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色法の主観的認識 -- "ruppati"の解釈をめぐって --

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序 仏教は客観的な分析観にもとづき、精神的・物質的存 在のすべてを数多くの椛成要素の複合によって説明する。 単一体︵自身︶に見えるものは実は諸要素の複合体であ る。複合体には永遠性はない。諸要素そのものが有為で あり無常である。この分析観は五瀧・十二処.十八界説 を発展させ、他方、四大種と四大所造色との複合による 色法の成立観も早くから原始経典に定着していた。アビ ダルマにおいてこの分析観は一層成熟し、アビダルマ仏 教は色・非色法を構成する諸要素の詳細なリストを持つ に至っている。 ﹃相応部﹄命.目、]g︶において、コッティタは﹁眼

色法の主観的認識

l屋︽胃刑§息は︾︾の解釈をめぐって︲ は色をつなぎとめるもの︵8宮合口昌凰口四日、四目冒茜口四日︶ か﹂と尋ねている。学者は、色は四大種と四大所造色と であり、困日苫琶旨也︵つなぎとめるもの︶となるものは ① 色に対する有情の欲望である、と説明する。この説明は 正しい。事実、世尊も同じように答えている。客観的分 析観に立てば、色を構成するものは四大種と四大所造色 以外には無い。3日§百国は色に属さず、有情の心理 に属すと見るべきである。 しかしこのような客観的分析だけが色法の正当な認識 であるのではない。﹁眼は色をつなぎとめるもの︵8房目 目冨目冒切煙昌冒百国日こという認識も誤りではない。何 故なら、これが有情の現実のすがたであるからである。 現実に眼ある有情は色に執著しているからである。それ

浪花宣明

︵旧姓上杉︶ Q Q u ゾ

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色は四大種と四大所造色とであるという色法の定義は 原始経典に広く見られ、アビダルマ仏教においても色法 分類の基礎として受けつがれ、仏教の代表的な色法の定 義となっている。この定義と双檗をなすのが:曽噌画国 威目冒昌ゞ.という定義である。この定義は原始経典で は﹃相応部﹄二二’七九命.日.震︶とその相当漢訳経 ﹃雑阿含﹄﹁三世陰世食経﹂︵大二・二b︶に現われるの ﹁色法の主観的認識﹂とは有情の関与を通した色法の認 も色法の認識は可能である。私達がこの小論で意味する 立場Iそれを主観的立場と呼ぶことができるlから 識は色に対する有情の関与を離れたものではない。この 在を度外視してなさるゞへきでないとも言える。色法の認 肉体そのものである。したがって色法の理解も有情の存 ら切り離されたものではない。色法はまず第一に有情の 認識でもある。色法そのものが有情の外に在って有情か れは色の認識であると同時に、有情の色に対する執著の 情の色に対する執著の相に目を向けたものといえる。そ 故﹁眼は色をつなぎとめるものである﹂という認識は有 ② 識である。 ● |庚昌ロ冨画貢昌冒昌︾ゞの意味 みで、原始経典の中ではマイナーな定義と言うべきであ る。しかしこの定義には目圃の語源解釈が見られる故 に、アビダルマ以降において重要視され、現代の学者に 至るまで、色法の説明に際しては広く引用されている。 j ’’一カーヤにおける↑︽目もも四首。︾ く ︽︽目弓騨負は目罵日﹄﹄はアビダルマ或いは現代の学者 の間でも通例﹁壊れるから色である﹂と理解されている。 私達はこの︽︽儲眉冒画は日恩目・︾の意味の再考から始め たい。何故なら一一カーャの中で︽︽属目冒陣︾︾の語は決し ③ て﹁壊れる﹂の意味に使用されていないからである。﹃ス ッタ’一・ハータ﹄七六七偶では︽︽H呂冨はこは﹁苦痛を受 ける﹂﹁苦悩する﹂の意味である。 欲望をかなえたいと望み、貧欲の生じた人に、も しその欲望が満足されないならば、彼は矢に射られ たように苦悩する︵⑳凹冒ぐ昼巳5ぐ騨目弓:︶。 畠圏冒ミミQ旨︵や扇︶ではこの︽︽目唱Pはゞを冒喝鱒は ︵怒る︶、答色目制は︵害される︶、画辱胃只悩まされる︶、 ご創言国︵病んだ︶、8日Pご画の巴冒︵憂悩した︶と説明し ている。 次に二目毛冨自は昌冒目︾︾の定義を含む﹃相応部﹂ の経説命.目目﹀駅︶を見てみよう。 40

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比丘らよ、汝らは色は何であると説くか。実に比 丘らよ、苦悩するから、それ故色と言われる︵冒弓四威 武唇。g房巨沙ぐの冨曾風昌冨ご盆ぐこ8四9.何によ って苦悩するのか。寒さによっても苦悩し、暑さに よっても苦悩し、飢えによっても苦悩し、渇きによ っても苦悩し、虻・蚊・風・炎熱・蛇との接触によ っても苦悩する。 この文脈において目弓P註を﹁壊れる﹂の意味に理解す るのは不自然である。寒さや暑さで物質が壊れることは 有りうる。虻や蚊・蛇などに触れられて壊れることも皆 無とは言えないであろう。しかしここでは有情が寒さや 暑さに苦痛を感じ、飢えと渇きに苦悩し、或いは虻・蚊 ・蛇の毒に苦痛を受けると理解する方がより自然である。 そうであるなら、この文脈において︽︽昌喝四画は昌冒日﹄︾ の意味するところは、有情の肉体が外部の刺激により苦 痛を受ける︵目弓昌︶から、それ故それは色︵曽冨︶と 言われる、ということになる。苦痛を感じ苦悩する有情 の肉体の認識がここでの色法の認識である。肉体の受け る苦痛こそは最も直接的な、最も原初的な色法の認識で ある↑フ。 色法の認識は精神的苦痛としてもなされる。﹃スッタ 二・ハータ﹄二一二偶では、年老いて体力の衰えたピン ギャ尊者が、この世において生と老とを捨てるための説 法を求めるのに対し、ブッダは次のように答えている。 ピンギヤよ、色あるが故に人々は害われるのを見 るし、色あるが故に怠惰な人々は苦悩する︵目眉目茸 H居①のご鱈目冨冒昇威︶。ピンギャよ、それ故に汝は怠 ることなく色を捨て、再有に至らないようにせよ。 この場合も旨噌四口陣は﹁苦悩する﹂の意味であるが、 Gミ言畠員鴎亀含.誤eによればここでは﹁苦悩﹂に二種 が考えられている。曰く、 ﹁色あるが故に怠惰な人為は苦悩する﹂という︹句 の中︺、﹁苦悩する﹂とは苦悩し、怒り、悩まされ、 害され、病み、憂悩するのである。彼らは眼病によ り、⋮:・虻・蚊・風・炎熱・蛇との接触によって苦 悩し・⋮:憂悩する。これが﹁色あるが故に苦悩する﹂ ︹の意味︺である。或いはまた眼が減退し、失われ、 損じ、衰え、離散し、消失して行くとき、彼らは苦 悩し:::憂悩する。耳、鼻、舌、身、色、声、香、 味、触、家系、仲間、住居、利益、名声、賞讃、楽 しみ、衣服、食物、臥坐所、病人の必需品である薬 が減退し⋮⋮消失して行くとき、彼らは苦悩し⋮・・. 41

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憂悩する。この如きも﹁色あるが故に苦悩する﹂ ︹の意味︺である。 二種の苦悩とは、一つには眼病をはじめとする多種多様 な病気や虻・蚊・蛇などの毒によって肉体が痛むという 肉体的苦痛であり、二つには体力の衰えや利益・名声・ 財産などの消失を悲しみ・悩み。苦しむという精神的な 苦痛である。第二の理解にしたがえば、︹変化し消失す ることによって︺人に精神的苦痛を与える︵目弓:︶か ら色︵昌冨︶である、という色法の認識が成り立つ。 j Ⅱパーリ仏教における︽・目噌P陸︶﹀ く ・ハーリ・アッタヵター以降においては︽H眉冒は︾ある いはその名詞形昌喝四国四は﹁変壊﹂の意味に理解され ている。、亀画ミミ尋亀雪国ご国自弓日.2.局の司鼻且底閏日ロ色︶ はH呂冨国四を次のように説明している。 変壊︵目弓目騨︶とは寒さなどの破壊の縁が集まっ たとき、異ったすがたで生ずること︵ぐ菌呂呂弓四段︶ である。弓目.目︶證巴 同じ理解は堅專員冒ミミミミミ唇冒ミミ︵シ9忽︶にも見ら れる。 変壊するから色である︵昌弓異目胃弓“目︶。寒さ や暑さなどの破壊の縁によって変化する︵ぐ房笥痩冒 号昌島︶から、︲或いは︹変化が︺もたらされるから、 という意味である。倉冨︺ご巳.局2↓色言旨四目曽騨?ご ﹄.巨唱色丘或いは冒皀冒冒Pが﹁変壊︵する︶﹂の意味に理 解されるが故に、ここに新たな疑問が二つ提出されるに 至る。即ち﹁変壊﹂は色法に限らず有為法の全てに共通 する性質である。そうであるなら非色法もまた︽︷昌冒︾︾ と呼ばれてもよいわけであるが、非色法を︽︽昌冨こと 呼ばないのは何故か。これに対して註釈家は、色におい て変壊の性質が最も顕著であるから、色のみを︽︽目冨﹄、 と呼ぶ、と答えている。更にまた、梵界には寒暑などの 破壊の縁は無いから、そこでは﹁変壊﹂は無いはずであ る。そうであるなら、﹁色界﹂と呼ばれるのは正しくな いであろう、という詰問が提出される。これに対して註 釈家は、梵界には破壊の縁は無いが摂益の縁があり、そ れによって変化がおこるから﹁色界﹂という呼び方に不 ④ 都合はないと答えている。これらの問答からも旨弓騨は あるいは割呂冨口四が﹁苦悩︵する︶﹂の意味から﹁変壊 ︵する︶﹂の意味へと変化していることが確められる。 曽ミミ○言ミ富。ミミ︵弓.やeは先きに挙げた﹃相応 部﹂二二’七九︵の日︺段︶の色法定義の経説を引用し、 それに注釈をほどこしている。そこではH喝冨威は百︲ 〃 ワ オ ニ

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雪国は︵怒る︶、廻国昏冒首︵害される︶、営辱Pは︵悩ま される︶と説明されるが、更に冨竺ご茸︵壊れる︶の意 味も加えられている。また︽︽巴鳶口四百︵寒さによって も︶尉呂忌茸・︾という現象はFo冨口国風菌︲昌国息︵世中 間地獄︶において顕著であるとし、そこに堕ちた有情が 寒さに苦しめられ亡んで行くすがたを記し、更にマヒン サヵ王国など冬期厳寒の地方では人々は寒さによって肉 体が壊され、生命がつきることがあると説明を加えてい る。また︽︽口目①口四回︵暑さによっても︶目喝Pは︾︾は 無間地獄において顕著であるとし、無間地獄において有 情が熱に苦しめられ、身体が壊される様子を記している。 これらの説明では目層ぃ陸は﹁苦悩する﹂の意味である ことは確かであるが、﹁壊れる﹂の意味のあることも否 定できない。﹁苦悩する﹂から﹁壊れる﹂への過渡にあ ると言えるであろう。 j Ⅲ北伝アビダルマにおける︽︽Hg菌冨・︾ 北伝アビダルマにおいて胃号冨訂或いは昌冒gは ﹁苦悩︵する︶﹂の意味を失っていない。﹁倶舎論﹄では 世親は胃弓菌訂を園目百百︵詩○ず①胃のの”のq︾切昌のH︼苦 しむ︶と理解している。曰く、 次に何故に無表を終りとするこ︹の十一種の法︺ を色蒋と呼ぶのか。苦悩すること︵日冨目︶による。 世尊によって説かれている。﹁それぞれ苦悩する ︵副冨農。︶から、比丘らよ、それ故に色取謡と呼ば れる。何によって苦悩するのか。手で触れることに よって触れられたものは苦悩する﹂云々と。苦悩す るとは苦しむ︵冨目冒蔚︶という意味である。︵どハ も、や︶ 世親は儲目制蔚を﹁苦悩する﹂と理解する根拠を先き に引用した﹃スッタ’一。︿−タ﹄七六七偶の﹁矢に射られ た如く苦悩する︵の煙冒ぐ昼号。§目弓目︶﹂に求めている。 また世親は何故に﹁苦悩するから色である﹂と言えるの かを説明している。曰く、 それでは色にある苦しみ︵日号自国︶とは何か。変 易を生ずること︵ぐぢ騨昌目白○苔目沙昌︶である。 変易を生ずることは﹁悪しく変って生ずること︵ぐ房儲毎。︲ 苔目四目︶﹂であると称友は説明している︵筐痢目目.や霞︶。 色は常に変易するが、その変易は色の常住不変を願う者 には好ましくない。色は変易するという自性の故に人に ⑤ 苦悩を与えるのである。 衆賢もまたこの理解を保持している。即ち衆賢は﹁変 壊︵昌冨目︶﹂の語に仙苦受の因、②有触対、③可転易の 43

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三義を認めている。そのうちの﹁苦受の因﹂を説明して ﹁苦受の因とは、色は変壊あり、能く苦受を生ず﹂と述 寺へている。︵﹃順正理論﹄巻二、大二九・三三七b︶ 以上のように目層旦﹄あるいは目冒胃①は肉体的・ 精神的に﹁苦悩する﹂という意味を有す。この意味にし たがえば︽︽H5E武陸目9日︾︾は﹁苦悩するが故に色 である﹂という意味になる。客観的には色は変壊するの みである。変壊する色が苦悩せしめるものであるか否か は、色自身によって決まるものではなく、色に対する有 情の態度いかんによって決まる。色に執箸する者には色 は苦悩せしめるものとなる。それ故﹁苦悩するから色で ある﹂という色法の認識は、色に対する執著という主観 の側の関与を通してなされている。このような主観の関 与を通した色法の認識を私達は﹁色法の主観的認識﹂と 呼んできた。これに対して﹁壊れるから色である﹂とい うのは客観的認識と言えるであろう。 j

l色の定義

く 色法の主観的認識は﹃阿毘達磨集論﹄︵集論患ミミーミ︲ 昌昌雲冒震恩ミ曇.缶望において一層広く認められる。色の定 ||阿毘達磨集論の色法説 義から見ていこう。 色瀧は何の相なるや。変現︵目眉目︶の相が是れ 色の相なり。此に二種あり。一には触対変壊、二に は方所示現なり。云何が名づけて触対変壊となすや。 謂く、手足塊石刀杖寒熱飢渇蚊蛇蝸に由りて触対せ らるる時、便ち変壊する。云何が名づけて方所示現 となすや。謂く、方所に由りて相の示現すべき、此 の如き色、此の如き色の、或は定心に由り、或は不 定︹心︺に由り、尋思想応して種種に構画する。 ﹃集論﹄も片目pを儲眉眉勉の相あるものと定義するが、 ⑥ 冒冨目に触対変壊と方所示現の二義を認めている。周 知の如く曽弓騨昌或いは目喝騨目色︵八く引引・叶古剖創 と目圃とは言語学的には関係がない。目冒はくHg に由来し、辞書によればく境目にはささ儲日︺狩員の︾ H①ごH①、①国威①xぽ許す再ず冒頤⑦の計口尉①︾の豈○弓︾芦口め毛①○〆○○口庁①︲ 目巨胃のの意味がある。昌冨目を触対変壊とする解釈 は昌恩の語源をく副回︵あるいは香呂︶に求める仏教 の伝統的な語源解釈にそったものである。これに対して 方所示現は目冒の語源をく副匂に求めた結果であり、 昌冨の本来の語源にそった理解である。このように﹃集 論﹄は目も色愚︲︵したがってa宅四︶にく目もとくH息 44

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、 という二義を認めているのであるが、玄英はそれを﹁変 ℃ 、 、 現﹂、﹁変壊﹂、﹁示現﹂と巧みに訳し分けている。 この色の定義は客観的分析観によってなされている。 この文脈で﹁変壊︵H号昌四︶﹂に﹁苦悩﹂の意味は認めら れない。しかし以下に詳説するように﹃集論﹄も色法に ﹁苦悩﹂の意味を認めている。 j Ⅱ有色・無色説 く 色法の主観的認識は有色・無色の説示において見られ ⑦ る。この箇所は幸いにサンスクリット原典が残っている ので、以下において始めにそれを訳出し、次にそれに対 する諸註釈害にもとづき、説明を加えることにする。 の有色とはどのようであるか。⑪どれだけが有色 であるか。⑩いかなる目的で有色を観察するのか。 いいそれ︵色︶を自体とする故にも、②大種を所依 とする故にも、③喜を集︵原因︶とする故にも、③ 方位を有する故にも、⑤場所に遍満している故にも、 ⑥場所を示す故にも、㈹場所を対境とする故にも、 ⑧二︹人︺の共通の対境である故にも、⑨相属して いる故にも、⑩付随している故にも、⑪顕了する故 にも、⑫悩壊する故にも、⑬顕示する故にも、⑭積 集して建立する故にも、⑮外門である故にも、⑯内 門である故にも、⑰長遠である故にも、⑬分断されて いる故にも、⑲暫時である故にも、⑳示現する故にも、 有色であると見るべし。⑪一切は有色である。⑪有 色を我であると執著することを捨んがためである。 ㈹無色とはどのようであるか。⑪どれだけが無色 であるか。伽いかなる目的で無色を観察するのか。 ①有色と反対の場合に無色である。⑪一切は無色で ある。あるいは所応の如しである。伽無色を我であ ると執著することを捨んがためである。 仏教の一般論では有色︵H弓目︶とは四大種と四大所造 色を指し、無色︵肖号目︶とはそれら以外の非色法を指す。 ところが﹃集諭﹄では一切が有色とされるのみならず、 その直後には一切が無色であると言われている。この一 見不可解な規定の意味するところは、すでに他処におい ⑧ て解明を試みた。ここではその要略を示しておく。 ﹃集論﹄の有色・無色説では、①有色︵無色︶の相 ︵雷冨自四︶と⑪有色︵無色︶の事︵ぐ尉言︶とが説かれた後、 ⑩﹁有色︵無色︶を我であると執著することを捨んがた め﹂と言って、増益の執を断ずるという目的が説かれて いる。相とは現象が現象として表象されるところの姿で ある。事とは相の所依となっている誼・界・処の諸法と イ員 士 U

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無為法︵それらは﹃集論﹄では実在すると考えられてい る︶を指す。﹁一切が有色である﹂とは一切法が有色の 相をなす事︵ぐ四の目︶となるという意味、.切は無色で ある﹂とは一切法が無色の相をなす事となるという意味 である。我執にとらわれた者には有色︵或いは無色︶が 我であると執著される。しかし有色︵無色︶の相とその 相を織成している事︵くゅの目︶を正しく知ることを通して、 有色︵無色︶には我と呼ぱる寺へき何物も存在しないこと を知る。したがって﹃集論﹄に独特な三つの観点からの 記述は転迷開悟の椛造を有している。 さて有色の相にはい色自体乃至⑳示現の二十相が挙げ られているが、それらは雑然の感をいだかせる。ダルマ ⑨ リンチェンは﹃集論﹄に対する註釈の中で、それら二十 相を右図のように分類・整理している。 l差別 l仙色を自体とする有色I︵略説︶ |l②大種に依って成じた有色 有の Iをもl 相すI|Ⅱ州州州Ⅱ獅諦謹轆︸︵広説︶ 目 ︲那れぅ I罐︾’’1卵唖岬癖唖個唖礒辨詐謝砂毒味に用いる 3013ノリj lOf01也 以下ではこの分類に従って個々の相を略説して行くが、 その際に獅子覚による註釈︵患萱慧ミミ房ミミRミs︲罫魯冒 Pmm彦弓.闇︲鴎︶を随時示して行く。 仙色を自体とするとは﹁有色というのは色がその自体 即ち自性であるから、それ故そのものは有色である﹂ ︵崩臼︶。③﹁大種を所依としている故にもとは、他の色 と結合していることによっても有色であると示すのであ る。所造色が大種と結合し、また諸の大種が相互に︹結 合している︺からである﹂F闇与。㈹⑨とも四大種と四 大所造色を指している。有色とは四大種と四大所造色で あるというのが一一カーャ以来定着した考え方であり、 ﹁集論﹄もそれを受けついでいる。②は所造色が四大種 に、また四大種は四大種同士相互に依存し合っている様 子を述令へているのである。 ダルマリンチェンは⑳⑥⑭を一組とし、それらが色法 の触対変壊の相を表わしていると註釈している。そのう ちで、⑳方位を有するとは物質的存在が上下四方といっ た部分或いは方位を有することを指す。アビダルマの極 微説によれば一個の極微は無方分であるが、七個積集し て始めて上下四方の方位が生ずるとされる。七個の極微 が一個を中心として上下四方に各々一つ積集して、物質 46

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として一定の空間を占めるとされるのである。⑤場所に 遍満するということも、物質的存在が一定の空間を占め ているという意味である。⑭積集して建立するとは、﹁極 微以上の色が部分を有するものを建立する﹂︵嚴團︶こ とを言っている。したがって③⑤⑭は全て物質的存在は 極微が積集したものであることを言っている。このよう な物質の構造の故にそれは変壊すると考えて、ダルマリ ンチェンはそれらを触対変壊の相とみなしたのであろう。 これに対して⑥⑦⑥の一組は方所示現の相を表わすと される。そのうちで⑥場所を示すとは﹁そのような場所 に︹在る︺と示す能力がある﹂︵尻留︶という意味で、 これは昌冒の語源く引可の意味を端的に表わしてい る。⑦場所を対境とするとは﹁或る場所に在るものが対 象となる﹂︵陽閉ロ︶という意味である。⑥二人の共通の 対境となるとは﹁二人の有情の共通の対象となるからで ある。非色はそのようではない。あたかも自分の体験が 他人に理解されないのと同じである﹂念闇巳。 以上の八つの相をダルマリンチェンは﹁相を有するも の︵日厨盲目動己冒︶﹂と呼んでいるが、﹁相を有する﹂と は勿論、色の相を有すという意味である。 これらに対し⑧と⑥乃至⑬は﹁施設されたもの︵胃国甥 忌冨︶﹂と呼ばれる。体は色ではないが有色として施設 されたものという意味である。 そのうちで、③喜を集︵原因︶とするとは、﹁喜がそ のものの集︵原因︶であるところのそれが有色である﹂ ︵膀恩︶。有色は喜を原因としているという意味である。 ダルマリンチェンは③を﹁果の語を因の意味に用いる﹂ と説明しているが、今の場合、果の語とは﹁有色﹂を指 し、因とは﹁喜﹂である。﹁有色﹂という語は︵色に対 する︶喜を意味している、という意味である。色に対し ⑩ て喜ぶから、その喜びが有色と言われる。 ⑥乃至⑬は﹁因の語を果の意味に用いる﹂と説明され ている。そのうちで、⑨相属とは、﹁眼識なども関係を 有することによって有色性となる。︹眼識などが︺有色 の根と相属しているからである﹂︵嚴團︶。識︵非色︶が 根︵色︶と相属することによって作用を逐行するから、 識が有色と呼ばれるのである。⑩付臆とは﹁無色界に生 じた凡夫には色の種子が付随しているから﹂︵臨團︶彼 もまた有色と呼ばれるという意味である。⑪顕了︵科目ロー ⑪ 冒目︶は﹁尋伺が所縁を顕了するから﹂︵陽国︺︶と説明さ れている。君︲胃巨富gは胃色く剖引句に由来し、表出し、 知らしめることを意味する。尋と伺とは色を対象として、 47

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それを意識に対して表出し知らしめるから、そのはたら きをなす尋と伺が有色と呼ばれるのである。⑫は悩壊す るから有色であるという意味である。シの、ロは﹁悩壊 ︵ぐ望目目冒目︶の故にとは、五瀧が手などで触れることに よって、また憂いなどによって所応の如く変壊し︵勧冨︲ g︶、苦しめる︵目︵]盲目︶からである﹂と説明する。 ⑫ シの国丘やプトン註によれば、ここの﹁悩壊﹂には二極の 意味があるようである。即ち五湖が変壊することと、変 壊によって主観の側が苦痛を受けること、という二種で ある。上述した如く、︽︽目弓P画計一日冨日︶︾には﹁壊れ るから色である﹂という客観的認識と﹁︹変壊する色に よって︺有情が苦悩するから色である﹂という主観的認 識とがあった。悩壊するから有色であるというのも客観 的・主観的の両方に理解できる。即ち客観的には、﹁五 穂は変壊するから有色と呼ばれる﹂の意味であり、この 場合は、変壊は色法に最も顕著に認められる性質である から、変壊する五穂のす、へてを有色と呼んでいる。主観 的には、苦悩するという心理のはたらきは色を対象とし たとき最も顕著に起るから、苦悩という心理のはたらき を、対象のいかんにかかわらず、全て有色と呼ぶのであ る。⑬顕示︵のP目冒苔目色︶とは﹁言説が明示するから﹂ 震閉巳、言説が有色とみなされるのである。 有色の相には二十相が挙げられていたが、厳密に言え ばい乃至⑭のみが有色の相である。ダルマリンチェンは これら十四種を﹁相﹂と呼んでいる。残りの⑮乃至⑳は ﹁差別﹂と説明されている如く、欲・色界者、凡夫、有 学、無学、仏という種姓の別による色の差別を説くもの ⑬ である。したがってこれら六種は目下の論究には直接関 係がない。紙幅の都合もあるのでその説明を省く。 有色の相を概観しおわって、私達が改めて目を向けて 見たいのは﹁相を有すもの﹂と称されたい②㈱乃至⑥⑭ のグループと、﹁施設されたもの﹂と称された⑥⑨乃至 ⑬のグルー・フである。第一のグルー。フは色法の客観的分 析である。このグループにおいては、有色か否かはそれ の体が四大。四大所造色であるか否かで決定される。こ れに対して第二のグループは私達が問題にしている﹁色 法の主観的認識﹂に属す。︵但し⑩付随は﹁宗教上の分 類﹂の名のもとに⑮乃至⑳のグルー・フに摂さるべきであ る。︶第二のグルー・フにおいては色を自体とするか否か によって有色か否かが決められるのでない。有色か否か を決めるのは主観の在り方である。③は色に対する喜が 有色と言われるという意味であった。有色か否かは有情 48

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が色を喜ぶか否かにかかっている。側は眼識などが根と 相属しているから有色であるという意味であった。ここ でも有色か否かは主観の側の認識活動の有無に基づく。 対象である色を識が認識するとき、その識が有色と呼ば れる。⑪顕了においても、尋伺が有色と言われるのは、 色を尋求し伺察するという心理作用に基づいている。⑫ 悩壊においても、客観的には色或いは五萠は変壊するだ けであるが、それに苦痛を感じるのは色に対する主観の 側に執著があるからである。⑬顕示とは色を言説で表現 することであり、その言説が有色と言われる。この場合 も、色を対象とする主観の側の言語作用に基づいて有色 と言われる。 仏教の一般論では有色︵境目旨︶とは色︵四大・四大所 造色︶を自体とするものである。しかし﹃集論﹄では有 色を色法のみに限定しない。色を喜び、色と相属し、色 を顕了し、色に苦痛を受け、色を顕示する、という主観 の側のはたらきがあるとき、そのはたらきをなすものを 有色と呼んでいる。色法のみならず、色法に対する主観 の関与の全体を有色と呼んでいる。ここに至って、色法 の研究は物質に対する客観的な分析にとどまらず、色に 対する主観の関与にまで及んでいる。色に対する主観の 結 原始経典における色法への倫理的な取り組は、色は無 常であるから、それは真の幸福の基礎となりえない、と いうことであった。仏教における色法の研究は、色の無 常・苦・無我なることを明らかにし、色への執着を断つ ことを目的としていた。仏教の客観的分析観はこの目的 に大いに資した。これに対して色法の主観的認識もまた 存在した。それは色に対する有情の関与の相と執著の現 実を明らかにするという意味を持つであろう。上述の如 く、﹃集論﹄の有色説は有色の相とその相を構成する﹁事﹂ ︵ぐゆの甘︶を正しく知ることを通して、有色が無我である ことを知り、我への執著を断つことを目的としていた。 有色の相とは色と色に対する主観の関与︵執著︶である。 それ故、色に対する主観の関与︵執着︶の認識は、色へ 認識﹂を認めることができる。 いる。﹃集諭﹄の﹁有色﹂の中に私達は﹁色法の主観的 関与が﹁有色﹂という新たな色の概念を生ずるに至って

︵有色︶︵有色︶

一 般 論 ︵四大・所造色︶ 色 「集論』 主観の 関 与

I

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の執著からの解放の第一歩となる。色法の主観的認識を 今はこのように位置づけておきたい。 註 ①国.嵐胃匡口囚8$︾駒員暮営警畠唇畠ミミミミ︾9旨︲ 4う3。・ 目ウ○︾ご雪ゞ己や5Cl軒 ②吉元信行氏は﹁物質概念の大乗アビダルマ的分析I色調 と変壊I﹂︵﹃大谷学報﹄六二’一、昭五七年︶において、 従来一般に﹁変壊﹂と理解されていた曽喝四口四︵昌噌目︶ の語に﹁苦悩﹂の意味のあることを明らかにされた。拙論 は吉元氏の論文に示唆・啓発を受けた。拙論で取り扱う問 題も援用した資料も同氏の論文と共通する部分が多い。し かし同氏とは理解を異にする点もあり、主題に対する取り 組み方も全同ではない。 ③砲門の己は昌喝四陣に8胃q①×①e・噌片①、の8﹄冒俳ゞ 目巳①昇呂の訳語を与えている。 ④国.句目.目︺や患、︾レウ胃.弓当士. ⑤この意味は﹃入阿毘達磨論﹂桜部建博士訳︵﹁大谷大学 研究年報﹄Z。.届、忌訊︶固昌霞、﹃五事毘婆沙論﹄︵大二 八・九八九C︶にも見られる。 ⑥触対変壊と方所示現のサンスクリット原語は不明である が、︲陣且富己博士はm冨儲のロ④目冨冒と冒且①附口四 目冨層を当てる︵国且冒昌︾起喜ミ盲君言畠Sミミ・ミSe 堅堕騒苫叱邑︾○嵐斗さ昌唇、包謹、包含富昌急慧島、鼻の四国はロ﹄戸①庁P岸や画C﹄ や巴。また目冨息のこの二義は﹃琉伽師地論﹄にも認 められる。即ち﹁此変擬義復有二種。一手等所触便変壊義。 二方処差別種種相義﹂︵大三○・六○八C︶ ⑦衿の&・︾陣且冨口や弓︾&この呂冨]①︵︽国潰目①昌蔚 時○日吾①シワ丘昼白胃目四$目ロ8色ぐゅ旦降困侭p︾.]○日口巴 旦夢①画○日ご口﹃国3口o丘閃昌昌缶巴秒武○m○国①q、z肋. ぐ巳.鴎﹄]置己や9. ③上杉﹁阿毘達磨集論の有色・無色説について﹂﹁印仏研 究﹄第二六巻第一号、弓.笛や罷切 ⑨ダルマリンチェンの註釈伊①鴨忌H肩且憩呂○m目9国 晶冒四目蕨廿○匡凰9℃○ず農侭印も四宮むぽ昌○窃冨鴨.やや 闇P︵大谷大学チベット蔵外文献目録z○.SES$ごl 雷電による。彼の註釈は要点を的確に示し、整理してい るのが特徴である。この他にプトンの註釈。gの目gpg 丙口p旨い再口印も⑳官目四目肩四凸凰目四宮信&圏①Hmpのの ご騨冨︵プトソ全集第二巻所収︶を参照した。これは有 部、経部の学説を照介・対比させ、特に﹁倶舎論﹄からの 引用がひんぱんであり、大部なものとなっている。 ⑩﹁雑集論述記﹄﹁喜集色者即是前自性等諸門喜受等心積二 集諸色圭此色従愛等心所集故名喜集﹂︵巻六、三八八右下︶ ⑪冒胃眉目Pの語は瞬庶言.隠巴に見られるが、鈩弄ご ︵口.や臼とはそれを胃い§胤目ゅ︵指示すること︶色ぐゅ︲ 9号四国四︵了解せしめること︶と説明している。 ⑫プトン註﹁五誼が手などで触れることにより、また憂い などにより、次第の如く悩壊するから﹂e・麗喪︶ ⑬⑮乃至⑳は色調のみでなく、五源の全てに該当する差別 であり、﹃集諭﹄﹁三法品﹂の最後︵﹃阿毘達磨雑集論﹄第 五巻、大三二・七一七a︶において瀧・界・処の差別法と して再出している。 50

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