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フェヒナーからフロイトへ (3) グスタフ テオドール フェヒナーの系譜 (8) 福元圭太 承前 本稿は前稿 フェヒナーからフロイトへ (2) グスタフ テオドール フェ ヒナーの系譜 (7) 1) に引き続きフェヒナーがフロイトのメタ心理学の領域に 与えたインパクトのうち, 経済的 (ökonom

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承前 本稿は前稿「フェヒナーからフロイトへ (2)―グスタフ・テオドール・フェ ヒナーの系譜 (7)―」 1)に引き続きフェヒナーがフロイトのメタ心理学の領域に 与えたインパクトのうち,経済的(ökonomisch)な観点に焦点を当てるものであ る。本稿も前稿に引き続き,ブッグレ/ヴィルトゲンによる大部の論文 2) に多く を負っている。また本稿はフェヒナー,ヘッケル,ドリーシュを論じることを予 定している著書の一部を構成するため,内容的にこれだけで閉じられたものでは ない。 1.経済的観点 力動的観点,局所論的観点に加えて本稿では,メタ心理学の第三の観点,すな わち経済的観点を取り上げる。ここで言う経済とは,心的機構の機能の変化を考 察する際,量的なモメントを考慮すること,と換言できる。「量的な領分([D]er quantitative Anteil)が消えてしまったわけではない」 3)と言うフロイトは,メタ心 理学の三つの観点について次のように整理している。 心的現象を叙述するに当たって我々が,力動的な観点,局所論的な観点に加 え,第三の観点,すなわち経済的な4 4 4 4 観点に,徐々に重要性を認めるに至った ことは見ての通りである。 この観点においては, 刺激の量の消息(die Schicksale der Erregungsgrößen)がトレースされ,その量的なものについて

グスタフ・テオドール・フェヒナーの系譜 (8) 

福 元 圭 太

1 )  福元圭太:「フェヒナーからフロイトへ (2)―グスタフ・テオドール・フェヒナーの系譜 (7)―」『言語文化論究』第34号,九州大学大学院言語文化研究院,2015年, S. 1-20.(九州大

学リポジトリ所収)

2 )  Buggle, Franz / Wirtgen, Paul: „Gustav Theodor Fechner und die Psychoanalytischen Modellvorstellungen Sigmund Freuds. Einflüsse und Parallelen.“ In: Archiv für die gesamte

Psychologie. Bd. 121. 1968. S. 148-201.

3 )  Freud: [1915] Die Verdrängung. GW-X, S. 258. 以下フロイトからの引用はすべてロンドン版 (Freud, Sigmund: Gesammelte Werke. Chronologisch geordnet. Imago Publishing Co., LTD. London

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の,少なくとも相対的な評価がなされることになる。 4)   刺激の量の多寡が心的機構と切り結ぶのは, それが快(Lust) ないし不快 (Unlust)として作用するからに他ならない。刺激の量の多寡は快・不快のエコノ ミーとして心的に現象するとフロイトは考えたのである。後年になってもフロイ トはこの見解を取っており,1932年には,快・不快が心的現象を調節している, いやさらに強い言葉で「支配している」と捉えている。 経済的な,お望みとあらば量的なモメントは,快楽原則と密接に結びついて おり,あらゆる心的過程を支配している(beherrscht alle Vorgänge)。 5)

  フェヒナーもまた多くの著作で,快・不快の原則を論じている。フロイトはフェ ヒナーの考え方が自らの快・不快原則の理論的モデルとなっていることを明記し ている。 非常に慧眼な研究者である G4 . Th4 4.フェヒナー4 4 4 4 4 の快・不快に関する見解が,精 神分析の研究を進めるに当たって絶えず我々の念頭にある見解と,本質的な 点で一致していることに,我々は無関心ではいられない。 6)

  フェヒナーは1846年の『至高財について』(Über das höchste Gut)で初めて快・ 不快の原則について言及している。そこでは,人間が快を求めてやまない存在で あることが述べられる。

人間の見通し難く多様な動機と目的の中でただ一つ共通するのは,この快へ の志向(Bezug zur Lust)である。この志向は見ないでおこうと意図しない限 り,見落とすことはできない……。 7)

フロイトもまた同じく生の「目的」という単語を用いて,それが快であることを 語る。

お気づきのように,生の目的(Lebenszweck)を措定するのは,端的に言っ 4 )  Freud: [1913] Das Unbewußte. GW-X, S. 280.  強調はフロイトによる。

5 )  Freud: [1932] Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychonalyse. GW-XV, S. 81. 6 )  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 4.  強調はフロイトによる。

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て快楽原則のプログラムである。 8)   1851年の『ツェント-アヴェスタ』でもフェヒナーは,不快の排除と快の追求 が人間の関心事であると言う。 我々自身の中で不快な性質を持つものはすべて,……例外なく,当の不快を ……取り除こうとする心的傾向を持ち合わせており,他方,快に満ちたものは, ……それを維持ないし高揚させようという努力を我々のうちに呼び覚ます。 9) フロイトもまたその最晩年に「他の心的審級の活動も,快楽原則をただ部分的に 修正する(nur zu modifizieren)ことはできても,取り除くことはできないように 思われる」 10)とし,人間とは快を探求する動物であると述べている。 その他にも両者の記述には並行関係がある。1856年の『シュライデン教授と月』 でフェヒナーが「人間のあらゆる努力はもとより快の追求に向けられている」 11) 書けば, フロイトは「 人間はまさに『 飽くなき快の探求者 』(„unermüdlicher Lustsucher“)」 12)であるとするのである。 晩年の作,1876年の『美学入門』でフェヒナーは,より詳しく快・不快原則に 言及しており,快と不快を「我々の魂(Seele)を規定する,単純な,これ以上は 分析できないもの」 13)としている。これら快と不快は,「根本的,すなわち必然的 かつ直接的でありながら,常に感情的な要因4 4 4 4 4 4 (Gefühlsmoment)」であり,そうで あるからこそ快と不快は「行為へ至る意欲とそれに反する意欲を規定する」 14)と記 している。つまりフェヒナーは,人間の魂を規定し,行為と無為を決定するのは 快・不快である,と言っていることになる。 さらに最晩年の『光明観と暗黒観の相克』でもフェヒナーは,「……不快が,当 の不快を克服しよう(der Unlust Herr zu werden)という鋭意の契機になることほ ど自明なことはない」 15)と言い,フロイトもまた「不快を避けよう(Unlust zu

8 )  Freud: [1930] Das Unbehagen in der Kultur. GW-XIV, S. 434.

9 )  Fechner: [1851. 19012] Zend-Avesta oder über die Dinge des Himmels und des Jenseits. Vom

Standpunkt der Naturbetrachtung. (2. Aufl. Leopold Voß. Hamburg und Leipzig 1901.) Teil I., S. 287. 10)  Freud: [1938] Abriss (sic!) der Psychoanalyse. GW-XVII, S. 129.

11)  Fechner: [1856] Professor Schleiden und der Mond. Adolf Gumprecht, Leipzig 1856. S. 39. 12)  Freud: [1905] Der Witz. GW-VI, S. 142.

13)  Fechner: [1876] Vorschule der Ästhetik. Breitkopf und Härtel, Leipzig 1876. Teil I, S. 8. 14)  Ebd., Teil I, S. 39.  強調はフェヒナーによる。

15)  Fechner: [1879, 19042] Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. (2. Aufl. Breitkopf und Härtel,

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vermeiden)という傾向が心的生活にあることは,我々にもよく知られている」 16) と書いている。 以上のように,快・不快に関するフェヒナーとフロイトの見解はまったく軌を 一にするものであることがわかる。フロイトが「非常に慧眼な研究者である G4 . Th4 4. フェヒナー4 4 4 4 4 の快・不快に関する見解が,精神分析の研究を進めるに当たって絶え ず我々の念頭にある見解と,本質的な点で一致している」 17)と言う所以である。 2.フロイトにおける快楽原則理論の変遷 快楽原則については,フロイト自身の理論的見解や術語に段階的な変遷が見ら れる。ブッグレ/ヴィルトゲンは,それらを5つの段階に分けて考えているが, 18) ここでもそれをそのまま踏襲し,それぞれの段階における快・不快のエコノミー を考察したい。 ブッグレ/ヴィルトゲンが区別しているのは,以下の5つの段階である。すな わちフロイトが 1.  快楽原則には制限がないと考えていた段階 2.  快楽原則は現実原則(Realitätsprinzip)によって制限されると考えていた 段階

3.  快楽原則は恒常性原則(Stabilitäts- oder Konstanzprinzip)に従う(量的ファ クターが作用する)と考えていた段階

4.  快楽原則は「死の欲動」に奉仕する(涅槃原則が優位となる)と考えてい た段階

16)  Freud: Aus den Anfängen der Psychoanalyse. Briefe an Wilhelm Fließ, Abhandlungen und Notizen aus

den Jahren 1887-1902. Fischer, Frankfurt am Main 1962. S. 397.

17)  ブッグレ/ヴィルトゲンは,文献によってはフロイトとフェヒナーの快についてのコンセプ トは異なるという主張もあることを指摘する(Buggle / Wirtgen: a. a. O., S. 181)。フェヒナーの 快がより精神的なものを指し,フロイトが感覚的な快をも包含している点と異なるという主張 である。しかしブッグレ/ヴィルトゲンはフェヒナーもまた感覚的な快を排除していないこと を,テクストを引いて説得的に示している。例えばフェヒナーは「ありていに言えば,感覚的 な快も精神的な快と同じ価値を持っている」(Über das höchste Gut. a. a. O., S. 44),あるいは,「精 神的な快もまた状況によっては感覚的な快に優る,ないしは劣る価値を持ち得る。感覚的か精 神的かという質が決定的なのではない。重要なのは,それが良いものか悪いものか,高貴なも のか卑俗なものか,有用なのか害を及ぼすのかであって,それが精神的な快であるか感覚的な 快であるかではない」(Ebd., S. 43)と書いている。また「極めて感覚的なものとともに(mit der sinnlichsten [Lust und Unlust]),最高度に精神的な快・不快というものも,広く快・不快の 概念に含めるべきである」(Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. a. a. O., S. 131)といった 記述を見れば,快・不快はむしろ本来的には感覚的なものであるが,精神的な快・不快もそれ に比すべきものとして考量すべきである,と考えていたともとれる。

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5.  快楽原則も質的なファクターに依存する(量的・質的なファクターが協働 して作用する)と考えていた段階。 そしてそのそれぞれの段階で,フロイトがフェヒナーの様々な著作を参照して いることを,ブッグレ/ヴィルトゲンは指摘している。以下,それぞれの段階に 分けて,フロイトとフェヒナーのテクストを参照し,フェヒナーがフロイトに与 えた影響を跡付ける。 2-1.快楽原則には制限がない フロイトは1920年頃には,快楽原則は無制限的に妥当し,生きることは快楽の 追求に他ならないと考えていた。例えば「我々のすべての心的活動は,快を獲得 し,不快を避けること(Lust zu erwerben und Unlust zu vermeiden)に向けられて いるように思われる」 19)という記述がある。さらにフロイトは「我々は快楽原則

を,単に我々の心的生活(Seelenleben)のみならず,我々の生(Leben)そのも のの管理人(Wächter)と呼びたい誘惑に駆られる」 20)としている。

一方フェヒナーもまた,快が人間の生そのものにとって根本的な問題であるこ とを指摘している。「人間の心身(Leib und Seele)におけるすべてが……どのよ うな局面においても,それらが快の状態にあるかどうかを気にかける」 21)し,人間

の努力は「常に肯定的な快を目標にしている」 22)と言うのである。

2-2.快楽原則は現実原則によって制限される

しかしフロイトは,論文「快楽原則の彼方」(Jenseits des Lustprinzips: 1920年) に至ると,快楽原則の無制限的な妥当性を疑問視し,快楽原則に初めて現実原則 による制限を加えようとする。もしも快楽原則が万能であるとすれば,我々の心 的現象のすべて,いや少なくとも大半には,快が伴うはずであるが,このような 推論は実人生の経験上,強力に反駁されざるを得ないからである。「快楽原則に従 おうとする強い傾向が心の中に存在するのではあるが,何らかの他の諸力ないし 諸関係(gewisse andere Kräfte oder Verhältnisse)がそれに抵抗するので,最終的 な結果が必ずしもその傾向にそぐわないものになるとしか考えようがない」 23)とい

うフロイトは,ここでフェヒナーを参照させる。「似通ったケースに関するフェヒ4 4 4 ナー4 4

のコメントを参照されたい。……『目標を満たそうとする傾向は,目標への 19)  Freud: [1916-17] Vorlesungen zur Einführung in die Psychonalyse. GW-XI, S. 369.

20)  Freud: [1924] Das ökonomische Problem des Masochismus. GW-XIII, S. 371. 21)  Fechner: [1846] Ueber das höchste Gut. a. a. O., S. 21.

22)  Fechner: [1879, 19042] Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. a. a. O., S. 141.

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到達を意味するわけではない。 目標はそもそも, 近似値として到達可能(in Approximationen erreichbar)なものなのである……』! 24) 25)つまり快楽原則が完全

に満たされることはない,と言うのである。

フロイトは言及していないが,フェヒナーには現実原則あるいは不快の甘受に ついて,もっと明確に語っているパッセージがある。『至高財について』で「将来 における快の獲得のために不快さえ甘受(eine Uebernahme selbst von Unlust)し なければならないということは,この原則が我々に課する当然の要求である」 26)

述べるフェヒナーは,『光明観と暗黒観の相克』でも「目下の不快を通じてより大 きな快を獲得する(durch jetzige Unlust größere Lust zu erwerben)という快の感 覚,並びに,もし目下の不快を甘受しなければ,大きな不快を背負い込むことに なるという不快の予測」 27)に言及している。 フロイトもまた,上記のフェヒナーの記述とはおそらく直接の関係はないもの の,内容的にはまったく同じことを次のように述べている。 自我の保存欲動(Selbsterhaltungstriebe)の影響下,現実原則4 4 4 4 が,快楽原則に 取って替わる。現実原則は,最終的な快の獲得という意図を放棄することな く,満足を先延ばしすること(Aufschub der Befriedigung),……快への長い 迂回路において,我々に不快を一時的に甘受すること(die zeitweilige Duldung der Unlust)を要求し,それを貫徹するのである。 28) 2-3.快楽原則は恒常性原則に従う(量的ファクターが作用する) 1920年頃までフロイトは,不快を生じさせるのは内的緊張(Spannung)であり, その解消(Aufhebung)が快を産出すると考えていた。もっともこの見解には議論 があった。フロイトはしかし,「これについては心理学上,さまざまな意見の相違 が支配的である」と留保を付けながらも,「それにもかかわらず私は,緊張感が不 快さという性質を担っているに違いないと考えざるを得ない」 29)としていた。つま り緊張と不快を等号で結び,その解消が快であるとしていたのである。 しかしフロイトは徐々に,快・不快そのものの数量的な,いわばエネルギー量 的なファクターが,快楽原則に作用しているのではないかと考え始める。その契 24)  Fechner: [1873] Einige Ideen zur Schöpfungs- und Entwicklungsgeschichte der Organismen. Breitkopf

und Härtel, Leipzig 1873. S. 90.

25)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 5f.  強調はフロイトによる。 26)  Fechner: [1846] Ueber das höchste Gut. a. a. O., S. 48.

27)  Fechner: [1879, 19042] Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. a. a. O., S. 213.

28)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 6.  強調はフロイトによる。 29)  Freud: [1905] Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie. GW-V, S. 110.

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機となったのは,フロイトが引用しているフェヒナーの次の記述である。 「意識的な衝動(bewusste Antriebe)が常に快・不快と関係している限り,快・

不快も恒常性と不安定性の諸関連とともに,精神物理学的に考慮されなければ ならない……(mit Stabilitäts- und Instabilitätsverhältnissen in psychophysischer Beziehung gedacht werden [...])」。 30)

この引用は,フェヒナーの小著『有機体の創造史ならびに発展史についての若干の 見解』(Einige Ideen zu Schöpfungs- und Entwicklungsgeschichte der Organismen: 1873) からのもの 31) である。やがてフロイトは,フェヒナーの考え方に完全に帰依し,

「快楽原則は恒常性原則から導出できる。……より詳しく議論するなら,我々が心 的機構が行うと仮定しているこの快の追求という営みは,フェヒナー4 4 4 4 4

の恒常性へ4 4 4 4 の傾向4 4 4

という原則の特殊事例に分類できることが分かる(sich als spezieller Fall dem Fechnerschen Prinzip der Tendenz zur Stabilität unterordnet)」 32)とまで言うよう

になるのである。 それでは,フェヒナーにおける「恒常性原則」とは何を意味するのであろう。 『光明観と暗黒観の相克』においてフェヒナーは「恒常性原則」を以下のように説 明する。 自らの諸力にゆだねられている……一つのシステムが恒常性へ向かうという 原則は,……自らの内的な諸力の作用を通して,不可逆的に,漸次,いわゆ る恒常的な4 4 4 4

状態に接近すること(einem sog. stabeln Zustand nähert),すなわ ち,諸部分が周期的に(periodisch),つまり時間的に同じ間隔で,相互に同 じ静止状態ないし運動状態になるように回帰するということを意味する。 33)

  クンツェによれば,フェヒナーはこの法則を「心理学的基本図式」(psychisches Grundschema)として確立し,ちょうど重力の法則が物理学の基礎であるように, 心理学の大前提としようと考えていたらしい。 34)ただしこの stabel という形容詞

30)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 4.

31)  Fechner: [1873] Einige Ideen zu Schöpfungs- und Entwicklungsgeschichte der Organismen. a. a. O., S. 94. Zusatz(補足)の部分からの引用。

32)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 5.  強調はフロイトによる。

33)  Fechner: [1851, 19012] Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. a. a. O., S. 209.  強調はフェヒ

ナーによる。

34)  Vgl. Kunze, Johannes Emil: Gustav Theodor Fechner. Ein deutsches Gelehrtenleben. Breitkopf und Härtel, Leipzig 1892. S. 205f.

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は,英語の stable と同根であることは理解できるが,聞きなれないドイツ語では ある。フェヒナーもこの単語の意味を別の著作で説明し,恒常性と快・不快との 関係を次のように推論している。 私が「stabel」という語で表そうとしたことを手短に言えば,それはある状態 が回帰することをも含む恒常性の謂いである。……意識という領域(im Reiche des Bewussten)で何らかの志向(Streben),快ならびに不快の間に成立して いる事実上の関係はおそらく,恒常的な状態へのある限度を超えた接近が快 であり,恒常的な状態からのある限度を超えた離反が不快であると言えるの ではないか思われる……。 35) フロイトもまたフェヒナー同様,「心的機構が目指すのは,自らのうちに存在する 刺激の量(Quantität von Erregung)を極力少なく保つこと,あるいは少なくとも 恒常的に(konstant)保つことである」 36)としている。 ここで初めて刺激の「量」,つまり数量的なもの,エネルギー量的なものの問題 が前面化し,それが「質」の問題と結びつくことになる。快・不快はこうして, フロイトにおいても,すぐれてフェヒナーの精神物理学的問題となったのである。 我々は快と不快を心的生活に存在する……エネルギーの量と関連付けること に決めた。それはつまりこのエネルギー量の増加が不快と,減少が快と結び つくということである。(Wir haben uns entschlossen, Lust und Unlust mit der Quantität der im Seelenleben vorhandenen [...] Energie in Beziehung zu bringen, solcher Art, daß Unlust einer Steigerung, Lust einer Verringerung dieser Quantität entspricht.)。 37)   快・不快は質だけではなく,量的な問題でもあることを,フェヒナーはすでに 見抜いていた。「快と不快はつまり,質的な(qualitativ)決定要因の下にあるだけ でなく,それから独立した量的な(quantitativ)因子の支配も受けるのである」 38) これはフェヒナーの記述である。そう言わなければ,両者の見解があまりに一致 するために,フロイトからの引用と間違えかねない。さらにフェヒナーは言う。

35)  Fechner: [1876] Vorschule der Ästhetik. a. a. O., Teil II, S. 268f. 36)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 5. 37)  Ebd., S. 4.

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総じて言えば,…… 特定の閾値を越えた運動の精神物理学的な状態ないしは 諸関係が恒常的であれば,それが快であり,その状態ないし諸関係が不安定 であれば,それが不快であると考えるなら,快・不快の出現についての最も 一般的な条件が満たされると考えてよいであろう。 39)   フロイトはつまり,フェヒナーの快,つまり「特定の閾値を越えた運動の精神 物理学的な状態ないしは諸関係が恒常的」であることを,端的に「刺激の減少」 と,またフェヒナーの不快,つまり「特定の閾値を越えた運動の精神物理学的な 状態ないしは諸関係が不安定」であることを,端的に「刺激の増加」と言い換え たのである。 2-4.快楽原則は「死の欲動」に奉仕する(涅槃原則が優位となる) 恒常性を担保するために刺激を減少させることが快に繋がるとすれば,その究 極の形は刺激の量を零とすることである。フロイトも心的機構の意図は「流入する 刺激の量(zustömende Erregungssumme)を零にする,あるいは少なくとも出来得 る限り少なく保つ(zu nichts zu machen oder wenigstens nach Möglichkeit niedrig zu halten)」 40)ことにあると述べる。このような心的機構の働きをフロイトは,バーバラ・

ロー(Barbara Low: 1874-1955)の用語を借りて,「涅槃原則」(das Nirwanaprinzip) 41)

と名付けた。煩悩滅却による悟りの智慧,すなわち菩提を完成した境地である涅 槃は,刺激の零化によって達成される。これはすでに死と境を接していると言わ ざるを得ない。フロイトは正当にも,涅槃への傾向を死への衝動(Todestrieb)と 同一視する。 我々は心的生活,おそらくはまた神経の生理に支配的な傾向として,内的な刺 激による緊張を減退させ,恒常的に保ち,取り除こうとする営為(バーバラ・ ロー4 4 の表現に従えば涅槃原則4 4 4 4 )を認識した……。これが,死への衝動という ものが存在すると我々が信じる(an die Existenz von Todestrieben zu glauben) 最も強力な動機のうちの一つなのである。 42)

快楽原則はまさに死への衝動に奉仕しているように見える(Das Lustprinzip scheint geradezu im Dienste der Todestriebe zu stehen)。 43)

39)  Ebd., S. 213f.

40)  Freud: [1920] Jenseits des Lustprinzips. GW-XIII, S. 60f. 41)  Ebd., S. 60.

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  フロイトはさらに次の論文「自我とエス」(Das Ich und das Es: 1923)になると, 「死への衝動」を強調するようになる。この衝動はフロイトによれば,「生物学に

よって支持される考察に基づいて理論的に」仮定されたもので,「有機的な生命を 生命のない状態に帰せしめることをその任務としている」(das organische Lebende in den leblosen Zuatand zurückzuführen)。 44)フロイトは「死への衝動」をときに「破

壊衝動」(Destruktionstrieb)と等号で結ぶ。「破壊衝動については,その最終目標 が,生あるものを無機的な状態に還元すること(das Lebende in den anorganischen Zustand zu überführen)にあると考えられる。それゆえ我々は,破壊衝動を『死へ4 4 の衝動4 4 4

』と呼ぶのである」。 45)

フロイトの言う「死への衝動」は,フェヒナーがすでに50年前に述べていたこ とに強く関連している。フェヒナーは「恒常性への傾きという原則は,有機的状 態を無機的状態に変えること(organische Zustände in unorganische zu verwandeln) を目的としている」 46)と喝破しているのである。 恒常性への傾きという原則は,有機的恒常性が有機体の死を通して無機的な 恒常性へと移行することを単に妨げることがない,というよりは,恒常性を 促進するという意味において,むしろその移行をこそ最終的な目的としてい るのである。 47) フロイトはフェヒナーの思考を箴言風にこうまとめている。「あらゆる生の目的は4 4 4 4 4 4 4 4 4 死である4 4 4 4

……(Das Ziel alles Lebens ist der Tod [...])」。 48)

2-5.‌‌快楽原則も質的なファクターに依存する(量的・質的なファクターが協働 して作用する)

量的な考察,すなわち快とは刺激の減少であり,不快とは刺激の増加である, という見解をフロイトは,特に「倒錯」(Perversion)に関する考察の中で修正し ていく。「快楽原則の彼岸」から4年後の論文「マゾヒズムにける経済の問題」 (Das ökonomische Problem des Masochismus: 1924)においてフロイトは,快・不

快は量的な問題だけではなく,質的なそれでもあるとする。 43)  Ebd., S. 69.

44)  Freud: [1923] Das Ich und das Es. GW-XIII, S. 268f.

45)  Freud: [1938] Abriss (sic!) der Psychoanalyse. GW-XVII, S. 71.  強調はフロイトによる。 46)  Fechner: [1873] Einige Ideen zur Schöpfungs- und Entwicklungsgeschichte der Organismen. a. a. O.,

S. 36. 47)  Ebd., S. 91.

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……我々は快・不快原則を躊躇なく涅槃原則と同一視してきた。つまり,あ らゆる不快は刺激による緊張の増加と,あらゆる快はその減少と……共起す るに違いないと考えてきたのである。……しかしこの見解のみが正しいとは 思われない。……つまり快に満ちた緊張や不快なリラックス状態(lustvolle Spannungen und unlustige Entspannungen)というものがあることは疑い得な いのである。 49) マゾヒズムないしはその裏面であるサディズムにおける快が,刺激の増加と正比 例することは,よく知られている。倒錯に関する考察でフロイトが刺激の量だけ でなく質の問題を考慮しなくてはならなくなった所以である。 ここでもフェヒナーにその先駆的考察があることをブッグレ/ヴィルトゲンは 指摘している。 50)フェヒナーもまた基本的には刺激の量の減少が快と,その増加が 不快と結び付くのではないかという仮説を立てていたが,「しかし私見によれば, この仮説と矛盾する経験もある。……非常に激しく,熱情的な興奮は,不快でも あり得るし, 快感でもありうる(Die heftigste leidenschaftliche Erregung kann ebensowohl unlustvoll wie lustvoll sein)」 51)としているのである。

フロイトは上記のマゾヒズム論文で,量的な要因をほとんど放棄するかのよう にこう続けている。

快・不快はつまり,量的なものの増減に関連付けることはできないのではな いか……。快・不快は,この量的要因に依存しているのではなく,それ自身 の性質によるもの,我々がそれを質的なものとしか呼べないもの(nur als qualitativ bezeichnen können)に依存しているように思われる。 52)

  以上前稿ならびに本稿において,フロイトがフェヒナーから何を学び,そのメ タ心理学の理論構築にフェヒナーの何を取り入れていったかを,主としてブッグ レ/ヴィルトゲンの論考に依拠しつつ,詳細に検討してきた。 フロイトは「私はつねに G4 . Th4 4 . フェヒナー4 4 4 4 4 のアイデアを受け入れるのに吝かで はなく,重要な点に関してはこの思想家を頼みにすることもあった」 53)と自伝に書 いている。それはまことに正直な記述であることが十分に感得できるであろう。 49)  Freud: [1924] Das ökonomische Problem des Masochismus. GW-XIII, S. 372.

50)  Buggle / Wirtgen: a. a. O., S. 187.

51)  Fechner: [1879, 19042] Die Tagesansicht gegenüber der Nachtansicht. a. a. O., S. 139.

52)  Freud: [1924] Das ökonomische Problem des Masochismus. GW-XIII, S. 372. 53)  Freud: [1925] Selbstdarstellung. GW-XIV, S. 86.  強調はフロイトによる。

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(本稿は科学研究費補助金基盤研究(C)ハンス・ドリーシュ「新生気論」の研究―「エ

(13)

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Gustav Theodor Fechner und seine Genealogie (8)

Keita FUKUMOTO

Als Fortsetzung meiner Abhandlung „Von Fechner zu Freud (2)“ möchte ich diesmal den Einfluss Fechners auf Freuds „Metapsychologie“ erörtern und dabei mein Hauptaugenmerk auf den sogenannten „ökonomischen Gesichtspunkt“ richten.

In seiner Abhandlung Das Unbewußte (1930) schreibt Freud, dass man in der Darstellung psychischer Phänomene außer dem dynamischen und topologischen „einen dritten Gesichtspunkt zur Geltung … bringen“ sollte, nämlich den „ökonomi-schen“. Unter Ökonomie versteht Freud die Elemente von Quantität der Erregung oder der Erregungsgrößen. Freud versucht auf diese Weise, den Zusammenhang zwi-schen der Qualität des Psychizwi-schen (Lust und Unlust) und der Quantität desselben (Erregungsgrößen) zu entschlüsseln.

Dabei hat Freud das Stabilitäts- oder Konstanzprinzip Fechners ohne jede Modifikation in seine Theorie eingefügt. Nach Fechner erreicht die Lust ein Maximum, wenn die Erregung minimal und stabil bleibt. Damit die Erregung minimal und stabil bleibt, ist es notwendig, die „zuströmende Erregungssumme ... zu nichts zu machen oder wenigstens nach Möglichkeit niedrig zu halten“. Freud nannte diesen psychi-schen Mechanismus nach Barbara Lows Therminologie das „Nirwanaprinzip“. Wenn die Erregung minimal und stabil bleiben soll, so wäre der ideale Zustand nichts anders als der Tod. Deshalb sieht Freud im „Nirwanaprinzip“ den Todestrieb und schreibt in

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