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w皿HI 「医療水準論」の形成過程とその未来

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(1)ー医療プロセス論へ向けてi. はじめに. 医療水準論の形成過程. 医療に対する法の関与のあり方について. おわりに. じめに. 口. 斉. 刀口. 日. ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来. は. 山 照︶︒﹂. ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶. 三六一. 準である︵最高裁昭和五四年︵オ︶第一三八六号同五七年三月三〇日第三小法廷判決・裁判集民事一三五号五六一二頁参. 五巻二号二四四頁参照︶︑右注意義務の基準となるべきものは︑診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水. る最善の注意義務を要求されるが︵最高裁昭和三一年︵オ︶第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一. ﹁人の生命及び健康を管理すべき業務に従事するものは︑その業務に照らし︑危険防止のために実験上必要とされ. 1. w皿HI.

(2) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三六二. 以上は昭和五七年三月三〇日の︑未熟児網膜症訴訟日赤高山病院事件の上告審判決以来︑わが国の判例に完全に確. 立した原則で︑一般に﹁医療水準論﹂と呼ばれる︒しかし︑その後最高裁は同様の判示を繰り返しながらも︑その﹁医. ︵1︶. 療水準﹂について少なくとも明確には言及してこなかったため︑これまでその内容について盛んに議論が行われてき. た︒そして︑この問題については﹁医療水準を現に普遍化し︑定着したものを前提にし︑一般臨床医の間に十分な. 絶対説︑客観説︶と︑﹁医療水準を︑現に行われている臨床医療に尽きるものではなく︑規. ︵2︶. 知識経験として普及したものを内容とすると解﹂し︑従って﹁医療水準論の判断要素として医療機関の特性等を事実 上考慮しない﹂立場︵. 相対説︑主観説︶があるとされ︑後説が多数説であった︒そして︑この多数説の多くが︑判例 ︵4︶. ︵3︶. 範的判断として要求すべき水準としてとらえ︑当該医師又は医療機関をとりまく具体的事情をも考慮して決すべきで あるとする立場﹂︵. が事実上前説に立っているものと解し︑これを批判するという状況が存在していた︒ ︵5︶ しかし︑最近になって︑最高裁はこのような状況に決着をつけた︒即ち︑最二判平成七年六月九日は﹁ある新規. の治療法の存在を前提にして検査・診断に当たることが診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準であるかど. うかを決するについては︑当該医療機関の性格︑所在地域の医療環境等の諸般の事情を考慮すべきであり︑右の事情. 絶対︿的確. を捨象して︑すべての医療機関について診療機関に基づき要求される医療水準を一律に解するのは相当でない﹂とし. て︑未熟児網膜症訴訟において事実上採用されていると思われていた︑いわゆる﹁昭和五〇年線引論﹂︵. 立﹀説︶を排し︑医療水準の判断の際︑社会的地理的環境等諸般の事情が考慮されるとして︑前記相対説が採られる べきことを明らかにしたのである︒. このような相対説は︑実は最三判昭和六三年一月一九日の伊藤正己補足意見によっても述べられていたところのも ︵6︶ のでもあり︑医療水準の内容は伊藤意見のそれによって理解されるとする見解も以前より存していた︒また︑﹁医業.

(3) 従事者の注意義務の基準となるべきものが︑診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である﹂こと︑こ. のため医師の過失判断の基準が﹁医療水準﹂そのものであることは︑かつてより︑あらゆる裁判所で認められていた︒. 従って︑このことからすると︑医療水準の判断の際︑社会的・地理的環境等諸般の具体的事情が考慮されるのは本来︑. 当然のことであったといえよう︒平成七年判決がこのことを確認したことにより︑﹁医療水準﹂が︑今後かようなも ︵7︶ のとしてその内容が確定されて行くことは問違いない︒. 医師の過失判断の基準﹂を確認したのみであり︑単にそれ故に︑. ところで︑医療水準論に関する平成七年判決の位置づけに関しては︑一応以上のような理解がなされていると思わ れるのであるが︑仮に平成七年判決が﹁医療水準. 社会的・地理的環境等具体的事情を勘案したと理解されるのであるならば︑それは不十分であり︑かつ誤りとさえ言. えよう︒なぜなら︑諸般の具体的事情を考慮する相対説は︑例えば医療機関の怠慢ゆえに生じている設備の不備や︑. 不勉強な医師の能力などといった﹁具体的事情﹂を勘案する可能性を持ったものでもあり︑現にそれまでの多くの下. 級審も︑このような意味での﹁相対説﹂を採ることにより︑いわば現状追認的な﹁医療水準論﹂を展開してきたから である︒. ︵9︶. しかし︑かかる下級審によって支持されてきた相対説と︑平成七年判決の支持する﹁相対説﹂は︑明らかに異なる︒ ︵8︶ 前稿において筆者はそのことを︑次いで出された医療水準に関する最三判平成八年一月二三日をも参照しながら明. らかにした︒そしてこれら二つの判決に表される︑最高裁レベルで生じている医療水準に関する﹁新たな動き﹂が ︵10︶. いかなるものかについて検討を加えた︒詳細については前稿を参照されたいが︑ここで︑その﹁新たな動き﹂がいか なるものかについてだけ確認しておくと︑. 三六三. ①実践︵μ実情︑現状︶としての側面に重点が置かれてきた医療水準が︑規範として再構成されて行く動き︒ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(4) ②. 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 規範としての医療水準に患者の期待や要求が組み込まれて行く動き︒. 三六四. と︑以上のようになる︒つまり︑平成七年判決で支持された相対説は医療側の実情や現状を容認するためのもので. はなく︑患者側の具体的な期待・要求を勘案するためのものだったのである︒従って︑今後﹁医療水準﹂は︑︵単に ︵11︶. 相対説がとられるというだけでなくV当該患者の具体的な期待の相当性の点から判断されるという意味での﹁相対説﹂. によりその内容が確定されて行くというのが正しい理解だということになろう︒. さて︑以上のことを前提として︑本稿では︑前稿では必要な範囲でしか触れなかったところの︑これまでの医療水. 準論の形成過程を検討対象にし︑この﹁新たな動き﹂に関する法理論的意味合いについて探ってみたい︒すなわち︑. 最近の﹁新たな動き﹂とこれまでの医療水準論の変遷過程を対比し︑それらを通じて横たわるより大きな問題点が流. れがいかなるものかを検討する︒そしてそのことにより︑今後の医療水準論の行方︑そのあるべき姿についても明ら. かにしようというのが本稿のねらいである︒より具体的には︑①医療という高度に自律的かつ専門的な社会領域に法. ︵本稿では司法︶が関与する際の︑法の変化の過程の中に︑﹁医療水準論﹂がどのように位置づけられるか︑②右の. ような医療の場への関与により︑どのような問題が生じたか︑そしてそれはどのように克服されるべきか︵いいかえ. るなら︑今後どのような法の関与の仕方が目指されるべきか︶︑をそれぞれ検討することが︑筆者に課せられた課題 ということになろう︒. そこで︑以下においてはまず︑一連の未熟児網膜症訴訟を主たる素材として︑﹁医療水準論﹂の形成︑定着・変容. の過程を追って行くが︑その際︑裁判所の医療への介入に対して医療側がどのように反応し︑そこでとられた対抗策. がどのように医療水準論に影響をもたらしていったかという視点をとる︒なぜなら︑このような視点をとることによ. り︑﹁医療水準論﹂の変遷の過程は︑ー最近の︵平成七年六月九日の︶判決までは1結局医療側の主張が一つず.

(5) つ認められて行く過程にほかならなかったことが明らかになるからである︒次にその上で︑従来の司法の医療への関. 与の仕方に問題点があったのなら1筆者は問題ありと考えるのだがーそれが何であるかを検討し︑そのことを前. 提に︑裁判所が今後どのような関与の仕方を心がけるべきかを考えたい︒具体的には︑医療機関・医師に対して何ら. かの注意義務が定立される場合︑どのような種類の注意義務が重視されるのかといったことがここで間題になろう︒. そして最後に︑前稿で示した﹁新たな動き﹂が︑既に検討した今後目指されるべき姿への移行の過程の中で︑どのよ うな位置づけを与えられるかを考えてみたい︒. 医療水準論の形成過程. ︵12︶. まず︑輸血梅毒事件は︑極めて有名な事件であるため改めて説明するまでもないが︑簡単に概要を述べ. ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶. 三六五. 染させてしまったというものだった︒このためXはYに対して損害賠償を請求︒原審はXの請求を認め︑最高裁もこ. ︵梅毒感染の危険の有無を推知するに足りる程度の︶問診をせず︑その結果︑同人から輸血をした患者に︑梅毒を感. 明書及び健康診断・血液検査を経たことを証する血液斡旋所の会員証を有していたため︑当時の慣行に従い︑十分な. 奨めにより輸血を行ったのだが︑その際︑担当医師が︑給血者︵いわゆる職業的給血者︶が︑血清反応陰性の検査証. ておく︒この事件は︑Y︵国Vの経営する病院︵東大医学部附属病院︶に入院していたXが︑体力補強のため医師の. ︵一︶. の裁判例︑の三点である︒以下順に見て行こう︒. ことが必要であろう︒ここでポイントとなるのは︵一︶輸血梅毒事件︑︵二︶それに対する学説の反応︑︵三︶その後. 未熟児網膜症訴訟における医療水準論の展開を見る前に︑まずそれ以前の医師の注意義務に関する議論を見ておく. 一 未熟児網膜症訴訟以前の動向. ∬.

(6) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. れを維持したというものであった︒. 三六六. ここで最高裁は次のような重要な判断を下す︒まずは︑医療慣行と医師の注意義務との関係についてであり︑Y側. の︑慣行に従い血液検査証明書を信頼して採血を行った医師に注意義務違反はないとする主張に対し︑﹁注意義務の. 存否はもともと法的判断によって決定さるべき事項であって︑仮に所論のような慣行が行われていたとしても︑それ. は唯過失の軽重及びその度合を判定するについて参酌さるべき事項であるにとどまりそのことの故に直ちに注意義務 が否定さるべきいわれはない﹂とする︒. 更に︑梅毒感染の危険を推知するに足りるような間診をすることは不可能であり︑原判決は医師に過度の注意義務. を課しているというY側の主張についても︑﹁いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務︵医業︶に従事する者は︑. その業務に照らし︑危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのは︑已むを得ないところと. いわざるを得ない﹂と言い切って︑かかる主張を退ける︒そしてこの文言が︑医師の注意義務の判断の際に︑今もな お真っ先に引用されるところの﹁枕詞﹂となっていることは周知の通りであろう︒. ︵13︶. ︵二︶ ところで︑医師の注意義務に関する最初の判断であった右判決についての学説の評価は︑若干特別な事情. のもとで行われた︒というのは︑この判決の出される以前に︑既に原審について︑四宮和夫による優れた評釈が出. されており︑最高裁判決に対しての評釈も︑多くは︑ほぼこれを支持し︑これに従うという形でなされたからである︒. ︵15︶. ︵16︶. 4︶. そこでここでの多数説の議論をまとめると︑次の通りであった︒ ︵1 即ち︑本件のような︵職業的給血者に対する問診︶の場合︑真実を認識することは困難ないし不可能である︒こ. のため︑本判決が医師に対して認めた注意義務とは︑それを肯定しうる極限︑または非現実的な注意義務である︵従っ. て本件において医師の﹁過失﹂を認めることについては批判的である︶︒しかし︑結果の重大性︑被告が賠償能力に.

(7) ︵19︶. パぎ こと欠かない国であることなどを勘案すると︑原告の請求を認めた判決の結論自体は容認される︒そこで本判決は︑ ︵18︶ ﹁実質的には公平の要求に基づく無過失責任を認めたものといえないこともなさそう﹂である︒こう考えてくると﹁過 ︵20︶. 失責任主義の限界﹂が見えてくる︒このため︑﹁医師の故意過失を間わず医療行為に起因する全ての損害を保険する 制度﹂を確立することが必要になってくるであろうと︒ ︵21︶. かように︑いずれにせよ︑﹁医師の注意義務﹂に関する限り︑学説の多くは輸血梅毒事件の最高裁判決を︑抽象的 かつ無限定の注意義務を課したものと理解したのである︒. ︵三︶ このため︑その後の︵医師の注意義務の内容が争点となる︶裁判においては︑輸血梅毒事件の定立した法. 理に拘束されながらも︑その適用の際︑これをいかに具体化し︑制限するかが主要な関心事となったといってよい︒. ︵23V. そこでこのために用いられたのが﹁当時の医学知識﹂﹁当時の治療技術﹂などといったものにより︑医師の注意義務 ︵22︶ を制限して行くという考え方であった︒具体的に見ると︑次の通りである︒. まず︑広島地判昭和三七年三月六日が︑﹁その行為の時の医学常識﹂といった考え方を持ち出した︒即ち︑本件は. ペニシリン注射によるショック死が生じたものであるが︑﹁現在の医学的見地からすれば︑被告のとった処置は万全. ではなかったと評し得るかも知れない﹂としながら︑﹁医学の水準は年月と共に向上している︒そして医師である被. 告の過失の有無も現在の医学水準において判定さるべきでなく︑その行為の時の医学常識等客観的な見地から検討さ. れなければならない﹂として︑当時︑一般の医師の間で︑比較的安易にペニシリンを使用されていたこと︑ペニシリ ︵24︶. ン・ショックそのものに対する認識がより低度であったことなどを指摘して︑医師の責任を否定したのである︒. 次に︑大阪地判昭和四〇年二月二五日は︑明らかに輸血梅毒事件の最高裁判決を意識しながらも︑それが﹁治療. 三六七. 時におけるわが国の治療技術の水準﹂によって制限されることを明らかにした︒即ち︑本件は患者が手術の際﹁特異 ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(8) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三六八. 体質﹂であったためショック死したと認定されたものであるが︑﹁およそ医師たる者は︑人の生命及び身体の安全を. 図るべき重大な責任を伴う職業に従事するものであるから︑いやしくも人の生命及び身体の健全性を損なう可能性が. ある限り︑通常人より高度の職務上の注意義務を負担していることは多言を要しないところであるけれども︑治療時. におけるわが国の治療技術の水準からみて︑専門医として当然なすべき注意義務︑いいかえれば︑危険な結果発生に. ついて予見義務及びその結果の発生を避けるのに必要な最善の注意義務を尽している場合にはたとえ治療の結果予期. した成果を挙げることができず︑患者を死亡するに至らしめ︑またはその身体の健全性を損うに至らしめたとしても︑. 右の結果に対して︑医師が無定限の責任を負ういわれがないものといわなければならない﹂として︑医師側の責任を 否定した︒. また︑責任肯定例でも﹁当時の医学知識﹂が重要な役割を果たすことになる︒即ち︑いわゆるレントゲン線水虫照 ハ 射事件で︑まず第一審の東京地判昭和三九年五月二九日は︑﹁レントゲン線の過大照射について︑発癌の結果につき. 過失を問うことは︑当時の医学界の一般的水準からいえば苛酷である旨の意見がある︒しかし︑医師は人命︑人体を. 預るものである︒人命︑人体は最も貴重な法益である︒両脚の切断ともなれば損害は重大である︒かかる重大な損害. を惹起することが当時の医学界の一般水準からすれば︑蓋然性までは有せず可能性の領域にあったとしても医師には︑. その使命上高度の注意義務が要請され︑重大な結果の生ずる可能性がある限りこれが防止のための万全を期すべく︑. ︵26︶. 過失の軽重の判定は別として︑過失の成否そのものについての寛容は許されないと解される﹂として︑﹁水準﹂より. 高い義務を課したように見えなくもない判断を行ったのだが︑二審の東京高判昭和四一年七月一四日は︑﹁医療薬及. 般の医師の医学知識を標準とすべきことは当然である﹂とし︑﹁当時の医学知識﹂が過失の基準. び技法が日進月歩すること及び過去における医療行為につきこれを担当した医師の過失責任を論ずるに当っては当該 行為当時における.

(9) ︵27︶. になることを明確に認めた︒さらにその上告審の最一判昭和四四年二月六日も﹁人の生命及び健康を管理すべき業. 務に従事する医師は︑その業務の性質に照らし︑危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される. とすることは︑既に当裁判所の判例︵最一判昭和三六年二月一六日﹀とするところであり︑従って︑医師としては患. 者の病状に十分注意しその治療方法の内容及び程度については診療当時の知識に基づきその効果と副作用などすべて. の事情を考慮し︑万全の注意を払って︑その治療を実施しなければならないことはもとより当然である﹂として控訴. ︵29︶. 審の判断を支持する︒このような貢任肯定例の場合︑﹁診療当時の医学知識﹂といった言葉は︑医師らに対する説得 ︵28︶. 的な意味合いも持たされていることが見てとれるだろう︒. その後も︑例えば函館地判昭和四四年六月二〇日︑高知地判昭和四七年三月二四日などは︑医師の注意義務の判. 断の際︑その総論部分においていずれも先述の大阪地判昭和四〇年二月二五日とほぼ同旨の判断を行い︑医師に要求. される﹁通常より高度の職業上の義務﹂が︑﹁診断︑治療時におけるわが国の医学知識︑治療技術の水準﹂によって ︵30︶. 制限されることが述べられている︒さらに︑山形地新庄支判昭和四七年九月一九日などでは︑簡単ながらも﹁⁝⁝. 現在の医療水準を基準にする限り⁝⁝注意義務を欠いていたということはできず⁝⁝﹂として︑﹁医療水準﹂なる言. 葉によって医師の注意義務の基準を設定しようとするものも見られる︒かくして︑この頃までには既に︑次のような. 考え方︑即ち︑医師は人の生命及び健康を扱う業務に従事するものであるから︑通常より高度の注意義務−実験上. 必要とされる最善の注意義務ーを要求されるが︑診療当時の医学水準︵医学知識︑治療技術の水準﹀から見て注意. 義務を尽くしている場合には︑その結果につき責任を問い得ない︑という考え方が定着し始めていた︑ということが. 三六九. 以上のように︑医師の注意義務に関する未熟児網膜症訴訟以前の議論は︑﹁実験上要求される最善の注意. できるのである︒. ︵四︶. ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(10) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三七〇. 義務﹂を課した輸血梅毒事件の最高裁判決と︑かかる義務を無限定に引き上げられた注意義務と理解した学説︑およ. び︑かかる義務の︑医学水準︑医学知識︑治療技術の水準などといった概念による︑具体化・限定︑といった三つの. ポイントによって理解されよう︒ただ︑ここでの議論は︑1特に︑最後の﹁水準﹂による限定という動きはーい. まだ法学界・医学界全体を巻き込む大きな動きにつながるものではなかった︒これが法学・医学の注目を集め︑﹁理論﹂. として根付くには︑いうまでもないが︑次に見る一連の未熟児網膜症訴訟を経なければならなかった︒しかし︑その. 医療側の対応ー. 未熟児網膜症訴訟における医療水準論の形成・そのーー日赤高山病院事件岐阜地裁判決とそれに対する. ための基礎を作ったという評価は1良し悪しの評価は別としてーむろん可能である︒. 二. わが国における医療水準論の本格的な形成は︑いうまでもなく一連の未熟児網膜症訴訟によってなされた︒ここで. の﹁医療水準論﹂に関する議論がそれ以前のものと異なっているのは︑これが広く社会の注目を集め︑法学界だけで. なく︑医学界をも巻き込みながらなされたという点においてである︒なぜ︑かかる大きな論争が引き起こされたか︒. その一要因として︑未熟児網膜症訴訟における最初の判決であった︑日赤高山病院事件第一審判決︵岐阜地裁高山支. 部判決︶が︑医療側からの強い反発を招いたということがあげられる︒そして実際︑その後の﹁医療水準論﹂は︑お もに医療側の主導のもとで︑その主張が徐々に認められていく過程をもって形成された︒. そこで本節ではまず日赤高山病院事件岐阜地裁判決とそれに対する医療側の対応を確認したい︵その後の展開につ. いては節を改めてこれを見て行く︶︒本節で検討対象となるのは︑︵一︶岐阜地裁高山支部判決の内容︑︵二︶それに. 対する反応︑︵三︶﹁医療水準論﹂の誕生旺松倉説である︒そして︑それらを踏まえた上で最後に︑︵四︶裁判におけ.

(11) まず︑岐阜地裁高山支部判決の内容を見る︒. ︵31︶. る医療側の防御が︑以後いかなる方法で行われたかにつき︑まとめてみたい︒. ︵一︶. 本件は︑昭和四四年一二月二二日出生︑出生時体重一一二〇9で︑酸素投与を受けていた未熟児に対し︑出生後四. 五日目から一週間ごとに眼底検査が行われ︑その結果本症の発症が発見されたため︑二回目の検査以降ステロイドホ. ルモンの投与が行われていたが︑その効果が認められないまま悪化する一方であったため︑医師の勧めにより︑天理. 病院に転医して︑光凝固の施術を受けたものの︑既に施術の適期を過ぎており︑結局患児は失明︑このため患児及び. 両親が病院︵日赤︶を相手取って損害賠償を請求したというものである︒岐阜地裁高山支部は︑全身管理︑および酸. 素投与については病院側の過失を認めなかったが︑眼底検査の遅れ及びその際の誤診︑ステロイドホルモン投与の遅. れ︑説明指導義務︵自ら積極的に網膜症発生の事実︑進行状況︑治療経過︑今後の見通し︑治療方法︹ステロイドホ. ルモンの効果がなくこのままでは失明の可能性があること︑残された有力な治療法として光凝固法があり︑天理病院. の永田医師がその権威者で治療の時期さえ失わなければ成功する可能性がきわめて強いこと︺等につき担当眼科医と. して自ら認識し︑知識として有する一切の資料を披露説明して療養方法等の指導をなすべき義務︶違反︑光凝固法を 目的とする転医の遅れ︑をそれぞれ認め︑病院側の責任を認めた︒. 本判決は︑未熟児網膜症に関する最初の判決であって︑しかも病院側の責任を認めたため注目を集めたのだが︑さ. らにそのなかで︑①﹁被告病院は全国的規模を誇り国民の診療に当たっている被告日本赤十字直轄の総合病院であり︑. 且つ︑特に未熟児センターを有するものであるから︑被告病院としてはより高度な医療知識および医療技術と︑これ. に伴うより高度の注意義務が要求され︑本来未熟児の全体有機的管理のために︑産科︑小児科︑眼科の協力体制を確. 三七一. 立して︑自動的に眼科医が未熟児の眼底検査を可及的早期になしうる体制をとるべきであるのに︑被告病院において ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(12) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三七二. はかかる体制をとら﹂なかったとして基幹総合病院の存在意義とその体制の不備を指摘し︑さらに︑②︵光凝固法は. 当時︑医学界の常例となっておらず実験中だったという日赤側の主張に対して︶﹁医師としては患者に対する治療も. むなしく唯悪化を待つしかないという状況に直面した際︑その最悪な状態を回避すべき治療手段が医学界の常例では. ないとしても他において施行されしかもその有効性が認められているとしたなら︑当該治療手段を受けしめるべく適. 正な手続きをとるのが医師としての最善の注意義務と考える︒当該治療手段が医学界の常例でないからといって唯そ ︵32︶. の悪化のみを黙認するが如きは決して許されるべきではない﹂と断定したため︑この点においても特に注目を集めた のである︒. この岐阜地裁判決は︑全身管理義務︑酸素管理義務︑治療義務︑転医義務︑説明義務という︑未熟児網膜症訴訟に. おげるほぼ全ての争点が既に含まれており︑この意味で︑その後の裁判を規定し︑かつリードするものであった︒ま. た︑右の①︑②に見られる斬新な議論は︑当時のわが国医療全体に対する批判の契機を含むものでもあって︑各界に. 与えたインパクトは極めて大きかった︒この判決を機に︑当時の医療体制の不備が告発されるようになり︑マスコミ. もこの問題を取り上げたほか︑若手医師らも内部から声をあげ始めたのは良く知られているところであろう︒さらに︑. 本症でわが子の視力を失った親たちが︑本判決に勇気づけられたのは勿論で︑本判決後次々に︑時には集団で訴訟が ︵33︶. 起こされるようになり︑薬害訴訟を除けば︑未熟児網膜症訴訟はわが国史上最大の医療過誤訴訟と称されるまでにな. そのいわば感情的な現れが︑岐阜県. しかし︑岐阜地裁高山支部判決の衝撃を最も深刻に受け︑これに反発したのは︑いうまでもなくその体制. るのである︒. ︵二︶. の不備などを指摘された当事者であるところの医学界または医療界であった︒. 眼科医会からの文書発送であろう︒即ち︑同会は岐阜地裁高山支部判決の約七週問後︑﹁高山赤十字病院の未熟児網.

(13) 膜症の判決を見て﹂という文書を作成する︒そしてその中で﹁定期的に未熟児の眼底検査をする︹ことは︺︑明らか. に現行法上不法行為である﹂﹁光凝固法は未だ網膜症に対する有効な治療法として確立されていなかった四十五年当時︑. これを使うことはやはり違法だった﹂﹁未熟児は両親が生んだものであるから︑その原因は︑両親と患児にあることは︑. 絶対に問違いない事実である﹂﹁原因不明な疾患には︑原因的療法はあるはずがなく︑全ては対症療法であるから成. 功する事も︑不成功な事もあるのは当然である︒だのに未熟児網膜症の原因が明確になり︑治療方法が確立されたか. のように受け取られる今回の判決は︑医学と科学を冒濱するものと言わざるを得ない﹂とする︒そして︑﹁保険医療. 機関として︑保険医として︑現行の医療保険制度を守って︑診療行為を行っていたのに︑債務不履行︑または不法行. 為と判決で決めつけられた以上︑吾々眼科医は今後決意を新たにし︑法治国の国民として法規を堅く守り︑現行の医 ︵桝︶. 療保険制度を厳守して︑未熟児の眼底検査には一切応じられない事を天下に声明する﹂とし︑これを関係者らへ向け て約二百通郵送するに至ったのである︒. 次に︑医学という学問の場も︑本判決を機に︑その姿が歪められてしまったといわれる︒むろんその真偽を判定す. 5︶. る能力は筆者に備わっていないが︑﹁岐阜地裁判決後︑特異な現象として︑学会は被告医師を守る場となり︑本症に ︵3 関する医学論文は裁判対策の傾向の度合を強めるようになった﹂との指摘がなされていることはやはり留意すべき. であろう︒その結論によって︑自らを含む医学側の当事者が責任を負う可能性があるという状況においては︑客観的. な評価ができない︑または﹁および腰﹂の評価になってしまうということは十分に考えられるからである︒. また︑医療の現場でも裁判の影響が現れたという︒即ち︑﹁未熟児網膜症は︑未熟児の一五%ぐらいにみられる︒. さらに網膜症百人のうち︑放置しておいて失明するのは一人︑弱視が三人ぐらいで残りは自然に治ってしまう﹂にも. 三七三. かかわらず︑﹁医師はともすれば﹃もし光凝固法をやってさえおけば︑万一失明しても言い逃れできる﹄と考えがち﹂ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(14) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三七四. であるため︑﹁それまで十数例ぐらいのものが︑この一年で二百例は実施された﹂との指摘がなされ︑岐阜地裁高山 ︵36︶. 支部判決後の一年余は光凝固法が﹁全国的にかなりの乱用状態﹂であるとされたのである︒むろん︑このような指. 摘自体︑岐阜地裁判決への批判という側面を含むものと評価しうるのであるが︑必ずしも常識的な治療のみを行って. いれば責を免れるわけではないとされた医療側に︑危機感︑ないしは何らかの混乱が生じたであろうことは想像に難 くない︒. さらに︑このような動きの中でなされたのが︑厚生省未熟児網膜症研究班の設置︑その報告であった︒もとより︑. この研究班の設置目的は︑以上のように本症が社会問題化し︑医療現場でも混乱が生じる中︑本症に対する統一的な. 診断・治療基準を定めてこれを収めようとするものであった︒しかし同時にこれは︑日赤高山病院事件によって︑医. 師が責任を問われるかも知れないという事態が生じたため︑医師の︑どこまでやれば責任を間われずに済むのか︑と. いう問いに答えるための自主的に﹁線引き﹂を行ったものであったとも評価できるのである︒むろん︑この研究班報. 告までもが︑裁判対策のためなされたとか︑後の裁判で行われる︑時期的な﹁線引き﹂までをも意図していたとする. ならそれは考え過ぎであろう︵もし裁判のためであれば光凝固法の有効性を承認する必要はない︶︒あくまでも本報. 告は︑医師と患児の利益を真に考えた中立的なものだったと筆者は考える︒しかし︑本症に関する診断・治療の方法. が裁判所の手によっていわば﹁勝手に﹂︑そしていびつな形で決定されて行くのではないかという危機感がこの研究 班設置につながったという見方は︑決して理由のないものとは思われないのである︒. ︵三︶ そして︑これもまた医療側の反応として︑しかも後の裁判に多大な影響を与えたという点において︑特筆 ︵37︶. すべきが︑松倉豊治が昭和四九年︑岐阜地裁判決︑およびその三ヵ月後に出された長崎地判昭和四九年六月二六日を. 素材にして書いた﹁未熟児網膜症による失明事件といわゆる﹃現代医学の水準﹄﹂という論文である︒.

(15) 自ら医師であり︑数々の鑑定を引き受けるなどして︑法医学の権威であった松倉は︑この論文のなかで︑まず︑. ﹁医学水準﹂には︑﹁学問としての医学水準﹂と︑﹁実践としての医療水準﹂とがあるとした︒そして︑前者は﹁学界. に提出された何らかの学術的問題が基礎医学的にまたは臨床医学的に︑何十回かあるいは何年かの内外諸学者問の︑. もしくは学会間の研究︑討議の繰り返えしを経て︑問題の全容又はその核心の方向づけが学界レベルで一応認容され. るに至って始めて形成される︑というもの﹂であり︑後者は﹁前記のようにして形成された医学水準の諸問題につき︑. これを医療の実践として普遍化するために︑あるいは普遍化し得るや否やを知るために︑さらに多くの技術や施設の. 将来において一般化すべき目標の下に現. 改善︑経験的研究の積み重ね︑時には学説の修正をも試みてようやく専門家レベルでその実際適用の水準としてほぼ. 定着したもの﹂であるとする︒﹁簡単に言えば︑学問としての医学水準は. 現に一般普遍化した医療としての現在の実施目. ﹂である︒そしてこの﹁医療水準﹂の設定は﹁権威ある学会での発表︑討議︑専門誌上での研究結果の公表︑追. に重ねつつある基本的研究水準 であり︑実践としての医療水準は. 標. 8︶. 試あるいは一般臨床医学界での紹介︑交見等が繰り返し行われ︑他方︑それに関する施設︑技術の充実︑研修実施等 ︵3 によってこれを基礎づけるのが本筋である﹂とされる︒. しかし︑﹁医療水準﹂も︑﹁自らの修練による技術の獲得︑専門誌や専門学会等を介して普遍化された学習経験によっ. て到達されるべきもの﹂であり︑﹁当然に専門性によって裏打ちされるもの﹂でなければならない︒さらに︑﹁この際︑. よく言われる大学病院や大病院での医療の程度といわゆる第一線開業医でのそれとの格差というのは︑診療面での実. 情ないし情状に関することであって︑その格差が前記医療水準を左右するものではない﹂のであり︑これは﹁転医措. 三七五. 山口注︶である﹂︒そして︑このような﹁医 ︵39︶. 置としての注意義務につながるもの︵H転医義務の基準となるべきもの. 療水準﹂こそが実際に医療を行う医師の目指すべき水準であるとしたのである︒ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(16) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三七六. ところで︑この松倉説を評価するにあたり︑注意しておかなければならないのは︑この論文で松倉は﹁医療水準﹂. という概念を︑法的注意義務との関係で述べているわけではないということである︒従って︑いうならば︑この松倉. 論文はあくまでも﹁﹃医療水準﹄についての医学界からの報告﹂としてのみ位置づけられるべきものであり︑それを. もとに︑法的な注意義務をいかに設定するかについては改めて﹁医師・法律家ともにじっくり考える必要がある﹂も. のであった︒さらに︑この松倉説はーしばしば誤解されるのだがー決して︑一線開業医のレベルにまで全国一律. に普及した治療法を医療水準として考えているわけではない︒それはあくまでも﹁専門家レベル﹂でコ般普遍化﹂. した︑﹁実施目標﹂であって︑それが転医義務の基準となるものである︒大病院と開業医の格差を﹁診療面の実情な. いし情状に関するもの﹂に過ぎないものと評価するところにみられるよう︑松倉の﹁医療水準﹂論は個々の医師︑一. 般開業医には厳しい内容を持ったものでもあり︑そこには︑﹁良き水準﹂を維持するため医療界全体が有機的に努力. しなければならないという︑医療の世界の中心にある人問としての︑強い責任感がみてとれる︒ ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. しかし︑松倉論文の中に同時に明らかなのは︑医療の内容の決定は︑医学界の自律性に委ねられるべきであ︵%との. 明確な姿勢であったといえよう︒彼は﹁医学水準﹂﹁医療水準﹂の内容を﹁本来医学自身が主体的に考えること﹂と. し︑また︑それらの形成についても︑問題の提唱から一般普遍化に至るまでの過程を専ら医学の側からのみ描く︒そ. して岐阜地裁判決についても﹁同判決が﹃︵永田博士の︶当該治療手段が医学界の常例でないからといって唯その悪. 化のみを黙認するが如きは決して許されるべきではない﹄としているのも心情としては素直に同意せられるところで ︵41﹀. ある︒しかしそれと︑医学水準ないし医療水準なるものについての本来の医学理論的評価とは自ら別であることを指. 摘しておきたい﹂とする︒ここには︑医学上いまだ議論が存在している場合には︑︵患者側の心情がどうあれ︶医学 的にはそれが﹁医療水準﹂とはされないという強い主張が窺い知れるのである︒.

(17) ︵四︶ 以上︑松倉説をも含め︑岐阜地裁判決に対する医師側の対応を要するに︑医学界・医療界でいまだ異論が. 存在しないわけではない治療法︑従って医学界でその是非につきいまだ決着をつけていない治療法につき︑岐阜地裁. がーそれら議論を飛び越えた形でーその実施の是非を判断したことに対する︑いわば職業的な反発だったという. ことができる︒日赤高山病院事件の控訴審判決の後︑山内逸郎・国立岡山病院小児科医療センター医長が﹁光凝固法. は当時でも現在でも広く認められた治療法ではなく︑国際的な評価も得られていない︒岐阜地裁高山支部の判決は︑. 2︶. この凝固法を医師が実施しなかったことを問題としたものだ︒これでは法廷が医療技術を支配することになり︑医師 ︵4. の立場からは承認できない点があった﹂と述べているが︑この言葉は︑当時の医学界︑医療界の気持ちを要約する. ものといえよう︒. むろん︑この中の﹁光凝固法は当時でも現在でも広く認められた治療法ではなく﹂という点については︑現時点か. らみても︑また当時の言葉としても甚だ疑問が持たれる︒むしろ︑医療側は︑﹁法廷が医療技術を支配する﹂ことに. 対する危機意識からか︑冷静に判断したなら高い評価を与え︑それにつきわが国が他の国に先駆けていることを誇り. にしたかも知れない治療法であるところの光凝固法︵または冷凍凝固法︶を︑かなり意識的に低く評価していたので. はないかという感も強い︒そして︑まさに訴訟における医療側の戦術も︑光凝固法の有効性・安全性等を﹁医学的に﹂ ︵43︶ 否定するというものになっていくのである︒そこで最後にかかる医療側の防御法につき簡単にまとめておこう︒. ①技術︑設備が当時普及していなかった︒社会的・地理的・経済的環境からの制約により︑診断・治療が困難ま たは不可能だった︒. 三七七. 技術・設備が当時その付近で普及していなかったため︑また︑眼底検査・光凝固の手術を行うことができる人員が ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(18) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三七八. 存在しなかったため︑患者側主張の診断・治療は事実上不可能だったというものである︒この主張は最初期から見ら. れ︑また︑松倉説と組み合わされるときには﹁それに関する施設︑技術の充実︑研修実施等によってこれを基礎づけ. るのが本筋である﹂という点︑﹁実践としての﹂医療水準という点が強調された︒そのような主張の中で︑松倉説の ︵豊 中には存在しなかった﹁具体的医療水準﹂という概念も生まれた︒. ②当該症状に関する知見がそもそも普及していなかった︒. これは︑本症では︑具体的には﹁∬型の抗弁﹂として現れる︒即ち︑本症には症状が徐々に進行する型︵1型︶と︑. 症状が急激に進行する型︵∬型︶とが存在するとされるわけであるが︑∬型についてその存在が知られたのは比較的. 遅く︑これについての詳しい論文が初めて発表されたのも昭和四九年二月であった︒このため︑個々の事件において. 医療側は︑当該患児の症状が︑E型に該当するものであったことを立証し︑当該症状がいわば﹁どうしようもない﹂ ものであることを認めさせようとした︒. ③当該症状に対する治療法の有効性が確認されていない︒. 一つは②にも密接に関わるものであり︑1型︑1型の区分という知見が新たに生じてきたという事情をアピー. これは︑具体的には光凝固法︑冷凍凝固法の有効性についてのものであるのだが︑おおよそ︑次の二つの理由があ る︒. @. ルするものである︒即ち︑本症のうち1型については光凝固法を行わなくとも自然治癒するものがほとんどであり︑. 自然治癒しない1型については光凝固法は奏功しない︑とし︑結局光凝固法は意味のないものである︑との主張を行 うのである︒. ㈲ もうノつは︑コントロールスタディi︵比較対照実験︶がなされていないという事情を取り上げ︑このため光.

(19) 凝固法は医学的根拠に乏しいと主張するものである︒特に︑コントロールスタディーがなされていないため外国にお. いて光凝固法が評価されていなかったという点が︑光凝固法等の有効性を否定するためにしばしば引合いに出された︒. ④当該症状に対する治療法の安全性が確認されていない︒. 本症に対する治療法として︑永田誠が光凝固法を初めて適用したのは昭和四二年︑山下由紀子が冷凍凝固法を適用.. 報告したのは昭和四六年であり︑いずれにせよ未熟児網膜症が社会問題化した当時︑いまだ歴史の浅いものであった︒. このため当然︑これらの施術により長期的に見て障害が残るのではないかという疑問は当時︑解決されていなかった︒. また︑次に見る治療・診断基準が確立されていないという主張と組み合わせた上で︑眼底検査や光凝固法の施術によ. 当該症状に対する治療・診断基準が確立されていない︒. り︑悪影響がもたらされる可能性が取り上げられた︒. ⑤. これは特に︑先にあげた松倉説を引用した上で主張されることが多かった︒即ち︑ある治療法を前提として診断・. 治療をなすことが医師の注意義務とされるには︑その治療法が﹁医学水準﹂でなく︑﹁医療水準﹂として確立してい. なければならない︒このため︑当該治療法が﹁医療水準﹂の内容となるためにはそれがコ般普遍化﹂したものでな. ければならず︑有効性・安全性のみならず︑治療・診断基準についても︑学界での一致した見解が存在しなければな. らないとしたのである︒このような主張は当然に︑現在でも光凝固法は医療水準として確立していない︑または早く. とも昭和五〇年の厚生省研究班報告までは確立していなかったとの主張に結び付くことになる︒. 医療側の主張はおおよそ以上のようなものであった︒③以降︑そして②もある程度︑﹁医学的な﹂論点であること. 三七九. が分かるであろう︒医療側はこのように論点をいわば﹁自分の土俵に持ち込んで﹂戦う道を選んだのである︒そして ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(20) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三八○. 未熟児網膜症訴訟における医療水準論の形成・その2ー日赤高山病院事件岐阜地裁判決後の動向i. このような主張は徐々に裁判所がこれを認めて行くことになる︒ そこで次にその過程を見て行こう︒. 三. 本症に関する判決例のうち︑公刊集で手に入れることができるものに限り︑その一覧を︻別表︼に掲げておいたの ︵45﹀. でそちらを参照されたい︒この変遷を大まかに区分すると︑岐阜地裁高山支部判決以降のそれは︑第一期が昭和五七. 年︵1③︶初まで︑第二期がそれ以降昭和六一年前半︵38︶まで︑第三期がそれ以降平成六年︵46②︶まで︑とす ることができ る ︒. 以下︑順に見て行く︒. 第一期は日赤高山病院事件の最高裁判決が出るまでの時期であり︑判例に﹁医療水準﹂なる概念が確立するま. ︵一︶ 第一期 形成期 ω. での︑いわば形成期である︒表を見て頂ければ明らかであろうが︑この時期に属する判決としては二六件︵事件とし. ては二一・なお︑岐阜地裁判決は除いてある︶︑うち︑原告の請求を認容した例が九件で棄却した例が一八件である︵5. の事件が重複︶︒出生年別にみると︑昭和四五年以前生はすべて棄却︑昭和四六年生は認容三件︑棄却二件︑昭和四. 七年生は認容四件︑昭和五一年生認容一件である︒これを見ると︑昭和四六〜四七年が責任可否の一つの分岐点になっ. ていることが窺われる︒実際︑この昭和四六〜四七年は本症に対する治療法としての光凝固法に関する治療報告が既 ︵46︶. に多く出されていた時期であり︑当時の学説も︑多くが裁判所は昭和四六〜四七年で﹁線引き﹂を行っていると解釈. していた︒もっとも︑表に明らかなように︑昭和四八年生と昭和四九年生に︑それぞれ一件づつ棄却例があるが︑ これは右の﹁線引き﹂の基準から外れるものではない︒これについては後述する︒.

(21) 松倉説を引用したと見られる﹁医療水準﹂概念は松倉論文の発表直後の3事件より既に見られ︑その後の判決もほ. とんどが松倉説の影響を受けたものとなっている︒これは︑医療側が積極的に松倉説を引用して自らの主張を根拠づ. けたためであり︑松倉説が医療側の主張を代弁したものであるという証拠がここに見て取れる︒そしてその際︑医療. 側は︑本来の松倉説と違って︑﹁医療水準﹂概念を︑規範的概念として取り入れ︑しかも﹁ある治療法が医療水準に. 7︶. 達しているというためには︑これが︑種々の医学的実験を経た後︑医学界においてその合理性と安全性が一般的に承 ︵4 認されて確立し︑かつ当該医療行為当時︑平均的な臨床医において具体的に施術されていなければならない﹂などと︑. 自らに都合の良い解釈をして取り入れることが多かった︒裁判所もこのような解釈に︑ある程度は影響を受けたもの とみられる︒. しかし︑この時期︑裁判所は﹁医療水準﹂概念を取り入れた上で昭和四六〜四七年で﹁線引き﹂を行っていたにも ︵48V. かかわらず︑必ずしも昭和四六〜七年に光凝固法が治療法として確立していたと認めていたわけではないことに注意. 2①だけであり︑昭和四六〜四八年生 しなければならない︒すなわち︑そのように認めるのは10①︵先進病院で︶︑1. の患児につき責任を認めた他の事例は︑光凝固法の有効性が医師の問に広く認識されるようになったという事情を取. り上げた上で︑仮に光凝固法が完全に確立したものとはいえなかったとしても︑それを前提に眼底検査をすべき義務︑. 転医・説明を行うべき義務があったとして︑その義務違反により責任を認めているである︒そして︑かような︑治療. 法の一応の有効性確立と︑その知見としての普及が認められた時点で︑それを前提にした治療・診断︑転医︑説明義 ︵49︶ 務が生じるとする裁判所の考え方は︑当時の学説によってもほぼ支持されていたように思われる︒. 働 他方︑請求棄却事例においては︑当該治療法が普及していなかった︑検査︑転医の体制等が整っていなかった︑. 三八一. 近隣でも光凝固法︑およびそのための眼底検査等を行っている病院は当時存在しなかった︑等の理由が認められてい ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(22) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三八二. るものが多い︒先に述べた﹁医療側の防御法﹂のなかでは①に該当するものである︒また︑当時光凝固法はいまだ追. 試の段階で有効な治療法として確立していなかったとするもの︑光凝固法の有効性についてはいまだ議論が存在する. などとする判決も多く︑このため︑先述の﹁医療側の防御法﹂の議論に当てはめれば︑③を認めたものが見られると. いうことになる︒しかしそれも︑後に見られるような︑そもそも光凝固法は本症に対して無効な治療法なのだとする. ような強い調子のものではなく︑結局のところ︵現在における︶光凝固法の有効性は一応認めているようである︒. ただ︑それと同時にいくつか目につくのが︑︵抽象的にではあるが︶先述の④の議論︑すなわち︑悪影響があるか. も知れないということから︑新規開発の治療法︑そのための検査︑説明を行うことにつき消極的な見解を示す判決で. ある︒たとえば︑5事件は﹁定期的眼底検査は︑本症に対する治療方法︑なかんずく︑有効な治療法と結びついての. み医療行為としての意義を有するものというほかはなく︑このような治療方法が広く認識されていない時期において︑. 一般の総合病院に勤務し︑未熟児の保育医療をその任務の一部としているにすぎない小児科医に対し︑定期的眼底検. 査の実施を要求することは︑格別本症に関する研究目的を有しないこれらの小児科医にとっては無意味な負担を強い. られることに他ならず︑かえって︑このような頻回の眼底検査が︑未熟児の特質について十分な理解を有しない一般. の眼科医によって不用意になされるようなことになれば︑未熟児の保育医療の原則に背馳するような事態の発生する. 危険性も絶対にないとはいい難い﹂とし︑7①事件は﹁診療実施当時︑一部の先駆的な研究者等により知られ︑かつ︑. 実施されているが︑医学界において︑効果および安全性が一般に承認されておらず︑したがって︑一般的に実施され. るに至っていない診療行為については︑後に︑それが医学界において一般に承認され︑一般的に実施されるものであっ. ても︑右のような効果及び安全性が確認されていない段階でその実施を要求することは︑医師に人体実験を強要する. に等しく︑医師は右段階においては︑右のような先駆的診療行為をなすべき法律上の義務を負わず︑これを実施しな.

(23) くとも︑法律上︑過失責任を問われることはないと解するのが相当である﹂とし︑さらに︑1②事件は﹁新規療法に. ついて殆ど専門知識も技術も有しない医師が︑確信もないのに右治療法をうけるよう指示することは︑そのような行. 為の軽率さ自体について職業倫理上別個の非難の対象とはなり得ても︑右指示によって新規療法を受けたところが︑. 何らの効果もなかったからといって︑右指示をした医師を非難すべき理由とはなり得ないものと解するのが相当であ. る﹂とする︒当該疾病から生じる結果の軽重にかかわらず︑医師は常識的な手法による治療・診断のみを行ってさえ. いればよく︑むしろそれ以上のことはすべきでないという考え方の兆しが既に見えていることが明らかであろう︒こ. のように︑新規治療法を取り入れないことの一つの理由として︑その副作用︑安全性についての懸念を示すことが有 力であることが︑ここで示されたといえる︒. さらに︑第二期との関係で重要になるのが︑先に説明を留保した︑昭和四八年以降生で︑請求が棄却された二件︵15. ①︑21①︶である︒これらはいずれも先述の②の議論︑すなわち︑﹁∬型の抗弁﹂が認められたものであった︒ここ. で裁判所は︑昭和四九年二月に大島健司らによって初めてそれについての詳細な論文が書かれたところの豆型は︑昭. 和五〇年に発表された厚生省研究班報告により診断・治療基準が確立され︑その研究も新たな側面を迎えたと認定し︑. 初めて︑厚生省研究班報告に︑一つの﹁線引き﹂としての大きな役割を与える︒とはいうものの︑この時期における. ﹁線引き﹂は︑あくまでも豆型についてのみのそれであって︑先に述べた昭和四六〜七年の﹁線引き﹂基準には抵触. しないものであった︒しかし︑この時期に既に︑n型についてのみとはいえ昭和五〇年を基準とする﹁線引き﹂が行. われていることは注目すべきであろう︒なぜなら︑1多少先回りになるが1後の裁判においては︑研究班報告以. 三八三. 前には︑1型︑E型の区別についても混乱がみられ︑それらの判定をも含めて厚生省研究班報告により診断・治療基 準が確立した︑とされることになるからである︒ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(24) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三八四. そして昭和五七年三月三〇日︑日赤高山病院事件の上告審で︑最高裁第三小法廷は︑﹁人の生命及び健康を管理す. べき業務に従事する者は︑その業務の性質に照らし︑危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求され. るが︑右注意義務の基準となるべきものは︑診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である﹂としてー. ②の判断を維持し︑﹁医療水準論﹂を確立する︒ただ︑この﹁医療水準﹂の内容につき︑最高裁が何も述べなかった ことは最初に述べた通りである︒. ⑥以上をまとめると︑次のようになる︒即ち︑この時期︑裁判所は﹁医療水準﹂概念を持ち出すものの︑それが. 医師の過失を判断するに当たっての絶対的な基準となるとは必ずしも考えていなかった︒また︑医師側の責任を否定. するためには先述した医療側の主張のうち①が主に認められ︑③も抽象的には認められていたが︑光凝固法無効論が. 現れるまでには至っていなかった︒また︑④を認めることにより︑﹁医療水準﹂以上の措置に否定的な見方が現れて. いたことも重要である︒そして昭和五五年頃より︑②を認める判決が見られるようになり︑これが次の時期︑⑤が認 められるための布石となっていた︒. ︵二︶ 第二期 変容期. ω 次なる第二期は︑日赤高山病院事件上告審判決より後︑坂出市立病院事件上告審判決︵最二判昭和六一年五月. 三〇日︶前後までの時期である︒﹁医療水準論﹂の内容がそれまでと異なり︑﹁線引き﹂も︑昭和四六〜七年から昭和. 五〇年へと移行していった時期であり︑いわば﹁変容期﹂とでも称することができる︒. この時期に属する裁判例は︑表に明らかなよう三三件︵事件数としては三一︶︑うち︑原告の請求を認容したもの. が六件︑棄却したものが二六件である︒出生年別に見ると︑昭和四四年生が棄却二︑昭和四五年生が認容一件︑棄却. 四件︑昭和四六年生が認容二件︑棄却九︵内皿型一︶件︑昭和四七年生が認容一件︑棄却六︵内∬型二︶件︑昭和四.

(25) 八年生が認容﹃件︑棄却四︵内H型二︶件︑昭和四九年生が棄却一︵n型︶件︑昭和五〇年生が認容一︵五型︶件︑. 昭和五一年生が認容二︵同一事件︑H型︶件︑昭和五二年生が棄却一︵π型︶件︑である︒これらを見る限り︑第一. 期ほどその傾向︑﹁線引き﹂ははっきりしていない︒しかし︑何よりも目につくのが︑第一期において請求が認容さ. れていたものが︑この時期︑控訴審において覆され︑請求が棄却されたという例であり︑昭和四六〜七年生で第一期. に請求が認容され︑この時期にその控訴審判決が出された五件のうち︑一審判決が維持されたものは一件のみ︵12②︶︑. 残る四件はすべて一審判決が覆されている︒他方︑逆に一審で請求が棄却されたものが︑高裁で認められたという例 も二件あり︑この時期において裁判所の判断が様々に﹁動いて﹂いることが見て取れよう︒. ω この時期の裁判所が第一期と異なっているのは︑第一期の最後において日赤高山病院事件最高裁判決が既に出. され︑﹁医療水準論﹂が︑内容はともかく︑最高裁の認める判断として確立していたということである︒従って︑こ. の時期︑裁判所は︑医業従事者の注意義務の基準が診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であるとし. た右最高裁判決を意識し︑これに一応の拘束を受けながら判断を下さなければならなかった︒先述の通り︑この最高. 裁判決は﹁医療水準﹂の内容自体については何も述べていない︒また︑治療義務︑転医義務︑説明義務との関係でこ. れがいかに設定されるかについても明示していない︒しかし︑少なくとも治療法が完全に確立していなければ転医義. 務も説明義務も生じないと解される﹁余地﹂は存在していた︒昭和四六〜七年生で第一期に請求が認められていたも. ののこの時期に覆されたものは︑かような解釈に従ったものと思われ︑やはり日赤高山病院事件最高裁判決の影響が 強く見て取れる︒. そして︑治療法として完全に確立していなければ﹁医療水準﹂たり得ないという右の考え方を形作ったのは︑いう. 三八五. までもなく先述の﹁医療側の防御法﹂のうちの⑤の主張であった︒先にも少し触れたよう︑この考え方は医療側の︑ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(26) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三八六. ②の主張︵ H型の抗弁︶を媒介として次第に認められるようになっていく︒すなわち︑昭和五〇年厚生省研究班報. 告によってほぼ初めて1型︑H型の区分がなされ︑H型の診断・治療基準が明らかにされたという見方は第一期にお. いても認められていた︒しかし︑この時期には︑昭和五〇年以前には1型︑丑型の区分が良く知られず︑その判断基. 準も明らかでなく混乱状態にあったため︑1型︑豆型を含めて全般に治療・診断基準が昭和五〇年以前には明らかで. なく︑これが客観化されたのは昭和五〇年厚生省研究班報告によってである︑とされるようになったのである︒実際︑. 表を見れば明らかなように︑この時期︑当該症状がE型であったという認定が他の時期よりも頻繁になされている︒. そしてこのようなH型という重要な型の診断基準が明らかでなかった昭和五〇年以前の治療・診断基準は︑それが. あったとしてもあてにならない︵E型に対してだけでなく1型に対しても︶︑との実質的判断がおそらくなされたの. であろう︒具体的には24︑10②︑21②︑18②︑31︑34︑4②︑36︑37︑25②が︑このような議論をそのまま採用して. おり︑25①︑0 3 も︑厚生省研究班報告に重要な意味を持たせて︑これを医療水準確立の時期とする︒この時期︑全国. の裁判所で﹁昭和五〇年線引き論﹂が定着しつつあったのは明らかである︒. さらに︑これと呼応して︑あるいは︑その発展形態としてこの時期急速に認められるようになったのが︑医療側の. ③︑④の主張︑すなわち︑光凝固法施術の懐疑論・無効論︑およびその危険性を主張する説であった︒既に﹁医療側. の防御法﹂の中で述べたように︑1型は自然治癒する例が多いこと︑H型の診断・治療こそが重要であるのにこれに. 対しては奏功しない例もあること︑それにもかかわらず手術の失敗の可能性があること等が︑光凝固法無効論︑危険. 性主張論の内容であるが︑この時期︑かかる主張は多くの裁判所が認めるところとなった︒しかもこの時期のそれは︑. 第一期のそれのように︑当時いまだ光凝固法の安全性や有効性が確認されていなかったことを抽象的に述べるのでは. ない︒むしろ︑医学文献︑鑑定︑不奏功︑手術失敗の報告例などを一々挙げることにより︑現時点︵裁判時︶におけ.

(27) 試行︑追試︑遠隔成績の検討︑自然経過との比較︑治療効果と副作用の確認︑治療法としての確立︑その. 0︶. る光凝固法の非有効性︑危険性等を︑具体的に明らかにするのである︒その際︑引用されるのは当然に︑光凝固法に ︵5 対する消極論を述べる医学文献︵海外のそれを含む︶であった︒そして︑永田誠が宿題報告の中で述べた﹁医学の. 常道﹂︵ 教育普及︶という言葉がしばしば引用されていることも特徴的である︒. いうならば︑この時期︑光凝固法の有効性︑安全性等に関する問題は﹁医学的﹂な問題として捉えられる傾向にあっ. た︒そしてこのことが︑結果的に⑤の主張に見られる医学側・医療側の﹁論理﹂を通用させることになっていったの である︒. ㈹ 他方︑この時期の請求認容例は︑右のような傾向を眼前にし︑しかも︑医師の注意義務の基準が医療水準であ. るとする日赤高山病院事件最高裁判決を意識せざるを得なかったため︑その結論を根拠づけるためにさまざまな工夫. 4②判決では﹁具体的事案において医師が当時の医療水準を超える知識を身につけていた を凝らしていた︒例えば︑1. 場合には︑当該医師の知識に基づく医療水準を基準にして過失の有無が検討されなければならない﹂として︑担当医. 師が︑本症発生の可能性︑光凝固法の存在︑他病院で光凝固法を実施していること︑治療のためには早期の眼底検査. による早期発見が必要であること等を知っていたことを認定して︑その責任を認め︑また︑12②判決は医療水準を﹁必. ずしもそ︵医師側︶の主張のような順次の段階的経過の検討から固定的に決せられるべきものではないし︑また︑疾. 病の種類︑新治療法の方法︑態様︑その開発の時期によっては︑必要とすべき経過・段階にも異なるものがあって一. 様ではないものというべきである﹂として︑本件当時︑光凝固法は臨床医学の実践としての医療水準に達していたと. する︒また︑8②判決は患児の両親が病院に眼底検査の依頼をしていたという事実を認定し︑﹁本件における青野︵眼. 三八七. 科医︶は控訴人らの要求に基づく飛梅︵担当小児科医︶の紹介で具体的に眼底検査をなすべき義務があったのにそれ ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(28) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. 三八八. を怠ったもので前記判例︵日赤高山病院事件最高裁判決︶の場合と同一ではないが︑この判断と抵触するものではな. い﹂とし︑35①判決は光凝固法︑眼底検査等が医療水準に達していなかったとしながら︑医師のずさんな診療を酸素. 1︶. 管理義務違反の中で認定し︑責任を認めた︒さらに︑38判決は︑光凝固法の有効性を疑問視し︑このため医師の過失 ︵5 ︵眼底検査義務︑説明義務︑転医義務違反︶と失明との問の因果関係を否定しながらも︑﹁失明という重大な結果の. 可能性を目前にするならば︑わずかな可能性であってもそれを受けまたは受けさせるというのが通常であり︑その治. 療法が右の通り全く無効というものではなく︑しかも多くの医師が行っているものであるとするならば︑患児が適期. にこのような治療を受け︑または両親が患児にこれを受けさせる機会は尊重されるべきである﹂として︑治療を受け うる可能性を奪われたことによる精神的苦痛を原因とする慰謝料を認めている︒. このように︑請求を認容したそれぞれの判決は︑日赤高山病院事件における最高裁の判断を慎重に支持しながらも︑. 細かな具体的事情に着目することにより︑また︑光凝固法が必ずしも有効でないという医学的な﹁証拠﹂にとらわれ. ながらも患家側の心情を正当に酌むことにより︑個々の具体的妥当性を図っていたどいえる︒. ω しかし︑8③の坂出市立病院事件上告審判決は︑先に挙げた8②判決︵高松高判昭和五八年三月二二日︶を破. 棄自判︵しかも本症における初めての破棄自判︶することにより︑このような下級審の努力を無にしてしまう︒すな. わち︑これは﹁恭子が坂出市立病院に入院中の昭和四五年一一月頃当時︑光凝固法は当時の臨床医学の実践における. 医療水準としては本症の有効な治療法として確立されていなかったのであり︑また︑ほかに本症につき有効な治療法. はなかったというのであるから青野医師には︑もとより有効な治療法と結びついた眼底検査の認識がなかったことは. 当然であり︑恭子の両親の要求を受けた飛梅医師から眼底検査の依頼があった場合であっても︑眼底検査を行った結. 果を告知説明すべき法的義務まではなかったというべきである﹂とし︑それが医療水準に達していない以上︑具体的.

(29) に要求をしてもそれを行う必要はないという︑﹁医療水準絶対論﹂とでもいうべき形式論を採った︒これにより︑そ. の後急速に︑きわめて形式的な医療水準論が定着して行くことになる︒ただ︑ここでもなお最高裁が﹁医療水準﹂の 内容について言及していないことは最初に述べた通りである︒. ㈲ 以上をまとめると︑この時期は日赤高山病院事件最高裁判決を受け︑﹁医療水準﹂を医師の過失の判断の基準. とするようになった時期であった︒そしてその内容として︑⑤の主張がー②を媒介としてi多く認められ︑その. 結果︑﹁昭和五〇年線引き論﹂が急速に普及してきていた︒同時に︑③︑④の主張︑すなわち光凝固法無効論︑や危. 険性を主張する論も認められるようになり︑これらは特に﹁医学的﹂な観点からなされた︒個々の具体的事情を勘案. することにより具体的妥当性を図ろうとするいくつかの判断も存在したが︑それは坂出市立病院事件上告審判決が否. 定するところとなった︒この最高裁判決により以後﹁医療水準論﹂は1内容はともかくーそれのみが医師の注意 義務の判断の基準となる形式的なものとして確立することになる︒. 最後に第三期を見ておこう︒この時期に属するのは表に明らかなよう︑計二七件︵事件数としては二一︶︑うち︑. ︵三︶ 第三期H定着︵形式的判断︶期. ω. 原告請求認容事例が一一件︑棄却事例が一八件︵46①︑46②がそれぞれ重複︶である︒請求認容事例を見ると︑患児. 4を除いてすべて昭和 の出生日は19②と53の二件を除いてすべて昭和五〇年八月以降であり︑一方︑請求棄却事例は5. 五〇年八月より前である︒昭和五〇年以前で請求が認められたものも全身・酸素管理︑眼底検査︑治療︑転医︑説明. のそれぞれの義務違反については認められておらず︑また︑昭和五〇年一一月生で請求が棄却された5 4事例も︑昭和. 五〇年八月の厚生省研究班報告を線引きの基準としながら︑その普及まで一定の時問がかかるとしたもの︵すなわち︑. 三八九. 五〇年線引きをもとにそれを更に後退させたもの﹀であり︑結局︑この時期﹁昭和五〇年線引き論﹂が︑全ての判決 ﹁医療水準論﹂の形成過程とその未来︵山口斉昭︶.

(30) 早稲田法学会誌第四十七巻︵一九九七︶. で一応維持されていたということができる︒. 三九〇. 働 実際︑この時期の特徴を一言でいうならば﹁昭和五〇年線引き論﹂にのみ従った形式的判断︑となろう︒先述. の﹁医療側の防御法﹂の議論に即していうなら︑請求棄却例のほとんどが︑⑤の議論を採用し︑﹁昭和五〇年八月発. 表の厚生省研究班報告により診断・治療基準が確立した︵客観化された︑指針が得られた︶﹂として︑原告出生当時. には光凝固法︵及びそれを前提とした眼底検査︶を行うことは医療水準として確立していなかったとして病院側の責. 任を否定し︑他方︑請求認容事例においては昭和五〇年研究班報告が具体的な過失判断の基準とされている︒この時. 期の裁判を見る限り︑未熟児網膜症訴訟は﹁昭和五〇年線引き﹂で決着がついたとの印象が持たれてもやむを得ない との感がある︒. また︑第二期に引き続いて︑③の議論︑すなわち︑光凝固法無効論や懐疑論を採用する判決も多く︑この時期も﹁現. 在においても光凝固法は確立していない﹂という強い懐疑論をもってこれが認められている︒しかしこれは請求棄却. 例においてのことであって︑請求認容例においてはほとんどが光凝固法の有効性を認めており︑全体としてみるなら ば︑矛盾︑ばらつきがあるとの印象が持たれる点である︒. さらに︑この時期の特徴として︑日赤高山病院事件岐阜地裁判決が出された後に提起された大規模な集団訴訟の判. 決︵46①︑48︑50等︶が︑一〇年以上かかってこの時期にようやく出され始めたということが挙げられる︒これらに. 2︶. おいては︑当然︑原告被告の攻撃防御も力が入り︑判決理由も膨大かつ詳細なものとなる︒﹁あたかも未熟児網膜症 ︵5. 訴訟に関する判決の集大成の感をみせている﹂と評されるような︑内容的にも緻密かつ説得的な判示がこれら集団. 訴訟の判決においてなされていることにはぜひ注目しなければならない︒. しかし同時に︑これらの判決は数多くの原告の主張をひとまとめに扱わなければならないという課題を担っていた︒.

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