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戦後の同和教育行政の考察:加古川市の事例を中心に

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序章  本研究についての問題の所在

1.教育の中心課題 兵庫における戦後の教育の歩みは同和教育とともに始まったと言っても過言ではな い。兵庫の地は、今日も被差別部落の人口や地区数において、全国的に一二を競う状 況にあり、同和教育の取り組みも全国に先がけた貴重な実践が数多く出されている。 しかし、これらの先進的な取り組みが、県下全域!こ敷街するようになるには、かな りの年月を経てきたのではなかろうか。ことに教育現場での実践を模索しながら県の 教育指針として成立するようになるには、相当な苦難の道程があったと言われている。 行政当局だけでなく、教育現場の教師達の努力に負うるろころが大きかった。そして、 同和教育のとらえ万や教育実践についてくり返し論議がなされ、同和教育を「教育の 中心課題」としてすえなければ、兵庫の教育は成立をみないという形にまで高められ てきた。つまり、教育の全体像について考察するとき、欠くことのできない問題とし て「同和教育」は位置づけられたのである。 2.実践の学としての「同和教育」 昭和40年8月11日に出された「同和対策審議会答申」は、憲法や教育基本法に 匹敵するような格調高い同和教育の指針であった。兵庫県や加古川市においても、こ れを範として、同和教育の基本方針が作成されている。もちろん、現場においては、 これに則って数多くの実践がなされているのではあるが、その実態は種々の到達度を 示している。 例えば、理念と実践が合致して高度の段階にあるものや、理念的な理解は進んでい るものの実践内容との開きが見受けられるものなど一様ではない。これらの実状をつ ぶさに見ていくなかで、どのようにすれば理念と実践が統合され、今後の効果的な同 和教育が進められるであろうかと、筆者は常に考えてきた。 兵庫県や加古川市の教育に携わってきた先人達が、それぞれの生きた時代のなかで、 どのように同和教育をとらえ、実践したか。その歴史の後を辿りながら考察を加え、 今日の時点でのありようを志向することが、重要な教育の課題であると考えたのである。 −1−

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「教師は教育の実践家である」ということに異論はないが、真に効果的な教育実践 をなすには、研究を深め、行政的な施策の奥にある理念的なことがらも見きわめ、理 念と実践との統合をはかり、まさに「実践の学としての『同和教育』」の推進に努め なければならない。そこにこそ教師の責務があるといえよう。 5.研修の重要性 日常生起する教育現場の事象は実に様々である。その様々な事象にどう対応するか は、現場の教師の直観的な判断力によるところが多く、これまでの実践事例の延長 線上でしかとらえられていない。 根本的な解決については、事後の指導や取り組みに得たねばならないが、当面の問 題解決への手だては即座に示す必要がある。それは共通な教育基盤によって実行が可 能となる。 ところが、現実には、その対応たるやまさに十人十色の感がある。もっとも教師と しての個性の差異でそうなり、基本的な原理原則の同一性がその底流にあれば首肯で きる。換言すれば、方法論の多様性は、指導の一貫性を内在した教師の共通理解によ って許容できるというものである。したがって、教育は、決して我流では成立しない ことを付言しておきたい。 筆者が教師として同和教育にかかわるなかで学び得たことは計り知れない。特に、 親の教育にかける顧いとでも言おうか、生活の中で一番語りづらい本音の部分をいか ように聞き取るか等、同和教育は教師をして一人前に成長する必須課程であると考え てきた。この期を徒らに過ごすならば、ものごとの上べだけしか見えず、現象面だけ を追う教師となってしまうであろう。 兵庫県教委が伺んとしても同和教育を「教育の中心課題」にすえなければならない と示唆しているのはこのためである。子どもや親の何気ないつぶやきや顔の表情の奥 にある心の動きを正確につかみとり、明日の実践の糧とすることこそ教師にとって最 重点の課題としてとらえなければならない。 このことは、教育を進めるにあたって、一番厳しい条件のもとにおかれている子ど もや親の現実から学び取ることがきわめて多い。ここで部落差別を問題にするのは, ー2−

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もろもろの差別が集中的に対象地区の教育や文化等生活実態の中に現れているからで ある。そうした疎外された条件を背負って子ども達は登校してくるのである。「登校」 という一場面をとってもこれ程質的な違いが存する。同和教育は教育の質的な中身を 問い直し障害となるもろもろの条件を取り除こうとする教育である。 そのためには、教師の研修が大きな意味をもつことになる。兵庫県下各地において、 これまでにも数限りない研修会がもたれてきたし、現在も続いている。研修会の創意 工夫によって大きな成果が得ら.れつつあることは喜ばしい。 今後は、さらに「教師の構え」や「指導法」が本物になるにはどうすればよいか、 身近な加古川市に焦点をあてながら兵庫県や国の施策を見通した考察を試みようとす るものである。そして、この教育の起点となるべき教師自らの資質向上にむけての 「行政的な施策のあり方.」を問題とし、本研究に取り組んだ次第である。 −3−

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I章 兵庫の同和教育

加古川市の事例を通して同和教育行政のありようを考察するにあたり、加古川市と 兵庫県の行政は不離不変の関係にあーることをふまえ、その全体像をとらえるために「 兵庫の同和教育」を概観しておきたい。 今日、兵庫県の人口は約520万人、うち被差別部落の人口は約15万3000人 である。この数値は全国の被差別部落の人口約115万8000人に対して約13.2% にあたり、紛れもなく全国一である。地区数は全国4,563のうち、347であり、 これは福岡、広島、愛媛県に次いで4番目であり、世帯数の39,851は大阪に次い で2番目となっている0く昭和57年1月現在>(1) この数値は、いずれも全国的に高位を示し、地理的条件の多様さや、行政や教育の とりくみ等全てにわたって日本の部落問題の縮図であるといえよう。 戦前において、同和教育は「部落改善事業」といわれ、その後「融和教育」と呼ば れることになるが、この時代から他府県に先がけたとりくみが県下各地に見うけられ た。これが全県的に統一した基本方針として考えられるようになったのは、戦後の教 育がどうにか定まり始めた昭和25年のことである。 1.草創期 −− 昭和20年代 昭和25年に兵庫県教育委員会は「教育指導助言の要項」の中に「同和教育の振興」 の1項を設け、これに基づき「兵庫県同和教育中央委員会」が組織されたことに始ま る。同委員会はこれまで兵庫県下各地に点在していた同和教育実践家の粋を集め「同 和教育の手引」(第1集)の作成にとりかかり、教育関係者に対して同和教育実践に あたっての基本的な構えを確立しようとしたのであった。 「人類普遍の原理である基本的人権の尊重をめざす教育活動によって、人間性の自 覚を高め、人格の完成を期すものである。わが国が久しく温存してきた階級、身分、 職業や社会的関係による国民間のいっさいの差別意識を払拭して、人間尊重の気風を 作興し夷の日本民主化を図ろうとするものである。同和教育は単に関係部落の向上の ための教育とか、校下に関係部落をもっ学校における差別言辞の防止とかいうような、 局部的、糊塗的、特殊的な教育ではなくて、近代精神の基本原理である純正なヒュー マニズムと自由と正義の精神に根ざすものであり、新教育原理の個性尊重、教育の機 会均等、個人の真の社会化、人間尊重などの普遍的根本命題である0」(2) つまり、憲法や教育基本法の精神に則り、新教育は同和教育から進めようとする横 −5−

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極的な姿勢がうかがえる。ここには、あらゆる教育活動を通じてとりくむ幅広い基本 的な方針が示されている。 この方針に沿って具体的な進め方として、学校において使用する学習教材の製作に あたっている。昭和26年には、中学生用「友愛読本」が編集され、昭和28年には、 小学校高学年用「なかよし物語」が刊行され、これが児童生徒や一般成人等に対する 学習教材づく りの最初であった。 なお、昭和25年に組織ができた「兵庫県同和教育中央委員会」は、しだいに大き な使命と期待を担うところとなり、昭和28年には全国同和教育研究協議会の発足を 機に名称も「兵庫県同和教育研究協議会」として再発足したのであった。 「 全国同和教育研究協議会結成趣意書 人間が人間を差別している。基本的人権が 不当に躁爛されている。日本の封建性は今も尚、固く殻を閉じて解放への真の喜びの 日は尚通しの感が深い。吾々はその最も代表的な姿を同和問題に見る。実に同和問題 の解決こそは新生日本民族に課せられた最も重要な課題であると言わねばならない。 この間踵の解決なくして日本の民主化は絶対に有り得ない。 民主教育とは個人の自由、平等、人格価値の尊厳を基調とする教育である。若し個 人の自由が奪われ、人格が無視され、甚だしく傷つけられる様な事態が存在するなら ば、民主教育は毅然としてこの事態と取り組み、これと闘う教育でなければならない。 即ち民主教育は当然同和教育に高い位置を与える教育であるべきである。近時同和教 育は各地において活発な研究討議が行われ、真剣に取り上げられて、その結果の見る べきもののあることは等しく吾々の喜びとするところである。然し乍ら現在、同和教 育の実体は甚だしく地方的に消長があり、或る地方においては盛んに行われ、或る地 方においては殆んど顧みられていない。吾々は日本の完全民主化のために全教育者の 奮起を強く望むものである。若し全ての日本の教育者がその力を結集して同和教育へ の精神を誓うならば、如何に日本の民主化は促進され、同和問題解決への道が大きく 開かれることであろうか。これは、否々が全国同和教育研究協議会の結成を企図した 所以である0全日本教育者各位が挙って参加されることを望んで止まない0」(3) いちはやく兵庫県は全同教(全国同和教育研究協議会)に加盟し、創立当時に3名 の中央委員を送ったのであった。 兵同教(兵庫県同和教育研究協議会)は新しく再発足した翌年(昭和29年)より 表1のごとく、毎年、兵庫県下各地の市郡町で同和教育の研究大会を開催している。 −6−

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表1 同和教育研究大会実施状況 年 度 回 名         称 開 催 地 参 加 者 数 2 9 1 兵 庫 県 同 和 教 育 研 究 大 会 宝 塚  市 3 0 0 3 0 2 兵 庫 県 同 和 教 育 振 興 大 会 豊  岡  市 3 0 0 3 1 3 西  脇  市 5 0 0 3 2 4 山  崎  町 1,7 0 0 3 3 5 洲  本  市 5 0 0 3 4 6 篠  山  町 1,4 0 0 3 5 7 ′/ 神  戸  市 8 0 0 3 6 8 西  宮  市 1,0 0 0 3 7 9 浜  坂  町 9 0 0 3 8 1 0 加 古 川 市 1,0 0 0 3 9 1 1 ′′ 姫∴格 市 1,0 0 0 4 0 1 2 津  名  町 1,2 0 0 4 1 1 3 兵 庫 県 同 和 教 育 研 究 大 会 三  田  市 8 0 0 4 2 14 芦  屋  市 8 5 0 4 3 1 5 明  石  市 9 0 0 小 計 1 3 ,1 5 0 4 4 1 6 兵 庫 県 同 和 教 育 研 究 大 会 中 央 大 会 城  崎  町 3 0 0 4 5 1 7 夢  前  町 2 2 0 4 6 1 8 南  淡  町 2 2 0 4 7 1 9 篠  山  町 5 7 4 4 8 2 0 宝  塚 市 8 1 3 4 9 2 1 明  石  市 1,9 2 9 5 0 2 2 姫  路  市 1,8 7 0 5 1 2 3 兵 同 教 ・神 戸 同 教 合 同 研 究 中 央 大 会 神  戸  市 3 ,3 5 0 5 2 2 4 兵 庫 県 同 和 教 育 研 究 大 会 中 央 大 会 豊  岡  市 1,8 0 0 5 3 小 計 計 2 5 洲  本  市 1,4 0 0 1 2,4 7 6 2 5,6 2 6 < 兵 庫 県 民 生 部 ﹁ 同 和 対 策 の 現 況 ﹂   昭 和 5 5 年 よ り > 2.基礎確立期   −昭和50年代 昭和30年前後が兵庫県の同和教育の基礎がための時期であった。多くの学校が同 和教育にっいての具体的な研究を進める中で、兵庫県教育委員会は文部省の施策に呼 応し、研究指定校の制度化をはかる一方、教職員を中心にした研修会を各種開催し、 ー7・,

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推進体制の確立をめざしたのであった。 その研修の基本的な方向は、昭和28年に県教育委員会が捏示した次の6項目に基 づくものである。 「①同和教育は民主教育の根本命題である。−個人の尊厳と自己解放。 ②同和教育は緊急に解決を愛する現下の課題である。−差別せざる差別の現存。 ③同和教育はあくまで教育である。−解放運動や同和行政からの主体性。 ④同和教育は協力を必要とする教育である。−学校と社会、教育委員会と校長と 教師、末解放部落と一般部落、関係諸団体間。 ⑤同和教育は地域性に立蜘しなければならない。−対象部落の多様性、現実問題 の複雑性。 ⑥同和教育は児童生徒の心身の発達段階に即応しなければならない。−差別意識 の段階、劣等感優越感の位相、カリキュラム、ガイダンスの関連J(4) この基本は30年余の歳月を経た今もなお生きていると考えられ、同和教育は教育 そのものであるという真髄をとらえているといえる。 さらに、全県的な関心の高まりゆく中で、同和教育の具体的なとりくみの現状を分 析し、地域格差を是正するためには、県教委の昭和29年の「指導助言の方向」に明 記された「振興をはばむ理由」が身のまわりに存在しないか、これを点検の尺度とし たのであった。 「①無用論−寝た子を起こすな。 ②理想論−民主教育さえ徹底すれば。 ③楽観論−時がくれば解消する。 ④逃避論−困難な問題には手をふれるな。 ⑤放置論−差別事件さえなければよい。 ⑥あきらめ論−困難性から生まれる。 ⑦無力論−教育の限界無視から生まれる。 ⑧一方的改善論−生活の低位性の向上を。 ⑨通婚論−結婚問題さえ解決すれば。 ⑲その他、同情融和論や恐怖論、特殊教育論など0」(5) これらの指摘をふまえながら同和教育たっいての理解や認識がより確かなものとな るよう観念論の排除につとめた。 「友愛読本」や「なかよし物語」の後をうけ、昭和34年に「社会同和教育のしお り」の一般成人用が刊行された。続いて昭和35年にはPTA用、36年に婦人用、 ー8−

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37年に青年団、そして、昭和38年には「同和教育寒践事例集」を出し、39年に は公民館用と毎年の如く刊行したのである。これらは社会教育面での同和教育を進め るよりどころとなった。また、これらと並行して、同和地区の児童生徒を対象とする 学力補充学級(昭和38年)、同和対策集会所整備事業(昭和37年)、社会同和教 育指導員研修事業(昭和39年)等も開始された。 5.内部充実と発展期 −昭和40年代 昭和40年は、同和対策審議会答申が内閣総理大臣に出されるというこの教育始ま って以来の画期的な年となった。全国的にも部落問題に対する国策樹立の機運が高ま るなかで、兵庫県の同和教育も充実期を迎えもこととなる。 昭和40年8月11日出された「同和対策審議会答申」には、同和問題の本質とし そ部落差別とは何なのかが明確にとらえられている。 「すなわち、近代社会における部落差別とは、ひとくらにいえば、市民的権利、自由 の侵害にはかならない。市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を 保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自 由が同和地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。これ らの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就職の機会均等が完全に保 障されていないことが特に重大である。なぜなら、歴史をかえりみても、同和地区住 民がその時代における主要産業の生産過程から疎外され、賎業とされる雑業に従事し ていたことが社会的地位の上昇と解放への道を阻む要因となったのであり、このこと は現代社会においても変らないからである。したがって、同和地区住民に就職と教育 の機会均等を完全に保障し、同和地区に滞溜する停滞的過剰人口を近代的な主要産業 の生産過程に導入することにより生活の安定と地位の向上をはかることが、同和問題 解決の軸心的課題であるJ(6) この同和問題の本質をふまえ、兵庫県においては昭和43年3月「同和対策基本要 綱」を策定、県教育委員会として「同和教育基本方針」を定めたのである。 翌昭和44年には「同和対策事業特別措置法」が10年間の時限立法として制定さ れ、同和教育の諸施策もこの法にもとづいて推進されるところとなった。 昭和45年に兵庫県教育委員会は、同和教育指導室を独立して設置し指導体制の強 化をはかった。そして、学校教育と社会教育の両分野にわたって積極的な施策を講じ、 兵庫県立教育研修所を中心に「兵庫県同和教育関係資料集」等の刊行にあたったりも した。 ー9−

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また、栢和46年より兵庫県の重点施策として、「差別を許さない県民運動」の月 間を毎年設け県教育委員会はもとより、各市町村にまで普及していった。 昭和40年代の後半には、県下の一部に同和教育の進め方をめぐって混迷や対立の 状況が起きた。県立八鹿高校問題がそれである。これは解放同盟とイデオロギーを異 にした集団との間でおきた不幸なできごとである。また、尼崎市の育成調理師学校の 管理職の発言をめぐって事態が紛糾し、同盟員や運動の支持者等が県庁を取り囲み、 同和問題の認識に対する甘さについて厳しい指摘がなされたのである。兵庫県行政は, これらの指摘をしかと受けとめ、同和教育の主体性を問いなおし、本来あるべき姿に 戻すために努力したのであった。 4.課題達成の総点検期  −昭和50年代 教育行政の指導性の発揮がこれ程求められたことは、過去の歴史においてはなかっ た。 昭和50年、兵庫県教育長は第307号通知を出すなかで次の3点を強調している。 ①同和教育を主体的、積極的にすすめること。 ②教育の政治的中立を確保すること。 ③部落研、解放研の活動は学校の教育活動の一環として行うこと。の そこには、八鹿高校問題等によって同和教育推進上の迷いや緊張が各地におきたこ とについて遺憾の意を表しながら、反省すべきところは反省し、正すべきは正して真 に解放への展望をめざしてとりくむ決意がうかがえる。 昭和53年10月には同和対策事業特別措置法の3ヶ年延長が決まり、兵庫県教育 長は同年12月第108号通知によって「延長の趣旨を理解するとともに、同和教育 を更に積極的に進める」ことを表明した。 これまで使用してきた学習教材についても、見直しを進め、身近な問題から出発し て、幅広く人権を尊重していく教育となるようその改訂にあたってきた。そして、同 和問題の解決には時代や地域的な課題と併せながら共に学んでいくという「学習交流 グループ」の育成等の事業を進めている。既に先進地においては、この方針に沿って PTAや地域の学習会を主体に「世代間交流学習」などによってその実をみせはじめ たところもある。 5.同和教育前史への視点 兵庫の同和教育の歴史は古い。人口や世帯数において全国の最高位を示し、立地条 件の多様性においても日本の縮図であると言われてきた。・が、その歩みは決して平担 ー10−

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なものではなかった。歴史的にみるならば、「部落改善」から「地方改善」「融和」 へと同和教育の前史としてあるわけであるが、これらの時代にも熱意ある指導者があ り、地方の特色を生かしたとりくみがみられる。「内部自覚」や「一般社会への啓蒙j についてきめ細かなとりくみがみられるところもあ「た。 昭和16年に「中央融和事業協会」が「同和奉公会」と改称され「同和」という名 称が使われるようになる。これは「同胞一和」よりとったことばである。 「中央融和事業協会」は、大正14年の設立であるが、それより2年前、大正12年 に「兵庫県清和会」は、結成され、「全国水平社」に相呼応する形で発足しているの である。これは水平運動が一方に偏するのを防ぐための「内務大臣訓令」に基づいた 「融和団体の育成」なのであるが、中央の動きに敏感に反応した兵庫県は、清和会の 事務所を兵庫県庁内に設置し、県知事が会長となり兵庫県下1市22郡に支部を設け て活動にあたっている。半官半民としての調和を保ちながら行政主導的な進め方はこ の時より始まったといえよう。 当時の行政担当者としては対策的な発想と現実の教育論的発想が交錯していた。や がてそれらは、部落差別の解消を教育の中心課題にすえなければ、兵庫の教育は成り 立たないという考えにまで高められていくのである。 兵庫県全体の同和教育のあり方について、戦後のとりくみに焦点をあてながらも、 時として戦前に及んで概観したのであるが、このことは同和教育前史とでもいうべき、 数々のすばらしい実践がそこにあるからである。同和教育が真に同和教育として成立 するためにはらわれた先人達の業績の跡を偲びながら、加古川市に焦点をあて、以下 の各章において今日的ありようを考察しようとするものである。 (注) (1)内閣総理大臣官房地域改善対策室「地域改善対策特別措置法の解説」 中央法規 昭和57 年 263 ∼ 264百より 筆者要約 (2)兵庫県同和教育中央委員会「『同和教育の手引』第1集」昭和25年 5頁 (3)全国同和教育研究協議会結成趣意書 距手口28年 兵庫県からは創立当時の全同 教中央委員として、松井利男、中川真澄、荒木新太郎の三氏が出席した。 (4)兵庫県教育委員会通知 昭和28年 (5)兵庫県教育委員会「指導助言の方向」昭和29年 (6)同和対策審議会「同和対策審議会答申」昭和40年 4貢. (7)兵庫県教育長「同和教育の推進について」第307通知 昭和50年 筆者要約 −11−

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Ⅱ 章 戦前の融和教育の流れと若干の考察

− 長浜立太郎を中心に −

加古川市の同和教育、いや兵庫県の同和教育について論じる場合、忘れてはならね 人物がいる。それは長浜立太郎氏である。今はもう70才に手が届こうとする御仁で あり、高砂市の「みのり会館」の館長を昭和52年、停年退職後より勤めている。若き 日の彼のとりくみに兵庫の同和教育前史としての実践の雛型をみるのである。 兵庫県では戦後間もない昭和25年に「同和教育の手引」が、他府県に先がけて出 ている。これは戦前から融和教育(同和教育)にとりくんだ熱心な教師と差別事件を 契機にしてとりくみ始めた何人かの教師によって兵庫の同和教育は進められてきた結 果といえよう。 当時、兵庫の同和教育の推進については、2つの大きな課題があった。その一つは、 県下全域の学校現場で同和教育実践のための必要な資料づく りであり、もう一つは全 県的な同和教育推進の体制づくりであった。 指導者のための資料づくりは「同和教育資料研究協議会」が昭和24年に組織され、 全県下から次の5名の教師が、その起草委員として選ばれている。 「揖西北小学校長 勝原 茂 鶴居中学校長  荒木 新太郎 城陽小学校教頭 井上 円次 鳥沢中学校教頭 伊藤 親保 野口小学校教諭 長浜立太郎」(1) 県下の代表ともいわれる5名の中に、これという肩書きをもたない長浜氏が一一教諭 の立場で何故加わることになったのであろうか。兵庫県が同和教育を模索しはじめた この頃、彼は既に加古郡野口小学校(加古川市野口小学校)において、地域との連携 を深めながら地道な実践を続けていたのである。 1.実践の背景 長浜氏は昭和11年3月に兵庫県立姫路師範学校を卒業し、すぐに短期現兵として の軍隊生活を5ケ月送り、9月に加古部野口小学校訓導として赴任している。その10 ケ月後には日中事変が起こるという戦時中さなかの教師生活へのスタートであった。 この頃の同和教育(融和教育)は、政府や県からの訓令等の通達によるところが多 かった。しかし、それらによって「差別の解消」を呼びかけていたのであるが、容易 にかけ声の域を出なかった。そして、学校全体としてのとりくみや、地域進出を進め る実践校は極めて少ないものであった。被差別部落を校区にもう学校で、校長や上席 −12−

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教員が中心となってとりくんだ学校がいくらかあった程度である。 長浜氏が、はじめて教壇に立った頃はこういう状況であった。いよいよ彼は教師生 活2年目から本格的に同和教育にとりくみ地域進出を始めている。その頃(昭和12 年当時)の野口小学校は ①児童数      約 7 0 0 名 ② 全校 1 2 町 内  (内対象地区  3 ) ③ 対象地区児童数 9 0 名   (全校児童の約 1 3 % ) である。その時の印象を長浜氏は次のように語っている。「地域に入り、子どもや親 たちの生活にふれるとき、この子ども達が成人するにつれて遭遇するであろう差別の 悩みや苦しみを少しでも早く、少しでも軽くしてやらねばと思い、子どもたちの中へ 飛び込んでいった0」(3) そこには純粋に教育一筋にとりくもうとする青年教師の姿があった。対象地区の苦 悩を目の前にしたとき、子ども達に学力をつけ、生活態度を向上させ、経済的にも、 文化的にも、より豊かな状態にしなければならないと痛感している。彼は子ども達の成 長に期待したのである。親や子の切なる願いを受けとめ、将来への明るい展望をもつ には、どうしても地区へ出向いて時間をかけて生活指導や学習指導にとりくむことの 必要性を感じたのである。 2.長浜氏の業績 (1)人間関係の重視 − 第1期 彼の教育に対する基本的な考え方は、姫路師範時代から蓄積してきた教育学の影響 が大であると思われる。教育者の人格からにじみ出る愛情や権威というものが、以心 伝心子どもや親に伝わり、それが大きく信頼関係に発展しなければならないと考えて いる。 「不信用は教師と生徒との間隔を広くするが、教師の生徒に対する信用は、生徒の 教師に対する信用をよび起こし、二者は相互に接近し、一致し、そこに教育は自然に なめらかに行われる」(4) つまり、信頼獲得こそ教育者の根本的な態度でなければならないとしているのであ る0彼は、この基礎がための約一ヶ年を後に「信用獲得時代」とか「黙行時代」と命 名している。彼のこの時期の主なとりくみは次の4点である。 伝)出会いの教育 長浜氏が最初にはじめたのは、出勤時や下校時に自分の担当するI地区の中の道を ム13−

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通るよう心がけたことである。長浜氏の自宅は当時兵庫県高砂市高砂町にあり、野口 小学校へは自転車で40∼50分の距離にあった。したがってl地区内を通るにはさ らに15∼20分程迂回して通勤することとなり、そして、子どもの親や家族と顔を 会わせることを心がけた。 村の中を歩きながら朝夕の挨拶をし、多数の親たちとの会話を大切にし、心やすく 打ち解けて話せるよう誠意を尽している。 教育の営みは、直接には子どもを対象とするが、子どもをよくするためには青年層 や婦人層、親たちへの働きかけが大切になってくる。そのため、子どもをとりまく地 域の人々の信頼につながるよう、毎日の会話を大切にしたのである。 (翰地区での町内集会 毎週土曜日の夜には、長浜氏が中心となりI地区では子ども会を開いていた、小学 校1年生から6年生までを対象として子どもたちに自主性を育て文化的教養を高めて いこうとするものであった。 その内容は「最初のうちは、名作童話を聞かせたり、紙芝居、幻灯、唱歌(真宗宗 歌も含めて)、そして基本的な礼儀作法など、また一週間の反省などを追加していっ た0」(5)苦は倶楽部といって新しく公民館ができるまで村民の集会などに使っていた 場所においてである。1間だけの古めかしい場所ではあったが、子ども達は喜び土曜 日を心待ちにして、参加者は常に80名は下らなかったといわれる。 これを長浜氏は子ども達と「反省会」と呼んでいたが、この集まりが人気を呼び、 やがて青年団の男女の集まりや、婦人層の集まり、戸主たちの研修などが次々と生ま れるきっかけともなった。そして、それらがやがて村民の常会へと発展し、村の自治 活動のあり方についても考えるようになった。 (C)家庭への訪問 長浜氏が1地区内を朝夕通行していると、用事のある親が道に立って待つという光 景が生まれた。子どもの欠席のことや学校への連絡事項を用意しているのである。ま た、逆に学校からその子に連絡や宿題をことづかって家庭を訪問することもあった。 病気の様子を伺ったり、最近の世の中の動きや子どもの生活に関しての話をしたり、 子どもの将来のことにも話が及ぶこともあったりした。親としての悩みや不安につい ても語られた。彼は地域におけるカウンセラーというか福祉教員的な役割も果してい たのである。 (d)町内の美化活動 土曜日の夜の「反省会」を何回か継続するなかで、ある日子どもから「村を美しく −14−

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しよう」という提案が出された。それは学校へ行く途中に自分達は他の町内の道を通 っているがどこもみな美しい。一番きたないのは自分達の町内ではなかろうかという ことであった。 「このことについて話しあった結果、毎日曜日、早朝一時間程度で男子は道路、女子 はお寺や倶楽部を清掃することになった0」(6)3年生以上の男女が参加することにな り、この試みは日照りの夏にも、木枯し吹く冬になっても間断することなく定期的に 実行された。やがてその様子は村民の注目するところとなり、母親たちが参加したり、 自分たちの家の周囲の美化につとめたりする人が多くなった。これは、子どもの成長 に親が学ぶという村民への大きな教育力となった。 ¢)指導力の発牒冨・一一㍉第2期 村民との心の結びつきが次第に深まりゆくなかで1地区における長浜氏の存在は徐 々に大きなものになってきた。村の役員会等への参加を要請きれたり、村の自治会運 営について意見を求められたりするようになってきた。 丁度この頃、日中戦役は激しさを増し、1地区からも、これまで一家の柱として農 業に専念していた人達も応召されるところとなった。したがって、後に残された婦人 や子どもで家や村をどう守ればよいか不安にかられていた時でもあった。長浜氏は、 この非常時を乗り切る手だてを村民とともに考えたのであった。 伝)農繁期の援助 当時I地区では、農業を専業とする家庭が多かった。春秋の農繁期には猪の手も借 りたい忙しさである。今日のように農耕の機械化は進んでいないし、まして、一家の 労働の中心となるべき戸主や青年たちが、戦地へ応召された留守家庭においてはなお さらである。 こういう状態を察知した野口小学校では、若い教師達が日曜日や土曜日の午後から の天候に注意を払い、刈り取った稲や脱穀にかける米を濡らさないよう各家庭へ手伝 いに駆けつけるということもあった。 また、遠く戦地へ出かけた人たちが、留守家産のことを心配しているであろうと考 え、慰問の手紙に元気に農作業にとりくんでいる妻や子どもの写裏を添えて送ったり もした。忙しさや寂しさの中で少しでも心安まることを実行していったのである。 ㈲身だしなみ教育 身のまわりのことにも小学生が少しずつ気をつけることができるようにと、日曜日 ごとの通路清掃のあと、広場に集まって各自の持ち物や服装の点検をした。よりよい 日常生活にするための衛生講話をしたりして気づかせ、実際にその場で散髪したり、 ー15−

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衣服やハンカチの汚れを洗濯してすがすがしい気持ちにさせた。ボタン付けや一寸し た衣類の補修には女子青年が援助してくれたのである。 (C)スポーツの奨励 青少年の健全な育成をめざして、体位の向上と余暇の過ごし方の指導にあたってい る。例の倶楽部の横の広場に相撲場や鉄棒、砂場などを作り、若い力を競い合ったり して楽しみながら体力の向上をはかろうとした。夕方などから多くの青年男女が集い 憩い場ともなった。そして、お互いが心のつながりを深める村づくりのよいきっかけ ともなっていったのである。 (曲夏休みの生活設計 夏休みには、早朝よりラジオ体操が始まる。長浜氏は、つとめて毎朝参加し、子ど もたちといっしょに体を動かす。さわやかな一日のはじまりである。その後、倶楽部 で勉強会を開いている。午前中の涼しい時に学習の習慣をつけることを心がけている。 写生会や作品展、海水浴など夏にふさわしい行事を企画し、子どもたちと共にとりく んでいる。これらの行事には青年団からの協力もあり、より一そう充実したものとな っている。 (e)地区の学習会−「解放学級」の前身 青年団修養会等の会合に参加するなかで、長浜氏は新しい発見をしている。それは 小学生たちの学習成績についてのことである。今日では、いわゆる「賂紅型曲線」と いわれるもので1地区の子ども達は成績中位の者が少なく正常分布曲線が描けない。 上位と下位にわかれて一つずつ山ができるという変則的ならくだの背の曲線になると いう疑問が青年から投げかけられた。長年にわたって親子代々が受けてきた厳しい差別の結果 がそこに現われてきているのである。科学的なとらえ方はできなかったが、このよう な状態を放置できないとし、立派な後継者を育てるために、具体的には週3回子ども 達を対象とした学習会の組織化がはかられた。 (f)「ことば」の育成 子どもの学力の向上や生活態度の改善には日常生活の「ことば」からよくしていこ うと考えた長浜氏は、そのことを母親たちにも理解してもらい差別の再生産にならな いよう礼法の指導にあたった。当時はやりの鉄道唱歌の曲にのせて集会等の折りには よく歌い、親しみ深い歌となった。 ①みなさんことばをよくしましょう 「わい」とか「うち」とかいわないで 男は「ぼく」ときっぱりと −16−

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女は「わたし」や「わたくし」よ ②友だちどうLを呼ぶときは 「だれだれくん」とか「だれだれさん」 決して呼びつけなどせずに 「きみ」や「あなた」と話しましょう ③「さんかい」「さんとけ」使わずに 「しなさい」「なさるな」使いましょう 「なになにするねん」「しょうけ」など 正しく「しましょう」「,しましょうか」 ④目上の人に向っては とりわけ敬語に気をつけて 「先生来た」「見た」いわないで 「おこしなさった」「見られたよ」 ⑤目下のことをいうときは 敬語を使うはまちがいで 「妹がなになにした」といい 「なになにされた」は やめましょう その他長浜氏は、青年団の研修会や婦人部の研修会、常会等にも顔を出し、演芸会 や季節託児所等の計画について村民と一しょに知恵を出し合うなどしてI地区は明る い前進を続けたのであった。 その頃、長浜氏は村民の一員になったような喜びを感じたという、そして、村の行 事への参加も益々多くなり、高砂市の自宅へ帰るよりも、村の青年団の役員宅や寺院 に泊ることが多くなってきた。昭和16年頃のことである。 (紛I地区での定住−第3期 解放運動の歴史をふりかえるとき、差別を解消するための同和地区住民による自主 的な運動として、明治35年岡山県に誕生した「備作平民会」の部落改善運動に注目 しなければならない。当時としては精一杯のものであり、内部的な自覚を高める方向 性を評価しなければならない。その後、各地へこの運動の広がりがなされたのである が、惜しむらくは、同和地区の生活実態の劣感性が、わが国の政治や経済、社会のあ り方によって生まれたものであるとは促えられず、ただ、単に同和地区住民の生活を 改善することによって同和閏超が解決できると捉えていた点であ・る。つまり、差別の 原因や責任を同和地区の側に求めようとする誤りがあった。 ー17−

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大正11年の全国水平社の結成は、「部落改善第一主義」から脱却するところに大 きな意義があった0運動は差別者を徹底的に料弾する方向へと発展していくのである鳴なにがし これに対して、政府は、某かの地方改善費を予算計上したり、大正14年には「中央 融和事業協会」を設立し、その育成を通じて融和政策をとってきたのである0そして1 昭和11年には、「融和事業完成10ケ年計画」が出されている。 昭和16年(1941)には、日本を中心とした世界の状勢は益々緊迫化に向い、 戦争目的に噸応するため国民精神総動員運動の方向にすすむことになる。そして、融 和団体と水平社の一部を組み入れた、「中央融和事業協会」は「同和奉公会」と改称 され、「国民一体化」の要請をさらに強めるところとなった。この時から「融和教司 は「同和教育」と呼ばれるようになり、「同胞一和」の精神で戦争体制に国民を総動 員することが優先され、部落差別を解消するための運動や教育・行政は本来的な機能 を果し得なかった。 その頃、わずかながらの同和対策事業予算ではあったが、長浜氏のI地区に約40 坪の公会堂が新築されることになった。階下には、村の共同作業場や集会室が設けら れ、その2階の一室が彼のために与えられた。個人の家で宿泊のお世話になるのでは なく、村の住民として、同和教育に専念できる生活の場所が確保できたのであった。 伝)青年層の育成 I地区が経済的に豊かになるためには、若い婦人層の自覚が大切である。長浜氏は、 彼らを対象に「早起き会」というのを実施している。彼は早朝4時に起床、村の中を 拍子木を鳴らして一巡し、その合図で婦人たちは境内へ集合する。境内で朝の祈祷を 一斉にして作業にかかるのである。各自の家で純ないやかます織りに励み、その昔が 早朝よりひびくのは、自力更生への幕あけでもあった。 ㈲教養講座の開催 青年男女の余暇活動として、少しでも文化的な香りや教養が身につくものはないで あろうかと考え、生け花の稽古にとりくむ。また、女子青年は婦人会との合同で洋裁 講習を受けることになる。兵庫県が昭和38年よりとりくんだ同和地区の成人を対象 とした「成人共同学習」のはしりをここに見ることができる。作品展なども計画し、 村民からの好評を得ていた。 (C)村ぐるみの農繁期体勢 今日のように、農業についての機械化が進んでいない時のことで、特に農繁期には きわめて過重な労働になっていた。婦人にとってはふだんの炊事、洗濯、育児の上に 農作業が重なるということで体がいくつあっても足りない程である。そこで「共同炊 −18−

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事」を考案し、例の公会堂の作業場に大釜をすえ、昼食と夕食を一度に作る計画をし ている。非農家の主婦が主にこれにあたり、各家庭から用意された入れ物に副食を分 け入れ一度に大量生産するということで時間や経費の大幅な節約となった。また、村 民の共同生活を通じての村意識がさらに深まった。 扇)県外への視察 長浜氏は、昭和17年に兵庫県教育委員会より、県外の同和教育先進地へ視察の命 を受けている。県下のこの教育を積極的に進めるために県外からも多くを学ぼうとい うことである。 近藤県祝学を団長に、朝来郡与布土小学校の坂東氏、多可郡上久下小学校の片山氏 らと共に加古郡野口小学校の長浜氏が県下の名だたる5名のうちに名を連ねている。 視察地は京都の崇仁小学校と和歌山の猪宿小学校であり、優良部落として奈良県が選 ばれた。 この視察は、彼の後々の同和教育の基底をなすものとなった。特に崇仁小学校の伊 東茂光校長の全身全霊を打ち込んだ同和教育のとりくみに敬服し長く手本にしていた。 奈良県では、その地区の区長さんより部落改善の進みゆく姿を示めされ、なお後に残 る心理的差別を除去するにはどうすればよいかの課題を得ている。部落内の自力更生 も必要であるが、それとともに国民一人ひとりが同和問題の本質を理解し、同和問題 解決への努力と具体的なとりくみがなければ達成できないことを痛感したのであった。 この長浜氏の考え方は、文部省が同じ年の昭和17年に出した「国民同和の道」や 昭和40年に出た「同和対策審議会答申」にも見うけられる。 「この間題の重大性を改めて認識し、その解決を遂ぐべき時機といわなければなら ない。しかし、それは決して一部当事者のみのまくし得るところではない。かような 問題が今日まで残されていることを共同の責任として、国民すべてがその解決に努力 するとき、はじめて所期の目的は遷せられるのである0」㊥ 一部当事者のみでなく、国民全体が共同の責任を自覚して解決しなければならない と言っているのである。 「同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国 憲法によって保障 ̄された基本的人権にかかわる課題である。したがって、審議卸ま、 これを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国 の音務であり、同時に国民的課題である。」 同和問題は憲法に保障された基本的人権にかかわる問題であり・、放置できない国民 的諌魔であると述べているのである。いずれも同和地区の内部的な自覚や改善にまし 一191

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て、国民として全体的にとりくむべき課題としての責任が明確にされたのである0融 和教育の時代を経るなかで今日的に具現すべき方向性が確かな重みをもって示された といえよう。 5.長浜氏のその後 (1)県下の状勢 わが国は、終戦後の一時期、占領政策によって教育や国の施策にとって大きな転 換期を迎えた。同和事業や同和教育も国策としては中断期を迎えている。しかし、長 浜氏は新任以来の野口小学校にあって黙々と同和教育に打ち込んでいった。 兵庫県下では昭和22年に揖保郡揖西南小学校で児童による差別事件があり、翌年 には揖西北小学校で児童による差別事件が相次いだ。この件について、地元出身で兵 庫県全体の解放運動の指導にあたっていた岡村武雄氏がとりあげ、その解決にあたっ た。これが戦後の兵庫県が同和教育にとりくむ口火ともなった。 昭和23年夏、兵庫県主催の戦後初めての同和教育研修会が県立嬉野公民研修所 (県立教育研修所)において開かれた。主として市部の代表校長など同和教育の責任 担当者がその対象であった。部落の歴史を校長自身が学び差別事件が起きないよう教 育していくというものであった。こうして研修会の後、県下各地でその伝達講習会を もっている。中央における研修や県下全域の学校教育のとりくそを強化するた糾こ、 県下のすぐれた同和教育の実践家に県教委は県外視察を命じ、学習教材としての「資 料の作成」や「指導の手引づくり」にあたらせている。それが冒頭の勝原、荒木両校 長など5名のメンバーである。 したがって、長浜氏は、昭和17年に県外祝察した後、昭和24年にも再度上記の メンバーとして県外視察の委嘱をうけたということになる。 (2)全県にわたる功績 彼は、一教諭の時代から兵庫の同和教育を考えるうえでなくてはならない存在で あった。「人間はみな平等である。世の中に差別があってはならない。」とする一貫し た教育への信念が野口小学校において、また、対象地区において具体化され実践に生 かされたのである。その真筆なとりくみが兵庫の同和教育の草分けの時代にわずか6 年目の教職経験で注目を受け価値あるものと評価されるに至ったのである。 長浜氏らの努力の甲斐あって兵庫の同和教育の基本的な方針は昭和25年の「同和 教育の手引第1集」の発刊以来、昭和43年「同 第4集」を出し、同年3月には、 兵庫の「同和教育基本方針」が出るという一貫した流れの中で、ゆるぎないものにな −20−

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ってきた。 表1の同和教育資料の作成には、児童生徒用、指導者用を問わず、ほとんどの資料 に直接あるいは間接にわわかりをもっている。 特に昭和37年からは平荘小学校の教頭、38年には県教委の指導主事、41年以 降は校長職という忙しい立場にあっても加古川市や兵庫県全域のために数々の仕事を してきている。

表1 同和教育資料作成状況

メ分 年度\ 児童 ・生徒 用学 習資 料 指 導者 用 資料 長 浜氏 の職歴 2 5 2 6 友 愛 読本  中 学生 用 同和教 育 の手 引 (1 集 ) 同 和教 育 の基 本問 題 (岡村氏 ) 加 古川 市 立野 口小 教 諭 〝 2 8 なか よ し物 語  小 学校 高学 年用 紙 芝居 シ リーズ (8 種 ) 友 だ ち小 学 4 年  信 愛 中学 1 年 加 古川 市立 加 古川小 教諭 3 2 3 3 3 4 同和教 育 の手 引 (2 集 ) 同和教 育 の実践 記 録 ( 1 集 ) 〝 〝 〝 3 5 3 6 同和 教 育 の実 践記 録 (2 集 ) 部 落の 歴 史教育 資 料 (中学 2 年 ) 同和 教 育 の手 引 (3 種 ) 加古 川 市 立野 口小 教諭 〝 3 7 友 だ ち小 学 5 年  信 愛 中学 2 年 加古川 市 立 平荘 小 教頭 8 8 友 だ ち小 学 6 年  信 愛 中学 3 年 県教 委学 校指 導 課指 導 主事 3 9 小 学低 学年  紙 芝 居 (6 種 ) 4 1 友だ ち  信愛  改 訂は じまる 友 だ ち小 学 4 .5 .d 年 改 訂 同和 読 本指 導手 引 加 古 川立 平 荘小 校 長 4 3 同和 教 育 の手 引 (4 種 ) 4 5 4 6 道徳 (同和 )学 習基 底 か ノキ ュラ 高 等学 校 同和 教育 資料 (教師用 ) 加 古 川市 立 東神 吉小 校 長 〝 4 7 中学生 用 改訂  友 だ ちに改称 高砂 市 立高砂 申 学 校長 く兵庫県民生部「同和対策の現況」昭和55年より再構成〉 学習資料や指導の手引の数々の編纂にかかわる一方、県教育委員会が主催した同和 教育の指導者の長期研修会や趣旨徹底講習会において指導、助言者を務めている。地 元加古川市、高砂市はもとより、兵庫県下各地に偉大な実践家として名を知らしめた のであった。 兵庫の同和教育は、その初期において、上意下達、行政主導型であったと言われる。 しかし、先端の教育現場にあって獲得した崇高な教育理念を吸収し、それをいかに全 ー21−

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県的なものに敷術していくか、そこに力が注がれたのである0県行政だけの独断的確 釆配ではなく、常に現場の実践状況を見守りながら具体的な方針を提示してきたので あった。 加古川市の教育行政も例外ではなかった0現場の優れた実践に学ぶという姿勢が耳 かれていた。いつの日からか「同和教育のことは長浜に聞け」と言われるようにもな っていた。 長浜氏は、兵庫県教委の指導主事、小・中学校の校長を歴任し、昭和52年定年退 職後も、高砂市立みのり会館の館長にめされて活躍している。 加古川市の同和教育に取り組む基本的な道筋も、彼によって示されたと言えよう。 昭和36年に加古川市の「同和教育資料」‰1が加古川市同和教育協議会という教育 関係者を中心とした組織から出されているが、編集や発刊に際して長浜氏の努力に負 うるところが多くあった。解放運動の中では融和教育の不十分さがいくらか言われて いるが、同和教育のかけらもない草分けの時代から今日まで、村の教育的文化的水準 を向上さすためにその暮らしや生活に密着して取り組んできた努力は筆舌に尽し難い。 本来なら、運動、行政、学校教育、社会教育と分野が分かれるところであるが、それ らを一手に引き受けて進めてきたのである。同和教育の歴史がその時代的背景ととも にあることがわかる。 こうした、先人の歩みを歴史的に考察することは、今日の同和教育行政のありよう を探る上できわめて重要な意味をもっている。なぜなら、同和教育は教育論(教育学 説)として構築すると同時に、実践的に克服しなければならない課題を数多く有して いるからである。 (注) (1)兵庫県同和教育研究協議会「同和教育史 兵庫県関係資料」第三巻 昭和53年 186貢 (2)全国解放教育研究会「部落解放資料集成」第6巻 明治図書1979年 269貞 (3)兵庫県同和教育研究協議会「解放へのあゆみ」 昭和51年 184貢 (4)同上書 185貢 (5)(6)同上書 186貢 (7)兵庫県高砂市同和教育研究協議会 広報紙「あけぼの」第4号 昭和50年 (8)文部省「国民同和への道」 昭和17年 1貢 (9)同和対策審議会「同和対策審議会答申」 昭和40年 1貢 ー221車

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Ⅱ章  加古川市制の発足と教育行政の歴史

今日の加古川市は、総面積137.91kが,.人口224,117人を擁し「田園都市」 「産業都市」と呼ばれるにふさわしく、播磨工業地帯の中心として年と共に開けてい る。加古川市の発展は町村合併とともにあったといわれるように、旧加古川町(氷丘 ・加古川・鳩里地区)から大きくは、6度にわたって合併による新設や編入の経験を している。 〕新生加古川市となったのは、昭和25年6月15日であり、ちょうどこの頃は戦後 の新しい教育制度の基礎づく りの最中にあった。いかに教育環境を整え、地域の実態 に即した学校教育をすすめるには、どうすればよいかといったことが頭初の重点目標 であった。まさに加古川市の歴史は戦後の日本の教育の歴史とともにあったといえよ う。以下、その歴史の後を辿りながら教育行政としてどのようなとりくみがなされて きたか、特に同和教育のあり方にスポットをあて、加古川市の教育の全体像を明らか にしてみたい。 1.変貌著しい加古川市 新しく加古川市が施行されたのは昭和25年のことである。教育委員会法が制定さ れた昭和23年7月ごろは、まだ加古川町(旧)と呼ばれていた。旧加古川町は、同 年8月にいち早くこの教育行政改革をめざした新教育制度の採用の決議を行っている。 このことは兵庫県下の姫路市や明石市、尼崎市などに先んじたものであった。 そして、昭和23年12月1日に加古川市教育委員会の前身である兵庫県加古郡加 古川町教育委員会として、新しく設置されたのであった。 翌昭和24年4月1日には、兵庫県祝学永野駒次氏が教育長に任命され、教育委員 会事務局に総務課、学校教育課、社会教育課の3謀を置いてのスタートとなった。 当時の旧加古川町内の学校園は、3校(加古川中学校、加古川小学校、氷丘小学校 )、3園(加古川幼稚園、氷丘幼稚臥川西幼稚園)と呼ばれ、きわめて小規模な教 育機関であった。 それが昭和59年の今日では、中学校11、養護学校1、小学校25、幼稚園30 の合計67学校園となり、他に県立高等学校6、私立大学1を数えるに至った。加古 川市は戦後の教育の普及を市政の重点課題としてとらえ、産業開発にも対応していっ たの‘であるが、都市化現象の渡旭、暴発的な人口の増加をもたらし、対策が後になる こともあった。 −23−

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昭和25年の市制発足当時49,833人であった人口が同30年には71,517人 となり、同35年には89,539人、同40年には101・841人と5年ごとに飛増的 な伸びを示し、同45年には神戸製鋼の金沢町が設定され127,112人となる。そし て同55年では志方町合併による人口増も加わり212,232人となったのである。 <表1 市域の変遷 > 年  月  日 合 併 形 式 合  併  町  村  名  等 面 積 k が S 2 5 .   6 . 1 5 新     設 加 古 川 町 、 神 野 村 、 野 口 村 、 平 岡 村 、 尾 上 村 4 1.0 7 S 2 6 . 1 0 .  1 編     入 別 府 町 4 5 .0 2 S 3 0 .   4 .  1 〝 八 幡 村 、 平 荘 村 、 上 荘 村 8 0.9 9 S 3 1.   9 .  3 0 〝 東 神 吉 村 、 西 神 吉 村 、 米 田 町 (船 頭 、 平 津 の み ) 9 3.8 0 S 3 3 .   7 .   5 境 界  変 更 高 砂 市 阿 弥 陀 町 西 山 の 一 部 (米 田 町 ) 9 8.8 1 S 3 4 .   7 .  2 4 境 界  訂 正 小 野 市 の 一 部      (上 荘 町 ) 9 3 .8 3 S 4 1.   9. 1 3 公 有 水 面 埋 立 別 府 町 西 脇 9 3.8 5 S 4 4 . 1 2 . 1 8 〝 金沢 町 9 7.3 5 S 4 5 ,   5 .  1 境 界  変 更 播 磨 町 の 一 部      (平 岡 町 ) 9 7.3 5 S 4 8 .   2 .  2 3 公 有 水 面 埋 立 金 沢 町 9 7.5 1 S 4 8 .  6 .  1 〝 別 府 町 別 府 9 7 .5 3 S 4 9 . 1 2 .  1 境 界  変 更 稲 美 町 の 一 部      (平 岡 町 ) 9 7 .5 3 S 5 0 .   9.   9 公 有 水 面 埋 立 金沢 町 9 8 .0 6 S 5 1.   8 .   6 〝 金 沢 町 9 8.2 5 S 5 1. 1 2.  1 境 界  変 更 稲 美 町 の 一 部      (八 幡 町 ) 9 8 .2 5 S 5 2 , 1 1. 1 8 公 有 水 面 埋 立 金沢 町 9 8 .5 0 S 5 2 . 1 2.  1 境 界  変 更 高 砂 市 の 一 部      (米 田 町 ) 9 8.5 0 S 5 3 .   8 .  1 〝 播 磨 町 の 一 部      (平 岡 町 ) 9 8.5 0 S 5 4 .   2 .  1 編     入 志方 町 1 3 7.6 7 S 5 4 .   5 .  2 9 公 有 水 面 埋 立 金 沢 町 1 3 7.8 8 S 5 6 .  2 .  6 〝 金沢 町 1 3 7.9 1 S 5 6 .   3 .  1 境 界  変 更 高 砂 市 の 一 部      (西 神 吉 町 ) 1 3 7.9 1 < 加古川市政要覧昭和56年より> 昭和59年現在224,117人ということで一応人口増の最盛期は過ぎたというもの の今後も微増は予測される。 2.揺藍期の教育−昭和20年代 昭和25年、新市制発足の中で、加古川市の教育行政の課題は、学校教育の体制を いかに確立するかということであった。市域が拡大するなかで昭和22年に新制中学 となった他の3つの中学校を含めて4つの新制中学校となり、既存の小学校も他から −24−

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5校加えて7校となり、合計11校の義務制の学校となったのである。広まりゆく地 域としての融合や教育の環境を整えることにその主力が注がれた。「教育は、考える こと、行うことである」用と規定し、加古川市の教育として、特に知性の重視を目標 に掲げた。各学校現場では、新教育課程の実施にもとづくカリキュラムの編成をどう するかといった模索の段階であり、各学校とも独自的な教育活動を重ねながらも、全 市的に教育内容をどうしなければならないかを考えていた。各学校の自主的運営とは いえ、客観的妥当性を求める意味で、学校間の相互の授業参観などをく り返して、自 校の教育実践に生かすという方法がとられた。 加古川市における最初の「教育充実計画」は、昭和27年に出ている。表に「学校 教育振興計画努力事項」と墨で縦書きされ、わずか20貢程のプリント印刷による資 料である。ようやく教育委員会の事務廟としての仕事が軌道に乗るなかで出されたも のであろう。日召和26年を初めとして、以後、毎年学校教育課を中心に印刷や表題な ど体裁は変わってきているが今日まで続いている。今では、横がきで活版印刷となり B5版の上質の用紙が使われ100貢を越えるものとなった。表題は、昭和28年よ り「加古川市、教育充実計画」となり、現在に至っている。 加古川市の最初の教育へのとりくみは次のように始まる。 「1.全職員、全生徒による地域性に即した学校の自主的運営 2.教職員及び児童生徒の研究心の高揚 3.教員の教職的教養と指導力の向上 4.新教育の重要問題についての研究 5.本市中・中学校・幼稚園の教育課程基準の作成 6.児童生徒の実力の養成 7.教育的環境の整備と校舎設備の管理と活用 8.教育経費及び教員組織管理の適正 9.幼稚園職員及び養護婦指導 −将来にわたってこれを実現するよう努力する。」 (2) ここでは、新しい地域性に見合った、学校独自の運営の中から、教育方針をつかも うとする姿勢がみられる。そして、教職員白から求めて指導力をつけ、新しい教育に 対応できるように、幼・小・中の教育のあり方やその基準を作ろうとするものである。 児童生徒に学力や生活力をつけること、そのために教育の物的、人的環境を整えるこ とに力点をおいている。戦後教育の、いや加古川市教育の草創期を思わせる努力事項 である。 −25T−

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翌昭和27年にかの有名な玉川学園へ中学生徒16名を短期留学させている0付添 教師として中学校から3名、小学校から1名同行し、わずか2週間ではあったが、体 験学習をさせている。早く新教育を取り入れようとする市当局の努力が伺える。 昭和28年度より、学校教育課程作成の3ケ年計画が実施され、児童生徒の実力の 葦成とともに、次のような教育目標を提示し、 ド知性の香り高く、一人ひとりにはたらき として身につける教育〝 本能や衝動を醇化し、道徳化 相手の気持ちを理会し、個人の尊厳を重視 ドリル一辺倒では実力の向上が図れない 一一入間を機械にするもの       」 (3) として、同和教育のバックボーンともなるべき、道徳性の高揚をめざしている。 紹和29年度より、市の「教育充実計画」は学校教育課と体育保健課の共同製作と なり、装丁もよくなり、タイプ印刷が使われるようになった。「特色ある学校経営」 をめざし、「児童生徒の生命、人権を尊重する」ことが第一義と考えられるようにな った。これは交通事故のみに限らず、教師の言動などで傷つく児童生徒のあることや さらには特殊教育の振興とからめて、行きとどいた指導が大切とされた。 5.教育福祉への息吹−昭和50年代 (1)同和教育の胎動 昭和30年度には、八幡村、平在村、上在村との合併があり、新市城との親善提携 が言区われ、地域社会と手をつなぎ、子どもや親から信頼される教育がその中心に置か れた。 昭和31年度より、加古川市としての教育の特色を発揮する段階にきた。「子ども の真の幸福を願う教育」(4)と「教師の前進と向上」(5)を二つの大きな柱とし、前者は さらに「忘れ易い子らに教育の手をさしのべよう」(6)と具体化されている0ここでは 「肢体不自由児、学業遅進児、長欠児、性楕異常児、その他問題の子供の生活」(7)と 記され、「同和教育」や「部落問題」のことばは見当らないが、基本的には何らかの ハンディを有する子に視点をすえた教育を進めようとしているのが判る。 それでは一体いつ頃から加古川市の教育の中に「同和教育」として明確に位置づけ られるようになったのであろうか。「教育充実計画」に、初めて顔を出したのは栢和 34年度である。「教育内容としての努力事項」の第−に「道触教育の徹底」があげ られ、その第4項に「同和教育の推進」として、次のように記されている。 −26−

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同和教育の推進 身分差別の矛盾を感じ、この解放に積極的に立ち向うことは、教職員としても市民 としても、逃避をゆるさぬ義務であることを自覚し、昨年度同和対策協議会の研究と 理解ある多数の職員を軸として、この教育実践に力づよく歩みを進めたい」(8) これまでの文言とは様相の異った画期的なものが、ここに現われている。そこには 酪和30年代における同和問題をめぐる社会の情勢が大きく作用している。年ととも に変化をみせていた兵庫県の部落解放団体の動きも、統一県連をめざす方向へと進み 昭和33年をピークとして進められた部落解放国策樹立要求の国民運動は当然本県に も影響を与えたのであった。昭和32年12月兵庫県では、「兵庫県同和対策協議会」 を設置し、「同和事業の推進について関係機関相互の連絡調整をはかり、重要事項の 調査研究を行うこと」を目的としている。組織としては県知事が会長となり、行政機 関の職員や学識経験者の中から若干名の委員が選ばれている。これに呼応する形で加 古川市においても同和対策協議会が作られ、それは、市長以下30名の委員によって 構成されている。 中央の動きとして、政府に対して同和対策審議会の設置の働きかけや、国会に同和 対策特別委員会の設置等の要請を全日本同和対策協議会がしていた時のことである。 さらに、昭和35年度の加古川市教育充実計画には、 「 同和教育の推進 同和教育は、小学校において、社会化、民主化を積みあげ、さらに、中学校におい ては、小学校の実践をふまえて計画され、系統づけられて成果をあげるべきである。 すべての教師が、部落問題の事実というものに、明確な理解をもら、同和教育の意 義を理解し、その上に立って実践に努力すべきである。教師を含めての生徒、児童全 体の人間関係のあり方、信頼感と安心感によって、しっかりと結ばれるまで導かれる ことが必要である。こうした実践の中から生まれ出てくる部落問題をはらむ問題が深 められ、同和教育の焦点化の域にまで高める時期であろう0」(9) これは、昭和34年に、兵庫県教育委員会が小・中学校の教員に対する現職教育と して同和教育の趣旨徹底講座を実施しており、この実施をふまえてのものであった。 この年の同和問題閣僚懇談会において「同和対策要綱」を決定し、これに基づき、経 済基盤の確立をめざし、環境改善対策や同和教育事業を推進するために、各省庁が胞 和35年度から10ケ年計画でモデル地区の対策を策定している。文部省が同和教育 研究指定校制度を創設したのもこの年であった。 兵障県が文部省からの研究指定を受け1このは昭和38年が最初であるが、これより ー27一

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先、昭和36年に県独自の指定として加古川市で2地域を指定している0その一つ峨 「社会教育における同和教育指定地区」としての小畑地区ともう一つは「社会教育に おける同和教育子ども会指定」の辻地区であった。 (2)加古川市初の「同和教育資料」 (a)その形式 同じく昭和36年に加古川市で最初の「同和教育資料」が加古川市同和教育協議会 の名において出版されている。A5判で約30ページ程のものであるが、編集委員と して加古川市内の小・中学校の同和教育主任が40名近く名を連ねている。この協議 会は、市教育長が会長で市教育委員会として、準備万端ととのえている。ここでも長 浜立太郎氏は、その中心人物であった。冊子の裏付けに「助言ならびに協力を下さっ た諸氏」として、市長を会長とする「加古川市同和対策協議会」の主なメンバーや「 部落解放同盟加古川市協議会」の中心的なメンバーが記されている。 配列において兵庫県と同じく行政主導型と考えられるが、そうではなく、この期は 学校としての制度や中身が整っていく中で、加古川市全域の同和教育をどのように進 めればよいか。全市的な関係者が一堂に会し、模索する草創の時期であったといえよ う。 「加古川市同和教育資料」施.1には次のような内容であった。 「    目    次 1 部落の歴史と差別の要因 1 部落の歴史 2 現在における部落差別の本質 汀 同和教育のあゆみ 1 解放への努力 2 人権の尊重と差別撤廃の同和教育 3 県下の同和教育実施の状況 ∬ 本市同和教育の進め方 1 同和読本の活用 2 教科指導と同和教育 3 道徳教育と同和教育 4 特別教育活動と同和教育 5 学校行事と同和教育 6 不就学、長欠児対策 −28−

参照

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