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正法眼蔵の存在論 : 生死の問題を中心として

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(1)平成十年度. 兵庫教育大学大学院学位論文. 正法眼蔵の存在論. 1生死の闇題を中心として一. 教科・領域教育専攻. 言語系︵国語︶コース. M974211.    藤 本 成 男.

(2) 目次. 序一:i−−−−:⋮:−−曇−−⋮−⋮−:⋮一−⋮::−−⋮−⋮::−::::::−::一:− 第一章  ﹃正法眼蔵﹄の存在論の体系.  第一節 仏教の存在論、⋮⋮::、−::⋮−⋮一::−−−:−⋮−−−−−:::−:⋮−:−−−−⋮.  第二節 生死の意義−,﹃,:⋮−−:︸,−−:11−:−一;::輩︸、﹃:一,︸−:−︸−世i−−−:藍,軍彫、︻−:,::..  第三節  ﹃正法才蔵﹄の思想的骨格、、⋮、−−−−−,,−−:−−−:⋮、⋮⋮一:−−−:−−−一⋮⋮. 第二章 認識論と生死.  第一節 無我説による実体論の否定⋮、⋮、⋮⋮⋮−−−⋮−⋮−⋮⋮、⋮,⋮ーー−,−,,−  第二節 ﹃正法眼蔵﹄の心.   第一項 意識作用としての心、意識対象としての心⋮−−:⋮−−⋮−⋮−−⋮−⋮−⋮.   第二項 存在としての心−−−、−:、、一⋮、::,﹁、,﹁−、−−:−、−⋮−⋮−::⋮−⋮−⋮:⋮. 第三章 時閤論と生死.  第一節 無常仏性の意義.   第一項 仏性と﹃正法才蔵﹄:⋮−−⋮⋮,⋮,⋮、⋮;,−,−::−,,:−−−::⋮、⋮⋮.   第二項 有仏性、無仏性、無常仏性−⋮−:−−−−−一−−,,⋮⋮−⋮,⋮一⋮,一−、一−−,,−−−,. 1. 3. 4. 6. 蜀. 18. 26.

(3)  第二節  ﹃正法眼蔵﹄の時間論.   第一項 仏教の時間意識r−:;−:−;:−:−一−−−−−−−−−−−−−一−::−−:−−−一−−;::−:一.   第二項 而今と経歴t:−:−⋮−−::匹:−⋮−一−−ーー:−:−:一:−:−t−:−−−−:−::・.   第三項 有時の思想−:一:,一:t−:::−:−:−:一::−:−−:−::::::−:−−−一:. 第四章 因果論と生死.  第一節  ﹃正法三蔵﹄一二巻本の位置付け,⋮,,一−,⋮,⋮−⋮−⋮−−⋮:−⋮−,⋮−−−,⋮.  第二飾善悪と因果、−−⋮−⋮−⋮⋮,、⋮⋮⋮i⋮,⋮−−⋮,,、一::、:−⋮−−⋮、..  第三節 時間と因果−⋮−、,−⋮:−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮,⋮⋮−⋮⋮−−:−, 第五章 生死論.  第一錦 生死の思想史と﹃正法才蔵﹄,−:⋮−:−−:一−−一−−⋮一;,−−−⋮:−−−一−:−−:一.  第二節  ﹃正法眼蔵﹄の生死             ..   第︸項生死という語と﹃正法才蔵﹄−::、−::⋮一:−::一::⋮一;、:−;;:;:.   第二項  ﹁全機﹂の存在論轟−−曜﹃一−馳−﹃−亀−聖一−−忌置−−圏一−−:‘量−−蔓−:塵聾−−:暫−窟ーー,量馨−匹−:−墨−一.   第三項  ¶発菩提心﹂﹁出家功徳﹂と生滅、﹁海印三昧﹂と滅−:−−−:t−⋮,:−、−−::⋮−. 結−﹃−⋮﹁一:::;;;⋮⋮ーー::::−⋮一−:,⋮::−⋮:⋮:::⋮一::一:−,. 32. 36. 脇. 44. 53. 64. η.

(4) 序.  ﹃正法眼蔵﹄は道元の主著であり、一二三一︵寛喜三︶年の﹁弁道話﹂から一二五三︵建長五︶年の﹁八大人. 覚﹂に至る九五巻本が残されているほか、編集を異にする七五巻本、六〇巻本、そして最近とくに注目されるよ. うになった=一巻本などがある。これら諸本はいつ、どのようにして編纂されたのか、その成立に関する研究は. なされつつあるが︵、︶、現在なお統 的、決定的な見解を見るに至っていないというのが現状である。.  ﹃正法眼蔵﹄を構成する個々の法語が成立した当時、その書写や編纂になんらかのかたちで関わったと思わ. れる懐漿、義介、義演などの門人たち、また道元から直接聞いたことを書き留めたいわゆる﹃聞書﹄を残した詮. 慧や、その弟子で﹃凶聞書記﹄と称される注解書を書いた経説などの在世時には、この人たちによって﹃正法眼. 蔵﹄の思想そのものが問題にされることもあっただろうが、鎌倉末期から、近世の宗統復古の動きが起こるまで、 わずかな例外を除いて﹃正法眼蔵﹄が読まれることはなかったと思われる。.  江戸時代中期以降に始まる﹃正法眼蔵﹄研究の特徴は、嗣法論、清規論、禅戒論において道元に還れと主張し. たことにある。それは卍山道白、面誤読方を中心として推し進められたが、一方でその復古性そのものが土野伝. 尊によって批判され、この二つの系統を軸にして展開する。そして、宗学の正統派とされたのは前者であった。. こうした研究は﹁流儀家﹂と呼ばれる専門家によって担われ、 一定の形式を踏襲して伝承された。その傾向は明. 治維新後も変わらず、親鷺や日蓮が広く読まれ受け入れられていったのとは対照的であったといわれる︵、︶。.  大正期に和辻哲郎﹃沙門道元﹄︵、︶、昭和に入って秋山範二﹃道元の研究﹄︵、︶、田辺元﹃正法眼蔵の哲学私観﹄︵,︶、. 橋田邦彦﹃正法摯実黒黒﹄︵、︶などが出て、従来とは違った視点から﹃正法眼蔵﹄が取り上げられるに至り、そ. れは厳密に仏教史を踏まえて論じる立場からは批判を受けながらも、﹃正法輪蔵﹄の研究の新たな可能性に、様 々な分野から関心を呼ぶということにもなった。. 一. L.

(5)  また、文学の側からは、昭和三〇年代に唐木順三﹁道元一中世業術の根抵﹂7︶、永積安明﹁中世文学の成立﹂︵,︶、. 西尾実﹁﹃中世的なもの﹄の源泉としての道元﹂︵、︶などにおいて、この書のもつ論理的思想性に自己否定とその. 止揚、真の個の確立という弁証法的構造を見、それを中世文学の特色としてとらえる方向が示されたという経緯 がある。.  本論においては、以上のような歴史的事情とともに、近年の研究成果も踏まえながら、ほぼ示衆の順序にした. がって編集されたと思われる九五巻本のうちの諸巻を対象に、﹁生死﹂をキーワードとして、認識論、時間論、 因果論との関連において、その思想の構造について考察したい。.  ︵1︶河村孝道﹃正法設置の成立史的研究﹄︵春秋社、︸九八七︶、古田紹欽﹁正法眼蔵の成立に関する巻の編成をめぐって﹂︵﹃正法眼蔵とその周辺﹄春秋社、一九       九 七 ﹀ などがある。.  ︵2︶道元と﹃正法居能﹄に関する歴史的事情については、次のような論文を参照。竹内覚雄﹃道元﹄吉川弘文館、一九六二。大久保道舟﹃増補修訂道元禅師傳の.    研究﹄筑摩書房、一九六六。今枝愛眞﹃道元﹄目本放送出版協会、﹁九七六。曹洞宗曲学研究所編﹃道元思想のあゆみ﹄吉川弘文館、一九九三。鏡島寛之﹁道    元禅師研究の動向・回顧﹂﹃道元禅師研究﹄山喜房佛書林、﹁九四一。.  ︵3V大正九年から一二年にわたって書かれ、初め雑誌﹁新小説﹂に載り、後に雑誌﹁思想﹂を経て、大正一五︵︸九二六︶年、﹃日本精神史研究﹄︵岩波書店︶に.    収められて刊行された。﹁自分が文化史的理解のために道元を使おうとすることも、人類の歴史のうちに真理への道を採ろうとするものにとっては、当然のこと       で な く てはならぬ﹂とある。.  ︵4︶昭和δ︵︸九三五︶年に岩波書店から出版・当時・・−㌻パの哲学動向の一指標であったハイデ・ギζ塁書票㈹q。含.・。・。∼一り§の方法や・それにつな.    が.る西田哲学的な論理を使いながら、﹃正法三蔵﹄を哲学乏して描出し、﹁ノエシス﹂﹁ノエマ﹂などという現象学用語が使われた。.  ︵5︶昭和一四︵︸九三九︶年に岩波書店から出版。序文に﹁その一代の著作たる正法三蔵の内容が、今日我々に負わされた哲学の課題を解くに資する如き現代的    意味を有する所以を一人でも多くの人に知って貰いたい﹂とある。.  ︵6︶昭和一四年に第一巻を出版。生理学者としての立場から、﹁眼蔵の中に述べられている哲理も﹁行﹂の筋道としてのみ意味があるのであって、﹁行﹂を離れて. 層. 一. 2.

(6)  は意味をなさないものである﹂とした。. ︵7︶﹃中世の文学﹄筑摩書房、昭和三〇︵一九五五︶年版。道元の論を根底に据えることによって﹁さび﹂理念を明らかにしょうとし、さらに﹁無常の形而上学−.  道元﹂︵﹃無常﹄筑摩書房、昭和三九︵一九六四︶年︶において、﹁無常なるものの無常性を、徹底させ﹂﹁無常そのもののリアリティにいたりつく﹂そう、とい   う 意 図 をもつ。. ︵8︶岩波講座﹃日本文学史﹄第六巻[中世皿]、昭和三四︵一九五九︶年版。﹁無を媒介にして全土に参入すること、そのことにおいて︼切の価値を﹁元的にとら.  えるという方法は、﹃徒然草﹄より、ほとんど一世紀も早く、すでに道元が確立していたものであった。つまり道元は、後に世阿弥において、芸術方法として完.  成された中世的な弁証法の本質を、明確にとらえたばかりでなく、法語と呼ばれる説示的文章において、早くもそれを典型的に表現しえた﹂という。. ︵9︶﹃文学﹄昭和三六︵﹁九六一︶年六月号。正法眼痛現成公案の示衆をとらえて、﹁いかなる問題を考察するにあたっても、いま一の、ここの、この自己から出発.  して、あるべき、いまの、ここの、この自己の自覚に帰着している。これが、中世の仏教はもとより、中世の生活にも文化にも、主体性を確立し、中世文芸を  して、人間の生きる立場と態度に深化と確立とを得させた原動力である﹂とした。. 第一章  ﹃正法眼蔵﹄の存在論の体系.  第一節 仏教と存在論  存在論とは、文字どおり存在を存在そのものとして考察する理論である。.  哲学の歴史をさかのぼると、アリストテレス﹀﹁聾。邑$︵QQ◎轟∼ωPPuu・員Q.︶において初めて、存在に何らかの条件を. 付けて存在を特定化するということをせず、存在を無条件に哲学の対象とし、この﹁存在である限りの存在﹂を. 扱うものとしての存在論を生み出した。そして、スコラ哲学を代表とするアリストテレス以後の哲学は、何らか. の意味において、完全なるものとしての神は真に存在するもの、実在するものであると考えたように、いわゆる. 一. 一. 3.

(7) 存在論が実在としての存在になんらかのプラスの価値をおくという観点からするならば、無我を説き空を説く仏. 教に、はたして存在論といえるものがあるのかという疑問も起こる。しかし、存在論とは必然的に実在論である. というわけではないし、アリストテレス的な存在論によって仏教をとらえなければならないという理由もない。. したがって、﹁有﹂に積極的な価値を認める存在論だけではなく、逆に﹁無﹂や﹁空﹂に積極的な意味を認めよ. うとする存在論があってもよいのではないかと思う。むしろ、﹁有﹂と﹁無﹂とを超えたところに存在論を摸索 しようというのが私の立場である。.  それではこのような存在論が成立する条件は何か、と考えてみる。まず、それは単に客観的な知識としての存. 在論ではないということである。﹁それが私にとってどういう意味があるのか﹂という存在への問いには、﹁私﹂. 自らが答えなければ意味がなく、それは﹁私﹂による主体的な関わりがなければ成り立たない。そして、同時に. 普遍的なものとして説かれなければならない。それを認めた上で、さらに、そこには一切のものを貫く縁起の自. 覚が求められる。この縁起の法をもっとも端的に表現したものが、﹁これあるが故に彼あり、彼あるが故にこれ. あり﹂︵、︶である。これはまた、無我、無自性、空ともいわれるが、要するに、 一切の存在者において、それ自. 体における、それ自体による存在、すなわち我あるいは実体性を否定することに外ならない。仏教の存在論の根 本はそこにある。.   第 二 節   ﹁生死﹂の意義.  生死について考えるということは、究極のところ、生と死という人間存在のもつ二つの側面に照らされて自己. のあり方を問うことである。そこには、﹁私﹂の生命とは何か、﹁私﹂が存在することの意味は何か、﹁私﹂の死. とは何か、﹁私﹂が生と死の束縛から解放されるとはいかなることかなどの問題を含む。.  現代文明は、自分たちの外部にあるものを限りなく早馬に利用し、人類に大きな快適さと満足を与えてきたこ. 一. 恥.

(8) とは確かであるが、それと同時に、現代の先端医療や都市文明に不気味な影がつきまとうのも事実である。この. 世に生きている人間の快楽や欲望を満足させる方向に発展してきた文明は、その延長線上に生命そのものを操作. し得る技術を手に入れようとしているかとさえ見えるが、その半面、﹁私﹂が生きていること、﹁私﹂が関わっ. ている世界について大事なことを見落し、自ら危機を招き寄せているようにも思える^、︶。.  これに対し、元来仏教は、この世の生と死がすべて苦であるという自覚から出発する︵、︶。その苦は、この世. のすべてが無常であることに気付かず、その生に執着するところがらくる。だから、まずこの世は無常であると. いう認識をもち、この世の生に執着しないことを要求する。そうすることによって、苦は消滅に向かい、解脱に. 向かってゆくという。この視点にたてば、ひたすら生を肯定し、それをどこまでも追求しようとするかに見える. 現代文明は、どこか大きな間違いを犯しているのではないかと考えることもできる。そこで、﹃正法眼蔵﹄の一 節 を 読 ん でみたい。.    一塵をしるものは塵界をしり、一法を通ずるものは万法を通ず。万法に通ぜざるもの、一法に通ぜず。通.   を学せるもの通徹のとき、万法をもみる、一法をもみるがゆゑに、 塵を学するもの、のがれず尽界を学す. るなり。三歳の核児は仏法をいふべからずとおもひ、三歳の弦児のいはんことは容易ならんとおもふは至愚.   なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり。 ︵﹁諸悪輪作﹂﹃道元禅師全   集﹄第一巻、春秋社、三四九頁。傍線は引用者、以下同じ。︶.  道元が、このことばで言おうとしていることは、人は、生とはなにか、死とはなにか、分かったつもりになっ. ているけれども、﹁自分が存在していることの意味は何か﹂﹁ほかでもない、自分の死とはなにか﹂と、真正面. から問うことはしていないのではないかということである。しかし、それが最も重要なことではないのかという 問いかけである︵4︶。.  苛酷な現実、たとえば戦争の最前線にも、強制収容所にも、日常性があり、﹁人間は絞首台にも慣れる︵,︶﹂。. 一. 51.

(9) 被災地では涙も枯れぬうちに生のリズムが回復されてくる。非日常性の最たるものであるはずの死も、葬儀や法. 要、あるいはその準備を通して、我々がいっともなく親しんできた目常世界の中に吸収される。それが人間の現. 実である。目常は、はなはだしく非日常的なものまで、いともあっさり呑み込んでしまう。そういうことを踏ま えてのことばと取れる。. しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり。使也要使なり、明也明年なり。ゆゑに諸仏は.   この通塞に明明なり、この要使に得得なり。この生死の際にくらからん、たれかなんぢをなんぢといはん。.   たれかなんぢを下生空死漢といはん。生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず。生死を.   生死なりと信解すべからず、不会すべからず、不知すべからず。︵﹁行仏威儀﹂﹃全集﹄第一巻、六四頁︶.  生死は抽象的なことでもなければ、遠いところにあるのでもない。日常の起居動作、生活のすべてが行われる. それぞれの、﹁いま﹂﹁ここ﹂こそが生死に対する明確な洞察の場なのであり、そこにおいて生と死と両面に照. されて﹁私﹂のあり方を問うことが、﹁自分が存在することの意味﹂を明らかにする最も近道だ、というのが道 元の主張であるように思える。.  ﹁生死を明らかにする﹂といっても、それは、﹁私﹂の思いとは裏腹であり、﹁私﹂の都合を超えてしまう。﹁私﹂. の生命のあり方そのものを自覚し、その上で﹁生死﹂に意味を見いだすことができるかどうかが問題なのであり、. そのように﹁生死﹂を問うことをしないならば、﹁私﹂は﹁私﹂であるとさえいえないのではないかというのが、 この︸節についての私の読みである︵、︶。.  第三節﹃正法眼蔵﹄の思想的骨格.  ﹃正法眼蔵﹄全篇九五巻をかりに分類するとしたら、どういう項目を立てるのがよいかについて、岡田宜法﹃正 法眼蔵思想大系﹄︵法政大学出版局、 一九五五︶に次のような説がある。. 冒. ひ.

(10)   ①仏教観 ②心性観 ③行持観 ④坐禅観 ⑤禅戒観 ⑥大悟観 ⑦仏祖観 ⑧信仰観.   ⑨清規観 ⑩経典観 ⑪仏陀観 ⑫因果観 ⑬生死観 ⑭嗣法観 ⑮時空観 ⑯雑部.  これに対して、この分類には、巻が存在するのでその内容に基づき逆に項目を設けたかと見えるものもあり、. しかもそれらの項目の相互関係がどうなっているのか、巻と巻との思想的関連が明らかでないとして、丸山嘉信. ﹁文学としての正法眼蔵﹂︵﹃徳島大学教養部紀要、人文社会科学第W巻﹄、一九六九︶は、次のような合計=一 論に分け、項目につながりをもった一つの体系組織としてとらえようとした。.   一、教義部  ①本体論 ②心性論 ③存在論 ④時問論 ⑤因果論 ⑥生死論   二、実践部  ①弁道論 ②戒律論 ③清規論 ④坐禅論   三、雑説部  ①外典宗派論 ②嗣法伝衣論. 本体論⋮現成公案、仏性、即心是仏。8.  これに基づいて、教義部門から実践部門への関連性を分かりやすく示したのが、次の体系図である。. ︵教義蕪∵存在∴⑤④惣. 心性論⋮即心是仏、心不可得、三界唯心、法性、二心説性08. 時間諭⋮有時、仏性、海印三昧、現成公案。ε. 存在論⋮現前公案、仏性、有時、虚空、山水経、諸法実相。ε.                    ↑. 因果論⋮深信因果、三時業08. 生死論⋮全機、生死、現成公案、行仏威儀、身心学道Φ言. :−−−−−−−−−:::;−−−:−:−−:−:⑥生・藩論丁. ︵実践︶⑩坐∴額∵錘論.  ここでは、﹃正法眼蔵﹄がもっているさまざまな論点の関連性に注目して、それが一つの流れをなすものとみ. ている。そして、﹁生死論﹂は、教義部門から実践部門への橋渡しとしての性格を与えられている。. 一. 処.

(11)  ①本体論︵,︶②心性論亘から③存在論に至る認識論、つまり、宇宙、世界の本体を論じ、それと主観、意識と. の関係を明らかにすることは、認識論であってそのまま生死の問題を含めた存在論とならねばならない。そして、. そこにおいて問題となる生死の相における存在は、時圏を抜きにして考えることができず、その時間存在あるい. は存在時間が、他でもない自らの生死に結びつくとき、因果の法の分析に基づいた存在論とならざるをえないの である。.  したがって、右図のような、①本体論←②心性論←③存在論←④時間論←⑤因果論←⑥生死論という一方向へ. の展開としてのみ見ることは、思考の流れをはっきりさせる点では効果をもつかもしれないが、充分その思想構. 判 一. 一. 一. 一. ﹁. [. ︻ 一 一. 一. 認識論. ③下穿.    ④岡闘圃. ↑. 4’  ヲ/. 、︷⑤馴. 存在論. 造を示しえているとは言いがたい。そこで、先の系統図を次のように書き換えてはどうかと考える。. 教義  ↑. 実践. ↑.  つまり、認識論は存在論であらねばならず、時間論は、時間と存在が別々に論じられないことから、そのまま. 存在論となり、また一切の存在は関係性の内にあるという縁起の法をはずして仏教思想を語れない以上、因果論. 甲. 匙.

(12) もまた存在論に含まれなければならない。そして、こうした世界認識の骨格となるべき存在論を問題化し、それ. を自らに引き寄せる根本こそ生死論であり、認識論、時間論、因果論すべてに深く関わりつつ、さらにすべてを 引き受けて実践倫理への展開を導くものこそ、この生死論であるといえる。.  ここに、本体論、心性論とともに認識論の枠の中に入る存在論のほかに、認識論、時間論、因果論、生死論す. べてを包み込み、あらゆる論点を含みながらたえず外に開いている存在論が考えられる。前者は合理性を求める. ﹁知﹂によって立てられる存在論であるという性格が強いのに対して、後者は単なる経験的な感覚知や合理性を. 追求する知にとどまらず、そこに﹁私﹂の生死を繰込むことによって、﹁私﹂が主体的に関わっていってこそ成 り立つ存在論であるともいえる。.  そこで、これら認識論、時間論、因果論が、﹁生死﹂を通してこの新しい存在.論とどういうつながりをもつの かを、以下の章において考えることにしたい。.  ︵1︶﹃雑軍票経﹄︵﹃大正大蔵経﹄第二巻、六七頁上︶に﹁高鷲故彼有、出穂故彼起⋮此無故彼無、此滅故彼滅﹂、﹃中豊含経﹄︵﹃大正大蔵経﹄第一巻、七二三頁下︶.   に﹁因此有彼、無此無彼、此生写生、此話調滅﹂とある︵藤田宏達﹁原始仏教における因果思想﹂﹃仏教思想3 因果﹄平楽寺書店、一九七八、一〇六頁︶。.  ︵2︶﹁生命倫理﹂﹁エコロジー﹂﹁末期医療﹂など、現代文明のなかで﹁生命﹂が直面している問題群を取り上げる﹁生命学﹂の分野がある︵森岡正博﹃生命観を闇    いなおす ﹄ 筑 摩 書 房 、     九 九 四 ︶ 。.  ︵3︶仏教で生死という場合、それはサンスクリット語の墾ヨ。。餌﹃角の訳で、輪廻のことである。つまり、生まれ変わり死に変わりして止まることがないという意味で.    ある。生死は迷いの世界である︵﹁生死の長夜﹂﹁生死の闇﹂﹁生死の苦海﹂︶。衆生が善悪の業を因とし煩悩を縁として、欲望に支配される命を与えられる時は、.    寿命や肉体が限定されるので﹁分殺生死﹂といい、菩薩などは業や煩悩の支配を受けないので、﹁変易生死﹂という。また。母胎に宿ってから﹁生を終わるまで.    を二期生死﹂といい、 ﹁刹那のうちにも、生死を繰り返しているとされるところがら﹁刹那生死﹂といういいかたもある︵﹃岩波仏教辞典﹄、一九八九。﹃仏教    大事典﹄、小学館、 一九八八︶。.  ︵4︶ジャンケレヴイッチ≦隅島二手 U三訂ぎ断§ 仲沢紀雄訳﹃死﹄︵みすず書房、一九七八、一五頁︶は、﹁学ぶべきことをすでに前もって知っていながら学ぶとは、. 層. 哺. 9.

(13)   以前には理解せずして知っていたことを、身をもって生きた知識として、感動の熱にもえ、強烈に情熱的に身に負った具体的認識として突如知ることだ﹂とい   ”つ。. ︵5︶コシーク訳聖。一客島涛花崎皐平訳﹃具体性の弁証法O圃二子↓斎二8猟。昌ζo一調﹄︵せりか書房、 一九六九、九一頁︶. ︵6︶ハイデッガーζ曽ぎ.寓〇三〇〇。o。o﹁﹃存在と時間○。Φぎ§匹No蓋では、﹁おのれの死、おのれ自身の非力さを引き受けて実存しようとする、おのれ自身の固有なあり.   方への聴従と覚悟﹂が、﹁現存在﹂の﹁本来的な﹂特徴である︵渡辺二郎﹃ニヒリズム﹄東京大学出版会、一九七五、二〇五頁︶。また、小浜逸郎﹃癒しとして.   の死の哲学﹄︵王国社、 ﹁九九六、﹁=七頁︶は、﹁死は、実は人間的な生の要素であり、条件なのである。私たちの生は死の事実に見据えられて怯えているだ.   けなのではなく、むしろ生がもっている活力の側面もまた、その具体的な発揮の方向性を死の自覚によって与えられる﹂という。. ︵7︶西洋哲学では、神の概念そのものから神の存在を推論しようとする証明のことを本体論的証明というが、ここで本体論という場合、現象の根本をなすものとし  ての実体を認めるか否かという闇題に対して、その妥当性を問うものといってよいだろう。. ︵8︶もともと古代インドの哲学諸派に実我論を取るものがあり、これに対して仏教は無我論を唱えた。前者が外界万有、有形の物質をもって原理を立てたのに対し.   て、後者は内界心性をはずして真理は成り立たないとした。仏教は、物心二元論と、唯心=兀論に分れ、この唯心一元論は、唯識のように﹁相対的にして人々.   各々の心性につきてその作用を論じ﹂るものと、華厳・天台のように﹁絶対的にして物心世界の本体につきてその実在を論﹂じるものがある︵井上円了﹃新校   仏教心理学﹄続群書類従完成会、 一九人二、六頁︶。. 第二章 認識論と生死.  第一節 無我説による実体論の否定.  認識論。窟。。8拍子δ竈︵英︶ 閏昂2艮三。。艶8↓δ︵独︶ 魯蜂か§。δ◎。δ︵仏︶といえ.ば、存在論と並んで西洋哲学では. 重要な分野とされているけれども、認識論という術語自体が、意外に新しい。﹃哲学事血ハ﹄︵平凡社︶によれば、. ﹁. 層. 10.

(14) ﹁広義の知識論、知識哲学といわれるべきものは古代ギリシアや中世の哲学にも含まれていたが、哲学の独立の. 部門としての認識論は近代哲学の産物であり、とくにロック﹄oぎい。。冨︵一αωP∼一声O轟︶によって自覚的に問題とされ. はじめた﹂とあり︵、︶、このことから考えても、認識論ということばの定義は、仏教思想において問題にする場. 合、西洋哲学のそれとは異なる面をもつ。仏教の認識論は、西洋の認識論が科学、科学哲学と緊密に連繋するの に対して、それよりもはるかに範囲が広い︵、︶。.  前章の体系図において、本体論、心性論、存在論を認識論に含めることにしたが、ここでは、人間の認識はい. かにして成立するかという成立の問題、それがはたして普遍妥当的に適合するかという妥当性の問題、その認識 の真理性の問題などについて、﹃正法眼蔵﹄から何が読み取れるかということを考える。.    万法・諸社ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる.   諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。⋮かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬると.   いひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に思入するなり。この. ほかは真実にあらず。この性あらはさざるほど、三界・六道は競起する、といふなり。これすなはち先回外 道が見なり。︵﹁即心是仏﹂﹃全集﹄第一巻、五三頁︶.  仏法には本より身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地、おなじくしれるところ、あへてたが.   ふべからず。⋮性と相をわくことなし。しかるを、なんぞ身蛇心常といはむ、正理に背かざらむや。しかの.   みならず、生死はすなはち浬繋なり、と覚了すべし、︵﹁弁道話﹂﹃全集﹄第二巻、四七三頁︶.  身体の相は滅んでも意識の根本は常住なりとする﹁先尼外道﹂の説に対して、道元はこの人間の精神的本性を. 実体となす形而上学的主張を誤りとなし、﹁身﹂と﹁心﹂、﹁性﹂と﹁相﹂を二元的にとらえることを否定する。.  このように、﹁身滅心尽﹂論を拒絶するところに﹃正法眼蔵﹄の生死に対する考え方がよく現れている。こう. した身と心、相と性を分ける身心二元論は、生きている間は辛くとも死ねば楽になるという考えや、この世の生. レ. 4.

(15) 死を厭い、あの世の浬繋に執着することにつながる。これは、生のみを肯定し死は否定するという見方と裏表の. 関係にある。いずれにしても、これらのことは、いまなにをなすべきか、いまなにができるのかという根源的な. 問いを遠ざける。身体のみの生も、心だけの生もありえず、生死は身心一如のうちにあると考え、生死の苦から. の解脱を、遠い未来の浬繋のうちに求めるのではなく、﹁いま﹂﹁ここ﹂に目を向けようというのがその主張で ある。.  中村元﹁インド思想一般から見た無我思想﹂︵﹃自我と無我﹄、平楽寺書店、︸九六三︶によれば、﹁仏教の根. 本思想は無我説である﹂といわれている。仏教においては、﹁何らかの意味で実体的原理である我、たとえば霊. 魂のようなものを想定することを拒否した﹂。そうしてこのような哲学的立場に立って、対象的な何ものかを. ﹁我﹂あるいは﹁わがもの﹂と算する執着を離れることをその実践目標とした。この﹁我﹂の否定という仏教の. 根本に関して、道元の入宋当時、臨済禅の巨匠とされた大豪宗果は、心と性とを分け、性を心の本体、心を性の. 現象的作用︵意識作用︶とし、心も性も二つとも投げ捨てることによってはじめてさとりの境地にいたると言っ た。これに対して、道元は次のように批判する。.    この道取、いまだ仏祖の練網をしらず、仏祖の列辟をきかざるなり。これによりて、心はひとへに慮知念.   覚なりとしりて、慮知念覚も心なることを学せざるによりて、かくのごとくいふ。性は澄湛寂静なるとのみ.   妄煙して、仏性・法性の有無をしらず、如是性をゆめにもいまだみざるによりて、しかのごとく仏法を辟見   せるなり。︵﹁説心説性﹂﹃全集﹄第︸巻、四五〇頁︶.  われわれが⋮本の木を見るとき、自然的態度で見れば、その木はいわゆる外部知覚の対象として外界に属する. が、意識の問題としてみるならば、そこにあるのは知覚内容・表象内容としての木であって、意識に超越的に存. 在するものとしての木なのではない。ここには、素朴にものを見る自然的態度から、見ること自体を問題化する. 反省的態度への移行の問題がある。﹁心﹂を﹁慮知念覚なり﹂と固定して見る限り、﹁心﹂そのものが主帰化さ. 弓. ㍗.

(16) れることはない︵三。.  これは認識論の問題であるが、﹁心﹂による知覚と判断の問題というべきかもしれない。素朴な見方からすれ. ば、われわれは知らず知らずのうちに、心の中に外界に対する意識内容を持ちながら、それを外界そのものの如. くに見ている。しかし、この意識内容を心に対立させて考えるとき、これもまた広い意味では意識の対象あるい. は客観となる。この場合、心は主観と呼ばれることになる。これは意識内容に対する意識作用の側面である。.  ところで、仏教が﹁心﹂についてどのように考えてきたかについて、勝呂信静﹁大乗仏教における心理学﹂. u座仏教思想﹄第四巻、理想社、 ︸九七五、二五〇頁︶によれば、﹁心の問題は、断迷開悟の実践目的を達. ︵﹃. 成するためであるから、それは現実と理想の両方の心にかかわっている。原始仏教以来、仏教徒は心の問題をこ. の両面において追求してきた。現実の心に対する追求が分析的な研究として発展し、小乗アビダルマの心相論と. なった。アビダルマで論じているのは、主として迷いの要素を含む現実心であって、それ故その学問は分析的、. 客観主義的であって、科学的な心理学といえるものである。これに対し、他方では理想の心を追求する方向があ. り、それは心を純粋の主体としてとらえようとするものであった﹂。仏教のなかでも﹁心﹂を﹁現実﹂に重心を. かけてみるか、それとも﹁理想﹂に重心をかけてみるかでその思想内容がちがってくるのは、認識の主観性をど. うとらえるかにその原因がある︵、︶。私見によれば、道元もまた﹁三界唯心﹂巻を残したが、必ずしも﹁理想心﹂. を強調したとはいえない。心を離れて外界に存在していると一般に考えられているものも、実は心の上に現れた. 表象に過ぎないということが根本にあるには違いないが、むしろ、その﹁理想﹂も﹁現実﹂も超えたところを見. ているように思える。それは﹁無我説﹂の本来の立場に戻ろうとしているといってもよいだろう。. 第二節﹃正法眼蔵﹄の心. “1. 餌.

(17)   第一項 意識作用としての心、意識対象としての心.  ﹃正法眼蔵﹄には﹁三界は心なり、山河大地、日月星辰これ心なり﹂とあり、また﹁三界唯心︵,︶にあらず、. 法界唯心にあらず、三舞瓦礫なり﹂︵身心学道︶とある。一見矛盾した表現に思えるが、これは具体的な︵つの. 立場を、抽象的に二つの表現に分けたに過ぎない。心といい、境といっても、また主観といい、客観といっても、. 決してそれらが独立に存在するわけではない。この﹃正法眼蔵﹄の表現を説明するのに、秋山範二は﹃道元の研. 究﹄︵岩波書店、一九三五︶においてフッサール団α§§α¢⊆器。﹁ス一。。いり乙OQ。。︶の現象学用語を用いた。﹁ノエシス﹂. と﹁ノエマ﹂である。これは意識の本質構造を表わすものであり、意識作用が単なる事実過程ではなくて、志向. 的体験であり、有意味的作用であるとするところがら、意識の機能的、作用的側面をノエシスといい、これに対. して、対象的側面をノエマという。ノエシス、ノエマは意識のもっとも具体的な相関者で、ノエシスはかならず. ノエマを有しノエマはかならずノエシスによって思念される。これを踏まえて、秋山は次のようにいう。﹁現象. 学においてはこれは単なる純粋意識の本質構造を示すにすぎないのであるが、道元の三界唯心観における心と境. とはかくの如く制限せられたる世界の本質的二面ではなく、この制限を取り去った自由な自然的なる人間の世界. における本質的二面である。山川草木といえば自然人の見る山川草木であり、踏壁瓦礫といえば同じく意識超越. 的なる旛壁瓦礫である。しかしかくはいうものの、現象学におけるが如く超越的存在を強いて括弧に入れると入. れないにかかわらず、素朴的、自然的立場を止揚して一切の存在をノエシス・ノエマ的構造において見るとき、 結局においてこれと同 見地に立つものと言いうるのである。﹂︵前掲書、 一〇〇頁︶︵,︶.  この意識のノエシス・ノエマ的構造が﹃正法眼角﹄においてどう現れているかについて、具体的に見ていきた い。.    爾時初祖、謂二祖日、汝心外息諸縁、内心無喘、心如矯壁、可以入道。二身種々説心説性、倶不証契。︸. 日忽然省得。果白初祖日、弟子此回始息諸縁也。初祖誤認已悟、更不窮詰、只日、莫成断滅否。二曹日、無。. 塩. d.

(18)   初祖日、子作磨生。二祖日、蝶々常知、故言之不可及。初祖日、此乃吉上諸仏諸祖、所伝心体、粗粗既得、   善自護持。︵﹁説心説性﹂﹃全集﹄第一巻、四五一台目.  初祖達磨が学道の方法として﹁外諸縁を息め、内心喘ぐこと無く、心墨壁の如く﹂あるべきことを二相慧可に. 教えたのに対して、十二は﹁種々に点心説性﹂したものの得るところがなかったが、﹁一日忽然省得して、始め. て諸縁を息む﹂ことを得た。﹁外息諸縁﹂といえば、 一切の対象と絶縁して意識作用を無くするかのようにみえ. るが、そうでないことは、慧可の言葉に対して達磨が﹁断滅を成すこと莫きや否や﹂と闘いていることでわかる。. 諸縁をやめるということが決して意識作用の断滅を意味しないことは明らかである︵,︶。外諸縁をやめることに. よって外に対する自由を獲得し、もはや内心の惑乱を受けることはないが、’しかし、だからといってその場合意. 識内容が空となって荘然自失の状態に入るのでもなく、心の働きはそれがためにかえって明澄を加え、知るべき は﹁了々﹂として知っているというのである。.  ﹁慮知念覚も心なる﹂ことを主張している道元が、素朴的な意義における心作用を否定しないことは明白であ. る。大士宗果が、境にとらわれ対象によって限定された心理作用がいたずらに妄想煩悩の所縁となることを嫌っ. てこれを否定し、いわゆる無念空寂の中に道を求めるべきことを主張したのに対し、彼は意識作用は心の正常な. 作用と見、対象に接してこれを表象し、これに何物かを感じ、思惟し、意欲する働きは決して否定すべきもので. はないし、否定しうるものでもないとした。翼果は慮知念覚の心を否定しようとすることで、かえってそれにと. らわれ自由を喪失している、心作用は避けるべきものではなく、ただそれをありのままに認め、さらにあるべき. ように働かせるのがよいと考えたのである。それは、﹁三界唯心﹂とどうつながるのだろう。. 唯心は一二にあらず、三界にあらず。出三界にあらず、無二錯謬なり、有慮知念覚なり、無慮知念覚なり。. 二型瓦礫なり、山河大地なり。⋮生死去来、これ心なり。年月目時、これ心なり。夢幻空華、これ心なり、. 水沫泡焔、これ心なり、春花秋月、これ心なり、造次顛沸、これ心なり。しかあれども、殿破すべからず、. 51. d.

(19)   かるがゆゑに、諸法実相心なり、三二与仏心なり。︵﹁三界唯心﹂﹃全集﹄第 巻、四四六頁︶.  慮知念覚を心とする立場は、ただこれだけだと常識的な見方に一致する。しかし、﹁三界唯心﹂では、およそ. ありとあらゆるものが﹁心﹂としてとらえられている。ここには、意識の世界を心となすと同時に、意識の対象. の世界も心となすという見方がある。これは、﹁心﹂が種々相に変化するというのではなく、種々相がすなわち. ﹁心﹂そのものなのであって、それ以外のものではないとされている。それは、心の内にあるのでもなく、心の 外にあるのでもなく、もはや内外の区別はない︵,︶。.  まず、心は誤謬の有無にかかわらず、意識活動︵慮知念覚︶の如何にかかわらず、一切を貫いているが故に、. とりとめもなくありきたりの目常的存在︵旛壁瓦礫︶や人間を取り巻く環境世界︵山河大地︶もまた心としてと. らえられる。さらに、生死をはじめ、人問や万物の栄枯盛衰、あるいは時間的推移もまた心とされる。しかし、. そのように考えると、心は壊れ、破れるように思えるけれども、そうではない。心とは諸法実相心であり、唯仏 与仏心であるからである。.  このように、生死にかかわるすべてのものが心なのである。.    あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば.   不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。目月星.   重心は、日月星辰のみなり。さらに、きりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに、.   平なし、悟なし。面壁瓦礫心は、旛壁瓦礫のみなり。さらに、泥なし、水なし。四大五藍心は、四大五藏の   みなり。︵﹁即心是仏﹂﹃全集﹄第︸巻、五七頁︶.  矯壁瓦礫から日月星辰にいたるまで、自然界の一切のものを心となし、四大五角︵地・水・火・風と色・受・. 想・行・識︶を心となすことによって存在となし、生死去来を心となすことによって存在の変化をも直ちに心と なす。. ひ. 4.

(20)  自然的態度においては精神に対立するものとして厳然としてある存在を直ちに心となすからには、物心二元的. 対立を越えて、素朴に見られた物心世界が統一される。ここには、自然的態度に括弧を施す根源的︵ラディカル︶. なものの見方がなければならない︵、︶。そして、そこに見えてくるものが問題なのである。.    しばらく山河大地・日月星辰、これ心なり、この正当急歴時、いかなる担任か現前する。山河大地といふ.   は、山河はたとへば山水なり。大地は此処のみにあらず、山もおほかるべし、大須弥・小須弥あり。⋮万般.   なりといふとも、地なかるべからず、空を地とせる世界もあるべきなり。日月星辰は人天の所見不同あるべ.   し、諸類の所見おなじからず。態慶なるがゆゑに、 心の所見、これ一斉なるなり。これらすでに心なり。. ・この生死をよび生死の見、いつれのところにおかんとかする。向来はただこれ心の︸念二念なり。一念二.   念は一山河大地なり、二山河大地なり。山河大地等、これ有無にあらざれば、大・小にあらず、得・不得に.   あらず、識・不識にあらず、悟・不悟に変せず。︵﹁身心学道﹂﹃全集﹄第一巻、四六頁︶.  山河大地といっても、山にもいろいろあり、川にもいろいろあり、地にもいろいろある。それぞれ相異なって. 定まるところがない。すでにそれが心であるからには、それは内なるものとも外なるものともすることはできな. い。どこかから来たものとも、どこかに去るものともいえない。生死と見るものも、生死そのものも、すべては. ただ心のあの刹那この刹那のことにすぎなくなる。あの刹那が山河大地であり、この刹那が山河大地であるとい うのが道元の見方である。.  しかし、これは、生死をはじめとして、 一切の認識の対象が主観の観念的所産にすぎないといっているのでは. ない。ここで大切なのは、心は山河大地の原因なのでもなく、︼方が他方から派生したのでもない。山河大地は. 主観にとって絶対の事実なのであり、そういうものとしてとらえられた限りでの山河大地なのである。したがっ. て、山河大地は、山河大地として見るとき、その厳然たる自己存在性を持つものとされる。それは単に観念とし. ての山河大地なのではなく、まさしく矯壁瓦礫そのものであることをいっている。このような対象の世界をノエ. ㍗. d.

(21) マとしての心とすることにしよう。そうすると、﹃正法眼蔵﹄の﹁三界唯心﹂は、このノエシスとしての心とノ. エマとしての心、つまり意識作用としての心と、意識対象としての心の両側面を自覚的にとらえ、それを踏まえ た表現であることをここで確認しておきたいと思う。.   第二項  存在としての心.  ﹃正法寒釣﹄の心にノエシス・ノエマ構造が見られるとはいうものの、それが意識の分析にとどまるものでな. いことはいうまでもない。また、﹁三界唯心﹂ではあっても、﹁それ、三界は、ただ、心一つなり。心もし安か. らずは、象馬七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし︵、︶﹂と書いた鴨長明が見ていたものとは違うだろう。そ. れは、心のあり方を問題にするのにとどまらず、存在そのものでなければならないからである^、︶。    旛壁瓦礫心は、旛壁瓦礫のみなり。︵即心是仏︶    唯心の道得あり、いはゆる鷹壁瓦礫なり。︵行仏威儀︶    僧問、如何是古仏心。師云、鷹壁瓦礫。︵古仏心︶.    心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、腰細瓦礫、石頭大小、︵三七品菩提分法︶.  このように、﹃正法眼蔵﹄のなかには、﹁心にほかならない縞壁瓦礫﹂といった表現が繰り返し出てくる。と ころが、﹁仏性﹂の巻の最後の部分は次のような言葉で結ばれている。.    さらに仏性を下取するに、柁泥滞水なるべきにあらざれども、瘤壁瓦礫なり。向上に拝取するとき、作麿   生ならんかこれ仏性。還委悉歴。三頭八腎。︵﹃全集﹄第一巻、四四頁︶.  ということは、心は藤縄瓦礫であり、測角瓦礫は仏性であるということになる。藤縄瓦礫を媒介として、心と. は、すなわち仏性にほかならないといえる。ただ、このようなものは、ただ単に砂壁瓦礫といわれるだけで充分. なのではなく、﹁それどころか、胃壁瓦礫というひとつの実体的なものへと固定されたとたんに、心はすでに心. 匙. d.

(22) ではなく、仏性はすでに仏性ではなくなる︵泥︶﹂。.  一般に仏性とは、刻々に新しい姿をとりながらあらわれる世界に、その根拠を与えているものとも考えられて. いる。この心はただ心、一心といわれるほか、心性︵、︶、真如︵.︶など、さまざまに呼ばれている。たとえば、﹃大. 乗起信論﹄には、次のようにある。.    心差響者。即是一法界大総相法門膣。所謂心性不生不滅。 一切諸法唯依妄念而有差別。若離妄念則無一切.   境界之相。是故一切法摺本已來。離言説相離名字相離心縁組。畢尭平等無有悪寒不可破壊。唯是一心故名眞.   如。以一切言説假名無論。但随妄念不可得故。言眞尋者。亦無有相。謂言説之極因言善言。此眞如髄無有可.   遣。以一切法悉皆眞故。亦無早立。以一切法皆同日。當知一母法不可説不可念故。名為眞如。︵﹃大正大蔵   経﹄第三二巻、五七六頁上︶.  これによれば、不生不滅の心の本性は、 一切の法界に遍く存しており、平等にして変異のない一心である。す なわち、﹁一切諸法、万象森羅、ともにただこれ一心﹂ということになる。.  大乗仏教では、心・意・識の三つの名を挙げるとともに、それらとは別に、如来虚心、自性清浄心の名のもと. に、いわば﹁さとり﹂の心の根拠ないし内容が説かれている。さきの三種心が生滅をくりかえす現象心であるの. に対し、後者は現象心の奥にある不生不滅の真実心であり、実体としての性心であるとさえいわれている。この. 不生不滅の自性清浄心なるものが、﹃大乗起抗論﹄と密接な関係にあることはいうまでもない^痴︶。.  また、これが﹃起評論﹄に先立つ﹃華厳経﹄では、﹁三界所有是一心﹂︵﹃大正大蔵経﹄第一〇巻、 九四頁上︶. と表わされており、客観界の諸事象に実在性を認めず、三界のあらゆる現象はただ一心から現れ出たものである. とする。つまり、三界に属するものは、すべて唯心であり、一心である。それはさらに、清浄心であると解され ていくことになる︵旧︶。.  しかし、これに対し、﹃正法眼蔵﹄には次のようにある。. 餌. 4.

(23)  釈迦大師道、﹁不如三界、見於三界﹂。.  この所見、すなはち三界なり、この三界は、. 三界は、初・中・後にあらず。出離三界あり、今. 所見のごとくなり。三界は、本有にあらず、三界は今有にあ. らず、三界は、新成にあらず、三界は、因縁生にあらず。.   此三界あり。これ、機関の、機関と相見するなり、葛藤の、葛藤を生長するなり。今此三界は、三界の所見.   なり。いはゆる三界は、見習三界なり、見於三界は、三野三界なり、三界見成なり、見成公案なり。よく三.   界をして発心・修行・菩提・浬桑ならしむ、︵﹁三界唯心﹂﹃全集﹄第﹂巻、四四四頁︶.  ここには、必ずしも三界の現れ出る根拠としてのコ心﹂が前提されているわけではない。釈迦の﹁三界の三. 界を見るに如かず﹂、つまり、主体的な自己認識こそ重要であるという意を受けて、三界とは見られている通り. なのであるという。それは、すでに二心﹂として予めあるものなのではなく、﹁今此の三界にある﹂のであり、. ﹁機関の機関と相見﹂するのである。それは、はたらきがはたちきと相会うのである。そのはたらきの現成にお いて、その見るということにおいて、三界を三界であらしめるのである。.  確かに、﹁一切諸法、万象森羅ともにただこれ一心﹂︵弁道話︶とあるように、心に︸元化されはするけれど. も、けっしてこれは単なる唯心論ではない。 一切の存在を離れて心はなく、心をほかにして一切の存在はないと. いう仏教の根本を語っているに過ぎない。したがって、﹃正法眼蔵﹄においては、この﹁一心﹂よりもむしろ、. ノエシス・ノエマ構造をもった心を存在そのものとしてしまう﹁機関と機関の相見﹂、あるいは、はたらきの現. 成にこそ大きな意味がある。ここで﹁私は在る﹂というとき、﹁私は現在に作動する﹂というべきであって、﹁三. 界は初・中・後にあらず﹂とあるように、時間的に継起する世界ではない︵.︶。その現在は㎝つの時間位置とい. うよりは、もっと根源的なものである。我々が日常﹁慮知念覚﹂としてもつ見聞知覚、思慮分別など知情意のは. たらきを、そのまま認めながら、そして生かしながら、道元がノエシス・ノエマを貫いて見ようとしたものは、. 心の名で呼ばれるけれども、それはもはや常識的な見方では心を遥かに越えてしまうといわねばならない。. ぴ. 2.

(24) ︵1︶ロックによって提起された問題︵﹃人間悟性論﹄ぎ財器塁Oo琴。ヨぎ。。頃ロ同憂da臼欝巳ぎα。一ひ。。ゆ∼8︶はカントぎ已彗59溶嘗ス二二∼あ宝︶において大成された︵﹃純.  粋理性批判﹄捧五時ユ①﹃﹁o言自<。ヨ琶⇒ 一刈。。こが、それはおもに認識の根拠付け、権利付けを問題にした。この傾向は萩カント派に受け継がれ、認識論即哲学とも.  言うべき時期をつくったが、しかしそれ以後の現代哲学の認識論は、心理主義的認識論、生物主義的認識論にみられるように、科学・科学哲学と緊密に連繋し   な が ら 展開した。. ︵2︶﹁唯識や仏教論理学では、微細な点に及んで、認識の問題が論ぜられている。しかし西洋の﹁認識論﹂に相当する言葉がない点で︵たとえば英語からサンスク.  リット語を示すモニエル・ウイリヤムスの﹃梵英事典︵。。マζ8す≦葭︷肇μ穿σq扉7。。聖的ζ謬︼9。↓δ昌超︶﹄にも、英語の。℃巨。∋oδ墜の項目はない︶、インド哲学の.  認識論が、西洋哲学と異なった類題点をもっていることが知られる。とくに仏教の認識論は﹁無我説﹂との関係において認識を論ずるために、複雑な構造とな  っている﹂︵平川彰﹁原始仏教の認識論﹂﹃講座・仏教思想﹄、第二巻、理想社、 ︸九七四、 ﹁五頁︶。. ︵3︶﹁私は通常の場合、何かが状況的なその都度性︵討を。卍要魯︶において私に現れてくるパースペクティブには関心を持たず、そこで現れるものそれ自身に関心を.  もつ。だから、いわば私の注意の﹁主題﹂を形成するのは、ある対象の与えられ方の多様性ではなく、対象それ自身である。私はなるほど何らかの仕方で対象.  を意識している。つまり対象は私に何らかのパースペクティブ的な現れ方において与えられることができる。しかし、この現れ方は非主題的なままにとどまる﹂.   ︵クラウス・ヘルト霞賃諺=o乙小川侃編訳﹃現象学の最前線Z窪。>穏①餐。ユ段℃﹃80ヨ窪90α。騨。﹄愚心書房、 一九九四、二六五頁︶。. ︵4︶﹁識︵六識︶が認識主観であるとは機能の面から言うのである。了別の作用を、そのまま主観というのである。この﹁識﹂の了別にたいして、知る作用として.  は別に﹁慧﹂がある。﹁慧﹂はパンニャi︵℃鎌鱗も﹁蕊部Vで﹁般若﹂と音訳する。﹁般若﹂はあるがままに対象を知る智慧である。識が無我になったとき、識が慧  の活動と共同して、正しい認識を成立せしめうるとする﹂︵平川彰﹁原始仏教の認識論﹂前掲、四八頁︶。. ︵5Vこの句は華厳経十地品の第六現前地の経文、特に八十華厳の﹁三界所有、唯是一心﹂に由来するもので、﹁心外無別法﹂と対句をなす。三界︵欲界・色界・無.  色界︶の現象はすべて一心からのみ現れでた影像で、心によってのみ存在し、心を離れて別に外境が存在するのではないという意味である︵﹃岩波仏教辞典﹄、  三〇九頁︶。. ︵6Vこれに続けて、﹁ただしいて純粋意識の城砦にたてこもらないだけ、道元の三界唯心観は少なくともフッサールの現象学より自由な立場にあるものといえよう﹂.  とある。しかし、この見解は、最近のフッサールに関する研究も視野に入れれば再検討の余地がある。フッサールの問題意識は﹁反省における非反省的なもの﹂. 一. 一. 21.

(25)  にまで届いており、それを受け継いだメルロー・ポンテイζき匿。ζ巴窪ロも05蔓︵一80。∼9︶は、この両義的事態を存在論的次元まで深化させていく︵斎藤慶典﹁時  間と存在をめぐって﹂﹃現象学の現在﹄世界思想社、﹁九八九、九六頁︶。. ︵7︶﹁フッサールは認識体験それ自身の志向的工作を解明し、その解明作業を通して意識作用の相関者としての対象の与えられ方、すなわちその存在の意昧と妥当.  性を問い明そうとしたが、その方法が現象学的還元であり、現象学的判断中止︵エポケ!﹀である。この認識論的還元によって、超越的なものの実在と妥当性.  は認識論的無効の符号を付され、遮断される。しかし、これは単なる遮断の方法ではなく、自分自身の明証的な意識体験の内在領域へ、すなわち絶対的存在と.  しての超越論的主観性へ、われわれを連れ戻す方法である。したがって、エポケーという態度変更の中では侮ものも失われはしない﹂︵立松弘孝︻現象学の方法﹂   ﹃講座現象学②現象学の基本問題﹄弘文堂、︸九八○、三六頁︶。. ︵8︶﹁志向的分析は﹁構成的﹂分析である。それは、所与のうちに含蓄され、それに意味を付与する潜勢力を顕現化し、存在物がそれ自身において存在するありさ.  まをはっきりさせ、もともと以前すでにそこにあったものを解き放つので、この分析は根源的なものの記述であると同時に、根源的なものの産出である﹂︵ゲル  ト・プラントOoaロコ﹁碧ユ新田義弘・小池稔訳﹃世界・自我・時間≦o罫♂ず彗にN。⋮畠国文社、 一九七六、七三頁︶。. ︵9︶フッサールは﹁哲学は本質的に真の始原︵﹀昌ぎσ。o>についての、根源a冨◎把昌σ。o>についての学であり、万物の根元の学である。ラディカルなものについての学..  問は、その方法においてもラディカルでなければならず、またあらゆる点においてそうでなければならない﹂と言明し、﹁哲学のラディカルな新たな基礎付け﹂  を目指した︵立松弘孝、前掲害、九頁︶。. ︵P︶鴨長明﹃方丈記﹄安良岡康作訳注、講談桂学術文庫、一九八四、二〇一頁. ︵11︶﹁存在ということのあらゆる意味は、もともと、・内世界的な存在をさしているが、しかし絶対的な主観性の場合には、それ自身が内冥界的ではなく、むしろ世.  界と内世界的な相互性の根源であるような﹁存在﹂を意味している。現象学的な根源の悶題性の完全な意味は、このような連関においてはじめて、あらわにな.  る。その意味とは、主観性とその指向的な能作が、対象の認識の可能性のア・プリオリな制約であるだけではなく、同時に、対象そのものの可能性の制約であ.  り、具体的にいえば、諸々の対象のすべての対象性、つまり、全体としての存在者の存在の全体的地平としての、世界そのものの可能性の制約であるという、.  二重の意味での根源であることを指している。このことは、超越論的な仮象に帰着する主観性の二重の本質に応じて、主観性を内世界的なものとしてとらえる.  と同時に、絶対的な主観性としてとらえるのでないかぎり、どこまでもパラドソクスである。二重のとらえかたをした場合にはじめて、主観性は、形而上学そ. 一. の. 2 2.

(26)  のものの根本的テーマであり、活動空間である﹁思考﹂と﹁存在﹂の同一性がそこに根源をもつ地点として、すなわち、一瞬︸瞬の具体的実存のうちでのみ現.  実化される絶対的な主観性として、理解される﹂︵L・ラントグレーベぴ&乱σ。目当σ。﹁$σΦ山崎庸佑他日﹃現象学の道︼︶賃ぞ⑳σ。宰壁。ヨ。ロ。δ。q一。﹄木鐸社、一九八○、.  =ハ四頁 ︶ 。. ︵E︶森本和夫﹃道元とサルトル﹄講談社、﹁九七四、 一一九頁. ︵13︶﹁不変の心体をいう、すなわち如来蔵心自性清浄心なり﹂︵﹃織田得能仏教大辞典﹄、名著普及会、 一九三〇︶。﹃円覚経﹄に﹁以浄覚心知覚心性﹂とあり、﹃起信.  論義記中本﹄に﹁所謂心性不生不滅﹂とある。. ︵雄︶サンスクリット原語の直接の意味は、﹁あるがままなこと﹂。事物を支える真理︵鼻鋤美声法︶を表現したもの。﹃大乗起信論﹄では、永遠不動の真理︵不変真如︶.  と生滅の現実にしたがって生成する真理︵随縁真如︶の二種を立て、永遠相と現実相の関係付けに努めた﹀︵﹃岩波仏教辞典﹄︶。. ︵蛎︶大乗経典では、﹃般若経﹄をはじめ、﹃法華経﹄﹃維摩羅﹄等々、多くの経典に自性清浄心が客塵によって汚れているという教説がみられ、ほとんど大乗の根本.  的見方の;といってよい︵平川彰﹃初期大乗仏教の研究﹄春秋社二.九六六・二〇〇∼三七頁・水谷幸正百性清書・発菩提心度衆生心墨願心﹂︵﹃仏  教思想9心﹄平楽寺書店、一九八四、二五五頁︶。 ︵16︶伊藤瑞叡﹁華厳宗の心識説﹂﹃仏教思想9 心﹄三九八頁 ︵17︶寺田透・水野弥穂子校注﹃日本思想大系⑬道元下﹄岩波書店、︸二頁頭注. 第三章 時間論と生死. 第一節 無常仏性の意義. 第一項 仏性と﹃正法眼蔵﹄. 3. 曜. ﹁. 2.

(27)  ﹁仏性げ動感甲き鋤二﹂とは仏の本質、本性というに等しいが、すべての衆生には仏と同じ本性があり、ぞれが. 衆生の将来における成仏を可能ならしめているという意味で、仏の因、仏となる因と説明される。同じものが﹁如. 来の胎児﹂と呼ばれ﹁如来蔵﹂と漢訳されている。﹁如来蔵﹂にはまた、その如来と同じ本質、仏性が、蔵れて. いて見えない︵所有者当人がまだ知らない︶というニュアンスがあり、さらに、無知と煩悩に纏わりつかれてい るから見えないのだという、衆生の現状を示す含みももっている︵、︶。.  ﹃大般浬盤経﹄︵師子吼菩薩品︶では、﹁一切衆生、悉有仏性。如来常住、具有変易﹂︵﹃大正大蔵経﹄第一=. 巻、五二二頁下︶とあるように、如来の般浬藥は方便であり、実は如来は常住で変易することがないとして、如. 来法身の不滅性を主張し、 一切衆生は悉く仏性を有するものとする。また、浬繋経の金剛身品には、如来の身は. 不生不滅の常住身で永遠に壊れることのない金剛身であり、すなわちこれが法身であるという記述もある︵3。.  これに対して道元が仏性をどのようにとらえたかは、﹃正法眼蔵﹄﹁仏性﹂によって知ることができる。    釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、在世変易。.    これらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、︸切祖師の頂頼眼購なり。参学しきたる.   こと、すでに二千一百九十年当日本仁治二曹叢、 正嫡わっかに五十代至先師仁者和尚、 西天二十八代、代代住持しきた.   り、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。. 単属する皮肉骨髄のみにあ. すなはち悉有は仏性なり、.    世尊道の﹁一切衆生、悉有仏性﹂ま、その宗旨いかむ。是什歴物慈煙草の道転法輪なり。あるいは衆生と いひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。悉有の言は、衆生なり。群有也。   悉有の一軍を衆生といふ。正当悠磨時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。   らず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆゑに。︵﹁仏性﹂﹃全集﹄第一巻、一四頁︶.  このコ切衆生悉有仏性﹂の語は、前述したとおり、本来二切の衆生悉く仏性を有す﹂と読み、一切の衆生. は悉く仏性を有するがゆえに時期が来たならば仏となる可能性を有するという意味に解されてきたものである. 娼. 2.

(28) が、これに道元は全く独自の解釈を与えた。すなわち、道元はこれを﹁悉有は仏性なり﹂と読み、︸切の存在が. 直ちに仏性なりとした。これが従来のとらえ方とどこが違うのかというと、それまでの仏性把握においては、有. 情の生物にのみ関して仏性が論議されるか、それとも無情の草木土石もその論議の対象に含められるかはともか. く、いずれにしても仏性があるかないかが問題にされた。それに対して、道元は仏性を本来的に有か無かという. 観点から問題にすることを厳しく批判し、いまの生きた現実の全体が仏性の現れであるとした。それは、前掲引. 用文の直前の﹁世尊道のコ切衆生、悉有仏性﹂は、その宗旨いかむ、是比量物急麿来の道転法輪なり﹂によっ て、いっそうよくわかる。.  実は、道元にとって仏性がすべてであるということの背景には、一つの大きな理由があった。伝えられている. ところによれば、比叡山に学んでいたとき、彼は天台の教義の基本とされる本覚の法門に対する次のような疑い をもった。.    本来本法性、天然自性身、若し此のごときんば、則ち三世諸仏甚に依りてか更に発心して菩提を求むるや。   ︵河村孝道編﹃諸本対校永平開山道元禅師行状建概記﹄大修理、一九七五︶.  ﹁衆生が本来本法性、天然自性身ということならば、そしてだれでも生まれながらにして覚っているのならば、. 何を好きこのんで発心修行することがあるのか﹂という問いである。それは、山上の僧侶たちも、山を下りてか. ら訪ねた三井寺の公証も十分に答えられなかったし、さらに建仁寺での修行によって解決する問題でもなかった. ^、︶。結局それが入宋、天童山の如意との出会いにつながるのであるが、その如浄は次のように答えた。.    謬錯示日、若言一切衆生本誌仏者、落部自然外道也。以我我所比諸仏、不可免直言誓言、未証謂証者也。.   ︵大久保道舟編、﹁實慶記﹂﹃道元禅師全集﹄下巻、筑摩書房、︸九七〇、三七二頁︶.  もし一切衆生がもともと仏であるというなら、﹁富源﹂を﹁得﹂といい、﹁未証﹂を﹁証﹂ということを免れ. ることができないと答えている。この如浄のことばは、道元のその後の仏性観に示唆を与えるものではあったか. 釦. 9.

(29) もしれないが、それまで彼が抱き続けてきたこだわりに決着をつけるものではなかっただろう。しかし、そこに. は安易に﹁覚﹂によりかかることに対する批判がある。それが彼自身の思索を通して次のような見解にまでつき つめられていくことになる。.    しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、企行仏のみなり。   自性仏等、夢也未見在なるところなり。︵﹁行仏威儀﹂﹃全集﹄第一巻、五九頁︶.    しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心にまかす。脱生脱着の威儀、しばらくほとけに一任せり。.   ゆゑに道取あり、万法唯心、三界唯心。さらに向上に道得するに、唯心の道得あり。いはゆる焙壁瓦礫なり。.   唯心にあらざるがゆゑに、魑壁瓦礫にあらず。これ二仏の威儀なる、任心任法、為法為身の道理なり。さら   に始覚・本覚の所及にあらず、︵同、六八頁︶.  行平威儀とは、実践する仏のふるまい、あるいは、仏を実践するふるまいである。それは生も脱し、死も脱し、. 仏の境地をも越えていく、いいかえれば覚ることを要しないというのである。なぜなら、ふるまいの一つ一つが. いま、すでに仏として現れており、身のこなしやことばつきにも出ているからであり、さらにいいかえれば、仏. の境地にさえ執着しないという。ここには道元自身の、体験に裏打ちされた仏性論がある。つまり、始覚・本覚. ︵、︶の論を越える新たな道を探ることであり、先の仏性の=兀化もその点につながってこそ意義をもつものなの である。.   第二項 有仏性、無仏性、無常仏性.  道元が示した﹁悉有は仏性なり﹂の思想は、有無という従来の関心を越える視点を提起したという点において 注目に値する。しかし、次のような一節はどう理解すればよいのだろうか。.    いま仏道にいふ︸切衆生は、有心罷みな衆生なり、心走衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、. ひ. 2.

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