ベトナム・中国関係における 「同志」性に関する考察
― 1950 年代〜 60 年代および
1991 年〜現在( 2017 年)を中心に―
栗 原 浩 英 † Some Reflections on the Comradeship
in the Vietnam ‒ China Relations:
From 1950s to1960s and from 1991 to the Present ( 2017 )
Hirohide Kurihara
Throughout nearly 70 years relations between the Socialist Republic of Vietnam
(former Demo- cratic Republic of Vietnam
)and the People
ʼs Republic of China, we can find out a keyword describing their feature which has survived many twists and turns between the two countries to the present. That is the word comrade. Officially it was applied to Vietnam
‒China relationship firstly by the Vietnamese President Ho Chi Minh during the Chinese President Liu Shaoqi
ʼs visit to Hanoi on May 1963. At that time Ho Chi Minh referred to relationship between the two countries as comrades plus brothers, which actually came to a halt by the end of 1970s because of Ho Chi Minh
ʼs death and the Vietnam
‒China con- flicts. After the normalization of their diplomatic relations in 1991, however, the word comrades has re- appeared as a component of the slogan authorized by the leaders of the two countries, namely four
goods spirit
̶good neighbors, good friends, good comrades and good partners. This paper aims to consider the feature of Vietnam
‒China comradeship on the two different periods, 1950s
‒1960s and 1991 to the present, and by doing so, to reveal some problems caused by it that the leaders of the two countries have been facing.
はじめに
1950
年1
月にベトナム民主共和国[現在のベトナム社会主義共和国の前身―筆者注]と中華人民 共和国が外交関係を樹立して以降,両国の関係は紆余曲折を経ながら今日に至っている。そのような 状況にもかかわらず,両国関係を示す両国指導部公認ともいうべきキーワードとして生き残っている ものがある。それは「同志」である。かつて,ホー・チ・ミン存命中,両国関係は「同志でもあり兄 弟でもある」と形容されていた1。その後,1970
年代末から80
年代に及ぶ対立期を経た後,2005
年 に両国関係を規定する精神として,「よき隣人,よき友人,よき同志,よきパートナー」というスロー1 ベトナム語では,vưa là đông chí, vưa là anh em (同志でもあり兄弟でもある),中国語では「同志加兄弟」(同志プラス兄 弟)という表現にそれぞれなるが,本稿では第1節以降「同志・兄弟」で統一する。
† 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授 Professor, Research Institute for Language and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies
ガンが提起され,「兄弟」は姿を消したものの,「同志」の方は生き残ることとなり,本稿執筆中の時 点においても依然として生命力を保っている。
あらためて説明するまでもなく,「同志」という語には制度,課題,実現目標など両国に共通する 要素を強調する意味合いが込められている。しかし,冷戦終結後,
ASEAN
に身をおきながら全方位 外交を展開するベトナムにとって,この語には慎重な対処を要求されるという側面も存在する。「同 志」性を強調してしまうと,中国の軌道から離れられなくなるし,「同志」性を薄めようとすれば,中国とは異質な政治体制の模索に向かわざるをえなくなるからである。
また,特にベトナムにおいて,年齢差や職位に左右されない「同志(
dong chi
)」という語は異様 な響きをもっている。ベトナム語の会話においては,常に相手と自分との年齢差を意識して,その都 度適切な一人称代名詞と二人称代名詞を選択していかなければならない。ベトナムで「同志」という 呼称は喧嘩をする時にしか使わないといわれるように,ベトナム語世界において,「同志」は明らか にそこから疎外された位置にある。ともあれ,以上のような問題を内包しながらも,「同志」という語がベトナム・中国関係の中で生 き残っているのはなぜか。本稿は,「同志・兄弟」という語が登場した劉少奇のハノイ訪問(
1963
年5
月)前後の時期と両国関係正常化(1991
年)以降の時代という二つの時期に焦点をあてながら,「同 志」性の内容と,その連続面・非連続面を明らかにすることを目指す。一般に,社会主義国家間関係 の研究にあたり,関係性を示すキーワードやスローガンに着目するのはごく基本的な作業であるが,日本では服部隆行が「兄弟」という語に着目しながら,中華人民共和国建国初期の外交を解明しよう とした研究がわずかにあるのみである2。本稿もこうした先行研究を継承し,社会主義国家間関係の研 究の進展に寄与しようとするものである。
なお,本稿において,正式国名と引用を除き「ベトナム」という語は,①地域としてのベトナム,
②ベトナム社会主義共和国の略称,③ベトナム民主共和国とベトナム社会主義共和国を含めた一貫的 な記述,のうちのいずれかを意味する。
1.
「同志・兄弟」関係の直接的起源―劉少奇のベトナム民主共和国訪問(1963
年)ベトナム民主共和国と中華人民共和国が外交関係を樹立したのは
1950
年1
月18
日のことであっ たが,その当初から両国関係が「同志・兄弟」と形容されていたわけではなく,最初に使用されたの は,1963
年5
月10
日に,ベトナム民主共和国公式訪問のため,ハノイのザラム空港に到着した劉少 奇国家主席を出迎えたホー・チ・ミン主席がその場で詠んだ「越華の情宜の深さは,まさに同志でも あり,兄弟でもあるが如き」という即興的な詩句においてであった3。しかし,この時の対面は偶々同 時代に国家元首という国家の要職につくことになった政治家同士によるものではなかった。それは,1925
年以来の二人の数ある対面の中の一回にすぎなかったのである。2 服部隆行「『兄弟』党・国家認識と建国初期の中国外交―中国の駐ベトナム民主共和国大使着任をめぐって」『現代中国研究』
第27号,2010年10月,18‒33頁。
3 Ho Chi Minh Toan tap, tap 11, Ha Noi: Nxb Chinh tri quoc gia, 1996, tr. 64.ベトナム語の原文は次の通りである。
Mối tình thắm thiết Việt̶Hoa, Vừa là đồng chí vừa là anh em
ホー・チ・ミンと劉少奇は,
1925
年に広州で面識をもって以来の,「老朋友」であった4。当時,ホー・チ・ミンはグエン・アイ・クオックの名で,広州にベトナム青年革命会を創設し,仏領インド シナから植民地当局の迫害を逃れて広州に亡命してきた革命家たちの組織と教育にあたっていた。と りわけ,こうした革命家の中から将来のインドシナにおける共産党結成に向けて中核的幹部の養成を 図るために開設された政治訓練学校は,重要な組織であり,中国共産党の活動家であった劉少奇も
1926
年そこに招かれ,講義を行っている5。1920
年代以降,劉少奇以外にも,ホー・チ・ミンは周恩 来や毛沢東のような中国共産党の活動家とも交流をもつようになるが,それが長期にわたり維持され たのは大きく二つの特殊要因によっていた。第一に,ホー・チ・ミンが中国共産党の人士たちと交流 することができたのは,その卓越した語学力にあったという点である。会話能力に関して,劉少奇本 人が,広州で活動していた頃のホー・チ・ミンについて,「中国の同志であるとばかり思い込んでい て,ベトナム人であるとは思いもしなかった。そのことを知ったのは後になってからだ」と述懐して いるほか,ホー・チ・ミンの話す中国語に広東語訛りがあったため,広東出身者かと思ったという別 の中国人の証言もある6。ここからは,ホー・チ・ミンが,中国人と何ら支障なくコミュニケーション を図ることが可能であったことがうかがえる。残念ながら筆者はホー・チ・ミンの高度な会話能力を 証明する音声資料を入手するまでに至っていないが,それが決して政治的な神話の域にとどまるもの でないことは,ホー・チ・ミンの遺した中国語による著作や書簡が示している7。第二には,インドシナにおける共産主義運動展開のために,ベトナム北部とその結節点としての中 国南部(広東・広西・雲南)の位置を重視するというホー・チ・ミンの戦略的観点をあげておかなけ ればならない。この点に関して,
1963
年5
月14
日の劉少奇との会談において,ホー・チ・ミン自ら 中国との関わり合いについて次のように述べている。「この種の援助[政治面での援助―筆者注]はかなり以前から始まっていた。わが党の結成前,中 国の同志は青年同志会[ベトナム青年革命会を指す―筆者注]に多大な援助を提供した。当時私は広 州にいて,劉主席と面識があった。後に,国内[現在のベトナム―筆者注]で,南にも北にも共産主 義グループが生まれたが,一つにまとまることができず,当時の三つの共産党は最終的には中国の地 で統一を果たすことになった。ベトナム独立同盟の綱領も中国で起草されたものである。その頃から 中国共産党の人々は私たちを途切れることなく援助してくれた。当時私はあちこち駆け回り,
1941
年の帰国も中国の同志の支援によっていた。」8以上の発言が示すように,
1920
年代から40
年代にかけて,ホー・チ・ミンはインドシナへのアプ ローチに際して,一貫して中国南部とトンキン(現在のベトナム北部)の繋がりを重視し,自らはイ ンドシナに帰還が困難という状況の下で中国南部を主たる活動の実践地域としてきた。ただし,こう4 中国外交部档案館,档号:203-00571-01, 2頁。老朋友は中国語で「古い友人」を意味する。この表現は,劉少奇がハノイ訪 問に出発する前,昆明でベトナム民主共和国側の劉少奇主席接待責任者ホアン・ミン・ザム(Hoang Minh Giam)と会見し た際に使ったものである(1963年5月8日)。
5 同上。
6 中国外交部档案館,档号:203-00571-02, 14頁。1963年の訪越時,5月14日の両国政府首脳会談の際,ホー・チ・ミン本 人を前にしての発言である。黄錚『胡志明輿中国』解放軍出版社,北京,1987年,54頁。
7 広西社会科学院『胡志明主席輿中国』中国大百科全書出版社,北京,1995年,36‒37頁,40頁,47頁,67‒69頁,71頁,
76頁,130頁。
8 中国外交部档案館,档号:203-00571-02, 13‒14頁。
したホー・チ・ミンの観点と実践活動は,インドシナ出身でコミンテルンの活動家となった同時期の 人間の中では,極めて異質であったといってよい。筆者はすでに,この点が,ハー・フイ・タップや レ・ホン・フォンなど同時代の他の共産主義指導者とホー・チ・ミンの運命を分かつことになり,ひ いてはそれが,ホー・チ・ミンを世界的にも稀有な共産党指導者―コミンテルンの活動家という経歴 をもちながら,コミンテルン解散後も国家権力の掌握に成功するとともに,その最高位にまで昇りつ めた―へと押し上げた要因となったことを指摘してきた9。
帰国後のホー・チ・ミンは,ベトナム独立同盟を基盤とする民族独立運動を展開し,
1945
年9
月2
日にベトナム民主共和国の独立を宣言することに成功する。ホー・チ・ミン自身も国家主席に就任 するものの,同国は国際的な承認を得られない上に,孤立無援という状況の下で1946
年12
月以降 フランスと戦争状態に入っていた(第一次インドシナ戦争)。1949
年10
月に中華人民共和国が成立 したのは,まさにホー・チ・ミンが苦境に陥っていた時であった。劉少奇は中央人民政府副主席及び 中国共産党中央書記処書記として,国家と党の要職につき,党務としては,他国の共産党との連絡を 直接担当していた。こうした状況の中で,ベトナム民主共和国からの要請を受けた劉少奇は,1949
年末から1950
年3
月にかけての,孤立無援状態にあったホー・チ・ミンの訪中・訪ソの実現及びベ トナム民主共和国の国際的な承認の促進,さらには中国からベトナム民主共和国に対する支援体制の 確立など,同国が孤立無援状況から脱却し,ジュネーブ協定(1954
年7
月)を通じて戦争終結と安 定した支配地域の確保を実現する上で大きな役割を果たした10。このように,1963
年5
月の劉少奇の ハノイ公式訪問は,中華人民共和国主席としても,また劉少奇個人としても最初の訪問ではあったが,そこに至るまでにはホー・チ・ミンと劉少奇の親交を軸とした長い前史があったのである。
2.
「同志・兄弟」関係の構造と特徴前節で述べたように,
1963
年5
月にホー・チ・ミンが劉少奇を出迎えた際に発した言葉が発端と なって,ベトナムと中国の関係は「同志・兄弟」として語られるようになった。もとより,「同志・兄弟」関係の内容について体系的に述べた声明や文献があるわけでもなく,個々の事件や史料に依拠 しながら考察を進める以外にないが,基本的に両国関係が良好であった
1950
年代から60
年代にか けての両国関係を「同志・兄弟」関係期として総称することが可能であろう。沈志華は,中ソ関係や中朝関係を念頭において,冷戦時代の社会主義国家間の同盟関係に特有な
「不安定性と多変性」という現象の根源として二つの「構造的欠陥」が存在していたと指摘している。
それは第一に,共産党の伝統的な理論に国家と主権という概念がなく,国家権力掌握後も党内と陣営 内部で通用していた最高原則は国際主義であったこと,そして第二には,共産党の組織観念の中に,
元来平等という概念がなく,国家権力奪取後,党間の指導・被指導の組織原則が国家関係にも移植さ
9 栗原浩英『コミンテルン・システムとインドシナ共産党』東京大学出版会,2005年,254‒265頁。
10 栗原浩英「ホー・チ・ミンとスターリン―ホー・チ・ミン訪ソ(1950年2月)の歴史的意義―」『アジア・アフリカ言語文 化研究』65号,2003年3月,19‒44頁。この論文は,ホー・チ・ミンが北京からモスクワまで列車で移動したという前提 のもとで書かれているが,その後,ホー・チ・ミンは移動途中,チタからモスクワまで飛行機に搭乗したことが中国側の史 料から明らかとなっている(『建国以来劉少奇文稿』第一冊,中央文献出版社,北京,2005年,421‒426頁)。とはいえ,移 動の可能性を列車に限定してしまったのは,筆者の研究上の視野が狭隘であったからに他ならない。
れたことである11。後述するように社会主義国間の一種の同盟関係である「同志・兄弟」関係も,こ うした「構造的欠陥」を共有していた。その典型例は,
1950
年1
月のベトナム民主共和国とソ連の 外交関係樹立直後,ホー・チ・ミンが周恩来宛の書簡(1950
年2
月15
日付)で中国の駐ソ特命全権 大使である王稼祥が暫時,ベトナム民主共和国のソ連駐在公使の職務を代行するよう要請したことで あろう12。1952
年2
月にはベトナム民主共和国の初代駐ソ大使グエン・ルオン・バン(Nguyen Luong Bang
)が着任したものの,このようなソ連における中国大使によるベトナム民主共和国の主権代行 ともいうべき形態は,1954
年のジュネーブ会議の直前まで続いたといわれる13。また,ベトナム民主共和国に対する中国の関与を考察するにあたり,中国にとっての安全保障や
「社会主義陣営内部の分業」,つまりベトナムを含めアジアの共産党に対する指導や支援は中国に任せ るというスターリンの戦略的観点は看過されてはならない要因ではあるが14,それ以前に,ホー・チ・
ミンと劉少奇,周恩来,毛沢東といった,中国での革命闘争を共有する指導者個人間の信頼関係と強 固な紐帯が,党間関係・国家関係の基礎となっていたことは,中ソ関係や中朝関係にはみられない,
「同志・兄弟」関係のユニークな特徴を構成している点で重要である。その紐帯が如何ほどのもので あったかは,
1963
年5
月16
日,ベトナム公式訪問を終えて帰国の途に着こうとする劉少奇を見送る にあたって,ホー・チ・ミンが詠んだ次のような詩句によく反映されている。「見送りには来たものの,別れる気になれない。
あなたはいくつもの山河を超えて故国へと帰って行く。
手をとれば,心から心へと伝わる,
共にマルクス・レーニン主義の赤旗を掲げようと。」15
ここには両国の指導者は多くを語らずとも理解し合えるという心理,あるいは極論すれば「以心伝 心」関係とでもよぶべき信頼関係が端的に表現されている。中国と他の社会主義国との間では,例え ば,ソ連や朝鮮民主主義人民共和国との間では,中ソ友好同盟相互援助条約(
1950
年),中朝友好協 力相互援助条約(1961
年)などの同盟条約が締結されているのに対し,ベトナム民主共和国との間 で類似の条約は存在しない。しかし,実際には,中国からベトナム民主共和国に対して,武器援助は もとより,軍事顧問団や兵士の派遣も実施されていることから,両国が軍事同盟に近い関係にあった ことは明らかである。このうち,軍事顧問団の派遣はホー・チ・ミンからの中国共産党中央委員会宛 の要請(1950
年4
月)を受けて,劉少奇のイニシアチブの下で実現されたものである16。ベトナム戦 争時の中国人兵士の派遣に関しては1965
年4
月にベトナム労働党第一書記レ・ズアンが訪中した 際,中国政府に要求したとする文献もあれば,ホー・チ・ミンが要請したとするもの,あるいは11 沈志華『冷戦中的盟友』九州出版社,北京,2013年,259‒260頁。
12 АрхиввнешнейполитикиРоссийскойФедерации[далее-АВПРФ], ф. 100, оп. 4, папка 302, д. 8, л. 26, 40, 57, 58, 60.
13 ОгнетовИ.А., Навьетнамскомнаправлении, М.: Гуманитарий, 2007, с. 35.なお,ソ連のベトナム民主共和国駐在初代大使ラ ブリショフ(А.А.Лаврищев)がハノイに着任するのも1954年11月である(тамже)。
14 周弘主編『中国援外60年』社会科学文献出版社,北京,2013年,176‒177頁。
15 Ho Chi Minh Toan tap, tap 11, Ha Noi: Nxb Chinh tri quoc gia, 1996, tr. 76.
16 『建国以来劉少奇文稿』第二冊,中央文献出版社,北京,2005年,43‒44頁。
ホー・チ・ミンが
1965
年5
月に訪中した際,毛沢東と直談判した結果を受けて実現したとするもの もあり17,全体像が把握できないが,こうした重大な事案がホー・チ・ミンや毛沢東の了承なしに話 が進むとは思われない。これら二つの事例は,前述したソ連における中国による主権代行要請と同 様,条約のない同盟関係の中で指導者個人の果たす役割が極めて大きかったことを物語っている18。 また,国家主権の根本ともいうべき領土・領海に関する条約は,中国に隣接する非社会主義国家の 一つであるビルマとの間には,中国・ビルマ国境条約が調印され(1960
年),国境画定が済んでいた。これに対し,ベトナム民主共和国も地理的にはビルマと同様な位置にあったにもかかわらず,陸上国 境に関しては
1957
年から58
年にかけてベトナム・中国両党中央間で,①国境問題の解決は現行の 法理原則に依拠するか,両国政府の決定による②地方当局と団体の協議による国境碑の移動及び領土 の相互割譲は厳禁する③清仏間で1887
年と1895
年に調印された条約(続議界務専条・続議界務専 条附章)に基づく現行の国境線を尊重するなどの諸原則が確認される一方,両国間で国境碑をめぐる 紛糾が生じた場合は,地方政府の協議を通じた解決を委任するなど,日常の国境管理は地方政府[ベ トナム側ではハイニン,ランソン,カオバン,ハザン,ラオカイ,ライチャウ各省が,中国側では広 西壮族自治区と雲南省が該当する―筆者注]に委任するという体制が構築され,その後,1958
年か ら59
年にかけて,部分的に土地の相互移譲が行われただけであった19。陸上国境のみならず,北部湾(トンキン湾)や南シナ海での領海画定も進められなかった。
「同志・兄弟」関係期に国境紛争がなかったわけではないが,両国指導者間の良好な関係に支えら れてそれが表面化することもなかった。しかし,その前提条件が崩れた時,領土・領海の未画定状態 は両国関係に禍根を残すことになった。ホー・チ・ミンや劉少奇がすでに他界し,毛沢東や周恩来に とって最晩年となる
1974
年以降,両国国境地帯での紛争が激増し,中国側の資料によれば1974
年 は100
件余,1975
年は400
件余,1976
年は900
件余を数えるまでになった20。さらにホアンサ[西沙]群島・チュオンサ[南沙]群島領有をめぐる主張の相違も表面化し,レ・ズアンは
1975
年9
月の訪 中時に二つの群島に対するベトナムの主権について言及するに至った21。ベトナム民主共和国は,ファ ム・ヴァン・ドン首相が「中華人民共和国政府の領海に関する1958
年9
月4
日の決定」を承認した 書簡(1958
年9
月14
日付)を,周恩来に送って以来,西沙海戦の勃発した1974
年までは西沙群島・南沙群島が中国に帰属するという立場をとっていた22。中国政府とそれに近い中国の有識者は,
1979
年以降現在に至るまで,この事実を以て自国が西沙群島・南沙群島の領有を正当化するための根拠と し,ベトナムがその主張を翻したことを背信行為であると一貫して非難している23。しかし,それは 歴史的な文脈を離れ,前述した「同志・兄弟」関係の特性や沈志華のいう社会主義国家間の「構造的17 「越南抗法,抗美闘争時期的中越関係」『人民日報』1979年11月21日;黄文歓『越中戦闘友誼的事実不容歪曲』人民出版社,
北京,1979年,9頁;丁明主編『国家智慧―新中国外交風雲档案』当代中国出版社,北京,2012年,185‒200頁。
18 ただし,両国間での合意事項などを記した文書がなかったというわけではなく,経済・軍事など各種援助に関しては,実務 的な協定・議定書・覚書などが多数残されている。その具体例については下記文献を参照。周弘主編『中国援外60年』,前 掲書,173‒213頁。
19 Vu Duong Ninh, Bien gioi tren dat lien Viet Nam̶Trung Quoc, Ha Noi: Nxb Cong an nhan dan, 2010, tr.225‒226. 中国外交部 档案館,档号:106-00442-02, 6頁。
20 「一九七七年六月十日李先念副総理同范文同総理談話備忘録」『人民日報』1979年3月23日。
21 呉士存『南沙争端的起源輿発展(修訂版)』中国経済出版社,北京,2013年,94‒95頁。
22 「中国対西沙群島和南沙群島的主権無可争辯」『人民日報』1980年1月31日。
23 「為甚麼越南統一後中越関係悪化了?」『人民日報』1979年11月26日。呉士存,前掲書,64‒66頁,94‒106頁。
欠陥」を素通りすることによって,自分にだけ都合のよい土俵を設営しようとする行為に他ならない。
背信行為を問題としうるような,対等な主権国家同士の関係が両国間に存在していたのかということ こそ問われなければならないからである。
その点ではベトナム側の次のような主張の方が,「同志・兄弟」関係の実態を実直に表現している と思われる。
1988
年にベトナム社会主義共和国外務省が作成したホアンサ群島・チュオンサ群島関 連の資料によると,1950
年代から60
年代にかけて,ベトナム民主共和国が,二群島は中国領である とする立場をとっていたのは,米国という強大な敵を相手にする上で,中国の支持を勝ち取ることが 必要不可欠であるという当時のベトナムの置かれた環境に発しているとの弁明がなされた上で,「ベ トナムは真に中国を信頼し,戦争が終われば全ての領土問題は,『同志・兄弟』の人々の間で首尾よ く解決されるものと考えていた」と述べている24。したがって,「同志・兄弟」関係期に関わる領土・領海問題を議論するのであれば,「同志・兄弟」関係の特質に鑑みて,ホー・チ・ミンと劉少奇,毛 沢東,周恩来など両国の高位の指導者間でどのような協議や取り決めがなされたのか公表されること が先決であろう。もし取り決めがなされていないのであれば,二つの主権国家として問題解決に向け た別のアプローチが必要になる。
3.
中ソ対立の中の「同志・兄弟」関係ソ連は
1950
年中国に続いてベトナム民主共和国を承認したものの,前述したようにスターリンの 社会主義諸国や国際共産主義運動に対する中国との「分業」という方針もあり,ベトナム民主共和国 との直接的な関係が動き出すのは,スターリンの死後,第一次インドシナ戦争が終結に向かう1954
年になってからのことであった。しかも,ホー・チ・ミン自身は1920
年代から30
年代にかけて,コミンテルンの活動家としてモスクワに滞在した経験をもつとはいえ,ソ連の指導者との間に中国と の「同志・兄弟」関係に比肩しうるような紐帯を見出すことは困難であった。
同時に,第一次インドシナ戦争終結直後,
1954
年8
月,ジュネーブ協定による兵力分離に伴い,南部から北部への兵員輸送に迫られたベトナム民主共和国に,需要に見合った船舶を提供することが できたのは中国ではなく,ソ連であったという現実も,早くも明らかになった25。その後もベトナム 民主共和国が国土の工業化や米国との戦争遂行という課題に直面する中で,同国に対して近代的な設 備や兵器を供給する能力をもった社会主義国は,ソ連一国に限られた。
1960
年代に入ってから中ソ 対立が表面化する中で,ベトナム労働党は中ソ両共産党とも良好な関係を維持しようとする立場を とっていたが,当然のことながらソ連共産党の側はベトナム労働党と中国共産党の関係に神経をとが らせていた。1962
年からソ連共産党中央委員会社会主義諸国党連絡部でベトナムを担当していたオ グネトフ(И.
А.
Огнетов)は,1962
年から63
年にかけて,ソ連共産党とベトナム労働党の関係は亀 裂寸前の状態にあったと述べている。そして1963
年には,ソ連がベトナムに多大な援助をしている にもかかわらず,近年ソ連が派遣した専門家に対するベトナム側の処遇が著しく悪化しているとし て,ベトナムからソ連の専門家を引揚げることをほのめかす内容のソ連共産党中央委員会名義の書簡24 Bo Ngoai giao Cong hoa xa hoi chu nghia Viet Nam, Cac quan dao Hoang Sa, Truong Sa va luat phap quoc te, Ha Noi, 1988, tr.
16‒17.
25 АВПРФ, ф. 79, оп. 10, папка 9, д. 8, л. 33‒34.
が,ベトナム労働党中央委員会宛に準備されていたという26。この書簡は後述するような理由で,日 の目を見ることはなかったが,
1960
年に中ソ間で生起した事象が,ベトナムとの間でも再現される 可能性があったことは否定できない。ソ連とベトナムの関係が緊張していた時期,
1961
年から64
年にかけてソ連大使としてハノイに駐 在していたトヴマシャン(С.
А.
Товмасян)も,ベトナム労働党政治局内の親中国派の動向分析に力 を注いでいたが,1963
年5
月の劉少奇のベトナム訪問とその結果は,大使のベトナム労働党に対す る評価を厳しいものにすることになった27。トヴマシャンは同年7
月17
日の時点で劉少奇訪問の意義 を,①「ベトナム労働党はソ連共産党・中国共産党の『中間』をとる路線からさらに離れ,国際情勢 及び世界の共産主義運動中の一連の最も重要な問題をめぐり,中国共産党の立場にすり寄った」②「兄弟諸党間での論争の公然化の停止に関する従来から提唱してきた主張から離れ,ベトナム人民の 中にソ連共産党と他の兄弟諸党の観点に反対するプロパガンダを広範に撒き散らすための論壇を中国 と『親中国派』に提供した」③「ベトナム労働党とベトナム民主共和国における『親中国派』の立場 が強化され,レ・ズアンの役割が一層高まった」という
3
点にまとめている28。トヴマシャンをはじめ,ハノイ駐在のソ連外交官が問題視したのは,ホー・チ・ミンと劉少奇の共 同声明(
1963
年5
月16
日付)中,「ソ連共産党と中国共産党両党の団結は,社会主義陣営と国際共 産主義運動の団結の支柱である」という表現で,ソ連共産党と中国共産党が並列されたことであっ た29。同年1
月29
日に発表されたホー・チ・ミンとノヴォトニーの共同声明では,ソ連について「社 会主義陣営の中心」と明記され,中国共産党が登場する余地がなかったことからすると,ソ連側の抱 いた不快感は大きかったと考えられる。当時,ベトナム労働党第一書記レ・ズアンは,ホー・チ・ミ ンとノヴォトニーの共同声明について,「ベトナム労働党の観点が反映されていない」と不満を漏ら していたという30。それが数か月後にはレ・ズアンにとって満足のいく表現になったことになる。上 記の第二点と第三点の意味するところはまさにそこにかかっている。また,上記第一点の「一連の最 も重要な問題」とは,具体的には,ホー・チ・ミンと劉少奇の共同声明において,キューバ危機解決 に向けたソ連の役割についての言及がないことや,ベトナム民主共和国が中印国境紛争解決に向けた 中国の立場への支持を表明したことなどを指している31。以上のトヴマシャンによる分析が示すように,
1963
年当時,ハノイのソ連大使館内ではレ・ズア ンを親中国派とみなす見解が一般的となっていた。しかもその観点は外交官のみならず,フルシチョ フのような高位の指導者にも共有されていた。ソ連側がどれだけ情報を入手していたかは不明である が,レ・ズアンには親中国派と疑われても致し方のない側面もあった。例えば,1963
年5
月14
日晩 の劉少奇との会談において,レ・ズアンはホー・チ・ミン同席のもとで,「フルシチョフは極めて危26 ОгнетовИ.А., указ. соч., с. 149‒150. なお,ソ連共産党中央委員会の部課名は直訳すると「社会主義諸国の共産党・労働者党 との連絡に係る部」であるが,本文中では簡略化した表現にした。
27 トヴマシャンはアルメニア共産党第一書記(任1953‒61)をつとめた後,大使としてハノイに赴任した。Центральныйкоми тетКПСС, ВКП(б), РКП(б), РСДРП(б), М.: Издательскийдом «Парад», 2005, с. 394.
28 АВПРФ, ф. 79, оп. 18, папка 39, д. 23, л. 88.
29 АВПРФ, ф. 79, оп. 18, папка 39, д. 23, л. 79. 郭明,羅方明,李白茵編『現代中越関係資料選編』(中),時事出版社,北京,
1986年,600頁。
30 АВПРФ, ф. 79, оп. 18, папка 39, д. 23, л. 84‒85.
31 АВПРФ, ф. 79, оп. 18, папка 39, д. 23, л. 161‒162.
険な人間で,冒険主義的な事をしかねないという事情がある。これについて私ははっきりと理解して いるが,私たちの間にはまだ理解していない者もいる」とフルシチョフを批判したり,「
99
%の人々 が中国の観点に賛成したとしても,中国の観点に反対している人がまだ1
%はいるといってよい」な どと発言したりしている32。それでは,ベトナム共産党とソ連共産党の関係が必ずしも順風満帆とはいえない状態にあったにも かかわらず,中ソ対立のような事態に至らなかったのはなぜであろうか。その理由として考えられる のは,第一にソ連側にレ・ズアンを親中国派であるとして不信感を抱く人々がいたにしても,ソ連共 産党がそれで一枚岩になっていたわけではなかったということである。同党中央委員会社会主義諸国 党連絡部には,部長アンドロポフ(在任期間:
1957
〜67
年)をはじめ,副部長メシャツェフ(Н.
Н.
М есяцев),そして前述したオグネトフのようにベトナム労働党との関係を壊すことなく,同党の立場 を冷静に把握しようとするスタッフが在籍していた。特に,アンドロポフは,1963
年のハノイにお けるレ・ズアンとの対話を通じて,「中国なしではやっていけない」というベトナム労働党の立場や 同党の最重要課題が国家統一にあることを理解し,かつレ・ズアンを「腹蔵のない」人間として高く 評価していたという33。前述した専門家の引揚げに関するソ連共産党中央委員会名義の書簡案も,ア ンドロポフの承認の下で,ベトナム労働党側に「現地における若干の好ましくない非友好的な現象」への注意喚起と必要な措置を採るよう要請する内容にトーンダウンされて,同党中央委員会に送付さ れることとなった34。
第二には,ソ連側のベトナム労働党指導部に対する見解に差異がみられたにしても,ホー・チ・ミ ンが敬意を集める存在となっていた点において,ソ連側に見解の差異はなかったといえることであ る。この点は,ソ連共産党から見た場合,中国共産党にホー・チ・ミンに比肩しうるような指導者が いなかったとのは対照的である。例えば,フルシチョフの回想録中,ホー・チ・ミンに関連した箇所 は,「親中国派」レ・ズアンに対する強い不信感とホー・チ・ミンに対する深い尊敬の念を基調とし て書かれている35。レ・ズアンに厳しい評価をしていたソ連大使のトヴマシャンも,本国への書簡
(
1961
年5
月30
日付)の中で次のように述べている。「
4.
ホー・チ・ミン同志は極めて重要な問題においてみせた弱さにもかかわらず,ソ連共産党の大 きな友人であることに変わりはなく,私たちの党・国家間の友好関係のさらなる強化のために少なか らぬことを行っているということを考慮しなければならない。彼はベトナム労働党と人民の中で大き な威信を享受しており,国内における勢力強化に好ましい影響を及ぼしている。私たちはホー・チ・ミン同志との個人的な関係を一層強化すべきであろう。」36
ホー・チ・ミンは中国共産党の指導者たちと親交が深く,中ソ対立が表面化してからも会談や休養 のために毎年のように訪中していたが,中ソいずれかの側に肩入れすることなく,実践活動をもって 中ソの和解と社会主義陣営・国際共産主義運動の団結回復に寄与しようとしていた。その姿勢は他界
32 中国外交部档案館,档号:203-00571-01, 15頁。АВПРФ, ф. 79, оп. 18, папка 37, д. 8, л. 121.
33 ОгнетовИ.А., указ. соч., с. 148‒149.
34 Тамже, с. 151.
35 Хрущев, Н.С., Воспоминания. Время. Люди. Власть., Книга 2, М.: Вече, 2016, с. 97‒106.
36 АВПРФ, ф. 79, оп. 16, папка 31, д. 3, л. 56. なお,「弱さ」とは「世界共産主義運動におけるソ連共産党の前衛的な役割」や アルバニア労働党の路線をめぐるホー・チ・ミンの対応を指していると思われる。Тамже, л. 41, 44‒45.
するまで変わることなく貫かれたといっていいだろう。例えば,ホー・チ・ミンは中ソ対立が表面化 して間もない
1960
年8
月に自ら中国とソ連を訪問して,毛沢東とフルシチョフにそれぞれ面会して,中ソ両党の和解に向けた働きかけを行い,
9
月に中ソ両党会談を実現させている37。また1963
年の劉 少奇のハノイ訪問時の党・政府首脳会談(5
月14
日)の際,劉少奇がソ連によるコルホーズの経験 伝授のあり方や中国からの専門家引き揚げについて否定的に言及したり,フルシチョフを批判したり しても,ホー・チ・ミンはそれに同調するような発言を一切しなかった38。さらに,1969
年5
月に作 成された遺書においても,「兄弟諸党」間の不和に対する嘆きと「兄弟諸党間の団結回復」への強い 希求が表明される一方で,ソ連・中国を含む特定の党への言及は全くなかった39。こうして,大きく二つの要因が作用することによって,中ソ対立という状況にもかかわらず,ソ連 側からのベトナムへの対応を中国へのそれとは異なるものとしたと考えられる。いずれにしても,ベ トナム・中国間の「同志・兄弟」関係の宣揚にもかかわらず,ベトナムとソ連の関係は,引き続き維 持されることになったのである。
4.
現代に生きる「同志」性「同志・兄弟」関係は,その支柱的存在であった両国の指導者の死去(
1969
〜76
年)さらには両国 関係悪化によって中断を余儀なくされることとなる。1978
年以降,十年余に及ぶ対立を経て,両党・両党関係の正常化を担うことになったのは,ベトナム側では,グエン・ヴァン・リン,ドー・ムオイ,
中国側では江沢民,李鵬といった指導者であった。彼らには革命運動を共にした経験もなければ,ベ トナムの指導者がホー・チ・ミンに比肩しうるような卓越した中国語能力をもっているという話も聞 こえてこなかった。要するに彼らは同時代に党と国家の重職につくことになった指導者以外の何者で もなく,特殊要因に支えられたかつての「同志・兄弟」関係を再建することはそもそも不可能であっ た。彼らが目指したのは,「同志・兄弟」関係に代わりうる新たな両国関係の構築であり,換言すれ ば,両国の指導者の交代にかかわらず,中長期的に引継ぎ可能な国家間関係であった。
16
字の指導 方針―「善隣友好・全面協力・長期安定・未来志向」―や四つの共通目標―「よき隣人,よき友人,よ き同志,よきパートナー」―など新たな党・国家間関係,「両国人民間関係」を規定する基本原則を確 認するとともに,条約と交渉に基づく陸上国境や領海(北部湾)の画定など,以心伝心の関係からの 脱却と両国間の不安定要因の除去へと向けて動いていった40。37 呉冷西『十年論戦̶1956‒1966中蘇関係回億録』中央文献出版社,北京,2014年,222‒226頁。
38 中国外交部档案館,档号:203-00571-02, 5頁,9頁。
39 Di chuc cua Chu tich Ho Chi Minh, Ha Noi: Nxb Chinh tri quoc gia, 1999, tr. 27, 39‒40.
40 16字の指導方針は,1999年2月に両党書記長・総書記間で策定された後,2000年12月の両国共同声明でも明記された。
ただし,ベトナムと中国で配列順が異なり,本文にあげたのはベトナム式のものである。中国では「長期安定・未来志向・
善隣友好・全面協力」の順となる。 Tuyen bo chung ve hop tac toan dien trong the ky moi giua nuoc Cong hoa Xa hoi chu nghia Viet Nam va nuoc Cong hoa nhan dan Trung hoa(2000) https://thuvienphapluat.vn/van-ban/Van-hoa-Xa-hoi/Tuyen- bo-chung-ve-hop-tac-toan-dien-trong-the-ky-moi-giua-Viet-Nam-Cong-hoa-nhan-dan Trung-Hoa-2000‒80894.aspx 2017 年6月29日;「中華人民共和国和越南社会主義共和国関於新世紀全面合作的聯合声明」(2000年12月)http://www.mfa.
gov.cn/mfa_chn/ziliao_611306/tytj_611316/t821559.shtml 2017年6月29日 なお,「よき隣人,よき友人,よき同志,よ きパートナー」については両国ともに共通の配列順であり,2005年11月の共同声明に明記されている。「中越聯合声明」『人 民日報』2005年11月3日;Tuyen bo chung Viet Nam̶Trung Quoc nam 2005 http://dangcongsan.vn/tu-lieu-van-kien/
va-kien-dang/dieu-le-dang/books-2103201511085546/index-01032015110400465.html 2017年6月29日
2005
年以降,両国間の共同声明・共同コミュニケにおいては,これらの指導方針や共通目標がそ の都度確認され,現在にまで至っている。こうした新たな両国関係の構築の中で,「同志・兄弟」と いう語は,首脳間の会談やスピーチでは言及されることがあるものの,共同声明や共同コミュニケな どの合意文書に登場することはなく,後述するような「伝統的な友誼」といった表現で言及されるよ うになっている。しかし,共通目標中の「よき同志」という語が示すように,「同志」は,新たな両 国関係のもとでも消滅することのないまま今日に至っている。冒頭でも述べたように,「同志」とい う語は一党体制下の社会主義国という両国の共通性に発しており,「社会主義の道を歩む」という「中 越両国人民の共通の選択」や,「近似した社会的理想」実現に向けての「両国人民の緊密な連携」,経 験交流の必要性,社会主義建設において両国が直面するチャンスや試練の共通性などがその骨格を構 成する41。ただし,
2014
年5
月に中国が南シナ海で石油掘削リグ「海洋石油981
」による掘削を強行し,ベ トナムとの緊張状態が高まった際,ベトナム国内では四つの共通目標のうち,「よき同志」という語 が最も曖昧であるとして,その危険性を指摘する主張が現れた。イデオロギーや方向性を共有してい ることが含意されている「同志」という語はその時々で都合のよい解釈がなされうるというのが,論 者の主張であり,中国は国益を第一に追求しようとしながらも,「綺麗な言葉を使って,パートナー や相手を曖昧な感覚に陥れ,その足元をおぼつかないものにしようとしている」と警鐘を鳴らしてい る42。こうした論調と関係あるのかどうかは不明だが,この「海洋石油
981
」事件の後,両党の要人の往 来と対話を通じて,両国関係は緊張状態を脱し,安定したかのようにみえるものの,「同志・兄弟」という歴史的な用語をめぐっては,どちらかというと中国側は両国首脳会談の際,過去の「同志・兄 弟」関係を強調するため好んで使用する傾向があるのに対し,ベトナム側はその使用に消極的な姿勢 をとっているようにみえる。本稿執筆時点で直近の事例として,ベトナム共産党書記長グエン・
フー・チョンが
2017
年1
月12
日から15
日まで,北京を公式訪問した時の,習近平中国共産党総書 記との会談をとりあげることにする。1
月12
日の会談の際,中国側の報道によれば習近平総書記は「中越両国はともに共産党の指導下にある社会主義国家であり,戦略的意義をもった運命共同体であ る。両党・両国の歴代指導者による心からの育成と強力な推進を受けて,中越両国人民は『同志・兄 弟』の友情を結んだ」と述べている43。これに対し,グエン・フー・チョン書記長も「越中両党の一 世代前の指導者たちが共に培った双方の『同志・兄弟』の友誼は,現今の世界の国と国との関係の中 でも極めて特殊かつ貴重なものである」と,時期的な限定や特殊性を強調する形で「同志・兄弟」関 係に言及した44。しかし,この会談を報じたベトナム通信社の報道には,「同志・兄弟」という語はも
41 第2回中越青年フェスティバルでの李源潮国家副主席のスピーチ(南寧,2013年11月26日)が,「よき同志」の内容につ いて体系的に言及していると思われたため,引用した。「中越永遠做好隣居好朋友好同志好伙伴―李源潮在第二届中越青年 第聯歓上的致辞」http://news.xinhuanet.com/politics/2013-11/26/c_118305170.htm 2017年6月29日
42 Khong mo ho 16 chu vang va 4 tot http://toquoc.vn/y-kien-binh-luan/khong-mo-ho-16-chu-vang-va-4-tot-124137.
html 2016年2月2日 論説委員名によるこの記事は,2014年5月28日付となっている。
43 「習近平同越共中央総書記阮富仲挙行会談」http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2017-01/13/nw.D110000renmrb_20170113_
2-01.htm# 2017年6月8日
44 同上。
とより,これに関連する二人の発言も登場しなかった45。そして,
1
月14
日に出された共同声明では,関連箇所は「双方は中越両党・両国関係発展の道程をふり返り,毛沢東主席とホー・チ・ミン主席ら 一世代前の指導者が自ら創造し,心を込めて培った中越の伝統的な友誼は,両党・両国・両国人民の 貴重な財産であり,新たな情勢の下で一層しっかりと引継ぎ,しっかりと守り,しっかりと発揮しな ければならないことを一致して認めた」とのみ記載され,前述した共同声明のスタイルを踏襲してい る46。
その
4
か月後,5
月11
日から15
日にかけて,「『一帯一路』国際協力サミットフォーラム」出席の ため,ベトナム社会主義共和国主席チャン・ダイ・クアンが北京を訪問した際にも同様な現象が観察 された。5
月12
日に,チャン・ダイ・クアンが張徳江政治局常務委員(全人代常務委員会委員長),劉雲山政治局常務委員らと会談した際,中国側の報道によれば,三者の間で「同志・兄弟」の友誼に 関する言及があったが,ベトナム通信社の報道はその点に全くふれていない47。もっとも,ベトナム 側が「同志・兄弟」への言及を完全に避けているというわけではなく,
6
月18
日に中国の范長竜中 央軍事委員会副主席(上将)がハノイで,グエン・フー・チョン書記長,チャン・ダイ・クアン国家 主席,グエン・スアン・フック首相と会談した際の同通信社の報道では,范長竜の発言部分に関して は「同志・兄弟」という表現をそのまま伝えているほか,「ベトナムの党,国家と人民はベトナム・中国間の同志・兄弟という長期に及ぶ伝統的な友好関係を極めて重視している」という国家主席のも のと思われる発言を「国家主席と上将が同意を表明した」という表現で報道している48。いずれにし ても「同志・兄弟」という語をめぐる両国の姿勢の差異は,今後の両国関係をフォローする上で重要 なポイントになると思われる。
他方,中国側は習近平が総書記に就任して以降,「同志・兄弟」関係の適用対象と内容を明らかに 拡大しようとしている49。前述したように,ホー・チ・ミン発案になる「同志・兄弟」は本来ベトナ ムと中国との関係に特化した用語であったはずだが,
2015
年12
月に南アフリカを訪問した習近平 は,ズマ大統領との会談において,「中国側は中国・南アフリカ間の『同志・兄弟』の特殊関係を発 展させることを重視する」と述べ,「同志・兄弟」関係を非社会主義国にも適用する姿勢を示した50。 この時点では,「同志・兄弟」が具体的に何を意味しているのか,習近平の発言内容からうかがい知45 Tong bi thu Nguyen Phu Trong hoi dam voi Tong Bi thu, Chu tich Trung Quoc Tap Can Binh http://www.nhandan.org.vn/
chinhtri/item/31819702-tong-bi-thu-nguyen-phu-trong-hoi-dam-voi-tong-bi-thu-chu-tich-trung-quoc-tap-can-binh.html 2017年6月8日
46 「中越聯合公報」http://news.xinhuanet.com/2017‒01/14/c_1120312428.htm 2017年6月8日
47 「張徳江,兪正声,劉雲山分別会見越南国家主席陳大光」http://news.xinhuanet.com/politics/2017‒05/12/c_1120964794.htm 2017年6月8日/ Chu tich nuoc hoi kien Chu tich Quoc hoi Trung Quoc http://baotintuc.vn/thoi-su/chu-tich-nuoc-hoi- kien-chu-tich-quoc-hoi-trung-quoc-20170512184619783.htm 2017年6月8日
48 Tong bi thu Nguyen Phu Trong, Chu tich nuoc Tran Dai Quang, Thu tuong Nguyen Xuan Phuc tiep Doan dai bieu cap cao quan doi Trung Quoc http://www.nhandan.com.vn/chinhtri/item/33202502-tong-bi-thu-nguyen-phu-trong-chu-tich-nuoc- tran-dai-quang-thu-tuong-nguyen-xuan-phuc-tiep-doan-dai-bieu-cap-cao-quan-doi-trung-quoc.html 2017年6月29日
49 筆者は2005年であったと思うが,北京滞在時に,中国のテレビ番組で,社会主義時代のアルバニアについて「同志加兄弟」
という表現をしていたことを明確に記憶している。この表現はベトナムと中国に限定された関係だと思っていたため,意外 な印象を受けたものの,正確な日時や番組名等を特定することができない。ただし,アルバニアの場合はイデオロギー性が あり,習近平や李克強の用法とは明らかに異なるものである。いずれにしても,いつから中国側が「同志・兄弟」の適用範 囲を拡大し始めたのかについては今後の課題としたい。
50 「習近平同南非総統祖馬挙行会談」http://news.xinhuanet.com/world/2015-12/03/c_1117336570.htm 2017年6月29日
ることはできなかった。しかし,翌
2016
年9
月25
日にハバナでカストロ前キューバ国家評議会議 長に会見した李克強国務院総理は,「国際情勢がいかに激変しようとも,中国とキューバの相互尊重,対等待遇,相互扶助の同志・兄弟関係は変わらない」と述べ,「同志・兄弟」の意味するところをよ り明確にしている51。ベトナム・中国間の本来の「同志・兄弟」関係と比較すると,社会主義国であ るキューバに対してすら,イデオロギー的な紐帯を取り上げておらず,当事者間の対等性と脱イデオ ロギー性が強い内容のものとなっている。このような中国による「同志・兄弟」関係の適用範囲と内 容の拡大の意図は,現時点では不明であるが,歴史的文脈から逸脱し,本来の意味を換骨奪胎してい る点において,
2
節で述べた南シナ海問題をめぐる中国の対応と共通する側面があることは確かであ る。おわりに
1950
年以降のベトナムと中国の関係を顧みた時,1991
年の関係正常化以降,両国は「同志・兄弟」関係の限界や弊害の克服の上に,今日に至るまで新たな国家関係を構築してきたということができ る。「同志・兄弟」関係は,指導者間の信頼と親交を基盤とする点においては,取り立てて特殊なも のではなかった。例えば,
1950
年代においても,ビルマ元首相ウー・ヌのように,ビルマ・中国関 係を念頭に,首脳同士の親交を深めることこそが,国家間の信頼関係構築につながるとして,政治家 の個人的な交流を重視する主張は存在したし52,現時点(2017
年)においても,こうした傾向をもつ 政治家は存在する53。しかし,ベトナム・中国間の「同志・兄弟」関係が,
1950
年代のウー・ヌと周恩来の関係などと 根本的に異なるのは,指導者間の個人的な関係が国家関係と同一視され,かつ余人を以て代え難い ホー・チ・ミン個人の特殊な才能によって支えられていたことであった。1969
年にホー・チ・ミン が他界した時,当時のベトナム労働党指導部にホー・チ・ミンに代わって「同志・兄弟」関係を担う に足るだけの才能をもった人材を見出すことは困難であった。また,「同志・兄弟」関係が指導者間 の以心伝心関係を暗黙の前提とし,両国間の有事を全く想定していなかったことは,一旦関係が悪化 すると,事態の収拾を困難とした。特に,領土・領海画定をめぐる双方の主張の明文化がなされな かったことは,将来に大きな禍根を残すこととなった。現在,両国は南シナ海の島嶼の領有をめぐっ て対立しているが,その背景には中国の海洋進出といった問題以前に「同志・兄弟」関係が残した負 の遺産があることが看過されてはならない。1991
年以降,両国は国家関係を「同志・兄弟」関係の時代のように,指導者個人任せにするので はなく,いずれの側において指導部が交代したとしても継承可能な国家関係の構築に努力してきた。首脳間の恒常的な交流や,首脳会談後の共同声明等による国家関係を規定する諸原則の確認,条約な どの形式による細部にわたる合意事項の文書化などは,その証左となるものであろう。こうして,両 国関係のあり方が変化を遂げる中で,「同志」という語のみは消滅することなく,生き残ることとなっ
51 「李克強看望古巴革命領袖菲徳爾・卡斯徳羅」http://news.xinhuanet.com/world/2016-09/27/c_1119628839.htm 2017年6 月8日
52 АВПРФф. 73 оп. 12 папка 10 д. 6, л. 21.ウー・ヌがビルマを訪問したソ連最高会議代表団と会談した際の発言中に述べられ ている(1958年1月9日)。
53 例えば,安倍晋三やドナルド・トランプなどはそのタイプであろう。
たが,近年,このタームをめぐる双方の思惑には乖離が生じてきているようにみえる。
本文中で述べたように,中国は時には「同志・兄弟」関係に言及しないことによって,また時には 換骨奪胎した「同志・兄弟」関係を活用することによって,自らの対外政策の推進に都合のよい土俵 作りに力を入れている。各国の政治家に限らず,私たちもこうした歴史的文脈や歴史的経緯を尊重し ようとしない粗暴な論法に安易に乗せられることのないよう,十分な知識を蓄積しておく必要があ る。他方,ベトナムには「同志・兄弟」関係を過去の歴史的な事象にとどめておきたいという姿勢が みてとれる。ベトナムにとって,「同志」という語を残したまま,中国と一定の距離を置くことは可 能であろうか。その場合,ベトナムも難しい課題に直面せざるをえないことは冒頭でふれた通りであ る。いずれにしても,これらは現在進行中の問題であるため,「同志」という語に着目しながら,両 国関係の考察を継続していきたい。