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今日では上記のことは、同和教育を進めるうえで、定説に等しいが、子どもや親、

地域社会への対応として細部にわたっては.どの教師も同一線上に並んでいたわけで はない。未整理な部分について適確な指摘を「総括J文を通してなし、その後の指針 となるべきものが全ての教師のとりくみの中に打ち立てられた。

化)質的な向上

翌昭和53年3月31日発行の実践記錨第三集からは、総括文において、各幼・小

・中学校のとりくみに対する評価と反省が加えられ今日に至っている。

実践記録を読み、また善くということは、

「その中に自らの教育実践を照射しながら読むことであり、読むこと自体が教育運動 である」㈲ ととらえたい0書くことは思想性を鍛え高めるための作業であると考 えられる。書くことを恐れ、軽視したりする中では決して効果的な教育実践は生まれ ないであろう。

さらに、昭和53年の絵括文では教科学習や障害者等に対する教師の視点として次 のようにとらえている。

「特に、教科学習において、つまづきを取り除いていくとりくみや、障害児に関する とりくみが多かったが、教科学習がよくできるといわれる子の中にも部落差別の重荷

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を背負って生きている現実がある。その最も深刻なる悩みを解きほぐし、将来への展 望をもたしていく実践を切望する。

また、障害者を見る臆常者の視点はこれでよいのであろうかと考えさせられる。障 害に苦しむ子を噂常者の側に近づけ立たせようとする誤った考え方はなかったか。我 々は『障害者の障害を個性として見ることができるか。.』の問いに沈黙せざるを得ない。

反省するに我々教師は『教師』というワクから一歩も出ていないのではないか。教 師自身のエゴや権威主義、倣慢さや自己過信に陥っていないかと自問するのである。

上からの施しの教育や個人プレーとしての教育ではなく教師等団としての叡智がにじ み出てくる実掛こしたい0」鍵)

今後の方向性についての内面的な基礎がためが、毎年この同和教育実践記録を発刊 していく中でできてきたようである。

同和教育を教育の全体像の中でとらえる一万、時に焦点化しなければならない対象 地域の生活課題を学校教育を通して掘り起こそうとするものであった。施策の遅れた

地域には教育行政の伽から特別の対策が必要ときれた。

やがて、これらは学校教育の全貨域の活動として、胎和57年度より「心を育てる 教育」へと全市的なとりくみとして、加古用市内の一円の幼・小・中学校において発

展的に進められるところとなる。

(注)

(1)加古川市教育委員会「加古用市学校教育振興計画」 昭和27年 5巨

(2)同上書 2貞

(3)加古川市教育委員会「教育充実計画」昭和28年 4百

(4)(5)(6)(7)加古川市教育委員会「教育充実計画」昭和31年 5百

(8)加古川市教育委員会「教育充実計画」昭和34年 5〜6古

(9)加古川市教育委員会「教育充実計酎 昭和35年 2〜4盲

的 加古川市同和教育協議会「同和教育.資料」恥11961年  目次 的 同上書 1百

的 同和対策審議会「同和対策審議会答申」昭和40年 4貞

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¢め伍㊥ 加古川市同和教育協議会 前掲嘗 21百

個 加古川市教育委員会「教育充実計画」 昭和37年 41膏 的 加古川市教育委員会「教育充実計画」 昭和39年 68百 佃 加古川市教育委員会「教育充実計画」 昭和40年 7百

(1め 同上書  48葛 49)同上書  63百

@)加古川市教育委員会「教育充実計画」昭和41年 2〜6頁

¢1)同_上書 65百

¢今 兵庫県教育委員会「同和教育基本方針」昭和43年

内 加古川市教育委員会「学校教育指導助言の方針」 昭和43年 軸 加古川市教育委員会「加古川市同和教育基本方針」 昭和44年

¢㊥ 加古川市教育委員会「教育要覧」 昭和44年 53曹

¢◎ 加古用市教育委員会「教育充実計画」 日召和45年1百 串や 同上書  6〜7百

¢ゆ 加古川市教育委員会「同和教育のしおりJ 第1集 昭和45年 3〜4貴

㈱ 加古川市教育委員会「教育充実計画」 昭和46年 24〜25百

㈲ 加古川市立神野中学校「同和教育のあゆみ」昭和46年 8百

㈲ 同上書 4〜5百

毎日軸加古出市立神野小学校 前掲書 昭和46年 6−巨 紳 貞野営雄「現代教育制度」 第一法規 昭和52年 68石 碑 大高思「学力促進学級の趣旨説明」 膳和47年

餉 加古川市教育委員会「同和教育実践記録」 第二築 昭和52年123〜124貢

(珂 同上書 126恵

的 加古川市教育委員会「同和教育実践記録」 第三襲 昭和53年166百

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IV 草 地域改善対策としての教育・事業の推進

1.「解放学級」の成立

rl)「子ども会育成事業」としての出発

昭和5.7年4月1日地域改善対策措置法が施行きれてより、正式名称は「地域改善 対策教育事業」となったのであるが、ここでは盾和38年の「学力補充学級」開設以 来、様々な名称変更があったが総称して「解放学級」と呼ぶことにする。なぜなら形 式的には法改正等によって名称の変更がなされたが、対象地区ではこの学級の目的や 内容を端的に表わすものとして「解放学級」の名称を親しんで使っている所が多い。

名称の変遷は次のとおりである。

紹和38年  学力補充学級 t 昭和45年  学力促進学級

t 昭和49年

昭和5.1年

昭和52年

昭和57年  地域

内一

善対策教育事業

解放学級へのとりくみのはしりは融和教育の時代にもみることができる。昭和7〜

8年頃、兵庫県神崎都のT部落では、村落としての立地条件が悪く、洪水があれば、

すぐ水浸しになるといったところで、経済的にも貧困を窮めていた。賢い子に育てた いとする親の願い切なるものがあったが、家計を助けるために子供を働かせなければ ならない。雨が降れども傘がなく、また、学校へ着て行く服すら満足に買えない状態 であった。こういう状況を担任の教師が察知し、学用品を買い与えたり、学習のめん どうをみたりしていだ。

まだ、昭和13〜14年頃長浜氏は加古郡野口村(項、加古川市野口町)において、

部落に入り、夏休み等には勉強会を実施している。これらはいずれも細戚蘭でなく、

個人的な善意として行われていた。一時的とはいえ、福祉等援助的な制度の何もない

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当時としては、価値ある実践であった。

その後、戦後の混乱期に入り、6・3制の新しい義務教育が発足しだとはいうもの の、校区に大きな同和地区をもっている学校には長期欠席や断続欠席、一日も学校に 来れない不就学の児童生徒が多くなったところもあった。こういう状況を前にしての 教職員のとりくみや、まだ、村をよくするだめの地域活動が見直され、自主的に同和

地区内で学習にとりくもうとする動きもあった。

これら一連の状況や流れをふまえて、兵庫県教育委貞会が、地区住民を対象とした 教育事業として最初にとりあげだものは、口「同和』地区子ども会育成事業」であっ

に。ここに解放学級への当初の出発があった。昭和32年のことである。

この年、県威育委員会の社会教育課が中心となり、市町村教育委員会に若干の委託 費を出し、県下に20事業の助成をはかった。PTAの地区委員や教師が指導者にな って、子どもたちの学習指導やレクリェーション等団体活動にあたっていた。わずか な試みであったが、これを機に「子ども会育成事業」への関心や希望が高まりつつあ った。とりわけ高等学校への進学率において、同和地区と地区外とは著しい櫓差があ ったので、これを克服するためにも、並々ならぬ熱意を示していた。

(功「高校進学」の現実化

「昭和32年当時、地区外生徒が60%前後を上下しているのに対し、地区の生徒 は僅かに30%前後、僻地の地にある租局地区のそれはさらに数%低い状況にあった。

その原凶として考えられることは、部落差別による貧困、措年の幣による教育に対す る不信、学力が十分発揮されるに至っていないなど、多くの要因が複合してこの結果 を表わしているものであった。このため県教委は総合的対策の一環として、や37年 学力補充学級絹設事業〝を設けだ。この事業は市郎村教育委員会へ事業を委託して実 施するというもので、事業責はその指導者への謝金を主たるものとし、県下に20事 業という僅かなものであった。しか ̄し、子ども会育成事業同様、委託を希望する市町 や地区が多く、41年、それを30事業に増加するとともに委託費の増額を図った」(1)

まだ、昭和41年より同和地区高等学校等進学奨励事業を実施する都道府県に対し、

文部省が国庫碗助を行うことになり、兵庫県でも高等学校教育奨励金給付事業を開始 した。その後、解放学級や学校の同和教育のとりくみと相まって、次第に高校進学率 が上昇し、融和53年には、全県平均94.2%に対し、同和地区91.0%となり、格 差が少くなってきた。

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