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倫理とは何かという問いへの答えが この話にある と藤田教授 興味深いのは 倫理が人間の存在そのものに関わっている点です 人間は集団を前提に成り立っており 集団の中には必ず掟が必要です つまり この話は 倫理が人間にとって必須であることを示しています 宗教とは何か 宗教とは何か というのもまた難しい問

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Academic year: 2022

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連続講演会「東京で学ぶ 京大の知」シリーズ 12 人間と宗教 第 3 回

「倫理と宗教」という観点から見た「人間と宗教」の問題

京都大学が東京・品川の「京大東京オフィス」で開く連続講演会「東京で学ぶ 京大の知」

のシリーズ12「人間と宗教」。9月5日の第3回講演では、総合生存学館の藤田正勝教授が

「『倫理と宗教』という観点から見た『人間と宗教』の問題」と題して、倫理と宗教の関わ りがどのように問われてきたのか、歴史を振り返って講演した。

●倫理とは「つつしみ」と「いましめ」

東京オフィス開設後、最初の公開講座で講師を 務めたのが藤田正勝教授だ。「その時は京都学派が テーマでしたが、今日は倫理と宗教の関わりから、

人間と宗教について考えたいと思います」

まず「倫理とは何か」を考える上で、藤田教授 が手がかりとして挙げるのが、プラトンの『プロ タゴラス』である。ソクラテスとプロタゴラスと の対話という形でまとめられたこの本の中に「プ ロメテウスとエピメテウス」の話が出てくる。

もともとの話は、ヘシオドスの『仕事と日々』

にある。彼らはティタン(巨人)神族の兄弟で、

プロメテウスが対立するオリンポスの神々のとこ ろから火を盗んで人間に与えたことで、ゼウスの 怒りを買うというもの。ちなみに、ゼウスが復讐のため地上に送り出したのがパンドラと いう女性と箱だ。

このギリシャ神話を踏まえているが、『プロタゴラス』の話は少し異なる。兄弟は、ゼウ スからすべての動物に、それにふさわしい能力を与える仕事を任せられたことなっており、

人間に与えたのが火と物をつくる技術であった。しかし、その 2 つだけでは人間は獣に対 抗できず、集団をつくることでやっと生き延びることができた。しかし今度は集団の中で だまし合い、殺し合うようになり、滅亡の危機にさらされる。見かねたゼウスが人間に「つ つしみ」と「いましめ」を与えたことにより、人間は自らを抑制する心と掟を守る感覚を 持ち、ようやく存続できた。そんな話である。

講演する藤田教授。「仏教には倫理が欠けて いる」というシュヴァイツァーの批判に対 し、「そんなことはない」として、その根拠 に慈悲を挙げた

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「倫理とは何かという問いへの答えが、この話にある」と藤田教授。「興味深いのは、倫 理が人間の存在そのものに関わっている点です。人間は集団を前提に成り立っており、集 団の中には必ず掟が必要です。つまり、この話は、倫理が人間にとって必須であることを 示しています」

●宗教とは何か

「宗教とは何か」というのもまた難しい問題だが、それを考える手がかりはミルチア・

エリアーデの『聖と俗』にある。彼は、宗教的な現象を「ヒエロファニー」(Hierophanie)

という言葉で説明した。ヒエロファニーはhieros(神聖な)、phainomai(現れる)を合わ せた造語で、「神聖なものの顕現」という意味である。

ヒエロファニーはどのように起こるのか。ひと言で説明すれば、まず、ある場所が、人 間がおかしてはならない神聖な場所、つまり「中心」として固定される。そしてこの中心 の周囲に、秩序ある「世界」つまり「コスモス」が創建される。その周りには無限に広が る混沌とした空間、「カオス」が広がる。コスモスとカオスは固定したものではなく、常に カオスがコスモスを侵略しようとする力が働いている。

「中心」の周りに作られた世界、そしてその秩序は常に風化していく。そのため、聖な るものの力をもう一度取り戻すことが必要となる。それが「祭り」である。「その際必要と なるのが、最初のヒエロファニーがどのように起こったのか。どうすればそれを再現でき るのかを記した神話でした」。神話に則って、原時間への復帰が試みられるである。

「聖なるものが顕現し、コスモスができる。しかしその力が失われるとともに、最初の 出来事へと復帰するための祭りが行われる。その一連の営みとして、宗教を理解すること ができます」

●倫理と宗教の根源性

「倫理も宗教も、人間や共同体の維持のために重要な意味を持っていたことが分かると 思います。では次に、倫理と宗教、それぞれの根源性について考えてみましょう」

倫理が根源的な意味を持つと強く主張した思想家の 1 人が和辻哲郎だ。著書『人間の学 としての倫理学』で、「人間は一人の存在としてだけでなく、同時に他の人との関わりの中 で生きている。人と共同体を別個のものとして考えることはできない」ということを述べ

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3 ている。

人間は集団をつくらなければ生きていけない。さらに、言語や文化も他者との関わりの 中で生まれてきたものだ。「その共同体のルールが倫理であるわけで、だからこそ倫理が人 間にとって根源的な意味を持っている、と言えるのです」

しかし、藤田教授自身は倫理以上に宗教のほうがより根源的である、と言う。「というの も、宗教はそもそも世界がどのように成立したのかを説明するものだからです」

古代エジプトには、混沌の中からラーという太陽神が生まれ、ラーが他の神々や人間を 含めすべてを創ったという神話があるが、そうした神話の中で世界の成り立ちが説明され てきた。世界の成り立ちというのは、いわば共同体ができる過程でもある。「神聖なものの 力、つまり宗教によってまず共同体がつくられ、それを統合するものとして倫理が生み出 される。そう考えれば、倫理よりも宗教のほうが、より根源的であると言えます」

●キリスト教における倫理

宗教と倫理が深く結びついているとは、よく言われることだ。ユダヤ教やキリスト教で は、十戒などに見られるように、とりわけ「律法」が重視されてきた。

もちろん、旧約聖書と新約聖書では律法の位置づけが異なる。『ローマ人への手紙』では、

キリストの出現とともに旧約聖書に記された律法の時代が終わった、と書かれている。だ が、そう単純ではなく、『マタイの福音書』では、キリストは「律法を廃するためではなく、

完成させるために来た」とされている。「むしろ律法に新しい意味が与えられたと解釈され るのです」

では、どんな新しい意味が与えられたのか。「私は新しいいましめをあなたがたに与える。

互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いな さい」(『ヨハネによる福音書』)。「神を愛せよ。汝の隣人を愛せよ」という律法が与えられ たのである。

「旧約聖書と新約聖書では、律法の理解が大きく異なりますが、倫理に当たるものが信 仰の中で重要な位置を占めていることには変わりありません」

●仏教における「倫理と宗教」の問題とは?

「キリスト教では倫理が重視されてきたのに対し、仏教では倫理に目が向けられてこな

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かった。仏教には倫理が欠如している、という批判がしばしばなされてきました」

その代表的な例が、アルベルト・シュヴァイツァーである。彼は、医師として仏領コン ゴ(現ガボン)での医療活動に一生を捧げた人であるが、同時に神学者・哲学者でもあり、

『キリスト教と世界の宗教』という著書の中で、仏教に対して次のような批判をしている。

「仏教には、世界は苦悩に満ちており、そこから抜け出るために無為の境地に至らなけれ ばならない、という考えがある。そこには人倫的な意志も行為への熱情も生まれない」

確かに大乗仏教の経典『金剛般若波羅蜜教』などで、「すべての存在には実体がなく、夢・

幻・泡・影のようなものだ」と記されている。「こうした世界観からは行為への意志や責任 などが出てこないように見えますよね」

しかし仏教においても、決して倫理が視野の外に置かれていたのではない、と藤田教授 は言う。最古の仏典の一つである『ダンマパダ』には、「悪しきことをなさず、善いことを 行い、自己の心を浄めることが仏の教えである」という表現がある。ブッダが与えた五戒

(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を見れば、何が悪と考えられていたかが分 かる。「倫理的規範は仏教の中でも無視されていたわけではなく、ブッダの教えと不可分な ものであったと言えます」

●慈悲―仏教における倫理とは

仏教では、確かに、自己の救済が重視される。さまざまな苦を引きおこす煩悩の火を消 すことによって、ニルヴァーナ(涅槃)という安らぎの境地に至ることが、いちばん大切 な問題として考えられている。そしてそのために、真理(dharma)を把握すること、つま り智慧の重要性が強調される。

智慧の面だけを考えると、倫理性に欠けるというシュヴァイツァーの批判があてはまる。

「しかし、仏教では同時に慈悲が重視されてきました。決して倫理が無視されていたわけ ではありません」と藤田教授は話す。

智慧によって把握される真理は、初期仏典の中では「縁起」と表現されているが、慈悲 の背景にも縁起の思想があるという。「すべてのものが関わり、支え合っているという世界 観から、あらゆる生き物を差別なく慈しむという考え方が生まれてくるのです」

仏典のうちでも最も古いものの一つである『スッタ ニパータ』にも、「母が子を身命を 賭してまもるように、生きとし生けるものも慈しむべきである」と書かれている。あるい は『ダンマパダ』でも、欲望や執着の衝突によって争いや苦しみが生まれるが、慈悲の心 を持つことでそれらが消し去られる、と説かれている。

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慈悲の教えにはバラモン教への批判が込められている、というのが藤田教授の考えだ。

バラモン教では身分や職業によって人間が区別されるが、ブッダは「生まれによって賤し い人になるのではない。生まれによってバラモンになるのではない。行為によって賤しい 人にもなり、行為によってバラモンにもなる」(『スッタ ニパータ』)と語ったと伝えられ ている。「人間をすべて平等とみなす考え方が、慈悲の精神と結びついているのです」

智慧と慈悲が車の両輪として仏教を支えていた。「大乗仏教の理想である自利・利他は、

自らの悟りのために修行するだけでなく、他人の救済のためにも力を尽くすことを意味し ています。智慧だけでなく慈悲をも重視する態度がここにも生きています」

仏教では、倫理と宗教の関わりが十分に問われてこなかったというシュヴァイツァーの 意見に対し、「決してそうではない」という立場で語った藤田教授。最後は次の言葉で結ん だ。

「シュヴァイツァーの批判は確かにある一面を鋭く突いています。しかし、必ずしも仏 教全体を見たものではない。仏教の中でも、倫理の問題は、きわめて重要な問題として問 われてきたと言えます。そして慈悲という考えは、現代でも大きな意味を持っていると思 います」

「シュヴァイツァーにすれば、仏教は宗教のように見えなかった のでしょうか」という質問に、藤田教授は次のように答えた。「そ うではないと思います。しかし、涅槃を目ざして欲望の火を消す ことは、生きる力、他者を愛する力などを否定することになるの ではないか。それは宗教としては一面的すぎるのではないか。そ んな思いが批判につながったのでしょう」

参照

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