梅謙次郎と韓国近代法の夜明け
著者 金 祥洙
出版者 法学志林協会
雑誌名 法学志林
巻 115
号 3
ページ 162(29)‑135(56)
発行年 2018‑03‑20
URL http://doi.org/10.15002/00023093
梅謙次郎と韓国近代法の夜明け
金
キム祥
サン洙
スウ目 次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 1906 年 7 月の最初の慣習調査
Ⅲ 不動産法調査会によるその後の慣習調査
Ⅳ 不動産法制
Ⅴ 1908 年からの慣習調査
Ⅵ 慣習調査に対する韓国学者の考え
Ⅶ 裁判制度と民事訴訟法
Ⅷ 終わりに
Ⅰ はじめに
梅謙次郎(以下は,単に「梅」とする)が 1900 年代の最初の頃に,公私多 忙の合間を縫って今のソウル(当時の京城)を訪問して慣習調査や立法などに かかわったことについては,少しずつではあるが,日本でも韓国でも関連の学 者らの関心を集めているところである。とくに,韓国においては,これまで暗 いイメージを与え続けていた植民地時代のことを反映したせいか,ほとんど顧 みられなかったが,最近になって時代も変わり世代が変わった若い学者の登場 などにより,梅と韓国法のことについても新しいアプローチが行われている。
梅は,1906 年 7 月から 1910 年 8 月までの夏と冬の休みを利用して,全部で 9 回の渡韓をしていた。臨終を迎えたのも 9 回目に訪れたソウルであったのは,
周知のとおりである。梅は韓国において様々な活動をしたが,それらは結局,
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次のような二つの目的のためであったといえよう。すなわち,一番目に,慣習 調査と不動産法・民法(商法)の起草,二番目に,裁判所構成法・民事訴訟法 の起草である。本稿は,梅のそのような活動がとりもなおさず近代韓国法の夜 明けにあたることをとりあげようとするものである。総論的な論考として,い ささか物足りないところが多いだろうが,今後の梅と韓国法に関する本格的な 研究のための礎になることを目的としたい(1)。以下では,慣習調査と不動産法制,
それから裁判制度のかかわりを時間順に辿り,結びに代えたい。
Ⅱ 1906 年 7 月の最初の慣習調査
1 韓国法にかかわる経緯
韓国に設けられた統監府の初代統監伊藤博文は,弊政改革の基礎は人事法の 整理,所有権の確立および税法の整理にあるとし,まず不動産法の制定を必要 とするから,民法学界の権威者梅謙次郎博士を推薦して,特別に慣習調査を行 うようにした(2)。そして,1906 年 7 月に梅を法制顧問として招聘し,他方では 不動産法調査会が議政府(当時の韓国政府の内閣)に設けられ不動産に関する 調査も開始された(3)。
(1) 梅のソウルでの足跡を若干まとめておきたい。ソウルで定宿していた天真楼は今の地下鉄 4 号線明洞駅の二番出口を出てすぐ南のところにあった。統監府は南山のところのアニメーション センターで,統監官邸があったのはソウルユースホステル近くの人権公園である。また,京城理 事庁は新世界デパートの本店,当時英語学校に置かれていた不動産法調査会は今の曹渓寺の隣の 寿松公園の近くにあった。亡くなった大韓医院は今のソウル大学付属病院の博物館として使われ ており,火葬場に向かってソウル市内を出た門は光煕門であり,この二つだけが当時の姿を留め ている。光煕門を出てすぐのところにあった火葬場は今は新堂洞として住宅地となっており,荼 毘に付された統監府近くの本願寺の跡には漢陽教会が見える。
(2) 朝鮮総督府中枢院『朝鮮旧慣制度調査事業概要』昭和 13 年 2 月(本書は,中枢院とその前身 たる機関で行われた,前後 30 余年にわたる旧慣制度調査事業の概要を記したものである)1 頁 以下参照。
(3) 岡孝「明治民法と梅謙次郎─帰国 100 年を機にその業績を振り返る─」法学志林第 88 巻第 4 号(1991)22 頁では,「日本国内で縦横無尽に活躍する場がなくなってしまったことが,韓国の
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2 最初の慣習調査とその内容
1906 年 7 月 12 日の午前 10 時 30 分,統監官舍で開かれた「韓国施政改善ニ 関スル協議会第 8 回(4)」で,伊藤は梅とともに応接間において各大臣に紹介し,
午前 11 時 5 分に梅は退席した。この協議会で伊藤は,「梅博士が長く当地に滞 在することができないから,自ら大体の方針を定め,それを部下の者をして法 案起草の任に当たらせるべき」であり,ともかく明日までに相当の委員を選定 して梅に紹介して,直ちに調査に着手させらるべきであるとし,これに対し各 大臣は,明日選定して,来る 15 日より委員を召集すると答えた。伊藤は,法 律家としては日本第一流の人物を伴ってきたのに,いたずらに手を拱して時日 を空費するのは甚だ遺憾のことになると話した。このようなことからみれば,
梅は遅くとも 1906 年 7 月 11 日までにはソウルに来ていたし,早くから立法と そのための慣習調査をすべき役目を負っていたと考えられる。
慣習調査に関する最初の冊子は, 不動産法調査会による 1906 年 8 月刊の
『韓国不動産ニ関スル調査記録(5)』である。このはしがきにあたるところで,会 長梅の質問に対する各地理事官,観察使および府尹の応答を記録したもので,
この調査に随従した補佐官中山成太郎の補佐,補佐官補川崎萬蔵の執筆,委員 石鎮衡の通訳によるとのことが記載されている。また,同冊子には,同年 7 月 26 日よりわずか 12 日間の短少の時日に燃えるが如き酷暑を冒し,きわめて急 速に調査をしたとのことが書かれ,強行軍であったことが窺える。とくにそこ で言及された同年 7 月 24 日に配布されたとされる調査事項は 10 項であり,第 1 項はさらに 10 目に細別される。
立法作業にのめり込んでいく一つの大きな動機ではなかったのか」と述べている。
(4) 以下,この協議会のことについては,神川監修・金正明編『日韓外交資料集成第 6 巻(上)』
1964 によっている。
(5) この原文は韓国の国立中央図書館のホームページでみることができる。関連する多くの当時 の冊子・文書らが電子ファイル化され,簡単に原文をみることができるようになっている。同図 書館は総督府図書館を受け継いだもので,戦前は議会図書館のような役割を担っていたといえる。
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慣習調査は,まず同年 7 月 23 日に,京城理事廳において午前 11 時に開始し 午後 1 時 30 分に終了した。ただ,ここでは書面の回答だけが記載されている(6)。 同月 26 日には仁川理事廳で調査が行われた(ただし,他日の再調のため記録 として綴らず(7))。同月 28 日には,開城府において午後 6 時に開始し午後 8 時 5 分に終了したが,この調査では一部の会長の説明および質問が記録されている。
同月 30 日には,午前 10 時から午後 0 時 30 分まで平壌観察府での調査が行わ れ(一部の会長の説明および質問が記録される),同日の午後 5 時 30 分から午 後 6 時までは平壌理事廳における調査があり(午前中州の観察府での調査があ ったため,観察府の応答を補うところがある場合に記録するとのことであっ た),翌日の 31 日に京城に復帰した。
引き続き,同年 8 月 1 日には,水原観察府において午前 10 時 45 分に開始し
(午後 0 時 40 分に休憩を入れて),午後 3 時の再始の後に午後 4 時 50 分に終了 した(一部の会長の説明および質問が記録される)。同月 3 日には,大邱観察 府において午前 9 時 40 分から午前 11 時 40 分まで,同月 4 日には,釜山理事 廳において午前 9 時 40 分から午前 11 時 35 分まで,さらに同月 5 日には,馬 山理事廳において午後 5 時 45 分から午後 7 時 25 分まで,それぞれ調査がなさ れ,この三カ所での調査には一部の会長の説明および質問が記録されている(8)。 以上のところで緊急の慣習調査が行われたのであるが,それぞれ慣習調査の 対象となった場所は,大きな都市であるということのほか,短期間での調査と いうことで移動の便も考えて決められたものと思われる。すなわち,北のほう の平壌と開城は鉄道の京義線が 1906 年 4 月 3 日に開通しており,京仁線と京 釜線はすでに開通していたほか,馬山が選ばれたのは釜山から馬山までは,馬 山線という名前で釜山近くの京釜線の駅である三浪津から馬山まで 1905 年 5
(6) 同日午後 2 時には政府土地所関法調査委員会を政府に設置し,梅博士が往参するとの当時の 新聞記事がある(皇城新聞 1906 年 7 月 24 日の記事)。
(7) 同日または翌日の 27 日には京城に復帰した。とくに,1906 年 7 月 27 日の内謁見始末では,
伊藤とともに梅の謁見のことがあり,伊藤がその日のすべての謁見を終えたのは午後 7 時とされ ている(前掲(注 4)『日韓外交資料集成第 6 巻(上)』311 頁)。
(8) 京城に復帰したのは翌 6 日である。
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月 26 日に鉄路が開通していたからであろう。逆に,まだ鉄道のない全羅道は 選ばれていない。
3 小 括
ところで,最初の慣習調査の結果をまとめた『韓国不動産ニ関スル調査記 録』では,あまり「慣習」ということばは使われていない。たとえば,同 45 頁での水原観察府における梅の問い「官有または他村の山林に入り会って木を 伐り草を刈る習ありや」に対する答は,「官有地に何れの土地の人民たるを問 わず一般に草を採ることができる。甲村より乙村に新たに来住する者は乙村の 山林に入り樹木の枝葉位は採ることができ,また他村の者が他村の山林に入り 会うを互いに黙認することあり」とある。
また,同 56 頁での大邱観察府における細目六での(共有に関する)梅の問 い「他に慣例なきか」に対する答は,「共有の良田が荒廃したのを再び開墾す る場合に従前の所有者 100 人の中の 50 人に補償を与えて仲間を去るようにし,
残りの 50 人にて共有することあり。これは永久に終始を償ったからである」
とある。同 86 頁での馬山理事廳における梅の問い「小作料は折半の習なりや」
に対する答えは「然り」とある。その他,質問の第 10 項には以上の各項につ き地方によって慣習が異なるかを聞いているも,これに対しては,全部「調査 を省く」ということになっている。
以上のように不動産法に絞って短期間に行われた最初の慣習調査は,それ以 降の慣習調査の記録と比べてみても,慣習ということを前面に出して深く掘り 下げて調査したとはいえないであろう。結果的に,最初の慣習調査はいわば手 探りのような,将来の本格的な調査のための準備としてなされたものであると
も評価できる。 一五八
Ⅲ 不動産法調査会によるその後の慣習調査
1 慣習調査の目的
梅が直接関与した最初の慣習調査の後は,不動産法調査会やその後の関連機 関の手によって行われた。梅は,その初めに調査委員を集めて慣習調査につい ての説明をしており,この梅がした説明の要録を参考のためにと冊子として配 布された(9)。ここでは,不動産に関する権利の内容 - 日本や西欧のいう近代法(10), これを基準にした上で,これに相当するものが韓国にもあるかを調べるべきで あると説明している。また,同書の 14 頁に「文記」や「地券」,「家券」なる 用語も使われており,一次調査の結果を踏まえて説明したものと考えられる。
これはまた,韓国における近代的な立法を作る目的であったことが読み取れる。
さらに,不動産法調査会は,すでに法学協会雑誌にも掲載された,会長梅博 士の演述したものであるとした上で『維新後不動産法』という冊子を,慣習調 査に大いに参考すべきものとして 1907 年 8 月に印刷して配布した。慣習調査 や各種不動産関連規則の施行にあたり,不動産法の素養を高めるためにまとめ て冊子として提供されたものである(11)。
梅自身もこれら慣習調査については,次のようにまとめている(12)。すなわち,
土地制度を約 1 年間大体の調査をし(13),1907 年 7 月にはその調査を急速に結了
(9) これが,不動産法調査会『調査事項説明書』(1906 年 9 月)なるものである。
(10) たとえば,不動産法調査会・前掲注 9)6 頁。
(11) たとえば,同冊子の 16 頁において,土地売買譲渡規則によって所有権の移転は役場の公証 によってなされ,地券は全く徴税上の必要なる書類になっただけであること,同 17 頁において,
この公証が登記簿および土地台帳制へ進む初歩となることなどが述べられており,韓国での不動 産法に関する手引書として配布したのであろう。
(12) 梅謙次郎「韓国の法律制度に就て(上),(下)」東京経済雑誌第 1512 号・1514 号(1909)
がそれで,9 月例会での講演をまとめたものである。
(13) 梅・前掲注 12)(上)7 頁。
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して,調査の結果を起草し,これを伊藤統監に報告して,1907 年の終わりに すべての事業を終えたと話している。一次調査は梅自らが担当して調査の仕方 などを指示し,その後は調査委員をして調査に当たらせた上,最終の報告書の 作成には梅も関わったものと解されるところである。
2 慣習調査の結果
先にふれた,1907 年に慣習調査の結果を伊藤に報告したということは,
1907 年刊行とされる,法典調査局が出版した 53 頁からなる『不動産調査報告 要録』を指す。同書のはしがきに,これは不動産法調査会が調査した韓国の不 動産に関する法制および慣習の一般であり,その調査は 1906 年より 1907 年ま でほとんど韓国の全土に及ぶが,原記録は各地方別冊としてすこぶる浩瀚であ るため,その要項を編纂したとされている。
梅がかかわったこの要録と 1912 年に刊行された総督府による著名な『慣習 調査報告書』を比べてみれば,後者の物権のところに前者と類似する箇所が多 くみられる。前者の 2 頁以下と後者の 74 頁以下,24 頁の表と 68─69 頁の表 は同じものであり,公用徴収に関する 6 頁以下と 77 頁など,同様な内容とな っている。要録は梅も関わっていたのであるから,その後の小田幹次郎らによ る『慣習調査報告書』には梅の影響があったものといえるであろう。
3 梅の韓国での行跡─若干の整理
以上の慣習調査との関連で,1906 年夏の梅の韓国での行跡については慣習 調査の結果などに出ているが,それ以降については記録が散在しており,明ら かでない部分が多い。筆者が調査の過程において調べられたものを参考のため に,以下のように表としてまとめておきたい(なお,江戸恵子「新聞記事から 見た磯部四郎活動年譜」平井=村上編・日本近代法学の巨擘 磯部四郎研究,
2007,信山社,400 頁には,梅の客死に関する磯部四郎の談話,「平素は健康
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だったが,余りに身体を使いすぎたため今回の病気になり,内部の心の疲れが 手伝ったのではないかと言う。」が紹介されている)。
日 時 内 容 出 典
1906年8月20日 政府不動産および土地法調査 委員会の第四次会議が梅博士 の参席のもと開かれる
皇城新聞 1906 年 8 月 21 日の 記事
8月25日 梅博士が満州視察のため 8 月 25 日午前 5 時の汽車で仁川 に向かうとのこと
通牒第 16 号[議政府秘書課 長より不動産法調査委員へ。
1906 年 8 月 24 日 1907年1月11日午後2時 不動産に関する細則が政府の
不動産調査会で委員と梅博士 が会同してその細則を規定
皇城新聞 1907 年 1 月 12 日の 記事
1月15日 梅博士が帰国 大韓毎日新報 1907 年 1 月 18 日
7月19日 1907 年 7 月 16 日に立って 19 日に貴地に着く
梅博士が伊藤統監に送った電 報(同 年 7 月 15 日 午 後 7 時 55 分 発 送,同 午 後 10 時 15 分着)
1908年7月18日午前11時 梅博士が韓国の皇帝に謁見 皇城新聞 1908 年 7 月 21 日の 記事
8月 梅博士が視察のため,平壌,
鎮南浦,義州,龍岩浦に出張 するとのこと
法典調査局事務官 小田幹治 郎 局 発 第 98 号[1908 年 8 月 10 日]
1909年8月15日 梅博士が帰国 皇城新聞 1909 年 8 月 17 日の 記事
1910年8月 梅博士が腸チフスに罹り目下 大韓医院で治療中
皇城新聞 1910 年 8 月 17 日の 記事
8月 梅博士危篤 皇城新聞 1910 年 8 月 23 日の 記事
8月 梅博士の体温が 36,7 度・脈 拍が 124,5 ですこぶる衰弱 しているので毎日牛乳 6 合を 与える
皇城新聞 1910 年 8 月 25 日の 記事
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Ⅳ 不動産法制
1 序
以上にみたような不動産法調査会における調査を基礎として,韓国政府は 1906 年後半から 1907 年はじめにかけて,1906 年 9 月 24 日法律第 5 号で「利 息規例」,同年 10 月 26 日勅令第 65 号で「土地家屋証明規則」,同年 11 月 2 日 には法部令第 4 号で「土地家屋証明規則施行細則」,同年 12 月 26 日勅令第 80 号で「土地家屋典当執行規則」,翌 1907 年 1 月 29 日には法部令第 2 号で「土 地家屋典当執行規則施行に関する細則」を,順次制定した。
2 土地家屋証明規則が制定されるまで
不動産法制との関連でもっとも注目を集めているのは,外国人にも土地所有 権を与えたことになる土地家屋証明規則である。以下では,まず同規則が制定 されるまでの過程をたどってみることにする。
1906 年 7 月 23 日午前 10 時 30 分に統監官舍で開かれた韓国施政改善ニ関ス ル協議会第 9 回(14)において,閔度相が土地に関する法律の起草は梅の調査に付し てはどうかといったのに対し,伊藤は梅は永遠なる法を作る調査をしており,
土地に関する方は急いで作る簡単な法であると話した。そこで,李法相は,こ れは法部においてなすべき事業であり,自分において起稿の任に当たるべしと 答えた。このやりとりからすれば,それまでに韓国政府内の法部が不動産法制 定作業を続けていたし,次にみるように一次慣習調査終了後にその草案が法部 案として梅に渡されたものと考えられる。
(14) 前掲注 4)・日韓外交資料集成第 6 巻(上)による。以下,韓国施政改善ニ関スル協議会の ことはこれを参照した。
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引き続き,1906 年 8 月 15 日午前 10 時 15 分に統監官舍で開かれた韓国施政 改善ニ関スル協議会第 10 回において,法部大臣により提出された不動産法所 関法を伊藤は一読の上,梅に審査せしめ,梅によりその修正案が提出された。
一次慣習調査を終えて梅が帰京したのが同年 8 月 6 日であり,それから約 10 日後に梅は修正案を出したものと考えられる。この協議会には梅も参席し,韓 国の大臣たちとの間で同法案に関する議論をした。梅は,十分に調査をして基 本法を作る予定にあるとした上で, 法部案(不動産法所関法案)についての修 正案を提出したのである。
梅による修正案の説明で興味深いところは,次のようなものである(以下は,
原文を現代語化して引用する)。
「梅 原案では売買契約につき登記しないと契約は無効となるとなっているが,
無効とならず第三者に対抗できないとの修正をした。そして,その理由として 例をあげれば,甲が乙に売買契約をしてその登記がない間にこれを丙に売却し たとき,甲乙の契約が無効となれば乙は甲に対して損害賠償を請求できないが,
修正案によれば損害賠償を請求できるから,修正案が妥当である。
李法相 そうだと,契約成立後未登記の間に転売することを防ぐためであるか 梅 急いで権利を認めるためであり,弊害を少なくすることができる。
李法相 甲乙間に売買の口頭契約が成立した後に丙がきて高価で買うというの で丙に売却して登記がなされればどうなるか。
梅 口頭契約でも契約は成立し,丙に売却して登記があれば所有権は丙に帰す が,甲は乙に損害賠償すべきである。
李法相 韓国の習慣では売買の口頭契約が成立すれば,牌旨なるものを売主よ り買主に交付し,登記の手続はその後当事者の便宜に従ってなす。
梅 慣習がそうであれば,契約の成立に必要な牌旨を交付したときに契約は成 立する。
李法相 韓国では牌旨はこれを遅滞なく交付するが,代金を支払うべき期間は 習慣上一定しない。そのため,悪意で当事者の一方がことさらに代金支払いを
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無期限に引き延ばすおそれがある。
梅 その場合には,裁判所に訴えて契約の履行を求めるべきである。」
以上の議論では,とくに韓国の現行民法での不動産物権変動(現行法の制定 のときにも大きな議論があったが)は登記によって成立する形式主義であり,
日本民法の意思主義とは異なるが,1906 年に早くもそのような議論が韓国で 行われたことをみることができる。
3 法案の変化と内容
法部案である不動産法所関法案に対し,梅修正案である「土地建物ノ売買・
交換・譲与・典当ニ関スル法律」が出され,これを元にして 1906 年 10 月 16 日にいったん法律第 6 号として「土地建物ノ売買・交換・譲与・典当ニ関スル 法律」が成立したが,結局この法律第 6 号は施行されることなく,1906 年 10 月 26 日に勅令第 65 号として「土地家屋証明規則」が制定・施行された。ここ ではまず,法部案,梅修正案,法律第 6 号さらには土地家屋証明規則の四つを 若干比較しておきたい。
梅修正案 1 条と法部案 3 条(法部案 1 条と 2 条は目的と不動産の範囲に関す る規定),2 条と 4 条,4 条と 5 条,5 条と 6 条,6 条と 7・8 条が,それぞれ同 様な内容である。梅修正案 3 条(契巻なき場合の理由書の提出に関する条文)
と 7 条(物権変動の意思主義に関する条文。法部案 12・13 条が売買契約が無 効とするとしたことに対する修正)は法部案に該当条文がない。また,8 条と 10 条(共有者の 3 分の 2 の同意),9 条と 11 条は似ているが,10 条以下と 12 条以下の罰則に大きな差異がある。なお,家族不動産の場合の戸主の同意が必 要とする法部案 9 条および法部案の付則 23 条(不動産につき本法に規定がな いと現行諸法令によるとした規定)につき,梅修正案はそれぞれ削除している。
次に,法律第 6 号では,梅修正案に比し,法部案では 9 条(不動産が共有の 場合の売買などに関する規定)として存在したが梅修正案では削除された条文
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が 9 条として復活する。他方,土地家屋証明規則は,それらより簡単なものと し,契約書に証明を受けるべきこと,登記簿の代わりに証明簿を作ること,そ してその 8 条においては新たに,一方が外国人であれば,証明を受けた後に日 本理事官の査証を受ける必要があること,双方が外国人の場合はまず官庁に知 照して証明簿に記載してから証明すべきと定められている。土地家屋証明規則 において,それまでにはなかった(法律第 6 号より 10 日後に)外国人にも土 地所有権を認める規定がはじめて導入されたのである。その他,手続に関する 具体的な規定は 法部令第 4 号の土地家屋証明規則施行細則に定められた。
4 法部案たる不動産法所関法案を作ったのは誰か
さて,梅が来韓する前に作られたとみられる,法部案である不動産法所関法 案を作ったのは誰であろうか。そのためには,法部の立法に関する出来事を辿 ることから入りたい。
1895 年 6 月 19 日の承政院日記によれば,法部法律起草委員の任命のことが 書かれており,また金澤は 1903 年 7 月 13 日に議政府土地所関法律起草委員に なったとの国史編纂委員会の人物データベースにもあるので,もともとから法 律起草委員のような役職が遅くとも 1895 年からあったものと考えられる。土 地所関法起草委員会(15)については,承政院日記 1906 年 6 月 4 日のところに,土 地所関法起草委員を解任(16)し,不動産法調査委員を任命するとのことが書かれて おり,この委員として,内部参事官の石鎮衡が入る(17)。また,同各部通牒によれ ば,1906 年 6 月 11 日に川崎萬蔵と山口慶一を不動産法調査会輔佐官補に嘱託 し,同月 20 日に中山成太郎(18)を不動産法調査会補佐官に嘱託するということが
(15) 皇城新聞 1906 年 7 月 16 日によれば,土地所関法起草委員会を英語学校に置くとの記事があ り,英語学校の前身は育英公院で,その前身はドイツ領事館のところなので,現在は寿松公園あ たりということになる。
(16) 承政院日記によれば,この任命は同年 5 月 22 日とのことである。
(17) 石については,国史編纂委員会の人物データベースによれば,1905 年 7 月 25 日に法部法律 起草委員にも任命されていた。
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出ている(19)。
さらに,1906 年 7 月 13 日には,土地所関法起草委員が韓国政府内で任命さ れた(20)。先にみたように,韓国施政改善ニ関スル協議会第 9 回(同年 7 月 23 日)
で李法相は法部の案を 8 月までに提出するとし,その後に総 24 カ条(付則 2 カ条)の法案を提出した。これを梅が検討したわけである。この土地所関法起 草委員会は 1906 年 7 月 24 日に解散し,同日に梅が会長となる不動産法調査会 として生まれ変わった。
以上の展開過程や法部案の内容などを鑑みれば,法部案たる不動産法所関法 案は梅でなく,日本からの影響もあった不動産法所関委員会で起草されたもの と思われる。さらに,法部案に続く一連の不動産関連法は,政治的な懸案問題 としての所有権の証明や外国人の土地所有権認定の問題を解決するための簡略 な法律と考えられていた。とくに,当時日本ではすでに不動産登記法と民法の 制定前に作られた建物売買譲渡規則(明治 8 年 9 月 30 日第 148 号布告)と土 地賣買讓渡規則(明治 13 年 11 月 30 日 太政官布告第 52 号)があり,当然に 参考とされたであろう。法部案にも梅修正案にもなかった,外国人の土地所有 を認めた土地家屋証明規則は,外国人の土地所有のことを除けば,そのような 日本の規則とそれほど変わらない。したがって,土地家屋証明規則は当時の政 治的判断によって制定・施行され,梅が起草したのではないと考えるのが穏当 である。
結果的に梅は,修正案という形で自分の意見を表明しただけであり,法部案 や土地家屋証明規則を起草することはなかったと考えられる。梅は,そのとき
(18) 西英昭・『台湾私法』の成立過程─テキストの層位学的分析を中心に─(2009)9 頁では,
「初期の台湾総督府官僚の中でも台湾・朝鮮の双方に関与し,土地問題に関して比較的多くの著 作を残している数少ない存在である」と評している(その他,同書 57 頁の注 68)に履歴が詳し い)。なお,大正 2 年 6 月 10 日に従五位勲五等から正五位に叙任されている(朝鮮総督府官報大 正 2 年 6 月 16 日)。
(19) この通牒には小田幹治郎も 1906 年に韓国政府の招聘によって来韓したとのことであるが,
そのときの身分は書かれていない。
(20) 全員,韓国人である。
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に,私は土地に関する法律を調査中であり,その調査が役立つものと考えてい るとし(21),民法は私が起草することになっており,昨年以降慣習を調査しており,
その調査は今年中に終わるであろうと話していたのである(22)。
5 不動産関連法と梅の関わり
岡教授は,「梅先生は,売買などにより変動した所有権の証明に関する『土 地家屋証明規則』・・・などを起草」すると述べている(23)。また,梅の活動を詳 しく取り上げ,施政改善協議会などについても詳しい李英美博士の研究によれ ば,土地家屋証明規則も梅が立案したと述べ(24),梅文書の『韓国立法事業担任当 時ニ於ケル起案書類一』に証明規則の各種改正案とその他の土地建物所有権証 明規則と同施行細則の原文が収録されていると記している(25)。ところが,梅の言 及したこととして「韓国政府からこの案が回ってきて統監もこれに同意してそ の発布に至ったのであります」と述べているが(26),他方で梅が立案したことにつ いての確たる根拠は示されていない。
しかし,梅は短期間に修正案を出す程度でかかわり,所属する不動産法調査 会は職制から法律の説明と施行に関与することになったのではなかろうか。と くに,不動産法調査会が 1910 年 3 月に発刊した冊子をみれば(27),土地家屋証明 規則発布の理由としてあげたのが参考となる。その内容はおよそ,以下の通り である。韓国は条約上,居留地及びその周囲一里以内のほかは,外人に土地所 有権を許さなかったが,統監はこれは韓国開発のため,韓国人民の福利を増進
(21) 梅謙次郎「韓国ノ話」国家学会雑誌第 21 巻第 12 号(1907)30 頁。
(22) 梅・前掲注 12)(下)10 頁。
(23) 岡・前掲注 3)23 頁。
(24) 李英美・韓国司法制度と梅謙次郎(2005)82 頁。
(25) 李・前掲書注 24)84 頁。
(26) 李・前掲書注 24)86 頁。
(27) 不動産法調査会『土地及建物ノ売買,贈与,交換及典当ノ証明ニ関スル規則及指令等要録』
の 103 頁ないし 105 頁。
一四九
するため不得策であり,韓国政府に勧めて韓国政府がその規則を発布させるよ うにした。これがこの規則制定の主要な理由である。また,韓国における不動 産の整理は統監府および韓国政府においても十分な審議・研究の末に早晩完全 なる整理の制度を設けるべく,その方法は内地および台湾,沖縄県などにおけ る如く,土地丈量,地籍調査を断行して地租の基礎を確定すると同時に各人の 不動産に関する権利の所在を明確にし,これによって土地台帳を確定してから 登記を施行すべきであるが,これらについては目下調査中にある。そのために は多額の経費と幾多の歳月を要するので,目下土地の権利の状態がすこぶる不 安定にあるから,確実な資本家の投資を促すためにも権利保証に関する手段を 作ったゆえんである,ということである。
また,韓国の歴史学者の論文には,法部案では,その付則でこの法に規定の ない場合は他の法によるとされていたが,梅修正案ではそれが削除され,これ は外国人の土地取得を可能にするためであるという指摘がある(28)。そして,土地 家屋証明規則の大きな差異は,同 8 条で外国人の不動産証明手続に関する規定 をおいたことであると述べている(29)。しかし,梅は,修正案につき,不動産に関 する単純かつ特別な法を考えていたわけであり,外国人に土地所有権を認める べきと考えていたならば,付則の条文を削除するというように付則をいじるの ではなく,本文で直接それに関する条文をいれたであろう(30)。そもそも梅は,法
(28) 鄭 然 泰,大 韓 帝 国 後 期 不 動 産 登 記 制 度의 近 代 化를둘 러 싼 葛 藤과그 帰 結,
법사학연구16 号(1995)96 頁。
(29) 鄭・前掲注 28)102 頁以下。
(30) なお,1906 年 12 月 26 日勅令第 80 号による土地家屋典当執行規則の第 2 条は,「土地家屋 を目的とする典当執行に対しては流質契約を締結することができる」と定めていた。梅はそのと き,1907 年 1 月 15 日に帰国したので,同規則の公布の前後にはソウルにいたし,その規定にも 接したと考えられる。ただ,梅自身も流質契約を認めていたのであるから,そのような規定自体 は反対でなかったであろうが,清算のことは関連法規に直接定められていない。ところが,同規 則の第 7 条をみれば,「競売を終了したときは,債権者はその競売代金から債権額および競売の 実費を控除した後に,その残額を計算書とともに債務者に還付すべきである。/当事者の一方が 本国人となる時は,競売代金が債権および競売実費額に未達しても,債権者はその残額を債務者 に請求することができない。ただし,当事者の両方が外国人となるときは,この限りでない」と 定めているので,そのような規定の内容は清算義務(足りなくても債権は消滅することを含め
一四八
律第 6 号と同証明規則が制定されるごろにはソウルにも滞在していなかった。
Ⅴ 1908 年からの慣習調査
1 不動産法調査会から法典調査局へ
1907 年 12 月 23 日,「不動産法調査会」は勅令第 61 号の「法典調査局管制」
の公布によって「法典調査局」となり,1907 年 12 月 27 日に委員長として法 部次官の倉富勇三郎が選任された。これに代わり,梅は法典調査局顧問に嘱託 された。
法典調査局という体制に変わったのは,不動産法だけでなく諸般の立法をす る機関として位置づけるためであったろう。また,一方で梅がその顧問となっ たのは,常時ソウルにいたのではないことが,他方で政策の決定などの意思決 定を行政側に一本化させる必要があったことが,その原因であるとも考えられ る。とはいえ,法典調査局への移行は,急いで推進されたようである。たとえ ば,法典調査局に変わる直前の 12 月 18 日に,梅の名義で下森久吉を不動産法 調査会嘱託として 12 月 16 日から採用するとの内閣総理大臣への起案が発信さ れたが,このことからすれば,まもなく機構が変わるのであったら,そのよう な人事を一週間程度留めることもありえたし,また梅はこの時期に法典調査局 のことを知ることができなかったとも窺えるからである。
て)が前提となっているとも解することができよう。ちなみに,誰が執行を担当するかというこ とについては,1907 年 1 月 29 日の法部令第 2 号による土地家屋典当執行規則施行に関する細則 の第 3 条・4 条において,統首また洞長,面長またその他公吏,これらの者がいなかったら目的 物所在地に住む 20 歳以上男子二人の立会のもとで債権者が行うということになっている。競売 といっても実際は,流質とさほど変わらないようなものといえよう。
一四七
2 法典調査局の活動のあらまし
法典調査局の活動を適宜要約すれば,次の通りである(31)。すなわち,韓国政府 は,1907 年 12 月,不動産法調査会に引き続き,民法・刑法・民事訴訟法刑事 訴訟法および付属法令起案の目的で,法典調査局を設置した。ここでは,調査 問題 206 問を作り,調査を進めることとなったが,一部の成果があるものの完 結とならず,その事務は朝鮮総督府において続行することになった。とくに,
民事に関する慣習については,日本民法との異同を調査し,1910 年末で一応 の調査を終わり,民法の起草に着手する予定であったが,併合のため中止とな った(32)。
3 法典調査局のその後
併合の後は,総督府に設置された取調局が法典調査局の事務を引き継ぎ(途 中の 1912 年 4 月にその事務が本府参事官の管掌に移った),さらに 1915 年に は中枢院(正確にはその調査課)の所管に移った(33)。
民事に関する慣習調査は総督府取調局において引き続きこれを行い,その結 果は 1912 年 3 月 18 日制令第 7 号で制定される朝鮮民事令の参考資料となった。
刑法については大体の方針を決定しただけで,起案までには至らず,その事務 を取調局に移し,1912 年 3 月 18 日に制令第 11 号で朝鮮刑事令の制定という 運びとなった。
後にみる民事訴訟法は,法典調査局で梅が起草をし,1909 年に委員会を開
(31) 朝鮮総督府中枢院・前掲書注 2)13 頁以下による。
(32) 1907 年から約 3 年間にわたって,主要な都市で慣習の概要を調査したのであり,ここ(亡 くなる)までは梅も慣習調査や立法に何らかの形で関与したであろう。なお,梅は,土地を測量 することは必要であるが,10 個年以内にはこの事業を終えることができるであろうと話してお り(梅・前掲注 12(上)9 頁),おそらくもっと長く韓国法にかかわるつもりだったのに,未完 に終わった。
(33) 以下は,朝鮮総督府中枢院・前掲書注 2)15 頁以下を参照。
一四六
いて審議をして一応議了したが,成案とはならなかった。刑事訴訟法(担当は 倉富勇三郎)は起案にも至らなかった。その他,商法も慣習調査を一応したが,
併合の結果,起案に至らなかった。しかし,民籍法は,旧慣調査に基づき,旧 法と慣習を斟酌して,1909 年 3 月 4 日法律第 8 号で制定された。
その後,取調局では,約 1 年間にわたって特定の事項につき一部地方の調査 を行った。その事務を引き継いだ中枢院も続けて幅広く民事慣習調査を行った。
4 慣習調査の活用
(1)照会と回答
1906 年以来,多くの慣習調査が行われたが,そのようにしてまとめられた 慣習調査の結果に基づき,以上のようなその担当機関は,裁判規範としての慣 習が何であるかを,鑑定意見のような形で裁判所の照会に応じて回答をした。
このような裁判所(またはその他の官庁)からの照会に対する回答のほかにも,
関連資料を集めて図書を刊行するときに活用された。
裁判所からの照会があったのは,とりわけ朝鮮高等法院は主に法令解釈の統 一を追求したので,裁判の便宜・安定,法令解釈の統一のためにも慣習が何で あるかにつき,関心をもっていたからである。ところが,その慣習を「慣習 法」として理解したのか,またはいわゆる「事実たる慣習」として理解したの かは明らかでない。
このような照会は,1909 年 2 月,京城控訴院民事部より,法典調査局に慣 習調査の照会があったのが初めてで,裁判所その他官庁から多くの慣習の照会 があった。これら照会に対する回答は,1933 年 9 月までに累積して 300 件を 超えたので,その整理作業を行うことになる。これらの回答の整理は,以下に も出る,高等法院の野村調太郎判事と喜頭兵一判事に委嘱し,1933 年 12 月に 民事慣習回答学説彙集として発刊された。
慣習に関する照会と回答の例として,たとえば 1936 年 4 月 25 日附で朝鮮高 等法院から照会があった,「同本同姓者間の婚姻に関する件」についての朝鮮
一四五
中枢院による回答は,「同本同姓者の間(男系の血族間)において婚姻をなさ ざる慣習,今尚存続すと思料す」となっており,その理由としてあげられた記 述で興味のあるところは,次のとおりである。
「法務局において今回調査したところによれば,全鮮における同本同姓者間の 婚姻総数は実に 3,868 件の多きに達する。その中,戸籍事務管掌者たる府尹お よび面長において正規に婚姻届を受理したるもののみにても尚 3,437 件に及び たる。そこで,もはや現時においては同姓不娶の旧慣は頽廃し,すでに法的規 範たる性質の喪失せるが如く観察し居られるも,右調査表に同本同姓者間の婚 姻なりとして挙げられたる者の中には偶々姓貫を同じくするが如き外形あるも,
その実質においては血族関係なき者あり。すなわち,該調査票中別表の首位に ある金海金氏の如きは駕洛金首露を始祖とする者と新羅の敬順王の後孫金時興 及び金濂を始祖とする者とあり,また安東金氏の如きも金日兢を始祖とする者 と金宣平を始祖とする者とありて,これらの者の間においては外形に同本同姓 の如きも本来血族関係なきものとせられ旧時においても慣習上互いに通婚する ことを認められたのであるから,これで新傾向なりということはできない。ま た,たとえ,朝鮮人の一部において同本同姓間の婚姻の欲するものあるも,法 律婚主義をとる現実においては民事令の変更されない限り,これを認める慣習 は生じ得ざるものと思料す。」
ここに取り上げられた婚姻の慣習は,その後に制定される韓国民法の規定と なるが,そのような同姓同本間の結婚禁止という慣習は,1997 年 7 月 16 日に 憲法裁判所の違憲決定が出されたまで,64 年間の長きにわたって生きながら えたのである。
(2)図書の出版
慣習調査の結果は図書としてまとめられ,現在にいたるまで貴重な参考資料 となっている。そのように出された図書として有名なのは,次の二つである。
まず,中枢院調査課編『李朝の財産相続法』(1936)がある。この本は,高 等法院判事たる喜頭兵一の編著によるものである(34)。次は,中枢院調査課編『朝 鮮祭司相続法論序説』(1939)である。この本は,高等法院判事たる野村調太
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郎の編著によるものである(35)。これらの本をみると,喜頭や野村その他関係者は,
承政院日記など韓国の古文書を読む上で相当の漢文の素養があったと考えられ る。
5 後期の慣習調査
慣習調査は 1940 年代までにも続けられたのではないかと考える。上記した,
慣習調査報告書などの公刊資料のほかにも,その他慣習照会への回答の元とな った第一次慣習調査の報告書の存在が最近になって明らかになっており,高等 法院も終戦まで裁判を続けたし,役職として任務を全うしたであろうからであ る。それらの一次資料は韓国の学者の注目を集めている。大戦後,中枢院の所 蔵する各種資料は,一部は政府機関である国史編纂委員会に引き継がれ,その 他は散逸しその存在が明らかでなかったが,それらが消失することなくやっと 公にされるようになった(36)。
後期の慣習調査を担当した者に渡邊業志がいる。渡邊は,先にみた図書の刊 行にもかかわったし,多くの慣習調査を担当したはずであるが,たとえば,筆 者の所属する大学の図書館にも 入会権の慣習調査の記録をまとめた手書きに よる報告書(1925 年作成)が所蔵されている(37)。ちなみに,渡邊は,岡山県生
(34) そのはしがきにあたる凡例のところで,喜頭は「中枢院嘱託渡邊業志氏の助言に負ふ処甚だ 大なることを附記して謝意を表する」と記している。
(35) そのはしがきにあたる凡例のところで,野村は「中枢院嘱託渡邊業志君には資料の検索より 最後の組版校正に至るまで終始多大な援助を蒙った」と記している。この本と先の本はともに渡 邊業志なる人物の助力が多大なるものと窺えるが,それについては次の後期の慣習調査のところ でまた取り上げることにする。
(36) 韓国の歴史学者の論文である,이승일, 일제 강점기 한국관습조사자료의 소장 현황과 분류 · 기술-국사편찬위원회와 수원박물관 자료를 중심으로-, 법사학연구제46호, 2012, 387 頁 以下によれば,慣習調査の一次報告書は数多く残っており,国内外の機関で 7,700 余冊があるが,
そのうち,中枢院を受け継いだ国史編纂委員会と個人収集家から寄贈を受けた水原博物館に多く が所蔵されているとのことである。
(37) 図書館のホームページ(http://library.sogang.ac.kr)で,[朝鮮地方慣習調査報告書]/筆 寫本(原稿本)という書名で検索すれば,原文をみることができる。
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まれで(生年は不詳),1910 年 8 月 6 日に統監府巡査となり,1915 年 5 月 1 日 に中樞院屬となってから,1931 年 2 月 28 日からは舊慣習及制度調査事務囑託 となった。
Ⅵ 慣習調査に対する韓国学者の考え
1 沈教授の考え
法史学者の沈羲基教授は,次のように述べる(38)。すなわち,日本人が残した
「記録された慣習」は,自分の祖先の伝統であるといえるか(39),日本人が韓国を 植民地とする前の朝鮮に「西洋中世と西洋近世の民事慣習法」に匹敵する実体 が存在していたといえるか(40)という問題から議論を始める。そして,滋賀秀三
『清代中国の法と裁判』創文社(1984)や Jerome Bourgon のいう,近代以前 の東アジアで西洋史の民事慣習法に匹敵する実体があったとはいえないという 主張を紹介する(41)。引き続き,朝鮮慣習調査報告書の編纂者が設定した「旧慣」
概念に対する疑問を次のように投げかける。一番目に,編纂者の発想には「習 俗・風俗」の局地性に対する考慮が非常に微弱である。二番目に,慣習がなん であるかを検証するときの検証の主体を誰にするかについての苦悶も脆弱であ るという点である(42)。また,梅に対しては,朝鮮慣習調査報告書の編纂を企画し たが,慣習と慣習法に対するわかりやすい定義をしておらず,どのように区別 すべきかの議論も稀薄であるとする(43)。最後に,慣習,慣習法とは何かをまず明 らかにすべきであり,前近代朝鮮ではどのように民事裁判をしたか実証的に研
(38) 심희기, 동아시아 전통사회의 관습법 개념에 대한 비판적 검토 – 일본식민지 당국에 의한 관습조사를 중심으로 - , 법사학연구제46호, 2012,205 頁以下。
(39) 同・208 頁。
(40) 同・212 頁。
(41) 同・214 頁ないし 219 頁。
(42) 同・227 頁以下。
(43) 同・233 頁。
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究すること,それから慣習調査の記録物を有用に活用すべき方法を見つけるべ きであるとして締めくくっている(44)。
2 文教授の考え
同じく法史学者である文竣映教授は,次のように述べる(45)。文教授は,1908 年 8 月から 1910 年 12 月までの京城控訴院の民事判決原文を調べて,民事紛争 の模様を分析している。それらは,裁判規範がほとんど存在しない状況での判 決である。そして,判決で認められた慣習の中の二つは,『慣習調査報告書』
のものとは少し違うと指摘する(46)。さらに,成文法と慣習もない法の空白は日本 人判事の考える条理,事理,当然なものによって埋められてきたが,この条理 裁判は,単純に実定法の空白を埋め合わせることに止まらず,条理によって旧 慣を審査して新たに整列・配置させ意味を付与する作業を含んでいたと評価し ている(47)。とくに,文教授は,ある一方を,正確/不正確,真実/歪曲という二 分法的な枠で裁断するのは適切でないと考えると述べている(48)。また,別の論文 では(49),慣習の意味と内容などにつき,判決文の分析を通じて実証的に研究して おり,その研究結果が注目されるところである。
3 李教授の考え
李昇一教授は,精力的に慣習調査の結果を研究している歴史学者である。先
(44) 同・240 頁以下。
(45) 문준영, 경성공소원(京城控訴院)민사판결원본철을 통해 본 한말의 민사분쟁과 재판, 법학연구(충남대)제22권제1호, 2011,9 頁以下。
(46) 同・24 頁。
(47) 同・67 頁。
(48) 同・25 頁。
(49) 문준영, 구한국기의 임대차 분쟁과 전세관습-민사판결자료를 통한 접근-, 법사학연구 제48호(2013)133 頁以下など。
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(注 36)にあげた論文のほか,様々な大戦前の韓国の法制に関する研究を行っ ているが,たとえば,典当ということについて書かれた論文では(50),歴史学の立 場から慣習調査の意義をあらためて分析している。資料を客観的にみようとす るところは注目すべきであるが,歴史学の観点からの研究が中心であり,法学 からの評価はもう少し結果を見守りたいところである。
4 梅の考えた慣習とは
さて,初期の慣習調査を主導し,大戦が終わるまでの慣習調査の従うべきモ デルを提示したといえる梅は,慣習についてどのような考えを持っていたので あろうか。もともと日本の民法制定のための法典調査会における議論で,当事 者の意思表示がない場合に,任意規定によるのか(富井博士),慣習によるの か(梅・穂積博士)の対立があった(51)。また,法典調査会での議論の対象たる
「慣習」は裁判基準として依拠すべきものであった(52)。すると,梅の考えた,韓 国の慣習とは,日本民法 92 条のいう慣習として,裁判規範としても有用であ り,将来の立法の参考となるものであったと考えられる。ところで,梅は,そ のような慣習とはどのような場合に認められる慣習なのかを明らかにしていな いと思われる。たとえば,民法の体系書では(53),慣習法は法令の認めた慣習と法 令に規定のない事項に関する慣習であり,民法 92 条のいう慣習は法令の規定 と異なる慣習,すなわち事実の慣習であるとし,明確に慣習があるとすれば,
当事者はこれによると明示しなくてもそれによる意思であると考えるのが一般 であるが,そうでない慣習だと不明確な慣習として慣習とはいえないものであ ると述べているに過ぎない。「明確に慣習がある」というときの,慣習とは何
(50) 이승일, 1890년대 한국의 전당 관행과 전당 입법, 법사학연구 제48호(2013)93 頁以下。
(51) さしあたり,五十川直行「慣習法 事実たる慣習─民法九二条論」法学教室 235 号(2000)
17 頁─18 頁。
(52) 五十川・前掲注 51)18 頁。
(53) 梅謙次郎『民法要義 巻之一総則編[訂正増補]』(1911 年版の 1985 年復刻版)204 頁─205 頁。
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なのか,韓国において「明確に慣習がある」として判断された理由は何か,自 明のものとして慣習をみたのか,そうでなかったのか,明らかではない。いず れ,今後の研究を待ちたいところである。
Ⅶ 裁判制度と民事訴訟法
1 裁判制度の経過
梅は,慣習調査と民法制定のほか,裁判所法や民事訴訟法にも関与した。ま ずは,日本が韓国の裁判制度に関与するようになった 1894 年から併合までの 動きを時間順にまとめておくことにする。
時 期 関 連 事 項
1894年7月3日 大鳥公使による 5 カ条の韓国内政改革案の第三項目に司法制度の改 革が示される。
1894年10月27日 井上馨公使により同様の改革案が韓国政府に提出される。
1894年11月4日 韓国政府は井上に顧問官の推薦を依頼し,星亨(国会図書館憲政資 料室の星亨関係文書によれば,1894 年 3 月 21 日に任命,同年 8 月 から 2 ヶ月間に請暇,同年 11 月 15 日に顧問官の解約)が法部顧問 となる。
1895年3月25日 法律第 1 号「裁判所構成法」が制定・公布される。実際に開設され たのは,漢城裁判所と高等裁判所である(54)。
1895年4月29日 法部令第 3 号「民刑訴訟規定」が公布される。
1899年5月30日 「裁判所構成法」が改正され,高等裁判所の名称が平理院となる。
とくに,同法第 25 条では,平理院の判決は法部大臣に具報して皇 帝の確認を受けるべきこととされる。
1905年11月17日 第二次日韓協約により,法律顧問と法務補佐官の招聘が可能となる。
1906年2月1日 統監府が設置され,同年 3 月に伊藤統監が赴任する。
(54) 法律第 1 号裁判所構成法のモデルとなったのは,明治維新後の明治憲法制定前の初期の日本 の裁判所制度であり,同法の制定にかかわった日本の外務省は憲法制定の前の状況を考慮したと 考えられる。
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1906年12月 梅は伊藤に法務参与官と法務補佐官の採用を懇請し,1907 年 1 月 20 日に法務補佐官が任命される。
1907年9月7日 倉富勇三郎が法部次官に任命される。
1907年の夏 三回目の訪韓のとき,梅は「裁判所構成法」を起草(当時の日本の 裁判所組織・名称と同じ)する。
1907年12月23日 法律第 8 号「裁判所構成法」が改正される。
1908年2月 渡邊暢が大審院長に,国分三亥が検事総長に任命される。
1909年10月16日 統監府裁判所令が公布(「大審院」という名称から「高等法院」に 変更(55))される。
1910年3月18日 朝鮮総督府裁判所令(部令第 26 号)の改正により,地方法院(地 方法院支庁を含む),覆審法院,高等法院という体制となる。
2 梅と裁判制度
以上にみたような当時(1907 年 12 月以降)の韓国における裁判制度の基本 システムは,梅によるものである(56)。とくに,梅は,公正な裁判が必要であると 強調していた(57)。また, 裁判所構成法を起草し,それまでの裁判が二審制だった のを日本と同様に三審制にした(58)。次にみる民事訴訟法との関係からも,民事訴 訟法を起草するときは,公平な裁判のため手続を簡単にする必要があり,差し 支えなければ日本の民事訴訟法に類するものにしたと述べている(59)。
3 梅と民事訴訟法
上記したように,梅は民事訴訟法を起草することとなり,その案を完成し,
(55) これは梅も予想している(梅・前掲注 12)(下)8 頁)。
(56) これについては,筆者の別稿である,金祥洙「梅謙次郎と朝鮮高等法院─日韓司法交流の始 まり─」法の支配 137 号(2005)62 頁以下を参照されたい。
(57) 梅・前掲注 21)30 頁。
(58) 梅・前掲注 12)(下)7 頁。
(59) 梅・前掲注 12)(下)9 頁。
一三八
委員会も通過したが,結局施行されることはなかった(60)。梅も,「民事訴訟法が 実施されるかは未定である」と述べており(61),ある程度予想していたと考えられ る。
梅の作った民事訴訟法案については,ハングルの研究がある(62)。それによれば,
民事訴訟法案は,755 カ条の日本語版(原案),577 カ条の日本語版(法案),
そのハングル訳である 577 カ条の韓国語版(以上の三つは国立中央図書館に所 蔵されている),それから梅が最初に刑事訴訟法との合体も念頭においた案,
という四つがある(63)。 この中で四番目は総則 4 カ条と第 2 編民事訴訟法まで完 成し,刑事訴訟は手つかずのままだったもので,その第 2 編だけが 755 カ条の 民事訴訟法案となった。これが原案でその中から破産を除いたのが 577 カ条の 法案である。原案は 547 条から 755 条までの破産編があったが,法案は破産の ところをなくして 577 条からなり,後者には前者から 2 カ条が削除され,代わ りに 33 カ条が追加されているとのことである(64)。他方,民刑訴訟規則は 1908 年 7 月 13 日に制定され,同じ頃に梅による民事訴訟法案が出たが,前者ができ る頃に梅は韓国に滞在せず,法典調査局の主導で作られたのであり,前者には 梅が関わっていないであろうとする(65)。この論文は,条文の内容には直接触れず,
成立過程や条文の形式をとりあげたものである。
梅の起草した民事訴訟法案の具体的な内容については,これからさらに研究 すべきであるが,ここでは,次のような筆者の感想を述べておきたい。
日本の場合,1890 年に最初の近代的民事訴訟法典である民事訴訟法が制定
(60)大韓教会会報第 5 号(1908 年 8 月 25 日)の内地彙報というところにも,梅が起草した民事 訴訟法を法典調査局で各委員が逐日調査して約 50 日で畢了するが,その法律実行期は在遠であ るという記事がある。
(61)梅・前掲注 12)(下)10 頁。
(62)임상혁, 1908년〈민사소송법안〉의 성립과 그 성격, 민사소송제14권제1호(2010)375 頁 以下。
(63)同・378 頁。
(64)同・387 頁以下。
(65)同・382 頁。
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された。これはボアソナード案からテヒョウ草案,モッセ草案と立法作業が順 に続けられたが,モッセ氏が民法草案や商法草案ができていないことなどを理 由に中途に放り投げた後,日本人の報告委員によってなされた草案によるもの であった。ところが,民事訴訟法の制定後に後から制定された民法や商法との 齟齬が生じることとなったため,民事訴訟法の改正の動きが始まり,やがて大 正 15 年に改正されることになった。結果的に,梅は,民事訴訟法を先に起草 したわけであるが,日本の例を当然知っていたと考えるのが通常であるとすれ ば,民法の腹案ができていてそれに齟齬しないような民事訴訟法案を起草した ともいえるのではなかろうか。
Ⅷ 終わりに
梅が韓国に残したことで,二次大戦の終了まで機能したのは,裁判制度と慣 習調査である。前者は,現在まで生き続いており,後者もその結果物が現在の 研究資料として役立つものになっている。その他,民法・民事訴訟法関連の法 案などは実施されることはなかった。
1906 年夏から 1910 年夏までの間,梅という当時日本における第一流の法学 者が韓国にいたということは,それだけ,韓国に近代的な法律制度を受け入れ 安くする要因になったであろう。韓国の場合,近代的な裁判制度が何の準備も なくいきなりそのときに動き始め,国民の生活の一部になったからである。こ のようなことは,日本でもなかったことであると考える。様々な評価ができよ うが,梅が慣習に合った民法典を作ろうとしたこと、また公正な裁判を第一に したことは,大いに評価すべきである。韓国は,結局梅の来韓によって近代法 というものを実感できるようになったのではなかろうか。このことがまさに,
韓国近代法の夜明けをなすものにほかならない。
岡教授が前掲の論文で「梅先生が韓国の法典編纂など立法事業に果たした役 割を客観的に検討しようとする機運が,韓国から生じてきた」と述べた 1989 年当時の状況の後に,その当時の学者にはめぼしい成果は出ていなかった。法
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