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Microsoft Word 年4月30日説教「気づく」.doc

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2017 年 4 月 30 日(日)主日礼拝説教

『気づく』 井上隆晶牧師 フィリピ3:10~14、ルカ 24:13~35 ❶【神が見えないということ】 イエス様が復活したその日、二人の弟子がエルサレムを後にして、エマオとい う村に向かって旅をしながらエルサレムで起こった出来事について話し合い ながら歩いていました。二人の弟子の名前は、クレオパとルカだといわれてい ます。週報の表紙のイコンには二人の名前が書かれています。そこへイエス様 が近寄ってきて彼らと一緒に歩き始められたのですが、彼らの目は遮られてい て、その人がイエス様だとは気づきませんでした。聖書は「二人の目は遮られ て」(16 節)と書いています。英語の聖書では「keep from recognizing him」 となっていました。「禁じられていた、押さえられていた、慎む、遠ざかって いた」という意味です。「キリストが分かることを禁じられていた、キリスト が分かるのを押さえられていた、キリストから遠ざけられていた」ということ です。私たちも聖書を読んでもいても何が書いてあるのか分からない、この物 語が何を言おうとしているのか意味が分からない、ということがあります。マ リアもそうだったようです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、 思い巡らしていた。」(ルカ2:19)そしてある時、はっ!と腑に落ちる、ああ そういうことだったのかということがあります。人が神を知ることは禁じられ ており、誰でも分かるという訳ではないようです。イエス様も「あなたがたに は天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない からである。…見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」(マ タイ13:11)と言われました。元々、契約の箱は神殿の至聖所の中に置かれ、 ベールで遮られ、誰も見ることも近づくこともできないようにされていました。 7世紀のダマスコのヨハネは「神的なものは無限であり、理解できません。」 といい、4世紀のナジアンゾスのグレゴリオスは「私たちは神の神秘を抜け目 なく覗こうとした愚行によって打ちのめされないようにしましょう。」と言っ ています。光が強いと太陽は見えなくなるように、知識があると神は見えなく なるのです。ここでも聖書に対する知識が彼らを盲目にさせていたのです。だ からイエス様が見えなかったのです。神に近づくためには無知にならなければ なりません。(これを否定神学という)神は、御自分が選んだ者に、つまり謙 虚な者、心の貧しい者、幼子のような心の者に、御自分が望む方法で、望む時 にその姿を現します。心の清い者は神を見るというのはそういうことなのです。 ❷【絶望はどこから来るのか】

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2 イエス様が二人に「その話は何のことですか」と尋ねると、二人は暗い顔をし て立ち止まり、エルサレムで起こったイエス様の十字架と復活の話をします。 イエス様の復活の知らせを聞いても、彼らは暗い顔をしていました。その理由 をイエス様は次のようにいわれました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預 言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみ を受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」といわれ、「モーセとすべて の預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを 説明され」ました。(25~27 節)「心が鈍い」は英語の聖書では「how slow of heart」となっていました。彼らが暗かった理由は、聖書を知っていても信じ ていなかったからです。私たちが暗くなる理由も同じです。いろんな問題が起 こって、将来を信じられない、仲間を信じられない、神を信じられなくなり、 希望を失ってしまうからです。問題が起こっても信じる心、希望する心さえあ れば明るくいられるのです。 ●俳優の武田鉄矢さんが民進党の蓮舫代表のことを「上に立つリーダーという のはどっしりと安心した顔をしていなければならない。石原前東京都知事のよ うに何も分からなくてもニコニコして大丈夫という顔をしているようなとこ ろがなければならない。彼女は悲壮な顔をしている」と言っていましたが、真 偽はともかくとして、大体当たっていますね。牧師もそうです。不安を与える ような説教をしてはいけないのです。希望を与え、やる気を起こさせ、自分で も愛されているんだという思いを与えるような話をしなけれないけません。 時々自分の不安が説教に出てしまうのです。これは良くないと思いました。 ❸【聖書が分かってくると心が燃える】 信じるためには聖書が分かるようにならなければなりません。イエス様に聖書 を説明してもらうと、彼らの暗かった顔がだんだんと輝いてきました。イエス 様の姿が見えなくなった後、彼らは互いにいいます。「聖書を説明してくださ ったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)この心 が燃える、楽しくなるということが大事なのです。聖書を一人で読んでいても なかなか分かりません。分からないと面白くありません。使徒言行録8 章にエ チオピア人の宦官が出て来ます。彼はエルサレムに礼拝に来て帰る途中、イザ ヤ書を朗読していましたが、フィリポが近づき「読んでいることがお分かりに なりますか」と聞くと、「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かり ましょう」(使徒 8:31)と答えました。礼拝をしたのに聖書の意味が分から ずにいたのです。しかしフィリポに手引きしてもらい、彼の顔は明るくなりま した。手引きしてくれる人が必要であることを聖書は教えており、それが教会 であり聖霊であると言っているのです。だから教会に来て説教を聴かなければ ならないのです。

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3 ●イエス様はベトザタの池で38 年間病に伏していた人に「治りたいのか」と 言われました。そして病人にイエス様は「起き上がりなさい。」と命じました。 この病人は、自分の力では起き上がれなかったのに、イエス様によって起き上 がることが出来ました。イエス様は私たちを起き上がらせることができます。 悪魔はいつも私たちを地に引き倒そうとします。しかし私たちは必ず立ち、必 ず起き上がります。なぜならキリストがあなたを立たせるからです。キリスト によってのみ人は立つことが出来ます。キリストはあなたと共におり、あなた の右に居まし、必ずあなたを立たせます。私たちは倒れません。なぜならあな たはキリストの体だからです。彼は三日間だけ倒れましたが、三日の後に死か ら起き上がりました。彼を倒すことはできませんでした。故に、彼の体となっ た私たちは必ず立ちます。立って埃を払い、また歩み出します。キリストの命 によって、キリストの言葉によって、キリストの霊によって私たちは立ちます。 エゼキエルが神の言葉を食べた時、神は彼に「自分の足で立て」と言われまし た。私たちも神の言葉を食べて立ちます。神の言葉にはその力があります。二 日間水をやらなかったので教会の前の花はしおれて倒れ、枯れる寸前でした。 しかし水をやったら数時間でしゃきっと立ちました。これと同じです。聖書を 読み、詩編を祈り、祈祷に立つなら、私たちもすぐに立ち上がります。神の言 葉と祈りはものすごい力があります。私は自分がキリストの体なのだから、必 ず立つと思うと嬉しくなります。 ❹【説教と聖餐によって目が開く】 やがて彼らは目的の村につきますが、イエス様はまだ先に行こうとされます。 そこで二人は「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も 傾いていますから」(29 節)といって無理に引き止めました。イエス様は、最 初は近寄ってきて共に歩いてくださいますが、ある所まで来ると、あなたの意 志を求められます。あなたが「共にいてほしい」と願えば、共にいてください ますが、あなたが求めなければ離れて行ってしまいます。イエス様は「求めな さい。そうすれば与えられる。」(マタイ 7:7)といわれました。いくら良い 物でも、本人が「欲しい」と思わなければ手に入りません。救いも同じです。 ●工藤信夫先生がクリスチャンになった時の話を読みました。「教会には、ど んなにか喜びに満ち、平安に満ちた生き生きとした人たちがいるかと、期待を もって教会に行きました。ところが残念なことにそこに見たのは何となく生気 がない、堅苦しい人たちの集まりでした。だいたい、牧師の説教がピンとこな いのです。何か話しているのですが、理屈っぽくて現実味がない。また教会に 出入りしている人たちが気に食わない。暗い感じの人もいれば、上品ぶって背 伸びしているような人もいる。」そして工藤先生は教会に行かなくなります。 ところが医学部に入り、出産後まもなく死亡した若い女性の病理解剖を見学し

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4 た時、人間の命のはかなさを感じ、再び生きる意味、死ぬ意味を真剣に考え始 めます。禅の本を読みあさり、座禅をしても静かな悟りはあっても喜びがなか ったといいます。やがて友人に連れられて再び教会の家庭集会に出て、「神は 生きている」という話を聞き、下宿に帰って正座をし「天のお父様、もし、神 様が生きておられるなら、私に本当に生きる意味と力を与えて下さい。これま でいろいろやってきましたが、もう分からなくなりました。疲れました。助け て下さい。」と祈ったというのです。その時に不思議と安らぎが与えられ、躍 り上がるくらいに嬉しくなったというのです。「御言葉が開かれると光が射し 出で、無知な者にも理解を与えます。私は口を大きく開き、渇望しています。」 (詩編 119:130~131)のように聖書のどこを読んでも御言葉が入ってきて 心の底から「アーメン」と言えるようになったというのです。 人が本当に神を求めるなら、神はその人の家に入り、共に泊まって下さいます。 「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パン を裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、そ の姿は見えなくなった。」(30~31 節)とあります。「パンを取り」「賛美の祈 りを唱え」「裂き」「渡す」この四つの動作は聖餐式と同じです。二世紀のヒッ ポリュトスの『使徒伝承』の聖餐式文では「さらにご自身の復活を明らかに示 すためにパンを取り、感謝して裂き、『取って食べなさい、これはあなたがた のために裂かれた私の体である』と言い、…それゆえ主の死と復活を記念して、 このパンとブドウ酒をあなたに献げます。」といって聖餐を復活に結びつけて 祈っています。聖餐式は、最後の晩餐(十字架)だけではなく、エマオでの晩 餐(復活)をも意味しています。復活したキリストがパンとブドウ酒を祝福し 皆さんに配り、自分の赦しと命を分けてくださいます。皆さんはキリストの体 を食べ、血を飲んで彼によって生きるのです。彼らの目が開くと、イエス様の 姿は見えなくなりました。見えなくなったということは、「見えなくても良い」 ということです。エマオの道での聖書の説明は説教です。ここでは聖餐です。 説教と聖餐、つまり礼拝です。説教と聖餐の二つで目が開くのです。私も先週、 教会で説教をしているうちに目が開いたことがありました。 ●ステファノは殉教する時、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせない でください。」(使徒7:60)と大声で祈り、眠りにつきました。この箇所を先 週の木曜日に礼拝堂の真ん中で朗読した時、私に熱い思いが湧いてきました。 古代教会の祈祷文では聖人たちの名を呼んで、祈りを頼みます。それは私たち が、最後まで神に従った人たちや、人の罪を負って死んだこの宝石のように輝 く人たちが教会の中にはいるのだということを思い出し、励まされるためなの です。彼らは今も生きていて、私たちの教会のために祈っているのだと思うと 元気になるのです。キリストが一人であるように、天と地にまたがる教会もた

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5 だ一つです。ステフェノも私たちの教会員なのです。地上の教会は、いろんな 問題のある人たち、信仰の弱い人たちもいます。主がアブラハムに10 人の正 しい人がこの町にいれば、ソドムの町を滅ぼさないと言われました。イエス様 は教会(皆さん)と一体となり、私たちの罪や過ちや不信仰を負い、私たちの 為に多くの殉教者や聖人たちと一緒になって、今も執り成しの祈りを祈ってい るのではないのでしょうか。なぜなら彼らと私たちは一つの体だからです。私 の過ちは彼らの過ちとなり、私の不信仰は彼らの不信仰となるのです。だから 彼らは私たちの為、つまり自分の体の為に熱心に祈るのです。「主よ、この罪 を彼らに負わせないでください。」私たちは愛され、祈られ、負われているの です。 古代教会の聖大土曜日の説教にこのようなものがあります。 ●あなたに命じる。眠りについている者よ、起きよ。私(キリスト)は、あな たが陰府の国にいつまでも捕らわれの身でいるためにあなたを造ったのでは ない。死者の中から起き上がれ。私は死者のいのちである。私の手で造られた 者よ、起きよ。私に似せて造られた私の似姿よ、起きよ、立て。ここから出て 行こう。あなたは私のうちにいる。私たちは一体で分けられない身体なのだ。 あなたも倒れていないで起き上がりなさい。希望をもって立ち上がりなさい。 起き上がってあなたも多くの人の為に小さなステファノになりなさいと言わ れているように思いました。 イエス様は信者と共にいて下さいます。今日の物語はそれを伝えています。共 に歩き、共に宿り、共に命を分け合い、共に生きてくださいます。私たちは一 体だからです。あなたは一人ではないのです。あなたは孤立していないのです。 ああ、一体の神秘とは何とすごいものでしょう。今まで気がつきませんでした。 目が開かれて、キリストと一体であること、多くの聖徒たちと一体であること に感謝しましょう。

参照

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