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ることができない信仰の弱い者 もう言葉にならないようなうめきや渇きや絶望を心に抱えている それで苦しんでいる そこで倒れようとしている そういう者のそばに すっと入ってきてくださって 今隣に座っていい? と やさしく 具体的に 一緒に座ってくださって 私に寄りかかってきなよ と 私に頼っていいよ と

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Academic year: 2021

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1 ルカによる福音書1:26~38 『神にできないことはない』 先週、友人と話をしながら、「信じる者は救われる」とよく言われるけれども、あれは本 当のことだろうか?本当にそうだろうか?という話題になりました。本当に主イエスは、 「信じる者は救われる」と言われたのだろうか?救われるとはそういうことなのだろか? 「信じる者は救われる」というよく言われる言葉について、実際は、それとはちょっと違 うのではないか、違う感じがする、という話になりました。 そして実際に調べてみましたら、確かに、聖書にある主イエスの言葉は、「信じる者は裁 かれない。」「私を信じる者は、決して渇くことがない。」「信じる者は永遠の命を得ている。」 「私を信じる者は、その人のうちから生きた水が川となって流れるようになる。」「私を信 じる者は、死んでも生きる。」「主を信じる者は誰も失望することがない。」などの言葉で、 「信じる者は救われる。」という言葉は、その額面通りの言葉としては、聖書に記されては いませんでした。 もちろん「信じる者は救われる。」というロジックは、誤りではありません。そして救わ れるためには、信仰が必要です。主イエスを信じて信仰を持ったら、その信仰のゆえに救 われるということは、救いの論理として間違っていませんし、それは正しいのですけれど も、主イエスは直接、「信じる者は救われる」とは、おっしゃいませんでした。それはなぜ でしょうか? 主イエスが語られたのは、信じる者は救われるという、少し漠然とした救いの枠組みに ついての、論理でも、教理でも、神学でもなく、実際にはもっと具体的な、肉感的なこと でした。信じる者は、失望することがない、決して渇くことがない、その人のうちから生 きた水が川となって流れる。これは、例えばこれを結婚に譬えて言うならば、「婚姻届けを 出せば、同じ戸籍になるね」という、そういう身分的なこと、資格付与的なことではなく て、「結婚すれば、手作りの料理を作って、毎日あなたの帰りを待っていてあげるね」とい う、そういう具体的なことです。もし友達関係で言うならば、「私たちはフェイスブックで 友達同士になったから、これで友達だよね」という関係ではなくて、例えば Dreams Come True というアーティストの歌に、サンキュ。という歌があるのですが、それは、彼氏にフ ラれた女の子を、その女友達が励ます歌で、その歌詞の冒頭には、「何も聞かずに、付き合 ってくれてサンキュ」という、耳に残るフレーズが出てきまして、あなたが髪を切るのだ ったら、私も一緒に切ってあげるよとその友達が言ってくれたりして、最後は、「来てくれ てよかった、いてくれてよかった。サンキュ。」という締めくくりになる歌なのですが、友 達であるということも、この歌のように、名前だけの友達ではなくて、辛い時にそばに来 てくれる、そして黙って、しっかりそばにいてくれるという、そういう具体的なことを指 すのだと思います。 主イエスを信じる者にも、主イエスは、そのように具体的に、その心を生きた水で満た し、心が渇くことがないようにしてくださる。その人が、たとえ望みが潰れてなくなって しまうようなつらい孤独に陥っても、そこに主イエスが具体的に共にいてくださって、失 望しないように、一緒にいて守ってくださる。「信じる者は裁かれない」と言われた主イエ スは、相手を責めないでじっと黙ってそばで話を聞いてくれる友人のように寄り添ってく ださり、しかもこの方は、十字架に架かって、代わり自分が裁かれて、自分が責められて くださる。 主イエスは、信じる者が救われるという論理を伝えたられたのではなく、むしろ、信じ

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2 ることができない信仰の弱い者、もう言葉にならないようなうめきや渇きや絶望を心に抱 えている。それで苦しんでいる。そこで倒れようとしている。そういう者のそばに、すっ と入ってきてくださって、「今隣に座っていい?」と、やさしく、具体的に、一緒に座って くださって、「私に寄りかかってきなよ」と、「私に頼っていいよ」と、具体的に、近いと ころにいて、ご自分に寄りかからせてくださったのです。主イエスが与えてくださる救い とは、こういう手のぬくもりが伝わってくるような、肌感覚で伝わるような、この冬の寒 い時期に特に温かい、生身の救いです。 なぜ、主イエスの救いは生身だと、具体的な救いなのだと、なぜそこまでして言えるの かというと、主イエスが肉となられたからです。主イエスは、ヨハネによる福音書で、自 らこうも言われています。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなけれ ば、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を 得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」すごい言葉ではないでしょうか?主イエ スはここまで肉感的なことを言っておられる。永遠の命を与えてくださる神様は、本来は 天国にいる方で、それは目に見えない、手で触れることのできない存在です。そういう神 様は、霊的な、目に見えない例なる存在であられるはずです。けれども主イエスは肉とな られた。肉という言葉は、人間、人類という意味も持っています。そして、信じる者は救 われるとは主イエスはおっしゃらず、むしろ、信じるということよりももっと具体的で肉 感的な、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終 わりの日に復活させる。」という言葉を、ゴリゴリとした、そういう意味で、とてもグロテ スクな言葉を残してくださいました。 目に見えない神様が、肉になる。肉を取る。人間になる。まさにそれがそのまま起こっ たのが、クリスマスです。「神にできないことはない」という言葉が天使からの言葉として、 今朝の 37 節に記されていますけれども、神様は、神様ですから、何でもお出来になります。 この世界を何もないところから組み立てること、天変地異を起こし、またそれを治めるこ と。人間を意のままに操ること。天体を意のままに動かすこと。死から命を生み出すこと。 神様ですから、そういう神様らしい力強いことは、何でもできます。でもなぜ、何に対し て、今朝のところでマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言っ たのでしょうか?そして天使は、何に対して、「神に不可能はないのだ」と、神様は何でも できるという、そういう分かり切ったことを、念押ししなければならなかったのでしょう か?その、神様にとって不可能なこと、いくら神様であっても、それはできない。それは いくら神様でも無理だと思われるようなこととは、神様が、神様であることをやめること です。神様が、肉を取ること、人間になることです。それも、マリアという、普通の、若 い、これから結婚を控えている、小さな女性を、彼女を母として、生まれてくることです。 これはさすがに、ちょっと無理なことではないかと、だれもが思うことではないでしょ うか。 神にできないこととは、およそ神様がやるようなことではないこととは、人間を救うと いうことではありません。この私たち人間を救うということも、神様にとっては、恐らく、 とても簡単にできることなのです。神様ですから。けれども神様は、ただ人間を救うので

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3 はなくて、離れたところから、インターネットで、パソコンの画面をポチッとクリックす るようなやり方ではなくて、生身で人間に寄り添って、具体的に人間に触れて、そのやり 方で人間を救うために、すごく無理をしたやり方であったと思いますけれども、わざわざ、 神という衣を脱ぎ捨てて、人間になってくださった。人間として、人間の赤ちゃんとして、 手足も曲がって生まれたばかりではまだ自分で伸ばせない。丸まった手も、自分でパーに 広げることができない。そういう、自分の力だけでは生きていけない、弱い人間の赤ん坊 になってくださった。そしてこれが、天使がマリアに、「神に不可能はないのだ。」と、「神 の子をあなたのお腹から生まれさせることさえも、こんなことでも、この神ならお出来に なれるのだ」と、豪語して言い切った事柄でした。 そして、この聖書には、処女降誕という方法で、主イエスがマリアから生まれられたと いうことが記されています。このクリスマスの機会ですから、処女降誕というこのことに ついて、聖書が語ることを私たちは真剣に受け取りたいと思うのですけれども、もちろん 主イエスが人間として生まれたということは、神話でも、ただの昔話の物語ではなくて、 歴史的な事実でした。福音書の最初にはイエス・キリストの系図が記されていますが、系 図の中に主イエスが入っているということは、主イエスの名前が、歴史的な時代年表の中 に正式に含まれている、そういう歴史的な人物であったことを表しています。そして神様 が、そのように具体的な人間のひとりとして、マリアとヨセフの長男になり、家族になる、 戸籍を同じくするということのためには、この処女降誕ということが、どうしても必要で した。処女降誕という、そういう奇想天外なことを言い出すから、聖書は信じ難いのだ、 そんなことなしに、もっと合理的に聖書が主イエスの誕生を語るならば、もっと信じやす いのに、と考える人がいるそうですが、聖書はこれを事実として語り継いできましたし、 教会も、これは破棄してしまってはならない大切な主イエス誕生の経緯として、処女降誕 を大事にしてきました。 そして処女降誕という生まれ方は、神様の子が、まともな人間のひとりにしっかりとな るための、必要不可欠な手段であり、本当に深い、神様にしかできず、神様にしか考えつ くことのできない、アイデアだと思います。人間は、人間の常識の中でしか発想できませ んから、これを考えつくことはできません。もし私が神様だとして、神の御子を人間とし て、人間の世界に送ろうと考えるなら、とても処女降誕という発想は思いつきませんから、 せいぜい人間の赤ちゃんにしたイエスを天からの小型宇宙船に乗せて、ヨセフとマリアの 家の裏山に落とすとか、かぐや姫のように、竹の中に仕込むとか、川の上流から流すとか、 そういうことし考えられません。けれども、川から拾ってきたり、裏山から見つけてきた 幼子イエスということでは、いくら人間の姿かたちをしていても、所詮人間のかたちをし た地球外生命体、人間とそっくりの宇宙人に過ぎない。どこからともなくやってきた、ど こで生まれたのかもわからない、未確認な存在にしか過ぎない、それではせいぜいでマリ アとヨセフの養子になった、不思議な人間ぐらいにしかなれない。けれども主イエスは、 真の人間になられた。文句のつけようがない、マリアとヨセフの実の息子として、長男と して、戸籍と系図に名前を連ねる、人間の家族になられた。そのためには、処女降誕によ って、マリアのお腹を間借りするようなかたちで、そこに外から神様が宿って、しかし完 全にマリアを母としながら、完全な人間として、ヨセフの家族として、生まれてこなけれ ばならなかった。処女降誕が信じがたいとか、そういうこと以前に、もう処女降誕しか、

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4 そこでは方法がなかった。これ以上に良いアイデアは、ほかにどこにもありません。です ので、処女降誕は必然だった。これしか方法がなかった。その方法で、主イエスは神の御 子であられながらも、完全な人間として、この地上に生まれ、この地球の空気を吸ってく ださいました。 処女降誕は、聖霊によって起こりました。マタイ福音書には、「母マリアは聖霊によって 身ごもった」と書かれていますし、今朝の御言葉の 35 節は、「聖霊があなたに降り、いと 高き方の力があなたを包む。」と語られています。聖なる神様の霊である聖霊は、私たちと 神様の間を具体的につないでくださる霊なる神様であり、この聖霊が、目に見えない神様 と、目に見える存在である私たちとの間を、具体的に橋渡ししてくださいますので、いわ ば聖霊は、目に見えない霊的な存在と、目に見えて手で触れることのできる物質的な存在 の、その中間に位置して働かれる神様だと言ってよいのです。そして神様は具体的に、聖 霊を通して私たちに対して働き、私たちと手をつなぐようにして触れ合ってくださいます。 マリアの体内に聖霊が働き、そこで具体的に神様の手はマリアのお腹に触れて、胎児とし ての主イエスの姿が、マリアの胎内にかたちづくられました。マリアは、驚いて、「どうし て、そのようなことがありえましょうか。」と言いましたけれども、神にできないことはな いのです。マリアは天使から、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と、 祝福されてしまいました。 人間の方は唖然としていますけれども、このようにして聖霊を通して、神様が具体的に 私たちと共にいて、私たちに触れてくださる、神様が、あり得ないような仕方で、あり得 ないような距離とへだたりを超えて、天から、私たち人間のもとに、その体の中にまで、 届いてくださるということは、本当にそのことそれ自体が、恵みであり、おめでとう、と 言われるに相応しいことです。 そして、このマリアのお腹の中に具体的にタッチした聖霊は、同じようにして、今のこ の私たちの内側にも届いて、私たちにも触れてくださいます。聖霊がマリアのお腹を通し て主イエスを生まれさせてくださったように、神様は今具体的に私たちに聖霊を通して触 れてくださり、私たちを導き、私たちの中から、新しい言葉、新しい考え、新しい力、新 しい勇気、本当に神様からくる希望を、生まれさせてくださいます。「おめでとう、恵まれ た方、主があなたと共におられる」これは、マリアをはじめとして、同じように神様の聖 霊の働きを受け取り、聖霊に宿っていただくことのできる、私たちみんなのへの言葉です。 主イエス・キリストが、クリスマスに、わざわざ具体的に、天から地上に来てくださり、 聖霊なる神様が、具体的に私たちの内側にも宿ってくださっている。そういう仕方で、神 様が、具体的に、今、私たちと共にいてくださっている。 信じたなら救うとか、そんなことではない。本当に言葉を超えて、私たちがどんな状態 にあっても、言葉にできないような、思い、孤独、疲れ、葛藤の中にいるときにこそ、何 も言わずに、そばにいて付き合ってくれる友人のように、いやそれよりももっと近い存在 として、主があなたと共におられる私たちにとって、これ以上望むべきことは、ほかに何 もないのではないでしょうか? この神様と共に、この神様の聖霊に、私たちは一つの教会として、一緒に動かされて歩 む。これ以上の救い、心強い支えは、ほかにありません。

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5 祈り 今からおよそ 2000 年前のクリスマスの時から、主は、我々と共にいてくださっています。 主イエスは、マリアの胎に宿られたように、今は聖霊を通して私達のうちに宿ってくださ って、私たちと、共にいてくださいます。私達は、あらためてこのことに、新鮮な驚きを 覚えます。このクリスマスに実現した、私たちにとっては思いがけない、あなたの大いな る救いと愛に感謝いたします。それが、私たちを満たし、この教会と、あなたにある全て の教会に溢れ、この世界の隅々にまで、及びますように、聖霊なる神様の働きを通して、 今からのちにも、あなたが御自身の御栄光と御力を、ますます豊かにこの世界にあらわし て下さいますように。感謝して、この祈り、主イエス・キリストの御名によって、御前に お捧げいたします。アーメン

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