるかにあった︒
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年1
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戦争
︑
一八九四年の中日甲午戦争(日清戦争)︑八五六年
1
一八六九年の第二次阿片戦争︑一八八三年の中仏戦争︑九
00
年の義和団運動と八ヶ国連合軍の中国侵略等々の戦争のすえ︑いずれも中国側は領地割譲か償金支払い︑或い
はその両方を強いられてしまった︒これらの戦争により︑中国は全ての藩属国を失ったばかりでなく︑広範な固有
の領土も失った︒列強の聞から﹁中国を分け合おう﹂という叫びさえ出てきた︒毎回の戦争償金は当時の清朝政府
の年収の数倍乃至十数培に及んだ︒危機が腫を接するように現われてくる局面に対して︑清朝政府はもっと大きい
危機が来ないようにと受け身的態勢しか取れなかった︒中国の最初の外国駐在大使郭嵩薫(一八一八ー九こが政
5
府に提出した報告書が投げ遣りの口調で書かれていたように︑清朝外交は﹁一口で言えば︑
過ぎない﹂ということだった︒ 一時的な間に合わせに
6
説 論
政府文書の中で︑法律の部分改正と領事裁判権の廃止談判に初めて正式に触れたのは他でもなくこの初代大使を
勤めた郭氏であった︒光緒三年︵一八七七年︶︑郭嵩煮は﹁請纂成通商則例折﹂︵通商条例の制定を請う上奏文︒訳
者注︶の中で︑領事裁判権の廃止を求めるため︑特別に通商地域のための訴訟制度を設け︑それを各国に告知する せつようにと要望した︒光緒五年︵一八七九年︶洋務派官僚醇福成︵一八三八〜九四︶が李鴻章に出した建言書﹁簿洋
舞議﹂の中にも︑﹁中国が条約を結ぶ際に︑普通のように見えるが実は大きな落し穴になるものが二つある︒一つ
は︑一国が利益を得れば各国がそれを均等に取ろうとする︒⁝⁝もう一つは外国人が中国に居乍ら中国政府の管轄
パ レに従わない﹂︒醇福成も各通商港に専門機関を設け︑﹁中国と西洋の法律を参照し﹂訴訟を行なうようにと提案し
た︒ 中国が初めて領事裁判権の廃止を申し出たのは︑領事裁判権が既に確立してから三十余年後のことである︒これ
は︑清朝政府の頑固︑保守︑無能にも起因するが︑列強による侵略の圧力も無視できない︒当時︑上述した二人の
先人はまだ全般的に法制改革の重要性に気付かず︑ただ部分的な﹁間に合わせ﹂に満足していた︒本格的に法制改
革を以て領事裁判権を取り消そうとしたのは一九〇二年になってからのことで︑つまり領事裁判権が確立してから
五十九年も経った後のことである︒
もう一つ日本と違ったのは︑列強が中国を極東地域の主な侵略目標に定め︑中国で勝ち取った特権を簡単に放棄
しようとしなかったことである︒かれらは︑その特権を放棄すると中国人民から厳しい報復を受けることになるだ
ろうと危惧した︒中国の法律は不健全だというのは単なる列強たちの口実にすぎない︒実際は︑一九三〇年代に中
国が全ての新法律を公布した後でも︑英米をはじめとする列強諸国は決して約束通りに領事裁判権を放棄していな
6
政府文書の中で︑法律の部分改正と領事裁判権の廃止談判に初めて正式に触れたのは他でもなくこの初代大使を
説
勤めた郭氏であった︒光緒三年(一八七七年)︑郭嵩薫は﹁請纂成通商則例折﹂(通商条例の制定を請う上奏文︒訳
者注)の中で︑領事裁判権の廃止を求めるため︑特別に通商地域のための訴訟制度を設け︑それを各国に告知する
ようにと要望した︒光緒五年(一八七九年)洋務派官僚醇福成(一八三八
i
九四)が李鴻章に出した建言書﹁箸洋三ゐ、日間
第議﹂の中にも︑﹁中国が条約を結ぶ際に︑普通のように見えるが実は大きな落し穴になるものがこつある︒
つ
は
一国が利益を得れば各国がそれを均等に取ろうとする︒:::もう一つは外国人が中国に居乍ら中国政府の管轄
に従わない﹂︒醇福成も各通商港に専門機関を設け︑﹁中国と西洋の法律を参照し﹂訴訟を行なうようにと提案し
中国が初めて領事裁判権の廃止を申し出たのは︑領事裁判権が既に確立してから三十余年後のことである︒これ た ︒
は︑清朝政府の頑固︑保守︑無能にも起因するが︑列強による侵略の圧力も無視できない︒当時︑上述した二人の
先人はまだ全般的に法制改革の重要性に気付かず︑ただ部分的な﹁間に合わせ﹂に満足していた︒本格的に法制改
革を以て領事裁判権を取り消そうとしたのは一九
O
二年になってからのことで︑つまり領事裁判権が確立してから五十九年も経った後のことである︒
もう一つ日本と違ったのは︑列強が中国を極東地域の主な侵略目標に定め︑中国で勝ち取った特権を簡単に放棄
しようとしなかったことである︒かれらは︑その特権を放棄すると中国人民から厳しい報復を受けることになるだ
ろうと危倶した︒中国の法律は不健全だというのは単なる列強たちの口実にすぎない︒実際は︑
一九
三0年代に中
国が全ての新法律を公布した後でも︑英米をはじめとする列強諸国は決して約束通りに領事裁判権を放棄していな
7 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
かった︒かれらは相も変らずさまざまな口実をでっちあげ談判を遅らせた︒一九三一年﹁九二八事変﹂以降︑日
本が中国を侵略し︑中国の奥地まで徐々に進出した︒これによって中国は条約改正の外交談判における主導権を奪
われ︑もともと進行中の領事裁判権廃止の談判も結果のないままに中止した︒太平洋戦争勃発後︑日本の軍事勢力
を牽制し︑中国政府を積極的に参戦させるため︑英米両国は在中国の領事裁判権を放棄すると初めて宣言した︒こ
れは実は中国に領事裁判権が出来てからまる一世紀を経った一九四二年年末のことであった︒
また︑当時の中日両国の国内政治情勢も大きく異なった︒法制改革を始めた当時の中国は統一から分裂への政治
的混乱期にあり︑中央集権は段々と機能しなくなり︑支配者は最も基本的な政策についても共通の認識に達するこ
とがなかった︒
清朝政府は﹁辛丑条約﹂を結んだ後︑政治的にアピールする力を持たなくなった︒地方の総督巡撫が独自な政治
基盤を持つようになったため︑清朝政府は逆に重要政策は地方権力者の合意がなければ成り立たなくなった︒法制
改革を宣言した後︑清朝政府は一九〇六年の﹁憲政導入﹂と強要され︑官制改革も迫られた︒また︑洋務派官僚の
湖広総督張之洞︵一八三七〜一九〇七︶と両江総督劉坤一︵一八三〇〜一九〇二︶の要求を取り入れ残酷な刑罰を
廃止すると宣告した︒しかし︑ちょうど民事法典の起草が始まったその時に︑全国的革命の到来がもたらされた︒
一九一一年に民事法典の第一稿が出来ると同時に︑辛亥革命が勃発し清朝政府が滅んだ︒だが︑革命の成果が直ち
に哀世凱の手に落ち︑各省の軍閥勢力も徐々に台頭した︒民国初頭のわずかな平和時期が過ぎた後︑全国的な軍閥
混戦が相次いだ︒北京にある北洋政府は形式上の統一を保つことさえ出来なくなり︑政権は相次ぎ安徽系軍閥︑直
隷系軍閥︑奉天系軍閥に牛耳られ︑軍閥の間の戦争が止まなかった︒このような状況では︑誰も民法典の起草と制 かった︒かれらは相も変らずさまざまな口実をでっちあげ談判を遅らせた︒一九=二年﹁九・一八事変﹂以降︑日
本が中国を侵略し︑中国の奥地まで徐々に進出した︒これによって中国は条約改正の外交談判における主導権を奪
われ︑もともと進行中の領事裁判権廃止の談判も結果のないままに中止した︒太平洋戦争勃発後︑日本の軍事勢力
を牽制し︑中国政府を積極的に参戦させるため︑英米両国は在中国の領事裁判権を放棄すると初めて宣言した︒こ
れは実は中国に領事裁判権が出来てからまる一世紀を経った一九四二年年末のことであった︒
また︑当時の中日両国の圏内政治情勢も大きく異なった︒法制改革を始めた当時の中国は統一から分裂への政治
的混乱期にあり︑中央集権は段々と機能しなくなり︑支配者は最も基本的な政策についても共通の認識に達するこ
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
とが
なか
った
︒
清朝政府は﹁辛丑条約﹂を結んだ後︑政治的にアピールする力を持たなくなった︒地方の総督巡撫が独自な政治
基盤を持つようになったため︑清朝政府は逆に重要政策は地方権力者の合意がなければ成り立たなくなった︒法制
改革を宣言した後︑清朝政府は一九O六年の﹁憲政導入﹂と強要され︑官制改革も迫られた︒また︑洋務派官僚の
湖広総督張之洞(一八三七
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一九
O七)と両江総督劉坤一
(一
八三
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一九
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二)
の要求を取り入れ残酷な刑罰を
廃止すると宣告した︒しかし︑ちょうど民事法典の起草が始まったその時に︑全国的革命の到来がもたらされた︒
一九一一年に民事法典の第一稿が出来ると同時に︑辛亥革命が勃発し清朝政府が滅んだ︒だが︑革命の成果が直ち
に裳世凱の手に落ち︑各省の軍閥勢力も徐々に台頭した︒民国初頭のわずかな平和時期が過ぎた後︑全国的な軍閥
混戦が相次いだ︒北京にある北洋政府は形式上の統一を保つことさえ出来なくなり︑政権は相次ぎ安徽系軍閥︑直
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隷系軍閥︑奉天系軍閥に牛耳られ︑軍閥の間の戦争が止まなかった︒このような状況では︑誰も民法典の起草と制
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説 論
定に力を入れない︒修訂法律館という機関は相変わらず存在したものの︑どうでもいいような寂しい役所になって
しまった︒一九ニニ年ワシントン会議の席上︑中国代表団は領事裁判権廃止を提案したが︑列強諸国は調査員を派
遣し中国の司法状況を調査したあとで決めると主張した︒北洋政府はこれで初めて司法部に立法を急がせ︑一九二
五年外国調査団が到着する前に民法典の起草公布を完了するように命令した︒しかし︑この第二次の民法典の草案
が出来た時︑当時この決定を下した直隷系北洋政府は既に崩壊していた︒奉天系軍閥のバックアップを得た北京臨
時政府は始終いわゆる﹁法統﹂を実現できず︑民事法典も可決出来なかった︒それと同時に︑対立する南京国民政
府は一九二七年の後半から法制局に独自に民法典を起草させ︑一九二九年〜一九三〇年の間に民法典の各編を公布
した︒しかし︑その後連年の軍閥戦争と共産党撲滅作戦といった内戦に追われたためにこの民法典の実施をまった
く重視しなかったし︑社会からの承認も得られなかった︒
もう一方︑日本は民法典を起草公布した時期はちょうど国が分裂から統一に移行する時期に当たり︑中央政権が
強化される時期だった︒民法典の起草は廃藩置県と中央集権の政治環境の下で行なわれた︒新しい中央政府が民法
典の制定に全力を注いだ大きな理由は︑新法典の公布を以て領事裁判権を廃止することは新政権の人望と権威を高
めるのに好都合だったからである︒その間︑短期間の内戦と長期間の藩閥闘争や︑民事法典の起草を先立って推進
した司法卿江藤新平が後に佐賀の乱に参加したため刑死させられたことがあったにもかかわらず︑民法典の起草は
スムーズに進んでいたことは︑当時の日本政府はこれに対して共通の認識を持っていたからだと考えられる︒
最後に︑法制改革の及んだ地域から見れば︑中国は国土が広く各地の政治経済及び社会の発展が不均衡であるた
め︑新しいことの伝播︑浸透は極めて遅いのに対し︑日本は小国であり︑また地理︑人口︑文化等の面では中国に
8
定に力を入れない︒修訂法律館という機関は相変わらず存在したものの︑どうでもいいような寂しい役所になって
説
しま
った
︒
一九二二年ワシントン会議の席上︑中国代表団は領事裁判権廃止を提案したが︑列強諸国は調査員を派
遣し中国の司法状況を調査したあとで決めると主張した︒北洋政府はこれで初めて司法部に立法を急がせ︑
九
三A、
日開
五年外国調査団が到着する前に民法典の起草公布を完了するように命令した︒しかし︑この第二次の民法典の草案
が出来た時︑当時この決定を下した直隷系北洋政府は既に崩壊していた︒奉天系軍閥のバックアップを得た北京臨
時政府は始終いわゆる﹁法統﹂を実現できず︑民事法典も可決出来なかった︒それと同時に︑対立する南京国民政
府は一九二七年の後半から法制局に独自に民法典を起草させ︑一九二九年
1
一九
三
O
年の聞に民法典の各編を公布した︒しかし︑その後連年の軍閥戦争と共産党撲滅作戦といった内戦に追われたためにこの民法典の実施をまった
く重視しなかったし︑社会からの承認も得られなかった︒
もう一方︑日本は民法典を起草公布した時期はちょうど国が分裂から統一に移行する時期に当たり︑中央政権が
強化される時期だった︒民法典の起草は廃藩置県と中央集権の政治環境の下で行なわれた︒新しい中央政府が民法
典の制定に全力を注いだ大きな理由は︑新法典の公布を以て領事裁判権を廃止することは新政権の人望と権威を高
めるのに好都合だったからである︒その問︑短期間の内戦と長期間の藩閥闘争や︑民事法典の起草を先立って推進
した司法卿江藤新平が後に佐賀の乱に参加したため刑死させられたことがあったにもかかわらず︑民法典の起草は
スムーズに進んでいたことは︑当時の日本政府はこれに対して共通の認識を持っていたからだと考えられる︒
最後に︑法制改革の及んだ地域から見れば︑中国は国土が広く各地の政治経済及び社会の発展が不均衡であるた
め︑新しいことの伝播︑浸透は極めて遅いのに対し︑日本は小国であり︑また地理︑人口︑文化等の面では中国に
9 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
比べると奥が浅く︑外来文化の浸透はしやすかった︒これも両国民法近代化を比較する場合に見逃してはならない
要因の一つである︒
中国は︑歴史上長く統一した大国であったが︑政治が統一されていたのに対して各地の経済格差が大きく︑民事
慣習も大きく異なっていた︒そのため︑民法近代化の過程において各地の民事慣習を統一することは殆ど不可能で
ある︒清朝政府の修訂法律館は清末に各省に要員を派遣して現地の民事慣習を調査させた時︑既にこの問題に気付
き︑報告書は現地の俗語で書けばいい︑法律用語の統一化は不要だと︑調査員達に指示した︒調査員派遣後まもな
く清朝政府が滅びたので︑この調査は民国の北洋政府時代まで続いたが︑調査結果は後の南京政府に重視されなか
った︒南京政府は出来てから三年も経たないうちに民法の各編を次々に公布し︑清朝政府と北洋政府のこの調査結
果を十分に検討しなかった︒そのため︑民法典の中に民間慣習についての記述が少なく実施が困難で︑社会に受け
入れられないという羽目になった︒
二
中日両国の民法近代化の過程が西洋の法律体系を継受する過程であったので︑両国固有の法律文化の外来法文化
に対する受容度は重要且つ根本的な問題となるだろう︒この点について両国の状況はまた大きく違う︒
中国の法文化は少なくとも三千年の歴史を持ち︑その間殆ど外来の法文化の影響を受けたことがない︒独自に発
展してきて明らかな特徴を持っている中国法系は世界法制史上でローマ法系︑普通法系︑インド法系︑イスラム法 比べると奥が浅く︑外来文化の浸透はしやすかった︒これも両国民法近代化を比較する場合に見逃してはならない要因の一つである︒
中国は︑歴史上長く統一した大国であったが︑政治が統一されていたのに対して各地の経済格差が大きく︑民事
慣習も大きく異なっていた︒そのため︑民法近代化の過程において各地の民事慣習を統一することは殆ど不可能で
ある︒清朝政府の修訂法律館は清末に各省に要員を派遣して現地の民事慣習を調査させた時︑既にこの問題に気付
き︑報告書は現地の俗語で書けばいい︑法律用語の統一化は不要だと︑調査員達に指示した︒調査員派遣後まもな
く清朝政府が滅びたので︑この調査は民国の北洋政府時代まで続いたが︑調査結果は後の南京政府に重視されなか
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
った︒南京政府は出来てから三年も経たないうちに民法の各編を次々に公布し︑清朝政府と北洋政府のこの調査結
果を十分に検討しなかった︒そのため︑民法典の中に民間慣習についての記述が少なく実施が困難で︑社会に受け
入れられないという羽田になった︒
中日両国の民法近代化の過程が西洋の法律体系を継受する過程であったので︑両国固有の法律文化の外来法文化
に対する受容度は重要旦つ根本的な問題となるだろう︒この点について両国の状況はまた大きく違う︒
中国の法文化は少なくとも三千年の歴史を持ち︑その間殆ど外来の法文化の影響を受けたことがない︒独自に発
9
展してきで明らかな特徴を持っている中国法系は世界法制史上でロ!マ法系︑普通法系︑インド法系︑イスラム法
説 10 論
系と並んで五大法系と言われている︒中国の伝統法は﹁徳主刑補﹂︑﹁寛猛相済﹂︑﹁明刑弼教﹂など独特の法言語と
法理念を有する完備した理論を持ち︑成文法典が中断なく伝わってきており︑少なくとも紀元前四世紀まえまで遡
ることが出来る︒行政機関と︸体となった末端司法機関と分権監督の形を取った中央司法審判機関とが相互して︑
重要事件の審判の高度集権を実現した︒
中国歴史上︑少数民族政権の時代においても︑その少数民族の固有の慣習法は中国の伝統文化に影響を及ぼすこ
とは殆どなく︑少数民族の王朝はむしろ多くの場合︑漢民族の法で漢民族を統治し︑慣習法で本民族を統治する形
を取った︒また︑当政権の正当性を強調するために慣習法を完全に放棄して漢民族の法で本民族の人を統治してい
た時代さえあった︒例えば︑鮮卑族の北魏︑北齊︑北周王朝︑契丹族の遼王朝︑女真族の金王朝等がそうである︒
極端な場合︑少数民族の王朝の作った法典は漢民族の法典よりも儒教思想の色彩が濃い︒例えば︑北魏孝文帝の改
革は︑親不孝の罪への重罰を強調した︒北周の法典の﹁大律﹂は儒教の教典である﹁周礼﹂を見本としたものであ
る︒蒙古族の元王朝が中原地域を統治した問に制定した法律の一部は本民族の慣習法の内容を取り入れていたが︑
明王朝になってからこれらの内容は中原漢民族の風俗を乱す﹁胡俗﹂と謂れ︑全て削除された︒満洲族の清朝政府
は明王朝の法典に少し修正を加えただけで本王朝の法典とした︒﹁大清律例﹂には殆ど満洲族の慣習法の跡が見ら
れない︒このように中国は外来法を受け入れた経験が一回もないので︑民法近代化の過程において法制改革をして
まったく新しい外来の法律をそのまま受け入れる場合は非常に困難な作業であったろう︒
日本の状況は中国とは違った︒日本には伝統的な法文化の蓄積が少なく︑慣習法の影響により簡潔明瞭な法律が
崇拝され︑完備した法理論と精緻な法理念が欠けていた︒日本は歴史上何回か他国の法律を継受した経験がある︒
10
系と並んで五大法系と言われている︒中国の伝統法は﹁徳主刑補﹂︑﹁寛猛相済﹂︑﹁明刑弼教﹂など独特の法言語と
法理念を有する完備した理論を持ち︑成文法典が中断なく伝わってきており︑少なくとも紀元前回世紀まえまで遡
説
ることが出来る︒行政機関と一体となった末端司法機関と分権監督の形を取った中央司法審判機関とが相互して︑
三ム百聞
重要事件の審判の高度集権を実現した︒
中国歴史上︑少数民族政権の時代においても︑その少数民族の固有の慣習法は中国の伝統文化に影響を及ぽすこ
とは殆どなく︑少数民族の王朝はむしろ多くの場合︑漢民族の法で漢民族を統治し︑慣習法で本民族を統治する形
を取った︒また︑当政権の正当性を強調するために慣習法を完全に放棄して漢民族の法で本民族の人を統治してい
た時代さえあった︒例えば︑鮮卑族の北貌︑北旗門︑北周王朝︑契丹族の遼王朝︑女真族の金王朝等がそうである︒
極端な場合︑少数民族の王朝の作った法典は漢民族の法典よりも儒教思想の色彩が濃い︒例えば︑北貌孝文帝の改
革は︑親不孝の罪への重罰を強調した︒北周の法典の﹁大律﹂は儒教の教典である﹁周礼﹂を見本としたものであ
る︒蒙古族の元王朝が中原地域を統治した聞に制定した法律の一部は本民族の慣習法の内容を取り入れていたが︑
明王朝になってからこれらの内容は中原漢民族の風俗を乱す﹁胡俗﹂と謂れ︑全て削除された︒満洲族の清朝政府
は明王朝の法典に少し修正を加えただけで本王朝の法典とした︒﹁大清律例﹂には殆ど満洲族の慣習法の跡が見ら
れない︒このように中国は外来法を受け入れた経験が一回もないので︑民法近代化の過程において法制改革をして
まったく新しい外来の法律をそのまま受け入れる場合は非常に困難な作業であったろう︒
日本の状況は中国とは違った︒日本には伝統的な法文化の蓄積が少なく︑慣習法の影響により簡潔明瞭な法律が
崇拝され︑完備した法理論と精微な法理念が欠けていた︒日本は歴史上何回か他国の法律を継受した経験がある︒
11 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
中国法に詳しい法制史家の滝川政次郎の検証によると︑上古時代に日本は朝鮮半島の高句麗王国の法を受け入れ︑
大化改新の前から既に部分的に当時の中国六朝の法を受け入れたという︒特に有名なのは七世紀に聖徳太子による
﹁大化改新﹂が︑全面的に中国唐王朝の律︑令︑格︑式等の法を導入し︑これを踏まえて立法改革を行ない︑日本
の法律を全面的に改新したことは周知の通りである︒仏教伝来につれて︑日本の法はまたインド法の影響を受け
た︒江戸時代︑日本は中国明王朝の法に頗る興昧を示し︑幕府と諸藩の法は明王朝の法に倣ったところが多い︒明
治維新直後でも︑日本は一時中国明清王朝の律例を入れて﹁尊皇撰夷﹂のもと︑全国に号令する法律とした︒ま
た︑明治三年︵一八七〇年︶に中国明清王朝の法を真似て﹁新律綱領﹂を制定公布したり︑明治六年︵一八七三
年︶に中国の法律に基づいて﹁改定律例﹂を制定公布したりした︒以上の理由で︑日本の法文化伝統は割に開放的 ハ レであり︑外来の法文化を継受する伝統を持っている点では︑世界法制史上でも唯一の稀な例と言ってもいい︒西洋
の法を受け入れる場合︑日本には余り大きな心理的障害はなかったのである︒明治維新以降︑日本は速やかに幕藩
法から中国明清法に転向し︑また更に西側法の導入に転向したことは︑中国にとっては考えられないことである︒
中国の伝統法文化にとっては民法という概念は受け入れにくいものであった︒少なくとも文字記録のある中国歴
史に限って言えば︑法律は常に君主の統治手段と結ばれていた存在であった︒中国歴史上︑最も言論が風発した春
秋戦国の﹁百家争鳴﹂の時代でも︑儒︑道︑墨︑法の各流派を問わず︑法律はただ国家統治の手段に過ぎないと位
置付けられ︑法律を用いて個人間の行為を処理するような私法の概念は全くなかった︒各流派が激しく論争した焦
点は︑君主の国家統治の諸手段の中で法律が占める位置と︑法律という統治手段分使用程度の問題に集中した︒
﹁法治﹂︑﹁人治﹂︑﹁徳治﹂︑﹁礼治﹂等の論争は︑あくまでも﹁統治﹂の要に関してであり︑つまり国家を治めるた 中国法に詳しい法制史家の滝川政次郎の検証によると︑上古時代に日本は朝鮮半島の高句麗王国の法を受け入れ︑大化改新の前から既に部分的に当時の中国六朝の法を受け入れたという︒特に有名なのは七世紀に聖徳太子による
﹁大化改新﹂が︑全面的に中国唐王朝の律︑令︑格︑式等の法を導入し︑これを踏まえて立法改革を行ない︑日本
の法律を全面的に改新したことは周知の通りである︒仏教伝来につれて︑日本の法はまたインド法の影響を受け
た︒江戸時代︑日本は中国明王朝の法に頗る興味を示し︑幕府と諸藩の法は明王朝の法に倣ったところが多い︒明
治維新直後でも︑日本は一時中国明清王朝の律例を入れて﹁尊皇壌夷﹂のもと︑全国に号令する法律とした︒ま
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
た︑明治三年(一八七
O
年)
に中国明清王朝の法を真似て﹁新律綱領﹂を制定公布したり︑明治六年(一八七三
年)に中国の法律に基づいて﹁改定律例﹂を制定公布したりした︒以上の理由で︑日本の法文化伝統は割に開放的
であり︑外来の法文化を継受する伝統を持っている点では︑世界法制史上でも唯一の稀な例と言ってもいい︒西洋
の法を受付入れる場合︑日本には余り大きな心理的障害はなかったのである︒明治維新以降︑日本は速やかに幕藩
法から中国明清法に転向し︑また更に西側法の導入に転向したことは︑中国にとっては考えられないことである︒
中国の伝統法文化にとっては民法という概念は受け入れにくいものであった︒少なくとも文字記録のある中国歴
史に限って言えば︑法律は常に君主の統治手段と結ぼれていた存在であった︒中国歴史上︑最も言論が風発した春
秋戦国の﹁百家争鳴﹂の時代でも︑儒︑道︑墨︑法の各流派を問わず︑法律はただ国家統治の手段に過ぎないと位
置付けられ︑法律を用いて個人間の行為を処理するような私法の概念は全くなかった︒各流派が激しく論争した焦
点は︑君主の国家統治の諸手段の中で法律が占める位置と︑法律という統治手段の使用程度の問題に集中した︒
11
﹁法
治﹂
︑﹁
人治
﹂︑
﹁徳
治﹂
︑﹁
礼治
﹂等
の論
争は
︑あ
くま
でも
﹁統
治﹂
の要
に関
して
であ
り︑
つまり国家を治めるた
論 説 12
めのことであった︒ある意味で言えば中国古代の言う法律とは主に﹁公法﹂の範疇に限られていた︒漢王朝以降は
﹁徳主刑補﹂の政治指導原則を定め︑国家の法律といえば社会安定を図るための刑法︵例えば律︑勅︑条例など︶
と国家行政管理制度︵例えば令︑格︑式︑会典︑則例など︶であった︒国家政務と余り関係のない行為は法律以外
の手段で調整することである︒例えば婚姻︑家庭︑相続等の間題については︑法律はただ最も大事な原則と罰則を
規定するだけで︑具体的且つ全面的な規範は全て道徳たる儒教に委ねた︒
上述した理由で伝統の中国法律体系には民事方面の法律は一貫して排除された地位にあった︒法律と言えば直ち
に刑罰が連想され法と罰︑法と刑が常に相通ずる概念として使われてきた︒支配者は統治の力を集中する狙いか
ら︑売買︑借り貸し︑典当︑抵当︑賃貸︑雇用等の民事行為については法律の中では触れず︑故意に立法をなすこ
とをせず︑民間の慣習による調節に任せる方法を取った︒例えば︑唐王朝の﹁雑令﹂には利息のつく債務について
﹁全て私的契約により解決し︑役所は受理しない﹂と明記してあった︒法律はただ利息率の上限︵月に六%以下︑
後に四%に下がり︑元︑明︑清各時代は三%以下︶と利息総額が元金以上に上回ってはいけないと規定しただけで
ハヱあった︒明清時代の法律は利息付きの債権を保護したが︑その他の主要民事行為については法の保護が欠けてい
た︒例えばもっとも広範に存在していた農地地代や雇用等の民事行為については依然として明確な規定がなかっ
た︒このような背景の下では︑西洋の﹁私法自治﹂︑﹁契約自由﹂の類の法律概念を受け入れるのは極めて困難であ
った︒ 中国の伝統的法律のもう一つの特徴は︑手続法を軽視することである︒これも近代西洋の民法受容の障害となっ
た︒中国の伝統法律は実際の問題解決を重視し︑法律の主体は実体法であり︑手続き法は常に実体法の付属物に過
12
めのことであった︒ある意味で言えば中国古代の言う法律とは主に﹁公法﹂の範障に限られていた︒漢王朝以降は
﹁徳主刑補﹂の政治指導原則を定め︑国家の法律といえば社会安定を図るための刑法(例えば律︑勅︑条例など)
説
と国家行政管理制度(例えば令︑格︑式︑会典︑則例など)であった︒国家政務と余り関係のない行為は法律以外
呈A、
日開
の手段で調整することである︒例えば婚姻︑家庭︑相続等の問題については︑法律はただ最も大事な原則と罰則を
規定するだけで︑具体的且つ全面的な規範は全て道徳たる儒教に委ねた︒
上述した理由で伝統の中国法律体系には民事方面の法律は一貫して排除された地位にあった︒法律と言えば直ち
に刑罰が連想され法と罰︑法と刑が常に相通ずる概念として使われてきた︒支配者は統治の力を集中する狙いか
ら︑売買︑借り貸し︑典当︑抵当︑賃貸︑雇用等の民事行為については法律の中では触れず︑故意に立法をなすこ
とをせず︑民間の慣習による調節に任せる方法を取った︒例えば︑唐王朝の﹁雑令﹂には利息のつく債務について
﹁全て私的契約により解決し︑役所は受理しない﹂と明記してあった︒法律はただ利息率の上限(月に六%以下︑
後に四%に下がり︑元︑明︑清各時代は三%以下)と利息総額が元金以上に上回ってはいげないと規定しただけで
あった︒明清時代の法律は利息付きの債権を保護したが︑その他の主要民事行為については法の保護が欠けてい
た︒例えばもっとも広範に存在していた農地地代や雇用等の民事行為については依然として明確な規定がなかっ
た︒このような背景の下では︑西洋の﹁私法自治﹂︑﹁契約自由﹂の類の法律概念を受け入れるのは極めて困難であ
った
中国の伝統的法律のもう一つの特徴は︑手続法を軽視することである︒これも近代西洋の民法受容の障害となっ ︒
た︒中国の伝統法律は実際の問題解決を重視し︑法律の主体は実体法であり︑手続き法は常に実体法の付属物に過
13 中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
ぎなかった︒そのため︑訴訟手続きは民事と刑事の区別がなく︑訴訟の手続き自身も全国統一のものはなく︑各地
は慣例に従う状態だった︒西洋の法律は往々にして手続きから発展してきたもので︑古代ローマ法も普通法も最初
は皆一種の訴訟法の体系であり︑近代に至っても民法は依然として手続きを強調する法律であった︒手続法を軽視
する中国の伝統は西洋の民法体系を受け入れるのに相応しくないわけである︒
日本の伝統的法律体系は内容から言えば中国のと殆ど変わらない︒明治維新前は︑日本の法律も中国のと同じく
刑法を重視し︑手続き法を軽視した︒しかし︑幕藩法の時代でも︑民間の民事或いは商事慣習は一般には司法裁判 ︵8︶に認められ︑慣習法の意味を持っていた︒江戸時代の司法制度には既に刑事訴訟と民事訴訟の区別が現われた︒民
事訴訟は﹁出入物﹂と言い︑刑事訴訟は﹁吟味物﹂と言った︒両者における訴訟手続には相違がみられた︒﹁出入
物﹂の訴訟はまた﹁本公事﹂と﹁金公事﹂と分けられ︑金公事とは担保物を持たない金銭債権及びその類似するト
ラブルで︑本公事とは金公事以外の租借︑抵当︑党換等の経済トラブルを指した︒この二つの訴訟は全く違う手続 パ レきによって行なわれていて︑形式主義的な傾向があった︒このような伝統があったので西洋の民法の概念を受け入
れるのに適していた︒
三
外来法を受容するための思想的な準備も中日両国の民法近代化過程の重要な要素であった︒この思想的準備と
は︑外来法を継受する重要性に対する支配者の認識と決意︑殊に民法に対する認識と民法体系を立てる決心︑外来 ぎなかった︒そのため︑訴訟手続きは民事と刑事の区別がなく︑訴訟の手続き自身も全国統一のものはなく︑各地は慣例に従う状態だった︒西洋の法律は往々にして手続きから発展してきたもので︑古代ロiマ法も普通法も最初
は皆一種の訴訟法の体系であり︑近代に至っても民法は依然として手続きを強調する法律であった︒手続法を軽視
する中国の伝統は西洋の民法体系を受け入れるのに相応しくないわけである︒
日本の伝統的法律体系は内容から言えば中国のと殆ど変わらない︒明治維新前は︑日本の法律も中国のと同じく
中日両国の民法近代化過程に関する比較研究
刑法を重視し︑手続き法を軽視した︒しかし︑幕藩法の時代でも︑民間の民事或いは商事慣習は一般には司法裁判
に認められ︑慣習法の意味を持っていた︒江戸時代の司法制度には既に刑事訴訟と民事訴訟の区別が現われた︒民
事訴訟は﹁出入物﹂と言い︑刑事訴訟は﹁吟味物﹂と言った︒両者における訴訟手続には相違がみられた︒﹁出入
物﹂の訴訟はまた﹁本公事﹂と﹁金公事﹂と分けられ︑金公事とは担保物を持たない金銭債権及びその類似するト
ラブルで︑本公事とは金公事以外の租借︑抵当︑免換等の経済トラブルを指した︒この二つの訴訟は全く違う手続
きによって行なわれていて︑形式主義的な傾向があった︒このような伝統があったので西洋の民法の概念を受け入
れるのに適していた︒
外来法を受容するための思想的な準備も中日両国の民法近代化過程の重要な要素であった︒この思想的準備と
13
は︑外来法を継受する重要性に対する支配者の認識と決意︑殊に民法に対する認識と民法体系を立てる決心︑外来