九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
表現の二契機 : 「見る」と「生む」
佐藤, 通次
https://doi.org/10.15017/2556579
出版情報:文學研究. 29, pp.11-28, 1941-08-31. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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表現には︑オノ骸ツヵラなるものと︑ミヅヵラの立場におけるものとの二が老へられる◎たとへば︑人間の身鵲が︑
生命の韮本的意欲を表現してゐるとか血︑眼が覗力の働きを表現しでゐるとかいふとき︑その表現は︑オノヅカ︸うなる
ものである︒それらは︑あるものの表現であるといふよりは︑むしろ表現であると解樺せられて表現の意味を得るも
ノのである︒何ものかを﹁表現する﹂といふととが︑その他動の語義にふさはしく︑主鵲的な事行として︑その本來の
意味において解せられるとき︑表現は︑ミ︑ツヵラの立場における作川でなくてはならぬ︒かく老へれば︑動物には︑
ミ︒ツヵラの立場といふものがないから︑表現は︑塒に人間的な生命活動と見らるぺきである︒ひとしく表現といふ言
葉が州ゐられるとしても︑それには︑︵一︶表現としてあるもの︵存在︶と︑︵二︶表現する働き︵事行︶との二つ
があり︑︵こは︑オノヅヵラ﹁生きる﹂意欲をあらはし︑︵二︶は︑︑とヅカラ﹁生む﹂事行をあらはすのである︒
この後の方の表現は︑普通に︑形成作用と解せられる︒また︑︵二︶によって表現せられたもの︵たとへば︑藝術作
表現の二契機二︵三四六こ
仏表現の二契機
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I︲﹁見る﹂ご﹁生む﹂I
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佐藤邇次
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− 丈 學 研 究 錐 二 十 九 輯 一 二
︵ 三 四 六 二
︶
品︑逝具︶などにも︑﹁表現﹂といふ瀞が川ゐられるが︑それらは︑表現として考察されるとき︑常に︑表現する生
命活動の問題に含められて︑それとの速關において考察されるから︑別途に一つの問題を瀧成することはなく︑常に
︵二︶に還元されるのである︒
表現を︑上述のごとく︑人間の︑ミヅヵラの立場における形成作用と解するとき︑人冊の自兇的事行は︑すべて人
格的生命の表現の意味を得きたるのである︒この意味の表現は︑これを︑表現される對象の三つの絡祁に雁じて︑三
つに分つことができるであらう︒鋪一は︑表現する主柵に對する客鰡たる對象を定立する形成作用であって︑これは
普通に︑蕊術と呼ばれる︒弟二は︑客總であると共に主髄的生命たる對者逓定立する働きであって︑それは迩徳と
呼ばれる︒道徳は︑君に對する臣︑雁に封する飛︑父に對する子︑子に對する父などの︑身分的和對において成立
し︑汝に對する我が︑事行主鰡として︑責任的立場に立つ紹嶮であるから︑對象をわが表現とするとい〃ふよりも︑む
しろ︑もと我と汝との關係をわが内に含み︑その意味においては商の我を超えるところの超簡の我が︑筒の我をわが
表現とするものと解せらるべきである︒かく︑超簡の我が︑汝に對する我を形成する表現の仕方は︑一屑迩切に︑
﹁應現﹂と呼ばれるであらう︒それは︑汝に對する我を現し出すのである︒しかるに︑我を現すといふ他動・押蹄動
は︑つまりは自動に蹄するから︑自己を表現するといふ他動︒再蹄勅は︑汝に雌じて現れるといふ自動に縛換するの
である︒しかしながら︑それと共に︑我は汝をわが生命と以て貫き︑汝は一面において我の表現とされるから︑逝徳
も︑廠義においては︑表現作朋として解せられるのであ昂︒第三は︑對考なる汝を︑客鰐としてのmと鰈出せずし
て︑もっぱら主鵠として定立する形成作用であって︑それは︑超越的な生命を立てる宗教である︒その主慨的な超越
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・的生命は︑あるいは造物主とされ︑あるいは造化の神とされる︒それらは︑あくまで超越剛又は︑壬慨而において思念
される生命であるから︑宗教的慨験の常事者からは︑わが形成によって定立されたもの︵その意味においては我に對
する笄慨︶〃としては考へられぬ︑そして︑この超越的生命と我とを對世する際は︑逆に︑我を︑かかる超越的生命に
よってその存在を典へられたものとして解するのである︒すなはち︑自己を超越的な生命の子であり︑叉は︑表現た
るものとして兇するのである︒かく︑宗教においては︑超越的生命を表現する我の事行が︑意識における存在として
自己をあらはにする︾.︺とがない︒しかし︑超越的生命を立てる我の事行そのものには︑あくまで︑表現の意味が存す
るのである︒
以上の︑藝術︑道徳︑宗教の三つのほかに︑哲學もまた表現として老へられる︒しかも︑蕊術的表現と並んで︑蚊
も本來的な表現として見られるのである︒藝術と彌學との相述は︑前考が感尭を通じて認知される對象を外に立てる
のに對し︐後考が︑思惟を通じて綱まれる眞理の意味の對象を立てることに存する︒對象といっても︑この場合は兵
家的對象ではなくて︑意味對象であり︑もっぱら言語を辿じて表現されるのである︒藝術的表現において︑言詔を媒
介とするものは︑炭く︑文學と呼ばれるが︑諏學は.表現形式としては︑文學に雌も親近し︑ものによつては︑文學
作州であるか禰畢作品であるかの限界がさだかならぬ場合すらある︒たとへば︑プラトンの數舞の對話集︑シェリン
グやニイチエの著作のあるものは︐文學作品としても鑑賞され︑また打撃作品としても研究されるのである︒
文學における藝術的表現については︐他日稲を改めて詳しく老へることとし︑本稲においては︑蕊術無學への一
寄典として︑表現一般の含む二つの契機について︑基本的な問題を考へてみようと思ふ︒
表現の二契槻一三︵三四六三︶
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●ならぬのである︒また︑一面から老ふれば︑先の﹁見る﹂は︑我ならぬ他者に對するものであり︑後の﹁見る﹂は︑ 』 h
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表現が形成作用であるといふとき︑そこに二つの契機が老へられる︒一は︑形成するといふ働きであって︑それ
は︑礎義における﹁生む﹂働きである︒しかし︑親が子を生むいはゆる生一座は︑質料的なものをも止︿に與くるのであ
︲るが︑形成作朋は質料的なものを典へるものではなく︑それを所與として受取り︑これに主慨的生命を賦肌︿して︑改
めてわが外に立てるのである︒質料的なもの駐所與として愛取るには﹃これに御さねばならぬから︑形成作川は︑ま
︑
づ﹁見る﹂働きと共に出發するといふことができるであらう︒封する叉は對象をもつといふ事をここに﹁兄る﹂と名
づけるのである︒それと共に︑﹁表現する﹂が﹁あらはして見る﹂と言はれるやうに︑ものを表現するといふことに
は︑これを見る事が含まれる︒故にv表現には︑一重の﹁見る﹂が含まれるのである︒前の﹁見る﹂は︑與へられた.
ものを見るのであるから︐その見る働きも與へられたものであるほかはない︒︵なんとなれば︑對するものは︑すべ
て︑對等であるから︒︶見るといふごとき︑生きた働きが與へられるといふととは︑生まれるといふととにほかならぬ
から︑この﹁見る﹂は︑生れたものとして︑別に言へぱ︑子の立場において︑見るのである︒次に︑主冊的生命を賦
與した對象と生産して︑これを見るのは︑親として見るのである︒かく︑表現は︑子として見る事にもとづいて︑親一
として見る事を斑現する生命活動であるといふことができる︒それは︐子として見る事から親として見る事に推移す・
る事象であり︑また︑所與が能與に縛換する事象である︒從って︑それらは︑︾子の立場︑所與の立場の超越にほか
丈學研究錐二十九稗
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一四・︵三四六町︶
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わが主綴的生命に焚かれた封象︑その意味においては︑我にほかならぬものを見るものである︒故に︑表現は︑一︲見
る﹂を他児的から自躍的に商揚せしめるといふととができる︒この︑他斑から自蝿への韓換は︲形成によって逹せら
へ→れる︒親が子を産む生産が︑他兇の媒介淀含まぬのに對し︑他者を質料として受取り︐これに目巳の主鵲的生命を典・
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へで表出するものが︑形成である︒その際︑この質料が︑表現する主罷の自己の中に包含され︑それが主慨の生命
に典かれて現れ出るのは︑まさしく生産の意義を發揮するのである︒人間は︑表現によって︑所典の現笈を超越し︑
自兇的立場に立つことができる︒それが藝術的総験として現れたものとしては︑若きゲーテの創作態度が古典的な・ゞ
︑事例であらう︒ゲーテは︑青春時代︑女性との交渉において︑屡々自殺を決行せんとずるまでに思ひ悩み︑その都度
その綴嶮に文學的表現を典へることによって︑常に危地を脱したのである︒藝術的表現は.自己の繼験を客観化す
る︒そして︑拝観化と共に︑客に對する主の立場が︑現愛の内にある自己を超越するものとしておのづから現れ︑そ
れによって︑筒の自己の破滅が露出せずに終ったのである︒人生の亜座に悩む人が︑なんらかの蕊術的表現を﹁心や
り﹂として笹むのも︲現蛮の中にあって悩む自己を︑自己の超越面なる﹁心﹂によって﹁塵外の境に﹂運び上げるのl
であると解されよう︒
次に︑超越の働きとしての﹁見る︒﹂と﹁生む﹂との諸相を考察してみよう︒
一 二 一
表現の二契強一五︵一ユ四六五︶
人は︑まづ生まれ︑その生涯莚生き︑やがて死ぬ︒人間ばかりでなく︑すべての生き物は同じ生死の經過をたどる 1 少少
戸
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︐文學研究錐二十九輯こく﹃g一門六六︶
のであるが︑動物といひ︑柿物といひ︑人間以外の生物は︑その生死の成行の内にあるばかりであって︑その成行を
自己の内に見ぬ︒之れに反して︑人間は︑自己の生まれたのを過去と知り︑いま生きるのを現在と斑し︑つひに妬す
べき未來を識料する︒人間は︑生死の現賀の中を流れながら︑一面︑生死を超えるのである︒他の動物にはこの超越
の立場がない︒人間とは超越である︒
人間以外の動物は︑すべて︑おのづから生まれ︑おのづから生き︑おのづから死ぬるのみである︒人間は︑生ま
れ︑肉偶的生命として生き︑且つ天毒を経るのは︑やはりオノヅヵラであるが︑その中にあって︑自己の生を兇悟を
以て貫くことができる︒すなはち︑人間は︑﹁生きる﹂注ミヅヵラとする立場をもつ︒人川のかかる自主的︑叉は︑
自己黄任的立場が︑人格である︒人格とは︑ミヅヵラの生の格である︒それをまた︑自発的存在の格ともいふことが
できるであらう︒人間が︑生きるをミヅヵラとすることには︑自己の生を見るといふことが含まれる︒見ることによ
って︑人は︑現資の生を生きながら︑一面︑現蛮の外に出て︑これを客とし︑その主となるのである︒故に︑﹁見る
﹂は超越の原理であるといふこができる︒﹁兇る﹂によ2L︑人は︑自己白身に對する主の立場ぞ得るのである︒こ
の立場を發抑する見る働きは︑生きる現誕の自己が身といはれるのに對して︑古來︑心と呼ばれてゐる︒一切の人 格的事行は︐人川が自己自身を超晩することによって成立し︑しかも︑超脱は離脱ではなくて︑一面内含であるか
ら︑人間の道から見て︑心は身逓袈むといふととができるのである︒動物も︑見る働きをなすが︑その働きは︑もっ
ぱら他への方向をとって︑自己の内に還蹄することがない︒動物が見るのは蜜はめ見る働きを與へられて︑見させ
られるのであって︑自主的ではない︒動物は︑自己が兄るといふことを知らずして見るのである︒故に︑動物が兄る
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のは︑自発的でない︒一方︑植物は眼をもたぬ︒︵アリストテレス冠而上豐耐物には眼が統如してゐる﹂︶他を見ると共に
自己逓見︑自他の關係の中に生まれて存すると共に︑また︑自他の關係を自主的︒自己黄任的に蜜現するものは.人
聞のみである︒故に︑表現は純粋に人間的な鴨嶮であるといふことができる︒
ここに人間が自己を見るといふのは︑.勿論︑肉眼による﹁見る﹂を言ふのではない︒肉眼は︑人間における動物
の眼であって︑もっぱら他を見るものである︒故に︑︐眼は眼自身を見ることができない︒ここにいふ﹁兄る﹂
は︑對者を外にもつ︑といふ韮である︒
兄るといふことは︑對者をもつといふことである︒そして卿路的に見るといふことは︑自己を對者としてもつとい
今︶とである︒故に︑自発は.︑己が︑見る自己と見られる自己とに分かれ︑雨者が對等に對し︑しかも雨背が一如
であるといふ樵造症もつ︒動物の場合は︑見る自己と見られる自己とが︑軍に一如であるのみであって︑雨薪が分れ
てあひ對するといふことがない︒動物が見るのは︑雌に﹁即自的﹂に見るのである︒これに反して︑人川が自趾的に
見るのは︑あくまで︑自己が自己に對するのであり︑しかも︑その際︑兄る自己は︑そのまま︑兄られる自己であ
り︑見られる自己は︑そのまま︑︲兇る自己である︒
上來川ゐ來つた﹁処ろ﹂は︑これを﹁知る﹂といふ言葉でも言換へることもできるであらう︒しかるに︑知るとい
ふ言葉は︑耕迩に﹁事を知る﹂﹁何が云糞であることを知る﹂といふ風に︑判断的事迩た對象とする︒知るものはい
はゆる﹁拒棚﹂であり︑知られるものは﹁容槻﹂である︒北棚と客槻とは︐主慨の﹁見る﹂といふ働きの中における
︑主と客とであ2L︑客は主に・何合され︑主の外にあってこれに對する主柵的なものとしては柵まれてゐない︒それ
衣現の二契槻一七︵三四六七︶
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丈皐研究錐二十九艸一八︵三四六八︶
で︑對怖が感性的に現迩的旅事物であり︑認識の主罷が︑それに對して︑行崎的に交渉し得る︵對宥が自己である場
合ならば︑自己を行鰯せしめることができる︶と.いふ意義を生かして︑﹁見る﹂といふのである︒見られるものは︑
それ自身の慨を典へて主縄の外に在る具髄的・な容鰡として︑群槻と随別されるのである︒
自己が自己を劉格としてもつといふととは︑自己が自己を超越するといふことである︒故に︑人間は︑それぞれ筒
の存在であると共に︑その本然においては通超簡である︒超簡であるが故に︑人柵は︑筒として典へられた自己を超
え︑また︑他の簡人淀超え︑更に︑一切の簡物を超えるのである心白斑は︑賛に︑超簡の自己が︑術の自己を︑みづ
からの内に迎へる慨験︑あるひは︑筒の自己が︑自己の本然なる超簡の自己に復肺する艘験である︒かかる自発の慨
聡の原理が︑﹁見る﹂である︒
それぞれの箇は︑他の箇に對してみづからを限るところに成立するがら︑かく︑↑簡を超えるといふことは︑對立を
超えるといふととになる︒すなはち︑すべての人間は︑超簡の面において︑二なる生命である︒自他の扣兀了解とい
ふことも︑かかる﹁一﹂に坐ついて成立すると老へられるであらう︒了解とは︑簡の自己が︑他の街の髄嶮と︑向他︑
を超える超簡の生逓通して合致することである︒
︑了解の對象となる世界は︑自然的世界に對して︑表現的世界と呼ばれる︒自然界はオノヅヵラ然る存在であって︑
︑︑とヅカラの事行の立場をもたぬoそれも︲ある意味においては表現界であるといふこともできるが︑その表現は︑オ
ノヅカラなる表現である︒これに對して︑見る立場を含む表現︑すなはち︑自発的な自己の表現を︑狭義における表︐
現と呼ぶのである︒人間の世界は︑自然的世界ではなくて︑表現の世界である︒自然的世界といへども︑艇にかかる
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己ものとして老へられるのでなくて︑自墨的な自己の了解の對象界として︑叉は︑人間の事行の場面として老へられる 〃
ときは︑表現の格性を帯びるのである︒動物の楼む世界は︑自然的世界であり︑人間の住む世界は︑表現的世界で
ある︒表現的世界は︑﹁見る﹂によって貫かれる世界であるといふことができる︒
超筒を本然とする人間は︑街として生まれた自己の立場を超えるが︑それによって︑別に苗の立場を失ふのではな
く︐依然として︑生まれた所與の自己のままに留まる︒筒の立場を超えるといふことは︑所與性を超えるといふこと
であるから︑典へられた箇の自己は︑そのまま︑簡の自己を典へる超術の自己と一致し︑しかも︑超簡の本然に復蹄
︑ヘ
したまま︑あくまで箇の自己たるのである︒もし︑超簡といふことが︑術の立場の挑拭を意味するならば︑それは︑筒でないもの︑從って︑術に對して有無の相對的關係に立ち︑それ自身が一の術たるものとなって︑超簡の意味を失
ってしまふ︒超箇のものは︑莱一に︑箇を内に含むもの︑第二に︑術を慨現するものでなくてはならぬ︒故に︑側の
超越といふことは︑簡の蜜現によって︑.はじめて︑その全い意味を得るのである︒術の自己を萱現するといふとと
は︑自発的立場から筒の自己を立てることであって︑それは︑筒の自己を﹁生む﹂ことに比される︒自己は︑もとも
︑
と︑オノヅヵラ生まれたものであるが︑それ莚︑改めて︑ヒヅカラ生み直すのが具攪的な超越である︒
■超簡が傭を内に含む原理は﹁兄る﹂であり︑胸を立てる原理か﹁生む﹂である︒﹁見る﹂は超越の往机であり︑
﹁生む﹂は超越の還相であって︑﹁見る﹂の超越性は︑﹁韮む﹂によってはじめて︑具冊的となるのである︒そして
表魂の二契槻一九︵三四六九︶
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丈準研究節二十九脚二○g一四七○︶
かく︑己を生みつつ同時にそれを兄るのが︑隣義における表現にほかならぬ︒但し︑その際の﹁生む﹂は︑間料濫も
共に典へるものではないから︑親が子を生む︑然的な生藤と疵別され一i一︑﹁作る﹂︵作り生す︶と呼ばれることを至
噛とする︒故に︑表現は︑見る往相と作る遼相との一如であるといふことができるであらう︒從來︑表現における作
る遼杣が︑形成作川として亜要税され獲ったが0表現は︐恥なる﹁作る﹂ではなくて︑術に﹁見る﹂をその裏に作な
ふのである︒
表現が﹁作る﹂と﹁見る﹂との一如であるとするならば︑表現されるものは作ら血るものであり︑同時に︑見られ
るものである︒ところで︑封するものは常に對等でなくてはならぬから︑作られ且つ見られるものに對するものは︑
これまた︑作られ且つ見られるものでなくてはならぬ︒すなはち︑表現する︑韮慨は︑同時に勾作られuつ兄られる面
を含み︑その面において表現される對象に對し︑同時に︑作り且つ見る面において對象を超越するものである︒
さて︑作り且つ見る生命主慨が︑同時に︑作られ且つ見られるといふととは︑その主搬が﹁生まれる﹂といふこと
である︒物は作られるが︑主慨的生命は作られることができぬ︒主繼的生命が與へられるといふことは︑蜜は︑作ら
れる形では行はれ赤︑親によって生まれるといふ形で行はれるのであるo︵故に︑人間を造物主の被迭物と老へるユダ
ヤ教・キリ.スト教的な考は︑根本において談であるといはねばならぬ︒それは︑主淵的なものが與へられるのを︑客・
鰡的なものが典へられるのと泥Mするものである︒︶秘は︑わが子を主総的生命として︑わが外に立て︑これに對す
る︵すなはち︑これを見る︶のである︒表現する主隠は︑すべて︑かくのごとくして︑︑人の子として生まれたもので
ある︒また︑人の子は︑人の祝と對することによってその存在を得るのであるから0表現王繼は︑すべて湘對的な征
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在である︒﹁作る﹂及び﹁見る﹂は︑超越的な働きであり︑その意味においては︑絶對的な働きであるが︑その維對
的な働きが︑相對を媒介とせずしては︑質現されぬのである︒表現主慨における︑この和對面が︑すなはち︑身総で
あって︐庇義及び狭義の︑一切の表現は︐表現背の身船を蛛介として行はれるのである︒故に︑表現は身慨を具へ
もつ現笈の人間の事行であり︑あくまで人生の事象たるのである︒
kの論述により︑表現する主慨としての身慨と︑表現される對象との二を︑表現の二契機として老へる立場が
成立するのである︒しかし︑本稲は︑表現を︑表現する働きとして考察する立場に立つものであるから︑表現の
働きの二契機として︑﹁生む﹂と﹁見る﹂とを主として取扱ふのである︒形成する主侭と形成される對象とは︑
表現の存在論的二契機である︒﹁見る﹂と﹁生む﹂とは︑表現の事行諭的一契機である︒
﹁兄る﹂は︑超越の働きであるとはいへ︑所與の對象に對するものとして︑その働き自身が所拠性を脱しない︒故
に︑﹁兄る﹂は典へるといふ能與の立場を發抑することができずに︑躯に︑典へら巾たものを誕取るといふ働きをな
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すにとどまるのである︒見るといふのも礎は働きであり︑働きの本貨は能與であるが︑﹁見る﹂によっては︑その↓働き
の能與性が宙現されぬのである︒故に︑﹁見る﹂は︑行爲であるとはいへ︑縢綻における現斑的行爲ではない︒﹁見る
﹂が能典性を礎現し得ぬのは︑所與のものに封するが故であるから︐働きが例きの笈を發揮して︑能與性を現すた
めには︑能與のものに對するほかはない︒.すべて封するものは對呼であるがら︑能典のものに對してのみ︑おのれも
表現の二契機一二︵三四七一︶
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︑かかる﹁生む﹂の遼相的縄験のオノ識ツカラ行はれるものが︑親が子を生む生産であり︑ミ今ツヵラの立場においてこ︑れを行ふものが︑﹁爲す﹂成す﹂作す﹂などによって表される事行である︒そして︑見る働きが︑この事行において〆
丈皐研究鋪二十九鮴二二g一間七二︺
よく能與たり得るのであるo能與のものに封するとは︑主慨の汝を立てるといふことであり︐それは︑畢党︑﹁生
む﹂といふことである︒その際︑汝をわが外に立てるのは︑おのづから︑これと見るといふことを含む︒﹁見る﹂は︑
夕かく︑﹁生む﹂を作なひ︑しかも﹁生む﹂の中に波する格相において﹁生む﹂と一如となることによって︑はじめて︑
眞に働きの名に仙する能爲の那行となるのである︒腕の超越は︑いはば︑﹁生む﹂をミヅヵラの立場とし︑﹁兄る﹂を
オノヅカラの立場とすることによって達成されるのである︒表現は︑はじめ所與として兄られる對象を︑主柵的生命
をもって撒くことによって﹁生む﹂の意義を現成し︑それによって自斑的立場を得る事行であるといふことができる
であらう︒
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﹁見る﹂は︑他を自己の意識に映すことによって︑他を迎へ︑他をオノヅヵラ自己とする働きである︒自他の机對
は︑見る自己の絶對によって超えられる︒かく︑州對が絶對に蹄一する縄職の格祁を︑﹁往相﹂と名づける︒これに
對して︑﹁生む﹂は︑自己の生命を他として立てる働きであって︑自他の同一を失歩して他に對し︑對するが故に﹁見
る﹂をもおの今つから含むのである︒﹁生む﹂は︑細對がみづからの内に和對を現ずる柵験であって︑隠鹸のかかる格
︑相を﹁還机﹂と名づける︒そして上述のごとく︑﹁見る﹂は﹁生む﹂に含まれるから︑往祁は還扣に含まれるのであ
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る︒遼州は︑往祁を前提とし︑それ淀超えるもの︑あるいは︑往相をオノヅヵラの格祁において具備するものであ
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働くものに鞠換するとき︑自畏的な﹁見る﹂となるのである︒先に︑﹁兄る﹂は現寅の超越であることを述べたが︑﹁兇
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る﹂が現箪帝超越するのは︑軍に︑超越の格相を現すのみであって︑﹁見る﹂は︑なんら︑械極的な超越ではない︒﹁兄る﹂は︑存在を迎へる働きであって︑存在を皿︿へる働きではないから︑見る事は︑見る主罷と對象との間の︑現堂の
事態に︑少しの痩更莚も術さぬ︒從って︑見るの超越は︑現蛮的な超越となることがない︒超越といふことが︑一朧些
に成立するためには︑・その超越は︑現蛮にみづからを表現するもの︑すなはち︑主脈的な超越でなくてはならぬ︒超
越は︑超越の現蜜を生んで︑はじめて︑現蛮的たり得るのである︒かかる超越は︑上述のごとく︑I︑親が子と生
む︑2︐人が事を爲す︑3︐人が物を作り成すなどであるほかはない︒1︐は生産と呼ばれ︑2︐は事行と呼ばれ︑
3︐は制作と呼ばれる︒︵制作はまた事行の中に含めて老へられる︒︶具慨的な超越は︑生座・事行・制作の遼相的腿
〃聯のほかにはないのである︒そして︑表現は︑隣義においては︑この三つの細稲であり︑狭義においては︑第二一の制
︑作をいふのである︒
且霞的超越叉は遼相的超越は︑わが生命にほかならぬものをわが子として立て︑これをわが外に兄る純の柵験をそ
・・の原型とする︒生まれた子も︑逆に︑親を見るものであり︑また︑親となって子を産むものであって︑全然︑親と對
等のものである︒子が親を見るとき︑﹁見る﹂は超越の働きであるから︑子は税に對して超越新たるの格州とすら示
一すのである︒しかし︑親もまた子を兄るものであるから︑﹁見る﹂による超越は︑雨︾︑︑對呼であって︑子は︑自己
の側から︑親に封する超越を誇ることができず︑あくまで︑子を生み︑﹁見る﹂働きをも醜くへる親の超越によって包
まれるのである︒かく︑親子の剛係には︑﹁見る﹂抽象的超越と︑﹁生む﹂皿綴的超越が超えるといふ︑自発の服型が
表魂の二︑契機ゞ︐二二一昌一川七三︶
少々
●
超越には︑存在的超越と︑事行的超越と空・一つが老へられる︒いづれにせよ︑超越とは︑一のものが︑事物のある
秩序の中に入らぬことを表す︒存在的超越は︑叩が乙に對して自冊仔在をもつ︑あるいは︑叩の存在が乙に依存せ
ぬ︑あるいは︑叩が乙に對して外在するといふだけの︑消極的かつ竝列的な意味の超越であって︑それは︑存在の一
様和として︑他から判断叉は理解されるのみにとどまる︒これに反して︐事行的超越は︐ある地鯏を越え行くことが
その地鮎を自己の行路の過去において含むごとくに︑他を同平面的に越えると共に︑これを︑己の場所に︑同時存在
的に含むのである︒それは︑上方に超えることに比される︒かかる事行的超越の意義を含んでそれの時間性の抽象せ
られた存在的超越は︑さきの純對象的存在的超越とは異なり︑事行的超越を反映するものとして︑他を内包または内
合し︑他に對して商次の存在をなすのである︒認識論でいふ︑毎.Pこの劃g号三国も同じく超越と課されるが︑それは主慨
的邪行としての超越を對象的存在に反映せしめ︑﹁超える﹂といふ能鰯の代りに︑主棚によって﹁内在化されぬ﹂梱ま
れぬ﹂といふ所鯛の關係に移したものと老へられる︒ハイデッガーのやうに︑存在するものが我糞にとって異他的なも
︑のとして彼方に見やられるのを超越と呼ぶも︑ヤスパースのやうに︑有限群に對する細對考︑乃至は人川に肺を超越
とするも︑超越は存在乃至は縛成の性格において老へられ︑事行の主綴たる﹁我﹂の側においてでなく︑我に對する
客柵の川において行はれるとされてゐるのである︒私の川ゐる﹁超越﹂は︑主僻的事行として輿叉は主艘的存在様
文嬢
見られるのである︒
︑
ベ
研
、
究姉二十九脚
六
、
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戸
二四︵豈四七四︺
土
』
可
』
相としての超越であって︑あくまで主鵲の働きに即するものである︒存在的超越は︑對象が超越するものとして見ら
れるといふととであって︑そこにおいては︑超越は︑別に︑働きではなく︑やはり存在の一様態である︒しかるに超
越は︑働きであり︑働きの本然は︑主朏の働きたるところに存するから︑本來の超越は︑事行的超越でなくてはなら
ぬ︒寵行的超越といふのは︑所與の性格の對者に封して︑自己が能爲の主鰡たることである︒
﹁見る﹂による超越は︑所與を所與として受取る働きであって︑その意味においては︑事行的超越であるが︑蔀行
とは︑ミヅヵラの事行であり︑﹁見る﹂は所與性を脱せず︑その意味においては︑オノヅカラのものであるから︑兇
ろ超越は︑反の超越とはならない︒眞の超越は生産的なものでなくてはならぬ︒さればとて︑親が子を生む生喉的超
越も︑そのまま一℃はりいまだ人格的超越とはなりない︒人間にかぎらす︑他の動物にあっても︑親は子を生んで︑具
僻的に子を趨越するが︑その超越は︐オノヅヵラ行はれ︑その意味では︑淀に主慨的な超越ではないでのある︒眞の
超越には︑同兇的に﹁見る﹂立場がなければならぬ︒見る立場を含む典網的超越か︑すなはち︑人格的事行一であっ
て︑それは﹁爲す﹂成す﹂作す﹂などと呼ばれる︒それらと︑生旅的超越を表す﹁生す﹂とは︑共に︑邦諦において
里年
﹁なす﹂によって包括されるのである︒﹁なす﹂とは具慨的超越の謂である︒人格的事行にあっては︑自兇的な﹁見る﹂が﹁生す﹂によって蕊打され︑﹁生す﹂が自晃的な﹁見る﹂によって裏打
されるっ灯兇的な﹁見る﹂と﹁生す﹂との一致が︑人間である︒人川とは︑存在と事行とが相對的に対列することな
く︑亜なり合って一如を成す絶對的冊験である︒もし︑﹁見る﹂に﹁生す﹂の裂打がないときは︑無自兇な﹁見る﹂
として︑和封的仔亦に對するのみであり︑﹁龍す﹂が自兇的な﹁兄る﹂の裏打を峡くときは︑州對的生命に對するの
表現︲の二契機二五︒︵三四七五︶
心ノ
今 ノ
●
丈畢研究鋪二十九鮴二六︵三四七六︶
/みとなる︒﹁生す﹂が祁封的生命に封するといふことは︑無目兇な祁封的生命玉総筵生むことであって.たとへば︐
動物が仔を生むことがとれに髄る︒﹁生す﹂は﹁兇る﹂を含むから︑動物も.仔を生んで︑これを外に兄るが︑動物
とは︑オノヅカラ砿み︑オノヅカラ見るのみである︒その﹁見る﹂は︑自己を兄ることを媒介とすることなく︑從つ
/
て︑無獅蝿な﹁見る﹂にとどまる︒これに反して︑人川は︑オノヅヵラ生みオノヅヵラ見ることを︑所皿︿として受取
り︑その上に立って︑これを︑ミヅカラ立て︑ミヅヵラ見る能︿に縛換するのである︒それが庇義における表現作川
にほかならぬ︒
﹂少少七
﹁生む﹂超越が自覺的となつ・た事行的超越は︑自他を共に自己の内に見るから.白他のい・つれをも自己の寅任にお
いで生かすのである︒かく︑自己を立てると共に他を立て︑しかも二つの働きが一如たるのが︑事行的超越であっ
て︑その慨駒にあっては︑自他は不可分のものである︒しかも︑あひ對する白他逓立てるこ・とを自己の働きとする
とき︑その働きたる自己は︑他に封する机對的仔在たる自己を超えて︑絶對的な事行となる︒故に︑さきに對立の一
頂であった存在としての自己は︑ここにおいて︑室しくなって︑他と對さぬものとなり︑從って︑他も︑和對性涯失
8
はしめられて︑絶對的仔在とされるにいたる︒かく︑事行的超越は︑自己〃絶對的事行とし︑他冴絶對的仔在とし
て︑絶對と絶封の面においてあひ對するのである︒ここにおいて︑事行といひ存亦といふのは︑絶對の顯現のそれぞ
れの格祁となって︑相對性を超え︑從って︑没き合って一如となるのである︒
氏
串
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一
的存在とするに及んで︑雨者は共に絶對的主縄となり・互に封すると共に︑對立を絶して︑よく一如たるのである︒
もともと︑事行的超越者と︑存在的超越者とは︑別に異なるものではなく︑同一の超越者が︑一は事行の格和を帯
び︑一は存在の格和を榊ぴて︑絶對の自己同一のうちに︑相對の和をあらはすものである︒そして︑この祁對のうち
に︑事行的超越者が︑我として立ち︑存在的超越群を︑汝とするのである︒︑j
子を生むのは︑これをわが外に見ることを作ふ︒外に見るといっても︑その外は︑わが意識の中における外であっ
て︑﹁見る﹂は對象牡内在せしめるのである︒故に︑人は︑子を生んで︑生命を外に發展せしめ︑これを見ることによ
って︑内に迎へ入れるのである︒﹁生む﹂は發展の原理︑﹁兇ろ﹂は反始の原理といふことができる︒その際︑﹁見る﹂
はその木礎上﹁生む﹂に含まれ︑迎へる働きは典へる働きに含まれるから︑反姑・遼蹄は發展・迩綾に含まれ︑その
中において漉現されるのである︒
白墨の働きも︑遼蹄の働きである﹁見る﹂を發展の働きである﹁生す﹂に波せしめ︑後者の中にあって働くものと
してのみ︑反に具慨的たるのである︒︒
.﹁見る﹂〃は︑わが外の稠立の生命主罷なる汝を︑そのものとして立てるのではなく︑わが意識の内に内在せしめる
のであるから︑見る立場からは︑祉界は術の我の内容となるほかはない︒これに對して︑﹁生む﹂は︑澗立の生命主慨
なる汝をわが外に立てて︑我の術の立場を超えるのである︒故に︑﹁見る﹂は筒の存在の原理︑﹁生む﹂は超簡の存在の
原現といふことができる︒表現における形成作川も︑﹁見る﹂を超簡の働きに郷換する覗行の意義と有するのである︒
表現の二契繩二七Q一両七七︶
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和對的存在としての自他は︑共にいまだ十全なる主慨であることができぬが.自己が絶對的事行となり︑他を絶對
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丈學研究節二十九脚二八︵三四七八︶
皿へられた肉慨の眼で見られるままの對象は︑見る主鰡に内脇するほかはないが︑形成作用によって︑生み匝され見
I直された荊象は︑主僻的生命に災かれるが故に︑その意味では︑主冊的立場を渡得し︑一面において︑形成背それ自
身をも超越するのである︒︵ここから︑蕊術作品を魂のこもるものとして遇する儒醗が生ずる︒︶そして︑かかる超越J
︑的生命に封するものとして︑兄る働きそれ自身も︑超越的な作川となり︑生まれたままの自然的立場を超えて︑白斑
的な作川となるのである︒
○かかる自墨的な﹁見る﹂を行ずるものは人間のほかにはない︒そして︑形成の境地をもつところの人川の兄る對象
界は︑現賞に形成の過程を經ぬ自然界といへども︑可能的な表現の世界であり︑動物の環境たる自然界とはまるで異
なる存在である︒所與のままの︑然界は︑人生の内容としては︑その面目を改めて︑︲吹義における表現的世界とな
る︒我々が蒋迩に自然界といふものは︑没は︑この表現的泄界なのであって︑我交にとって︑自然界そのものなどと
いふものは考へ得ぬのである︒そして︑わが剛の﹁閏生み﹂の祁話は︑自然界を表現的世界に郷換し︑しかも︑その
世界を︑恥に杯在的にのみならず︑事行的に0具縄的立場から把握したすばらしき搬柵であると解せられよう︒
/単に存在的に表現に榔換せしめられた自然が︑形成作用によって︑現笈に人州の所産とされたものが︑臓義におい
﹄ては︑いはゆる文化財であり︑狭義においては︑藝術作洲である︒藝術作品と︑藝術作州以外の文化財とは︑形成そ
のものが自己目的的である面から兄る場合が前荷であり︑形成が他の目的に奉仕する伽からこれを財物として兇る場一
合が後者であるとして︑・一往︑腫別されるであらう︒しかし︑この事は︑更に磯を得て︑詳しく老ふくき問題であ
ずノ
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