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先秦都城の門朝・城郭構造(一)─ 既存文献伝承にみえるその平面配置プラン ─

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先秦都城の門朝・城郭構造︵一︶

   

︱︱既存文献伝承にみえるその平面配置プラン︱︱

   

  序 本稿は表題のとおり、先秦都城の平面構造を、もっぱら既存文 献資料にたよって、とくに門・朝と内城・外郭の配置情況を対象 として復原しようとするものであるが、考察に先立ってどうして もことわっておかねばならないことがある。 三 十 五 年 ほ ど も 前、 ﹁ 春 秋 時 代 の 都 市 ︱ 城・ 郭 問 題 探 討 ︱﹂ と 題した小論を﹃東洋史研究﹄四六巻四号に掲載させていただく機 会があった。その内容は、 春秋時代の列国都城は原則として、 内 ・ 外二つの城壁をもつ内城外郭式構造をもっておいたことを、もっ ぱら﹃春秋左氏伝﹄の記事によって明らかにしようとしたもので あるが、紙幅の大半を割いてなんとか関連記事を羅列してみたも のの、何か物足りない感じがして、末尾に〝釋國〟と題した小節 を設け、 〝國〟 は本来内城部分のみを指し、 外郭の部分は含まなかっ たのではなかろうか、という年来の腹案を思い切って付け足すこ と に し た。 ︵ 以 下、 引 用 文 に お け る〝 國 〟 は そ の ま ま〝 國 〟 と 表 記し、本稿の叙述においては〝国〟と表記する︶ 。 その際、 よるべき唯一の資料として掲げたのが次の一文である。 宋人取 邾 田。 邾 人告於鄭曰、請君釋憾於宋、敝邑為道。鄭人 以 王 師 会 之、 伐 宋、 入 其 郛、 以 報 東 門 之 役。 宋 人 使 来 告 命。 公聞其入郛也、 将救之、 問於使者曰、 師何及。対曰、 未及國。 公 怒、 乃 止。 辞 使 者 曰、 君 命 寡 人 同 恤 社 稷 之 難。 今 問 使 者、 曰師未及國。非寡人之所敢知也︵ ﹃春秋左氏伝﹄隠公五年︶ 。 ︵﹃春秋左氏伝﹄では、郭は一般に〝郛〟という文字で表記さ れている︶ 。 この一文の意味は次のようなものであるはずである。 宋が 邾 の農地を奪うという事件が起こった。そこで 邾 は鄭に ﹁ 宋 へ の 憾 み を は ら し て い た だ け る な ら、 道 案 内 は 引 き 受 け ます﹂とたきつけた。そこで鄭は王室の軍隊を発動して 邾 の 軍隊と会合し、進んで宋を伐ち、 〝その郛に入り〟 、二年前に 宋をはじめとする列国軍に〝鄭国都城の東門を囲まれた〟戦 役の仇をかえした。宋は同盟国である魯に使者を遣わして援 軍を要請した。魯の隠公は、 鄭の軍隊が宋国都城の 〝郛に入っ

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た〟ことをすでに聞いており、もとより軍隊を出動させて宋 を救うつもりでいたが、念のため宋の使者に﹁敵軍はどこま で及んでいるか?﹂と訊ねたところ、使者は﹁まだ国には及 んでおりません﹂と返答した。すると隠公は怒って、救援軍 の出動を中止してしまい、使者にことわって、 ﹁宋君は私に、 社稷︵国家︶に危機が生じた際には、お互いに助け合おうと 約束されたが、今使者に訊ねたところ、敵軍は〝まだ国には 及んでいない〟とのこと。それであれば︵まだ社稷の危機と い う 段 階 で は あ り ま せ ん か ら ︶、 こ ち ら の あ ず か り 知 ら ぬ と ころです﹂といった。 これ以外の読解はないと思うが、要するにその主旨は   一.鄭の軍隊は宋国都城の〝郛に入った〟 。   二.魯の隠公はそのことを聞いており、もとより救援軍を出動 させるつもりであった。   三.魯の隠公の〝敵軍はどこまで及んでいるか?〟という問い に対して、宋の使者はなぜか事実をいつわって〝まだ国に及 んでおりません〟と応えてしまった。   四.それを聞いた魯の隠公は怒って、救援軍の出動を中止して しまったが、その理由は〝敵軍がまだ国に及んでいない状態 は、互いが助け合うべき社稷の危機︵社稷の難︶という段階 ではない〟というものであった。 の四点につきるであろう。鄭軍が宋国都城の 〝郛に入った ︵入郛︶ 〟 という事実を前提にしているのであるから、 〝敵軍はどこまで入っ たか︵師何入︶?〟と訊ね、それに対して事実をいつわって〝ま だ 郛 に 入 っ て お り ま せ ん︵ 未 入 郛 ︶〟 と 応 え た と 記 し て い れ ば、 難解でもなんでもないのであるが、なぜか〝敵軍はどこまで及ん でいるか︵師何及︶?〟と訊ね、それに対して事実をいつわって 〝まだ国に及んでおりません ︵未及國︶ 〟と、 〝入〟 という動詞を 〝及〟 という動詞に変えて記しているところに難解さが生じてしまって いるのである。 し か し、 〝 入 〟 と は あ る ラ イ ン を 越 え て ラ イ ン の 内 側 に 入 っ た 状 態 を 指 し、 〝 及 〟 と は あ る ラ イ ン の 至 近 に 到 着 し た が、 ま だ そ のラインを越えていない状態を指すという、字義上の違い、いい かえれば〝及ぶ︵及︶ 〟は〝入る︵入︶ 〟の一つ前の段階を示して いるという常識的な字義上の違いを前にすれば、解釈はむしろ単 純であると思う。すなわち、 〝郛に入る︵入郛︶ 〟をいつわるとすれば、当然〝いまだ郛に 入らず︵未入郛︶ 〟であるが、 それを〝いまだ国に及ばず︵未 及國︶ 〟という表現に変えて応えたのであるから、 〝いまだ郛 に入らず︵未入郛︶ 〟と〝いまだ国に及ばず︵未及國︶ 〟は同 じ 情 況 を 指 し て い る。 逆 に い え ば、 否 定 詞〝 い ま だ︵ 未 ︶〟 をとった〝郛に入る︵入郛︶ 〟と〝国に及ぶ︵及國︶ 〟は同じ 情況を指すことになり、したがって、もし宋の使者が〝郛に 入 る︵ 入 郛 ︶〟 と い う 事 実 を そ の ま ま 応 え て い れ ば、 そ れ は 当 然〝 国 に 及 べ り︵ 及 國 ︶〟 と な っ た は ず あ る。 つ ま り、 宋 の使者は、敵軍がすでに〝郛に入った︵入郛︶ 〟=すでに〝国 に 及 ん だ︵ 及 國 ︶〟 と い う 現 実 を、 一 つ 前 の 段 階 で あ る〝 ま だ 郛 に す ら 入 っ て い な い︵ 未 入 郛 ︶〟 =〝 い ま だ 国 に は 及 ん で

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はいない︵未及國︶ 〟といつわったわけである。        未入郛↓入郛        未及国↓及国↓入国 こうして考えてくると、 〝国に及ぶ ︵及國︶ 〟 とは、 〝郛に入って ︵入 郛︶ 〟、 国の一歩手前にまで到達した段階であるが、 しかし次の〝国 に 入 る︵ 入 國 ︶〟 と い う 段 階 に は ま だ 至 っ て い な い 情 況 を 指 し て いることにならざるをえず、それはその到達した場所は〝国〟の 範囲ではなかったこと、つまり〝郛〟の範囲は〝国〟の範囲では なかったことを示していなければならない。もし〝郛〟の範囲が 〝 国 〟 の 範 囲 に 含 ま れ て い た な ら ば、 郛 へ の 侵 入 は 当 然〝 国 に 入 る︵入國︶ 〟と記されたであろう。郛への侵入からさらに進んで、 その内側のラインを突破して内部に侵入して、はじめて〝国に入 る︵ 入 國 ︶〟 と い う 次 の 段 階 に 至 る の で あ る。 そ の 郛 の 内 側 の ラ インとはもちろん内城を囲む内城壁なはずであり、ここに、 〝国〟 は、本来郛の部分、つまり外郭部分を含まず、その内側の内城部 分のみを指しているという字義上の解釈にいきつくのである。 宋の使者は、入郛︵入郭︶という現実をその一つ前段階の未入 郛=未及國といつわったのであるが、 〝未入郛〟の〝入〟を〝及〟 を使って表現すれば、それは〝及郛〟なのであり、敵軍が郛︵外 郭︶ の外側へ到達しているといつわったことになる。 このいつわっ た情況であっても、都城の外郭すぐ近くにまで敵軍が到達してい るのであるから、かなりの重大事態であるとは思うが、実のとこ ろその情況は春秋時代の都城攻防戦にしばしば見られる、敵軍に よる一種の示威行動であることが多く、魯の隠公の認識では、そ れは社稷の危機という段階ではなかったのである。これに対して 郛︵外郭︶に侵入されたという、宋国都城で実際に起こっている 情 況 は、 そ の 内 側 の 内 城 壁 が 突 破 さ れ て、 内 城 内 の 宮 殿・ 宗 廟・ 社稷が制圧される事態が間近に迫っている情況であり、まさしく 社稷の危機であった。 魯の隠公は、おそらくその重大な危機を隠さず認めるよう、宋 の使者にせまったのであろうが、その際に使者に要求した回答が 〝 入 郛 〟 で は な く〝 及 國 〟 で あ っ た と い う の は、 ど う い う こ と で あ ろ う か。 〝 入 郛 〟 と い う 事 実 を す で に 知 っ て い た と 記 さ れ て い る以上、 要求する回答は 〝入郛〟 で何も問題はないはずなのに、 〝師 何入〟ではなくわざわざ〝師何及〟と問いただして〝及國〟とい う回答を引き出そうとしたのは、 なぜであろうか。 その理由は 〝入〟 と〝 及 〟 の 違 い に あ る の で は な く、 〝 郛 〟 と〝 國 〟 の 違 い に あ る のではなかろうか。郛︵外郭︶が周囲の付属区域であるのに対し て国︵内城︶は宮殿・宗廟・社稷の存在する都城の根幹部分であ り、 敵軍の外郭侵入という同一の情況を表示する場合にあっても、 〝 入 郛 〟 と い う 表 現 よ り も 〝 及 國 〟 と い う 表 現 の ほ う が 、 屈 辱 感 ・ 衝撃感・不面目感において各段に強いものがあったであろう。し かも、及国の次には入国があり、そして最終的には滅国があるの であるから、現実問題としても〝及國〟はただならぬ表現であっ たはずである。魯の隠公は、宋に最大限の屈辱感・衝撃感・不面 目感を与えようとして、わざわざ〝及國〟という回答を引き出だ そうとしたのにちがいない。それはある意味、 一種の〝嫌がらせ〟 であるといってよい。宋の使者にしてみれば、公室が存亡の危機

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に瀕していること自体がそもそも大きな屈辱・衝撃・不面目であ るし、さらに異姓の魯に腰を低くして救援軍を請わねばならない のも大きな屈辱 ・ 衝撃 ・ 不面目であったはずであるから、その上、 隠公からこのような仕打ちを受けては、もはや我慢の限界という も の で あ る。 だ か ら こ そ 彼 は 隠 公 の 問 い た だ し に 対 し て〝 及 國 〟 と い う 事 実 を 答 え る こ と が で き ず に、 我 慢 し き れ ず 一 瞬、 〝 未 〟 をつけて〝未及國〟といつわってしまったのではなかろうか。も しそうだとすると、使者の心中がわからないわけではないが、結 果として魯の救援軍を見込むことができなくなってしまったので あるから、それはそれで外交上の大失敗ということになろう。 〝 入 郛 〟 と い う 事 実 を 確 認 す る た め に な ぜ〝 師 何 及 〟 と い う 訊 ねかたをしたのか、それに対する右の理解にあまり自信はないの であるが、しかしともかく﹃春秋左氏伝﹄隠公五年の記事を以上 のように解釈することによって、国とは本来、内城・外郭のうち の内城部分のみを指したのではなかろうかという意見を提出して みたのであった。 ところがそれからほどなくして、岩波書店﹃図書﹄昭和四十八 年十 ・ 十一月号に、貝塚茂樹﹁中国の古代国家︵その一 ・ その二︶ ﹂ という文章が掲載されているのを偶然知ることとなり、さっそく ﹃貝塚茂樹著作集﹄を捜してみたところ、 ﹃第二巻・中国古代の社 会 制 度 ﹄ の な か に、 ﹁ 中 国 の 古 代 国 家 覚 え 書 き ﹂ と 改 題 さ れ て 採 録されていることが判明した。読過していくと、古代人の国家像 を論じた部分に、はたして﹁左伝のエピソード﹂として隠公五年 の問題の記事が取り上げられている。 ﹃著作集﹄が刊行された際、 ﹃ 第 一 巻・ 中 国 の 古 代 国 家 ﹄ 以 外 は ほ と ん ど 目 を 通 さ な か っ た 怠 慢が、このような重要な見落としを生んでしまったのである。 そこには隠公五年の原文は引用されていないけれども、貝塚博 士は次のように述べられている。    魯の君主が﹁国に入るとはどうしたのか、本当に国に入った のか﹂とよく問いただしてみると、実は郭に入っただけであ ると。つまり近郊の郭で囲まれた部分に入っただけだという ので、初めは援軍を出そうと思ったのですが、それならそん な必要はないのではないかというので、援軍を出すのを中止 したということがあります。⋮⋮。それはいったい国の中に 入 っ て き て い る の か ど う か と い う こ と に つ い て、 国 の 中 へ 入ってきているのだったら大事件だから、親しい魯の国とし ては、 ぜひ援軍を出すべきであるけれども、 郛︵外郭︶に入っ たぐらいのことだったら、それはほんとに国に入ったのでは ないではないかということがあって、援軍を出すことを見合 わせたという話が一つの物語として伝えられたのです。 隠公が問いただしたのは 〝及國〟 かどうかということであって、 〝入 國〟かどうかを問いただしたわけではない。にもかかわらず博士 がなぜ〝国に入る〟という表記を用いているのか、いきさつはわ からないけれども︱おそらく万巻の読書量をほこる碩学にありが ちな記憶違いであろう︱、 しかし〝郛に入る〟ことと〝国に入る〟 ことを別段階の状態としてとらえていることにかわりはない。す なわち、博士自身も〝国は郛︵郭︶を含まず、その内側の内城だ けが国であった〟と考えておられた可能性が、きわめて高いので

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ある。 畏敬すべき碩学の意見が、結果としては自身の意見と同じであ ることにいささかの感慨をおぼえて、 見落としをわびるかたがた、 博士の意見を紹介する文章をすぐにでも公表しようと思ったので あるが、さまざまな事情が重なるうちに歳月はすぎ、三十数年が 流れてしまった。今ここに、往時の見落としを故博士と読者諸賢 にあらためてお詫びしたいと思う。これが、本稿の考察に先立っ てどうしてもことわっておかねばならないことなのである。   都市国家・戦士国家・祭祀共同体国家などの概念によって説明 される、故博士の先秦都城研究の成果はまことに豊富であり、今 日でも古代都城研究の貴重な指針である。直接の引用は避けたけ れども、本稿の執筆にあたっても多くの点で参照したことはいう までもない。   なお、中国古代都市国家説といえば、故博士とともに故宮崎市 定 博 士 が 双 璧 と い う こ と に な る が、 ﹁ 中 国 城 郭 の 起 源 異 説 ﹂ を は じめとする宮崎博士の先秦都城研究の成果もやはりすこぶる豊富 であって、本稿がいくつかの点でそれらの成果を参照しているこ ともまた当然である。   ところで、両博士が先秦都城の諸問題を相互に直接議論するこ とはあまりなかったらしいのであるが、ただ﹃貝塚茂樹著作集第 一 巻・ 中 国 の 古 代 国 家 ﹄﹁ あ と が き ﹂ の 次 の 一 文 だ け は 見 落 と し てはならないのではなかろうか。 実は封建制か都市国家制かは、二者択一で決せられるべきで はなく、 中間項を立てる考え方もある。マックス ・ ウェーバー は古典時代以前のギリシャ都市国家を封建的と呼び、都市封 建制という範疇を作った。おそらく、ウェーバーの学説とは 独自に構想されたと思われる宮崎市定博士による﹁封建的都 市国家﹂という概念がある。博士によると、周が殷を平定し た後、その領土を一族に支配せしめるとき、都市国家の形式 を 採 用 し た が、 そ れ ら の 都 市 国 家 の 君 主 は 周 本 国 に 臣 属 し、 封建制度によって統合されたと解釈し、封建的都市国家とい う名称を使われた。これに対して、これは都市国家制と封建 制の矛盾概念を結びつけたものとして非難する論者もあった が、ウェーバーもこれと同じ術語を用いていたことは意識に 上らなかった。   両博士にしてみれば、都市国家制と封建制が矛盾概念であると いわれても、おそらくどう答えてよいのか、とまどったのではな いだろうか。一個の都市が君主のもとに、あたかも一つの独立国 家としての状況を呈しながら、一方でその君主が他の都市国家の 君 主 に 臣 従 し て い る と い う 状 況 は、 ご く 普 通 に あ り う る こ と で あって、矛盾でもなんでもないのである。両博士がまず注目した の は、 そ の 二 つ の 状 況 の う ち の 各 都 市 の 独 立 性 の 強 さ で あ っ て、 これを表示しようとして都市国家という用語を使用されたのであ る。したがって、もう一方の各君主間の主従関係の強さを強調し ようとすれば、当然それは封建制としか表示しようがないであろ う。両博士が明らかにしようとしたのは中国古代の政治的現実で あって、その現実を説明するためにある場合には都市国家という 用語を、ある場合には封建制という用語を持ち出されているので

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ある。両博士が問題としているのは過去の現実であって、その現 実のある場面をより正確に表示しようとして、都市国家という用 語が適切である場合にはそれを使用し、封建制という用語が適切 である場合にはそれを使用したまでにすぎない。歴史研究におけ るこの当たり前の方法を、故貝塚博士のこの一文を読んで、今一 度かみしめなければならないと思う。   本稿が復原しようとしている先秦都城の門朝・城郭構造は、そ の復原の結果において両博士の都市国家説を、わずかな程度では あるが補強するものと予想されるが、それにつけても両博士に見 習ってできるだけ正確に現実を復原しなければならない。その意 思の確認をこめて、 この場を借りて、 ﹃著作集第一巻﹄ ﹁あとがき﹂ の一文を掲げてみたのである。   いささか異例な序文となってしまったが、こうして三十数年来 の胸のつかえを解消して、以下にはまず既存文献伝承のみをたよ りに先秦都城の門・朝と内城・外郭の配置構造を復原してみたい と思う。もっとも、この試みに対しては、何を今さらという非難 が 起 こ る で あ ろ う。 実 際、 鄭 玄 か ら は じ ま っ て 清 朝 の 学 者 た ち、 そして近年の賀業矩氏やそれこそ貝塚博士や宮崎博士にいたるま で、数多い学者たちが残存資料を網羅的に駆使して緻密な考証を 重ね、精確な意見を出してきているのである。確かに、付け足す べきものはもはやないというのが実情であろう。ただ万に一つの 確率ではあろうが、付け足すものが見つかるかも知れない。この 万一の可能性への期待が、本稿執筆をあえて実施する第一の理由 である。また、この課題における基本的資料はもちろんいわゆる 儒家経典が中心となるが、従前の学者たちがそれら古典の解読に いかに苦心しているか、その有様は見ごたえ十分である。見ごた え十分まではいかないであろうが、しかし自身もその苦心を少し でも味わってみたい。それが本稿執筆をあえて実施する第二の理 由に他ならない。   本稿の考察は次のような順序でもって進められる。   一. ﹃周礼﹄の記事から、 ﹃周礼﹄の作者︵作者たち︶がイメー ジしていた、周王朝都城の門朝・城郭配置構造を復原する。それ は具体的にいえば、作者が想定していた〝周王朝の制度にもとづ く 都 城 構 造 そ の も の 〟、 も し く は 作 者 が 想 定 し て い た〝 儒 家 的 理 念 か ら し て こ う で あ っ た は ず で あ る と 考 え た 都 城 構 造 〟 で あ り、 い ず れ に せ よ、 い う な れ ば 儒 家 的 理 想 型 と し て の〝 周 制 プ ラ ン 〟 ということができるであろう。なお、 必要な限りにおいて﹃礼記﹄ などの記事も参照する。   二. ﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ の 記 事 か ら、 春 秋 列 国 都 城 の 門 朝・ 城 郭 配 置構造を復原する。これは春秋時代に実際に存在した、実情とし ての配置構造ということができるであろう。なお必要な限りにお いて﹃国語﹄などの記事も参照する。   また、資料の読解に際しては、次の二点に留意している。   一. ﹃ 周 礼 ﹄ や﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ の 読 解 に あ た っ て は、 注・ 疏 を はじめとする後世の解釈をなるべく参照しない。注・疏などには きわめて有用な意見も多いのであるが、しかし、それは後世人の 解 釈 で あ っ て、 ﹃ 周 礼 ﹄・ ﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ の 原 文 の 認 識 と は、 実 は 必ずしも同じでないものもかなり存在するはずである。本稿が明

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らかにしたいのは、 ﹃周礼﹄ や ﹃春秋左氏伝﹄ 自身の認識であって、 し た が っ て、 ﹃ 周 礼 ﹄ や﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ の 原 文 自 体 を 彼 此 相 互 に 照合するという方法にできるだけ徹したいと思う。   二.近年先秦都城をめぐる考古資料の増加にはめざましいもの があるが、それらの導入はこの既存文献伝承による作業が終了し たのちに実施したいと考えている。というのも既存文献伝承の情 報を考古資料でもって検証するのは、やはり既存文献伝承を精査 したのちが好ましいのではないかと、単純に考えているからであ る。 一. ﹃周礼﹄の記事から想定される周王朝都城の門朝・城郭 構造   ﹃ 周 礼 ﹄ は 周 知 の よ う に、 そ の 成 立 年 代 に つ い て さ ま ざ ま な 議 論がある経典であり、その内容もはたして周王朝が創設した制度 をどこまで正確に伝えているのか、異論の多い経典である。極端 に い え ば、 ﹃ 周 礼 ﹄ に み え る 周 王 朝 の 制 度 は、 後 世 の 儒 者 が 捏 造 し た ま っ た く 架 空 の 制 度 で あ っ て、 ﹃ 周 礼 ﹄ に 見 え る 制 度 な ど 実 際は何も存在しなかったいう意見さえ可能であろう。それにもっ とも問題となる﹁冬官考工記﹂は、ある時点で亡失してのちに付 加 さ れ た も の な の で あ る か ら、 都 城 構 造 に つ い て の イ メ ー ジ と い っ て も﹁ 冬 官 考 工 記 ﹂ と 他 の 五 官 で は そ も そ も 異 な る の で は、 ということも考慮しなければならない。   これに対する本稿の立場は次のようなものである。 ﹃ 周 礼 ﹄ の 作 者︵ 作 者 た ち ︶ は、 西 周 時 期 以 降﹃ 周 礼 ﹄ 成 立 時期に至るまでの周王朝の都城構造について、なんらかの認 識 を も っ て い た は ず で あ り、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 記 事 は そ れ ら の 認 識 を前提として書かれているはずである。したがって、 ﹃周礼﹄ の原文からそれらの認識を抽出して整理すれば、そこに一つ の 都 城 構 造 が 復 原 さ れ る こ と に な る が、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 儒 家 経 典 としての格付けからすれば、それは儒家たちが描いたさまざ まな都城構造のうちでも、もっとも早くに描かれたもっとも 本源的な都城構造ということができるであろう。本稿はこれ を周制プランと呼ぶのであり、その周制プランを﹃周礼﹄の 資料的性格を右のようにとらえたうえで復原しようと思うの で あ る。 ま た 周 制 プ ラ ン に つ い て の 認 識 に お い て、 ﹁ 冬 官 考 工記﹂と他の五官に異なるものがあるのかも知れないが、し かしはっきりとは認められないし、もし認められたとしても 周制プランの復原に決定的な影響を与えるほど大きなもので はないのではなかろうか︱この点については一文を草する必 要があろうが︱。気にはなるが、本稿ではこの問題はとりあ えず無視しておきたいと思う。   さ て、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 示 し て い る 門 朝・ 城 郭 の 配 置 構 造 と い え ば、 その﹁冬官考工記﹂ ︿匠人﹀の次の一文をまず掲げねばならない。 匠人営國。方九里、旁三門。國中九経九緯、経涂九軌。左祖 右社。面朝後市。市朝一夫。夏后氏世室。堂脩二七、廣四脩 一。 五 室。 三 四 歩、 四 三 尺。 九 階。 四 旁 両 夾 窻。 白 盛。 門、 堂三之二、室三之一。殷人重屋。堂脩七尋、堂崇三尺。四阿

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重屋。周人明堂。度九尺之筵、東西九筵、南北七筵。堂崇一 筵。五室。凡室二筵。室中度以几堂、 上度以筵宮、 中度以尋、 野度以歩、涂度以軌。廟門容大扃七个、 闈 門容小扃参个。路 門不容乗車之五个。応門二徹参个。内有九室、九嬪居之。外 有 九 室、 九 卿 朝 焉。 九 分 其 國、 以 為 九 分、 九 卿 治 之。 王 宮、 門阿之制五雉、宮隅之制七雉、城隅之制九雉。経涂九軌、還 涂七軌、野涂五軌。門阿之制、以為都城之制。宮隅之制、以 為諸侯之城制。還涂、以為諸侯経涂。野涂、以為都経涂。 拠 る べ き ま と ま っ た 唯 一 の 記 事 で あ る﹁ 冬 官 考 工 記 ﹂︿ 匠 人 ﹀ の 一文は、このように簡単なものである。簡単なばかりか、これで は各門・各朝の配置情況、内城・外郭の配置情況を復原しようが ない。したがって、復原にはどうしても五官の記事を参照せざる をえなくなるのである。以下に、五官の記事を使っていくつかの 情況を復原してみようと思う。 ︹治朝と路門︺ ﹁天官﹂ ︿宰夫﹀に次の一記事がある。   宰夫之職、掌治朝之 灋 。以正王及三公・六卿・大夫・羣吏之 位。掌其禁令、敘羣吏之治、以待賓客之令・諸臣之復・萬民 之逆。   こ れ に よ る と、 〝 治 朝 〟 と い う 広 場 で の 会 同 に お い て 所 定 の 場 所︵位︶が与えられていたのは、王・三公・六卿・大夫・羣吏で ある。すなわち、三公・六卿・大夫・羣吏が、治朝に入りそこで の会同に参加することを許された身分の保持者であったというの である。ここに六卿・大夫と並んで見えているのは〝士〟ではな く〝羣吏〟であるというのはいささか奇異であろうが、この疑問 は﹁夏官﹂ ︿司士﹀の一文によって容易に解消される。 正朝儀之位、辨貴賤之等。王南郷、三公北面東上。孤東面北 上。卿・大夫西面北上。王族故士・虎士在路門之右、南面東 上。大僕 ・ 大右 ・ 大僕従者在路門之左、 南面西上。司士擯、 孤 ・ 卿特揖、 大夫以其等旅揖、 士旁三揖。王還、 揖門左、 揖門右。 大僕前、王入内朝、皆退。   この朝儀に参加しているのは、王 ・ 三公 ・ 孤 ・ 卿 ・ 大夫 ・ 故士 ・ 虎士・大僕・大右・大僕従者であるが、王のもとに三公・卿・大 夫が参集しているというのは、 ﹁天官﹂ ︿宰夫之職﹀の治朝での会 同と同じであり、この朝儀が治朝で行われたことはまちがいない であろう。そして、 朝儀の最後に孤と卿が 〝特揖〟 、大夫が 〝旅揖〟 、 〝 士 〟 が〝 旁 三 揖 〟 と い う お 辞 儀 を す る と い う の で あ る か ら、 こ の朝儀に士身分の者も参加していたわけである。もっともその士 身 分 の 者 と は、 王 の 右 側 と 左 側 に 南 面 し て 整 列 し て い る、 故 士・ 虎士や大僕・大右・大僕従者に任じられている士身分のものをい うのか、そうではなく三公・孤・卿・大夫の背後に整列していた であろう士身分の者をいうのか、はっきりしないけれども︱おそ らく後者の可能性が高いであろうが。この点については、後掲す る﹁秋官﹂ ︿朝士﹀の〝左九棘、孤 ・ 卿 ・ 大夫位焉。羣士在其後。 〟 という一文が参考になる︱、この治朝での朝儀に士身分の者が参 加していることに変わりはない。そもそも、参列者の侍立位置を 差配する職位が〝司士〟と呼ばれていることが、このことを何よ り裏付けているであろう。つまり、

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﹁天官﹂ 〝宰夫〟   三公︱六卿︱大夫︱羣吏 ﹁夏官﹂ 〝司士〟   三公︱   ︱大夫︱   という対応関係が確認されるのであって、羣吏は士身分の者に 他ならず︱士身分の者で何らかの職位に就いていたものに違いな い ︱、 ︿ 宰 夫 之 職 ﹀ に お い て も︿ 司 士 ﹀ に お い て も、 こ れ よ り 下 位の者の参加は見えないのであるから、つまり治朝の会同に参加 することを許された最下位身分は士身分であったことが知られる のである。もちろん最下位といっても、卿・大夫に比べてのこと であり、結局のところ、卿・大夫・士という、よく知られる貴戚 階層だけが治朝に入ることを許されたのである。   ところで、この︿司士﹀の一文に、 ﹁冬官考工記﹂ ︿匠人﹀がか かげる廟門 ・ 闈 門 ・ 路門 ・ 応門のうちの〝路門〟が、 〝王族故士 ・ 虎士在路門之右、大僕・大右・大僕従者在路門之左〟という文面 において登場している。この路門とはどこに位置していたのであ ろうか。 ﹁春官﹂ ︿小宗伯﹀ に 〝縣衰冠之式于路門之外〟 とあって、 小宗伯の職掌範囲からして、どうやら治朝に面する門であったら しいと推測されるのであるが、この記事だけではなんとも判定し よ う が な い。 そ こ で︿ 司 士 ﹀ の 一 文 を 今 一 度 読 み 進 め て み る と、 朝儀の最後に王が門の左 ︵東︶ と門の右 ︵西︶ に向かって会釈し、 大僕が先導して王は〝内朝〟に入り、これで会同は終了となって 参加者も退出していくと記されている。その際、王は当然何かの 門をくぐって内朝に帰っていったはずであるが、その門は、王族 故士・虎士がその門前の右︵西︶に整列し、大僕・大右・大僕従 者がその左 ︵東︶ に整列していた路門をおいて他はないであろう。 王が会釈し終わると、大僕が列から離れてまず路門をくぐり、彼 を先導役として王が続いて路門をくぐるのである。つまり、路門 は朝儀の広場である治朝とその内側の内朝をつなぐ門であり、治 朝に南面していたわけである。   治朝で会同がある場合には、まず三公・孤・卿・大夫・士たち が 治 朝 に 集 合 し て 所 定 の 位 置 に つ き 静 か に 王 の 出 御 を 待 っ て い る。ほどなくして王は、︱おそらく大僕に先導されて︱路門をく ぐって内朝から治朝に出御し、居並ぶ百官に南面する。その王の 位置は、もちろん路門の南端を出たすぐのところであったにちが いない。その際、王の面前の広場に三公は北面し、孤はその西側 で東面し、卿・大夫はその東側で西面しているのに対して、王族 故士 ・ 虎士と大僕 ・ 大右 ・ 大僕従者という、おそらくは三公 ・ 孤 ・ 卿・大夫よりは身分ランクの低い、士身分に属する者と思われる 者が、路門の右・左に、つまり王の右・左に南面して並んでいる のはなぜだろうか。理由の推測はそれほど困難ではない。故士と は士身分の者のなかでも王及び先王ととくに関係の深い由緒ある 者、虎士とは士身分の者のなかでもとくに勇猛な者を指している に違いなく、彼らはいわば譜代の兵士・精鋭の兵士として、王の 護衛役を勤めていたのであろう。また、大僕 ・ 大右 ・ 大僕従者は、 その字面からして王の秘書役であったに違いなく、王の侍従役を 勤めていたのであろう。 王の出入に際して先導役を務めるという、 大僕の職務は侍従役の一つの重要な仕事なのである。つまり、彼 らは王を護衛し王の行動を補助するために王の左右に近侍してい たのであり、王を守護しようとする意識がもっとも高く、王の信

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頼もまたもっとも篤い存在であったと思われる。王の手足として の活動に任じられているのであるから、王の左右至近の位置に立 侍していなくてはならないし、治朝でもし不測の事態が起こった 場合、決してそれを見落としてはならない。彼らが南面していた のは、治朝全体を見渡し監視するためであったとみて、まちがい ないであろう。   こうして、卿 ・ 大夫 ・ 士身分の百官が会同する治朝という朝と、 治朝に南面し、内朝・治朝の出入門である路門の存在が確認され るのであるが、これに関連して二つの門をあげておきたい。   一つは、 ﹁地官﹂ ︿師氏﹀の〝居虎門之左、司王朝〟という記事 に見える虎門である。王朝とは王の視朝、つまり王が出御して百 官と会同することであるから、 それは治朝で行われたはずであり、 したがってその際に師氏が待機した虎門とは路門の別名というこ と に な る。 路 門 が な ぜ 虎 門 と も 呼 ば れ た の か は っ き り し な い が、 虎士がその右︵西︶に侍立していたことと無関係ではないであろ う。   一つは、 ﹁夏官﹂ ︿大僕﹀の〝建路鼓于大寝之門外而掌其政〟と いう記事に見える大寝之門である。前掲したように、王の出御に 際して路門の左︵東︶に侍立するのが大僕の重要な職掌であった ことからしても、また〝路鼓〟という表記からしても、この路鼓 の〝路〟が路門の路であったことはまちがいない。とすると、そ の路鼓が建てられた大寝之門外の大寝之門とは、 路門そのものか、 そうでないにしても︱路門の南側は治朝という広場で門は存在し ないのであるから︱、路門内側の内朝諸門のなかの路門からそう 遠 く な い 門 で な け れ ば な ら な い。 前 者 が 正 解 で あ る と は 思 う が、 それはともかく、その門が〝大寝之門〟と呼ばれているのを見落 とすわけにはいかないであろう。路門そのものであるにしろ、内 朝 諸 門 の 一 つ で あ っ た に し ろ、 〝 大 寝 〟 と い う 表 記 は、 王 の 寝 所 を示しているからである。つまり、 ﹁夏官﹂ ︿司士﹀に見える〝内 朝〟は、 王の寝所が配置された、 いわば王の私的な生活空間であっ たことになるのである。 ︹外朝と象魏・応門︺ ﹁秋官﹂ ︿小司寇﹀に次の一文がある。 掌外朝之政、以致万民而詢焉。一曰詢國危、二曰詢國遷、三 曰詢立君。   また﹁秋官﹂ ︿朝士﹀には、 掌 建 邦 外 朝 之 灋 。 左 九 棘、 孤・ 卿・ 大 夫 位 焉。 羣 士 在 其 後。 右九棘、公・侯・伯・子・男位焉。羣吏在其後。面三槐、三 公位焉。州長・衆庶在其後。右嘉石平罷民焉、右肺石達窮民 焉。 という一文がある。   これによれば、外朝という広場には、孤 ・ 卿 ・ 大夫 ・ 士 ・ 公 ・ 侯 ・ 伯・子・男・州長だけでなく、万民・衆庶・罷民・窮民などと呼 ばれる階層身分の者も入ることが許されていたことになる。この 階 層 が ど の よ う な も の な の か 規 定 は む つ か し い が、 〝 民 〟 と い う 表記を援用して、あいまいではあるが一応〝一般民〟という規定 を与えておくことにしよう。外朝は一般民が入ることを許された 空間だったのである。 治朝には士以上の者しか入ることができず、

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その治朝の内側には王の私的な空間である内朝が存在したのであ るから、三朝の配置が、王の寝所から南へ内朝︱治朝⋮外朝の順 であったことはまちがいない。もっとも、治朝と外朝の間にさら に他の朝があったのかどうかは、右の記事だけではなんとも言え ないであろうから、治朝と外朝の間は、この段階では⋮である。   ところで、外朝の機能を云々するのにしばしば引用されるのは 次の記事である。 正月之吉始和布治于邦國都鄙。乃縣治象之 灋 于象魏、使万民 観治象、挟日而斂之︵ ﹁天官﹂ ︿大宰﹀ ︶。 この記事は、 治象之 灋 の部分が、 ﹁地官﹂ ︿大司徒﹀では教象之 灋 、 ﹁夏官﹂ ︿大司馬﹀では政象之 灋 、﹁秋官﹂ ︿大司寇﹀では刑象之 灋 と な っ て 同 文 が 見 え て い る が、 象 魏 を 観 る の は い ず れ も〝 万 民 〟 である。万民が集合するのは外朝なのであるから、象魏を観るた めに彼らが集合した場所も当然外朝であったはずである。   象魏とは、万民がそれを観て施政の内容を知る、一種の看板で あったことはまちがいない。魏はおそらく〝巍巍〟の意であろう から、それは高所に聳えるように設置されていたのであろう。そ の設置場所はどこであろうか。参考になるのは﹁地官﹂ ︿大司徒﹀ の次の一文のみである。 若國有大故、則致万民於王門。命無節者、不行於天下。 これと前掲﹁秋官﹂ ︿小司寇﹀の、 掌外朝之政、以致万民而詢焉。一曰詢國危、二曰詢國遷、三 曰詢立君。 を並べてみれば、前者の大故は後者の國危・國遷・立君にほぼ相 当するであろうから、こういった大事を諮る場合、万民は外朝に 入って〝王門〟のもとに集合したのであり、その王門は当然外朝 に面する門であったと考えねばならない。したがって、象魏はこ の王門上に設置されていたはずなのである。 もっとも王門というのは通称・美称の類であって、どの門がそ う 呼 ば れ た の か、 ︿ 大 司 徒 ﹀ や︿ 小 司 寇 ﹀ の 記 事 の み か ら 推 測 し ようとしても不可能である。ただ、 〝王門〟と呼ばれるからには、 とくに重要で荘厳な門であったことはまちがいなく、ここにある 程度の推測が可能になってくる。 ﹁ 冬 官 考 工 記 ﹂︿ 匠 人 ﹀ が 掲 げ て い る 門 は、 廟 門・ 闈 門・ 路 門・ 応門の四門であった。諸門のなかからとくにこの四門が取り上げ られているのは、もちろん四門がとくに重要な門であったからで あり、とすれば王門と通称・美称される重要かつ荘厳な門がこの うちのいずれかであった確率は高いであろう。そうすると路門が 内朝・治朝の出入門にして治朝に面する門であることが確定して いる以上、残りの三門のうちから捜索せねばならないが、まず廟 門は王が先君を祀る祠廟の門であろうから、王族に連なる卿・大 夫・士身分の者ならともかく、一般民である大勢の万民がその門 前に集合して象魏を仰ぎみたとは考えにくい。 次に 闈 門であるが、 これがどのような機能を付された門かはっきりしないものの、廟 門の大きさが大扃︵大車︶七輛を容れうる幅をもっているのに対 して、その容れうる幅は小扃︵小車︶三輛分に過ぎず、この規模 は〝王門〟とよべるような壮大なものとはいえないであろう。こ うして王門とは応門のことであるとの結論に至ることになる。消

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去法であるとの憾みは残るが、象魏の設置される外朝に面する門 にして、時に王門と通称・美称される門は応門であったとの意見 をここに提出したいと思う。 以上が、 ﹃周礼﹄の各記事自身を彼此照合して抽出されてくる、 門・ 朝 の 配 置 構 造 で あ る。 す な わ ち、 少 な く と も 内 朝 ︱︵ 路 門 ︶ ︱ 治 朝 ⋮ 応 門 ︶︱ 外 朝 と い う 配 置 の 存 在 が 確 認 さ れ る の で あ る。 ⋮の部分、つまり治朝と外朝の間にさらに他の朝があったかどう かは、この段階に至ってもやはり不明なのであるが、しかし、そ の存在を示すような朝名や門名は﹃周礼﹄の中にはまったく見え ないことを考慮すれば、存在しなかったとみるのが妥当というも のであろう。そこでこの段階では、⋮を︱に変えて、治朝と外朝 は北・南に隣接する朝で、その間に他の朝は存在しなかったとい う意見をも提出しておくことにしたい。   ①   ︽周礼門朝︾内朝︱ ︵路門︶ ︱治朝︱ ︵応門︶ ︱外朝︱ ︵?門︶   そうすると、では外朝を挟んで応門と北と南に向かい合い、一 般民が外朝に入ってくる門は何かということが当然問題になるで あろうが︵?門︶ 、これについては﹃周礼﹄の記事自身のみでは、 まったく想定不可能である。 この段階では不明とせざるをえない。   ︹城と郭︺   次に内城・外郭の配置を復原してみようと思うが、門・朝のそ れ以上に関連記事は零細であり、 かろうじて問題にしうるのは ﹁夏 官﹂ ︿量人﹀と︿掌固﹀の次の記事のみである。 掌建國之 灋 、以分國為九州、営國城郭、営后室、量市朝・道 巷・門渠︵量人︶ 。 掌脩城郭・溝池・樹渠之固︵掌固︶ 。   ここに見える〝城郭〟とは、いったいどの部分をさしていって い る の か、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 記 事 に は 直 接 説 明 し て い る も の が な い。 お そらく手がかりとなりうるのは前者の〝営國城郭〟という表記の みであって、この意味をなんとか追求していくしか他に手段はな いであろう。   〝営國城郭〟という表記と︿匠人﹀条の〝営國、 方九里 ・ 旁三門。 國 中 九 経 九 緯、 ⋮。 〟 と い う 表 記 を 並 べ て み れ ば、 前 者 の〝 國 〟 と 後 者 の〝 國 〟 は 同 一 の も の で あ り、 そ の 二 つ の〝 國 〟 は ま た、 後者の〝國中〟の〝國〟とも同一であることは疑いない。そこで 〝國中〟という表記を﹃周礼﹄のなかから拾い出してみると、 ・ 掌建邦之教 灋 、以稽國中及四郊 ・ 都鄙之夫家九比之数︵ ﹁地 官﹂ ︿小司徒﹀ ︶。 ・ 以 歳 時 登 其 夫 家 之 衆 寡、 辨 其 可 任 者。 國 中、 自 七 尺 以 及 六十、 野、 自六尺以及六十有五、 皆征之︵ ﹁地官﹂ ︿郷大夫﹀ ︶。 ・ 各掌其比之治。五家相受、相和親、有辜 ・ 奇 ・ 袤、則相及。 徙于國中及郊、則従而授之︵ ﹁地官﹂ ︿比長﹀ ︶。 ・ 以 廛 里 任 國 中 之 地、 以 場 圃 任 園 地、 以 宅 田・ 士 田・ 賈 田 任 近郊之地、以官田 ・ 牛田 ・ 賞田任遠郊之地、⋮︵ ﹁地官﹂ ︿載 師﹀ ︶。 ・ 掌國中失之事、以教國子弟︵ ﹁地官﹂ ︿師氏﹀ ︶。 ・ 一 曰 誓、 用 之 于 軍 旅、 二 曰 誥、 用 之 于 会 同、 三 曰 禁、 用 諸 田役、四曰糾、用諸國中、五曰憲、用諸都鄙︵ ﹁秋官﹂ ︿士 師﹀ ︶。

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  といった例をあげることができる。   これらにみえる〝國中〟は、いずれも四郊・都鄙︵この都は今 問題としている国都=都城の都ではなく、国都より小規模な城壁 都 市 を い う ︶・ 野・ 郊・ 近 郊・ 遠 郊 と 対 比 し て 登 場 し て お り、 明 らかに国都である都城の内側を指している。したがってこれらの 場合の〝國〟は一個の城壁都市としての都城を指しているはずで あ り、 ︿ 匠 人 ﹀ の〝 営 國 〟 と は そ の 城 壁 都 市 と し て の 都 城 を 建 設 す る こ と、 〝 國 中 九 経 九 緯 〟 と は そ の 城 壁 内 部 に 縦 横 そ れ ぞ れ 九 条の道路が走っていることを示しているとしか考えようがない。 こういった事例から援用すれば、 ︿量人﹀に見える〝営國城郭〟 の〝國〟もやはり、 一個の城壁都市としての都城であり、 〝國城郭〟 とは〝國の城と郭〟と読むべく、都城内部を構成する城と郭とい う こ と に な ろ う。 具 体 的 に い え ば、 ︿ 匠 人 ﹀ に 見 え る〝 方 九 里 〟 の城壁をもつ都城の内部が城の部分と郭の部分から成り立ってい るわけであり、それは言い換えれば、 ﹃周礼﹄の作者︵作者たち︶ は、周王朝の都城は内城・外郭構造をとっていたと認識していた ことになるのである。 もちろん、この理解に対しては、この場合の〝城郭〟とは城壁 あるいは城壁で囲まれた区画を指す連語名詞であって、必ずしも 城と郭という、 二つの城壁二つの区画を指しているわけではなく、 〝 國 の 城 郭 〟 と は 都 城 を 囲 ん で い る 城 壁 も し く は 都 城 を 構 成 し て いる城壁区画というほどの意味にすぎないのでは、という反論が お こ る で あ ろ う。 こ の 反 論 に 回 答 を 返 す た め に は、 ﹃ 周 礼 ﹄ 以 外 の資料を持ち出してこざるをえず、その作業は別稿をもって果た したいと思うが、 ここでは関連する二つの問題を指摘することで、 この段階での回答としておきたい。 そ れ は 外 な ら ぬ 基 本 資 料 で あ る﹃ 冬 官 考 工 記 ﹄︿ 匠 人 ﹀ に 見 え る 記 述 な の で あ る が、 一 つ は、 〝 王 宮。 門 阿 之 制 五 雉、 宮 隅 之 制 七雉、城隅之制九雉〟の〝城隅〟の〝城〟とは何かという問題で ある。王宮とは王の宮殿であり、その宮殿正門にある何らかの施 設の規模が五雉、その王宮四壁の四隅にある何らかの施設の規模 が七雉、さらにその外側を囲む城壁四隅の何らかの施設の規模が 九雉というのが、この記事の意味であるにちがいない。城隅之制 九雉の城壁の周長をどれほどのものと想定しているのか残念なが ら類推記事はないのであるが、王宮を囲む城壁となると、それが 一王宮を囲むものであれ複数王宮を囲むものであれ、常識的にお よその想定は可能というものである。一辺が数百m、どんなに長 くとも千mをそう大きく越えることはなかったであろう。 ﹃周礼﹄ の作者︵作者たち︶は方九里の都城のなかに、王宮を囲むこの程 度の規模の城壁が存在していたと認識していたのである。 今一つは、これと関連して、 〝営國。方九里、旁三門。 〟という 各 辺 三 門 を も っ た 一 辺 九 里 の 城 壁 に 対 し て、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 作 者︵ 作 者たち︶ がどのような理解をもっていたかという問題である。 ﹃周 礼﹄の使用している一里がどれほどなのかはっきりはしないもの の、約四百mであることはまちがいなく、そうすると九里は四㎞ 弱となる。この九はもちろん聖数であって、周王朝都城の現実を そのまま伝えているわけではないであろうが、しかし、この長さ が、一般に知られている先秦都城の一番外側の城壁のそれにほぼ

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相当しているという事情は重要である。 ﹃周礼﹄ の作者 ︵作者たち︶ がこの王朝都城一辺九里の城壁を、その一般に知られている一番 外側の城壁と重ね合わせていたことはまちがいないであろう。そ の一番外側の城壁は﹃春秋左氏伝﹄では〝郛〟と呼ばれ、いわゆ る外郭壁を指していたのであるから、 ﹃周礼﹄の作者︵作者たち︶ が 一 辺 九 里 の 城 壁 を〝 外 郭 壁 〟 で あ る と 理 解 し て い た 可 能 性 は、 高いのではなかろうか。その内側に縦横九条の道路が走っていた という情況からしても、そこを外郭域と認識していた可能性は高 いはずである。 そ の よ う な わ け で、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 作 者︵ 作 者 た ち ︶ は、 一 辺 九 里 からなる周王朝の都城、つまり〝國〟は、王宮を囲む内城と縦横 九条の道路などを囲む外郭から成り立っていると理解していたに 違いないという意見を、 この段階で提出しておきたい。とすると、 ﹃ 周 礼 ﹄ の〝 國 〟 は 一 辺 九 里 の 城 壁 の 内 側 を い う の で あ る か ら、 その国は外郭をも含むことにならざるをえない。序に示したよう に﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ に は、 〝 国 は 本 来 外 郭 を 含 ま ず 内 城 部 分 の み を 指していた〟という認識を伝える記事が存在していたことと比較 すると、 〝國〟の字義解釈に限っていえば、 ﹃春秋左氏伝﹄から﹃周 礼﹄の間に、その認識に変化が生じたことになろう。 さ て、 ﹃ 周 礼 ﹄ 記 事 分 析 の 最 後 と し て、 宗 廟 と 社 稷 の 位 置 を 復 原してみたいのであるが、遺憾なことに有効な記事はまったく存 在しない。それは〝外朝〟に決まっているではないかという声が 聞こえてきそうであるが、そしてその意見はおそらく正しいので あろうが、実は﹃周礼﹄のどこを探しても、そう推測させる記事 は見つからない。 〝匠人〟 の 〝左祖右社〟 や ﹁春官﹂ ︿小宗伯﹀ の、 掌 建 國 之 神 位、 右 社 稷、 左 宗 廟。 ⋮ 凡 天 地 之 大 災 類、 社 稷・ 宗廟則為位。 によって、左︵東︶が宗廟、右︵西︶が社稷ということがわかる だけであり、そこが内朝なのか治朝なのか外朝なのか、あるいは 外郭なのか、外郭外、つまり都城なのかわからないのである。外 朝であるとする意見は、もちろん﹃周礼﹄以外の資料から導き出 されているものに他ならない。 なお、ここでどうしても気になる事情に注意をうながしておき たい。それは︿匠人﹀が掲げる四門の廟門︱ 闈 門︱路門︱応門と いう順序である。この順序がアトランダムなものであれば問題は 生じようがないのであるが、路門︱応門が王所からみてそれぞれ より内側より外側ということがすでに判明している以上、あるい はこの順序は王所からみて南へ順に廟門︱ 闈 門︱路門︱応門と並 んでいることを伝えているかもしれない可能性を捨て去ることが できず、そこに一つの問題が生じるからである。なぜなら、その 性格がはっきりしない 闈 門はともかくとして、廟門は字面からし て 祖 先 祭 祀 に 供 す る 祀 廟 の 門 で あ ろ う か ら、 路 門 の さ ら に 内 側、 おそらく内朝に祀廟施設が存在したことになるからである。もし そ う だ と す る と、 そ れ は い わ ゆ る︵ 右 ︶ 社 稷・ ︵ 左 ︶ 宗 廟 の 宗 廟 の こ と な の か、 違 う と す れ ば 両 者 は ど の よ う な 関 係 に あ る の か、 重要な疑問がわいてくるであろう。検討しようがない事情ではあ るが、一応、注意をうながしておきたいと思う。 ﹃周礼﹄の記事自身を彼此照合して得られる周王朝都城の門朝 ・

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城郭構造のイメージは、以上のようにごく簡単なものである。そ こで、以下には﹃周礼﹄の記事以外は用いないという禁忌をあえ てやぶって、このイメージにもう少し情報を付け加えたいと思う が、 禁忌をやぶるといっても、 後世の注 ・ 疏などを使用してしまっ ては、当初の目論見自体が崩れてしまうのであろうから、ここで は﹃周礼﹄にならぶ〝礼〟の経典である﹃儀礼﹄と﹃礼記﹄だけ に限って、いくつかの関連記事を取り上げてみようと思う。 も っ と も、 ﹃ 儀 礼 ﹄ で は 路 門 が〝 寝 門 〟 と も 呼 ば れ て い た こ と を伝える、 管人布幕于寝門外、⋮。宰入告具于君、君朝服出門左、南郷 ︵﹁聘礼﹂ ︶ という一文をのぞけば、関連記事は皆無に等しく、そこでいきお い﹃儀礼﹄に比べればそれがやや豊富な﹃礼記﹄に頼らざるをえ ないことになる。 ﹃ 礼 記 ﹄ の な か で、 ま ず 注 意 し な け れ ば な ら な い 記 事 は 次 の 二 つであろう。 一つは﹁文王世子﹂の、 其朝于公、 内朝、 則東面北上。臣有貴者以歯。其在外朝以官、 司士為之。⋮。公族朝于内朝、内親也。雖有貴者以歯、明父 子也。外朝以官、體異姓也。          という記事である。前段と後段の間には少し長い文章がはさまれ ているのであるが、両段の主旨は同じとみてよいであろう︵前段 の〝其朝于公、内朝〟という表記には何か誤写があるようにも思 うが、後段の〝公族朝于内朝〟と同じ意味であることはまちがい な い ︶。 公 族 と は﹃ 周 礼 ﹄﹁ 夏 官 ﹂︿ 司 士 ﹀ に い う 三 公・ 孤・ 卿・ 大夫クラスの高位身分の者に相当するはずであり、ちなみに︿司 士﹀ の記事で 〝東面北上〟 しているのは 〝孤〟 身分の者であった。 そ う す る と こ こ に 二 つ の 疑 問 が 生 じ る こ と に な る。 一 つ は こ う いった高位身分の者が集合するのは﹃周礼﹄では〝治朝〟であっ たのであるから、この﹁文王世子﹂ではそれが〝内朝〟となって いるのはどういうことであろうか、という問題である。もう一つ は﹃周礼﹄では〝士〟身分の者も治朝に入ることを許されていた の で あ る が、 こ の﹁ 文 王 世 子 ﹂ で は〝 其 在 外 朝 以 官、 司 士 為 之 〟 と な っ て い て、 〝 司 士 〟 の 管 理 に 従 う 士 は〝 外 朝 〟 に は 入 れ る も のの、その内側の〝内朝〟に入ることはできなかったと認識され ていたことになり、それはどういうことであろうか、という問題 である。 今一つは、 ﹁玉藻﹂の 朝 服、 以 日 視 朝 於 内 朝、 ⋮、 君 日 出 而 視 之、 退 適 路 寝 聽 政。 使人視大夫。大夫退、然後適小寝釈服。 という記事である。その文意は〝君は朝儀の正装である朝服を着 て、日がのぼると内朝に出御して政事に臨む、⋮君は日がのぼる と内朝に出御して政事に臨み、それが終わると路寝に引き返して さらに政事を行う。その際は、自身でなく臣僚に命じて大夫に面 会させる。大夫がすべて退くと一連の政事は終了であり、君は小 寝 に 帰 っ て よ う や く 朝 服 を 脱 ぐ。 〟 と い う も の で あ ろ う。 こ れ に よると公族の集合場所である内朝の内側には〝路寝〟という空間 が あ り ︱ お そ ら く そ の 路 寝 の な か に 小 寝 が あ る の で あ ろ う が ︱、

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この路寝が﹃周礼﹄にいう、治朝内側の私的生活空間である〝内 朝〟に相当することが容易に想定される。そしてまた、路寝とい う表記からその路寝と内朝を出入する門が路門と呼ばれたであろ うことも、容易に想定されるのである。 右のように二つの記事の内容を﹃周礼﹄の関連記事と比較して み る と、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 門 名・ 朝 名 と﹃ 礼 記 ﹄ の 門 名・ 朝 名 に は 異 同 があり、また士身分の取り扱いについても理解に異同があったこ とがわかる。今後者の異同についてはしばらくおいて、前者の異 同に対応する門朝配置を並べてみると次のようになる。 ﹃周礼﹄内朝︱ ︵路門︶ ︱治朝︱ ︵応門︶ ︱外朝 ﹃礼記﹄路寝︱ ︵路門︶ ︱内朝︱ ︵?門︶ ︱外朝   どうしてこのような異同が生じてしまっているのか、確かな 理由はもちろん知られないものの、一つの可能性を提出しておき た い。 ﹃ 周 礼 ﹄ が 念 頭 に お い て い る の は 周 王 朝 の 都 城 た だ 一 つ で あ る の に 対 し て、 ﹃ 礼 記 ﹄ に は 周 王 朝 都 城 の そ れ だ け で は な く、 魯都曲阜をはじめとする列国都城の情報が、諸篇のなかに混然と なって入りこんでいるのではなかろうか。たとえば列国都城のみ で使用されていた朝名や門名が、何かの事情で周王朝都城のそれ として表示されてしまった、 というようなことはないであろうか。 もし、そのような事情を推測させる事例が発見されたならば、あ らためて別稿を立てて論じてみようと思うが、それはともかくと し て﹃ 礼 記 ﹄ で は 最 深 部 の 君 主 私 的 空 間 は〝 路 寝 〟、 路 寝 と 内 朝 を出入する門は路門、内朝の南隣は外朝と呼ばれていたという事 実をまず確認しておきたい。そうなると、内朝と外朝を出入する 門とその門と北南に向かいあう、外朝に入る門は何かという問題 が残るが、この段階では不明とせざるをえない。 ②   ︽礼記門朝︾ 路寝︱ ︵路門︶ ︱内朝︱ ︵?門︶ ︱外朝︱ ︵?門︶ 次に注意しなければならないのは、 ﹃礼記﹄ には ﹃周礼﹄ にはまっ たく見られない、ある重要な門が登場していることである。それ は〝庫門〟である。 一.魯荘公之喪、 既葬而 絰 不入庫門、 士大夫既卒哭、 麻不入︵ ﹁檀 弓下﹂ ︶。 二.既卒哭、宰夫執木鐸、以命于宮曰、舎故而諱新、自寝門至 于庫門︵ ﹁檀弓下﹂ ︶。 三.軍有憂、則素服哭於庫門之外︵ ﹁檀弓下﹂ ︶。 庫門は、 魯荘公死後の事情を伝える一の記事に見えている通り、 魯 都 曲 阜 城 の 門 の 一 つ で あ っ た。 ﹃ 周 礼 ﹄ に こ の 門 名 が 登 場 し て いないのは、魯都の門名であって周王朝都城の門名ではないので あるから、登場しようがないのである。一の記事は、新君が即位 に際して都城に入る場合、庫門をくぐることが重要な意味をもっ ていたことを示しており、二の記事は、新君への奉仕を促すため に、宰夫が木鐸を打ち鳴らしながら寝門から庫門にまで行くとい うのであるから、 寝門から庫門までが特別なエリアであったこと、 言い換えれば、庫門は内と外を区別する重要な門であったことを 示している。三の記事は、出動していた自軍の敗北という深刻な 事態に直面して、戦死者に対する哀悼のあまり、君主がとくに庫 門 か ら 出 て そ こ で 慟 哭 の 儀 式 を 行 っ た と 伝 え て い る の で あ っ て、 そ れ は 庫 門 を 出 る と い う 行 為 が と く に 異 例 な 行 為 で あ っ た こ と、

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つまり庫門はいわば、通例越えてはならない禁忌のラインであっ たことを示している。 このような重要な門である庫門は魯都曲阜城のどこに存在した の で あ ろ う か。 こ こ に お い て、 先 秦 都 城 を 考 察 対 象 と す る 場 合、 誰もがいきつくことになる﹁明堂位﹂の一文に、やはりいきつい てしまうことになるのである。 大廟、天子明堂、庫門、天子皋門、雉門、天子応門。 魯都曲阜城おける大廟は周王朝都城における明堂に相当し、庫門 は皋門に相当し、雉門は応門に相当するというのが、この一文の 意 味 で あ る。 ﹁ 明 堂 位 ﹂ の 作 者 は、 王 朝 都 城 と 曲 阜 城 で は 門 名 に 相違があることを、はっきり認識していたのである。路門は路寝 の門、雉門は王都の応門に相当する門、つまり王都でいえば治朝 ︱外朝を、 魯都でいえば内朝︱外朝を出入する門なのであるから、 庫 門︵ 皋 門 ︶ と は、 も う 一 つ の 重 要 な 門、 す な わ ち 雉 門︵ 応 門 ︶ と北︱南に向いあう、外朝に入る門をおいて他は考えられないで あ ろ う。 こ う し て、 こ の﹁ 明 堂 位 ﹂ の 一 文 を え て、 ﹃ 周 礼 ﹄ 記 事 の彼此照合によって確認された門・朝配置、つまり周王朝都城の 門・朝配置︵前掲①︶と﹃礼記﹄記事の彼此照合によって想定さ れた門・朝配置、つまり魯都曲阜城の門・朝配置︵前傾②︶の対 応関係を新たにあらためて示してみれば、次のようになろう。   ﹃周礼﹄ ︹王都︺内朝︱ ︵路門︶ ︱治朝︱ ︵応門︶ ︱外朝︱ ︵皋門︶ 。   ﹃礼記﹄ ︹魯都︺路寝︱ ︵路門︶ ︱内朝︱ ︵雉門︶ ︱外朝︱ ︵庫門︶ 。 ︵? 門 ︶ と し て き た 門 名 不 明 の 門 が、 こ こ に お い て よ う や く す べて明らかになったのである。皋門=庫門は、平時は外郭域に居 住していたであろう一般民が、特別な場合に外朝に入城する門な のであり、いわゆる内城の最南門にして、内城内と外郭域を分け る重要な門であった。それはいってみれば、神聖な空間︵禁忌エ リア︶ と日常の空間 ︵非禁忌エリア︶ を分ける機能なのであって、 即位に臨む新君が外部から入ってこの門をくぐることは、彼が日 常の人間から神聖な人間へと昇化したことを象徴するものだった のである。先にあげた一∼三に見える庫門の性格は、いずれも背 景にこのような宗教的意味を設定してこそ、より正確に理解する ことができるであろう。 都城の建設にあたって、まず第一に必要となる作業は宮殿・門 朝を囲む内城壁の建設であったはずである。それは外敵の侵入か ら政権の中枢部を防御するという意味あいもさりながら、政権の 神聖性を保証する神聖な空間を、一般日常のエリアから隔絶せし めるという強い意味あいをもっていた。そして内城壁を建設する 以上、その内外を出入する門を開かねばならないが、その門が周 王朝都城では皋門であり、 魯都曲阜城では庫門であったのである。 皋門=庫門の建造がいかに重要な作業であったかについては、古 公亶父の周原都城建設を詠ったとされる ﹃詩経﹄ ﹁大雅 ・ 緜篇﹂ の、 迺立皋門、皋門有伉、迺立応門、応門将将。 という対句によく示されている。この対句は誰しもがその脳裏に あるはずであり、そこで﹃周礼﹄に応門︱外朝が登場している以 上、応門と北・南に向かい合い、外朝への入口である皋門も当然 登場していると予想して﹃周礼﹄を読過していくのであるが、し かし、予想通りにはならず、皋門についての情報はどこにも存在

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し な い と い う 事 態 に 気 づ く こ と に な る。 せ め て︿ 匠 人 ﹀ が 廟 門・ 闈 門・路門・応門とならんで、皋門の門名だけでも掲げておいて くれればよいのであるが、それもない。本稿もその隔靴掻痒の感 に 陥 っ て い た の で あ る が、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 記 事 で は な い け れ ど も、 こ こ に﹃ 礼 記 ﹄﹁ 明 堂 位 ﹂ の 一 文 に い き つ く こ と に よ っ て、 そ の ジ レンマからようやく解放されることになったのである。 以 上 が、 ﹃ 周 礼 ﹄ の 記 事 と そ れ に﹃ 礼 記 ﹄ の 一 部 の 記 事 を 加 え ることによって導きだされる、本稿がいう儒家的理想型としての 〝 周 制 プ ラ ン 〟 に お け る 周 王 朝 都 城 の 門 朝・ 城 郭 構 造 で あ る。 こ のうちの門朝構造についていえば、あわせて抽出された魯都曲阜 城の門朝構造も、門名に相違はあるものの、基本的には周王朝都 城のそれと同じであったのである 。その 門朝構造は三朝三門配置 ということができるであろう。 二. ﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ に み ら れ る 春 秋 列 国 都 城 の 門 朝・ 城 郭 構 造 ﹃周礼﹄ほどではないが、 ﹃春秋左氏伝﹄も取り扱いに注意を要 す る 文 献 で あ る。 ﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ の す べ て が 春 秋 時 代 の 事 実 を 伝 えているとは、誰も考えないであろう。とりわけ、ある事件につ いてのある人の批評を口説で記した分部は、本当にその春秋時代 のある人がそう言ったのではなく、春秋以降の誰かが、その春秋 時代のある人があたかも本当にそういったように、その口説を付 加した場合がそうとうに多いように思う。したがって、その口説 に示されている思想なり認識なりは、実は春秋時代のそのある人 のものではなく、口説を付加した春秋以降の人のそれである可能 性がきわめて高いことになるのである。どの記事もそれが春秋の 現実を伝えたものか、 そうではなく春秋以降の事実の反映なのか、 疑えばきりがないであろうが、ただ、本稿で引用するような、口 説記事ではない、ある事象の推移などを記したいわば叙事記事に ついていえば、春秋時代の現実をほぼそのままに伝えているとみ て よ い の で は な か ろ う か。 ﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ 各 種 記 事 の 性 格 を そ の ように理解したうえで、関連記事を抽出して列国都城の門朝・城 郭構造を明らかにしてみようと思う。 ︹内城と外郭︺ 旧 稿﹃ 春 秋 時 代 の 都 市 ︱ 城・ 郭 問 題 探 討 ︱﹄ ︵﹃ 東 洋 史 研 究 ﹄ 三四巻・四号︶では、まず外郭をもった城壁都市の事例を抽出し てみたのであるが、煩を避けずに今その結果を再録してみると次 のようになる。 ︵なお、 ﹃春秋左氏伝﹄ では郭はほとんどの場合 〝郛〟 という字面で登場している。もっとも〝郭〟という字面も皆無で はなく、以下に示すとおりいくつかの用例がある。 〝郛〟と〝郭〟 がどのような関係にあるのか、これも本稿にかかわる問題であろ うが、その詮索は後日を期することとして、ここでは引用文にお いては〝郛〟 ・〝郭〟をそのまま用い、叙述では〝郭〟を統一して 用いることにしたい︶ ︵以下、 隠公元年↓隠元のごとく略記する︶ 。 ①宋都商丘。鄭、 王師とともに宋を伐ち、 その郛に入る︵隠五︶ 。 北郭に盟う︵昭六︶ 。 ②魯都曲阜。郭に災あり ︵荘二四︶ 。西郛に城く ︵襄一九 ・ 哀四︶ 。

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郭門︵哀一四︶ 。 ③ 斉 都 臨 淄。 西 郭・ 南 郭・ 東 郭・ 北 郭︵ 襄 一 八 ︶。 北 郭︵ 襄 二八︶ ・郭関︵哀一四︶ 。 ④曹都曹城。斉、曹を伐ち、其の郛に入る︵文一五︶ 。 ⑤許都許城。鄭、許を伐ち、其の郛に入る︵成一四︶ 。 ⑥鄭都鄭城。晋、 諸侯を帥いて鄭を伐ち、 其の郛に入る︵襄元︶ 。 ⑦魯邑成城。師を帥いて成の郛に城く︵襄一五︶ 。 ⑧衛都楚丘。諸侯、衛の楚丘の郛に城く︵僖一二︶ 。 ⑨ 衛 都 帝 丘。 郭 門︵ 昭 二 〇 ︶。 晋、 衛 を 伐 ち、 其 の 郛 に 入 り、 将に城に入らんとす︵哀一七︶ 。 ⑩楚邑巣城。楚、巣に郭す︵昭二五︶ 。 ⑪楚邑巻城。楚、巻に郭す︵昭二五︶ 。 ⑫斉邑廩丘。魯、斉を侵し、廩丘の郛を攻む︵定八︶ 。 ⑬魯邑 郈 城。郭門︵定一〇︶ 。 ⑭晋邑朝歌。晋、朝歌を囲み、其の郛を伐つ︵哀三︶ 。 ⑮斉邑高唐。晋、高唐の郭を毀つ︵哀一〇︶ 。   以上の十五記事はいずれも外郭の存在を確認することができ る 例 で あ る が、 〝 其 の 郛 に 入 る 〟 と は 郭 壁 を 突 破 し て 外 郭 の 部 分 に入ることであり、 いうまでもなく郭壁の存在を前提としている。 つまり、①・④・⑤・⑥・⑨の諸城はいずれも郭壁をもっていた ことが知られる。次に郭門・郭関が郭壁のある部分に穿たれた門 を指すことは明らかであって、したがって②・③・⑬の各城には 必然的に郭壁が存在したことになろう。また〝郭を毀つ〟とはお そらく郭壁を破壊することをいうにちがいなく、⑮もやはり郭壁 をもっていた可能性が高いわけである。 そして 〝其の郭に城く〟 〝某 に郭す〟とは郭壁の築城をいうのであるから、⑧・⑩・⑪の各城 はその築城時点ではじめて郭壁をもつに至ったか、あるいは以前 から郭壁をもっており、その築城時点で増築・修築がなされたの だと考えねばならない。すなわち、十五例中十三例について、郭 壁 の 存 在 を 確 認 す る こ と が で き る の で あ る。 の こ る 二 例 は、 〝 郛 を攻む〟の斉邑廩丘と〝郛を伐つ〟の晋邑朝歌ということになる が、この二記事だけではなんともいえないものの、やはりその敵 軍 は 郭 壁 を 突 破 し て 外 郭 を 攻 め 外 郭 を 伐 っ た の で は な か ろ う か。 ともかくこのように、外郭は通例、郭壁で囲まれていたことが知 られるのである。 外郭という空間は郭壁と内城壁に挟まれた部分をいうのである から、 外郭が存在した以上、 当然内城壁が存在したことになるが、 ところがその内城壁の存在を﹃春秋左氏伝﹄の記事から確認する ことは、実はきわめて困難なのである。右のように郭壁の存在が かなりの程度に確認しうるのに対して、これは残念至極な事態で あるといわねばならない。ただそれは、資料が不足しているとい うまでのことであって、内城壁が存在しなかったというわけでは もちろんないはずであり、事実不十分な記事ながらも、一五例の うちの次の諸城については内城壁の存在をなんとか確認すること ができる。 ⑧ 衛 都 楚 丘。 諸 侯、 楚 丘 に 城 い て 衛 を 封 ず︵ 僖 二 ︶。 諸 侯、 衛 の 楚 丘 の 郛 に 城 く︵ 僖 一 二 ︶。 前 者 の 築 城 が 内 城 壁のそれであることはまちがいない。

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