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奈良学ナイトレッスン 第8期 教科書では教えてくれない奈良の歴史

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奈良学ナイトレッスン 第8期 教科書では教えてくれない奈良の歴史 ~第三夜 神と仏の合体―日本独自の信仰の世界~ 日時:平成 25 年 6 月 27 日(木) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:井沢元彦(作家) 内容: 1.日本で最も古い仏さま 2.神仏分離と廃物毀釈 3.大乗仏教と救いの仏 4.熊野詣ではなぜ流行ったのか 6.廃仏毀釈の端緒 1.日本で最も古い仏さま 今日は、日本の神と仏というお話です。どんな国でもあるかと思いますが、とても大事 なのに意外に国民に知らないことが日本にもあり、もしかするとその最大のものが今日お 話しすることかも知れません。 日本は昔から神仏が一緒の国でした。まず神道があり、主に物部(もののべ)氏が担当 していました。そこへ蘇我(そが)氏らが百済から仏教を入れようとしたため、蘇我氏の 血を引く聖徳太子の一族と物部氏が戦争をしました。若き日の聖徳太子が蘇我馬子(そが のうまこ)らと一緒に物部軍と戦いますが、形勢不利になりました。そのとき聖徳太子は 仏様に、勝たせていただけるなら仏教界の守護神である四天王のお寺を建てると約束しま す。すると形勢逆転して、敵の大将・物部守屋(もののべのもりや)に矢が当たるという 奇跡的なことが起こって蘇我氏が勝ち、仏教を日本に広められるこことなり、聖徳太子は お寺を建立します。それが今も大阪にある、四天王寺です。四天王寺は、法隆寺よりも古 いとの見解もあり、確かに法隆寺は聖徳太子が中年以降になって建てたお寺であるため、 四天王寺は「日本仏法最初」と宣言しています。 ひとつ前の時代になりますが、538年に百済の聖明王(せいめいおう)から日本の欽 明(きんめい)天皇に対して最初の仏像が贈られました。「仏教という素晴らしいものがあ る、あなたの国も信仰したらどうか」ということで、百済が勧めてきたわけです。そこで 天皇は迷われた。我が国には『古事記』の時代から神の道があって、仏の教えを入れてい いものかどうか悩んだときに、おそらく朝鮮半島から来ていた蘇我氏が、「では私どもがま ずお祀りしましょう」と祀ったのですね。ところが、そのあと疫病が流行った。天然痘ら

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しいです。そのため物部氏は、「邪神(仏教)を信じるから日本の神様がお怒りになったの だ」と、お寺を襲って火をつけ、蘇我氏が祀っていた仏像を難波の堀江、川の中にたたき 込んだという伝承が残っています。 後の時代になって、ある地方の方が、たまたま難波に来ますと、川の中に何か光るもの がある。あれは何だ、と行ってみたら仏像で、これはお祀りしなければいけないと背中に 担いで信州、信濃国まで持っていった。その人の名前は本田善光(ほんだよしみつ)とい います。その名をとって、善光寺(ぜんこうじ)というお寺が建てられ、その仏像も祀ら れました。善光寺では、この仏さまが日本で一番古いと考えられています。国宝か重要文 化財なのかというと、そうではなく、実はここ1500年ばかり、誰も見た人がいない、 秘仏なのです。秘仏でもいろいろあります。99年に一度公開する、あるいは、午の年だ けに公開するというのもございます。善光寺の本尊は数え7年(満6年)に一度公開され ているのです。それなら秘仏ではないと思うかも知れませんが、本体は深い厨子の中にあ り、その前に前立仏(ぜんりつぶつ)、お前立ちなどと言いますが、本尊のレプリカと称す る物が飾ってある。これも秘仏で、このレプリカが6年に1度しか公開されないのです。 実際は、厨子の中に仏さまがいるかどうか分かりませんが、四天王寺よりも法隆寺よりも ずっと古い、日本で一番古い阿弥陀ということになっています。 阿弥陀三尊像は普通、光背(こうはい)という後光が3つですが、善光寺の阿弥陀三尊 像(前立仏)は本尊の一つの光が脇侍(わきじ)までを包み込む一光三尊形式です。しか も、菩薩の手の形が違う。だから、それが一番古いものだという意見もある。ただ、もち ろん今、厨子の中の本尊は見た人はいませんが。 それをひょっとしたら見たかもしれない男が1人、豊臣秀吉です。秀吉は関白になって も、低い身分の出身ということでコンプレックスを持っていました。彼が、ある時、奈良 の大仏より大きい大仏を作ってやろうと考えた。しかし、奈良の大仏というのは鋳物です。 金属を溶かして成形したもので、高度な技術が必要で、また何年もかかります。そんなに 待てないということで、木(寄木造りで)で大仏を作ろうとした。その大仏が入る大仏殿 は、皆さんご存じの有名な材料を使いました。屋久杉です。縄文杉とも言われ、1000 年以上の寿命があったと言われています。屋久島にはウィルソンというアメリカ人の学者 が発見したウィルソン株というとても巨大な切り株があります。年輪を見ると1500年 代後半、つまり、秀吉の時代で切られた木であることがわかります。おそらく秀吉はそれ を大仏殿に使ったのではないでしょうか。 その大仏はいま、どうなったか。一の家来である加藤清正が秀吉の咎めを受け謹慎して いたとき、京都に大地震が起こって、清正はすぐに駆けつけて罪を許されたという話があ ります。その大地震で大仏は横倒しになってしまった。秀吉は馬で駆けつけ怒って、「庶民 を守れぬ仏など意味がない」と矢をつがえて大仏の眉間に矢を放ったそうです。パフォー マンスでしょうが、それだけ金をかけて作ったのにみっともなかったのでしょうね。当時、 朝鮮半島を攻めたりしていましたので、余計にもみっともない。そして、身代わりがほし

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いと目を付けたのが善光寺の阿弥陀仏です。この阿弥陀仏はそのとき、信濃にはなく、武 田信玄がまず甲斐に持っていき、武田が滅んだあと、織田信長の息子の信雄(のぶかつ) が岐阜に持っていき、そのあと、徳川家康と浅野長政が奪い合って、おそらくまた甲斐に 戻っていた仏像を持ってこさせたそうです。秀吉のことですから、扉の厨子を開けて中を 見たのではないかと思います。 実は、秀吉が亡くなる1週間くらい前に、その阿弥陀仏が夢に出てきて「私を返せ」と 言ったそうです。慌てて返したのですが、その途中で秀吉は死んだ、と、本当に記録に残 っていることです。 2.神仏分離と廃物毀釈 仏教が日本に定着する前は戦争もあった。戦争が終わってようやく日本に定着したので すが、日本人というのは、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と言ったように、争うこと が大嫌いです。そこで、奈良時代の中頃から、日本の神様と海の向こうから伝わってきた 仏様は、実は同じものだという信仰が始まった。後にこの信仰は平安時代に完成します。 今は神と仏、神社とお寺は別だと思われていませんか? 昔は一緒だったのです。実は、 一緒の時代は1000年も続いています。いつ変わったのかというと、明治維新の時でし た。 明治維新とは、諸外国の圧力をはね除けて日本人が独立の精神を固めようとした運動で、 その一つがこれです。本来、仏は海の向こうから伝わってきたものであるから、日本の清 らかな神様とは切り離すべきだということで、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」、「神仏分 離令」というのが行われました。それまでは、大きなお寺で仏を祀っていると、必ずその 脇に神社があり、仏と同体とされる神様を祀っていたのです。またその逆もあり、大きな 神社があると、その境内にお寺があって、仏を祀っている。それを「神仏混淆(こんこう)」 ないし「神仏習合」といいます。 日本の歴史は、縄文時代から数えたら1万年ありますが、日本の形が整ったのは、大和 朝廷が出来たころですから、卑弥呼が3世紀、大和朝廷が4世紀、350年くらいです。 それから1700年ほど経っているわけですが、実は、そのうちの半分以上、1000年 近くは神仏習合の時代なのです。神仏習合の時代のほうが遙かに長いですね。 奈良の大仏の時代の話ですが、九州ローカルの神様で八幡様というのがいて、これが、 応神天皇だということになった。誉田別命(ほんだわけのみこと)と言います。つまり、 応神天皇はずっと昔の天皇で、一度この世から姿を隠されていたのですが、571年、大 和朝廷が出来て100年くらい過ぎた時に、九州宇佐の地に現れた。そこで今、宇佐八幡 宮があるところにお祀りしたのですね。そして200年くらい経って、聖武天皇が東大寺 の大仏を造っている時に、宇佐八幡の禰宜(ねぎ、神職・神官のこと)であった尼さんが 上京し、「実は八幡様のお告げをいただきました。いま、天皇様が大仏をお造りになってい ることについて、八幡大神様は、ご自分の力も貸したいとおっしゃられました」。「それは

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めでたいことじゃ」ということで、神様なのだけれど仏教の守護神であるということで、 八幡大菩薩と朝廷から賜りました。 八幡神は、同時に「弓矢八幡」と言う言葉があるのですが、武人でもある。応神天皇は 非常に武勇に優れた方だと『日本書紀』に載っているためです。そのため、元々天皇につ ながる家系であった源氏などが氏神として信仰することになります。その時に「南無八幡 大菩薩」と、「南無阿弥陀仏」と同じように、仏教の言い方で祈ったのです。「南無」とい うのは本来仏教語で「あなたを信じます」ということですね。「南無阿弥陀仏」と言えば、 「阿弥陀如来さまを信じます」ということ。「南無妙法蓮華経」と言えば、「妙法蓮華経、 略して法華経を私は信仰します」という意味です。「南無八幡大菩薩」と言うと、「八幡様 を信仰する」という意味ですね。 日本の神様はどういう格好をしているかというと、だいたい、髪を角髪(みずら)に結 って、ヤマトタケルのような格好をしているわけです。ところが、仏さんは基本的にイン ドの方ですから、一重の着物でも寒くないので薄着で、ほとんどむき出しの頭は天然パー マのような螺髪(らほつ)です。神と仏では全然違うではないかということになった。そ こで、平安時代の中頃から、誰が言い出したかはわからないのですが、お坊さんなり神官 から「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」ということが出てきた。「本地」というのは現代語 で言えば「本体」という意味ですね。「垂迹」というのは、「この世に現れる」という意味 です。こじつけのような気もするかも知れませんけれども、そもそも、神様は仏様だった という解釈です。けれど仏の本来の姿は、日本人にとって馴染みがないので、古代、天皇 が武器をとって活躍されていた頃は、神様は日本人の姿で現れた。まず、神様を尊いもの として信仰するということを教えた。しかしその本体は、実は仏さまなのである。神様も 仏様も同じものだというのが「本地垂迹」説です。 日本では神の像というのは造らなかった。神様がどういう格好をしているかに関心はな かったのですね。例えば、ギリシアだとアテナの像やアポロンの像を造りました。この本 地垂迹以降、日本にも、神像というものが造られるようになりました。 八幡大菩薩は、本地垂迹説が出てから八幡神は実は阿弥陀如来だと、菩薩から如来に格 が上がりました。本体である仏のことを、「本地仏」と言います。本地仏が日本の神様に体 を変えて、変身して現れたのを「垂迹神」と申します。仏のほうが本体だという考え方で はあるのですが、八幡様の正体は阿弥陀如来であるということになったわけですね。 昔、春日大社と興福寺は同じでした。そもそも両方とも藤原氏の氏神ですから。今は別 ですが、そもそも春日大社に祀られている神様と興福寺の本尊である薬師如来も、同じも のだということになっていたのです。当然、人事交流もあり、お坊さんが神社に行って管 理するということもありました。神仏混合だったからです。それがずっと続いていたとい うことですね。 先ほどの話ですが、八幡様の中にお寺があり、むしろ日本中どこでも、大きな八幡の宮 には必ず阿弥陀様を祀ったお堂があったのです。同じものですから。ところが今はほとん

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ど残っていません。明治の時に徹底的に破壊され、分離されたのですね。廃仏毀釈という のは、本来は仏様と神様を分離するというのが主目的だったのですが、そのうち、仏様は いらないということになったのです。 例えば、奈良の天理にあった永久寺というお寺などは跡形もなく消えました。昔、永久 寺のあった辺りは内山と言ったのです。内山永久寺といえば、奈良の興福寺に勝るとも劣 らない大きな寺でした。興福寺は後ろ盾が、公家の7割を占める藤原氏でしたから。藤原 氏といえば、近衛さんや九条さん、一条さんもすべて住んでいる場所で名乗っているだけ で、実際は藤原氏です。興福寺は生き残りましたが、永久寺はそうもいかず今、跡形もあ りません。ただ、ここに伝わっていた四天王の三畳敷きくらいの絵姿があります。日本に 残っていれば紛れもなく国宝だったと思いますが流出してしまい、今アメリカのボストン 美術館にあります。よく、岡倉天心はとんでもないヤツだ、日本の宝を外国に売りまくっ たではないかと言われるのですが、それは誤解で、日本においておいたら、壊される可能 性が高かったのです。だから保護するために仕方なく売ったものもあるのです。 永久寺の「永久」は年号です。年号は天皇の改元によって定められるものですから、勝 手に名前につけてはいけない。今だったら明治生命、大正製薬、昭和シェル石油等、様々 な名前を付けられますが、昔はダメでした。お寺の名前に年号がつくのは、勅許が必要だ った。永久寺というのは勅許寺です。勅許によって建てられた寺でも、廃仏毀釈の嵐の中 になくなってしまったのです。 3.大乗仏教と救いの仏 本地仏と垂迹神の話に戻ります。八幡神は阿弥陀如来でもあり、熊野権現(ごんげん) でもある。熊野権現というのは、紀州和歌山の熊野三山です。 平安中期ごろから、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになると、宇 多上皇から始まり皇族、貴族、女院らの熊野詣(もうで)が相次ぐようになり、鎌倉時代 まで盛んに参詣が行われました。白河上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇などのように何度も 参詣する例もありました。室町時代以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛 んになり、その様子は、蟻の行列のように続いたことから「蟻の熊野詣」と言われるほど の賑わいだったといいます。 天皇が位を譲ると、上皇となります。そして上皇さんが頭を丸めて出家されると今度は 法皇に変わります。宇多上皇は、ちょうど菅原道真の時の上皇です。熊野詣はそこから始 まりました。ちなみに、熊野三山は、熊野三所権現という神様で、熊野夫須美(くまのふ すみ)大神、熊野速玉(はやたま)大神、家都美御子(けつみみこ)大神、三人の神様が それぞれ三つの神社に祀られている。最初は神道の神社だったのですが、そのうち、夫須 美大神は千手観音さまだ、速玉大神は薬師如来さまだ、家都美御子は阿弥陀如来さまだと いうことになりました。 今は、脱宗教社会になりすぎて、日本人が昔、仏教・阿弥陀信仰を熱心に信仰していた

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ということを忘れてしまっているために理解しにくいかも知れません。『往生』とは死ぬと いうことですが、なぜ生きるという字が入っているのでしょうか。「これで成仏できるだろ う」の「成仏」は漢文で、「仏に成る」ということです。これはどういうことかというと、 そもそも阿弥陀さんの信仰なのです。 お釈迦様の仏教というものは、たいへん厳しいものです。お釈迦様というのは紀元5世 紀の実在の人物で、今だとネパールの一角にある釈迦族の王国の王子様だったわけですね。 釈迦というのは部族の名前で、釈迦族の聖者という意味でシャーキャムニ、釈迦牟尼と言 います。個人のお名前はゴータマ・シッダルダ。そのゴータマさんが、釈迦族の王子様に 生まれながら、結局人間は死ぬのだと、どんなに栄華を極めても死ぬのだと。ではどうし たらこうした苦しみから脱することができるだろうということで、奥さんを捨て、子ども も捨て、王子という身分も、王宮という財産も全部捨てて、一重の着物で外に出て、修行 の道に入りました。これを出家と申します。私みたいなものが同じことをすると家出にな るわけですが(笑)、とにかくゴータマさんは身分も財産も名誉も妻子も捨てて出家して、 修行の結果、悟りを開いて仏になられた。みな、それを真似できるかというと、出来ない。 そこでお釈迦様が死んで何百年か経ったあとに、お釈迦様の仏教ではみんなが救われない という考え方が出てきました。それを大乗仏教と言います。 大乗とは何か、読んで字の如し、大きな乗り物ということです。これには、それまでの 出家主義のお釈迦様の仏教に対する批判が込められている。それまでの仏教は小乗、小さ な乗り物で、1人の人間、本人しか救えないではないかと。でも、宗教というのは、本来 多くの悩める人間、弱い人間を救うものであろうと。だから、これまでの教えは間違って いるという意味で、我々は大乗で、それまでの仏教を小乗と言うようになります。つまり、 差別語である小乗は、今は使いません。批判を始めたのは若手の革新派ですから、それに 対するのは長老ですよね。長老はどこに座っているかというと、上座に座っているわけで す。そこで今では、上座部(じょうざぶ)仏教と申します。大乗仏教の反対語は小乗でし たが、それは差別をこめた使い方ですから、上座部仏教の名称を使っています。 日本に伝わってきた仏教は、大乗仏教です。大乗仏教は基本的に、自分だけではなくて 他人も救わなければいけないという義務感、使命感がある。問題は、どうやって救うかと いうことですね。お釈迦様でも仏になることは大変だったのに、我々はどうするのだとい うときに、救いの仏として現れたのが、阿弥陀如来でした。 4.熊野詣ではなぜ流行ったのか 阿弥陀如来と他の仏と何が違うか。一般に、仏が住んでいる我々とは別次元の世界のこ とを浄土と申します。如来とつく方はみな、浄土にお住まいです。仏ごとに浄土があり、 特に阿弥陀がいる浄土のことを極楽浄土と言います。それならば、人間一度死んで極楽に 生まれ変われば、そこに阿弥陀さまがいらっしゃるわけだから、阿弥陀の直接の指導を受 け、どんな愚かな人間、どんな悪人でも悟りを開いて成仏、仏になれるだろうということ

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なのですね。しかも、阿弥陀が他の仏と違うのは、この方だけがどうやったら極楽浄土に 生まれ変われるかという方法を提示している。それが念仏です。「我を念仏する者は必ず極 楽浄土に生まれ変わらせてあげる」という誓いを立てている。その誓いのことを「本願」 といいます。その本願を信じる方々が建てたお寺が本願寺です。 つまり、2段階なのです。まず、死ぬまでに念仏する、そうすると阿弥陀様が迎えに来 て、一度死ぬけれど、往ってから、生まれる、極楽浄土に往生する。そして極楽浄土で成 仏できる。今は、死んだらすぐ「成仏」と言っていますが、話が早いのですね。「往生」に 対して、平安時代の仏画のテーマで描かれたのが「来迎(らいごう」」、つまり阿弥陀がお 迎えに来る、という図です。 問題は念仏です。念仏とは何をするのか、どうしたらいいのか。平安時代の金と力のあ る貴族たちは、それはお寺を建てることだと考えました。念仏というのは、今で言うとイ マジネーションですね。仏様を強く念じる、思い浮かべるということですから、そのため には、この世の極楽浄土を再現したような、例えばお庭を作ろうとか、あるいは寺を作ろ うとか、その中に黄金に輝く阿弥陀さまを置こうとか。だから、平安時代の美術はこれが 強いモチーフになっているのです。藤原道長も、素晴らしい仏像を造りその手元から五色 のテープを垂らして、自分がそれをつかんで念仏して亡くなった、と言われております。 阿弥陀はそれだけありがたい仏だったのです。京都でも、郊外にあったために焼失を免れ たお寺があります。それは十円玉の模様にもなっている平等院鳳凰堂。あれは阿弥陀様を 祀った阿弥陀堂なのです。目の前の浄土庭園は、極楽浄土の様を描いたものです。 極楽浄土の様子がお経に書いてあるのですが、どう考えてもオアシスなのですね。仏教 が生まれたのは暑い所ですから、水が豊富にあるのが極楽の条件だったのではないでしょ うか。浄土庭園というのは、基本的に真ん中に大きな池があって、池を巡るような形にな っている。 しかし、お寺を建てる、あるいは黄金の仏像を造るなどということは、庶民には無理で す。では庶民は救われないのか。それに対して鎌倉時代、法然(ほうねん)という偉いお 坊さんがこう言いました、「念仏とは、仏のお名前を言えばいいのだ」と。「南無阿弥陀仏」 と、「阿弥陀様を信じ申し上げます」と言えばいいということにした。それで、法然の教え、 浄土宗が爆発的に流行ったわけです。法然の弟子の親鸞(しんらん)になりますと、お坊 さんが結婚して子どもを作ることもよいとされるようになりました。それまではお坊さん は結婚してはいけないものでした。出家主義ですから。お釈迦様と同じで、妻子のあるも のは、妻子を捨てなければいけないし、独身の者は妻を娶ったり子どもを作ってはいけな いというのが仏教だった。ところが、親鸞はそれを180度変えた。我々は、最初から阿 弥陀様のお力におすがりするのだから、おすがりするという点では、僧侶も普通の人間も ない、みんな同じだ。だから僧侶だって結婚していいだろうということで、子どもをつく った。しかし、他の宗派のお坊さんは、江戸時代になってもそれがダメでした。親鸞の浄 土真宗の系統以外は、嫁をもらってはいけなかったし、子どもも作ってはいけない。だか

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ら、道元にも日蓮にも子どもはいないけれども、親鸞だけにはいる。そして、その子孫が 造ったのが本願寺なのです。 本地垂迹説によって、元々熊野の地に祀られていた熊野権現という神様が阿弥陀如来さ んと同じものだということになる。そうすると、熊野とは何でしょう。極楽浄土ではない ですか。だから、そこへ行こうということで、熊野詣でがとても流行ったわけです。 ちなみに親鸞の他にも、「南無阿弥陀仏」と言い阿弥陀を信仰すれば極楽浄土に行けると いう信仰を唱えた人がいます。一遍(いっぺん)という人で、時宗(じしゅう)を開きま した。この一遍が、修行のために阿弥陀如来から霊告、霊のお告げをいただこうと思って 籠もったのも、熊野権現でした。熊野権現=阿弥陀さんだからですね。 5.初めて自ら神になった人 本地垂迹説以前には、日本の神社には神像は一切ありませんでした。ご神体というのは、 例えば岩であったり、滝そのものでした。あるいは、奈良の大神(おおみわ)神社のよう に三輪山という山自体がご神体である、そういうものであって、ご神体というのは象徴で はあるけれども、神様の姿を現したものではなかった。ところが、仏教では盛んに仏様の 姿を仏像に現したり仏画に描いたりします。その影響を受けて神像が多く造られるように なりました。ところが、廃仏毀釈の嵐の中で、神像も本来日本になかったものだというこ とで、破壊されたりしました。だからあまり残っていないのですね。残されているものは、 秘仏ではないけれども、神様の姿を滅多に見てはならないということで、厳重に深い厨子 の奥に入れられたりしていて彩色がきれいに残っている場合が多い。これは怪我の功名と も言えますね。 神仏混淆を象徴するお寺である神宮寺というのは、読んで字の如し、神社の中にあるお 寺です。そしてその神社の本地仏を祀っているお寺。かつては日本中にあったのです。と ころが今は若狭(福井県西部)にしかありません。極めて希有なことに昔のスタイルで残 っています。 祇園祭の神様は牛頭天王(ごずてんのう)です。八坂神社は、牛頭天王という謎の神様 を祀っていた。それは、素盞鳴命(すさのおのみこと)で同時に薬師如来だということに なりまして、平安時代以降はずっとそうでした。今は祇園の八坂神社に行っても境内には 1つもお寺はありませんし、仏像も祀っておりませんが、昔は祀ってあったのですね。 また、日光の東照大権現は、徳川家康。権現というのも本地垂迹説の強い影響を受けた 神様で、仮の姿でこの世に現れた神様という意味です。つまり、徳川家康は人間ではなく、 神様だったということです。この世を鎮めるため天下を平定するために、仮の人間の姿で この世で75年くらい活動されて、そして、また神の世界にお帰りになったという信仰で す。この権現信仰で、家康は東照大権現という神号を与えられたわけです。 織田信長というのは、いろいろ変なことをやった人で、ルイス・フロイスという当時日 本に来ていたイエズス会のポルトガル宣教師がいろいろ書いているのですが、その中に「信

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長は安土の城の中に自分の肖像を置いて、庶民に礼拝させてお賽銭をあげさせた」と書い てあります。これはフロイスが何か誤解しているのではないかと言う歴史学者もいますが、 それは間違いだと私は思います。どうしてかというと、その次の秀吉は神様に祀られてい るのですね。秀吉は「わしを神に祀れ」と自ら遺言して、朝廷から神様としてのお名前を いただいている。それが豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)という神号です。豊臣家 が滅亡する前は、京都に豊国神社があって、盛大に祀られていました。徳川が天下をとっ たときに、豊国大明神の神号を廃止し、豊国神社も壊してしまった。しかし、明治になっ て復活し、今は京都にも大阪にも名古屋にも豊国神社があります。しかし、江戸時代には なかった。その代わりに東照大権現を祀る東照宮があったわけです。日光東照宮で参拝客 がお賽銭を挙げるのは、結局フロイスが書いていたのと同じなのです。違うのはその時、 信長は生きていたというそれだけの話ですね。信長が始めたときは変に思われたことが、 家康では定着したということです。日本宗教史上、「俺を神に祀れよ」と言って神になった 人は、最初は秀吉です。次が家康ですね。 宇多法皇の時代、菅原道真という人が神様に祀られたことはありました。しかし、菅原 道真は藤原氏に陥れられて無実の罪で九州大宰府に左遷され、そこで恨みを抱えて死んだ。 神様にしろとは一言も言ってない。ところがそのあとに都で、雷が落ちて藤原氏の一族が 死んだり、それまで1度も雷が落ちたことのなかった御所の中枢部分に雷が落ちたりした。 みんな驚いて、あいつは祟り神になった、祀らなければいけないと、天神(てんじん)と いう神号を与えて彼を祀る神社を造った。それが天満宮(てんまんぐう)ですね。天満宮 の小さいのが天神様です。京都の北野天満宮、太宰府天満宮といったように、全国各地に できるようになった。しかし、菅原道真も「おれを神に祀れよ」とは言っていません。 最初にそれを言ったのは織田信長です。ただ、織田信長は失敗しました。 厳密にいうと、建勲(たけいさお)神社という織田信長を祀った神社はありますが、そ れは明治になって織田信長ほどの男を祀る神社がないのはおかしいと後から造られたもの なのです。 6.廃仏毀釈の端緒 最初に申し上げたことですが、実は日本という国は、「神仏」という言葉があるように、 神様と仏様が仲良く暮らしていた。その時代は、日本の歴史の3分の2くらいを占める。 その1000年の記憶が我々にはあまり残っていない。痕跡は完全に破壊されています。 ただし、美術などはすべて破壊されたわけではないので、神像も残っているし、あるいは 曼荼羅も残っている。 曼荼羅(まんだら)は、普通は仏様がたくさん描いてあって、仏様の力関係・位置関係 を表したものだと理解されているだろうと思うし、それでいいのですけれども、実は熊野 曼荼羅とか伊勢曼荼羅とか、神様と仏様の関係を描いた曼荼羅も残されています。つまり、 その時代は神仏混淆であるがゆえに、そういうものが当たり前のように信仰されたのです。

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これがいつから崩れていったかというと、会津藩の初代藩主、保科正之(ほしなまさゆ き)という人の時からです。この人は2代将軍徳川秀忠の息子。秀忠には怖い奥さん江(ご う)がいたため、生涯側室を持たなかった。ところがあるとき、浮気をして子どもができ てしまった。情けない人ですね、堕ろせと言ったのです。ところが、周りが将軍様の子だ から堕ろすわけにはいかないということで、武田信玄の旧家来である信州の大名、保科正 光(ほしなまさみつ)という人が預かることとなりました。「お前の子どもとして育ててく ださい」ということで、正之は保科姓を名乗った。秀忠と江の間には、家光ともう1人、 忠長がいましたが、忠長はいろいろな経緯があり自害を命じられ、家光ひとりになってい ました。ところが家光が鷹狩りに行ったとき、休息したお寺で、実は自分には母親の違う 弟がいるということを知る。慌ててその保科正之を呼び出してみると、なかなか優れた男。 頭脳明晰で優秀であると同時に謙虚なのです。「おまえは徳川の血を引いているのだから、 せめて松平と名乗れ」と言われても、彼はそれを受けなかった。「私は、保科家で育てられ ましたから、保科家が栄えるのを見届けてから死にたいと思います。だから松平という名 前はいりません」ということで、正之の子ども、2代目から初めて松平を名乗ったのです。 その子孫が松平容保(かたもり)です。 この保科正之という人は、非常に熱烈な神道の信者でもあって、神道というものを純粋 に考えなければいけないと言った人です。日本という国はずっと神仏混淆できているけれ ど、本来、それらは水と油であって、仏というのは海の向こうから渡ってきた、元を正せ ばインドの考え方であって、日本のものとは別のものだということを神道の立場から主張 したのですね。 もう一つ神仏習合排斥のきっかけとなったことがあります。国学というものです。黄門 という呼び名で有名な水戸光圀(みつくに)という人が、今は仏教が混じっているけれど も、本来神道というのは日本人古来の道である、では日本人古来の道とは一体何だろうと 考えたのです。いま我々は『万葉集』を当たり前のように読んでいますが、昔は読めなか った。万葉仮名という漢字の当て字で書かれていますね。もちろんそれらは一つ一つ、日 本の文字で読むことができるのですけれども、それがある時代から読めなくなってしまう。 この漢字だらけの文章はいったいなんと読むのだろう、暗号みたいなものだな、というの が一般の感覚でした。ところが水戸光圀は目の付け所が違っていて、『万葉集』は字は漢字 を使っているけれど、仏教が入る以前の心を表しているのだ、これをなんとか読みたいと、 ある学者に解読を依頼した。ところがこの学者が病気になってしまい、学者仲間のお坊さ ん、契沖(けいちゅう)という人に頼みます。契沖は、見事『万葉集』の注釈書である『万 葉代匠記』という本を書きました。この本によって、当時の人々は『万葉集』が読めるよ うになったのです。 例えば今年、世界遺産になった富士山。「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺 に雪は降りつつ」と『百人一首』にはそう載っています。ところが『万葉集』の原典では、 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」になっていることを

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日本人、忘れていたのです。これは『万葉代匠記』が世に出たことによって、読めるよう になった。 光圀のあとを継いだのが本居宣長(のりなが)で、彼は『古事記』を読めるようにした。 彼の書いた本が『古事記伝』。これは江戸時代初期から中期にかけての話ですが、天皇は日 本古来、仏教以前の存在で、これを尊ぶべきだという考え方が生まれてきて、その結果、 仏教は後から来たものだからこれを排除すべきだという考え方に繋がっていくのですね。 それが明治維新のときに外国から攻められたということで爆発して、より純化されて、明 治の初期に廃仏毀釈という運動に繋がっていく、こういう流れをたどって現在に至ったの です。

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