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責任能力基準についての一考察-裁判員制度下における責任能力判断-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

責任能力基準についての一考察−裁判員制度下における

責任能力判断−

Author(s)

小西, 吉呂; 外間, 淳也

Citation

沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL

OF LAW & ECONOMICS(14): 49-67

Issue Date

2010-11-30

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/9574

(2)

沖細大学法経学部紀要第14号 【研究ノート】

責任能力基準についての一考察一裁判員制度下における責任能力判断一

AStudyofCriminalResponsibility

専 門 分 野 : 刑 法 キーワード:刑法39条精神障害裁判員制度 目次 は じ め に 1.責任能力 (1)責任能力の内容 (2)わが国における責任能力の判断 2.最高裁平成21年12月8日決定 (1)事実の概要 (2)中山鑑定の概要と第一審の判断 (3)佐藤鑑定の概要と原審の判断 〈4)原判決の要旨 〈5)決定要旨 (6)最高裁決定の検討 3.混合的方法の検討 (I)心理学的要素 (2)他行為可能性について 4.英米の責任能力基準の考察 (1)マックノートン・ルール<M'I (1)マツクノートン・ルール(M*NaghtenRule)

(2)抗拒不能の衝動テスト(IrresistibleImpulseTest)

(3)グラム・ルール(DurhamRule) (4)模範刑法典ルール(ModelPenalCode) (5)ヒンクリー事件後の責任能力基準 お わ り に − 4 9 − 小 西 吉 呂 療 YoshiroKONISHI 外 間 淳 也 遡 蕊 JyunyaHOKAMA

(3)

責任能力基準についての一考察 は じ め に 裁判員制度の下においては、心証形成のための具体的な判断資料は基本的に、公判においてのみ

提出される。したがって、公判審理は、直接主義、口頭主義にもとづき、裁判員にとって現て聴

いて分かる』ものでなければならない'・従来のように難解な法律用語の使用は、裁判員裁判のも とでは望ましくないのである。そのため、プレゼンテーションソフトの利用や専門用語をできるだ

け使わないといった配慮など、事実の示し方が工夫されている。また、公判前盤理手続が大変重要

な役割を担っている。公判前整理手続とは、第1回公判期日前に、鼎件の争点および証拠を整理す

るために行う公判準備のこと塑である。公判前整理手続で行われる事項は、訴因。罰条の明確化、

争点や証拠の整理、証拠の開示などである洲。責任能力の判断は、専門家の間でも意見が分かれる ため裁判が長期化する。しかし、裁判員裁判は5日程度で判決を下すので、公判前整理手続によっ て争点や証拠を整理する必要性が極めて大きい。 責任能力が争点となった模擬裁判での裁判員役の意見は、「統合失調症の実態がよく伝わってこ ない」「統合失調症がそれだけひどいと刑罰の対象とならない理由が納得できない」という2つが 圧倒的多数↓であった。また、東京地方裁判所で平成22年3月5日から10日まで行われた裁判員裁 判は、被告人側が心神喪失を主張した初めての41*案であったが、この裁判で女性裁判員が、『わか らない」と再度の説明を求め、再び被告人の精神状態や犯行との因果関係の可能性などが説明され たが、「全然わからない」と首を傾げた動とされ、模擬裁判での意見を裏付けるような形になった。 また、被告人が犯行当時、心神耗弱であったか否かが争われた大阪地方裁判所平成22年5月24日判 決では、『①被告人が精神の病(障害)を持っているかどうかを判断した上、これを前提に、② その精神の病(障害)は、本件各犯行当時の被告人の善悪判断能力と行動コントロール能力にどの 程度の影響を与えたかについて検討を加え、最後に、③最終結論として、本件各犯行当時、被告 人は糟神の病(障害)の影響により心神耗弱の状態にあったかを判断することとするm」という従 来の判例を踏襲した責任能力の判断基準が示された。しかし、これから述べるように、この混合的 方法と呼ばれる従来の判断基準は、いくら専門用語の使用を控えたとしても、また、公判前整理手 続によって争点や証拠を整理したとしても、その判断の難しさは解消しないように思われる。 本稿は、裁判員裁判における責任能力の判断基堆について考察し、その問題点を提起することを 目的とするものである。従来、責任能力の判断は裁判官が行う法的判l折であった。したがって、責 任能力の有無.程度の判断はどうなされるのかといった問題は、法律の専門家だけで理解していれ ば十分だったのである。しかし、裁判員裁判の開始によって、難解な責任能力についての問題が我々 国民に対して理解できるものでなければならないのである。上に示されるような責任能力判断につ いての現状を念頭において、責任能力の判断基準についての学説および、最近の判例を考察してい く。また、陪審制度を採る英米の責任能力雑準についても考察する。英米での議論を参考にするこ とは、今後、わが国が直面する(あるいはすでに直面している)問題点を明確するために有意義で あろう。 1.責任能力 (1)責任能力の内容 責任能力の判断基準の考察の前に、責任能力とは何かを概観する。判例(大判昭和6年12月3日) − 5 0 −

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沖細大学法経学部紀要第14号 によれば、「心神喪失と心神耗弱とは、執れも精神障砿の態様に属するものなりと雛も、その程度 を異にするものにして、即ち、前者は粘神の障擬により事物の理非善悪を弁識する能力なく、又は その弁識に従って行動する能力なき状態を指称し、後者は精神の障磯未だ上叙の能力を欠如する程 度に連せざるも、その能力を著しく減退せる状態を指称するものである7」と責任無能力・限定貴 任能力を定義している。 学説も、責任能力とは、自己の行為について刑法上の責任を負うに堪える自由な意思決定の能力 でなければならない廓とし、この見解が通説となっている。つまり資任能力とは、有賀に行為する 能力すなわち責任を認めるために必要な行為者の前提能力あるいは責任要素である。なぜなら刑法 規範は「私たちが自由になし得る行為のみを要求するものであり、また規範違反行為は私たちが規 範(あるいは価値)を理解し、その当否について熟慮したうえでこれに従って適法行為へと意思を 形成し得る場合にのみ非難可能なものになる,」からである。 責任能力は原則として、行為時に存在していることが求められる。また、それは、行為能力とは 区別される。客観的に社会規範に従う「行為」は、精神障害者や幼児にもあり得るが、刑法におけ る責任能力は、遡って行為の源である意思そのものの形成・決定における倫理的自由を要請する腿 からである。 (2}わが国における責任能力の判断 責任能力の判断基準は、先にあげた判例(大判昭和6年12月3日)が示すように、「糟神の障害 という生物学的要素と、是非善悪(遮法性)を弁識し、それに従って行動する能力という心理学的 要素の混合した型!'」といわれる混合的方法である。また、被告人が心神艇失・心神耗弱であるか どうかの判断は、法律判断であって専ら裁判所に委ねられるべき問題であり、その前提となる生物 学的、心理学的要素についても、究極的には裁判所の評価に委ねられるべき問題である"として裁 判官による法律判断であることを示している。さらに、被告人の責任能力の有無・程度は、犯行当 時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機・態様等を総合して判断するべきである13とされる。 学説においても混合的方法が通説となっている。心理学的方法によると、責任能力が個々の犯罪 行為について違法性を弁識できたか、あるいはその弁識に従って意思決定することが期待できたか

という期待可能性の問題に還元されてしまい、また、生物学的方法によると、行為時に精神の障害

がある以上は責任無能力となってしまい、有資に行為する能力のある者を不当に排除することにな ること、さらに、錆神医学などの科学上の鑑定結果によって刑事責任が決まり、責任能力が法律上 の概念である点を無視する結果となる''という見解が広く承認されている。 従来、この混合的方法によれば、責任能力は法的概念であるから、その判断は、専門家で:ある糖 神科医の鑑定等を証拠の一部としながら、最終的には裁判官が行う法的判断であり、専門家の意見 に裁判官が拘束されることはなかった。しかし、最近の判例(最決平成20年4月25日)では、「専 門家たる精神医学者の意見が鑑定等として鉦拠となっている場合には、鑑定人の公正さに疑いが生 じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用しえない合理的事情が認められる のでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべきである隅」と示したのである。そこで、以下、 最近の判例を考察し、資任能力の判断基飛についての問題点を指摘していきたい。 − 5 1 −

(5)

責任能力基準についての一考察 2.最高裁平成21年12月8日決定峰 (1)事実の概要

被告人は、平成12年11月頃から、階下の住民とのトラブルから自宅に引きこもるようになり、平

成14年夏頃から、窓から通行人めがけてエアガンの弾を発射するようになった。平成15年2月、統 合失調症の疑いありと診断され、措侭入院となった。被告人は、平成16年6月2日午前4時過ぎ頃、

金属バットとサバイバルナイフを持って被害者方に向かい、被害者とその妻が在室する一階寝室の

無施錠のサッシ窓を開けて同室の中に入り、被害者の頭部を金属バットで殴りつけた後、2階に逃

げた被害者を追いかけ、その場所で、被害者の二男の右頚部を上記ナイフで切り付けるなどし、さ らに、被害者の頭部、顔面を同ナイフで多数回にわったて切り付け、その胸部を突き刺すなどして 同人を殺害した。 (2)中山鑑定の概要と第一審の判断 捜査段階で精神鑑定を担当した医師中山宏太郎は、その作成に係る精神鑑定書及び第1審公判廷 における証言において、被告人を人格障害の一穂である統合失調型障害であり、広汎性発達障害で も統合失調症でもないとしたうえで、被告人は本件犯行当時に是非弁識能力と行動制御能力を有し ており、その否定ないし著しい減退を考えさせる所見はなかったが、心神耗弱とみることに異議は ないと診断した。 第一審は、中山鑑定を基本的に信頼できるとしながらも、統合失調型障害とまでは断定できない として、被告人は、統合失調症の周辺領域の糖神病に擢患し、本件犯行時、是非弁識能力及び行動 制御能力がある程度減退していたが、それらが著しくは減退していなつかったことが明白であると 判断して完全責任能力を認め懲役18年を言い渡した。 (3)佐藤鑑定の概要と原審の判断 原審で裁判所から被告人の精神鑑定を命じられた佐藤忠彦医師は、その作成に係る精神鑑定書及 び原審公判廷における証言において、披告人が本件犯行当時、妄想型統合失調症に羅患しており、 鑑定時には残遺型統合失調症の病型に進展しつつあるとしている。そして、被告人には、平成16年 3月頃から妄想型統合失調症の病的体験が再燃し、同年4月中旬頃から同年5月頃にかけて被害者 方がその対象となって次第に増悪し、犯行時には一過性に急性増悪しており、本件犯行は統合失調 症の病的体験に直接支配されて引き起こされたものであり、被告人は、本件犯行当時、是非弁識能 力及び行動制御能力をいずれも喪失していたと診断した。 原審は、被告人は是非弁識能力ないし行動制御能力が著しく減退する心神耗弱の状態にあると判 断して第一審を破棄し懲役12年を言い渡した。 (4)原判決の要旨 中山鑑定は、統合失調症かどうかの:判断の基礎となる十分な資料を収集できていないため、同鑑

定から被告人が統合失調症に椛患していなかったと断ずることはできないが、佐藤鑑定は、十分な

診察等を経たうえで本件犯行時に被告人が統合失調症に稲患していたと診断したものであることな どからすると、被告人は本件犯行当時、統合失調症に椛患していたと認められる。 − 5 2 − 一

(6)

沖抑大学法総学部紀要第14号 しかしながら、佐藤鑑定は、状況を正しく認識していることをうかがわせる本件犯行前後の被告 人の爵勤についての検討が十分ではないうえ、犯行の直前および直後にはその症状が改善している ように見受けられるとしているのに、本件犯行時に一過性に幻覚妄想が剛懇しそれが本件犯行を直 接支配して引き起こさせたという機序について十分納得できる説明をしていない。 本件犯行は、統合失調症による病的体験に犯行の動機や態様を直接支配されるなどして犯された ものではなく、被告人は是非弁識能力ないし行動制御能力を完全に失っておらず.心神喪失の状態 にはなかったものの、本件犯行が被告人の病的体験に強い影響を受けたことにより犯されたもので あることは間通いなく、その能力が著しく減退する心神耗弱の状態にあったと脇められる° 側 決 定 要 旨

般判所は、特定の梢神鑑定の意見の一部を採用した場合においても、淡任能力の有無。j程度につ

いて、当繊意見の他の部分に事実上拘束されることなく、上記1F梢を総合して判断することができ

るというべきである。原判決が、前記のとおり、佐藤鑑定について、寅任能力判断のための重要な

前提黄料である被告人の本件犯行前後における言励についての検討が十分でなく、本件犯行時に一

過性に期懇した幻覚妄想が本件犯行を直接支配して引き起こさせたという機序について十分納得で

きる脱明がされていないなど、鑑定の前提資料や結論を瀞く推論過程に疑問があるとして、被告人

が本件犯行時に心神喪失の状態にあったとする意見は採用せず、貿任能力の蒋無・程度については、

上記意見部分以外の点では佐藤鑑定等をも参考にしつつ、犯行当時の鋼状、幻覚妄想の内容、被告

人の本件犯行前後の謝勤や犯行動機、従前の生活状態から推鍵される被告人の人格傾向等を総合考

慮して、摘的体験が犯行を直接支配する関係にあったのか、あるいは影響を及ぼす程度の関係であっ

たなど統合失澗症による病的体験と犯行との関係、被告人の本来の人格傾向と犯行との関連性の程

座等を検対し、被告人は本件犯行当時是非弁識能力ないし行動制御能力が箸しく減退する心神耗弱

の状態にあったと認定したのは、その判断手法に誤りはなく、また、躯案に照らし、その結論も相

当であって、是認することができる。 (6)股I断般決定の検討

本決定も、雑本的には従来の判断方法に従ったものであるが、次の2点に雛園しなければならな

い。1点脚は、原滞が佐藤鑑定に基本的に依拠しつつ、部分的に合理的疑いが強るとしてこれを採

用しなかったことに対して、その判断手法に誤りがないとしたこと。2点目は、「統合失調症によ

る綱的体験と犯行との関係、被告人の本来の人格傾向との関連性の秘度」という判断材料を本決定

が提示したということである.

まず、1点目については、先にあげた最高裁平成20年4ノJ25日決定が被告人に不利な形で解釈さ

れたとみることもできる。鑑定等に合理的な疑いがあれば裁判官はそれに拘束されないという方向

に解釈されるのであれば、結局、専門家の意見は聴並されないのではないだろうか。本決定の蝿富合、

「犯行時に一過性に幻覚妄想が増悪しそれが本件犯行を直接支配して引き起こさせたという機序に

ついて毒│・分納得できる鋭明をしていない」、また、「被告人が幻覚妄想のIノ1群のままに本件犯行に及

んだかどうかにも疑問の余地がある」というものであった。部分的に鑑定結果に合理的な疑いがあ

オ1ば、卯1l家の再鑑定を根拠に判断を下すべきであろう。少なくとも、妥当な判断であったとは言

− 5 3 −

(7)

責任能力基準についての一考察 い難いように思われる。耕神科医の鑑定に採用しえない合理的な疑いが認められるのでない限り、 その意見を十分に尊重しなければならないであろう。「精神鑑定がどの程度尊重されるのかは結局 定かではない'1」という批判は的を射ていると考える。 責任能力の判断基準の構造が、生物学的要素と心理学的要素とから成る混合的方法であることは 先に述べた。この構造に対しては、鑑定医が示した生物学的要素は、責任能力の内部にどのように 位置づけられているのかが明らかではなく、「この立場では、認識能力・制御能力の認定が法的判 断そのものであるとされるため、生物学的事実およびその行為に及ぼす影響と法的判断が必ずしも 明らかでなく、経験科学と法徽学との共同作業を一層困難にしているように思える'月」と指摘され ている。また、「生物学的要件と心理学的要件の関係がよく分からない鱒」と実務家からも指摘さ れている。責任能力の判断はその基準に従えば、第1に、「精神の障害」という生物学的要素の存 在を明らかにしなくてはならない。その意味で、本件責任能力の判断の手法を妥当であったという ことは必ずしもいえないであろう。 次に2点目を検討してみよう。「統合失調症による病的体験と犯行との関係、被告人の本来の人 格傾向との関連性の程度」という判断材料を提示したことは、大変興味深いものである。近代刑法 学においては行為主義が大原則であるが、最高裁判所が行為者の本来の人格傾向と犯行との関連と いうかつての人格責任論を妨桃とさせる見解を提示したものであり、検討する必要性は大きい。 人格責任論とは、犯罪行為は行為者の人格の実現化である繍という考えを基礎として、行為の背 後にある行為者人格に責任の基礎を求める理論である。人格責任論に対しては、「人格形成の過程 にまでさかのぼって、有資に形成された人格とそうでないものとを区別することは困難であるばか りか、行為の基礎となった潜在的人格にまで立ち入って法的評価を加えるのは、個人生活への不当 な介入である創」という批判がなされ通説には至っていない。そもそも、通説である個別行為責任 論においても行為者人格が全く考慮されていないわけではないのである。行為者人格は行為に現れ た範囲内で考慮すべきであるというこの問題は、さらなる検討を要するので別の機会に譲りたい。 3.混合的方法の検討 (1)心理学的要素 上述のように、責任能力の判断は、法律の専門家である裁判官でさえ困難なものであり、混合的 方法という現在の判断基準では、裁判員制度のもとで混乱を招きかねないという疑問を抱く。なぜ ならば、「実際には裁判官が被告人の責任能力を判断するとき、(動機の)了解可能性が事実上の判 断基準となる翼」という見解が存在するからである。この基鵡に従えば、行為者の精神症状が『了 解可能な」心的異常にとどまる場合、心神喪失は認められない。逆に「了解不可能な」心的異常で あれば心神喪失が認められるのである。したがって、生物学的要素がほとんど考慮されないことが 特徴である。これは、生物学的要素と心理学的要素との関係が暖昧であることが原因である。しか し、少なくとも先の大審院判決を忠実に踏襲するならば、納神障害を前提にした判断、すなわち生 物学的要素を中心に画定しつつ心理学的要素で制約を図ることが本来の趣旨というべきであろう割。 「了解可能性」とは、本来、判断を基礎づけるひとつの要素にすぎない割のである。 そこで、責任能力の判断基準について、特に心理学的要素について若千検討してみたい。その際、 「現時点においても将来においても、人間の他行為可能性を前提とした、法的非難としての刑罰は − 5 4 −

(8)

沖縄大学法経学部紀要第14号 成り立ちうる鰯」という視点から、資任能力の判断基準は構築されるべきであるということを念頭 に渡きながら話を進める。他行為可能性を責任の本質とする限り、心理学的要素は不可欠の要素と なるからである。 初期の大谷責教授は、心理学的要素を排除して生物学的方法で責任能力を判断すべきだと主張し ていた。大谷教授は、「法規範は、法規範を遵守する人格態度の形成を予め予定し、国民に要諦し ているがゆえに、国民はかかる人格態度ないし規範の心理的層を確立する義務があり、異常な人格 と異常な人格環境さえなければ、各秘の因果法則性を克服して、この人格体系を形成することが可 能であったという擬制を受けるものと考える。責任非難は、まさに、この義務違反によってもたら された人格態度に対して向けられるのである鋤」という観点から、「責任能力概念を従来の混合的 方法にかえて、生物学的方法によって拙成することが妥当であるという結論に達した鰯」としてい る。生物学的に責任能力を判断すべきとした著名な刑法学者は、わが国において大谷教授だけであ ると思われる。それだけに重要な見解である。 しかし、大谷教授は自説を改めている。現在、教授自身が指摘するように、「生物学的方法によ ると、およそ行為時に精神の障害がある以上は責任無能力となってしまい、有責に行為する能力の ある人格を不当に排除することになること、また、精神医学などの科学上の鑑定結果によって刑事 責任が決まり、責任能力が法律上の概念である点を無視する結果となる潮」からである。 責任能力の構成から心理学的要素を排除しても、なお「法的概念」であるといえるかどうかを検 討する。背木紀博教授は、精神科医の鑑定の役割は、被告人の糖神疾患の穂類や症状の程度を明ら かにし、それが行為当時、被告人にどのような影響を与えたのかを推定することであるとして、鞘 神医学者による鑑定は生物学的要素、心理学的要素をともにその射程範囲に含むのである鋤と主張 している。この見解によると、生物学的要素・心理学的要素も共に経験科学的に明らかにし、それ がどの程度行為に影響を及ぼしたのかを判断することになるが、裁判官・裁判員の役割としては何 が残されているのだろうか。青木教授は、心神喪失・耕弱の判断は法的判断として残る劉'とされる のである。その理由は、「生物学的、心理学的事実を法律概念としての心神喪失・耗弱のカテゴリー にあてはめる判断が栽判所にゆだねられるべき問題弧」というものある。 この見解は、生物学的要素はもとより、心理学的要素も経験科学的に判断し、その判断に従って、 裁判官は被告人の責任能力を判断するべきであるとして、なおも責任能力は「法的概念」であると いうものである。ここでは心理学的要素は維持されているが、大谷教}授は、「従来の心理学的=生 物学的方法という区別はかならずしも正当でなく、両者を含めて経験科学的に規定すべきだと考え る鑓」としているので、少なくとも両者の見解はこの点で一致すると恩われる。しかし、この見解 に従う場合でも、緒神科医の鑑定の不確実さという問題が残る。結局、裁判官は、規範的な判断に 頼ることになる。心理学的要件を排除しようという試みは、精神科医の鑑定が常に確実であるとい う前提があってはじめて達成しうるものであると考える。精神科医が、「法廷では、精神医学に責 任能力の結論があるかに恩われているように感じることもあるが、精神科医がその答えを知ってい るというのは誤りである。駁'」といわれるように、精神医学に全面的に依拠することはできない。 犯罪者の資任能力という領域は、糟神医学の世界でもごく一部の専門的領域なのである。 こうして、責任能力の具体的判断は、「認識主体や制御主体がどれだけ損なわれていたのか、ま た、犯罪衝動の大きさがどの程度のものであったのか、それが病的なものであったのか、といった − 5 5 − '

(9)

徴任能力襲蛎についての一考察 リK柄は、まさに蛎実認定に関することであり、この限りにおいて殿判所は輔神鑑定の内容に従うべ き八‘」であり、複数の鑑定結果が異なる場合は、被告人の利益のために判断するべきである。次に、 その判断を前提として、「法規範の立場からの要求を考恵し、期待可能性の見地から認識可能性・ 制御可能性の判断が行われることになる蜂」。この判断は、輔神医学の符総外であり、銭判官の行 う法的判断である。ただし、このような判断基準によるとしても、専門家たる糖神医学者の意見が 鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さに疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問 題があったりするなど、これを採用しえない合理的蛎悩が認められるのでない限り、その意兇を十 分に韓寵して認定すべきであることは当然である。 上の心理学的要素の排除という試みは、現征の糟神医学の水池においても途成することはできな い。それは、上述の判例(最高裁平成21年12月8日決定)でも明らかにされたことである。行為時 に泌識能力と制御能力が存在していたかどうかの判│折は、結局のところ規範的判断によらなければ ならないであろう。 以上から明らかなように、責任能力の判断基準は混合的方法がなお妥当するが、実際にそれに従っ て判I折することは非常に困難である。また、弁識という寓葉ひとつをとっても「知っている」「分 かる」「瞳別する」「理解する」などの違いがあるはずだが、それも盤理されていない鵡。さらに、 制御できているかどうかというのはもっぱら外形的な行動面から推測をする晦ことになるので、さ らに判断が難しいといわれている。裁判員裁判ではこの資任能力を市民が判断することになるので ある。 (2)他行為可能性について 賞任能力の心理学的要素とは、言い換えれば「当談行為時に迩法性を弁識し、その弁識に従って 自己の行為を適法行為へと方向づけることを可能にする能力」、すなわち、『他行為可能性」と解す ることができる。他行為可能性とは、「行為の際の具体的糾間のもとで行為者に犯罪行為を避けて 適法行為をなしえたであろう顕」という可能性である。犯罪行為以外の他の行為をすることが不可 能な行為者に対して、責任を問うことはできないのである。 佐藤直樹教授は、「弁識能力にせよ制御能力にせよ、それは犯罪者と解釈者との相互作用におい てだけ、解釈され確定される。しかもそれは、取り調べや糖抑鑑定や餓判過鯉で事後的なものとし て、笥総としてだけ出現する。つまりそれは、言説の対象ではなく禽脱そのもののことである暇」 として心理学的要素を否定している。これは、他行為可能性がIllなる甜菜でしかないという批判で あり、さらに「心理学的要件の本質とは、言説の対象である犯罪者の内I師ではなく、解釈者と犯罪 者の相互作用の文脈で出現する、言説そのものであることになる。いいかえれば、それは一樋のフィ クションである」と批判されるのである。上の批判は、このような「他行為可能性」をフィクショ ンとして捉えているのである。 上の批判に対しては、このように対抗できるだろう。所一彦救授は、意思決定論に依拠しつつ、 他行為可能性とは「客観的な可能性ではなく、その客観的な可能性を伽提としながらも、これに、 主観的な可能性すなわち、困難性とか損得とかの価値を加えたもの伽」であるとしている。客観的 に人間の行動が全て決定されていると判断された場合でも、行為者の主観においてはまだ自由の意 識は否定されない。責任非難は、その主観的な自由の意識に向けられるのであり、他行為可能性は − 5 6 − 、 一 阜 骨

(10)

沖縄大学法経学部紀要第14号 フィクションではないということも可能であるし、また、そのほうが一般的に承認されている考え 方ではないだろうか。 また、増田豊教授も意思決定論に依J拠しつつ、「ほとんど同一の状況のもとにおける、あるいは 非常に類似した状況のもとにおける別様の可能性」柵、すなわち他行為可能性を肯定するのである。 われわれの日常生活のなかで一定の行為を遂行する際、全く同じ状況というものは存在せず、その

僅かな違いにより別の結果が発生する。そこに、消極的ではあるが他行為可能性の存在を認める余

地があると増田教授は主張しているのである。そして、「この意味における別様の可能性がなけれ

ば、行為者に資任をコンヴェンショナルに帰属することはできないであろう‘1としている。

刑法学において責任があるとは、通説の道義的責任論によれば非難が可能であることをいう。し

たがって、「他行為可能性」の概念は責任刑法の中核概念であり、それを否定することは妥当では

ない。また、所教授も増田教授も決定論に依拠していることが重要である。他行為可能性とは、人

間の意思について非決定論に依拠してはじめて正当性を持つものと理解されていた。しかし、近時

の精神科学や認知科学の成果には、筆者らが自由意思の問題を探求するにあたって決して無視する

ことができない多くの有益な成果が含まれているため、刑法学の分野といえども経験科学の分野と

の両立が可能なものでなければならない綱。非決定論あるいは相対的非決定論に依拠した「自由意

思」は、結局、意思の無原因性を認める点で今日の科学水堆において説得力を有しないように思わ

れる。というのも、犯罪行為が無原因な意思によってなされたとすれば、その犯罪行為についての

責任を問うための主体が存在しない側からである。したがって、決定論に依拠しつつ「他行為可能

性」を肯定する両者の見解は、さらに注目されるべきであると考える。 4.英米の責任能力基準の考察縄

ここからは、英米における責任能力の基準を考察していく。周知の通り、英米では陪審制度が採

用されている。おそらく、わが国の裁判員制度が直面する課題を英米の刑事裁判はすでに経験して

いるであろう。したがって、その議論を検討することは有意義であると考える。ここでは、主にア

メリカの議論を中心として考察を進めたい。

まず、英米における犯罪成立の阻却事由を簡単にみてみると、わが国と同様に、禁止された行為

を実行しただけでは、刑罰を科することはできない櫛。その行為が「違法行為」であることと、行

為者に「犯意棚jが要求されるのである。一般的に社会に受け入れられている犯罪成立阻却事由は、

第1に、犯罪を椛成する行為が行為者の自発的な意思によるものでない場合、第2に、行為者が自

己の行為の実際的特性かその結果を認識できなかった場合、第3に、犯罪行為が違法であり、ある

いは悪であることを行為者が知らなかった場合、第4に、行為者が富己の行為を制御することがで

きなかった場合である4mとされる。

精神異常の抗弁は、成功すれは無罪となりすぐに解放される他の抗弁とは異なり、成功したとし

てもほとんどの被告人は、糖神病院に入院させられる鯛のである。しかし、その抗:弁の本当の目的

は、犯意のない行為者の拘束を国家が認めることだ釦ともいわれている。 − 5 7 −

(11)

責任能力基準についての一考察 (1)マックノートン・ルール(M'NaghtenRule) マックノートン・ルールは、一般的に縄識テストあるいは正邪のテストとして知られており、イ ギリスにおける責任能力の判断基準は、現在もマックノートン・ルールである別。マックノートン・ ルールは、犯罪行為の性質と悪性を知らない輔神障害の被告人を免責するので、無知のテストとも 呼ばれている魂。このルールの内容は、被告人は、もし、彼の行った行為の性質を知ることのでき ない、また、彼はその行為の性質を知っていても、悪だということを知ることができない精神の疾 患による理性の欠如のもとでなされた犯罪の遂行は、無罪となる鴎というものである。 マックノートン,ルールの起源は、1843年のイギリスにまで遡る。当1時、イギリスの首相ロバー ト・ビールの暗殺を試みたダニエル・マックノートンは、首相ではなくその識衛であるエドワード・ ドラモンドを銃で殺害した。マックノートンは、政府に迫害されているという妄想状態にあった。 証拠によりマックノートンがドラモンドを撃ち殺したということが特定されたが、彼は行為の時、 正常な箱神の状態ではなかったと訴えたのである。医学的な証拠によれば、正常な精神の人間は、 病的な妄想による影響を受けるが、病的な妄想の影響を受けた人間であっても正邪の道徳的認識を 持つこともある。しかし、被告人の場合は、彼を自己の制御を超えたところに至らせる妄想であり、 また、自己の行為を制御できないという認識は存在せず、さらに、その妄想は、暴力的な激情がい きなり発生するため、制御不能な激しさとともに力が鯉発する性質の疾患である“。このようにマッ クノートンは、無罪を主張したのである。 ニコラス・ティンダル(N.Tindal)首席裁判官は、「決定するべき問題は、犯罪遂行の時、被 告人は間違った行為、あるいは邪悪な行為を行っているということを知る理解力を使用できたか、 それともできなかったかである。もし,陪審員が、被告人が犯罪行為の時、神や人の法に違反して いることを分別できなかったという意見をもつならばその時は、彼に好意的な判決があたえられ なければならない。しかし、もし逆に陪審員が、被告人は犯罪行為の時、正常な精神の状態であっ たという意見をもつならば、彼に逆の判決をしなければならない観」としている。そして、陪審員 は、彼に対して精神異常を理由にして無罪の判決を下したのである。 マックノートン・ルールに対しては、感情と意思的能力を損失した人格の認識の面を強調しすぎ ており、また、その狭い認識の問題に関する専門家の証言の範囲を不当に制限すると考える者から の批判があった謡。それは、「知る」ということを被告人が事実を認識しているという単純な意味 で解釈したとき、このテストは、行動の性賀や悪性について彼の認識を奪う狭い意味の『妄想』に しか適用されないだろう耐というものである。確かに、精神障害者であっても自分の行為がどのよ うな性質のものであるのか、善いか悪いか、の認識が存在していることもあるから、マックノート ン・ルールは、そのような精神障害者を不当に有罪にしてしまう厳しい責任能力の判断基準であっ た。さらに、マックノートン・ルールは、心理的事実の満足のいく鑑定を得ることはできず、また、 1つの症状だけを前提としているので全ての状況に正しく適用することはできない鐘といわれ、ま さに、偏狭な基準であり適当ではないという厳しい批判がなされたのである躯。 ここでマックノートン・ルールとわが国の責任能力の判断基準とを比較してみよう。わが国の判 断基準の構造は、生物学的要素と心理学的要素とから成る混合的方法である。マックノートン・ルー ルも混合的方法に分類することができる。ただし、心理学的要素の1つである制御能力は、判断基 準に含まれていない。またこのルールは、認識能力の完全な欠如を要求する。わが国の責任能力判 − 5 8 − ワ ● ●

(12)

沖 細 大 学 法 経 学 部 紀 要 第 1 4 号 断の基準とは、この点に違いがある。 さらに、マックノートン・ルールの「行為の性質」という言葉は、混乱の原因になると指摘され ている鋒。「行為の性質」とは、どのような意味で捉えるべきなのか。単なる動物の身体的特性と いう意味で理解すればよいのか,'。あるいは、行為の道徳的・法的な重要性の認識までも含む62の か,というように必ずしも一致していないからである。 (2)抗拒不能の衝動テスト(IrresistibleImpulseTest) 行為者の認識能力を強調するマックノートン・ルールを補完するテストとして、坑拒不能の衝動 テストが登場する。このテストは、精神の疾患に強制された理性によって、正と悪を選択する能力 を失っているとき、または、当該行;為を避ける能力を失っているとき、彼の自由の力は破壊されて いる‘3として被告人を免責するという趣旨のものである。また、主張されている犯罪は、単一の精 神疾患の所産であるという因果関係の中で、その精神疾患と強く結び付いている鯛ことが要求され るのである。わが国の制御能力に対応するテストである。 抗拒不能の衝動テストは、多く議論を呼んだにも拘わらずイギリスでは非常に危険であるとして 決して認められることはなかった侭月。抗拒不能という概念自体は、マックノートン事件より以前か ら抗弁として認められており、法医学の領域からは、自分が何をしているのかを知っていても行為 を制御することのできない者は存在するということが主張されていたのである。マックノートン事 件の数年前、1840年にビクトリア女王を殺害しようと発砲したエドワード・オックスフォードの事 件の裁判で裁判官は、「ある疾患に支配されている者がその行動を制御することができない場合、 彼に責任は問えない」と説いている。そして、精神異常の抗弁が成立しエドワードは無罪となった

のである。その後、マックノートン事件における一連の議論の中で、抗拒不能衝動テストについて

は言及されることはなかった。それは恐らく、マックノートン・ルールが狭い意味の妄想にしか適 用されないからである噸。というのも、イギリスは、精神異常の抗弁の適用範囲を広げたくなかっ たのだろう。 一方アメリカでは、抗拒不能の衝動という言葉は1844年にはじめて使用された。しかし、マック ノートン・ルールから区別され、あるいは、その言葉が明確にされていたのかは定かではなかった ようである。実際に抗拒不能の衝動テストの説明がなされたのは、1887年になってからである雨。 確かに、抗拒不能の衝動テストによってマックノートン・テストの欠点を修正できたようにみえ る。行為者の認識能力の面を強調しすぎたマックノートン・ルールとしては、当然に考えられる修 正である。しかし、このテストは、行為者が制御しなかった行為と制御することができなかった行 為とを区別することが不可能であるという揃烈な批判がなされている鯵。結局、わが国の混合的方 法と同様に、制御できたか否かわからないという批判が当てはまる。アメリカにおいても、貴任能 力判断における制御能力の判断が困難であるということが批判の中心となったのである。 (3)グラム・ルール(DurhamRule) マックノートン・ルールとそれを補完する抗拒不能の衝動テストによる責任能力の判断が非常に 困難であるため、グラム・ルールという生物学的方法による判断基準が1954年にコロンビア地区裁 判所で確立したのである。筆者らは、生物学的方法による責任能力の判断基那を批判したのである − 5 9 −

(13)

責任能力基準についての一考察 が(前述54頁以下)、グラム・ルールは妥当な責任能力の判断基準と成り得たのだろうか。まず、

グラム事件において裁判長であったバゼロン(Bazelon)の陪審員に対ずる説示をみてみよう。

「もし、あなた方陪審員が、被告人は、彼が重大な犯罪行為を遂行した時、疾患や欠陥といった

糖神状態に悩まされていなかったことについて合理的な疑いを超えると信じるならば、あなた方は

彼を有罪とするだろう。もし、あなた方が彼は行為を遂行した時、疾患や欠陥といった精神状態に

悩まされていたと信じるならば、しかし、行為がそのような精神異常の所産ではないということに ついて合理的な疑いを超えると信じるならば、あなた方は、彼を有罪であるとするだろう。あなた

方は、彼が疾患や欠陥という精神状態に悩まされていない、あるいは、行為がそのような異常の所

産ではないということについて合理的な疑いを超えると信じるのでなければ、被告人は精神異常の

理由による無罪であるとしなければならないのである卿」。

グラム・ルールは、「被告人の違法な行為が精神疾患か精神の欠陥の所産であれば刑事責任を問

わない剛」という非常にシンプルなものである。このテストは、マックノートン・ルールのように 被告人の認識能力を問わない。また、抗拒不能の衡勤テストのように行為者の制御能力を問わない のである。それは、第1に、マックノートン・ルールは精神医学的真実と科学的知識の意見を十分 に得ることができない洲こと、第2に、マックノートン・ルールは、1つの症状だけを基礎にして おり、それではすべての具体的事情において正当に適用できない漁ことからである。そして、マッ クノートン・ルールと同様に抗拒不能の衝動テストについても、苦悩や思考によって特徴づけられ た精神疾患を認めない点で不十分である訓と批判されている。他方でグラム・ルールは、精神科医 に被告人の精神疾患や欠陥の特徴に関わる適切な情報を裁判官および陪審員に提出する大きな余地 を与え、それに対して、陪審員には、個々の事案の具体的躯情についての道徳的責任の伝統的な理 念を適用する役割を実行する自由が残る詞といわれた。ただ現実には、精神科医の意見に責任能力 の判断を支配され、ルールのないルールという批判を受けたのである。 糟神医学的判断と法的な判断の違いについて、ムーア(Moore)は、「決定論的な糟神科医の推 定と法律の自由意思の推定は衝突する。法は、明らかにはされていない人格の自由というものを推 定しなければならないのに対して、精神医学は、精神疾患が人間の恩考と行動の原因であるという 推定によって、精神医学の診断と精神病の治療しなければならないのである7:」と主張している。 人間の自由な意思を前提としなければならない法律的判断と精神医学の経験科学的判断は、そもそ も対立する性質のものである。皮肉にもグラム・ルールは、精神医学的判断を強調しすぎた結果、 議論をさらに混乱させてしまったといえる。グラム・ルールは、いわば「精神医学者の勝利のシン ボル」であったが、結局、法的判断の基準としては失敗作であったといわれている”。 (4)模範刑法典ルール(ModelPenalCode) 次に、模範刑法典ルールを取り上げる。1962年に公式に採用された模範刑法典ルールは、被告人 に、精神の疾患か欠陥があり、その結果、彼が行為の犯罪性あるいは罪悪性の識別する能力の実質 的な欠陥、または、法の要求する行為に順応する実質的な能力の欠如がある場合、被告人には犯罪

行為の責任はない両という責任能力の判断基準である。また、このテストにおける「糟神の疾患」

と「その欠如」という用語は、再犯やその他の反社会的行為を繰り返すことによってはじめて明ら

かになる異常を含むものではない噸としている。これは、人格障害を精神の疾患から排除する目的 − 6 0 −

(14)

● 沖細大学法経学部紀要第14号 のためである。

模範刑法典ルールは、グラム・ルールのI所産」という語を暖昧であると拒否した。そして、マッ

クノートン・ルールと抗拒不能の衝動テストの組み合わせは、認識の損傷と意思的能力の損傷につ

いて焦点を当てることは適切であると考えたのである禰・模範刑法典ルールは、マックノートン・

ルールの「知る(know)」を「識別(appreciation)」に変えることによって、マックノートン.

ルールよりも好まれ、被告人の理解力の評価をより具体的に行った剛'。というのも、マックノート

ン・ルールの「知る」という言葉は、多くの批判と誤解の原因であった醜からである。したがって、

被告人の人格の感情的な面か傭緒的な面に関わる専門的な証富は、模範刑法典ルールの中で正確に

関連付けることができる躯ようになったといわれ、さらに、意思的能力の損傷について正確に説明

でき、被告人の実質的な欠陥だけを要求するものであるといわれた郷。つまり、完全に認識能力を

損傷していることと行動制御の能力が欠如していることを要求するマックノートン・ルールと抗拒

不能の衝動テストとは、明らかに異なるのである糊とされたのである. しかし、このテストに対しても、識別(appreciation)の意味はこの文脈において明らかではな

いのだから、知る(know)の意味とは実質的に異なるという考えに明白な?理由はない綴という批

判がなされる。加えて、正確に損傷の程度を区別することは、言語的にも理論的にも不可能だ雛と

されるのである。さらに、精神の疾患の定義から人格障害を排除することについても、人格障害者

は一般的に刑罰の抑止力はなく、また、刑罰に値しない師という批判がなされている。確かに、刑

罰よりも治療の方が犯罪の再発防止にとっては効果的であるように思われるが、しかし、人格障害

者は一般的に認識能力も制御能力も有しており、性格の極度な偏りとして認識されている。したがっ

て、人格障害者に対して刑罰を科すよりも治療を施すぺきということにはならず、逆に刑罰を重く

する方向に作用すると思われる。ともあれ、模範刑法典は当時のアメリカにおける責任能力基準の

支配的地位を獲得したのである。 (5)ヒンクリー事件後の責任能力基準

1960年から1970年にかけて模範刑法典が支配的になったアメリカでは、責任能力基準の議論は下

火になった。これにかわって、責任能力基準の運用と無罪判決後の被告人の処遇についての議論が

活発になった。その時期に例のヒンクリー班件が発生したのである。ヒンクリー事件とは、レーガ ン大統領他3名に傷害を負わせた事件である。ヒンクリーは模範刑法典ルールの下で、自己の行為

の邪悪性を認識していたが、その行為の制御能力が失われていたと判断され、「精神異常により無

罪」を言い渡されたのである。この評決に触発され、責任能力基準の議論が再燃したのである甑。

アメリカ法曹協会(AmericanBarAssociation)とアメリカ精神医学協会(American

PsychiatricAssociation)は、制御能力を要件とせず、被告人の認識能力に焦点を当てる基準を

提案した。このような基準は、模範刑法典修正アプローチといわれている69・アメリカ法曹協会

は.被告人が自己の行為の邪悪性を認識することができない精神異常かその欠陥があるときだけ無 罪にするとした。また、アメリカ精神医学協会は、犯罪行為時に精神異常かその遅滞の結果、被告 人が行為の邪悪性を認識することができないとき、精神異常の抗弁は認められるとしたのである。

両者とも、制御能力を要求せず認識能力だけを要求する点が共通している。これは、精神異常が

問題となる場合に、専門家がより明確に邪悪性の認識を考慮するため"だとされている。この責任 − 6 1 −

(15)

● 責任能力基地についての一考察 能力基準は、模範刑法典ルールからマックノートン・ルールへの回附Iを意味している。 次にメンズ・レアアプローチと呼ばれ、精神障害を独立した抗弁とせず、精神障害の故に犯罪の 心理的要素書く場合にのみ無罪とする”ものも存在する。このメンズ・レアアブローチによれぱ、 自分が何をしているのかを知らなかったり、あるいは何をしようとしているのかわからなかった場 合に、犯行時に精神の疾患または欠陥の状態にあったことが抗弁となるのであって、それ以外の糖 神疾患または欠陥は刑の軽減事由として考慮される卿‘。このアプローチは、まさに「精神異常の抗 弁」の廃止である。 また、「有罪ただし精神障害(GuiltyButMentally111)」の評決というものが存在する。この 評決は様々な形式が存在するが、その一例は、陪審員が精神異常の抗弁を認めるか、あるいは、 「有罪ただし精神障害」の評決をするのかどうかを判断するというものである弧。「有罪ただし精神 障害」の評決を受ければ、被告人は拘禁の間刑務所または精神病院での治療を受ける資格を得るの である鍋。この評決形式に対しては、正当な精神異常の抗弁を拒絶するよう陪審員を躯すことによっ て、「精神異常の抗弁』を衰退させる鋤といった批判などがなされた。 以上が英米の代表的な責任能力の判断基準とその変遷である。やはり、どの基準を採用するにし ても一長一短であるし、わが国における責任能力基鵡との違いは、グラム・ルールを除いてそれほ ど大きいものでもないだろう。また、アメリカにおいても心理学的要素は、責任能力の判断におい て解決が難しい問題となっている。やはり、責任能力の判断自体が当然に困難を伴うものであり、 その難しさを解消することは、混合的方法を採る限り疑わしいものである。ただし注意しなければ ならないのは、困難であるからと言ってない方がよいということにはならないということである。 お わ り に 統合失調症が原因で、もともとの人格に基づいて犯罪を犯したと評価できない場合が心神喪失だ と判断するような『統合失調症による病的体験と犯行との関係、被告人の本来の人格傾向との関連 性の程度”」という方法は、確かに、刑法の知識を持たない裁判員に対する問いとしてはわかりや すい。しかしそれでは、従来の判例と学説の整合性を損なう恐れがあるし、陪審制度を採るアメリ カの判断基準も被告人本人の本来の人格傾向を判断対象に設定していない。したがって、従来の判 断基準に則った判断は、「了解可能性の判断」に陥る可能性を否定できないが、責任能力判断の基 準として妥当性を否定されないと考える。 また、精神障害や精神疾患の問題を回避しながら裁判員に提示する方法として、ショップ (Schopp)は、次のように述べている。「このような場合、被告人に犯罪行為の責任を問うことは ない。例えば、どうするのかを決心するための能力が実質的に損なわれているという認識能力の重 大な異常に被告人が悩まされている時に行為を実行した場合には、被告人に責任は問えず、また、 認識能力の異常に悩まされていない成人が通常猫得できる動機の過程を総た行為の実行とはいえな い場合にも責任を問うことはできない。この要件は、もし被告人が観念の形態、理解力、動機、事 実の関連性、または他の認識過程の能力の重大な異常に悩まされているとき、あるいは、その異常 が実質的に行為についての動機の通常過程に従う能力が損なわれているとき、犯罪の客観的要素を 構成する行為の実行を決意した場合にのみ一致する燭』。このショップの見解は、模範刑法典修正 アブローチのように被告人の認識能力に重点を樋いているが、精神障害や耕神疾患という語を使用 − 6 2 − 凸 一 − ● ●

(16)

沖純大学法経学部紀狸第14号 していないという点で異なる。ショップによれば、この公式が適用されるのは主に輔神障害者であ るが、それらの用諮の使用は抗弁の本質的な目的のために働くのではなく、しばしば問題の核心を ぼやけさせる働きをする".のである。 綾判員制度の開始に伴い、責任能力の問題を責任論に還元しようとする動きにも注目しなければ ならないと考える。いわゆる「39条廃1t論」である。39条廃止論の見解の根底には、ノーマライゼー ションの思想が存在しているように思える。ノーマライゼーションとは、身体ないし輔神に障害を もち、従来の社会政策で社会から切り離し施設に収容され、別個の生活を余儀なくされていた人々 を;:会に取り込み共生(等生)をめざす思想:細!である。確かに.精神陣害者の主体性の確立という 観点からノーマライゼーションの思想は不可欠となる。また、刑法39条に対して輔神陳害者が意思 の主体として、Jp叩資任を負うことのできる人間として扱われていないという憤りを感じているか もしれない。しかし、ノーマライゼーションの思想を過度に強洲することは、共生の雑務を糖神障 諜者に狐する過酷な州結にいたるおそれがあることも忘れてはならない'''1。特に統合失調症に椛患 した患者の症例などをみると、刑罰を科すことが不適切な者は、少なからず存征する。亜要なこと は、何をノーマライズするかということであり、39条の適切な適用を目指すことである。 刑法39条が必要であるとするならば、それだけの根拠を示す必要がある。裁判員制度の開始に伴っ て、I測民の39条への関心がさらに高まることが予想される。その時、それに対抗できるだけの主張 をすることができなければ、39条の規定を廃止あるいは修正するという方向性もあり得る。 最後に、今後の方向性と課題を示しておきたい。精神科医として長年斑大蛎件の輔神鑑定を行っ てきた井原総氏の見解は、『皆様の大部分は刑事責任を負うこともできます。しかし、例外もいらっ しゃいます。輔神陣害者の中でもひときわ重症の患者さん、同じく、知的障害者の中でもきわだっ て砿度の患者さんです。この方たちは、何が正しくて、何が間違っているのかもわからない薄明の 中で日々を送っていらっしゃいます。このようなごく一・部の重度輔神障害、砿度知的障害の方のた めには、刑法39条はあったほうがいいと、私どもは考えております獣喜』というものである。精神障 群を患っている者に対する井原氏の見解には、今後の研究の方向性として、また、刑法39条存続に 対する縦者らの率渡な意見として共感できるものがある。 また.鞭度知的障審者の寅任能力についても取り上げる必要があろう。知的陳答とは、先天的あ るいは幼少期の原因によって知能の発達が遅れていることである。知的隙襟背は、弁識能力だけで なく制御能力も劣るのが通常であるから、甑度知的障害者は、心神喪失とすべきである'(劇。これま で刑法学の分野で知的陣諜者の寅任能力を取り扱った研究は多くはないので、今後取‘り扱いたいと 港えている。 ※小棚吉呂(YoshiroKONISHI)沖縄大学法経学部法経学科敬授 ※※外側淳也(JyunyaHOKAMA)沖細大学大学院現代沖抑研究科地域綴営専攻修士牒税 l東京地方織判所公判審理手続委員会、同裁判員模擬裁判企画委員会縄『殿判貝が参加する公判 瀞理の在り方」判例タイムズNO.1278(2008)6頁。 2寺崎嘉柳『刑期訴訟法第2胸成文堂(2008)224頁。 3同上225頁。 − 6 3 −

(17)

責任能力基準についての一考察 河本雅也(第3回現代刑事法研究会座談会)「潰任能力」ジュリストN0.1391(2009)91頁。 この座談会には、山口陣、井田良、佐伯仁、械爪雌、今J│:猛嘉などの刑法学者の他に蛾判官で ある河本雅也、梢神科医の岡田幸之が出席した。 MSN産経ニュース「【裁判員裁判】専門家ですら…「責任能力」素人判断の難しさ」(2010 年3月110)http:/sankei.jp.msn.com/afrairs/teial/100311/tnall003110044000-nl.htm 2010年8月18日確認)。

大阪地方裁判所第7刑事部平成22年5月24日判決。http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=

6165(2010年8月20日確認)。 大判昭和6年12月3臼刑集10巻682頁、カタカナ表記をひらがな表記に直した。 小野滴一郎「溌任能力の人間学的解明」ジュリストN0.367(1967)87頁。 増田豊『規範論による資任刑法の再構築一昭識論的自Ill意志論と批判的責任論一』勤草普房 (2009)まえがき2−3頁。 小野前掲注(8)89頁。 村井敏邦「寅任能力』法学セミナーN0.563(2001)25頁。 最判昭和58年9月13日集刑第232号95頁。 最決昭和59年7月3日刑集38巻8号2783頁。 大谷賢『刑法撫義総論:第3胸成文堂(2009)323-234頁。 最決平成20年4月25日刑嬢62巻5号1559頁。 判例時報2070号(2010)156頁-159頁。 笹倉香奈「資任能力の判断と鑑定」法学セミナーN0.644(2008)136頁。 青木紀博「責任能力と梢神鑑定一法律学の立場から一」刑法雑誌27巻3号(1987)108頁。 青木孝之「刑リ寅任能力とは何か?−その歴史的展Dtlと現代の課題を概観する−」琉大法学第 79号(2008)42頁。 団藤重光『刑法要綱総論第3版』創文社(1992)260頁。 大谷前掲注(14)313頁。 神田宏「いわゆる刑法39条廃止論について−ノーマライゼーション社会における蜜任能力概念 小論一」近畿法学53巻第2号(2005)19頁。 同上。 青木前掲注(19)44頁。 安田拓人『XI鮒礎任能力の本質とその判断』弘文蟻(2006)8頁。 大谷賞『刑聯間任の基礎訂正版』成文堂(1977)140頁。 同上172-173頁。 大谷賀前掲注(14)323-324頁。 青木紀博「演任能力と精神鑑定一法律学の立蝿から=j刑法雑誌27巻3号(1987)109頁。 同上109頁。 同上109頁。 大谷前掲注(26)r刑事貨任の基礎』189頁。 岡田幸之「刑リ責任論と輔神鑑定」ジュリストNO.1391(2009)86-87頁。 4 5 6

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− 6 4 −

(18)

沖細大学法経学部紀要第14号 安田前掲注(25)『刑事責任能力の本質とその判断』180頁。 同上181-182頁。 岡田前掲注(33)86頁。 同上。 大谷前掲注(14)356頁。 佐藤直樹『刑法39条はもういらない』青弓社(2006)174頁。 所一彦「抑止刑と自由意恩」内藤謙他編『平野龍一先生古稀祝賀論文集下巻』有斐閣(1991) 67頁。 増田前掲注(9)408頁。 同上410頁。 同上398-399頁。 大谷前掲注(26)21頁。 全体の参考として、墨谷葵『責任能力基那の研究一英米刑法を中心として一』慶応通信1980).

RobertF.Schopp,Autoノ"αtism,Insα凡j妙,α"dthePsyc加logyofCr加i肥J

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犯意(mensrea)とは、故意や過失を含め、無謀や怠慢など不正な意思全般を含む概念であ

る。田中英夫編「BASIC英米法辞典」東京大学出版(1993)を参麗考にした。 Supranote46atl8. WayneR,Lafave.⑰nciseHor"加okSeries:PrinciplesofCr加maILaw.263.(2003). Westgroup. 1d.

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墨谷葵「アメリカにおける責任能力論の動向」中谷陽二編『鞘神障害者の責任能力一法と精神

医学の対話』金剛出版(1993)239頁。

CarlElliott,TheRulesq〃"sα剛ty:MoralRespons的"胸αnat舵MentallyIIIOffender,

12(1996).UniversityofNewYorkPress. Id. 1d. Id.at13.

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47 48 49 50 51 52 53 54

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(19)

責任能力基準についての一考察

456789012345666666777777

Id.atl4. Id.atl3. Supranote49at280. 1d.at281. Supranote60atl3. Id.atl4. Supranote49at284. Supranote54atSll, Id. Supranote49at284. Id.at284-285. MichaelMoore,Lauノα"dPsycノ&畑ノツ;Reth血〃mgL舵Rela伽"sノlip、231.(1984). CambridgeUniversityPress. 墨谷前掲注(59)241頁。 Supranote46at30. Supranote54at312. Supranote49at290. Supranote46at30. Supranote49at291. Id. Supranote46at30-3L Supranote49at291. Supranote46at36. Supranote49at291. Id. 墨谷前掲注(59)242頁。 林美月子「責任能力の諸問題一アメリカ法の観点から−」刑法雑誌第31巻4号(1991)95頁。 Supranote46at37. 1d. 林前掲注(89)95頁。 墨谷前掲注(59)253頁。 Suprano舵49at320. Id. Id. 前掲注(16)156頁。 Supranote46at215. Id. 神田前掲注(22)42頁。 0

6789012345678901234567890777788888888889999999999I

− 6 6 − 一甲 U ・ ‐

(20)

101 102 103 同上。 井原裕『精神鑑定の乱用』 大谷前掲注(14)325Ko 沖細大学法経学部紀要第14号 金剛出J版(2010)6頁。必要な範囲で省略した。 − 6 7 −

参照

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自ら将来の課題を探究し,その課題に対して 幅広い視野から柔軟かつ総合的に判断を下す 能力 (課題探究能力)

シートの入力方法について シート内の【入力例】に基づいて以下の項目について、入力してください。 ・住宅の名称 ・住宅の所在地

方式で 45 ~ 55 %、積上げ方式で 35 ~ 45% 又は純費用方式で 35 ~ 45 %)の選択制 (※一部例外を除く)

高裁判決評釈として、毛塚勝利「偽装請負 ・ 違法派遣と受け入れ企業の雇用責任」

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保税地域における適正な貨物管理のため、関税法基本通達34の2-9(社内管理