ントとの関係性の変化によって見えてくるもの
著者
箕曲 在 弘
著者別名
MINOO Arihiro
雑誌名
白山人類学研究会
号
17
ページ
59-70
発行年
2014-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006713/
白山人類学 17 号 2014 年 3 月
フィールド通信
「大学院生」から「バイヤー」へ――インフォー マントとの関係性の変化によって見えてくるもの 箕曲在弘*M
INOOArihiro
は じ め に
人類学者は調査対象となる現場のなかで,その 現場に関与する人びとの人間関係の網の目のなか に没入しながら,各々の掲げる研究テーマについ て探究することが求められている。この調査方法 は一般的に参与観察と呼ばれているが,この人類 学的な探究の営みは,一部の社会科学者から客観 性に欠ける非科学的な調査手法だと非難されるこ とがある。それは調査者の存在が調査対象者(イ ンフォーマント)たちとの関係の外側にいる「無 色透明」な存在なのではなく,インフォーマント たちの関係性に影響を与え,その関係性を変容さ せてしまいかねないと思われているからである。 とはいえ,今日の人類学者でこのような調査者の 属性がインフォーマントに与える影響について無 自覚な者は,もはやほとんどいないであろう。 そもそも調査の現場にインフォーマント以外に 誰がいるのかによって得られる情報が変わってく ることは,しばしば経験されることである。以下 の挿話は,筆者が学部生の頃に指導教員から聞い た話だが,それはまさにこの調査現場に居合わせ * 東洋大学社会学部;Faculty of Sociology,5-28-20, Hakusan,Bunkyo,Tokyo 112-8606 Japan / [email protected] た者が不可避的に帯びるエージェンシーの効果に ついて伝えている。 調査者がカンボジアの農村で幼い少女に将来何 になりたいのかを尋ねた際,その少女は農村にと どまって家業を継ぎたいと答えたのだという。し ばらく聞き取り調査をした後,その場に居合わせ たその少女の母親が退席し,調査者と少女の2 人 だけになったところ,少女は「実はさっきの答え は嘘で,将来は都会に出て工場で働きたい」と打 ち明けた。 この話は「母親」というエージェントが,少女 に母親の期待している回答をさせるように働きか けているといえる。単純なアンケート調査はこう いった調査現場の関係論的な問題を捨象し,調査 対象者が心の中の確たる信念をアンケート用紙に 回答するという前提に立っておこなわれる。だが, 調査現場において対象者に様々な効果を与えるエ ージェントの存在を考慮に入れるならば,アンケ ート調査の回答は時に怪しいものとなるだろう。 ただし,この挿話では調査者自身の存在が,イ ンフォーマントに何らかの効果をもたらすことが あるということまでは言及していない。もしかし たら,少女の「都会に出たい」という告白の背後 には,「私に都会での仕事を紹介してくれるかもし れない」という淡い期待があったかもしれない。 もし,調査者が農村の外部からやってきた異邦人 であるなら,その調査者が自然と帯びる属性が, 少女にそう思わせても不思議はないだろう。つま り,少女にとっては「母親」と同様に,「調査者」 もエージェントとなり,上記の状況における少女 の回答に何らかの影響を与えているかもしれない のである。 本稿は,このような調査者が帯びる属性の変化が,取得できる情報にどのような影響を与えてい たのかを,筆者のフィールドにおける自身の経験 をもとに考察していく。筆者はラオス南部のコー ヒー生産地で2008年から約2年のフィールドワー クを行ってきたが,フィールドに入ったすぐの頃 から,次第に時間がたつにつれて,インフォーマ ントたちが認識する筆者の属性が変化していった のではないかと考えている。より具体的に言えば, 「調査に来た大学院生」から,次第に「豆を買い 取りに来たバイヤー」という形で,筆者の属性が 変化していったといえる。この属性の変化が,ど うやらインフォーマントたちとの会話のなかでの 相手の回答に影響を与えていったように思えるの である。以下では,筆者がどのような立場でフィ ールドに入り,そこからどのように属性を変化さ せ,それに応じてインフォーマントの対応がどの ように変化していったのかを跡づけていく。
I フィールドへのかかわり方の変化
先述のように筆者は 2008 年よりラオス南部ボ ラベン高原のコーヒー生産地においてフィールド ワークを行い,現地の生産者の生活にフェアトレ ードの施策がどのように影響を及ぼしているのか を調査研究してきた。当初は「日本の大学に通う 博士課程の大学院生」という立場で,ラオス情報 文化省から調査許可を取得し,チャンパサック県 パクソン郡情報文化局に身分を保証してもらうな か,調査地での住み込み調査を実施した。2008 年, 本格的なフィールド調査を開始した際には,3 つ の村に焦点をあて世帯の家計調査を行う一方,現 地の生産協同組合に関するさまざまな関係者から 聞き取り調査を実施した。 そもそもこのラオスのコーヒー生産地域を調査 地として選んだのは,日本フェアトレード団体の 雄,(株)オルター・トレード・ジャパン(以下, ATJ と表記)が 2004 年よりラオスのコーヒーを日 本に輸入していたからである。ある雑誌をきっか けにこの事実を知った筆者は,現地の情報を担当 の方から聞き取るために東京都新宿区にある同社 のオフィスを訪れたのである。 ちょうど筆者が調査を開始した2008 年に,ATJ はこれまで豆を買い取っていたK 村だけでなく, 現地の日本人エージェントに任せて,新たに3 村 から豆を買い取るようになった。2008 年 12 月, アメリカやフランスに豆を輸出していたジャイカ フェ生産者協同組合(以下,JCFC と表記)のマ ネージャーを当時務めていたA氏から聞き取り調 査を行った際,「わたしたちJCFC が活動する村で 日本の企業が豆を買い取っているようだから,や めさせるように伝えてくれ」と忠告を受けた。自 分たちの活動する地域に断わりもなく入って豆を 買い取っていくのは,「豆の横取り」として受け取 られかねない。この「日本の企業」こそ,ATJ で あったわけだが,筆者は当時,ATJ とかかわりが あることを口外していなかったものの,JCFC の マネージャーから見れば,日本人なのだから当然 知っているだろうという思いで筆者に忠告したよ うである。 2009 年 1 月に一時帰国した際,ATJ のオフィス を再び訪れ,件の忠告について担当者に告げたと ころ,そういった協同組合があることを知らなか ったらしく,担当者の次の出張時にJCFC の様子 を伺ってくると話した。後日,この担当の方から の報告によれば,2009 年度の買取は JCFC の A 氏 に現地エージェントになってもらう打診をし,A箕曲:「大学院生」から「バイヤー」へ 氏はそれを受け入れたという。この時,今日まで つながるATJとJCFCの関係が始まったのである。 もっとも,ATJ と JCFC が提携して豆の買取を 始めたからといって,筆者は決してATJ の職員で はなく,あくまで「大学院生」として調査を続け ていた。とはいえ,ATJ の職員が筆者のフィール ドを訪問した際,全工程に同行したことをきっか けに,JCFC のメンバーからは,「ATJ の関係者」 として見られるようになっていった。そもそも 2009 年における筆者の調査は,親族関係や資源利 用などを中心に行ったのだが,一方でATJ がJCFC から豆を買う契約をしたことによって,筆者が買 取の経過をチェックするという名目でJCFC の会 合にも参加させてもらえるようになった。組織の 意思決定場面に部外者である調査者が入るのは容 易ではない。なぜなら買取価格など内部における 決定事項が関係者以外に漏れてしまうようでは活 動に支障をきたすからである。だが,日本のATJ という企業がJCFC の取引相手になったことによ って,筆者が関係者の一部として見られるように なり,関係者以外立ち入り禁止の状況にも身を置 くことができるようになったのである。 この結果,筆者の参与観察調査はかなり大きく 様変わりした。JCFC 内部の人々がそれ以外の人々 をどのように見ているのか,また内部の人同士は お互いをどのように見ているのかなど,人間関係 の様相が鮮明に見えるようになったのである。同 時に,さまざまな不可思議な出来事も目に付くよ うになった。筆者はATJ が送金した豆代がしっか り組合員たちにわたっているのかを確認したがど うしてもつじつまが合わなかったり,一見,仲が よさそうに見えたマネージャーと農民幹部たちだ がマネージャーがいなくなると農民幹部が彼に対 する不満を口にする場面に出くわしたりするよう になった。この過程で,だれがJCFC の実権を握 っているのかが徐々に見えてきたのである。 さらに,ATJ の担当者は常時,コーヒー産地に いるわけではなく,ふだんは日本にいるため,2009 年はJCFC の A 氏を通して豆を集めていたのだが, A 氏とのメールのやり取りに時間がかかるため, 結果的に筆者のもとにもATJ 側からのメールが届 くようになり,A 氏に代わって現地の情報を ATJ 側に伝えるようになった。この年は予定していた 量の豆が集まらず,前払いした報酬を一部回収し なくてはならなくなり,最終的には筆者がその回 収業務を担うようになった。この際も不自然な金 の流れを突き止めることになり,水面下でさまざ まなアクターが各自の利害に即して,金と豆の取 り合いをしている様子が見えてきたのである。
II 属性の変化がもたらす調査への功罪
これまでの筆者の調査に対する属性の変化から 言えることをまとめておこう。筆者はまず「大学 院生」という立場で調査対象者と出会い,おもに 家計調査を行ってきた。これは豆の買取に関する 利害関係者ではないため,家計調査において各世 帯の豆の量や売却先に関するデータは比較的正確 に集められたのではないかと考えている。とはい え,家計調査は 2009 年も行ったのだが,その際 JCFC 農民代表 U 氏が「JCFC 以外に豆を売っては ならないというルールがあるから,農民は実際に は仲買人や別の協同組合に豆を売っていたとして も,それは言わないだろう」と述べた。つまり, 家計調査という点では,「大学院生」から「バイヤ ー」という属性の変化は,家計に関する肝心な点に回答すらしてくれないという問題をもたらした のである。 一方,利害関係者ではない「大学院生」という 立場から「バイヤー」とみなされたことで逆に見 えてきたものもある。先述したように筆者の調査 前半では,団体の内部情報にアクセスすることは 難しかったが,「ATJ が買い取る」という大義名分 があったことによって,各世帯の土地利用状況の データや団体の財務情報などを提供してもらうだ けでなく,先述のように人間関係の詳細にまで踏 み込んだ様子をうかがい知ることができた。こう いった情報にアクセスできたのは,やはりJCFC 側が筆者をJCFC の関係者と認めてくれたからで ある。だが,JCFC の関係者になったことが,他 のバイヤーとの関係を悪化させてしまったともい える。たとえば,JCFC のライバルであった AGPC 側の情報はなかなか入ってこず,一度ATJ に同行 しAGPC のマネージャーに会ったきり,メールで の調査依頼に対して一切返信はなかった。おまけ に農民からはAGPCの悪口ばかりを聞くことにな り,筆者が帯びる属性に自覚的でなければAGPC に対する農民の悪口をそのまま素直に受け止めて しまいそうになる。 いずれにせよ重要なのは,「大学院生」から「バ イヤー」へと,次第に属性がシフトしていった点 である。最初からいきなり「バイヤー」として調 査地に入って行ったならば,JCFC にとって都合 のいい情報しか耳に入ってこなかったかもしれな い。たとえば,JCFC が関係者以外からどのよう に見られているかという情報は利害関係者には見 えにくくなる。実際,JCFC が社会的割増金を支 払っていないという話をある農民から聞いたのだ が,これは筆者が2008 年に JCFC とは関係のない さまざまな村の農民たちと出会っていたからこそ 聞けた情報であるといえる。立場の違いによって 入ってくる情報に違いが出てくることには,意識 的になっておくべきだと自覚させられた。
お わ り に
このように,調査者の属性がインフォーマント との関係のあり方に強く影響を与え,アクセスで きる情報にも変化をもたらした。「大学院生」から 「バイヤー」へとインフォーマントからの見られ 方が変わっていくにしたがって,新たに収集可能 な情報が増える一方,収集できなくなった情報も あった。しかし,この属性の変化を,身をもって 体験したことによって,片方の属性だけを帯びて フィールド調査をしていては見えてこない現場の 人びとの発言や,人びとの日常的なポリティクス を知ることができたのは間違いない。フィールド 調査の醍醐味は,調査者自身が現場で起こってい る出来事に巻き込まれ,それとともに関係性が変 化していくことを,そのまま受け入れ,体験して いくことにある。この上で,調査者自身の存在が インフォーマントにどのような作用を及ぼしてい るのかについて自覚的になり,経験そのものを振 り返り,何が起こっていたのかを冷静になってひ も解くことによってこそ,現場の複雑なポリティ クスの理解へとつながるのである。白山人類学 17 号 2014 年 3 月
資 料
追悼 高橋統一先生 松本誠一*M
ATSUMOTOSeiichi
は じ め に
東洋大学名誉教授,社会学博士(東洋大学)の 高橋統一先生が2014 年 2 月 18 日(火)未明,肺 炎により逝去された。享年86 歳。 葬儀は千葉県JR 四街道駅から徒歩 5 分の四街 道儀式殿において,印西市岩戸にある西福寺(臨 済宗妙心寺派)の僧侶を導師として,通夜が2 月 21 日(金)18 時から,告別式は翌 22 日(土)12 時半から,長男・高橋航三氏を喪主として挙行さ れた。佐倉市にある「さくら斎場」で火葬に付さ れた。 高橋先生は東洋大学を定年退職されて以降,筆 者の同席する範囲内では,東洋大学アジア文化研 究所,白山社会学会,白山人類学研究会などの研 究会等にしばしば顔を出されていたが,そのうち 夜間に及ぶ集まりには,視力との関係で「暗くな るとつまずいて転ぶおそれがあるから」と出席を 控えられるようになった。そして,奥様のご健康 * 東洋大学社会学部;Faculty of Sociology, 5-28-20, Hakusan, Bunkyo, Tokyo 112-8606 Japan / [email protected] 状態が悪くなると「家事を担当するので」と日中 の集まりにも参加されないようになった。それで も時折,葉書などで後進の活動に対して励ましの 言葉をかけていただいた。著作について
先生の略歴と著作目録は1998年3月に70歳で 定年退職された年に刊行された『性と年齢の人類 学 高橋統一先生古稀記念論文集』(岩田書院, 1998 年 7 月)にまとめられているので,ここで はそれ以降の追記すべきことなどを中心に足跡の 一端を記録する。 まず,上述の著作目録に補足すべき学術的論著 には,筆者の知る範囲で次の文献がある。 1998 「私とアジア・アフリカ文化研究所――宮 座調査から日韓漁村調査まで」『東洋大学 アジア・アフリカ文化研究所研究年報』 33: 229-239. 2000 『神なる王/巫女/神話――人類学から日本 文化を考える』岩田書院 2001 「年譜から見た民俗学と民族学の草創期--フレーザーの『神なる王』と折口信夫の『真 床覆衾論』にことよせて」『東洋大学アジ ア・アフリカ文化研究所研究年報』36: 1-29. 2004 「縄文丸木舟覚え書――房総の諸事例か ら」『東洋大学アジア文化研究所研究年報』 39: 132-102.2005 「『縄文丸木舟覚え書――房総の諸事例か ら』補遺」『東洋大学アジア文化研究所研 究年報』40: 52-50 2009 「座談会 白山社会学会の原点(Part 1)) 『白山社会学研究』16: 32-44. 1998 年の著作目録に集められたものは学術的 論文等に限られており,それ以外にも,一般向け に書かれた記事その他があるが,それは収集して いなかったので,他日を期したい。 2000 年,2001 年の著作に見える「神なる王」 は人類学上の大きなテーマであり,先生が講義の 際など,時おり天皇制に触れながら言及されたこ とを思い出す。先生が長年にわたり,このテーマ に対して学術的関心を持ち続けておられたことは 疑いのないところである。 縄文丸木舟については,現・東京大学検見川運 動場(千葉市)で1947 年に行われた発掘作業に 東洋大学も参加していたこと,その関係で東洋大 学にも縄文丸木舟が保管されているようになった 経緯などが説明されている。同じ発掘現場で4 年 後の1951 年に「大賀ハス」が発見されて,エジ プトと関連付けられたその「古代ハス」の方が一 般的には非常に有名となり,それに対して縄文丸 木舟は千葉県内でもあまり知られていない遺物と なっている。先生は,東洋大学内でも縄文丸木舟 が忘れられているのを憂いて,執筆されたもので ある。東洋大学に考古学専任教員がいなくなって 久しいので,高橋先生としては専門から多少外れ るが,人類学者として,また縄文丸木舟の歴史上 における深い価値を知るお一人として,新たな情 報も集めた上で起稿された。東洋大学に常設博物 館があれば,大学が保有する一級の文化財として 展示されるべき遺物である。人類学者,片山一道 氏などにより縄文人の遠洋航海が注目されている 中,世界文化史の中でも特異な位置を占める縄文 丸木舟は日本,中でも千葉県からの出土が多いの で,千葉県ももっと重要な文化資源として活用す れば良いと筆者も考える。 2~3 年前のある時,電話をいただいて,「日本 文化人類学会から退会するので,学会事務局に申 し入れて」という依頼を受けた。自ら年齢階梯を 上がるにつれ,主体的に身の処し方を選択されて きた様に窺える。
経歴について
先生は1927 年 10 月 29 日,東京上野で誕生。 東京で成長された。少し遅れて東京都立大学に入 学し,1954 年には引き続き都立大学大学院社会人 類学専攻に進学。同専攻の第2 期生であった。同 期に綾部恒雄(1930-2007),青柳清孝(1930-), 井川史子(Fumiko Ikawa-Smith)(1930-)が いた。当時の教授として岡正雄(1898-1982)・ 馬淵東一(1909-1988),助教授に鈴木二郎 (1916-2008),助手に住谷一彦(1925-)・蒲生 正男(1927-1981)・祖父江孝男(1926-2012), 1 期生として山田隆治(1929-)・北原(青柳)真松本:追悼 高橋統一先生 智子(1930-)がいた。1 期・2 期生の間では実年 齢は高橋が最年長であった。学部卒業論文は日本 の若者組を扱った長大な作品「日本における年令 階級制度と親族組織の社会人類学的研究」(上・ 中・下, 1954)(筆者未見)で,岡正雄が高く評 価したという。 1956 年 3 月に都立大学大学院修士課程を修了 し,1957 年 7 月には東洋大学文学部社会学科 (1959 年より社会学部社会学科)講師として就職 した。東洋大学社会学科には馬淵東一が1951 年 から1953年3月まで専任教員として勤めていた。 馬淵が都立大学に社会人類学専攻が開設されるの に合わせて移った後,東洋大学に人類学の専任教 員がいなかった空白を高橋が埋めた形になる。都 立人類学の1 期・2 期生の間では一番早い大学・ 研究機関専任としての就職であったという。そし て,1957 年には単著の教科書『文化人類学』をい ち早く刊行している。本書はコンパクトな中にも, 人類学用語が幅広く多く集められているところに 特色がある。 日本文化人類学会の前身,日本民族学会では, 機関誌『民族学研究』の編集委員長が泉靖一であ った期間,中根千枝(1926-)と二人で高橋は論 文箇所を担当する編集委員を務めた。第25 巻第 4 号(1961 年 9 月)から第 27 巻第 2 号(1963 年 3 月)までとなる。『民族学研究』の編集委員は, 第32 巻第 4 号(1968 年 3 月)から第 34 巻第 4 号(1970 年 3 月)まで再任している。32 巻の編 集代表者は川喜多二郎で編集部は東京工業大学川 喜多研究室として表示した。33・34 巻の編集代表 者は中根千枝で,33 巻 2 号(1968 年 9 月)まで 編集部は東京大学に置かれていたが,同3 号 (1969 年 3 月)以降は保谷市にあった民族学振 興会内に置いた。 1968 年 5 月 11 日・12 日には東洋大学で日本 民族学会第7 回研究大会が開催された。これは日 本民族学会会長であった関敬吾が引き受けてきた ものだが,事務局の実務は高橋と当時,大学院生 だった清水浩昭が主に担った。この大会のシンポ ジウムⅠでは「日本の親族組織をめぐって」,シ ンポジウムⅡでは「栽培民文化と稲作の起源」が 主題とされ,小山隆の特別講演「日本の家族と親 族」も行われた。その大会予告が『民族学研究』 第32 巻第 4 号(1968 年 3 月)に,大会報告要旨 が同第33 巻第 1 号(1968 年 6 月)に掲載されて いる。 高橋の東洋大学在職期間の前半20 年間は,人 類学を担当する専任教員は高橋一人であったが, 後半は芳賀正明(在任1978‐2001)の着任後は 2 人となり,松本誠一(在任1985-)が加わってか ら高橋の退職まで12 年間は 3 人になった。1973 年ころの社会学科卒業論文の担当学生数は高橋に 集中して多かった。口頭の指導は厳しくもあった が,ゼミ・レポートは必ず添削して返すという変 わらぬ姿勢に学生の信頼を集めたのであろう。
1975 年 5 月 12 日に高橋は「宮座の構造と変化 ――祭祀長老制の社会人類学的研究」で博士学位 を受けている。これは東洋大学社会学の論文博士 第1 号である。
白山人類学研究会との関係
白山人類学研究会は1990 年 10 月 25 日に第 1 回研究例会を開催,1992 年 6 月に会誌『白山人 類学』第1 号を創刊しているが,1990 年当時, 大学院社会学研究科社会学専攻で高橋の授業を受 けていた院生諸氏(立柳聡,簫紅燕,東(對馬) 秀子,金美榮,奥間葉子,小暮幸代,土屋久,酒 井出ほか)が,先生の授業時以外にも顔を合わせ る研究会をもちたいと盛り上がって,当時助教授 だった故芳賀正明と松本誠一や,文学部教養課程 に居た長野晃子,宇佐美隆憲も誘い,文学部助手 の舛谷鋭も賛同して参加し,発足したものであっ た。研究会運営や会誌発行のノウハウは主に博士 後期課程に居た立柳聡が明治大学などでの経験を 伝えてくれた。研究会の初期は非常勤講師として 来ていた清水浩昭(当時,厚生省人口問題研究所 部長)の親身な助言・支援を受け,6 年早く発足 していた白山社会学会の先生方も白山人類学研究 会の活動に理解を示され声援もいただいた。この 研究会は院生主体で発足したので,当初は院生共 同研究室に備品等を保管し,またとくに会長も置 かなかった。したがって高橋先生が会長になられ たこともないが,会誌第1 号には巻頭言を寄せて いただいた。そこでは,昭和初期のAPE 会,昭 和30 年代の青年人類学会,社会人類学研究会, アフリカ研究会などの草創時の息吹について記さ れ,白山人類学研究会の将来に向けた発展を期待 された。退職の際にはまとまった金額を研究会に 寄付していただいた。それで,将来にわたる会費 は免除という形でしばらく推移したが,引継ぎが 不十分でまた会費請求するようになったら,送金 してくださっていた。ともかく,研究会発足から 四半世紀近くに及ぶ現在までの間,その活動をず っと暖かく見守っていただいた。 研究会の中心メンバーは入れ替わり,先生と直 接親しく接する機会を十分持てない関係者が増え たが,新たなスタッフの努力で,編集・査読体制 を強化し作成されている学術誌としての充実を喜 んで高く評価していただけるようになっていたと したら,幸いである。白山人類学 17 号 2014 年 3 月
白山人類学研究会
白山人類学研究会は,東洋大学社会学部社会文化システム学科の教員を世話人として組織さ れている。定例研究会は,原則として毎月第3 または第 4 月曜日,東洋大学 8 号館で開催される。 また,2007 年度からは年次フォーラムを開催している。8~9 月は夏休み,2~3 月は春休みとし, 研究会は開催しない。研究会の案内は電子メールを通じておこなっている。 連絡先:研究会事務局[email protected]白山人類学研究会
2013 年度の活動
□ 2013 年 5 月 27 日第 1 回研究会 演題:中間集団としての生産者協同組合の社会的布置 ――ラオスにおけるコーヒー仲買人と農 民との関係を事例に 発表者:箕曲在弘(東洋大学社会学部助教) 要旨:一般に協同組合とは、参加による自己統治を通じて、住民を市場経済に適応させて貧困を 解消し、民主主義を実現する市民社会組織の一つだといわれている。一方で、この協同組合は、 人びとの自発的な行動を促す場となるだけでなく、統治の場ともなりうる。古くはエミール・デ ュルケームが、社会形成における道徳や社会規範、善や義務の観念を涵養する場として生産協同 組合を含む職業集団をみなしていた。したがって、協同組合は、私的領域である市場や公的領域 である国家の力を抑止する自立した領域である一方、それらのモラルを涵養する機能をも果たす、 そのような領域を指す。 とはいえ、このような協同組合の社会的な布置は、理念的なものであり、社会環境が異なれば、 さまざまな形態の協同組合が存立することになる。そこで本報告では、ラオス人民民主共和国南 部のボラベン高原における、コーヒー栽培に従事する農民を対象としたフェアトレード生産者協 同組合を事例に、協同組合と村落社会との関係性について考察した。とくに、村落社会において 力をもつコーヒーの仲買人と協同組合の運営メンバーとのやりとりに注目し、協同組合設立から、 今日に至るまでの組合メンバーと仲買人との結びつきを明らかにした。この事例から村落社会に おけるコーヒーの交易のあり方と、協同組合が目指す交易のあり方が相互に浸透しあうことによ って、協同組合の社会的な布置が国家や市場との関係においていかにして形成されているのかを 考察した。 □ 2013 年 6 月 24 日第 2 回研究会演題:南部アフリカ農民の生計変化――紛争国周辺農村を生きるアンゴラ移住民の60 年から 発表者:村尾るみこ(東京外国語大学研究員) 要旨:アンゴラ移住民は、南部アフリカの紛争国アンゴラから隣国ザンビアの農村へ紛争を理由 に移住した人びとである。彼らは、ザンビアへ移住した後、今日に至るまで、ナショナル・グロ ーバルレベルでの政治経済変化のなかで土地利用などに関する制約を受けている。本発表は、ア ンゴラ移住民の生計戦略にみられる創造性に注目し、政治経済変動下のアフリカ農民にみられる 諸特徴を検討したものである。特に、1)農耕技術の改変、2)現金稼得活動の創出に注目し、移 住先社会の厳しい環境で「粗放的」な農耕を基盤としながらニッチに入り込む戦略について総合 的に考察した。 □ 2013 年 7 月 22 日第 3 回研究会 演題:ラオスの歌掛け「カップ・サムヌア」の今 発表者:梶丸岳(日本学術振興会特別研究員) 要旨:ラオスでは主要民族であるラオ族によってカップラムと総称される掛け合いによる民謡 が盛んに行われてきた。だがこれまでラオス南部や東北タイのイサーン地方におけるカップラム のモノグラフが数本あるのみで、ラオス北部の歌掛けについてはほぼまったく報告がなかった。 本発表は2012 年度から行っている調査の中間報告として、ラオス北部ホアパン県で歌われる歌 掛け「カップ・サムヌア」が歌われる社会的環境について、特に歌掛けの場と歌い手間のネット ワークに注目しながら提示した。また掛け合いの内容についても現地で撮影した映像を紹介しな がら概略的に示した。この作業を通じてラオスにおける歌掛けがどういうものなのか、その歴史 的変遷を含めて現在分かっている範囲で明らかにした。 □ 2013 年 10 月 21 日第 4 回研究会 演題:現代のバリ島観光における「環境」と「文化」の接続――ウィスヌ財団の村落エコ・ツー リズム・プロジェクトを手がかりに 発表者:岩原紘伊(東京大学大学院博士課程) 要旨:1998 年にスハルト体制が崩壊して以来、バリ島観光を取り巻く状況は政策的にも社会的 にも変化しつつあり、持続可能な観光の実現が頻繁に議論の俎上にあがるようになっている。と りわけ2002 年と 2005 年の爆破テロ事件後の観光産業の落ち込みは、バリの人びとに観光産業 の脆弱性を強く印象付けることとなり、観光とバリ社会の関係性の再考を促すこととなった。今 日、特に観光に関心を寄せる知識人やNGO は、グローバルなレベルで推進が目指されている「持 続可能な観光(sustainable tourism)」、「責任ある観光(responsible tourism)」といった概 念を積極的に取り入れ、新しい観光概念を提起することを目指して活動している。そこで、本発
白山人類学研究会2013 年度の活動 表では、ウィスヌ財団の村落エコ・ツーリズム・プロジェクトを手がかりに、現代バリ観光をめ ぐる動向の中で、「環境」と「文化」がどのように結びついているのかを明らかにした。 □ 2013 年 11 月 18 日第 5 回研究会 演題:使い捨て文化を考える――中古品と非正規品の流通を事例に 発表者:小川さやか(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授) 要旨:アフリカ諸国へ輸出される古着は現地の衣類産業に壊滅的な打撃を与えながら、人びとの 衣料品消費を満たすうえで不可欠な商品として浸透した。今日では、中国や東南アジアからの廉 価でおしゃれな非正規品(コピー商品)が大量に輸入されるようになり、アフリカ諸国の衣料品 市場を席捲しつつある。こうした古着や非正規品の世界は、私たちの消費文化と密接に関わりな がら生み出され、それを維持・変容させてきた。本発表では、タンザニアにおいて古着と非正規 品が生み出している「もうひとつの使い捨て文化」を題材に、私たちの消費文化について考えた。 □ 2013 年 12 月 16 日第 6 回研究会 演題:日本で暮らし、日本を生きる中国朝鮮族――移動を繋ぐエスニック・コミュニティの諸相 発表者:権香淑(恵泉女学園大学非常勤講師) 要旨:中国朝鮮族(以下、朝鮮族)は、中華人民共和国が認定している55 のうちの一少数民族 である。朝鮮半島からの移住民であ り、国境の外に同じ民族が居住する跨境民族でもある朝鮮族 は、改革開放以降、とりわけ1990 年代以降、かつての居住地域であった中国東北部を離れ中国 内 の沿海都市をはじめ、ロシア、韓国、日本、アメリカなどへと移動し続けている。この朝鮮族 の移動性は、少数民族のなかでも際立った特徴と して位置づけられている。本報告では、このよ うな再移動 (twice migration)を経験する朝鮮族の日本への移動を取り上げ、その実態を把握 するとともに、エスニック・コミュニティの活動事例について紹介した。併 せて、それらの諸相 に含意される今日的意義についても言及した。