仏教活論本論 : 第一編 : 破邪活論
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
4
ページ
23-185
発行年
1990-03-31
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002887/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja育放鑛襟難難韓贈、,㌧ 、≡
(巻頭) 4.刊行年月日 初版 明治20年12月 底本:5版明治36年4月20日 5.句読点 なし 6.その他 (1)底本の書名(表紙写真)で は,「編」が省略されているが, 本書では初版本や巻頭の書名に 従った。 1.冊数1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ) 186×127m 3.ページ 総数:205 目録: 6 本文:199仏教活論本論 第一編破邪活論
第一段緒論
第一節 余がここに破邪活論と題したるは、もとよりヤソ教を破斥するの義にあらず、ただ真理にあらざるも のにして、世間これを認めて真理とするものを破斥するの意なり。故に仏教にても、儒教にても、いやしくも真 理にあらざる元素のそのうちに包含することあるときは、余はあくまでこれを破斥せんと欲するなり。しかして 余がこの論中ひとりヤソ教を破斥するはなんぞや。曰く、これその教の真理としてとるべからざるところあるに よる。けだしヤソ教もその今日民間に行わるるところを見るに、実際上全くその用なきにあらずといえども、理 論上立つるところの原理に至りては、決して真理として許すべからざるなり。仏教はこれに反して、その今日の 勢い、実際上の進歩は、あるいはヤソに一歩を譲るも、その教理に至りては確固不動、哲理の大磐石の上に立つ ものにして、理論の激波百方これに当たるも到底破るところにあらざるを知る。これ余が平素その一を排しその 二を助くる本志にして、さきに﹃序論﹄中に、余がヤソ教を排するはヤソその人をにくむにあらず、余が仏教を 助くるは釈迦その人を愛するにあらず、ただ余が愛するところのものは真理にして、余がにくむところのものは 非真理なりというゆえんなり。しかりしこうして、今破邪を先として顕正を後にするは、非真理の妖雲を払うに あらざれば、真理の明月を哲学界内に現ずることあたわざるによるのみ。故に余が目的とするところ、ただ仏教 の真理を開顕するにあるを知るべし。 第二節 余がヤソ教を目して非真理とするは、主としていずれの点にあるや、創造説にあるや、洪水説にある 23や、昇天説にあるや。曰く、概してこれをいえば、その教に立つるところの有神説にあり。およそ世人のヤソ教 を破するは﹃バイブル﹄の創世記より、ノアの洪水、ヤソの降誕等の奇跡怪談に外ならず。故にその論に曰く、 ヤソ教者が天地に大原因あり、万物に創造者ありというの一段においては、もとより論理実験の許すところなれ ども、﹃バイブル﹄の怪談を万世不朽の金言亀鑑として、ヤソは神の子なりというの一段に至りては、やや信じ 難しと。これをもって世間、あるいはユニテリアン宗の・王義を唱うるものありて、日本の宗教も早くこの宗に定 むべしと論ずるものあれども、余をもってこれをみるに、ヤソは神の子なりと立つるの論、ひとり非真理なるの みならず、いやしくも、創造神を立つる以上はすでに純全の真理にあらず。故に余はここに天地に造物主あり、 宇宙に主宰者ありといえる有神説を論破して、天地に造物主なし、宇宙に主宰者なきゆえんを証明せんと欲する なり。 第三節 およそヤソ教を奉ずるものは、ヤソの父なくして生じたるは神の子なればなり、自ら甘んじて死刑に 就きたるは衆人に代わりてその苦を受けたるなり、すでに葬りてその死体の見えざりしは天に昇りたるなり等の 怪説を信ずといえども、当時わが上流社会に立ちて多少の学識を有するものは、決してかくのごとき怪説を信ず るにあらず。しかして世間、ヤソ教を主唱するものあるは、けだし左の二条より起こる。その第一はユニテリア ン宗徒の主義にして、普通のヤソ教者のごとく、ヤソは神の子なることを許さざるも、天地万物に創造主宰者あ るは学理上疑うべからざるものなり、その第二はヤソ教は学理上とるべきところなしといえども、社会改良、万 国交際上に便益あるをもって、その教をわが国に拡張せざるべからざるなりという、これなり。これを要する に、一は理論上より起こり、一は実際上より起こる。今余がこれより論ぜんと欲する点は、哲学上真非の判断を 24
仏教活論本論 第一編破邪活論 ヤソ教の原理の上に下すにあれば、ヤソ教者が信ずるがごとき奇跡怪談を批評するにあらず、また実際家の唱う るがごとき改良交際の方便とする説を可否するにあらざること明らかなり。ただ余は本編において、その創造主 宰を談ずる有神説を破斥するのみ。しかしてその教の実際上便益あるゆえん、および仏教もこれを改良すれば同 一の稗益あるゆえんは、後に﹁護法活論﹂を説くに当たりてつまびらかに弁明せんと欲するなり。しかりしこう して、天神の創造主宰を談ずるはヤソ教の・王眼骨髄なるをもって、有神論ひとたび破るれば、その教の立たざる は言を待たず。かくしてすでに、哲学の法廷に向かって哀訴する口実なきときは、かの徒ひとり天神に向かって 号泣するより外なかるべし。しかるにもしヤソ教者ありて、有神論は学理上真理とするの口実なきも、われ目に 天神の形を見、耳に天神の命を聞くと言わば、ことごとくその言うところに任じてしかるべし。畢寛かくのごと き言を発するもの、医学上よりこれをみれば精神病的の一種に過ぎざれば、余またこれに対して喋々するも益な しとす。故に余がここに論明せんとする点は、主としてヤソ教の有神論を排して仏教の真如説を開くにありと知 るべし。 第四節 第一 第二 第三 第四 今この点を論明するに当たり、まず左の諸案を前定せざるべからず。 ヤソ教の有神説は陰証ありて陽証なし。 実際上必要なるもの、必ずしも理論上真理なるにあらず。 近世学者の論中ときどき有神の説あるをみるも、この言をもって有神論の真を証するに足らず。 哲学書中に往々天神の字あるをみるも、これをもってヤソ教の天神と同一義を有するものとするの理 なし。 25
第五 ここに甲乙両説ありて共に憶説より出つるも、一は実験説に近く、一は遠きの異同なきにあらず。 第六 西洋人のいまだ発見せざる新理のかえって東洋学中にあるも計り難きをもって、ひとり西洋人の論ず るところをとりて、全く東洋古来の説を排するの理なし。 第七 ヤソ教の天神は主観上の天神にして、客観上の天神にあらず。 第五節 この七案中まず第一案の意を述ぶるに、陽証法とは直接にこのものはかくのごとし、と実地見聞して その証を示す法をいい、陰証法とは直接にその証を示さずして、他の種々の事情によりて間接にその証を示す法 をいう。これをたとうるに、隣家を尋ねてその家に外客あるを実視して、ただ今隣家に来客ありというは陽証法 なり、もしこれに反して、自宅にありてひそかに隣家当日の状況を量り必ず外客あるべしと論定するは陰証法な り。この二法の中においていずれが最も信を置くべしといわば、陰証法の陽証法にしかざることは論を待たざる なり。もしまた直接に隣家に至りて外客を実視せざるも、隣家の僕碑きたりてその来客あるを告げ、あるいは客 車のその門に待つを目撃してその家に外客あるべしと想像するは、今挙ぐるところの陽証法と同一の力を有する ものとなすも、あえて不可なることなし。しかれどもただ隣家に笑談の声のやかましきと、僕脾の奔走の常なら ざるを聞きて、これ真に外客あるなりと論定するは、決して確実なる証なりと許し難し。もしあるいはその笑談 の間に確かに平常聞き慣れざる外人の声を聞きたりとするも、いまだその人を見ざる以上は十分なる実証ありと いうべからず。たとえ一歩を譲りて、笑談の声を聞きて外客の有無を判定するは十分実証とするの力ありとする も、もし今日は自分の家に客来あるをもって隣家にもまた客来あるべしと論定するものあらば、これ決して論理 上許すべき推論法にあらざること明らかなり。 26
仏教活論本論 第一編破邪活論 第六節 今ヤソ教の天神説は、陽証法にあらずして陰証法なること多言を要せずして知るべし。かの徒の通常 論究するところをみるに、その推理の法は宇宙万物の変化現象を実視して、天神の現存を想定するに外ならず、 これいわゆる陰証法の一種なり。しかして直接に天神の現存を示すものただ﹃バイブル﹄一巻あるのみ。しかれ どもこの﹃バイブル﹄のごときも、我人自身がモーゼまたは十二徒にあらざる以上は陰証の一種とせざるべから ず。なんとなれば、我人ただちに天神を見るにあらずして、モーゼまたは徒弟の遺書によりてその現存を知るに 過ぎざればなり。故にその遺書を信ずるヤソ教徒に対しては、あたかも自ら隣家に至りて外客を見ざるも、他の 人の伝言によりてこれを知ると同一般なるをもって、天神現存の実証ありと許してしかるべしといえども、いや しくもその遺書を信ぜざるものに対しては直接にその現存を示すべき実証なきをもって、ただ天地の現象を見て 想定するの陰証法を用うるより外なし。しかれどもその真に天神の作用なりと想定するもの、必ずしも天神の作 用なるを保し難し。たとえば外客の声と想定せるもの、あるいは隣人の声を誤り認めたるの疑いあると同一般な り。そもそもこの宇宙は我人の宇宙にして天神の宇宙にあらず。他語にてこれをいえば、わが感覚境内に現立す る宇宙なれば、たとえ天神真に存するも、そのいわゆる天堂はわが感覚境外に存する不可知界なるべきをもって、 わが宇宙とは全くその関係を異にするは必然なり。しかるに宇宙間の事情を推して、宇宙の外に天神の現存を想 定するがごときは、あたかもわが家に客来あるをもって、隣家にもまた客来あるべしと想定するものとなんぞ異 ならんや。これを要するに、ヤソ教の天神説はいかなる証明をこれに与うるも、到底陰証の一種にして陽証にあ らざること明らかなり。 第七節 かつそれヤソ教者は宇宙間の事情を推して、天神の実在を想定して曰く、万物おのおのその原因あり 27
て変化する以上は、天地にもその大原因なかるべからずと。しかれどもかくのごとき想定は、真にその大原因あ りというの証と同一にみなすべからず。ここに人の論理上最も注意すべきは、真にありということと、けだしあ るべし、またはあらねばならぬということは、必ずしも同一なるにあらず。世間しばしば、理論上あらねばなら ぬことにして、実際上あらざることあるをみる。たとえば、海中を回航して一島に着し、この島には住民あるべ し、またはあらねばならぬ。なんとなれば、樹間に炊煙の起こるを見、また海浜に足跡の存するを見たり。しか してその島中に入りてこれを尋ぬるに、全く住民のなきを実視し、そのさきに見たる炊煙は真の炊煙にあらずし て、雲煙の起こりしものなるを知り、そのさきに存する足跡はその島人の足跡にあらずして、他の航海者のその 島に上陸してとどめたる足跡なることを知れりという。故にわれいまだ天神の現存を実視せざる以上は、たとえ いかなる陰証の存するあるも、いまだ真に天神あるの証となすべき理なし。しかるにヤソ教者は我人に示すに、 けだし天神あるべし、またはあらねばならぬというのみにて、すでに十分天神の実在を示したるものと信じ、こ れを聞くものも、その陰証を聞きてただちに陽証同一の感覚を起こすは、実にその論理に暗きに驚かざるをえざ るなり。 第八節 ヤソ教者また必ずいわん、陽証とは目前に実視する確証を称するなれども、確証は必ずしも耳目五官 の保証を要するにあらず。たとえば他郷に入りて家屋を見れば、自らその家屋が人の手によりて成りたるを実視 せざるも、この家屋は大工の造築せるものなりと断言することを得、また人の家を訪うてその机上に書籍あれば、 これを一見してただちにその作者ありしを保認することを得るなり。これみな陰証にして、しかも陽証同一に確 実なるものにあらずや。余これに答えて言わんとす。ヤソ教者の天神の存在を証するにかくのごとき陰証法を用 28
仏教活論本論 第一編破邪活論 うる以上は、陽証同一に確実なるものと許すべきも、その用うるところの証 明法は全くこれとその性質を異にするものなり。たとえば我人は平常イの家 図 1 甲 屋の大工によりて成りしを実視し、イの書籍の作者によりて成りしを熟知す 第 るをもって、ロの家屋を見、ロの書籍を見て、同一にその作者ありと断言す ることを得といえども、宇宙全体の問題に関しては、余輩がいまだ全く実視 せざるところにして、他の例に準じて推知することあたわず。しかして天神の創造を知るは、ただ宇宙問に存す る一、二の事物について憶想するより外なし。たとえば家あれば必ずこれを築造する大工あり、書籍あれば必ず これを経画する作者あるをもって、宇宙にもまたそれの造成者なかるべからずと推測するのみ。しかれどもそれ の証明せんと欲する問題は宇宙全体にして、これを推測する例証は宇宙間の一、二の事物なり。すなわち一、二 の部分を見て、全体もまたかくのごとしというに過ぎず。しかれども論理の規則に、部分において真なるもの全 体の上において必ずしも真なるにあらずということあるをもって、その証明法は論理の規則に合せざること明ら かなり。右に図を挙げてその道理を示すに、イとロは部分にして、甲は全体なり。しかしてイとロは同一物なる ときは、イにおいて実験するところをもってロを推測し、ロにおいて実験するところをもってイを推測すること を得るも、イと甲とは同一物にあらず、かつ部分と全体との差異あるをもって、甲を知るにイを用うるは論理の 許さざるところなり。いわんやイをもって甲を推測して曰く、これ陽証同一に確実なるものなりというがごとき は、全く論理を知らざる証明法といわざるべからず。 第九節 つぎに第二案の意を述ぶるに、世間の論者中、ヤソ教を奉ずるは万国交際上必要なりといい、人種改 29
良上必要なりといい、政治上人民を結合するに必要なりといい、品行上道徳を維持するに必要なりというものあ れども、この論点は余が今論述せんとする問題の外にわたるをもって、ことごとくおいて問わざるも可なり。し かるにここにまた一説あり。ヤソ教はただにわが国今日に必要なるのみならず、人生一般に必要なるものにして、 世にこの教なきときは人一日もその心を安んずることあたわず、社会一日もその地位を保つことあたわざるべし という。たとえこの説をして真ならしむるも、これただ必要というにとどまり、決してこの点をもってヤソ教の 真理なるの証となすの理なし。もしまたその教うるところ真理にあらざるも、実際上必要有益の点あるをもって、 ヤソ教は排すべからずといわば、その天神のごときは全く便宜上設くるところの天神にして、一時の計略に出で たるものと称せざるを得ず。しかるにヤソ教者はその教の人生および社会に必要なる諸点を挙げて、天神の真に 存する一証となすがごときは、これ大いにその証明法を誤るものといわざるべからず。もしその説を聞きてこれ を真理として許すものあらば、一層その論理に暗きを笑わざるを得ず。たとえば兵力をもって外冠を防ぐは国家 独立上必要なるものなれども、これただやむをえざる事情によるものにして、決して兵力は真理の標準なるにあ らず、兵力相争うは決して真理上許すところにあらざるは明らかなり。故に実際上の必要と、理論上の真理と、 混同せざらんことを要するなり。 第一〇節 もし更に一歩を進めてこれを考うれば、ヤソ教は社会に必要にして、有神説は人生に欠くべからず というも、その事実すでに誤りなきを保し難し。ヤソ教者曰く、ヤソ教を奉ずる国にあらざれば、社会の改良を はかるべからずと。これ西洋と東洋とを比較して評するところの立論なり。今、その論法を案ずるに左のごと し。 30
仏教活論本論 第一編破邪活論
−論案鱗簿麟ざれば開ーー灘
今ヤソ教者の論ずるところあたかもこの論式によるもののごとし。しかしてかくのごとき論式の誤りあるは、論 理学を一読するもののみなすでに知るところにして、西洋は開明国なるもその開明国となりし原因はヤソ教に限 るにあらず、東洋は開明国に至らざるもその開明国に至らざるゆえんはひとり仏教の影響にあらざることは、今 ここに論ずるを要せざるなり。しかして西洋諸国の開明はなにによりて起こりしや、東洋の未開はなにに基づき てきたりしやの問題に関しては、余が﹁護法活論﹂を論述するに当たりて弁明するところあるべし。以上の論こ れを要するに、ヤソ教者は喋々有神説の必要を論ずるも、その必要なるゆえんを述べてその教の真実なるゆえん を証する口実となすは、大いなる誤見なりというにあり。 第=節つぎに第三案の意を述ぶるに、ヤソ教者はその自ら立つるところの説を論定するに、まず世間の有 名なる碩学鴻儒にして、しかもヤソ教に反対したる主義をとるものの言語中に往々有神の気脈あるを示して、ス ペンサー氏もダーウィン氏もティンダル氏もフィスク氏も全く神なしと断言したるにあらず、すでにその著書中 のある部分に有神に関する一章あるにあらずや等というを常とす。これ実に抱腹に堪えざるなり。たとえばここ 31に一人あり。ある人の家を尋ねその机上に自作の一書を載せたるを見、これを一読するに、その論には感服せざ るところあるも、その人の目前をはばかり一言称賛して曰く、これ実に珍書なり名論なりと。出でて他人に対す ればあえてかく称賛するにあらず。しかるに主人はその称賛したる一言あるを聞きて曰く、たれがしのごときわ が論に反対せるものすらなお称賛の一言ありと。しかしてその人の称賛は全くその本心に出でたるにあらずして、 一時著者の意を慰むるまでに出でたるを知らざるは、これを愚かと呼ばずしてなんぞや。今西洋諸国、現今の実 情をみるに、その多数の人民は数千年来の習慣によりてヤソ教に固着し、ヤソ教者はこの勢いに乗じてますます その教を拡張せんと欲し、世間いやしくも有神説に反対する論説あるときは異口同音にその非を世間に鳴らし、 この過数の人民を誘ってその論者の口を閉じんとするの勢いあり。故をもって学者中もしその自ら立つるところ の新説をして、世間にいれ人の注意を引かんと欲せば、必ずまずその論の全くヤソ教の反対に出つるにあらざる ゆえんを示して、世論に一歩を譲らざるをえざる事情あり。故をもってヤソ教に反対する論者の語中に往々ヤソ 教を称賛し、あるいは有神説を許すの言あるをみるなり。しかれどもその本心に入りてこれを考うれば、その称 賛の言は全く世人の注意を引くの方便にして、あたかも他人の目前にその著書を評して、名論なり、珍書なりと 称賛せるに異ならず。これただ余が一時の推想に出でたるに似たれども、論者平常の定説と社会当日の実況とに よりて考うるときは、余が想像の全く誤らざるを知ることを得べし。すでに今日にありては、西洋人中ヤソ教の 非真理を知るものもとより少なきにあらずといえども、社会多数の人民は無学と習慣とによりてヤソ教のほかに 純全の宗教なしと固信し、世間しばしばその教の非真理を唱うるものあれば、ただ一にこれを排斥し、ただにそ の説を排するのみならず、まさにその人をいれざらんとす。故をもっていかなる新理新見のその説中に存するも、 32
仏教活論本論 第一編破邪活論 これをして世間に知らしむることあたわざるに至る。請うみよ、ヤソ教者はダーウィン氏の進化論の人獣同祖を 唱うるを聞きて、ただちにこれを駁して曰く、進化論は人類をもって猿猴の子孫なりという、猿猴にしてよく人 類を生ずべきものならば、犬や猫の子にも人類を生ずべき理なり、しかるに犬の子は犬、猫の子は猫にして、人 類の生ぜざるははなはだ不思議ならずやなどと評して、氏の説の一端よりその極端に走り、ついにその説をして 世間にいるることあたわざらしめんとす。この時に際して論者もしその説を世間にいれんと欲せば、たとえ論者 の本意にあらざるも、まずヤソ教者の注意を引かんがために、わが説は全くヤソ教の主義に反するにあらずと一 言せざるを得ざるなり。これダーウィン、ティンダル等の諸氏の言中に、多少造物主を許さんとする語気あるゆ えんなり。 第一二節 もしまたダーウィン、ティンダルのごとき理学者の本心に入りてこれをみれば、天地未開の時に当 たりて天神が万物を造出すというも、もとより実験をもって知るべからざることなれば、これを真にありとする は道理なしといえども、またたとえこれをありとするも、その自ら実究するところのものに対しては更に関係な きもののごとし。けだし諸氏のもっぱら実究するところは天地万物の理法を考定するにあれば、その理法の間に 天神のごとき理法外のもの混入するときは、あくまでこれを理法外に放棄せざるべからずといえども、遠く理法 外に天神の存在を仮定するも、あえてその目的を達するに妨げとなるにあらず。故にダーウィンも生物の初発元 種のいかんに至りては、いまだ断言して天神の創造を排棄せざるも、これ実はダーウィンの真の本意にあらずし て、その本意を達する一時の方便に出でたることは、その書を熟読するもののみな知るところなり。今ダーウィ ンの外に立ちてこれをみれば、自己の本意にあらざる一時の方便を用いてその説を弘めんとするがごときは、実 33
に卑劣なる手段のごとしといえども、氏の本心よりこれをみれば、一時の方便を用うればその説世間にいれられ、 方便を用いざれば世間にいれられず、むしろ方便を用うるもその説の世間にいれられんことを求むるなり。これ ダーウィンひとりしかるにあらず、いやしくも世間に立ちてヤソ教の反対説をとるものにして、その言中一、二 の有神に関する語気あるは、みな当時の勢いしかせざるをえざる事情あるによる。これ今日西洋一般の実況なり。 しかるにわが日本はいまだヤソ教の圧束を受けざるをもって、学者十分に新見を吐露することを得るは実に学者 の幸いというべし。 第=二節 以上の論これを要するに、西洋の学者の言中、往々ヤソ教を助くるの語気あるをみて、ヤソ教者は あたかも瓦中に金玉を発見するがごとき思いをなし、たれがしの不信教者にしてなおこの言あり、天神の実在疑 うべからずなどと喋々すれども、なんぞ知らん、その言は全く一時の方便説に出でたるを。故に学者の言中なに ほど有神に関する語あるも、これをもって有神の証となすべからざること明らかなり。たとえまたかくのごとき 言はその人の方便説にあらずとするも、この点はいまだその人の論究の足らざるところなりということを得べし。 たとえばダーウィンは人類動植は同祖より進化したる理を発見したるも、いまだその始祖の起源をつまびらかに するに至らず。これにおいて天神の実在を仮想せざるを得ざるに至る。しかれどもそのこれを仮想するはダーウ ィン説の短所というより外なかるべし。故にダーウィンは進化を説きてなお天神の実在を許すとするも、そのの ちに出でて進化説をとるもの、必ずしもダーウィンのごとく天神の実在を許さざるべからずというの理あらんや。 余をもってこれをみるに、進化説の原理を推して万物の起源を実究するときは天神なしと断言せざるをえざるを 知る。 34
仏教活論本論 第一編破邪活論 第一四節 つぎに第四案の意を述ぶるに、ヤソ教者は哲学書中にゴッドすなわち天神の字あるをもって、ソク ラテスもプラトンもアリストテレスも天神の性質を説き、デカルトもカントもヘーゲルも天神の実在を信ぜりと いうといえども、少しく原書を解するものはただちにそのしからざるを知るべし。けだし文字には同音異義のも のありて、その音その形共に同↓なるも、その意義同一なりと憶定すべからざるなり。たとえば日本の﹁神﹂の 字にても有為有作の体を義とするときと、不可思議不可知的の体を義とするときの数意あるがごとく、西洋のゴ ッドという文字にも数種の異義ありて、別して哲学者の用うるものは各家の主義に応じてその意義を異にするも ののごとし。あるいは不可知的不可思議の体を指して天神ということあり、あるいは絶対唯一の体を指して天神 ということあり、あるいは物心万境の本質実体を天神と称し、あるいは非物非心の理想の本体を天神と称するこ とあり。これらの天神はヤソ教の天神と大いにその意義を異にするは、余が弁を待たざるなり。故に天神すなわ ちゴッドの語は一字多義にして、ヤソ教に用うるがごとき有意有智の天神を義とするときと、不可思議の原因ま たは平等絶対の理想を義とするときあり。しかして哲学者の唱うるところの天神は大抵この第二種の意義を有す るものとす。すでにカント、へーゲル等の立つるところの天神はヤソ教の天神と同一ならざることは、その書の 一端をうかがうものの熟知するところなり。しかるにヤソ教者はその書中にゴッドの文字、およびゴッドを論じ たる文章数所あるを見て、これを喜ぶはあたかも百姓が地理誌に﹁米国﹂とあるを読みて外国にも米穀の産出す る国ありと思い、仏者が西洋歴史に﹁仏国﹂とあるを読みて西洋にも仏法流行の国ありと思うて喜ぶと同一般な り。これまただれがその愚を笑わざるものあらんや。もしヘーゲルをして仏教中の真如の語を知らしめば、ゴッ ドの字に代うるに、あるいは真如の語を用うるなるべし。なんとなれば、ヘーゲルのいわゆるゴッドは仏教の真 35
如とほとんどその意義を同じうすればなり。もしプラトンをして真如の語を知らしめば、またゴッドの代わりに その語を用うべし、スピノザをして真如を知らしむるもまたまたしからんのみ。故にヤソ教者のみだりに哲学書 中にゴッドの字あるを見て、甲も天神の実在を許し、乙も天神の実在を信ず等と説ききたりて有神論の証となさ んとするは、事実上決してかくのごとき道理なきを知るべし。 第一五節 つぎに第五案の意を述ぶるに、ヤソ教者は今日の進化説を評して、その天神の実在を許す以上はこ れを真正の進化説とし、もしこれを許さざるときは真正の進化説にあらずとす。すなわち﹃バイブル﹄一巻をも って進化説の標準とするものなり。もしその進化説の実験明らかにして、たとえヤソ教と合せざるところあるも、 これを憶説として排棄することあたわざるときは、顧みて﹃バイブル﹄の解釈を変更し、種々の作説をその上に 付会して両説を調和せんことを務め、もし付会するもなお調和することあたわざるときは、進化説中一、二の短 所を挙げてその長所までも駁撃せんとす。しからざれば、進化の規則に反する一、二の特例を引きて、進化説全 体の真ならざる証となさんとす。これを要するに、第一にヤソ教者は自説に反対したる説は百中一、二の実験明 らかならざるものあるも、その全論を憶説として排斥するの癖あり。第二に百中一、二の論理に合せざるものあ るも、その全説を非真理とする癖あり。しかしてその自ら立つるところの説は、実験に証して知るべからざるも のあり、論理に考えて合せざるものあるを問わざるはそもそもなんの心そや。今それ万物の本源、世界の元初の いかんを論ずるに至りては、到底実験の力よく知るところにあらざるをもって、多少の憶説を免れざるはもちろ んなりといえども、進化論をもって無神を説くときはこれを憶想のはなはだしきものとし、有神を説くときはひ とり確説なりとするの理、万あるべからず。もし進化論も、無神論も、有神論も、共に憶想説とするときは、三 36
仏教活論本論 第一編破邪活論 者のうちいずれの説、最も憶想の多量を含有するやよろしく比考せざるべからず。余をもってこれをみれば、正 当に進化説を解してその道理を推すときは、かえって無神論に帰せざるべからず。すなわち無神論はこれを有神 論に比するに、憶想のやや少なきものなるを知るべし。しかしてその果たして憶想の少なきはのちに至りて論明 せんとす。ただ余がここに前定せんとする一点は、百中一、二の憶説あるも、これをもって全説を憶説とせず、 また憶説中にも真理の多少を含有するものと、せざるものとを弁別せざるべからず。しかるにヤソ教者は自らこ の弁別を立てざるのみならず、自説に反したる諸説はただ一に憶想のはなはだしきものとす。これ余が深くとら ざるところなり。 第一六節 その他ヤソ教者は西洋伝来の説はこれをとるも、東洋従来の説はことごとくこれを排棄するの弊あ り、これ他なし。西洋人はいまだ東洋の哲学を知らざるをもって、その今日二、三の書に載せてその地に伝わる もの、シナ哲学にても、インド哲学にても、大いにその真義を誤りて伝うるものなきにあらず。すでにインド哲 学のごときその西洋に伝わるもの、ひとり小乗浅近の法にして、大乗深遠の法にあらず。故をもって西洋の学者 はただ一に仏教を目して、空無の教となし、厭世の法となす。今ヤソ教者の仏教を評するも、またこれのみ。彼 もし仏教者にして大乗の浬薬を唱うるを聞けばこれ仏教にあらずといい、西洋学者中、厭世教を唱うるものあれ ばこれ仏説より出でたるものなりという。しかるに日本にありてこれをみれば、彼のいわゆる厭世教は真の仏教 を知らざるものとなすより外なかるべし。ヤソ教者はこれこれを知らざるをもって、かの西洋に伝うるもののほ か仏教なしと憶断し、仏教の語を聞けばただちにかの空無の教、厭世の法とみなすは実に東洋哲学のために慨せ ざるをえず。そもそも仏教のいわゆる浬磐は西洋人の信ずるがごとき死物浬薬にあらずして、活物浬葉なり、仏 37
教のいわゆる唯心は無一物の唯心にあらずして、物心両立の唯心なり。ただ仏教は心外に物ありというの説を破 して、万法唯一心と立つれども、心内に万物の現存することはもとよりその許すところなり。しかるにヤソ教者 は往々この点を誤りて、心外無一物を聞きて心内無一物と解するがごときは実にその愚を笑わざるをえず。また 仏教に世間を離れて出世間に入るを説きたるをみて、彼は厭世教なり、社会滅亡を教うるものなりと評すれども、 これまた仏教の真意を知らざるもののみ。世間法は出世間を離れて存するとみるは仏教の真意にあらずして、世 間中に出世間を存し、世間を離れて出世間なきを示すもの、これ仏教の本義なり。故にその本義についてこれを みれば、仏教は西洋のいわゆる厭世教にあらざること明らかなり。かつそれ仏教は余が﹃序論﹄中に示すごとく、 平等、差別の二門を分かちてその二者の関係を示すものなり。すなわち世間の外に出世間を立つるは差別上の見 のみ、もし平等よりこれをみれば、世間も出世間も同一なりとす。また男女その別を立ててこれを同権となさざ るは差別上の見のみ、もし平等よりこれをみれば、あにただ男女同権なるのみならんや、国土山川草木に至るま で、みな同権なりとす。その殺生を禁ずるがごときは平等の上より生物同愛を説くものにして、いわゆる仁禽獣 に及ぶものなり。しかして平等を説くものひとり仏教にあらず、差別を勧むるものひとり仏教にあらず、平等差 別の中道を教うるもの仏教なり。この理は﹁顕正活論﹂に入りて開示すべし。これを要するに、ヤソ教者はいま だ仏教の真意を知らず。その今日仏教として西洋に伝うるものを真正の仏教となすをもって、はなはだしき妄評 を仏教の上に与うるに至り、あるいは東洋の諸学諸教ことごとく野蛮の遺法にして、一もとるべきものなしと偏 信するをもって、みだりに仏教を擦斥するに至るも、仏教必ずしもしかるにあらず。故に仏教の真意を知らんと 欲せば、決してヤソ教者の妄評をいれず、よろしく虚心平意をもって、仏教の大海上に真理の針路を探知すべし。 38
仏教活論本論 第一編破邪活論 これ余が深く読者に希望するところなり。 第一七節 つぎにヤソ教者の種々の例証を挙げて天神の実在を論ずるところをみるに、あるいは天地の現象を 究めてその第一原因は天神なりといい、あるいは万物の変化を見てその変化の原力は天神の与うるところなりと いうも、天地の現象は天地の現象にして天神の現象にあらず、万物の変化は万物の変化にして天神の変化にあら ざること明らかなり。しかして天地万物の上に天神の実在を論定するは、わが目前に天神の存するを見るにあら ずして、わが心内の想像推論によりてその存在を仮定するに過ぎず。故にヤソ教者のいわゆる天神は真に外界に 存するにあらずして、心内に存すといわざるべからず。他語にてこれをいえば、客観上の天神にあらずしで主観 上の天神なり。しかるにヤソ教者は必ずいわん、主観上想するところのもの客観上その存するなしと断言するこ とをえずと。余これに答えて、・王観上想するところのものいかにして客観上真に存すということを得るや。もし そのいわゆる客観の諸境も感覚界中の諸境にして、心界を離れて別に存するにあらざるゆえんを知るときは、天 神の実在創造はもちろん、これが例証とする天地万物の変化現象も、またみな主観上の変化現象となるべし。こ れ余が本編において論明せんと欲するところなり。 第一八節 以上は本編を論述するに当たりてあらかじめ仮定せざるをえざる諸案を略述したるをもって、これ より本編中論述の事項を分類叙記するを要す。しかしてこれを叙記するに当たり、まず天神の義解を定めざるを えず。そもそも天神すなわちゴッドなる語は、さきに第八節中に述ぶるごとく、数様の異義を有して、不可思議 不可知的の一体を義とするときと、普遍平等の理体を義とするときと、有意有智の造物主宰者を義とするときあ るも、ヤソ教に立つるところの天神はこの第三義の有意有智の造物主宰者を義とするをもって、今この体につい 39
てその有無を論究すべし。まずその天神の定義を考うるに、天神は無量の智と無限の力を有したる自存自立、永 遠無窮、絶対無比の霊体にして、天地万物を創造し、かつこれを主宰するものをいう。すなわち天神は大智至能、 公義博愛の本源本体とするなり。 第一九節 およそヤソ教者の天神の実在を証するに種々の事実を用うといえども、要するに左の四論に外なら ざるなり。 原因論 秩序論 進化論 道徳論 この四論のほか、歴史上の事実について推究する法あり。その条左のごとし。 第一 いかなる古代野蛮の人民も、多少天神あるを信ずること。 第二 いかなる英雄碩儒といえども、全く天神の念想を絶つことあたわざること。 この二者を合して仮にここに人性論と称す。人性論とは人、生まれながら天神の実在を知るの性あるをいう。そ の他、世界に神妙不思議なる事実あるをみて、天神の不思議なりと想定する一論あり。余はこれを神力論という。 故に余もまた本編を分かちて、左の諸論に排列するなり。 第一 原因論 第二 秩序論 40
第三 進化論 第四 道徳論 第五 人性論 第六 神力論 この順序によりて、余は天地万物は進化開発に外ならざるゆえん、およびその一物たるや無始無終、不生不滅に して、天神の創造にあらざるゆえんを証示して、有神論は全く無証の妄説に過ぎざることを知らしめ、しかして 結局に至りて唯物論中唯心論を開き、唯心論中理想論を発し、神物ともに心界の一現象に外ならざるゆえん、お よび心界また一理体の現象に外ならざるゆえんを略言して、純全の真理は仏教にあることを知らしめんと欲する なり。 仏教活論本論 第一編破邪活論
第二段原因論第一
第二〇節 前段配列するところの序次により、まず原因論の意を述ぶるに、ヤソ教者曰く、事物必ず原因あり て起こる、しかしてその原因はこれより生ずるところの事物に異なるもの、およびそのさきに存在するものなら ざるべからず。これによりてこれを推すに、天地万物にも一大原因あるべし、しかしてその原因は天地万物に異 なるものにして、かつそのいまだ開けざるときに、すでにまえに存在せるものなるを知らざるべからず、これ宇 宙に天地万物の本源本体たる造物主あるゆえんなりと。しかしてその論を証立するに左の事実を用うるなり。 41甲 人獣あれば必ずこれを生ずる父母あり、草木あれば必ずこれを生ずる種子あり。 乙 時計または舟車あれば、必ずこれをしてその作用を起こさしむる媒介者あり。 丙 家屋器械あれば、必ずこれを造出する職工作者あり。 丁 書籍あれば、必ずこれを述作経画する著者あり。 これヤソ教者の天神の存在を証するにつねに引用する事実にして、その意、天地万物は一大結果にして、これを 生ずる原因必ず別に存せざるべからずというにあり。 第一=節 今更にその意を敷術するに彼曰く、家屋器械は偶然に生ずるにあらずして、これを造出する大工の 手になるは明瞭なる事実にして、書籍のあらかじめ著者の思慮工夫に出でたるもまた疑うべからざる事実なり、 かつ時計の動くはあらかじめ人のその手をもってこれに運動を与うるにより、舟車の動くはあらかじめ蒸気、石 炭のこれにその運動力を与うるにより、人獣草木の生ずるはおのおのその父母、種子あるによるは、また人のみ な知るところなり。故にもし天地万物の本源にさかのぼりてそのなにものなるやを考うるときは、たやすく天神 の実在を想見することを得べし。すなわち天地万物は決して偶然に成るべき理なく、必ずこれを造出経営するも のなかるべからず。かつ世界の開発するや、必ずその開発の原種を作り原力を与うるもの別に存せざるべからず。 けだし我人の住息せる世界は物と力の二種より成るとするも、物には物の本体なかるべからず、力には力の本源 なかるべからず。かつその物と力の相待ちてよくその和合秩序を得るは、あらかじめこれを経営するものなかる べからず。この物と力の本源、本体となり、またよくこれを経営主宰するもの、これを天神という。故に曰く、 天神は有意有智にして宇宙万物を創造し、かつこれを・王宰するものなりと。これヤソ教者の立論なり。ただちに 42
仏教活論本論 第一編破邪活論 これをみれば、その論はなはだ道理あるに似たれども、深くその理を推究するときはたちまちその妄を知るに至 るべし。 第一=一節 この推論は要するに、一は天然の事物を見て宇宙に大原因ありと想し、一は人為に出つるものを見 て天地万物にも有意有智の創造者ありと定むるものなり。故に余は便宜のために原因論を分かちて二段となし、 その一を因果論と名付け、その二を創造論と称するなり。因果論とは自然の事物について宇宙の大原因を想定す る論にして、たとえば人獣草木の原種を推して天神の実在を想し、時計舟車の運動を見て天神の媒介を想するの 類をいい、創造論とは人為の成績について万物の創造者を想定する論にして、たとえば家屋に作者あり、書籍に 著者あるの理を推して、天神の創造主宰を立つるの類をいう。まず因果論について宇宙の大原因を想定するの妄 なるゆえんを示さんとす。その順次左のごとし。 第一 原因結果の関係は我人の天地間にありて経験上得るところの規則にして、天地の外にその規則を応用 するの理なし。 第二 第三 第四 第五 我人の経験するところの原因結果は、相対の原因結果にして、絶対の原因結果にあらず。 原因結果の関係は物質不滅、勢力恒存の規則より派出せるものなれば、この理によりて天神の実在を 証すべからず。 宇宙に大原始ありと想するは終局ありと想するによる。もしこれに反して無始無終と定むるときはこ の想像を生ずべき理なし。 宇宙は変化の諸象なれば、その象の外に常住不変の天神なかるべからずというも、その象の実体に至 43
第第第
八七六
第九 第二三節 も、 一点の雲も、 れを知るを因果の規則とす。今我人の棲息する世界は全くこの因果の経緯をもって組成せるものにして、 天地間の通則なること多言を費さずして知るべし。 して宇宙外に適用すべき理なし。第2図
りては不変なり。 宇宙は依立にして独立にあらずというも、依立相合するときはその体独立なり。 たとえ宇宙に大原因ありとするも、その原因必ずしも天地万物を主宰経営するにあらざるべし。 もし進みてその大原因はいかにして生ずるかを考うるに、因果の理、天神を構立し、天神、因果の理 を組成するにあらざるを知るべし。 もしまたさらに進みて、その大原因の起こるゆえんを考うるときは、天神全くわが心内に帰入するな り。 我人仰ぎて天地間の万象万化を観察するに、ただに人獣草木にその原因あるのみならず、一滴の水 一毛の塵も、一として偶然に生ずることなく、その生ずるは必ず生ずべき原因あるによる。こ 因果は しかれどもこれただ宇宙間のことのみ、決してこの規則を推 他語にてこれをいえば、これ宇宙内の事物と事物の間にわたる通則なれども、 宇宙自体と宇宙外の他体との間にわたる \果/ 通則にあらず。故に宇宙内にこの規則あ天神⋮⋮−⋮⋮ー宇因 因宙るをもって、宇宙外にもまたその規則あ
/果\、 るべしと推測論決するは論理の許さざる ところなり。もしこの規則を応用して宇 44仏教活論本論 第一編破邪活論 宙全体の大原因別になかるべからずといわば、これ宇宙内の規則をもって宇宙外の規則とするの難を免れず。た とえ宇宙外にその規則真に存するも、その果たして存するや否やは、我人のいまだ知らざるところにして、すで にこれを存せりと想定するときは、これ論理の規則に反するものなり。 第二四節 すでにそのしかるゆえんを知れば、目前の現象を見て天神の実在を想出するの非なること明らかな り。しかれどもまた必ずヤソ教者ありて説をなしていわん、わがいわゆる天神は全く宇宙を離れて存するにあら ず、宇宙の内外にわたりて存するなり、故に宇内の規則をもって天神に及ぼすことを得べしと。曰く否、天神は 宇宙の内外に存すというも、宇宙すなわち天神にあらず。もし宇宙をもって天神とするときは、ヤソ教は万有神 教とならざるべからず。すでに天神を有意有作の一個の造物主となすときは宇宙と同一ならざること論を待たず。 すなわち天神は能造者なり、宇宙は所造物なり。かつ第二〇節に述ぶるごとく、天地の大原因は天地にさきだち て存し、かつ天地と異なるものなりとする以上は、宇宙と別物なること明らかなり。しかるにあるいは宇宙は天 神の自体より派生せるをもって、天神と同一の規則を有せざるべからずというものあるべしといえども、その果 たして同一の規則を有するや否は今まさに証明せんとする点にして、すでに証明せるものにあらず。すなわち未 証にして既証にあらず。なんとなれば、もしすでに宇宙は天神の体より派生せるものなることを知れば、これす でに造物主あるを知るなり。いまだ造物主あるを知らざるに当たりて、早くすでに宇宙をもって天神の派生とな すはもとより論理の許さざるところなり。 第二五節 しかるに仮に一歩を譲りて、宇宙と天神と同↓の規則を有するものとするも、さきに第八節に仮定 するごとく、一部分の規則をもって全体の規則となすの理いまだ解すべからず。けだし一部分について経験する 45
ところのもの、必ずしも全体の上に適合するにあらず。たとえば物質には気形、固形、液形の三種ありて、液形 の一部分について経験するときは増減生滅の変化あるも、物質全体の上について経験するときは物質にはその定 量ありていかなる変化を受くるも、すこしも増減生滅なきを知るべし。故に一部分に増減あるをもって、全体の 上にもまた増減あるべしということを得ず。あるいはまた地球上至るところ東西の方位あるをもって、地球の外 に同一にその方位ありと思うも、地球の外に出つれば、東西南北の方位なきにあらずや。これによりてこれを推 すに、結果あれば必ずその原因ありというはこの宇宙内の事物と事物との間の事のみ、すなわち一部分の規則の み。しかして天神と宇宙の関係に至りては宇宙全体に関するものなり。しかるに一部分の規則を推して、宇宙も また一結果にしてその大原因たる天神別に存せざるべからずというがごときは、全く論理を知らざる妄論という べし。 第二六節 かく論定するときはヤソ教者また必ず説をなして曰く、一部分について経験するところのもの全体 の規則となるの例、全くなきにあらず、かつ天神のごときは我人の耳目の感覚をもって実験すべからざること明 らかにして、その存否を知るは全く推理法によらざるべからず、しかして推理より知るところのものことごとく 虚妄なりというの理なし、たとえば人の心性のごときはその体無形無質にして、わが耳目をもって視聴すべから ず、しかれどもその真に存するを知るにあらずや、また化学元素のごときは、その体微細微小にして我人の五官 の力これを感触するあたわず、しかれどもその現に存するを許さざるを得ざるにあらずや、また光線の媒介とな るエーテルのごときは我人の見るべからず、さぐるべからざるものにして、なおその存するを許すにあらずやと。 今この論難に答うるまた容易なり。第一に一部分の規則は、あるいは全体の上に適合せざることあり、あるいは 46
仏教活論本論 第一編破邪活論 適合することありとするときは、もとより一部分の規則は全体の規則にあらずと断言することをえずといえども、 これまた同時に一部分の規則は全体の規則なりと断言することを得ざるなり。しかるにヤソ教者は一部分の規則 を全体の上に及ぼして、天神は実に存せりと断言するは論理の反則なること明らかなり。もしそれ天神の有無は 耳目の感覚上知るべからざるをもって、推理想像によらざるべからずとするも、その想像と理学上の想像と同一 にみなすべからず。たとえば第一に心性または元素のごときは我人その実体を見ざるも、その作用はわが日夜目 撃するところなり。しかるに天神のごときはただにその実体を目撃すべからざるのみならず、その作用も物心の 作用を離れて別に実視すべからず。しかして我人の天神の作用と認むるものはみな物心の作用にして、たとえ物 心の作用は天神の生ずるところとなすも、その天神の作用はわが直接に知るところにあらず。しかるにヤソ教者 は心性および元素の存在は推究によりて知ることを得るをもって、天神の存在もまた推究によりて知ることを得 べしというといえども、その実二者の推究全くその性質を異にするをもって、論理上あにこれを同一視するの道 理あらんや。 第二七節 つぎにエーテルの存在のごときは全く理学上の想像説なるも、なおこれを天神の想像説に比すれば、 その間に真否を判ずることもとより容易なり。請う、試みにエーテル説には十分の真理なしとするも、七、八分 の真理ありと許して可なり、しかるに天神説はたとえ真理を有すとするも、真理の二、三分を有するに過ぎざる べし、なにをもってこれを知るや。曰く、エーテル説は今日にありては理学者一般に唱うるところにして、実験 上推究するにその存在を想定せざるを得ざる道理ありて存するをみる。これに反して、ヤソ教の天神説は学者の 一般に許すところにあらず、かえってこれを許すものは学者中の少数にして百中一、二人あるのみ。かつ天神を 47
想定せざれば、宇宙の解釈を与うることあたわざるにあらず、これただ宇宙解釈中の一説なるのみ。たとえ哲学 上の有神説は宇宙の解釈に必要なるものとするも、ヤソ教の有神説はその解釈に必要ならざること明らかなり。 故にそのいまだ一定せざる天神説をもって、理学上の考説と同一視するは、ヤソ教者の偏見なることまた疑いを いれず。 第二八節 論じてこの点に達すればヤソ教者必ずいわん、宇宙間の規則をもって宇宙の外に及ぼすことを得と するときは、神ありというも、神なしというも、みな我人の宇宙間の経験によるものなるをもって、神ありの論 もいくぶんの真理ありと許さざるべからず。もしまたその有無共に宇宙間の規則をもって知るべからずとすると きは、神ありの論に対して、これを虚妄なりとなすの論、また虚妄にして、神なしと断定するがごときは決して 論理の許すところにあらざるべしと。余これに答えていわんとす。余が論全く宇宙内の規則をもって宇宙外に及 ぼすことあたわずというにあらず、ただ宇宙内の規則必ずしも宇宙外の規則なるにあらずというにあり。他語に てこれをいえば、宇内の因果の規則は十分真なるも、宇外の天神の実在は十分真なるあたわずというにあり。か つそれ天神の有無のごときは全くわが耳目感覚の外にありて、想像上の推究によるより外なしといえども、想像 上の推究はいかなる説も同量の真理を含有するにあらず。これ余が第一五節中にすでに論ずるところにして、天 神なしというも想像説なり、天神ありというも想像説にして、共に実験説にあらざるも、両説相較するときはそ のうちに含むところの真理に差等ありて、一説は三分の真理を有し、一説は七分の真理を有するがごときことあ るべし。しかるに余が論究するところによるに、神なしと立つる説は、神あると立つる説よりかえって真理の元 素を含むこと多きを知る。他語にてこれをいえば、有神説より無神説の方かえって実験説に近きを知るなり。な 48
仏教活論本論 第一編破邪活論 んとなれば、ヤソ教者は因果論をもって有神説を立つれども、因果の規則を正当に応用すれば無神論を唱うるよ り外なければなり。しかるに因果の規則によりて有神論を立つるがごときは、全く論理の応用を誤るものなり。 その理は余がこれより論ぜんと欲するところなり。 第二九節 そもそも我人のいわゆる原因結果は相対の原因結果にして絶対の原因結果にあらず。およそ一原因 にしてこれに対待するものなく、常に独立自存して更にその原因の原因となるべきものなき、これを絶対原因と す。これに反して因果相対して存し、原因もこれをその原因の原因に比すれば結果となり、結果もその結果の結 果に比すればまた原因となりて、独立自存せざるもの、これを相対の原因とす。たとえば甲イロハの四個につい て、イはロに対しては原因なれども、甲に対すれば結果なり、ロはイに対すれば結果なれども、ハに対すれば原
第3図
甲 イ 口 ノ、 因なりとするときは、これいわゆる相対の因果なり。もしこれに反してイロハを合して一の結果とし、甲はその 原因にして更にほかに甲の原因となるものなきときは、これを絶対の原因とするなり。今ヤソ教はこの絶対の原 因を説くものにして、そのいわゆる天神は図中の甲にして、そのいわゆる天地万物はイロハなり。しかしてその 天神の実在を推知するはイロハの規則をもって甲に及ぼすによる。他語にてこれをいえば、イロハにおのおのそ の原因あるをもって、イロハを合したるものにも、またその原因あるべしと論定するなり。これあに論理の許す ところならんや。我人の知るところのイロ等の原因はなんぞや。曰く、相対の原因なり。相対の原因は絶対の原 因と同一なりや。曰く、大いに異なり。果たしてしからば、相対の原因を見て絶対の原因なかるべからずと論決 49するは、論理のその当を得たるものにあらず。けだしわが経験するところによるに、果あれば必ずその因あるは 事物の通則なるをもって、天地にもまたその大原因あるべしと推論するは一理あるに似たれども、そのわが経験 内の原因はまた一結果にして、その原因の原因別に存せざるべからず。しかるにその原因の原因あるを問わざる は、因果の規則の一部分をみていまだその全体を尽くさざるものなること明らかなり。たとえば父母は子の原因 とし、子は父母の結果とするも、子はこれを孫に対すればまた一原因にして、父母はこれを祖父母に対すればま た一結果なるがごとく、あるいは雲は雨の原因にして雨は雲の結果なるも、雲をもって海洋江湖より蒸騰する水 気に比すればまた一結果にして、雨をもって海洋江湖の内に潴溜する水体に比すればまた一原因なるがごとく、 我人の知るところの原因はみな相対の原因なり。しかるにこの理を推して、天地に大原因あり、万物に大原始あ りと論定するは、これ相対の原因の外に絶対の原因を立つるものなり。しかるにそのいわゆる絶対の原因はわが 全く知らざるところにして、もしわが知るところの原因をもって、天神のなんたるを推知せんと欲せばよろしく 天神もまた一結果にして、その原因の原因別に存すべしと論定せざるべからず。しかるにヤソ教者は天地万物の 大原因を天神に帰して、更にその天神の原因を問わざるは全く原因論を誤用するものにして、その論定するとこ ろのもの決して真理として許すべからざること明らかなり。 第三〇節 ヤソ教者あるいはいわん、わが宇宙間に経験するところの原因は相対なるも、その相対の原因を推 すときは独一の原因ありて存するを知るべし。たとえば世界に億万の人民あるも、古代にさかのぼりてその起源 を考うれば、ただ二、三の人民ありしを知るべく、草木禽獣もその今日に存するものを見るに、幾種幾類あるを 知らざるも、太初にはただ二、三の原種ありしを知るべきがごとし。この理によりてこれを推すに、世界万物に 50
仏教活論本論 第一編破邪活論 なるべき一物初めより存することは許さざるをえずといえども、その一物は天神の創造したるものなりというに ヤソ教にありては人獣動植おのおの別に天神の創造したるものとす。第二に進化論にありては動植の初祖本源と 化論と天神説の異同を挙ぐるに、第一に進化論にありては動植人獣は一源同祖より分化派生せるものと立つるも、 るといえども、ヤソ教者のいわゆる天神の存するを知るにあらざることは、多言を要せずして明らかなり。今進 れのみ。この理によりて推究するときは、天地万物の一大原因となるべきもの、太初に存せざるべからざるを知 ずると同一なり。これを世界の進化開発という。かの易に太極両儀を生じ、両儀四象を生ずというもの、またこ 、 あらず。しかるにヤソ教にありては万物おのおのその原種なかるべからざる以上は、その原種を創造するところ の天神存せざるべからずと論定す。これ天神説の進化説に合せざるのみならず、論理の規則に反するものなり。 けだし今日の実験に考うるに、動植人獣の同一の祖先より分化したるの理はすでに明らかにして、有機無機も同 一物より派生したるの理、また大いに信ずべきところあり。すなわち天地万物は一物の分化開発に外ならざるゆ えんを知るべし。これ近世唯物論の起こるゆえんにして、この説は第一に﹃バイブル﹄の創造説に反対するもの なれば、ヤソ教者がこれを目して妄誕不経の進化説とみなすものなりといえども、論理上進化説を追究するとき は一物開発説を主唱せざるをえざるものあり。たとえその説いまだ全く真とするに足らざるも、これを﹃バイブ 51
ル﹄の創造説に比していずれが妄、いずれが真なるを判ずるははなはだやすしとするところなり。 第一一=節 しかれどもこの論点のごときは後に進化説を論ずるに当たりて弁明すべきをもって、ここにはただ 開発進化説をもって天神説を証立すべからざる一点を論究せんとす。そもそも人にはその先祖の先祖ありて、本 邦にてこれをいえば我人は諾再︹イザナギ、イザナミ︺二尊の末孫、西洋にてこれをいえばアダム・イブニ人の 末孫なりとするも、その二人の先祖は果たして天神の創造に帰するより外なきか、あるいはほかにその原因を説 明すべき道理ありや。もしほかに説明すべき道理あるときは天神創造の想像説を用うるを要せざること明らかな り。けだしこれを見るべからず知るべからざる天神の創造に帰するは、畢寛人種の本源を解釈することあたわざ るによるのみ。しかるに今日にありてほかに解釈すべき道理ある以上は、もとよりかくのごとき空想説は全く無 用に属するを知るべし。もしまた万物一源論によりて太初に宇宙間に渾沌たる一物あり、次第に開発して鳥獣草 木、人類土石を現出するものと定むるときはなおさら天神創造説の不理なることをみるべし。たとえば試みに天 地万物の本源は太極なりとせんか。太極の体は決して天神にあらず。なんとなれば、その体両分四散して天地万 物となる以上は、天地万物の体すなわち太極ならざるべからず。太極は天地万物の外にありて、これを創造主宰 するものにあらざること明らかなり。しかるにヤソ教者は一方に天地万物の原種なかるべからざるをみて、他方 に創造主宰神を想立するは、ただに空想の範囲を脱せざるのみならず、畢寛一時の方便説たるを免れざるべし。 他語にてこれをいえば、天神を立つれば宇宙の解釈を与うるに便宜なりというにとどまる。故にその論もとより 論理上真なりと許すことあたわざるなり。 52
仏教活論本論 第一編破邪活論
第三段 原因論第二
第三二節 前段は主として、かのヤソ教者が天地万物の原種初祖となるべきものなかるべからざるの理を推し て、天神の現存を想定する一論に対してかくのごとき理なきゆえんを示したるのみ。もし万象万化の起源にさか のぼりて天地万物の進化開発を考うるときは、その開発はいかなる原力によりて生ずるかの問題を論明せざるを えざるなり。およそ物の進化開発するには必ず力の発生を要することは事実上明らかなることにて、宇宙の大機 関もまたその活動を始むるにさきだちてこれに与うるところの力なかるべからず。たとえば時計の動くは人のま ずこれにその力を与うるにより、舟車の運転も蒸気または人力のその運動を与うるによるがごとし。しかるにそ の力は天地にさきだちて天神の存するありて与うるものとするはヤソ教者の通説なれども、余をもってこれをみ れば、これ一も天神の実在を証するに足らざるなり。第一に天神を設けざれば果たして進化の原力を説明するこ とあたわざるか。もしいやしくもほかに説明すべき道理あるときは、天神の想定を要せざることもちろんなり。 たとえまたその道理なしというも、進化の一事はすこしも天神に関せざることなり。他語にてこれをいえば、物 の進化する以上はその進化を営むべき原力なかるべからずということを得るも、この理によりて別にその力を与 うるところの天神ありというの証となすの理なし。しかして時計の運動あるはこれにその力を与うるもの別に存 するによるというがごときは、これ全くその例を異にするものにして、第一に第八節中に弁ずるごとく、部分を みて全体を想定するの論難を免れず、第二に畢寛かくのごとき想像を起こすは天神と人為と同一視するによる。 53天神と人為とを同一にするの不当なる理はのちに至りて 主宰者の別に存する証となすの理、決してあるべからず。 もしこれをもって天神の実在を証するときは、あたかもイの存在をみて甲の存在を想定すると同一にして、これ あに論理の許すところならんや。なんとなればイの起源知るべからざるをもって、これを甲に帰するも、甲のな んたるまた知るべからざればなり。他語にてこれをいえば、一方の事物を知らんと欲してこれに代うるに、他方 の知るべからざるものをもってするがごとし。もし強いてかくのごとき証明法を許すときは、これ一時の便宜に よると評するより外なかるべし。すなわち万物万化の本源を知るべからざる有意有智の天神に帰するにあらざれ ば、無智蒙昧の衆人をしてその威力をおそれ、その徳性に感ぜしむること難きによるなり。しかして更に顧みて 天地万物の本源を考うるときは、あえて便宜の天神を設けざるも、学理上開発進化の原因を証明することを得べ し。この点は余がつぎに論ぜんと欲するところなり。 第三三節 もし因果論について天地万物の本源を考うるときはいかなる定説を結ぶべきやというに、物質不滅、 勢力恒存の理法の存するを知るより外なし。今そのゆえんを述ぶるに、因果論は一因あれば必ずその果あり、一 果あれば必ずその因ありといえる因果の規則に基づくものにして、この因果の規則は一事として偶然に生ずるこ となく、一物として率爾に滅することなく、その生ずるも、その滅するも、必ずしかるべき原因事情あるによる 54
仏教活論本論 第一編破邪活論 といえる実験に基づくものなり。しかしてこの実験は今日物質不滅、勢力恒存の理法の起こるゆえんにして、か の化学者が一物の変化して、あるいは気形となり、あるいは液形となり、あるいは固形となるも、同量の物質の 依然として存するありて、一分子たりとも真に滅するにあらざるを知るがごとく、また物理学者が一力の変化し て、あるいは運動力となり、あるいは熱力となり、あるいは電力となるも、その力の実量に至りてはすこしも消 滅することなきを知るがごとく、物質に生滅あるはその形体の変化にとどまり、勢力に増減あるもその事情の変 化にとどまり、その実体、実量に至りてはすこしも生滅あることなしという。もしこの規則を広く応用するとき は因果不滅の理を知るべし。すなわち物に増減生滅なく、力に増減生滅なき以上は、一事として偶然に生ずるこ となく、一物として偶然に滅することなく、一結果あれば必ずしかるべき原因あり、一原因あればまた必ずその 結果ありて、有を転じて無となし、無を転じて有となすことあたわざるの理に達することを得べし。故に余は物 質不滅、勢力恒存の理法は因果の規則と同 理に帰するものにして、因果の規則はこの理法の実在を示すものな りとするなり。 第三四節 しかるにヤソ教者は一因あれば必ずその果あり、一果あれば必ずその因ありというの規則を応用し