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Title 一八八〇年代中葉におけるシャムの對佛 對清關係 Author(s) 小泉, 順子 Citation 東洋史研究 (2011), 70(1): Issue Date URL Right Type J

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Title

一八八〇年代中葉におけるシャムの對佛・對清關係

Author(s)

小泉, 順子

Citation

東洋史研究 (2011), 70(1): 67-99

Issue Date

2011-06

URL

https://doi.org/10.14989/188954

Right

Type

Journal Article

(2)

0

年代中葉におけるシャムの封備・封清関係

}

I

I

は め に 一フランスによる援軍汲遣要請とシャム 二清朝による朝貢再開要求とシヤム 三鄭観麿のシヤム訪問 四 プ リ ッ サ ダ l ン親王のみる清側関係とシヤム むすびにかえて じ は

め 本 稿 は 、 一 八 八

0

年代中葉、清悌戟争期において、シャムの潟政者がフランスのみならず近隣諸国との関係を如何に認 識し、維持・嬰更・展開しようとしていたのかという課題を、とくに清朝との闘係に着目して検討する。この時期は一般 に 、 ビ ル マ 、 ベトナムなどの周遺地域がイギリス、 フランスにより植民地化され、その狭間に位置したシヤムに封しでも、 フランスは、清備戦争の勝利の結果、一大津係約(一八八五年)によっ 植民地勢力の脅威が迫った時期として理解される。 て 、 一八六七年に植民地化したコ l チシナに加えてトンキンを含めたベトナムを統治下に置き、 ベトナムとシヤム聾方の 67 ﹁朝貢園﹂であったラ

I

オの諸王圃やカンボジアに封する支配権を主張し、シャムと封立した。 一八九三年には軍事衝突

(3)

68 フランスはバンコクまで軍艦を遡行して、シャムに譲歩を迫った。結局、ンヤムはフランスに降伏し、同年十月に ( I ) 締結された講和僚約で、シャムはメコン川左岸地域と川中の島に闘する権利の放棄等を徐儀なくされた。この一件は ﹁ パ

1

クナ

1

ム事件﹂、あるいは﹁シャム危機﹂として知られるが、植民地化の危機に直面して、シヤムでは、司法、数 に 至 り 、 育、軍事、財政、中央・地方行政などの諸側面において、西洋の制度を導入しつつ制度改革が進められ、固王を中心とす ( 2 ) る中央集権固家健制が整備されていったと理解されている。 ところで、こうした植民地勢力の動きと並行して、十九世紀後竿から二十世紀初頭におけるシヤムの釘外関係において 重要でありながらも、看過されてきた問題がある。それは清朝との閲係である。シャムは清朝の朝貢園であったが、 J¥ 五二年に抵遣した朝貢使節が、蹄路暴徒に襲われて死傷者をだしつつ踊園したことから、以来、使節の抵遣は中断され、 ( 3 ) 一 八 八

0

年代半ばに至るまで、清朝から重ねて朝貢再開要請があったにもかかわらず、それに磨じることはなかった。十 九世紀後字、朝貢は、西洋と締結された候約闘係と封比され、華夷秩序の下での属国(百戸自由

5

5

)

の象徴であるとみな す認識が次第に白畳されるようになり、国家聞の封等性や王権の権威にかかわり、かつ候約の封等性にも影響を輿えると して問題嗣附されるようになったことが背景にある。 では、中固と候約を締結すればこれらの問題が解決するかといえば、そうではなかった。なぜならば、倹約の締結によ り、シャム園内に多数存在した中圃人が﹁外園人﹂となり、 さらには領事裁判権を享受する可能性があったからである。 そうなれば、司法のみならず、徴税や治安の維持など、麿くシャムの統治の根幹を揺るがすような混乱が生じる恐れもあ っ た 。 一 八 八

0

年代宇ば以降は、候約締結をめぐり、清朝と交渉を重ねるが、シャムは締結を回避し績けた。ただし朝貢 であれ候約であれ、あからさまに拒絶を表明して清朝と釘立すれば、圏内の中国人が不満を抱いたり、清朝がシヤム園内 の中国人の不満を煽ったりする可能性も現賓問題として深刻にうけとめられ、慎重な封磨を徐儀なくされた。種々のチヤ ネルを通じた回避交渉の記録からは、首時シャム内に数多く存在した中園人移民の動向と相侯って、清朝の匡力がシャム

(4)

( 4 ) にとって一つの脅威とみなされ績けていたことがうかがわれる。 したがって、十九世紀後竿以降のシヤムの封外闘係は、候約を軸とする封英、封併といった植民地勢力との闘係のみな らず、中園も含めた近隣諸圃・諸地域との関係をも覗野に入れて、雨者を相互連閥的に検討する必要性があるように思わ れる。しかしこれまでシャムの封外関係はもっぱら欧米との二園間関係を軸とした研究が中心となり、特に清朝とは係約 関係がなかったため、朝貢の中断後の﹁外交﹂交渉は検討の釘象とはならなかった。 こうした問題闘心から、本稿では、 一 八 八

0

年代宇ばにおけるシャムの封外闘係認識を、特に清朝との聞係を軸にして ベトナムをめぐり清朝とフランスとの針立が深刻化していった時期、清朝はシヤ 再検討を試みる。よく知られるように、 ムがフランスに協力するのではないかと懸念し、鄭観庭を祇遣して様子を探らせた。 フランスおよび清朝との聞係が同時 に問題化したこの事件について、鄭観躍の日記からは、シヤムが釘悌協力の障を否定したこと、またそのシヤムに封し、 訪問をいかにとらえていたのかは、これまで明らかにされてこなかった。他方、 フランスとの闘係でも、この時期の研究 鄭観躍はフランスを挟撃すべく協力を求め、また改めて朝貢を要求したことが知られるものの、シャム側がこの鄭観麿の 関心の中心は清仰戦争後の悌領インドシナとの圃境書一定や、シャムがメコン川左岸を﹁失った﹂ 一八九三年のパ

l

クナ

l

ム事件(シャム危機)におかれ、清悌戦争白樫への封麿は、首事者ではなかったことから、直接検討されることはないま ( 5 ) ま今日に至っている。清備の聞におかれたシヤムは、首時の情勢をいかに見通し讐方に封麿したのか。こうした研究史上 の課題に麿えるため、同時代のタイ語史料を検討したい。 69

(5)

70 フ ラ ン ス に よ る 援 軍 祇 遣 要 請 と シ ャ ム /♂"'

'--/ アルマンの提案 一八八三年六月十八日、 ト ン キ ン 政 務 静 務 官 に 就 任 す る こ と と な っ た 駐 シ ャ ム ・ フ ラ ン ス 領 事 ア ル マ ン 己 己

2

同 記 目白色は、シヤムを去るにあたり、国王チユラ

l

ロ ン コ

l

ンに謁見した。そして舎見の最後に、﹁このたびフランスがト ン キ ン を 獲 得 し ベ ト ナ ム ヨ

E

ロ)を保護下に牧めて統治するに至れば、中国側(宮ロ r Z ) はこれを禁じようとして中園と ( 日 ) 戦闘が勃護するだろう﹂と告げ、トンキンに五

O

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人ほど援軍を抵兵して欲しいと内密に要請した。 ここでアルマンがシャムに封してフランスへの援軍祇遣を提案した背景には、首時シャムと中園とのあいだで朝貢の再 聞が問題となっていたという事情があり、 アルマンは、﹁以前からの中固との闘わりごとを断って完全に水に流し﹂、 か

フランスとの関係もより緊密なものとすることができ、シヤムにもフランスにも利盆があるよい機舎であろうとシヤムを 勧誘した 0 フランスが中固と戦争になれば、イギリスと日本もフランス側につくこと[したがって勝利]は確賓であり、戦 ( 7 ) 争終結後に中国と候約を締結することになれば、﹁タイもそこに名を連ね、濁立国としてタイの名が候約中にはっきり示 される﹂ことを、 フランスを支援してイタリア統一を果たしたとしてサルデ l ニャ王国の例も引いて説明した。 この提案に封してチユラ

l

ロ ン コ

l

ン は 、 フランスとの緊密な関係を望む意思を停え、シャムにとってもなにがしかの 利盆となるだろうことを認めた。しかし事の重要さに鑑み、諸大臣に諮問する必要性を主張して即答を避け、かつアルマ ンが提示した二日間の返答の猶珠も間に合わないとして拒否した。 加えて、ならば先にサイゴンに赴任して十五日間待つというアルマンに封し、今度はチユラ l ロ ン コ l ンから、トンキ ンで中園がフランスと戦うことになれば、 ベトナムがつけあがることはないのかと問いかけ、さらに﹁もし我々がベトナ

(6)

ム側を助ければ、我々に多大な利盆があると思われる﹂とも述べた。これに封しアルマンは、 ベトナムが蜂起しようとも フランスは容易にベトナムを平定することができると自信の程を示し、困難が件、つのは中園に封してのみであろうと遮ベ た またこのようにチユラ

1

ロ ン コ l ンと話したことをサイゴンに報告するというアルマンに封し、 チユラ

1

ロ ン コ l ン は 、 まずは協議をしなければならず、まだ何か合音、山したわけではないと念をおした。アルマンも内密の話であり、国王の返信 があるまでは何も結論がでていないことを確認したうえで、以上は、政府の命令ではなく、﹁フランスとタイの雨方に利 盆があるとみた私見﹂であり、ただ友好的に勧誘しているに過、ぎないと述べてその場を辞した。 ( '-' シャム側の封鹿 ( 8 ) チユラ l ロ ン コ l ン王は、直ちに王族十二名と大臣四名にこの一件を諮問した。そしてほぼ一週間のうちに四通の上奏 童日が提出されたが、一淑兵に賛成したものは皆恕であった。 ( 9 ) カ ラ

l

l

ム卿チャオプラヤ

l

・スラウォンワイヤワットピパットサックであった。六月 最初に見解を上奏したのは、 フランスと中園が戦闘に至るか否かはまだ定かではなく、事態に備えて、王族と官僚の子弟二名ほ どを研修の名目でフランスの軍艦に託す案を示し、もし賓際に中国とフランスが戦争となれば、彼らをして状況を国王に ( 刊 日 ) 報告させるよう提案した。加えて、ベトナムとの闘係にも言及し、先に嗣徳帝からの遣使がシャム園王に謁見して隼敬の 二十日附の上奏書は、 念を示すとともに、シヤム側もこれを受け入れて修好闘係の回復を確認した経緯に照らせば、 ( 日 ) ばベトナムとの聞係に支障をきたすとして、振兵に反封の音山を示した。 フランスに援軍を抵遣すれ ( ロ ) 績いてその三日後、外務卿チャオプラヤ

l

・ パ

1

ヌウォン等四名の官僚が、連名で見解を上奏した。四名は、 フランス 71 に援軍を祇遣すれば、終戦後、締結される候約に濁立固としてシャムの名が記されるというフランス領事の言い分とその

(7)

72 利貼は認めたものの、他の得失を勘案すれば損失が勝ると結論づけた。 根擦として畢げられた理由の一つは、チャオプラヤ

l

・スラウォンワイヤワットと同様に、かつて敵圃であったベトナ ムが、植物を捧持した使節を抵遣して修好を請い、敬意を表し、これまでの復讐心に終止符が打たれたことがあった。同 時に、中固との関係悪化も懸念された。すなわち、中国と[朝貢再開をめぐって]不和が生じる中、フランスを支援して援 軍を祇兵すれば、戦争終結後、中圃が力を以てシャムの抵兵を問責し、介入してくる道をひらく恐れがあると考えられた。 [ そ う な れ ば ] フランスが軍艦を抵遣して防衛に嘗たる一方、軍艦を保有し中園周遺海域の防衛に嘗たっているイギリス、 アメリカなど諸大国がフランスから権力を奪おうとして介入することも珠想され、民や商人の聞に恐怖と混乱を生じさせ ることも懸念された。加えて、シャムの領域内の各地に居住している中園人も、すでに秘密結枇にかかわっており、 さ ら につけあがって問題を起こす恐れも指摘された。 以上から、シヤムが中国の﹁属国﹂ ( E E ロ m r r E ) ではないと表明するという一貼において利は認められでも、抵兵の 結果生じる多岐にわたる問題を考えれば十分ではないとの判断を下した。 やはり中固との閲係を軸にして、 ( 日 ) フランスに封する援軍祇遣を否定する議論を展開したのは園王の賓弟パ

l

ヌランシ

l

親王であった。 これに封して、すでにシャムは濁立園であることは明確であるという立場にたちつつ、 親王は、今回フランスがトンキンを獲得してベトナムを統治すれば、これを阻止せんとする中圃と戦争が起きるであろ うとしながらも、これを、﹁以前からの中固との関わりごと [朝貢]を水に流し、勢少なくしてフランスと親密さを深め られる好機﹂とみなし、シャムに五

O

O

の援軍祇兵を要請するアルマンの言い分については、以下の理由をあげて、員の 利盆があるとはいえないとした。 まず、中固との関係については、シヤムがすでに中固との関係を断ち、濁立園であることは明白であり、また大固たる 諸外国とも封佐一寸な友好関係を結んできたことを指摘した。そして、中園による進貢再開の要請にも断固抵抗したことは諸

(8)

外圃の目にも明らかであり、なかには、中固とはすでに閲係がなくなり、シャムは異の濁立固であることを言葉で表明す ( 比 ) る園もあることから、そもそも濁立していると考えるべきであると強調した。 績けて、今回フランスに援軍を祇遣すれば、 フランスは本音に中国に勝つであろうから、専ら得るところばかりと思わ れ る が 、 しかし得られる利は将来の損失に比して十分ではないと懸念を示し、次の問題を指摘した。まず、シャムと、 フ ランスを支援して参戦するとされたイギリスや日本とを同様に考えることはできないという酷であった。イギリス、日本 はともに協力するにふさわしい大圃であり、かつ雨園はすでに中圃と戦った経験があるのに封し、シャムは、これまで一 度も中固とは戦争に至る争いごとを起こしたことがなかった。この知から生じる損失を考えると、今回フランスに援軍を 振 遣 す れ ば 、 いわば史上初めて中園と戦うということに等しく、非常に重大であると考えられた。 つまりシャムが先に戦 いをしかければ、すでに進貢をめぐって問題を抱えているうえに、さらに恨みをかい、これをさまざま口賓に使われて、 困難な事態に陥ることは克れないと珠想された。加えてフランスや他の大固たる友好園が、今回のタイのフランス援軍祇 遣のように、何の利盆も得られないにもかかわらずタイを敵から防衛するはずもなく、シャムの損失になることは確賓だ ろうとの確信も示している。 こうしてフランスへの援軍抵兵に反封する一方でパ

1

ヌランシ

1

親 王 は 、 ベトナムとの関係にも言及した。まず、先に チユラ l ロ ン コ l ン王がアルマンに釘してベトナムを援助することがシヤムの利盆となる可能性を示唆したことを引いて、 フランスとの友好を損なわない一つの選揮として、ベトナムとの境界域を防衛すべく祇兵する可能性について検討した。 ( ロ ) しかし、陸路で国境地域に祇兵すれば大騒ぎとなり、情勢が落ち着かない東方の地方園

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5

3

口 c r ) において また何か事件が起きる可能性もあると判 r 断し、まずは静観し、何か警戒すべきことが突護すれば、シャムを敵から防衛す べく、兵力を整備・増強するよう提案した。 73 さらに、知恵才覚に富む人物を高等静務官としてバンコクから東方の地方固と﹁朝貢圃﹂(吉田己

5

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)

に祇遣して情報

(9)

74 収集にあたらせるか、またはベトナム、 ク メ

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ルとの境界域、近くの地方固主や朝貢園王に封して、心して統治にあたるよ う教え識す丈書を護布するよう提案した。またフランスが中園、 ベトナムと戦い、 フランスとの聞に悶着が生じた結果、 ベトナム人やクメ

1

ル人がシャム側の領域に逃げこんでくる事態に至れば、事は重大であり、治安を維持し情報牧集に努 め、バンコクに報告させるように封策を講じる必要性も提案された。そして畢兵して鎮墜すべき事態に至れば出兵すべき だと主張した。 上記のごとき詳細な検討の後、最後にフランスに封する回答案を提案した。﹁タイ側はフランスを助け、 より緊密な友 好閲係を築きたいと切に願っている﹂ことを最初に述べたうえで、﹁今回のトンキンにおけるフランスの戦いはそれほど 大きな困難にはみえず、また長引くとも思えない﹂ことを指摘し、﹁したがってタイは、 ベトナム方面の統治に協力し、 もしベトナムがタイと境界を接する地域において何か事件を起こすことになれば、 タイは高事堅固にきちんと措置する﹂ ﹂とを言明するというものであった。 パ

l

ヌランシ

l

親王が上記上奏書を提出した同じ日(六月二十七日)に、昔時マハ

l

タイ卿の職にあったマハ

l

l

( 国 ) ( げ ) ラ l 親王と十名の王弟も、同じく援軍の祇兵は多くの損失を招くとした上奏書を連名で提出した。 根擦として第一に指摘された問題は、 ベトナム、中国との闘係であった。まず、 ベトナム、中固とシャムは、たとえ相 互に修好係約を締結せずとも、これまで敵封したことはないという前提が確認され、﹁これまで一切約束を破るという罪 を犯したことのない﹂ベトナムと中固に釘して危害を加えるべきではなく、またいたずらに民を苦しめるような行矯はな すべきではないと主張された。 次に、今回フランスへの援助は、固王の権威護揚や、園そして民にとっても何の盆にならないことが指摘された。たと えシャム軍が活躍したところで、 フランスが中園に勝利したのはシャムの援軍のおかげであると考えるものは誰一人いる はずもなく、利盆はないと断じた。また、中園との闘係においても、シャムはすでに存分に利盆を得ており、雨園の闘係

(10)

はこれ以上のものを望めないほど良好であるという現状認識に基づき、たとえ最終的に講和係約中に名が刻まれ、中園が ﹁タイを中固に服従する固とはみなさない﹂と篠約中に記すことを認めたとしても、 さらなる利盆は得られないと考えら れ た 。 第三に指摘された問題は、園王の権威、園盆を損なう恐れであった。なぜならば、今回フランスに援軍を汲遣し名を連 ねたところで、﹁タイはフランスの権力を恐れ、あるいはフランスの強制に抵抗する勇気がなかった﹂と理解されるに違 いないからだと述べる。しかもフランス政府は、新聞紙上で、中圃の戦争にベトナムが援軍を祇遣しないことを根擦にし て、ベトナムは中園の属国ではなかったと主張しており、今回フランスに援軍を抵遣すれば、 アルマンの謀略に乗せられ、 シャムがフランスの属園であると世界中に示してしまうことになろうと警告した。 また関連して、友好関係の下での戦時における相互扶助ということであれば、ヨーロッパ諸園の例にしたがって、﹁ォ ( 路 ) フェンシブ・アンド・デイフェンシブ・アライアンス﹂と稽する僚約を締結するべきであり、ただ請われて援軍を祇遣し たのでは、多岐にわたる損失を被るであろうことも、 いくつか具樫的なポイントをあげて指摘された。そこでは、イギリ スが疑念を抱くであろうこと、そして参戦した軍が愚鈍で臆病な様子を示せばシャムの﹁腕前﹂が知れ渡ってしまいフラ ンスの態度がさらに大きくなることにも懸念が示された。また中固とフランスが講和係約を締結する場合、 フランスが思 い通りにその草案を作成するであろうし、シヤムが中国から離れたとしても、 フランスにより近づくことになればもっと 恐れるべき事態であるとの注意も喚起された。あるいは、さもなくば、中園が(敗北して)シャムを濁立固とみなせば、 他のいずれの固も(現在のシャムの)友好固と同様に外交使節を抵遣してシヤムにおける中国の利益を自らの下に保護し、 ( 日 ) (中園に)困難を輿えるような形で統治を饗更させることになれば、恨みや争い、危険を招くことも珠想された。 トンキンへの援軍一点遣に反釘を表明したが、提言はそれにとどまらず、もし本首 こうして種々の候件を検討した結果、 75 にフランスがベトナム、中園と一戟を交えることになり、シャムの領域にも影響が及んだ場合には、これまでの慣行にし

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76 たがって、軍を固境地帯に抵遣して防衛にあたる必要があると指摘している。その理由として、東側の境界がベトナム、 中園、トンキンの領域と接し、固まれているため、何も事件が起こらずしても、多数のベトナム人や中園人がフランスか ら逃れて王園の領域に入ってくる可能性があり、こうした流入者は、食うに困れば強盗と化さざるを得ないことが指摘さ れた。またフランスから逃れてきた人々を、追跡してきたフランスに引き渡さなかったり、国境で追い返さなければ、争 いの種、非難の的になることも懸念された。さらには園境地域周遣のラ l オ人に封して、 フランスが扇動して事を起こさ せたり、言いがかりをつけたりすることも考えられ、﹁慣行に無知で針慮の仕方を知らないラ

l

オ人﹂が編され、 より大 きな問題へと接大する可能性もあった。そこで軍を抵遣し、 ラ

l

オ人の動向をチェックするとともに、中国人やベトナム 人の逃亡流入に備えた固境地域の関門の警備強化を強く提案した。 さらには、国境地域の警備・治安維持のためのバンコクからの祇兵は、相互の境界が重なり合いはっきりしない地域に お い て 、 フランスと国境を分割するに際しでも、より明確で確賓な誼擦を示すことになるとも指摘した。また、 フ 一 フ ン ス との丈書のやりとりを固滑にし、かつラ l オ人が内緒でフランスの敵に武器や食糧を供興することを阻止し、またフラン スの敵が隠れて再び力をつけフランスを攻撃しないよう後方警備にあたることにもなれば、 フランスを助けることになる とも説明している。 こうして中園であれ、 ベトナムであれ、どの圃からも各められない防衛に徹した園境警備のための抵兵を提言した。そ し て 、 フランスに針する回答としても、拒絶でも受諾でもなく極力協力を表明することとし、シャム側の軍の動きをフラ ンスに知らせ、問題が生じる可能性があれば協議をするように要請すれば、何か事を生じさせる口賓をフランスに輿える ﹂ともないと説明している。 結局チユラ l ロ ン コ l ンがアルマンにいかなる返信を迭ったのか、管見の限り不明である。だが、 ( 鈎 ) の援軍汲兵は賓現しなかった。 いずれにせよシャム

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清 朝 に よ る 朝 貢 再 開 要 求 と シ ャ ム f、、

、、ノ 李鴻章による朝貢再開要求 以上、清悌戦争におけるフランスへの援軍祇兵の是非をめぐるシヤム側の議論からは、朝貢関係、伎に戦勝国側に名を 連ねた場合に理想される情勢、園内の中圃人の動向など、 フランス側の提起を受けて、中圃との関係に封する影響がさま ざまな角度から考慮されたことがわかる。加えて自らの園境地域の治安維持と密接に関係するベトナムとの関係を重覗し ( 引 ) ていたことも注目に値しよう。武力による勝敗や倹約閲係には容易に還元しがたいこれらの要素を勘案しつつ、隣接する 地域も含めて白園の安定をはかる遁を模索していた様子がうかがえる。 一八五二年に抵遣した朝貢使節が、太平天園軍とみられる暴徒に襲われ死傷者をだしつつ蹄園して以来、シャムは清朝 それでは賓際中固との闘係とは、首時いかなる拭況であったのだろうか。 に朝貢しなかったが、このことをして直ちに、シャム、清朝ともに朝貢閥係の終罵と認識していたことを意味するわけで はなかった。清朝側は、その後も治世の饗わり目等の機舎に朝貢再開を要求し、他方シャム側もチユラ

1

ロ ン コ

1

ン 王 の 即位に際しては、天津経由へ貢遁を饗更したうえで朝貢の意思が一不された。清朝からの要請があるたびにシヤム側では、 朝貢使節祇遣の得失について異剣な議論が交わされ、明確な拒否でも受諾でもない返答が模索された。しかしシャムから ( 沼 ) 要請された天津経由への貢遁の饗更は認められず、結局朝貢は再開されなかった。 この交渉過程の中で、とりわけ一八七

0

年代末から一八八

0

年代前半にかけて、中園側の強硬な姿勢がシャムに脅威を 感じさせることになった。シャムとベトナムを管轄するという慶州の役人(宮口片山口本港)による一八八一年から翌年にか 77 けての進貢再開要求は、慶州から祇遣された使節に封する歓待やシャムから、さられた丈書の形式などについて、シャム側

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78 ベトナム、および琉球、朝鮮への軍事的介入も示唆した。しかし、 ( お ) これに封して、シャム側は書簡の拝受を知らせ、短い返信を迭るにとどまった。 の非植を強く非難し、 かつフランス、 日本に封抗して、 その後一八八四年五月下旬には、直隷線督・李鴻章のム叩を受けて、 ウ ン ・ チ ヨ ン ・ ガ ン ( ピ ロ ( リ r o ロ m Z 山 口 調 宗 彦 ) と 稽 する役人から、進貢を催促すべくシャムを訪問する意思を停える書簡が届いた。四月二十六日附のその書簡は、五月二十 七日にシャムの封中園開係と中園人コミュニティを司った港務局左部(FOB

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)

を統括したプラヤ

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ド ウ ( 剖 ) ツクラ

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チヤセ

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等によってタイ語に課され、翌二十八日、園王に上奏された。 そこではまず李鴻章の命令の内容が紹介され、逗羅園は二

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年絵りにわたり北京の都の朝貢圃であり、慣行として進 貢しなければならず、敬意を以てそれを遵守してきたが、成幽豆帝の治世に至り、園務多忙で通行も乱れ、以降久しく貢を 克れることになったと述べられていた。そして、 しかしながら、異誠なる近隣の圃々は[進貢を]準備手配すべきであり、 慣行はまだ費更されてないと指摘し、朝貢を待つ旨が改めて記された。さらに、温宗彦がシヤムを訪問することが惇えら れ、最後に固王および役人に封して慣行を守り朝貢するよう再度促した。 また同じくプラヤ l ・ チ ョ

1

ドウツク等によってタイ語に課された四月二十六日附の温宗彦の書簡がもう一通添えられ ( お ) ていた。その内容は、やはり李鴻章の命令により、成豊帝の時代に道程に支障が生じて中断した朝貢の再聞を要求すると いう主旨であった。そして滞在していた慶州から書簡を迭り、まずはシヤムの封磨を促していた。 これに釘して、シヤム側は温がいかなる人物であるかを探った。チャオプラヤ

l

・ パ

l

ヌ ウ ォ ン は 、 一八六九年および 一 八 八 二 年 に 、 チークの買い附けのため幅建から祇遣された使節の中にこの人物が含まれているかを調べ、この中には名 前が見首たらないこと、そしてこの二回の使節抵遣の目的はチ

1

クの買い附けであって朝貢再開の要求はなされなかった ( お ) ことを確認し、六月二十四日、国王に上奏している。ちなみに、李鴻章の朝貢要求を惇えたこの温宗彦という人物は、 八七九年末に、 やはり李鴻立早から命じられて、駐シンガポールシャム領事・陳金鐘を通じてシャムの中園人に接鰯し、輪

(14)

( 幻 ) ( お ) 船招商局への投資を募った人物であった。この件は園王に上奏されていたが、この一件と今回の朝貢要求との閲連につい てはとくに指摘はなされなかった。 f、、

、、ノ テ

1

ワウォン親王とア│ネスト・サトウ ( 羽 ) 他方、首時国王の個人融書であったテ l ワウォン親王は、この李鴻章からの朝貢要求を、駐ヨーロッパ領事としてパリ

( ω )

に滞在していたプリッサダ l ン親王に迭るとともに、六月初めにはこの書簡をもって、首時競理公使としてバンコクに駐 在していたア

l

ネスト・サトウを訪ねた。その様子をサトウは六月二日附の日記に次のように記録している。 [ テ I ワウォン]があらかじめ拘束してあった面舎にきた。彼は中国語の書簡を示してみせた。そこに 午後テワン はかつての朝貢要求が復活されていた。四月二十六日附で五月二十七日に届いたという。彼らは、バンコクの許可な くして軍人が通行することを拒否すべく、警備艇を[チャオプラヤ l 川河口の]浅瀬に配備し、錨鎖でつなぐという。 これは中園の軍艦が到来することを警戒しての議防措置であった。どうしたらこれを遵守させられるだろうかと訊ね ( 乱 ) られ、諸国の領事に知らせ、これを本国に惇えるよう要請することだ、と答えた。 その後六月六日にはサトウの方からテ

1

ワウォンを訪ねた。 テ

1

ワウォンは、温からシャムの中園人の長に宛てた朝貢 を要求する中国語の書簡の寓しをサトウに渡し、またシャム側からの返信のコピーを英語後サトウに迭ることを約束した ( 幻 ) と い 、 っ 。 そして六月十日、サトウはグランヴィルに宛てて、シヤムを朝貢固とみなす上記李鴻章からの書簡の内容を紹介し、中 固からの朝貢再開要求とシャムが中園を軍事的脅威として強く警戒している様子を詳速した。日く、 これらの書簡の寓しは、園王の私設秘書を務めるテ

l

ワウォン親王から私に示された。同時にテ

l

ワウォン親王は、 79 シャム政府はこれまでと同様、進貢であれ、それ以外の候件であれ、完全に封等な僚件でなければいかなる交流の再

(15)

80 聞も断固として磨じないと述べた。また前回中園使節が訪問した際[一八八一年]、次回の要求時には軍艦を抵遣する ( お ) と脅したことから、シャム政府は彼が砲艦を伴って訪問するのではないかという危倶を抱いていないわけではない。 テ

1

ワウォンは、﹁李鴻章が二年前に朝鮮において成功をおさめた政策と同様の政策をシヤムに封して採用したいと考 えることもありそうな話である﹂と考えていたが、シヤムはいかなる威嚇にも強く麿じると述べ、また、圃王がメナム [ チ ヤ オ プ ラ ヤ l ] 川河口の浅瀬沖に軍艦を配置し、 いかなる中園の軍艦も通過を拒否する構えであり、 さらには河口を入 ったところの城砦もあわせれば、どのような威犀にも抵抗できるだろうとサトウに停えたという。また、現行の諸外国と の候約では、軍艦はチヤオプラヤ l 川河口を入ったパ l クナ I ムで一旦停泊して許可を得てから遡行することを義務附け ていたが、シャム園王はこれを河口の外側の浅瀬で停泊させて許可を求める形に改めたいと希望していることもテ 1 ワ ウ ( 出 ) グランヴイルに報告されている。 オンから惇えられ、 他方、西洋列強と同じ平等な立場でシヤムと中園が候約を結ぶことについては、中園政府がシヤム圏内の約一五

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高人 の中国人にかかわる治外法権を主張する可能性をサトウが指摘したのに封し、 テ

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ワウォンは、雨園の慣行はよくにかよ ( お ) っていて、その必要性がないことから、中園は領事裁判権を要求しそうもないとみていたという。 六月十二日、中園の要求に封するシヤム側の返信の草案がサトウに届けられた。サトウ日く、その文面はそっけなく要 貼を記すものであったが、翌日、訪ねてきたテ l ワウォンに封してサトウは中国語の誤りを指摘して返却した。サトウに よ れ ば 、 テ

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ワウォンは、中園への朝貢問題に閲して、シヤムは封

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を受けたことはなく、亡くなった前園 王が、書簡の中園語諜において貢[吉

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という言葉が使われていたことを一八五七年頃に鷲見するまでは、輸相物 [ 司 耳 目 巴 ω ] が貢

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とみなされるという認識はなかったと述べたという。このことに加え、朝貢使節のメンバーが 太平天国軍によって殺害されたことにより、シヤムは使節の祇遣をやめたと説明したとのことだった。また候約を締結す ることについては、たとえ領事裁判権を認めずとも、多数の中園人が領事の保護を求め、深刻な危険となりうることを指

(16)

摘したサトウに封して、 テ l ワウォンは、中国人の秘密結枇は現時貼で完全に沈静しているが、二年前は憂慮すべき事態 ( お ) であったと指摘したという。 同日サトウがカリ

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に宛てた書簡には、シャムから中園に宛てた返信の草稿は簡にして要をえたも のであると述べられ、また中固からの書簡は、正確な(英)講を作成させるために香港に逢ったことも報告された。さら ( 幻 ) に中国政府に封してシャムに介入すべきでないとそれとなく停えたほうがよくはないかとも問いかけている。 一連の検討の結果、シャムは、。フラヤ l ・ チ ョ l ドウツクから温に返信を迭り(六月十七

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附)、シャムの大臣は中固と の友好を望んでいるものの、朝貢については中国側の意に添えないことを停え、これまでも繰り返しその旨指摘したにも ( お ) かかわらず合意に至ることができず、諸外国と同様に修好使節が祇遣されないことに封して遺憾の意を示した。 鄭 観 麿 の シ ヤ ム 訪 問 李鴻章による朝貢要求に封するシャムからの返信が送られた直後、今度は李鴻章と彰玉麟の命を受けて、シャムがフラ て 、 ンスに援軍を祇遣するという噂の員俄を確認すべく、鄭観麿がシャムを訪問する。香港からサイゴン、シンガポールを経

( ω )

一八八四年六月二十四日、バンコクに到着し、七月五日に護つまで十日間飴り滞在した。 ちなみにこの鄭観躍の訪問については、鄭観麿が著した

( ω )

れている。これに封して、シャム側の記録に基づく研究は、管見の限り皆無と思われる。その背景には、シャムにおいて ﹃南遊日記﹄などの史料に基づき、中国史研究者により検討さ 鄭観躍は正式な外交使節として扱われず、まとまった形で記録が残されなかったという事情もあるだろう。しかし駐シン ガボ I ル・シャム領事の記録や、バンコクの外務役人の記録、国王への上奏丈の中には、断片的ながらシャム側の封庭を (HU) 示す史料を見いだすことができる。先にフランスの援軍抵遣提案に釘しては否定的反躍であったが、果たして鄭観麿に封 81 してはどのように封麿したのか。シャム側に蔑されるタイ語史料から探ってみたい。

(17)

82 一八八四年六月十九日、鄭観磨は、 ぺー・ゲツク・リン q F 2 H A m o r F E 彰玉麟)の書簡二週を携えてシンガポールに到 ( 必 ) 一通は駐シンガポール・シャム領事タン・キム・チェン 2 2 E E h r o E m 陳令鐙)に宛て、ベトナ 着した。彰の書簡は、 ム、カンボジア情勢が混乱しているため、鄭観麿を祇遣することを惇え、協力の協議を依頼するという内容であった。も う一通は、彰からの密室日で、外部勢力がベトナムを併呑し、プノンベン(金遺)にも迫ろうとしている危機的状況を説明 し、隣園であるシャムに封しでも勢力掻大の危険が迫っていることを強調し、警戒と賢明な封麿を要請するものであった。 そして海域の統治を捨首する立場から、駐シンガポール・シヤム領事である陳金鐘を介して鄭観躍を祇遣することを惇え、 北京の皇帝の諸圃に封する慈愛の念もひきつつ、こうした大事について大臣を召集して封麿を協議するようシャム園王へ ( 必 ) の上申を要請している。 翌六月二十日、陳金鐘は、外務卿チャオプラヤ

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ヌウォンに宛てて鄭観磨を紹介し、彰玉麟の書簡の内容を要約 して停える書簡をしたため、鄭観磨が携えてきた彰玉麟から陳金鐘に宛てた書簡の寓しとともに、バンコクに向けて出護 する鄭観麿に託した。 陳 金 鐘 は 、 チャオプラヤ

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ヌウォンに宛てたその書簡の中で、鄭観麿を E(U} 口 出 向

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と説明し、訪問の目的を、李鴻章と彰玉麟の命により中園とシヤムとの友好関係に 闘する調査と記した。また鄭観麿が携えてきた彰玉麟から陳金鐘に宛てた書簡の内容を要約引用し、李鴻章・彰玉麟とも に両国の懸案事項である朝貢の催促は意園していないことを明記したうえ、今回の目的はシャム政府が、依然として中園 との友好を望んでいるか否か、およびシャムがフランス政府と親密でありフランスに協力するという噂の員備を確認する ためであると説明した。そしてフランスが再び境界について中園を煩わせる可能性があり、 ラ

1

オの地方園が中固との境 界地域に接しているシャムとの友好関係を希望している旨が記され、陳金鐘をしてシャムの員意を探るようにという彰玉 麟の依頼があったことを惇えた。加えて鄭観醸が自らと親しい間柄でバンコクにある陳金鐘の精米所に宿泊する議定であ

(18)

ることを知らせ、また、鄭観庭を李鴻章および彰玉麟のお気に入りとして、朝貢を要求した温宗彦と封比させた。そして、 ( 叫 ) 陳金鐘自身も、シヤムが中園に封して好意的な姿勢を示すよう強く希望している旨も示された。 またこの書簡とは別に外務卿チヤオプラヤ

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ヌウォンに宛てて、鄭観麿を紹介する短い書簡を記し、シャムと中 ( 羽 ) 固との友好関係の調査・確認という目的を繰り返し述べつつ、好人物であることを強調し、丁寧な麿封を求めた。 鄭観一燃は、これらの書簡を携えて同月二十四日にバンコクに到着した。バンコクでは陳金鐘が所有する精米所に宿泊し、 チヤオプラヤ l ・ パ l ヌウォンも、滞在中自由に使用できる車を提供して便宜を園った。書簡はいずれも、翌二十五日、 中国人コミュニティの統治を捨首していた港務局左部

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ヌウォンは、鄭観躍の訪問と彰玉麟および陳金鐘からの書簡の内容を、園王と諸大臣に報告した。 チヤオプラヤ

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ヌウォンに﹁タイ政府は、これまで久しく友好関係を結んできた中 ( 釘 ) 園政府に釘して、依然親愛の念を抱きつづけている﹂ことを、陳金鐘に知らせるよう命じたという。また、彰玉麟が鄭観 これに封して、圃王と大臣は、 一階に員備を確認させようとしたシャムがフランスと親密な闘係にあるという障については、 フランスと友好関係にあるこ とを認め、中園と一戦を交えるにあたりシヤムに封して協力を求めたことは事買であるとしたが、祇兵は次のように否定 し た 。 今回彰玉麟氏が鄭観磨氏を一淑遣して捜査させた中固において障されるシャム王国がフランスと親しいという貼につ いてであるが、シヤム王国がフランスと友好関係にあることは、あなた[陳金鏡]も首然ご存知のことであろう。 今回フランスが中国と一戦を交えんとするにあたり、 フランスの封中園戦に協力するようシャム政府を勧誘するも のがいたことは本嘗だ。しかしシャム政府は永い聞績いてきた中固との友好関係に鑑み、このフランスへの闘輿協力 83 を受諾しなかった。シャム政府が望むところは唯一つ、国を治め、商人が安寧幸一帽を享受し卒程を保てるよう支援す

(19)

84 ることである。シャム政府は、過去に一度もシヤムに危害を加えたことのないいかなる固に封しでも、危害を加える ( 必 ) 意思はない。ただし例外として何者かが危害を加えれば、強固に園を防護することもやむをえない。 陳金鐘は、七月十日、 チヤオプラヤ

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ヌウォンに返信し、その中で、 バンコクからシンガポールにもどってきた 鄭観躍に封して、固王の見解も含めてパ l ヌウォンの書簡の内容を停え、シヤムが中国に封して常に親愛の情を抱いてい ることを強調した旨を知らせた。またそれを、つけて鄭観磨が彰玉麟に書簡を送ったことをパ

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ヌウォンに報告するととも に、これに針して中国側が如何に考えるかは不明であるとも述べ、 ( 羽 ) その員意を探るつもりであることを惇えた。 フランスと中固との事態が落ち着いたら中固に赴き、 陳金鐘はまた同日附で英丈書簡をテ

1

ワウォン親王にも迭り、鄭観躍が今回のバンコク訪問について陳金鐘に逐一報告 し、とりわけテ l ワウォン親王との曾見には満足の様子であったことを惇えると同時に、中国とシャムとの関係について ( 印 ) 自らの見解を示した。すなわち、彰玉麟の命を受けた鄭観磨は、李鴻章に朝貢を要求するよう命じられた温宗彦と異なり、 朝貢要求を目的として来訪したのではないことを再度連べるとともに、鄭観麿自身はシャムをピルマとともに中固と同盟 させることにより雨園を強化し、中固との境界・フロンティア地域の安全を確保したいと考えていたことを指摘した。そ してテ

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ワウォンに封しでも中固との関係強化について改めて考えるよう勧めた。 しかしその一方で、鄭観麿が﹁貢﹂について言及したことを、つけて、陳金鐘は朝貢についてさらに踏みこみ、天津経由 であればよしとするのか否かも含めて、シャム政府の明確な見解の提示も要請している。中園の強い犀力に屈してシャム が朝貢を再開した場合、シャムにとっても陳金鐘にとっても恥

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自己となることを恐れ、シャム圃王の恥、すなわち 自らの恥とならない適切な封躍ができるよう、近い将来自ら中園を訪れる可能性も示しながら、この問題に封廃するため のより具瞳的な指示と情報の提供をテ

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ワウォンに仰いだ。また、車なる善意や友好の表明だけでは十分でないと考えて いた陳金鐘は、イギリス、 フランスの聞におかれ、シャムの将来のために、中固との友好をないがしろにすることは得策

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ではないと主張した。またこの貼について鄭観庭とも議論し、鄭観磨もまたシャムとの友好が中園にとって利盆になるこ とを認めていたことも惇え、雨園の闘係強化を望む言葉を繰り返した。 他方、バンコクからシンガポールに戻った鄭観磨は、 ベナンに赴いた後、再び七月二十一日にシンガポールに戻り、翌 日テ

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ワウォン親王に書簡を迭った。プラヤ

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ドウツクがタイ語に課したその書簡は、バンコクで曾見したテ

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ワウォン親王に封して敬意を表する言葉に始まり、シンガポール到着を報告するとともに、到着後彰玉麟から情報を得た フランスに封する批判が高まる中圃の様子を惇えた。またフランスはさらにカンボジアを獲得し、 いよいよシヤムを攻撃 しようと武器を蓄え準備を進めていると警戒も呼びかけた。サイゴン、 ト ン キ ン 、 そしてカンボジアを奪い、ビルマとも 通商係約を結ぼうとしていると指摘して、不正不賓を働き、飽くなき欲望を追究しようとするフランスを強く批判し、国 境を接するシヤムにも危険が迫っていると強い危機感を表明した。そして現在は領土争奪の時代であると述べ、 フランス の統治を受け入れることをよしとするか戦うか、シヤムが中国の助力を受け入れないとしたらどうなるか、急ぎよく協議 するようにと迫り、残るはシヤムのみであり、大園の下に入り威風を得て自らの立場を確かにしなければ、周遺小園は ( 日 ) ヨーロッパ人に奪われ、恐ろしいことになろうと警告した。 鄭観麿がフランスの脅威を強く訴える直前、すでに一八八四年七月初めには、シャムにおいてもフランスがカンボジア を領有したというニュースが流れ、その員俄をバンコクに駐在するフランス領事に確認したところであった。もし本首で ( 臼 ) フランス領事はこれを否定した。 あれば一八六七年のフランスとの候約違反であるとして危機感を募らせたシャムに封し、 しかしシヤムはその後も、清悌戦争の拭況の把握に努めると同時に、 ( お ) 集を績けた。 ベ ト ナ ム 、 カンボジアとの境界地域について情報収 85

(21)

86 四 プ リ ッ サ ダ

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ン 親 王 の み る 清 悌 関 係 と シ ャ ム 一 八 八

0

年 代 牛 ぱ 、 パリに駐在して清悌の動向に注目しながら、讐方と接輔・交渉していたシャムの外交官がいた。。フ リッサダ l ン親王である。プリッサダ l ン親王は、﹁一八七六年に郭嵩震をロンドンに祇遣した中園のむこうをはって﹂、 駐英シャム領事メイスンに代わり最初のタイ人常駐外交代表として一八八一年にロンドンに駐在すべく祇遣された人物で、 ( 日 ) 一八八三年以降はヨーロッパ大陸諸国を管轄する公使としてパリに駐在していた。 一八八四年七月十一日、プリッサダ

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ンは、李鴻章が朝貢を要求してきた書簡の寓しを受け取ってテ

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ワウォン親王に 宛てた返信で、朝貢要求について、主戦抵が権力を握り再びシャムへの匡力を強めようとしていると位置づけ、清備の争 いの展開を追いつつ次のように述べた。 もしタイが堅固に園を統治できれば、中園の進貢催促はまったく憂慮する必要はない。現在中園は他園と戦うに十 分な力はないはずだ。またフランスが中国に封して[タイに]進貢を催促するようそそのかすことについては、雨者 は争いの最中であり、中固と [フランスが]共謀する機舎はまだない。中園はフランスを東の園々を抑墜することが できる強大固として隼重せず、 いまだタイを中国の属国にしておこうと考え、 フランスにタイを獲得させるすきをつ くろうとも思っていない。 進貢の問題は、絶釘に認めることはできないと考える。力の限り戦うべきだ。中園はわれわれの固にきて戟わねば ( お ) ならないだろうから、封抗可能だろう。 績けて軍備強化について、まだわが園は平穏なので、武器を購入し準備を整える機舎があるとも述べ、清悌戦争直前に 中園がドイツに戦艦を注文したにもかかわらず、戦岡勃護後ドイツがこれを引き渡そうとしないとして、戦争の勃護、あ ( 同 ) るいはその障だけでも武器購入が困難となる可能性があることを指摘しながら、準備を整える必要性を訴えた。

(22)

また李・フルニエ協定後再び衝突に至った清悌の争いにも言及し、中園がフランスとの候約を破棄してフランス軍と一 戦 を 交 、 ぇ 、 フランス人軍人を殺害したことを、シヤムの領域に困難を奥えようとした中国をフランスが壊滅させようとし ていることは、圃王の御威懐であるとも述べている。 つまり中国がフランスと再び騒動となることにより、シヤムは外的 危険から逃れるために王園を防衛する準備を整える時聞ができることから、今回の軍事衝突護生を喜ばしいことと受けと め、シヤムの敵たる雨園が生死をかけて衝突すれば、国家統治を整備し、雨方の敵から身を守る方策を考え賓行すること ( 日 ) ができるとみていた。 そ の 後 、 フランスが中固と篠約を締結してトンキンを保護固にしたうえ、 カンボジアも属固としようとしているという ひき績きフランスのカンボジアに封する動きについて情報牧集に努めることを七月 ( 同 ) 十八日附書簡でテ

1

ワウォンに惇えている。その一方で、中固との戦いがまだ終結せず、中国の反撃の可能性がある中で、 ニュースが入り、。フリッサダ

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ン は 、 フランスはシヤムを刺激したくないと考えている、だろうとも指摘し、さらに、軍備を整えるシャムの動きは中園に備えた ( 的 ) ものであるのに、事情を知らないものはフランスを恐れてのこととみているとも述べている。まもなく、中園からの朝貢 要求がそれほど深刻な脅威ではないという知らせがバンコクから届いたが、引き績き周到に軍備を整えるにこしたことは

( ω )

ないという見解は費わらなかった。 プリッサダ

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ンはまた、こうした釘中国関係の文脈のなかで日本にも言及し、まずは日本に使節を祇遣してヨーロッパ 諸圃と同様の候約を締結する機舎を求め、それから中固と候約を締結しようという園王の考えに賛意を表した。そして、 かつてベルリンで曾見した日本の公使が、東方の園々はバラバラでまとまろうとしないと批判したことを紹介しつつ、 ( 引 ) ヨーロッパに従って慣習を饗更した日本と同じ道を歩むことを勘めた。 こうして特に中園を警戒しつつ清偽情勢をパリで追っていたプリッサダ

1

ンだったが、十一月半ば、 ク メ

1

ルが悌領に 87 なる恐れが高まると、 フランスに封する危機感を募らせた。そうなれば園内のクメ

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ル人もフランスの保護下に入るので

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88 はないか、またクメール人のみならず、 タイ人でさえも、公正な待遇が受けられねばフランスの下に入るのではないかと 強い懸念を示した。フランスの旗の下におかれることにより利益を得られるとしたら、みなそれを望み、シャムの統治者 ( 似 ) は多大な困難に直面することが珠想された。そして、とくにシャムの地で生まれ育ち生活し、その行政組織に所属してき フランスが備の﹁サブジェクト﹂としてしまうことがないようにと強い姿勢を一不し、このような ( 悩 ) 問題を回避するためにも公正なる統治の貰現を訴えた。 たタイのクメ

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ル 人 を 、 む す び に か え て 一 八 八

0

年代竿ばにおけるシャムの封仰・封清闘係からは、シャムが、中固との関係、 およびベトナムと接する境界地 域、そしてシャム内の中国人コミュニティの安定に、常に強い関心を注いでいた様子が一不される。 フランスの援軍抵兵要請に封する封懸からは、 ベトナムと中園との闘係は、圏内の統治や秩序維持とも直結して無頑で きない存在であり、むしろフランスに先立ち勘案されるべき存在として位置づけられていたともいえる様が浮かびあがる。 いわば武力で切り込み、保約で清算するという戦略を以て、歴史的に培われた地域間関係に介入しようとし フ ラ ン ス は 、 たといえるが、中固とたとえ朝貢をめぐってぎくしゃくしていたとしても、かたや現賦において交易などからの利盆が得 られ、かたや園内に多数の中園人を抱え績けることを考えれば、混乱を招き、将来へ禍根を残しかねない力ずくの封麿は、 シャムにとっては好ましくはなかった。また、 ベトナムとの闘係修復も、植民地化という丈脈において結果論として外交 的成果はなかったという評債は可能ではあっても、少なくとも同時代におけるシャムの認識では、近隣地域の安定を固る 上で現賓的な重みをもって受けとめられ、封併交渉にあたって一つの根擦を提供していた。 かといって、シャムが中園に封してより積極的な関係を追及したかといえば、そうではなかった。軍事的介入さえ件い 乗ねない清朝からの朝貢再開要求は脅威としてうけとめられた。そして、断固拒否する方針が一不されながらも、表向きは

(24)

明確な拒絶の表明ではなく、友好関係の強調という形で封麿せざるをえなかった。またこうした医力の前には、倹約の締 結や軍事協力に釘しでも警戒せざるをえず、むしろイギリスを巻き込みつつ中園の匪力に封鷹しようとしていたようすも うかがわれる。 加えて、こうした中、シャム・中園共に複数のチャネルを活用して、接鯛・交渉を試みている貼にも着目したい。温も 鄭も、李鴻章がその設立以来深く関わっていた招商局に所属しており、李鴻章は政治的チャネル(朝貢)と経済的チャネ ルを、使い分け、あるいは重ねあわせながら、封シャム交渉を試みようとしたとも考えられる。これに封してシャム側も、 駐シンガポール領事・陳金鐘を介在させ、情報収集と交渉にあたらせるなど、中国人の交易チャ、ネルを利用した一方、こ うした介在者自身の判断や交渉の徐地も大きかったと思われる。 さらにこうした朕況において、清仰の釘立は、シヤムにとって歓迎すべきチャンスともみなされ、軍備の強化など園内 の統治改革が積極的に提案された。このような中国の朝貢要求と砲艦外交の恐れに備えて軍備を増強しようとしたシャム の動きは、専らフランスの脅威を強調してきたこれまでの理解に釘する再考の必要性を提起するものとして注目される。 これまで十九世紀後字以降のシャムの封外関係は、封英、針併といった植民地勢力の脅威という観貼から二圃間関係を 軸に検討されてきたが、中園を含めた近隣アジア諸園・諸地域との閲係を中心にすえて、そこに封英、封悌闘係を位置づ けるという覗座轄換の必要性が改めて示唆されているのではないだろうか。また、軍備増強など、シヤムにおけるいわゆ る﹁近代圃家形成﹂や﹁近代化﹂の動きは、とくに封中園の丈脈の中で額在化したともいうことができ、西洋の影響が、 中国の影響を抜きにしては論じられないという問題も、あわせて提起されるように思われる。 89

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六 年 ) 、 ﹁ 朝 貢からの﹁離脱﹂││シヤムの事例﹂﹃岩波講座東アジ ア近現代通史一束アジア世界の近代十九世紀﹄(山石波 書応、二

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以下、アルマンとチユ ラ 1 ロ ン コ l ンとのやりとりはこの文書に依嫁している。 また、同日附チユラ 1 ロ ン コ 1 ン王の執務日誌も参照。 ℃ r z r 己 ω O B ( 日 早 ] u r E ロ F E H -m R r D E E m W C 口 ﹃ き ち 乙 g m w ( ( U F 己 -c ロ m r c H P H 内 E m ) u h b ミ 言 語 九 日 え も b ミ ミ 円 D E F N 円 、 s g h N p v b b F S N H A H ( ( U H O B 2 5 口 ぐ c -戸 田 巾 向 。 円 ペ 巴 叶 ﹃ 2 司 山 } g p [ 切 山 口 m r c E O H 2 -向 。 円 E 門 円 山 口 白 ∞ O B ( 目 。 門 司 } H 円 山 口 } 戸 山 口 出 C H D 目 白 血 君 。 口 四 円 ﹃ D O H内 H O B H υ F H 3 刊 日 叶 r o 唱 同 君 。 口 問 司 日 同 D H ) 門 戸 一 g p 戸 川 山 ( 凶 ∞ ) 唱 。 ω ( 7 ) 一般に﹁タイ﹂は一九三九年以降の正式な園名とされる が、この時代の史料にも﹁タイ﹂という言葉はしばしば使 われている。ただし本稿はこの用語の検討白樫を目的とせ ず、混乱を避けるため、直接の引用を除き﹁シャム﹂とす る 。 ( 8 ) Z K戸 日 出 ︿ Z 同 N 小 児 O H F H 岱 h t y J ) c r z o F 2 B m H H H H r o ロ m l 回 E -2 r o B B H H 8 2 p g ロ 四 百 ペ リ ( 小 暦 会 二 四 五 年 七 月 白 分 十 三 日 、 一 八 八 三 年 六 月 十 八 日 ) 。 ( 9 ) ω m w H H E } 戸 山 岡 山 -谷 口 日 カ ラ l ホ l ムは兵部および南部諮地 方同の統治を管轄した。その後再編されて園防省に。 ( 日 ) ( リ } 5 0 ] ︺} H E v d l ω 戸 門 戸 君 。 口 問 司 巴 吉 山 司 伊 丹 I H ) } H H H ) } 戸 伊 丹 g r ( 以 下 チ ヤ オプラヤ l ・スラウォンワイヤワットと略記 ) O Z﹀ 河 ︿ Z 同 N G 同 cpH⑦吋品チャオブラヤ l ・スラウォンワイヤ ワットから園王宛上奏主目(小暦二一四五年七月白分十五日、 一八八三年六月二十日 ) 0 (日)このベトナムからの使節汲遣とは、一八七九年四月に、 嗣徳帝の閥書(ZSEnF22)と植物(rtEロmgzEI EE日宮口)を捧持して、鴻臆寺卿排理工部参/塀商舶事務 院仲作を正使とする修好使節がバンコクを訪問し、これを 契機にしてベトナムとの修好を回復した一件を指す。一八 一 二

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年頃に雨岡の関係が途絶えて以来、五

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年ぶりに来訪 したベトナムからの正式な使節に封して、チユラ l ロ ン コ l ンは謁見の機舎を奥え、図書と植物を受領し、歓待し た。そして、サイゴンの偽領コ l チシナ総督に、この訪問 に慮、えてシャムからベトナムへ使節を汲遣することが、一

(27)

92 八七四年に締結されたサイゴン候約に抵偶するか打診した 0 フランス側は首初、ベトナム使節の来訪・受入に封しては、 候約とは関わりないとの姿勢を示したものの、後にシヤム からの使節汲遣については難色を示した。結局、ンャムは、 一八八一年十一月、フランスを介して嗣徳帝に図書と、返曜 の品々を贈った oZ ﹀見︿ Z H H H 見 C H E E H チ ヤ オ 。 フ ラ ヤ l ・ パ l ヌウォン・マハ l コ l サ l テ イ ボ デ ィ ( の ﹁ 向 。

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門 戸 可 臼 TEE 君 。 口 問 呂 臼 E r o S F H F O L H 以 下 チ ヤ オ プ ラ ヤ I ・ パ l ヌウォンと略記)から園王宛上奏書(小暦二一 四一年六月白分四日、一八七九年四月二十四日)等の史料 に基づく一連の交渉については、三者 g Z B F H E B 口 巾 出 C H ( U F 5 2 0 円 ロ ロ 戸 。 口 口 。 ω U ロ 召 - o 自 己 5 z o m O H H 伊 丹 5 口 出 寸 2 君 。 。 ロ 白山由自己︿ 5 g s f H ∞ 、

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N p m h ﹂ ﹁ 司 い N O M M h 片 岡 入 古 同 お き さ き お と の 言 、 3 2 2 夫同 2 2 R b h z h H 内 再 開 ロ 円 。 、 R と お お 礼 h N h N H R ミ 円 吋 2 a 言 内 M H E お 旦 弐 M O R S S h H 入 山 ﹄ 吉 岡 H H 吋 3 Q N H W N L N N 売 お 町 内 h n S 礼 ﹂ ー ロ 込 町 内 対 刊 誌 む な 。 P ( O 円 四 山 口 H N O L r 可 己 百 円 ロ 印 門 H 7 H Z 日 D H 何 日 早 ﹀ 白 山 口 ω 門 戸 任 命 印 山 門 ω D 四 日 ロ mdEZE

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口。叫において護表した。

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E 同 2 2 5 F 5 0 ( 出)、チヤオプラヤ l ・ マ ヒ ン タ ラ サ ッ ク タ ム ロ ン ( ︹ v r g -u r 当日呂田 r E F R S 件 -F E H H O 石 川 ) 、 チ ヤ オ 。 フ ラ ヤ 1 ・ シ 1 ピパットラツタナラ 1 チ ャ コ l サ │ テ イ ボ デ ィ ( ( U F 印 刷 ) r H a 戸 ω J E 司 ﹃ え 1 3 5 E H 伊 丹 口 E r o Z E r o 岳)から岡王宛上奏童日(小暦会二 四五年七月黒分三日、一八八三年六月二十三日 ) 0 ( 日 ) ( リ } E G E E 5 2 片 山 口 問 団 H ω 2 2 口 問 4 4 0 ロ間(以下、パ l ヌラン シ l 親 王 と 略 記 ) 。 N Q H 与色えさ N b g 言 明 ( C 2 5 2 0 ロ 5 -= B O H o -u E ロ 切 戸 ロ ヨ 巴 口 事 臼 PEGSaEE 日 四 世 王 の 第 四十五子、チユラ l ロンコ l ンの賓弟。一八八五年より戦 略局長。日 A ﹀ 同 州 ︿ 出 問 N 品 同 州 C H E Z C パ l ヌランシ l 親 王から園王宛上奏書(小幡ム二四五年七月黒分七日、一八 八三年六月二十七日 )o パ I ヌランシ l 親王の提言は、こ の文書に依撮している。 ( U ) ちなみに、ここでいう濁立図としてタイの立場を認める 球技三円をした凶とは、おそらくアメリカのことではないかと 思われる。一八八三年三月、アメリカは、シヤムと中園と の聞の問題に闘するアメリカ政府の見解をシャムに惇える べく、国務長官から駐シヤム・アメリカ領事に宛て書簡を 迭り、その内容は、アメリカ領事から、チヤオブラヤl・ パ l ヌウォンに宛てた四月三十日附書簡によりシヤム側に 惇えられた。タイ側に残る記録(書簡のタイ語詳)によれ ば、ここでアメリカは、シヤムと中岡との関係は、シヤム と修好侠約を結ぶアメリカおよび諸外国にかかわる事柄で あるとみなしたうえで、アメリカ大統領は、シャム園王を 凶務上封等であると考え、シヤムが中園の権力下におかれ ていないことを確信していると表明した。さらに、候約が 相互の釘等性を意味するという前提から、もし中園がシヤ ムに介入し、アメリカと針生寸とされるシャムの権力を侵害 すれば、シヤムの権限を低下させるのみならず、アメリカ

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