中世マクデブルクの参審人裁判所
24
0
0
全文
(2) 近畿大学法学 第45巻第3• 4号. はじ め に. ド イツ 中 世都 市 法 に 関 す る 概 説 書 を 眺 め る と 、 し ば し ば 、 次 の よ うな 言 及 を 目 に す る 。 そ れ は 、あ る 中 世都 市 が そ. の 都 市 法 を 他 の 都 市 に も 授 与 し て、そ こ か ら― つの 都 市 法 家 族 が 形 成 さ れ たこ と であ り、 そ の 代 表 的 な も の は 「 たと. に お け る ) マク デプ ル. ル ト 海岸 に お け る ) リュ ー ベッ ク 都 市 法 家 族 、( ル プ リ ン L u bl i n. バ. 部 分 的 に は 非 ド イツ 人 の 諸 都 市 を も 含 む. え ば (ヴ ィス ビ W i s byと レ フ ァ ルR e va!ま で の. お よ びウ ク ライナ に お よ ぶ 東方 植 民 地 内陸. rn• ユヒ ト ラン ト の フ ラ イ プ gi bur ei u• ベル ン Be ga eis m Br ク 都 市 法 家 族 お よ び (ブ ラ イス ガウ の フ ラ イブ ル ク Fr. ル ト 海沿 岸 、 そ し て 東欧 等 の ド イツ 人 植 民 地 域 にか け て、リ ュ ー ベ ッ ク 法 と マク デプ. バ. n d•ヴ ィ リ ン ゲン Vi ll ル ク Fr ei bur g im Uchtla i n ge n の )ツ ェ ー リン ゲン 都 市 法 家 族 」で あ る と い う こ と で あ る 。 し た が っ て 、 ドイッ 東北部 か ら. ル ク 法 が 、中 世に お い て 、 二つ の 巨 大 な 都 市 法 家 族 を 築 い て い た こ と に な る。 前 者 の リュ ー ベッ ク 法 と 同 市 の 歴 史 に. つ い て は 、 筆 者 を 含 め 、 多 く の ド イツ 中 世史 家 に よ っ て 明 ら か に さ れ て き て い る が 、 し か し 、 後 者 の マ ク デプ ル ク 法. に つ い て は 、 そ の 著 名 度 と は 裏 腹 に 、 ほと ん ど 研究 対 象 と は さ れ て こ な か っ た よ うに 、少 な く と も 筆 者 に は 見 え る 。. 筆 者 は 、 こ れ ま で 前 者 の リュ ー ベ ッ ク 法 の 内容 に つ い て 、 か な り の 時 間 を 費や し て 、 そ の 全体 像の 解 明 に つ と め て. き た 。 そ の 研究 の 過程 で 、 し ば し ば マ ク デプ ル ク 法 の 文字 を 目 に し 、 マク デブ ルク 法 を 視 野 に 入 れ る 必 要も 感じ て い. た。 な ぜな らマク デブ ル ク 法 は リュ ー ベ ッ ク 法 と 近接 ・ 併 存し て い た か ら であ り、 後 者 の 法 の 本 質 的 な 特 徴 を 明 らか. に し よ う と す れ ば 、 必 然 的 に 隣 の 都 市 法 と そ の 法 圏 と の 比較 も 必 要 と な る か ら で あ る 。. 今 後 、 マ ク デブ ル ク 研究 に 少 し 本 格 的 に 取 り組 も うと 思 っ て い る 。 そ し て 本 稿 は そ の た め の 研究 序 説 的 な 拙論 と な. -60-.
(3) 中世マクデプルクの参審人裁判所. る が 、 筆 者 は こ れ ま で リュ ー ベッ ク 法 研究 に 専 念 し て き た か ら 、 本 稿 の 内容 も 多 分 に リュ ー ペッ ク 法 か ら 見 た マ ク デ. マク デプ ルク 法. プ ル ク 法 研究 と な っ て し ま う で あ ろ う 。 こ の 点 を 予 め お 断 り し て お き た い 。. m. リュ ー ベッ ク 法 の 代 表 的 な 研究 者 で あ るヴ ィル ヘ ル ム ・ エー ベル は 、 マ ク デプ ル ク 法 の 特 徴 を 、 リュ ー ベッ ク 法 と. 、 対 比さ せ つ つ 、 次 の よ う に 述 べ て い る 。 す な わ ち 、 「 ザ ク セン シュ ピ ー ゲル • 都 市 法 (W e i chbi l dr e c ht )ょ .d マ ク デ. プ ル ク 都 市 法 の 名 の 下 に ( 東欧 へ と ) 広 が っ て い っ た 。 その 主 た る 構 成 要素 で ある私法におい ては(ザク センシュ ピー. れによれ. J. -61-. ゲ ル ・ 都 市 法 は ) 本 質 的 に ザ ク セ ン シ ュ ピ ー ゲ ル ・ ラ ン ト 法 と 一致 し て い た か ら 、 シ ュ レ ジ ェ ン や ポ ー ラ ン ド に お け. る 十 五世紀 と 十 六世紀 の 多 く の 編纂 に お い て 、 後 者 と 統一 的 に 取 り 扱 わ れ る こ と が で き 」た の で あ る と 。. マ ク デプ ル ク 法 は 、 ザ ク センシュ ピ ー ゲル ・ 都 市 法 と 呼 ば れ た も の の 、 それ は ザ ク セン シ ュ ビ ー ゲル ・ ラン ト 法. エー ベル に よ れ ば 、 「 マク デプ ル ク の 都 市 ・ 裁判 制度 に と っ て 特 徴 的 で あ る の は 、 市 参 事 会 と 併 存し 、 そ の 本 質 と 4 構 成 と 手続 に お い て 、 本 来 的 に ラン ト 法 的 で 、 さ ら に 手工業 者も席 を占 め る 参 審 人 裁判 所 (ba nk) で 」 あ っ た 。 こ. マク デプ ルク の 裁 判 制 度. の よ う な 大 商業 都 市 に つ い て 、 同 様 に ま た小 農 業 市 民 都 市 に つ い ても 、 適合 的 で あ っ た 」の で あ る 。. 法 は 、 内陸 の 都 市 的 な 植 民 地 の 法 であ っ た」 の で あ り 、 換 言 す れ ば 、 それ は 「 ライプ ツ ィ ヒ と プ レス ラウ と ク ラカ ウ. と 本 質 的 に 変 わ ら ぬ 内容 の 法 で あ っ た こ と に な る 。 つ ま り 、 それ は農 村 的 な 色 彩 も 残 し て い た か ら 、「 マ ク デブ ル ク. 伐 [2].
(4) 近畿大学法学 第45巻第3• 4号. の指 摘は、筆者 のようにリ ュー ベッ クの裁 判制 度を研究した者から見れば、 まことに興味深い。第 一に、参審人裁判. 所 と市参事会は全く別の存在であり、第 二に、前者の裁 判所 の参審人に手工業者が参加していたことで ある。これに. 対 して、リ ュー ベッ クでは市参事会と並ぶ最上 級審の裁 判所 は存在せず 、市参事会そのものがリ ュー ベッ ク法圏 の最 固 上 級審 をなし、その裁 判官 は大商 人からなる市参事会員でもあった。つまり、リ ュー ベッ クでは「 立法と行政と司法」. の分離 はなく、その裁 判官 に手工業者が加わることもなかった。これに対 して、 マクデプルク市の市民自治において. は、 「 立法と行政」 と「 司法」 が分離 していたのである。ただし、こちらのような有り方が、ド イ ツ 中 世 都 市 全 体 か. らすれば、実は一般的な有り方なので はあるが。. さて、その「 司法」を構成する参審 人については、ドイツ法制 史の概説 書を紐解けば、必ず 一般的な記述をそこに. 任命された、判決 発見を行う恒 常的な委員会の構. 見いだすことがで きる。すなわち、彼らは、いかなるレヴ ェルの裁 判集会であれ、その裁判集会での、しばしばグラー フ によってー ー ー実際には参審 人の自己補充 を認めるとしてもI. 成 員で あり、歴史的にはカー ル大帝期 のR a chinbi.i r genにまで遡ることである。そして、この制 度はドイツのみ なら. ず西 ヨー ロッ パの各 地にも普遍的に見出されるのであると( 例え ば、フ ランス語圏 のec he vin) 。. しかし、誰が中世都市において参審 人になり、彼らは具体的にどこで活動し、どのように判決 発見を行ったのか、. その中身は?となると、 必ず しも記述は十分ではないようである。これは実証的に研究を進めることを重視 する立場. の者にとっては物足りない 。さらに、我が国のドイツ中世都市法研究をリ ードされてきた林毅教 授のケ ルン市史研究. や小 倉欣 一教 授のフ ランクフ ルト市史研究においても、筆者 の管 見する限り、参審 人についてかなりの頁 が割かれて. いるが、しかし教 授らの本 来の研究目的がそこにはないから、そこでは、なお参審人たちは研究の前面 には出て来て. -62-.
(5) 中世マクデプルクの参審人裁判所. 6 は い な い よ う に 思え る 。. 筆 者 に は 、 ド イ ッ 中 世 都 市 の 参 審 人 と 彼 ら の 裁 判 所 に つ い て 、 ま し て や巨 大 な 空 間 地 域 の オ ー ベ ル ホ ー フ と し て 君. 臨 し た マ ク デ プ ル ク の 参 審 人 裁 判 所 に つ い て も 、 我 が 国 の 研 究 が ま だ 十分 進 展 し て い る と は 思わ れ な い の で あ り 、 本. 稿 の作 成 動機 の― つ も こ こ に ある。. マク デ プ ル ク 市 史 研 究. 前 述 の よ う な 特徴 を持 つ マ ク デ ブ ル ク 法 は 、 ど の よ う に し て 形 成 さ れ 、 同 法 を育 ん だ マ ク デ ブ ル ク 市 は い か な る 中. 世 都 市 で あ っ た の で あ ろ う か 。 筆 者 の 管 見 す る 限 り 、 我 が 国 に お い て は 、 こ れ ま で の 所 、 マ ク デプ ル ク の 市 史 に つ い. て 研 究 し 、 ま た は 本 格 的 に 紹介 し た 論考 も 少 な い よ う に 思わ れ る 。 マ ク デ ブ ル ク 市 が 一九 九0 年 ま で 東ド イ ツ に 位 置. し て い た こ と 、 日 本 の ヨ ー ロ ッ パ 中 世 都 市 研 究 が 、 総 体 的 に 、 遠 隔 地 商 業 の 盛 ん な ドイ ツ ・ハ ンザ の 都 市 に 向け ら れ. て い た こ と 、 し た が っ て 、中 ・南 部 ドイ ツ を除 け ば 、 内 陸 に あ る 都 市 に は 目 が 向け ら れ て い な か っ た こ と が 、 そ の 理. 由 だ っ た の で あ ろ う か 。 い ず れ に せ よ 、 マ ク デプ ル ク 市 と そ の 都 市 法 に つ い て 、 も っ と 我 々 の 研 究 の ス ポ ッ ト ラ イ ト. 〉. フラ ンツ・ヴ ィ ーアッ カー•鈴 木禄 弥訳「近世 私法史 」、創文 社 、 一―四頁 。他にミッ タイ ス11リ ーベ ッ リヒ •世 良 晃 志 郎. 〈注. が 当 て ら れ て も 不 思議 で は な い 。. ①. 書房 、 二 七 一 I二七 二頁 、等も参 照。. 、創文 社 、三 ―四頁 、 ハン スK ・シ ュル ツェ・千 葉徳夫 他訳r 西洋 中世 史事典』、 ミネ ル ヴァ 訳『 ドイ ッ法制 史 概説 改訂版 」. -63-. [3].
(6) 近畿大学法学 第45巻第3 • 4号. ②. `. ,19 ,S . St 72 7.エーベ ル は、 後述 するマ 5 2 EbelLti W. rsill s adtdesM i lalte e bi ch es e tt m Os um ,i ra ht i c e e s t Re nD i クデプル ク法 の専 門家 である フリー トリッ ヒ・エ ーベル の父 とさ れる。. ,a. ,. マ クデ プル ク法 とリュ ーベッ ク法 と の内容 的な相 違 の―つ の事例 として 、 エ ーベ ル は夫 婦 財 産 制 25 8. a. O.S Ebel W. 度 をとりあ げ ている。 彼 によ れば 、後者 では、相 続 人 のいる 、すなわ ち 、子供 のいる夫 婦 の場合 、夫 の債務 の支 払いにつ いて、. ③. 寡婦 の財産もそ の責任 を負う という 「共 同財産制」が既 に採 用さ れていた のに対 して 、マ クデプル ク法 では、ザ クセ ン法 の、. 夫 婦別 産制を基礎 とする 、夫 による管 理共 同制度が採 用さ れて いた こ とであ る。 前者 の夫 婦財 産制 度は、まさ に商 業 都 市 に相. 応 しい、信 用 の強 化に役 立つ 財産制 度というこ とにな る。マ クデ プル ク法 のそ の制度につ いてエ ーベル は何も語っ て いないが、 彼 はそ こに農 村法的な特 徴 を見ていた よう にも思わ れる (S . 26 0 .) 。. ④ i c off F・ヴィーアッ カー、前掲書 ではS h リーベッ en に審 判 人の訳語が当てられている。 同様 の表記法 をミッ タイス11 S. 25 8. bi d. リヒ、前掲書 の原語索 引 、林 毅 『 ドイツ中世都市と都市法 」、創文 社 、 一 0 五頁 にも見出す。 彼 らS ch oppenは、法 廷で判 決発 見 人と同じ機能を果た していた のであるから、意味 的には審判 人という訳語が的確なようにも思わ れるが、本 稿 では参 審 人という訳 語. を使用する。た だし、林 毅 教授は、最近では、例 えば 「ゲルマ ン古代 の民 衆裁判 」(佐 藤篤士 •林 毅編著『 司法 へ の民 衆参 加』敬 文 堂 、所 収) では、参 審人という訳語も使用さ れている。なお参 審人(S ch 5ff en )について、Ha n dw 5 erbu rt c hz urD eu t s c h en. ,S ch off ,S . の項を、十 五世紀における 89 (以 下 HR Gと略す) 146 3 ' 1469のS cM ff en enge 二4 t eBd.19 chts ch i ch t Re ges e rich t 参 審人制 度の衰退についてF・ヴィーアッ カー、前掲書 、 一 八七 頁 をそれぞ れ参 照さ れたい。. ⑤ 拙稿 「リュ ーベッ ク市参 事会裁判 とそ の判 決」 (佐 藤•林 編著「司法 へ の民 衆参 加」 、所 収) 。. ベル ホー フ機能 」(杉 山晴康編「裁判 と法 の歴史的展 開」 、敬 文 堂 、所 収) 。な お小 倉訳「 フラ ンク フル ト都市法 」(久 保正 幡 先. ⑥ 例 えば 、林 毅『 ドイ ッ 中世 都市 と都市法 」 一 0 五\ ―-九二頁 。小 倉欣一 「帝 国都市 フラ ンク フル ト の参 審 人裁 判 所 とオ ー. ら、参審 人につ いて多 く の学 問的な示 唆 を受けた こ とも記 して おきた い。. 生還 暦記 念 「西洋 法制史料選 II 中世 』 、創文 社 、所 収) の二 四五頁 以 下も参 照さ れた い。た だ し、 筆 者 が 、 こ れ ら の文 献 か. ⑦ 金子 雅夫 「マ クデプル クの起 源ー 中東 ドイ ツ都市史研究序説ー 」早 大文 学 研究科 紀要別冊第 四号。 渡部 治 雄 「ザ クセ ン朝. の教会支 配体制に関 する 一 考 察 ー マ ク デ プル ク の位置 をめぐ ってー 」(服 藤弘司 •小 山貞夫 編「法と権 力 の史 的考 察ー 世 良 教授還 暦記 念 上ー 」創文 社 、所 収) 。マ クデ プル ク法 と同じ系 列に属 する クル ム法につ いて は山田作男 「 クル ム法 都 市 の建 設 」(『 プロ イセ ン史研究序説』、風間書 房 、所 収)がある。. -64-.
(7) 中世マクデプルクの参審人裁判所. 中 世 のマ ク デ プル ク 市. マク デブ ルク 市 の 歴 史 的 な 出 発 点 は 、フ ラ ン ク 時 代 の カ ロリ ン グ 期 に ま で 遡 る 。 こ の 地 は 、 当 時 フ ラン ク 帝 国の 東. 端 、 す な わ ち 、 エル ベ 河 を 挟ん で 、対 岸 の 東側 のス ラブ 人 地 域 と 向か い 合 う 地 域 に 位 置 し て い た 。こ こ に は 城砦 と 、. 遠 隔地 商 人 の 訪 れ る 交 易地 が あ り 、 こ の 交 易地 で は 主 に 皮 、 毛 皮 、 蜜 、 ろ う 等 の 特 産 物 や 奴 隷 な ど が 取 引 さ れ た と さ れる。. 中 央に 市 参 事 会 庁 舎 が 位 置 す る こ と に な る 1. 東西 に細 長い 場所にあ っ. -65-. マク デプ ルク 大 司 教 区 の 形 成. 3角?こす る I 会 を 志宙 (St.Joha nnes ) 11l:iS • E企. つ と し て 急速 に 発 展 し て い っ た 。 そ の 市 場は D o mbur g の北側 の 場 所、 すな わ ち 、プ ラー ニ ッツ に よ れ ば 、 聖 ヨ ハネ. 長 アダ ル ベ ル ト (Ada l be r t vo n burg) で あ っ た 。 彼 の 支 配 の 下 で、 マ ク デプ ル ク は 東 部 商 業 の 中 心 地 の n Me i Be. 九 六八 年に は 、こ の 地 域 は マ ク デプ ル ク 大 司 教区 と な り 、 そ の 大 司 教峨 を 務 め る こ と に な っ た の は 右述 の 修 道 院 の. 出 発 点と な っ たよ う であ る。. の カ ロリ ン グ 期 の 要 塞 を 城砦 に 造 り 替え 、 九 三七 年に は 聖 マウ リ ッ ツ (St. Mau ri tz ) 修 道 院 を 創 建 し、 同 修 道 院 に 131 市 場権 を 付与 し た 。 こ れ に と も な っ て 小 商人 や 手工業 者 の 定 住 も 促 進 さ れ た 。こ れ が マク デブ ル ク の 都 市 的 な 発 展 の. ( 一 世) は 、 彼 の 最 初 の 妻 エギー ト (Edgith) に 九 二九 年に マ ク デブ ル ク を 嫁資 と して 与 え た 。 彼 は 、 そ の 際 、 以前. ド イッ 王 国の 時 代 に な る と 、 国王 の マク デブ ル ク に 対 する 関 心が 大 き く な っ た 。 九 六― 一 年に 皇 帝 と な る オ ッ ト ー. [1].
(8) 近畿大学法学 第45巻第3 • 4号. ③. O 世紀末頃 のこととさ れる。 J. )と呼ばれている。その市場がいつ頃 設置さ れたのか 不 明である。一説 によ れ た。この市場は旧市場(Alt e rMarkt ヽ ギ6 ,9. ところ で、当時の マクデプルク商 業に携わった者として、しばしば史料で言及さ れるのはユダ ヤ人商人である。彼. らを中心とする マクデプルク商 人たちは―つの商人団体を結成し、この商人団体に加入している廂 人が、国王の特許 6 状による、 ドイツ各 地の市場での免税特権 を享受 していた。前 者 のユダ ヤ人たちは、 マクデプルクでは、城砦の内部、. 4. m?)に居住 していたようであ る 。 しカ、 bu n de またはD o g(Su r bu )のSu dt a r st r bu lの南側にある城外町 (V o ge mhu. し、 彼らユダ ヤ人商人の活動については、その後の史料はあまり語らない。彼らは、その後の市民自 治の担い手とも 171 さ れていない。また、彼ら商人たちが居住 していたズー デンプルクも、後の都市の発展の核とはなっていない。. 十二 世紀の東 部ドイッ 地域 への植民運 動が始 まるとともに、 マクデプルク市の都市的な発展も開始 した。市はライ. ンラントやフ ランデルンの都市と交易関係を強め、その取扱い商品も穀物、肉、革製品、 ビー ル、貴金属、装飾品、. 香辛料、布製品などに変わり、その主体 は手工業製品となっていった。 ェルベ河 沿いにあったとさ れる商人たちの定. 住 地も、次第 に旧市場の方へ と移動してゆき、後の中世都市的な市民自 治は、この旧市場の周 囲か ら出発することに こ° ふ っt. 図 市 民自 治 の成 立. 商 人定 住 地を 管 轄 し た のは 大 司教 のブ ルクグ ラー フ (Bu rggra f) で あっ た 。 彼 は 旧 市 場 地域 で も上 級 裁 判 権. i (H o t)を行使 し、さらに下級裁判官 としてシ ュルトハイスを任命した。 rke icht ba chge s r. -66-.
(9) 中 世 マ クデプルクの参審人裁判所. マクデプルク市で市民自治がどのようにして発展したのか、を跡付ける記録 はあまりない。おそらく当初 、都市君. 主である大司教 が、市を統治する際に市民を登 用していたことが市民自治の発展の基礎となったようである。したがっ. て一種 の市民蜂起 的な市民共同体 の形成は見られない。 このことは、その後の展開 において、しばしば都市君主 と市. 民との関係か良 好であったという説 明も可能 にするようである。この自治機関は最初 、商人教 会の管理 を任されたに. すぎないが、次第 に自立した自治機関へと変化してゆき、その構成員はcivesと呼ばれるようになった。 し か し 彼 ら. vesは平等な市民ではなかった。なぜなら、十二世 紀には彼らの中に門閥層が形成されており、 彼 ら は裕 福 な商 人 c i. か、あるいは大司教 のミニステリ アー レン出身者であったからである。都市君主 の裁 判において次第 に影響力 を行使. するようになる参審人団(Sc ho ppenkole gium )もこの門閥層から選ばれていった。 彼ら参審人 は 、 さ ら に 市 の 行 政 も事実上 管轄 するようになってゆく。. 参審人団の権 限の増大は、確かに大司教 による都市支配の後退をも意味したが、しかしこの変動と並んで、他 方で、. 参審人の出身母体である門閥層、 以外の市民たちの自治活動も活発化したようである。このことは、参審人団が市民. 自治の中心機関である市参事会の直接的・先 駆的な機関ではなかったことも意味する。おそらく参審人団は、身分的. にはミニステリ アー レン出身者また市民身分ではあっても、大司教 によって任命された者であり、 既に一般市民とは. 異なる特権 身 分 を 構 成 し て い た か らで あろ う 。 本 来 の 市 民 の 活 動 の 場 と し て機 能 し た の は市 民 集 会 (conve nt us. vium )であった。参審 人たちは、彼らの行政活動について、市民集会での報告義務 を課せられたのである。 i c. マクデプルクで市参事会が創設されたのは―二三 八年または―二四四年とされる。その最初 の市参事会員の八人は、. 参審人団と市民集会からそれぞれ四人ず つ選出されている。 やがて、参審 人団は市の行政から次第 に撤退し、市参事. -67-.
(10) 中世マ ク デ プル ク の参審人裁判 所. マクデプルク市で 市民自治がど のよう に し て発展 した のか、を跡付ける記録はあま りな い。おそらく当初 、都市君. 主である大司教 が、市を統 治する際に市民を登 用し ていたことが市民自治 の発展 の基礎となったようである。したがっ. て一種 の市民蜂起 的な市民共同体 の形成は見られな い。こ のことは、そ の後 の展開 にお いて、 しばしば 都市君主と市. 民と の関係が良 好であったと いう説 明も可能 に する ようである 。こ の自治機関は最初 、商人教 会 の管理 を任されたに. すぎな いが、次第 に自 立した自治機 関へと変化 し てゆ き、そ の構成 員は cive sと呼 ばれる ようになった。 しか し彼 ら. civesは平等な市民ではなかった。なぜなら、十 二世紀には彼ら の中に門閥層が形成され てお り、 彼 ら は裕 福 な商 人. か、ある いは大司教 のミニステリ アー レン出身者であったからである。都市君主 の裁 判にお いて次第 に影響力 を行使. u m )もこ の門閥層から選ばれ ていっ た。彼ら参審人 は 、 さ ら に市 の行 政 する ようになる参審 人団 ( Schoppenk ol eg i も事実上管轄 する ようになっ てゆく。. 参審 人団 の権 限 の増大は、確かに大司教 に よる都市支配 の後退をも意味 したが、 しか しこ の変動と並んで、他 方で、. 参審人 の出身母体 である門閥層、以外 の市民たち の自 治活動も活発化 した よう である。こ のことは、参審 人団が市民. 自治 の中心機関である市参事会 の直接的・先 駆的な機関ではなかったことも意味 する 。おそらく参審 人団は、身分的. にはミニステリ ア ーレン出身者また市民身分ではあっ ても、大司教に よっ て任命された者であ り、既に一般市民とは. 異なる特権 身 分 を 構 成 し て いた か ら で あろ う 。 本 来 の市 民 の活 動 の場 と し て機 能 し た のは 市 民 集会 ( c onve nt us. viu i c m )であった。参審 人たちは、彼ら の行政活 動につ いて、市民集会で の報告義務 を課せ られた のである。. K. マクデプルクで市参事会が創設された のは―二 三八年または― 二四四年とされる。そ の最初 の市参事今酋 の八人は、. 参審 人団 と市民集会からそれぞれ四人ずつ選出され ている。 やが て、参審 人団は市 の行政か ら次第 に撤退 し、市参事. -67-.
(11) 会は市民の代表機 関とし ての性格をはっきりさせるようになり、市参事会 員は、遅くとも―二 八一年 以降は、商人 や. 手工業者組合である I nnu nnung e nから も 選 ば nge nnu nの中の大 I nge nから、一 三三0年の市民騒擾以降からは、小 I 3nu れるよう になる。 大 I dkr ame r )、 靴 峨 人 、 な め し 皮 職人 nnu nge nとは、―― 八三年に初 め て登場する衣 服商 (Wan. る。 小 I nnu nは、その他 の中 小のギルドまたは ツンフ トである。したがっ て、遠隔地商 人の支配 し た リ ュー ベッ nge. クとは異なり、ここでは、市参事会は商 人のみ ならず、手 工業者 組合の親方層からも、少なくともこの時期 には、構 成 され ていたのである。. この市参事会は、さらに都市 君主である大司教 に対し ても、彼らの権 力を強化させ、―二九四年には、ブル クグラー. フ 眺とシ ュルト ハイス戦を大司教 から買 い取ることに成功する。こうし て、市民自治の担 い手である市参事会の マク デ プ ル ク市 内での支配体制 がで き上がることになる。. このような市民自治の成 立は、確かに、前述のように、リ ュー ベッ クのような建設都市から 見れば、異質ではある. が、しかし、同じよう に大司教 を都市君主とし て戴 いていたケ ルンに代表される自然成長都市から 見れば、そ れ ほど. 目新し いものではな い。司法制 度 の面 から見ると、ケ ルンにお い ても大司教 の役人であるプル クグラ ーフ が高級裁判. 権 を行使 し、下級裁判は大司教 のミニステリ アールたるフ ォー クトが主 宰したからである。さらに、そ れらの裁判集. 会 にお いては市民から選 ば れ、市民の利害を代表した、都市君主制 的な裁判役人である参審 人が判決 発見を担っ てい. たからである。. しかし、 マクデプ ル クの参審 人たちの活動 の特質は、彼らが彼らの裁判権 を放棄することなく、特に東 部植民地域. -68 -. )等の有カ ギル ドまたはツンフ トを意味す r de i hne ndsc nw a 、肉屋、毛皮商 (Kli ) r )、亜麻布戦人(Lei r be r chne s r (Ge. 近畿大学法学 第45巻第 3 • 4 号.
(12) 中世マクデプルクの参審人裁判所. での オー ベル ホー フ ( Obe r hof)とし ての地位を維 持し、か つその名声を三0年戦争の時期まで 失わなか った こ と で n ある。これは、なぜに生 じたのであろ うか 。我 々の本来の研究 関心の―つもそこにある。. 固 中世末期 以降 の マク デプ ルク. 十四世紀になると、市 の遠陽地商 業は フラ ン ドル、イ ギリス 、 バルト海 地域との取引関係を強めるなど、その発展. には著しいものがあ った。既に―二 七0年頃 にはザ ク セン都市同盟に加入し、十 五世紀の始め には ハンザ都市 同盟に 8 も参加した。ただし、 マクデプル クはこの ハンザの中では指 導的な役割を果たすことはなか った。. 一方で 市内で は、―二 九三年、 ―二九 五年 、一 三三0年、 ―四 0 -IO 三年と、いわゆる中世末期に特 有の市民騒. 擾も多発した。当初 、それは参審人と手 工業組合 ( I nnung)長の間で 生じたが、 後 に 市 参 事 会 員 資格 者 と 、 非 市 参. ngとの争いに変化し、結 局この騒擾は市参事会の支配体制 を強化して終 了したといわ れ ている 。 事会 員資格の I nnu. さらに大司教 と市との関係も、十四世紀に入ると次第 に対 立の様相を深め てゆ く。大司教 による課税要求と、大 聖. 堂 地域 ( )で の支 配権 の 要 求 は 、 武 装 闘 争 ま で も 引 き 起 こ し 、 一 三 二 五 年 の 大 司 教 プ ル ヒ ャル ト I mmii at nit. ( Bur c har d)一 ― 世の暗殺にまでいた った。市当局は、大司教 側からア ハトと バー ンに処せ られたが、大司教 へ の 忠 誠. 義務 を誓約することによ って、この危機的な状 況を乗り越える ことがで きた。 マクデプル ク市は、その後も大司教 の. 領邦都市 ( Landst adt )に留まり、帝国直属性を獲得することなか ったが、同市は都市君主 である大司教に 対 す る 独 ⑳ 立性を保持し続け たとされ ている。. 中世都市 マクデプル クの衰退は宗教 改革期 以降の社会変動の中で始 まる。一 五二四年 、市は、 プロテ ス タントに 改. -69 -.
(13) 中世マ クデプルクの参審人裁判所. と略す)日. , S.998. 1986). (. れる こ ととな り 、 そ の大. 世 紀以 降 の. M erseburg、 Posen. お 、 市 場 権 の付 与 に つい て 、 肯 定 説 と 否 定 説 が あ る 。. ― ― ― 九 九 年 ま で)、. I. G erhard K obl er,. (M agdoburg) の地名が 、既に八 0五年 の カール 大帝 の勅令 、すなわ ち D i edenhofener K apitularに 登 場. IV, S.75な. t ers ( alt el 以 下 LM kon de M i Lexi t. 〈 注〉 ① マクデプル ク. H R G 3te Bd.,S.129. LM. LM IV (1993),S.75.. している。 ②. , S.319. Hi orisches Lexi nder, 198 8 kon der deutschen U i st. ③. (. 品に移行 した。. LM IV, S.76.. H R G 3t e Bd.,S.129,131.金 子 、 前 掲 論 文 ‘ 10. H R G 3te Bd. ,S.129.. e Bd.,S.130,131. H. Pl H R G 3t e ani tz, D i. (D om )が建 設さ. 。 十一 G •K obl er, a.a.O.,S.319). (. ④ こ の大司 教区に属 した のは、司教区 のプラ ンデ ンプル ク、 H avelberg、 M eiBen. れる ようにな る 。. ック建 築 の大聖堂. ( 10 0 0年頃 ま で) 、 Neitz,N aum burg、 Lebus( 一四― 10年以 降) である 修 道院 等 の教会施設 の建 設に ついて は、 LM IV, S.75を参 照。. N euer M arkt) と呼ば. (. D om burgに は―二 0六 年 の大火災 の後 、 ドイ ツ最初 のゴシ. していた。. 本来 的にはオ ット ー 一 世 に遡るよう であ る が ー | lの特 許 状 であ る 。. 服 LM IV,S.72.こ の地区 は、大司教 の M oll envogtの支 配に. LM IV. S.73.. 九 七 五年 のオ ット ーニ世. deutsche Stadtim M i ter, 1975,S.66の地図も参 照。 al ttel. 聖堂 の前 で開か れた 年市 は、新市場. ⑤. ⑥ ⑦. H R G 3t e Bd.,S.129.十四世 紀に は贅沢品 か ら木材 、銅 、塩 、穀物など の商. 八頁 。 ⑧. F・ エーベ ル は、そ の人 数 に. LM IV, S.73.. つい て 、 最 初 は 五人 、 後 に 十一 人 にな った と し て いる。. , Di Fri edri ch Ebel e Spruchta,. ⑨ プラ ー ニッツによ れば 、オ ット ー一世 が、妻 の Edithaの懇願によ って 、こ の移動 を命じた とさ れる か ら、 そ の移 動 は一 〇 世 紀 まで遡る こ とになる。 H .Planitz,a.a.0.,S.67. ⑩. (以 下 D ie Spruchti!tigkeitと 略 す ) in ZR G . G A . t des M agdeburger Schoppenstuhl gkei eti edersachsen, s fur N i. ⑪. , S.32. Bd.98 (198 1) i. 二九 四年に は、都市娠簿 の管 理は、参審人 の手 か ら市参 事会に移さ れた よう であ る 。 F. Ebel, D ie Spruchta, 「市 の帳簿と証書 が市 のも とにおか れる 」 べし とさ れる。 Friedrich Ebel, t`S.32.一 三三六年 の参審人規則によ れば gkei eti. ⑫ 例 えば 、. - 71 -.
(14) 近畿大学法学 第45巻第 3 • 4号. ,Bd. ,S . 2. Magde 31 3 98 cht bur l、1 rR e ge ⑬ 一 三三六年以 降は参 審 人は全く市参 事会 に属 して はいない。 HR G3teBd. 1 31.注 ⑫ の参審人規則 においても 「 参審 人 に S. ,M a ,Bd. ,S . とどまるな らば 、そ の者 は市参 事会員 」である べき ではな い と定め ら れて いる。 F .Ebel gdeburgerRec ht l 2. 31 ⑩ LM IV,S . 73. な お、大司教 ゲロ ( Ge ro10 10 23) の時代 に、大聖堂 •宮 殿(Pfal 12, z burg)の地域 が 城 壁 に囲 ま れ、 十 三. , 世 紀 には、全市 を包囲する市壁が完成 した。 HR G 3t 金子 、前掲論文 、 一0八頁 。 S. 129. eBd. ⑮ 林 「 ドイッ 中世都 市 法 の研究 」、 七 頁 以 下。 我 々は、さ らに自由帝 国都市 フラン ク フル トにも 目 を向 け る 必 要が あ る。 小 倉. 教授 によ れば 、同市では参 審 人と市参 事会が併存している が 、参 審人も市民か ら選 出さ れ、市参 事会は参審 人を含め て 構 成さ れて おり、こ こ では参審 人と市参 事会員 の対 立 の構図は描か れていな い。 しかし参 審人団はオ ーベル ホ ー フ機能 を発 揮 して い る。 こ れはケルン とも マクデプル クとも異なる 有 り方 となる のであ ろう か。小 倉欣 一 「 帝 国都市 フラン ク フル ト の参 審 人裁 判 所 とオ ーベル ホ ー フ機能 」も参 照。. ⑯ 林 『 ドイ ツ中世都市と都市法』 ‘ 10五 頁 。た だし、前述 のよう に、マ クデプル クでは、激 しい コミ ュ ーン 運 動 を確 認する こ とはできない。. •. 閻 ケルン でも 、大司教は、有力 市民 (大抵 は参審 人) の中か ら彼 が自 らの代 理人として任命した プル クグラ ーフと 、 参 審 人 を 通して高級裁判権 を行使 し続 けていた °林 、前掲書、二九一頁 。 ,S . . ⑱ LM IV 76 ,S . 73. LM IV ⑲. 3 ,,, . ,. ⑳ LM IV 7 4 H S S R G 1 3 t 1 e B d · 3 ,S . ,MagdeburgerRecht,Bd. ,F . ,,, , ⑳ LM IV 7 4 H R G S 131 S. t e Bd. Ebel l XI. , .. . ,und315 ,. . � F. a a Ebel O S 314 . ,. 134 ⑳ HR G3teBd.S. ⑳ 十六世 紀 の参審 人特 権状 には、一 四三一 年 に皇帝 ジギ ス ムン トが 「マクデプル クの市参 事会 と市 民は、マ クデプ ル ク の裁 判 , ,Bd. , 官 と参審 人以外 の裁判 所へ」上訴する こ とを禁 止 して いた 、 という 文 言 が 現 れる。 F .Ebe burge ht rRec l l Magde 3 . S. 14. - 72-.
(15) 中世マク デ プルクの参審人裁判所. 参 審 人裁 判 所. 前 述 の よ う に 、 十 三 世紀 中 に参審人 は 市 内行 政か ら 撤 退し 、 そ の 後 、 市 民 自 治 の 主 導 権 は 市 参 事 会 に 移っ た が 、 参. 審 人 た ち は 、 本 来 的 な 役割 で あ る裁判 での判 決 発 見 の 朦 務を 維 持 し 続 け た。つ ま り 、 こ こ で は 、 リュ ー ベッ ク市の よ. う に 、 裁判 権 が す べ て 市 参 事 会 に 集 約 され るこ と は な か っ た 。 参 審 人 も最 初 、 市 参 事 会 庁 舎 の 中 に 固有の部 屋を 有 し. て い た よ う で あ るが 、前 述 の 市 内行 政か ら の 撤 退の 過 程 で 、 自 ら の 固有 の建 物 を 持 つ よ う に な り 、一 人 の 聖 職 者 が 書. 記と し て 任 命 され た 。 さら に 参 審 人 た ち は 固有の 紋 章 も使 用す るよ う に もな り 、 参 審 人 団 と い う 、 そ の 自 立的 な 組 織 と し ての 体 裁 も整 え ら れ てい っ た よ う で あ る。. こ の 参 審 人 た ち の 裁判 活 動 は ど の よ う な も の で あ っ た の で あ ろ う か 。 こ こ で は 、 基 本 的 に 二 冊 の 文 献 を 利 用 し て 、. 81 7' 1 900) の 『 中 世に おけ る ドイツ の von?)Pl ank:1 elm ( 彼 ら の 活動 を 見 て ゆこ う 。 ま ず、プ ラ ン ク ( Juli us W ilh. 裁判 手続 』 (-八七 九 年) と い う 文献 であ る。 こ の 書 物は 、 十 九 世紀 に おけ る、 中 世ド イツ の 裁 判 制 度 に 関 す る基 本. 的 な 文献の 一 っと 言 わ れ てい るか、 同 書 の 中 で、プ ラ ン クはか な り の 頁を 割 い て 、 マ クデブ ル クの 参 審 人 に つ い て 言 131 及 し てい る。. プ ルク グ ラ ー フと シ ュル ト ハイ ス. 参 審 人 の 裁判 活動 は 、 市 参 事 会 で は な く 都 市 君主で あ るマ クデブ ル ク大 司 教 の 裁判 に お い て 行われたのであ るか ら、. ま ず後 者 の 大 司 教 の 裁判 権 に つ い て 述 べ よ う。 こ の 裁判 権 は 、 本来 的 に は 、 前 節におい て述べたように、プ ルクグ ラー. -73 -.
(16) 近畿大学法学 第45巻第3 • 4号. フ とシ ュルトハイスによ って行使 さ れていた。この有 り方は、前述のように、ケ ルンの場合と ほぼ同じで ある。. 前者のプルク グラ ーフ は、年 三回の定期裁判集会 ( t(e bo ng)を主 宰し、 そ こ で は 、 す べて の 民事 ・刑事 cht)di. 事件が対 象とされ、特に 不動 産(Eige n ) の処分は、この裁 判集会で の履行が義務 づけられていた。 シ ュル ト ハイス. もこの裁 判集会 に出席 した。プ ルクグラ ーフ は、裁 判手数料ともいう べき Ge we t t eの 三 ポ ン ドま た は 六 0シ リ ンク. を徴収した 。つ まり、彼は高級裁 判権 を行使 していた。 5 一方、シ ュルトハイス は、祝祭 日と、一定 の期 間を除いて、十四 日間の 間隔をおいて開 催さ れる裁 判を主宰した。. 彼の Ge we ddeは 八シ リ ンクである。すな わち 、これは下級裁 判または不定 期裁 判集会 で ある 。 しか し、 プラ ン ク に. よ れば、この裁 判はプルク グラー フ の定期裁 判集会と管轄的には差異はなか った。プルク グラ ーフ の定 期裁 判集会 で. は、 原告は、裁 判に出 頭しない被告を敗訴にまで追い 込むには一年間を必要としたが、シ ュル トハイスの 不定期裁判. 集会 で はただ八週間で 目的を達することがで き、 しかも既にプ ルクグラー フの定期裁 判集会で係属している事案でも、. 人はシ ュルトハイス の不定期裁 判集会で 訴追することがで きたから、人 々は後者の裁 判集会 を むしろ 利 用するように な ってい った。. 右述の両方の裁 判集会で 判決 発見人と して活動したのが参審 人であ った。彼らも本 来的には市民の裁 判集会で ある. )を主宰 していたが、その裁 判の担い手は、前述のように、次第 に市参事会 に移行 し、―二九四 nge di bur 市 民集会 (. 年以降は、参審 人は同時に市参事会員たることも禁じら れ、彼ら参審 人の活動は、前述の大司教 の役人の裁 判集会 に 限定さ れてい った。. ,ま た もう―つの裁 判集会で ある市民集会 は、本 来的に市場警察に関する取 り締まり規定 、い わゆる都市法(Ko r e. - 74 -.
(17) 中世マクデプルクの参審人裁判所. )を制 定または 公示し、そ れに対する裁判権 は市参事会に よ って行使 される よ うに な った。 こ の都 市 法 ore k は W ill. は、 ゜フ ランクに よれば、プルクグ ラ ーフ の法 や 「書か れた普 通法」 や教 会法 を侵害してはならな いも のとさ れ、そ の. 最高罰金額も 一 壬 ハシリ ンクを越えず、 「 首と手 の刑」を科すことはできなか った。 つまり、市参事会 の裁判管轄 権 と、. 大司教 の役人 の裁 判管轄権 と の間に は 明白 な 相 違 が あ った か ら 、 大 司教 の裁 判 集 会 で は 、 参 審 人ら は 、 た だ 法 律 (R e cht )に従 って 判告 し、都市法につ いて語ることはなか ったとさ れた。. た だ し、こ の有り方は、―二九四年に市参事会がそ の裁判権 力を拡張させることに よ って 変 化した。市民集会 は、. 大司教 の役人そ して参審人 の裁判管轄 から、 不動産 ( Er beundEi g e n) の処分 や、こ れに関する争 いにつ いて の管轄. しか し、こ のような変遷にもかかわらず参審人裁 判所 ( S cho ff en ge r ic ht )は. 特権 によ って、 マクデブ ル ク で. 首と手に関する裁判 に つ いて は. 裁判所 に対 して 行われえたが、市参事会 の裁 判所 からは判決 非難は認め ら れて いな か ったか. 併存 し続 けた。なぜなら、こちら の裁判所 では、判決 非難が上級 の帝国 の. 権 を奪 って い った。 さらに不 法行為 ( Ungeri c ht )に関する裁 判へも市参事会はそ の裁 判権 を及ぼす よ うに な った 。 m こ のような変 遷は一 三三六年頃 には完了した。. I 行われる とさ れた l. らである。また マクデブ ルク法 を授与された都市から の上訴も、 マクデプルク市参事会ではなく、参審人裁判所 に対. して 行わ れたからである。結局、市参事会は、リ ュー ベッ クで 見られた ような、す べて の法律 問題に対する最終的 な 8 決 定権 の獲得には成功 しなか った。. - 75 -.
(18) 近畿大学法学 第45巻第3 • 4号. 図 参審人. プランクによれば、 マクデプルクの参審 人とは、本 来的に市民であるが、ブ ルク グラ ーフ に対 する哲約によ って、 191 参審 人席に着席し、判決 発見を職務 とするようにな った者 のことで ある 。こ の 職務 は 終 身 で あ る 。 彼 ら の 違 法行 為. hat )が 証明されない 限り、彼らはその 地位を奪われる ことはない。ただし、彼らは、 正当な理 由があれば、自 (Unt. 発的に引退することはで きる。彼らに欠員が生 じる と、他 の参審 人が市民の中から補充者を選抜し、後者は 「 自 由人. で 評判がよい」こ とが望まれた。. 参審 人の数は 十 二人で あるが、 プルク グラーフの裁 判集会で は参審 人は十一人 とされ、シ ュル ト ハイス が十二 人目 01 の参審 人となる 。つ まり、 マクデプルクでは、市民出身の参審 人は十一人で あ った。ブ ルク グラーフの裁判を除い て、. 。. 通常の裁 判集会 で は三人の参審 人で 十分とされた。一人の参審 人が判決 を発見し、残 りの二人の参審 人がこれに従う n u のである。. 参審人戦は一種の名誉眠であ ったが、全くの無給ではなか った。彼らの収入 として知られているのは w is se phe nningeと. Ort heil phe ninn geである。前者は一種の事務 手続的な手数料であり、後者は、裁 判以外での判決 発 見のための料金であ っ た。これ以外の彼らの収入につい ては、知られていない。. 彼ら マクデプルクの参審 人が独自 の裁 判所 とし て組織したのが「 参審 人席」 と呼ばれた、シ ュル トハ イス を司会と. する、十二人からなる「 参審人裁判所 」であ った。この裁 判所 が、前述のブ ルクグラー フの裁 判に直接由来するもの. かどうか、あるいは大司教 の 二つの裁 判がこの参審人裁判所 に一元化さ れたのか、につい てプランクは残念ながら何 も 明言し ていない。この問題は今後の研究 課題としたい。. - 76 -.
(19) 中世マクデプルクの参審人裁判所. さ て、 彼 ら 参 審 人 の 法 律 問題 に 関 す る 独占 的 な 判 定 権 は 、 マク デブ ルク 市 参 事会 も 奪 い え な か っ た よ う で あ る 。 さ. 。. b エーペ レ dr i c hE e l) で あ る 。 彼 は 、 この 参 審 人 裁判 所が ザク セン 地 方 や 、 ドイッ 東 部 植 民 J( Frie. ーベ ル ホ ーフ と し て の 活 動 に つ い て 、最 近精 力 的 に 研究 成 果 を 発 表 して い る の は. オ ー ペル ホ ー フと し ての 参 審 人裁 判 所. ら に 、 参 審 人 裁判 所の 上訴審 で あ る 帝 国の 裁判 所も 、 マ ク デプ ル ク で 裁判 を 開 催す る 場 合 、 彼 ら 参 審 人 を 招 聘 す る も 3 の と さ れ 、 これ に よ っ て 、 彼 らの 権 限は 一 層 高 め ら れ る こと に も な っ た の で あ ろ う 。. ③. ー トリ ッ ヒ・. マク デプ ル ク の 参 審 人 裁判 所の オ. フリ. 地 域 の 諸 都 市 に 対 して 行 っ た 法 教 示や 法 判 告 を 収集 し、 そ こか ら 同 裁判 所の 歴 史 的 意義 を 明 ら か に しようとしてい る。. 特 に一 九 八一 二年以降 公 刊さ れ てい る 彼 の 「 マク デブ ル ク 法 』 は 、 父 親 W・ エーベル の 『 リュ ーベッ ク 市 参 事会 判 決録 3 ( Liibe c k erR a t surt ei l e )』 ( 一 九 五 五 ー六七 年) を 祐 彿 と さ せ る よ う な 膨 大 な 史 料 集 と な り つ つあ る。 ここでは、F .. エーベ ル の 論 稿 に よ り つ つ 、 マク デプ ル ク 参 審 人 裁判 所の オ ーベル ホ ーフ 機 能 の 特 徴 を ま と め て お こう 。. ^. 第 一 に 、 参 審 人 た ち は 、 十 五世 紀 の 末 ま で は 、 法 学 識 者 で は な く 、 実 務 か ら 熟 練 し て き た 、 い わ ゆ る g eな e lernt. 法 律家 で あ っ た こと で あ る 。 エー ベ ル は そ の 理由 を 挙 げてい な い 。 本 来 彼 ら は 裕 福 な 市 民 に す ぎな か っ た か ら で あ ろ r. こと が 知ら れ て い る 。 ― 四0 九 年に は ライプ ツ ィ ヒに大学が創設され、. こと に な る ラ イプ ツ ィ ヒの 参 審 人 た ち は 、 しか し、 既に 十 四世 紀 頃に は 、 専 門. h u. ーマ 法 に 従 っ た 法 学 教 育 を 受 け て い た. ,. ーフ と して の 地 位 を 高 め てい く. っカ� 0 マク デプ ル ク の 参 審 人 よ りも は るか 遅 れ て 出 発 しな が ら、 次 第に マク デブ ル ク の 参 審 人 裁判 所を 凌 駕 し、オ ー ベル ホ 的な 、 ロ. 一 五七 四 年に は 参 審 人 裁判 所が 設置さ れ 、 参 審 人 裁判 所 と して の 名 声は 、 マク デブ ル ク か らライプ ツ ィ ヒに 移 行 して. -77 -.
(20) 近畿大学法学 第45巻第3 • 4号. 後 者 の 判 告 方 法 を 採り 入 れ る よ う に も な って は い. ゆく の で あ る 。 因 みに、 マク デブ ル ク の 参 審 人 裁判 所も ライプ ツィ ヒの 方 式 に し た が って 、 十 六 世 紀 の 初 め 頃 か ら. GW. つ ま り 参 審 人 の 中 に 法 学 識 者 の 存在 が 証明 さ れ た 頃か ら. る の で は あ る が。. 第 二に、 エー ベル が「 驚く べ き 保守 主 義 」 と 名 付 けた 、 マク デプ ル ク の 参 審 人 た ち の 法 判 告 の 方 法である。彼らは、. 判 決 を 求 め る 都 市 の 都 市 に 対 して 、 個 々の 取 り 決 め ( Wi ll kil r )、 都 市 法 、 当 該 地 域 の ラ ン ト 法 等 を 顧 慮 す る こ と な. く判 決 を 与 え てい た 。 こ れ は 彼 ら が法学 教 育 を 受 けてい な か った か ら だ け で は な く 、 意 図 的 に そ の よ う な 方 法 がと ら. れ た か ら と エー ベル は 言 う 。 そ の こ と は 、 例え ば 十 五世紀 初 め の 史 料に も 見 ら れ る よ う に 、 場合 に よ って は 、 彼 ら参. 審 人 が明 白 に 当 該 都 市 法 の 顧 慮 を 拒 否 してい る こ と に も う か がえ る と 。 そ して そ の 原因を 、 エーベ ル は 一四0 九 年の. 他の 娘 法都市も含めた. リ ューネ ブ ル ク 市 宛の マク デブ ル ク 市 参 事 会 の 書 簡 に 見 、 「 前 述 の 誓 約 した 参 審 人 に 属す る こ と は 、 彼 ら が ザ ク セ ン. 地 方 の 法と 裁判 を 、 そ れ か機 能 す る 限り 、 監視 す る こ と で あ る 」 と 。 す な わ ち 、 こ の. 法 の 監視 と 配 慮こ そ 、 統 一的 な 法 判 告 に お い て は 必 要 で あ り 、 こ こ か ら個 々の 法 令 に 言 及 し な い 判 決 方 法 が 導 8 き 出 さ れ た 、 と 彼 は 述 べ る の で あ る 。い さ さ か 、 エー ベル の 強 引 な 結 論 の よ う に 見 え な く も ない が、 しか し 傾 聴 に は. 値す る で あ ろ う 。 た だし、 こ の よ う な 方 式 は 、前 述 の よ う に 、 十 六 世紀 初 め か ら変 化 して ゆく の で あ る 。. 第 三に、 マク デブ ルク 市 参 事 会 と 参 審 人 裁判 所と の 、 法 的 問 題に 関 す る 依 存関 係 で あ る 。前 述 の よ う に 、 市 参 事 会. 参 審 人 裁判 所を 判 定 者 と し て 活 用 し. は 、 法 律 問 題 に 関 す る 最 終 的 な 判 定 権 を 獲 得 し て い な か った だ け で は な い 。 彼 ら は 、 実 際 に は 、 む し ろ 積 極 的 に お そ ら く 重要 で 、 な お か つ 判 定 の 難 しい 法 律 問 題 に つ い て で あ ろ う が. こ° エーベル は こ れ を 別の 論 文 (-九 八 二 年) で 具体 的 に 指 摘 してい る 。 そ れ に よ れ ば 、 ―四一0 年頃 、 リ ューネ ブ t. - 78 -.
(21) 中世マ ク デプルクの参審人裁判所. ク の 市 参 事 会 と 手 工業 組 合 長 ( I ) に対 し nnun gsmei s t er. ル. ク の 市 参 事 会 と 手 工業 組 合 長 は 、 自ら判 断 す るこ と な くそ の 書 簡 を参 審 人. ル. ク 市 参 事 会 は 、 法 律 問 題 に 関 す る問い 合 わ せ をマ ク デブ. ル. て行 っ た が 、 そ の 書 簡 を受 け た マ ク デプ. に 送り 、 彼 ら の 判 断 を 仰い だの であ る 。 さ ら に 十 六 世紀 半 ば 以降 は 、マク デプ ルク 市 民 に 対 し ても参 審 人 た ち は 法 教 91 H U た だし 、 市 に 対 し て 「誓 約 し た 」 参 審 示 を行 う よ う に な っ た と さ れ る 。つ ま り 、 法 的 な 問題 に つ い ては 参 審人 ー| _. 人' —| の 裁判 所が 最 終 的 に 判 断 す るこ と を、 市参 事 会 も当 然 の こ と と し てい る の で あ る 。 こ こ に 市 参 事 会 が 固 有 の 法 典 を 持 た な か っ た 理由 も 見 出 す こ と が で き そ う で あ る 。. ル. 第 四に 、 マク デブルク の 参 審人 裁判 所が一 体 い か な る 法 に 基 づい て判 決 し た の か 、 あ る い は 教 示 を 行っ た の か で あ. ク 都市法を. ル. る 。 エーベ ル は 、 右 述 の リュ ーネ プ ク か らの 問い 合 わ せ に 関 連し て、 第 一に 「 固 有 の 都 市 法 、W e i ch bil dr e c ht 」が ⑳ 基 準 と な り、 第 二にラン ト 法、 「記述 さ れ た ザク セン ラン ト 法」 が 、 基 準 と な っ た と 述 べ てい る 。 最 初 の 固 有 の 都 市. 法 が マク デブル ク 都 市 法 であ る こ と は 間 違い な い 。 し か し 併 記さ れ てい る W e i c h bi ldr e c htも マ ク デブ. 指す の か 判 然 と し な い が 、 文脈か ら す れ ば 、 そ の よ う に 考 え てよ い よ うであ る 。 こ の 点 で は 、 「法 」 と の み 語 るプ ラ ン ク と は 異な っ てい る 。 こ の 問題に つ い ては 次 稿 に お い て論 じよ う。. な お エー ベ ルは 、 右述 の よ う に 、 当 初 参 審 人 ら は 、 問い 合 わ せ し た都 市 の W i ll kti r en( 都 市 法 )、 特 許 状 、 レ ー ン n u 法 を 顧 慮 し な か っ た が 、 十 六 世紀 の 頃か ら 、 後 者 の 法 源 をも 考 慮 す る よ う に な っ た と 述 べ る が 、 こ れ は 法 学識 者 の 参 加と 関 係 し てい る こ と は 繰 り 返す ま で もあ る ま い 。. -79-.
(22) ,S.32, ,D i F.Ebel 33. gkei t e SpruchU!ti. 〉. 子者 マ ッ ter,1879 (N eudruck 1973).因 み に 彼 は ノ ー ベ ル賞 を 受 賞 し た 物 理 学 al el tt sverfahren i cht D asdeut m Mi scheG eri. 〈注. ①. 以 下 の 記 述 は 、 プ ラ ン ク の 前 掲 書 の Erst cht の es Buch. D as G eri. I. •. G eri cht recht sgew al t の 小 項 目 c. Stadt. ss. m Auf che i rag der K gl. bayr. A kad. d. W i nes Verzei sses d. M agdeburger Schoff t ensprii chni ung ei H erst ell . 889unt i se,NR G (G A ) 16 (1895),S.28lff ernom enene R ei m Jahre 1. あ る 。 彼 は 一八 八 九 年 に バ イ エ ル ン 科 学 協 会 の 委 託 に よ り 調 査 旅 行 を 行 っ た 。 E. Li esegang, Beri ber ei cht ii ne zur. 後 年 、 彼 は 参 審 人 判 決 の 原 本 の 収 集 を 提 案 し 、 こ れ に 応 じ て 、 そ の 作 業 を 行 った の が リ ー ゼ ガ ン グ (Eri ch Li esegang) で. 974,S.2189. Band,1. ク ス ・プ ラ ン ク (M ax Pl 858,1947) の 父 で も あ る 。 Bi ographi sches W ort erbuch zurdeut anck :1 cht schen G eschi e,2er. ②. ③. ④. フ ォ ー ク ト が シ ュ ル ト ハイ ス の 地 位 に あ る 。. J.W .von Pl anck,a.a.O., S.28.た だ し 、 参 審 人 が 市 参 事 会 の 裁 判 で 判 決 活 動 に 全 く 携 わ ら な か っ た か ど う か 、 に つ い て. 林 『ド イ ツ中 世 都 市 と 都 市 法 』、 一0 五 頁 で は 、下 級. 31.か ら 抜 粋 的 に 要 約 し て い る 。 M agdeburg,S.21,. ⑥. S.28.な お 、 史 料 的 な 根 拠 は 示 さ れ て い な い 。 anck`a.a.O., J.W .von Pl. des. ⑤. ⑦. anck,a.a.O., S.110und S.260. J.W .von Pl. は プ ラ ン ク は 明 言 し て は い な い。. ⑧. 「フ ラ ン ク フ ル ト の 都 市 法 」、 二 四 五 頁 。. 例 え ば 、 プ ル ク グ ラ ー フ の 権 限 と シ ュ ル ト ハイ ス の 権 限 、 都 市 法 と 一般 法 の 根 本 的 な 区 別 を 前 提 と し て. 論 を展開す. 以 上 、 プ ラ ン ク に よ る マ ク デ プ ル ク の 参 審 人 像 を 概 観 し た が 、彼 は 、 そ れ ぞ れ の テ ク ニカ ル ・タ ー ム の 意 味 内 容 を 確 定 し て. こ の 数 字 は フ ラ ン ク フ ル ト の 都 市 法 に も 見 ら れ る 。小 倉 訳. れ た (10 五 頁 と 一 ーニ \ 一 ―三 頁 )。. 林 、 前 掲 書 に よ れ ば 、 ケ ル ン で は 当 初 十 二 人 の市 民 出 身 の 参 審 人 が い た が 、 後 に 増 員 さ れ 、 十 三 世 紀 か ら は 二 五 人 に 固 定 さ. ⑨ 以 下 の 記 述 は 、 同 書 の II. G eri 111と 、 Nw ei t es Buch• D i cht e Form spersonen. の D. U rt hei l er の S.107, .か ら の 要 約 で あ る 。 .1.V erfahren.b•D as Fi .の B•D i 262 nden の S.260, cht s V erfahrens e U rt hei l e desG eri ⑩. ⑪ ⑫. る の で 、 そ の 基 本 的 な 像 は 極 め て 明 快 で あ る 。 し か し 、 そ れ だ け に 、 逆 に 単 純 化 さ れ す ぎ て い て 、参 審 人 像 が 画 一化 さ れ て い. 1. る の では な いか 、 と いう 危 惧 も 抱 く 。. - 80 -. 第45巻第 3 • 4 号. 近畿大学法学.
(23) 中世マクデプルクの参審人裁判所. ⑬. , B and I (D ie R echtssprti che fur N iedersachsen), 1983. B d.2 (D ie F. E bel (H rsg.), M agdeburger R echt. erterbuch fur H istoriker, 1980, S.554.. , Sta utum , S.142.こ の参 審 人 裁 判 所 は一八 F. E bel t. alter (以 下'Statutum deutschen Spii tm ittel. che fur B reslau) は上下 二冊 か らな り 、そ れぞ れ一 九八 九 年 と一 九 九 五 年 に発 刊さ tteilungen und R echtssprti R echtsm i れた 。 ⑭ 正確 に は 一 四 九 七 年 以 来 、 参 審 人 の 中 に 法 学 博 士 号 を持 っ て いる 者 が 登 場 す る 。 F. E bel, Statutum und ius fori im , n ZR G .G A 93 (1976), S.132,138. と略す) i 七 九 年 ま で存 続 した とさ れる 。 H aberkern / W allach, H ilfsw o' ⑮. , な お、 マクデプル ク の参審人裁判所は、そ の後も機 能 し続け 、 エーベルによ れば 、 そ の歴 史 的 F. E bel Statutum , S.137. な役 割 を消極 的に評価するこ とはまちが いである とさ れる 。 F. E bel, D ie Spruchtiitigkeit, S.33·. ⑯. , D ie Spruchtl:l , S.35,36. F. E bel tigkeit. , in Zeitschriftfur historische F orschung 9 (1982), S.54. , H alue B ord scri F. E bel kket nicht. , S.35, und Statutum , S.133,134. , D ie Spruchtii F. E bel tigkeit. ⑲. , a.a.O. ,S.57. F. E bel. , a.a.O. ,S.54,56. F. E bel. 仰. ⑳. ⑱. ⑳. 四 むすび にかえて. 最後 に、 マ ク デ ブル ク の 参 審 人 裁 判 所 の 特徴 を再 度 ま と め て お こ う 。. 第 一 に 、 そ の 人 的 構 成 に つ い て 。 一 三 三 六年 の 参 審 人 規 則 に よ れ ば 、 市 参 事 会 員 が 参 審 人 に な る の で あ れ ば 、彼 は. (Innung). か ら選出さ れ る も のと さ れ. 市 参 事 会 員 の 資 格 を失 う とさ れ る 。 こ こ か ら 、 市 参 事 会 員 が 参 審 人 に就 任 し う る 可 能 性 が 推 測 さ れ 、 両 者 の 間 の 人 的. な 近 接 性 を う か がわ せ る 。 さ ら に 市 参 事 会 員 は 有 力 な ギル ド ま た は ッ ンフ ト. -81 -.
(24) 近畿大学法学 第45巻第 3 • 4 号. たか ら、 ここには人的な階層秩序が読み 取れる。すなわち、参審 人、市参事会 員、有力 な手工業者 組合という秩序で. 大司教 と. ある 。 W ・ エ ー ベルが、参審人裁 判所 に手工業者が席を占めたと述 べたのは、大きな lnn un gが市参事会 、 そ し て 間. + 六世紀の参審人特権 状による な らば ↓ �. 接的に参審人裁判所 に人的に供給しうる可能 性があ ったという意味で肯定 されるようである。 第 二に、彼 ら参審 人裁 判所 の権 威を法的に裏付けたのは ー. のレー ン関係の設定と、さ らに 皇帝による彼 らの特権 付与である。こ れによ って参審人 らは、法的 な面での、市参事. 会に対 する彼らの優位性を確保することができたのであろう。しかし、ここで大司教 の裁判所 としての参審人裁判所、. 換 言す れば大司教 の影響力 をあまり強調する 必要はない。なぜ なら参審 人たちは決 して反市参事会的ではなか ったし、. 彼 らは市に対しても誓約を果してい たからで ある。ここに参審人 らが市参事会と協調的に併存し続け、参審人裁判所. が市参事会に吸収さ れず 、法的 問題についての判定権 を保持しえ た理 由がありそうである。. 第 三に、このような参審人裁 判所 の有り方が、どう やら十四世 紀の市民騒擾の時期 に遡ることである。十 三世紀半. ばまで は、参審 人は市内の特権 的な階層として自 治の担い手であ ったのであるが、この頃 から次第 に、手 工業者組合. が市民自 治に関与してくる。 こ れが市参事会の形成であ った。十四世 紀の市民騒擾は、最終的には、この市参事会に. 議席を占める手 工業者 組合の、そうではない 手工業者 組合に対 する勝利という形で 終了し、そ の結果、有力な手 工業. 者 組合の長、市参事会 員、参審 人層からなる、市民的な支配者層が形成さ れたよう に 思われるので ある。. 我 々は、こ れまでの中世 マクデプルクに関する法史学的な研究 か ら、 以上のような特徴を読み 取ることができるよ うである。. - 82 -.
(25)
関連したドキュメント
刑事違法性が付随的に発生・形成され,それにより形式的 (合) 理性が貫 徹されて,実質的 (合)
この地球上で最も速く走る人たちは、陸上競技の 100m の選手だと いっても間違いはないでしょう。その中でも、現在の世界記録である 9
について最高裁として初めての判断を示した。事案の特殊性から射程範囲は狭い、と考えられる。三「運行」に関する学説・判例
距離の確保 入場時の消毒 マスク着用 定期的換気 記載台の消毒. 投票日 10 月
所得割 3以上の都道府県に事務所・事 軽減税率 業所があり、資本金の額(又は 不適用法人 出資金の額)が1千万円以上の
その他、2019
在籍者 101 名の内 89 名が回答し、回収 率は 88%となりました。各事業所の内訳 は、生駒事業所では在籍者 24 名の内 18 名 が回答し、高の原事業所では在籍者
⑤